428132 | 大東亜戦争の呼称問題について |
(最新見直し2006.9.23日)
【大東亜戦争の名称の是非について】 | れんだいこ | 2001/08/20 | ||||||
通称「太平洋戦争」と云われ、我が国では「大東亜戦争」とも呼ばれるかっての第二次世界大戦の際の我が国を当事国とする戦争の正式呼称をどうすべきだろうか、一考してみたい。
丁度、8月15日付の読売新聞が終戦の日に寄せた社説で、【定まらぬ戦争の呼称】としてこの問題を簡単に論じていた。「日本では、いまだに『あの戦争』、『先の大戦』をめぐる呼称についてさえ、国民的なコンセンサスが成立していない。その呼称をどうするかについては、さまざまな議論、反論がある」として、「十五年戦争」、「太平洋戦争」、「アジア・太平洋戦争」、「第二次世界大戦」、「大東亜戦争」という順で、それらの呼称の良し悪しに触れていた。 れんだいこが思うに、そう難しい問題ではない。どの角度から論じるのかによって使い分ければ良いだけのように思われる。まず、「第二次世界大戦」について。これは、「先の大戦」を包括的に見た場合の呼称である。連合国軍と日独伊との闘いを地球的規模で論ずる場合にはこの呼称が妥当であろう。「第一次世界大戦」もこの観点からの呼称であろう。しかし、日本を主体とした東亜戦争の焦点がぼけてしまう恐れがある。 次に、「太平洋戦争」というのはどうであろうか。これは、連合国軍から見た対日戦争の呼称であり、特にアメリカから見れば、対独・伊戦争は大西洋戦争であり、対日戦争は太平洋戦争であったと云う地政学的な裏づけを持っている。従って、アメリカからすればこの呼称が正式となるであろう。 「殉国の碑はじめに」は次のように述べている。
次に、「アジア・太平洋戦争」はどうであろうか。1980年代半ばごろ、一部の研究者により造語された。これは逆に日本側から見た地政学的な呼称であると思われる。日本軍は専らアジアと太平洋で戦争したわけであろうから不自然ではない。 「十五年戦争」はどうであろうか。これは、評論家の鶴見俊輔氏が50年代半ばに造語したのが始まりで、日本軍が「第二次世界大戦」に向かう端緒となった1931.9月の柳条湖事件に始まる満州事変から敗北までの期間に対して付けた名称である。厳密には13年11ヶ月で終戦を迎えたことになるが。過去の歴史を紐解くとき、地政学的な名付けと戦争期間をもって名称としている場合それぞれがある訳だから間違いではない。その他戦争指導者ないしは主体の名称で持って表現する場合もある。 さて、「大東亜戦争」という呼称はどうであろうか。これが本稿の考察の眼目である。一見して分かることは、「大東亜戦争」の「大東亜」とは、時の天皇制秩序が産み出した「聖戦理念」であるからして、この理念が戦争名に被せられていることである。してみれば、「大東亜戦争」という呼称は、かなり珍しいタイプの名付けられ方であるということになる。 では、この呼称は間違いとして退けられるべきであろうか。そう問うことは理由の無いわけではなかろう。ところが、れんだいこはこの名称を採用する。なぜなら、かの戦争の本質を的確に表現し得ていると思うからである。つまり、戦争名称には、その戦争の本質を観てそれを名称とされる場合もあり得るのではなかろうかということになる。それぞれ史上のその例を挙げれば、もっと説得力を増すと思われるが、取り敢えずは要点のみでそう主張しておくことにする。 「大東亜戦争」という用語が、開戦時及び戦時中に実際に用いられている点も考慮せねばなるまい。1941(昭和16).12.8日、日本帝國政府は、ハワイ真珠湾攻撃を皮切りに米英へ宣戦布告したが、4日後の12.12日の閣議決定によって「昭和12年7月7日の中国大陸における戦闘以降の戦争を『大東亜戦争』と呼称する』こととしている。「支那事変」(日華事変)と「対英米戦争」を併せて、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」という理由付けで「大東亜戦争」と呼称することにした。 ちなみに、久保田政男氏の「フリーメーソン」は次のように記している。
敗戦後の1945(昭和20).12.2日、GHQは、神道指令を発令し(進駐軍の覚書によって)、「大東亜戦争」の呼称は、国粋主義的、軍国主義的な言葉であるとして使用を禁止された。以来、日本国政府は占領終結後の現在に至っても「大東亜戦争」の呼称は使用していない。代わりに、「太平洋戦争」の呼称が普及、浸透させられていった。この経緯を踏まえれば、敗戦国の悲哀で失語せしめられただけであることが判明する。今日に於いてはむしろ、実在した呼称であることも踏まえねばならないのでは無かろうか。 但し、どの呼称にもそれぞれ長所と欠点がある。当然「大東亜戦争」の場合にも欠点がある。どういう欠点かというと、「大東亜共栄圏」思想を共有出来なかった側から見れば、あまりにも得手勝手な「聖戦」名称でしかないという批判に晒される訳である。結果的に日本は敗北し、第一次世界大戦の教訓の僥倖により、その時ドイツが蒙ったような国家の再建が二度と覚束ないような戦争責任の追及又は損害賠償責任を背負わされることが無かった。 これを奇貨として、我々日本人が「大東亜戦争」に至る道筋を批判的に内省せぬままに再び聖戦イデオロギーをリバイバルさせようとするならば、当然ながら当時の関係当事国から指弾されざるを得ないであろう。目下、「つくる会」側からの新歴史教科書問題、小泉首相の8.15日靖国神社参拝問題、国旗・国歌としての「日の丸・君が代」問題などは、このセンテンスから激しく抗議を受けていることが知られねばならない。 にも関わらず、れんだいこはなぜ敢えて「大東亜戦争」という呼称でよしとするのだろうかにつき弁明しておきたい。れんだいこは特段に拘っている訳ではない。既に述べたように、もっとも幅広く論じる場合は躊躇無く「第二次世界大戦」と云い為す。日米間の戦争を念頭に置くときは「太平洋戦争」と云い為す。時空経過で捉えるべき時は「十五年戦争」とも云い為す。だが、「先の大戦」の歴史的功罪を主体的に引き受けてこれを分析しようとする時は、「大東亜戦争」の方が課題明晰にして的確なのではなかろうかと思っている次第である。 付言すれば、戦争に負けようが勝とうが、負けたからといって戦勝国の観点を無批判に押し付けられる必要はないと思う理由もある。逆もそうである。勝ったからといって、勝者側のイデオロギーを敗戦国に押し付ける必要もないと考える。歴史用語をそのように規定していくのは、敗戦国が滅亡し、国家主体が戦勝国に吸収される場合によく見受けられる事象である。 どういう幸運か、日本は戦争に負けたが、国家は分割解体されることなく残った。となると、「先の大戦」を評する場合、それぞれの国の戦争当事者とその後継の国民が最も的確に事態を表現し得ていると観ずるメモリアルし易い呼称が正式でよいのではなかろうか。そうなると、当然、当事国によってまちまちの名称が生まれることになるが、止むを得ないというべきだろう。そういう誤差はあるのが自然で、国際的な学会の場ではそれを踏まえて何らかの学術用語を産み出すべきだろう。繰り返すが、呼び名は互いに歴史的位相を定める呼称であって、その呼称自体には卑屈も傲慢も纏いつかされる必要はないと考えるからである。 |
【読売社説解説】 | ||||||||||
8月15日付・読売社説 [終戦の日]「戦没者追悼は平和への誓い」で【定まらぬ戦争の呼称】として次のような解説が為されている。
いずれにしても、戦争の呼称さえ定まらないということは、まだ「あの戦争」を、日本全体として総括できていないことを示しているともいえる。平和への誓いとともに、「あの戦争」についての国民的総括に努めたい。 |
【上山春平氏の指摘考】 | ||
京都大学教授・上山春平氏は、著書「第二次世界大戦」の中で次のように述べている。
宇野正美氏は、著書「戦後50年、日本の死角」の中で次のように評している。
れんだいこが補足すれば、そのような歴史観を日共不破は頻りに説き続けてきたし今もこの観点を晒し続けている。そういう意味で、典型的なシオニスタンぶりを見せていることになる。 2006.2.12日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)