大東亜戦争の歴史的謝罪考

 2001.8.9日付の朝日新聞ニュース速報「靖国問題、英紙が首相に冷静対応求める社説」を転載する。 (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/

 英紙フィナンシャル・タイムズは9日付の社説で、「日本が国際社会で重要な役割を果たせるかは、第2次大戦中の侵略行為を反省していることを近隣諸国に納得してもらえるかにかかっている」と論評し、靖国参拝の意向を示している小泉首相に冷静な対応を求めた。

 A級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社の参拝について、社説は「右翼勢力を喜ばせるためとしか受け取られない」と指摘。小泉氏が憲法9条の改正を支持していることにアジア諸国は一層懸念を深めるだけだとしている。 そのうえで、ドイツが欧州でなしえたように、もし小泉首相が日本がアジア諸国で信頼を得たいと考えるのなら、

(1)靖国神社を重視する理由をはっきりと説明し、戦争責任については国際世論の納得がいくよう明確に謝罪する
(2)日本の侵略行為を含む20世紀の歴史を学校できちんと教える
(3)従軍慰安婦への賠償を早急に進める
(4)平和憲法を改正すべきかどうかの論議を急ぎ、アジア諸国の不安を払しょくする−−
 という4段階を踏むべきだと提言した。

 靖国参拝問題は、小泉改革の先行き不透明さとあいまって、日本が直面する不安定要因として英国でも次第に関心を集めている。日曜紙オブザーバーは靖国参拝や歴史教科書をめぐる論議をくわしくとりあげ、「日本社会でまん延しつつあるナショナリズムは、日本経済の不振が背景にある」と分析。中国や韓国との関係冷却に日本が十分な対策を講じられないことについて、「米中関係がぎくしゃくする状況で、日本のナショナリズムはアジアの冷戦対立を一層助長している」と評した。

【「2003.8.15日付読売新聞社説、『A級戦犯』とはなんなのか」】
 2003.8.15日付読売新聞社説、『A級戦犯』とはなんなのか」(http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20030814ig90.htm)を転載しておく。

 また、全国戦没者追悼式の日が巡ってきた。戦死した軍人や軍属だけではなく、戦災に巻き込まれて死去したすべての人々を追悼する日である。

 この日は、また、靖国神社を巡り、様々な議論が熱を帯びる日でもある。近年はとりわけ、いわゆるA級戦犯の合祀(ごうし)とのかかわりで、歴史認識の在り方についての議論も多くなっている。

 これは、もっぱら中国、韓国が、ある時期から突然、「A級戦犯合祀」を非難し始めたことによる。

 靖国神社が、いわゆるA級戦犯を合祀したのは一九七八年のことである。それが明らかになった七九年以降も、大平、鈴木、中曽根の歴代首相は、従前通り靖国参拝を続けていたのに、中、韓両国も特段、問題にはしていなかった。

 中韓両国が「問題」にし始めたのは、中曽根首相が八五年八月十五日、「公式参拝」を挙行したのが端緒である。

 いわゆるA級戦犯との関連では、全国戦没者追悼式の対象に含まれているのかどうか、という議論も出ている。

 「追悼対象」問題が改めて浮上してきたのは、福田官房長官の諮問機関「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が、昨年暮れに出した報告書が一つのきっかけになっている。

 報告書は、靖国神社とは無関係の国立追悼施設の設立が望ましいとの方向性を出しつつ、追悼対象にはなんの制限もないとした。いわゆるA級戦犯も排除しないということである。

 全国戦没者追悼式も、同様の考え方で開催されてきたのだろう。厚生労働省もいわゆるA級戦犯も排除されているわけではない、としている。

 ただ、排除されているかどうか、という問題以前に、いわゆるA級戦犯とはなんなのか、ということも、たえず問い直されなくてはならないだろう。

 A級戦犯とされた人たちを裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)は法原理的に不当なものであった、という観点からの様々な議論がある。

 東京裁判の性格を象徴するのは、判事席にも検事席にもソ連がいたことだ。ソ連は、ヒトラーと共謀してポーランドを分割し、第二次世界大戦の引き金を引いた。またバルト三国を併合、フィンランドをも侵略して、領土を奪取した。

 さらには、大戦末期、日ソ中立条約を踏みにじって参戦し、東京裁判中も、国際法を公然と無視して日本人捕虜をシベリアで奴隷労働に使っていた。そのソ連が判事席、検事席にいて日本を裁いたというのは、要するに、勝者による敗者への裁きだった、ということである。

 原爆による一般市民大量虐殺という米国の「人道に対する罪」に言及した日本側弁護人の発言の際は、直ちに同時通訳が停止された、ということもあった。

 しかし、東京裁判の進行中も、その後の占領期間中も、連合国軍総司令部(GHQ)の厳重かつ巧妙な検閲・言論統制により、こうした疑問は徹底的に封じられた。「全員無罪」としたインド代表パル判事の判決書も、日本が国家主権を回復するまで出版を許されなかった。

 他方で、“社会主義幻想”に囚(とら)われた左翼勢力が、「第二次大戦は、『ファシズムに対する民主主義の勝利』というのが国際社会の常識」などと、歴史を捩(ね)じ曲げてきた。ソ連が、民主主義とは縁もゆかりもない専制恐怖支配体制の国だったことこそ、「国際社会の常識」だ。

 同じく裁く側だった中国も、過去、現在とも民主主義とは無縁の国である。

 ただ、東京裁判をどう評価するにしても、国内法的には、いわゆるA級戦犯たちは、とっくに名誉回復されている。

 A級戦犯として絞首刑になった東条英機元首相ら七人も、国内法では、「公務死」の扱いになっている。「刑死」ではない。従って、一九五三年以降、遺族は、国内法による遺族年金または恩給の支給対象にもなっている。

 現在では、いわゆるA級戦犯とは、絞首刑にされた七人だけというイメージに限定されがちだ。だが、A級戦犯として有罪判決を受けたのは、軍人、文官合計二十五人である。

 そのうち、禁固七年とされた重光葵元外相は、戦後、鳩山内閣の副総理・外相となった。終身刑だった賀屋興宣元蔵相は、池田内閣の法相を務めている。“A級犯罪人”が法務大臣になったのだとしたら、こんな矛盾した話はない。

 「A級戦犯」が閣僚になったことについて、とりたてて諸外国からの異議はなかった。「A級戦犯」問題は終わってしまっていたのである。

 とはいえ、戦前の日本には、繰り返してはならない過ちが多々あった。

 昭和初期からの軍国主義ファシズムへの傾斜が、重苦しい時代だったことは、まぎれもない歴史的事実だ。東条内閣時代が、苛酷(かこく)な憲兵政治だったことも忘れてはなるまい。

 しかし、戦後の日本には、議会制民主主義がしっかりと根を下ろしている。軍国主義復活などあり得ない。

 日本政府、日本国民は、そのことを、自信を持って、近隣の偏狭、強烈な愛国主義・反日ナショナリズム諸国に発信し続けなくてはならない。


【「2003.8.15日付朝日新聞社説、58回目の8・15――新たな戦争の時代に」】
 「2003.8.15日付朝日新聞社説、58回目の8・15――新たな戦争の時代に」(http://www.asahi.com/paper/editorial.html )を転載しておく。
 世界も日本も騒然としたなかで、58回目の終戦の日がめぐってきた。

 国際テロをはじめとする脅威に対して、比類なき軍事力で仁王立ちする米国。国連の権威も揺らいでいる。北朝鮮は核開発を切り札に、危うい生き残り策にかける。

 小泉首相は強い米国についていくことが一番とばかり、イラクへの自衛隊派遣を決めた。そして、国内では「北朝鮮の脅威に備えよ」「専守防衛も見直しを」といった主張がひときわ声高である。

 1945年の8月15日を起点に、みずからの平和を何より大事に思い、そのために軍事的な手足を縛ってきた日本は、本当に変わり始めたのではないか。そんな外国の視線も目立ってきた。

●世界が変わった

 あの同時多発テロから間もなく2年になる。米国は今も臨戦態勢だ。町のあちこちに星条旗が翻り、「団結しよう」と書いたステッカーを張った車が走る。

 「9月11日は米国民の生活と米国の戦略を変えた。テロ集団やそれをかくまう国家との戦いに、すべての力を注ぐ」。ライス大統領補佐官は先週、そう演説した。

 米国を変えたのは国際テロや核をはじめとする大量破壊兵器の拡散への恐怖だけではない。冷戦後10年余りがたつうちに、米国は軍事でも経済でも圧倒的な力を独り占めしてしまった。その優位が単独行動主義を支える。世界の構図が、わずか数年前とはがらりと変わってしまったのだ。

 「悪の枢軸」とされたイラクのフセイン政権は、ブッシュ政権のもくろみ通りにつぶされた。国連も欧州同盟国も、先制攻撃戦争を止められなかった。

 組みたいやつとだけ組む。同盟国であっても邪魔はさせない。そんな米国はイランや北朝鮮、また将来敵になるかも知れない国家や集団をにらみ据えている。

 新しい戦争の時代。超大国が平和や民主化を掲げてミサイルを撃ち込む。そんな矛盾に満ちた時代である。

●戦後日本への試練

 日本にとって、そんな時代の到来はかつては想像だにできなかったことだ。

 「日本やドイツが自由で平和な社会になるだろうか。多くの人がそう疑った。彼らは間違っていた」。ブッシュ大統領はイラク占領を正当化するために、対日占領政策の成功をしばしば語る。

 米国にとって、今の北朝鮮と同じように何をしでかすか分からぬ異様な全体主義国家だった日本は、敗戦によって、確かに平和国家へと生まれ変わった。

 冷戦時代、日米安保体制の下で自衛隊の戦力は年々向上したが、日本の防衛政策の軸はあくまで、ソ連と対峙(たいじ)する米軍を国内で支援することにあった。朝鮮戦争やベトナム戦争では、日本は米軍の出撃拠点となりはしたが、日本自身の安全に対する生々しい脅威感は乏しかった。

 しかし、今、北朝鮮は日本を射程に収めるミサイルを配備し、核兵器の開発を進める。まさに現実的な脅威である。

 「古い欧州」との間できしみを深めた米国は、日本による貢献を重視し、イラクへの陸上自衛隊の派遣を言うまでになった。これもこれまでなかったことだ。

 12年前の湾岸戦争でも、日本は人的な貢献のなさを米国から批判されたが、当時問われたのは国連の枠のなかでの協力で、米国の戦争への直接の協力ではなかった。

 世界が変わり、日本の安全をめぐる新しい事態が起きたのだから、政策がこれまでのままでいいかどうかを考え、論じ合うのは大切なことだ。けれども、目先の脅威や米国の要請にとらわれて大局を見失えば、右往左往が続くばかりだろう。

 こんなとき、日本はどこによって立ったらいいのか。大きな足がかりは、やはり私たちの体験とその記憶にある。

 北朝鮮の核開発を放っておくことはできない。だが、それが戦争という手段によって解決されるなら、どれほどの惨禍が生まれるかを、日本人は半世紀余り前の体験から想像することができる。

 戦争の惨禍は、誰よりも北朝鮮に対して伝えなければならない。

●アジアの大切さ

 北朝鮮問題に限らず、米国が軍事力の行使に前のめりになろうとするときも、その気にさえなれば、日本は体験を生かしてものを言うことができるはずだ。

 日米同盟の役割は重要だが、それだけで解決しない問題はたくさんある。北朝鮮問題でようやく6者協議が開催されるところまできた。北朝鮮を交渉の場に引き出したのは中国の交渉力だった。

 中国には中国なりの利害打算があるにせよ、中国との関係を日頃から培っておくことの大事さを示した出来事である。

 欧州との関係も大事にしたい。欧州の地で戦争を二度と起こさないという決意が地域統合を生みだした。現実に、欧州では戦争はありそうもない。長い目で日本とアジアの関係を考えるための教材になる。

 そのアジア諸国との間で、いまなお靖国神社への首相らの参拝問題がわだかまりとして残る。

 靖国神社には今日も、戦没者の遺族やその家族が集うだろう。戦争で死んだ肉親を思い、悼むのは、どこの国でもごく自然なことだ。しかし、最近そこを訪れた欧州の在京大使は「ここでは戦争が終わっていない」と語った。戦争には当然相手があった。その相手との和解が靖国神社には感じられないという趣旨だった。

 過去の戦争を思う気持ちは、内向きになりがちだ。でも、こういう時代だからこそ、それを外に向けて表したい。


【「2003.8.15日付毎日新聞社説、終戦記念日 もっと悩んだほうがいい」】
 「2003.8.15日付毎日新聞社説、終戦記念日 もっと悩んだほうがいい」( )を転載しておく。
 今年も終戦記念日がめぐってきた。日本の敗戦は既に前世紀の記憶であり、多くの人にとって実感が伴わない遠い過去の記録となってきた。毎年毎年この日を記憶によみがえらせる。お盆と重なった不思議な縁もあり、戦争で命を失った先祖の霊が戻ってくる。彼らを迎え入れると同時に、もう二度と愚かしい戦渦を招かない誓いを新たにするためである。

 素朴で順当な思いから発した終戦記念日の誓いの成果は半世紀以上この国の平和を保ったことだ。だが、時間の経過にしたがいことは単純でなくなってきている。戦渦を知る世代のほとんどが年金を受け取る時代となった。近年の戦争の同時中継は戦争そのものをテレビ画面の中に収納してゲーム化してしまった側面もある。豊かな社会での刺激剤のようにさえ扱われている。そんな中で日本が主体的にかかわった最後の戦争を思い返してみるのは貴重なことだ。

 戦死した英霊を祭っていることになっている靖国神社に、首相や閣僚が参るかどうかが国内の世論を分裂させ、素直に迎えられない。中国や韓国などとの国際関係のよしあしに影響する。靖国に対する内外での認識の違いが、いまだに解消されないどころか解消する努力も貫徹されない。結局時の首相の思いつきが左右する状況がずっと続いている。せっかく出された追悼・平和祈念問題を考える会の報告書も言いっぱなしで今年もうやむやのままだ。

状況追随だけでは危険だ 愚かしい戦争を二度としない決心のほうも、相当に揺らいできている。あらゆる戦争が愚かしく見えていた純な目も、状況次第では戦争もやむなしに変わってきた。去年の記念日以降のたった1年でイラク戦争が起き、北朝鮮の核開発が現実のものとなってきた。日本はフセイン政権を崩壊させた米英軍の戦争行為を支持した。自分では仕掛けないが、他の国がやる戦争が国益に沿うなら支援する方向を明確に打ち出した。

 戦争および戦後の支援活動がいつでもできるように恒久法の制定作業が始まったのは、時の経過に伴い国際情勢が変化、その中における日本の位置も変化したことによる大きな意識変化である。しかし今の日本に、何が愚かしい戦争で何がやむをえない戦争なのか、見極める目と手順が十分に備わっているとは思えない。現在のように状況の変化に追いつこうとするだけではあらぬところにたどり着いてしまう。恒久法より、まずは他国の戦争を支援するかどうか見極める目と論理を持ち、国民の同意を取り付ける手続きの順守と民意形成の鍛錬が先であろう。

 例えば現実に目の前にあるイラク支援だ。法は作ったが、イラクの危険度が分からないので自衛隊を派遣するかどうか定まらない。ことの当否がそこにあるのだろうか。イラクの民主化を成し遂げ、中東全体の安定と進展に寄与するために日本は積極的に行動していくのか、そうではなくアメリカのこれ以上の独断専行がうまくいかないケースも想定して、積極的に国連中心に早急に移行するよう働きかけるのか、いずれかを自分で選択する能力がまず必要なのではないか。みんなも行くし、北朝鮮問題でも世話になるから、危なくなければ行くでは、税金を払って高給で政府や議員を雇っておく意味がない。

 北朝鮮の現代社会においてはかなり特異な自己主張が緊迫感を呼んでいる。隣国で歴史的なつながりが深い国である以上、放置できない関係にある。かつ日本単独で解決できる問題でないことも明瞭(めいりょう)だ。そうした中でイラク戦争は支持するが、北朝鮮で起こるかもしれない戦争は支援しないと、日本独自の判断ができるのか。そう判断しても日本の力で状況全体を動かせるのか。イラク戦争同様、結局はアメリカの判断を判断するだけになりそうな現実は深刻である。

 終戦記念日に二度と戦渦は招かないとの思いを確認する意味は今年はとくに重い。これまでのように儀礼的に美辞麗句を繰り返していれば、また来年の記念日が平和裏にやってくる保証はなくなりつつある。言葉ではなく現実の外交を通して平和を実現していかなければならない世界環境なのだ。

 戦渦はすべて愚かしいのだが、人間が愚かなので戦争が愚かしく見えないことがよくある。現実には武力行使や威嚇以外に問題解決の手段がない事態も明らかに存在する。そうした事態に対して従来は認められていた日本の傍観が、世界の構造変化によるグローバリゼーションの到来やそれと表裏一体の大規模テロの脅威で許されなくなったのかもしれない。

常任理事国入りも視野に 日本は世界の平和と戦争にもっと積極的にかかわっていく時代に本当に変わったのか、国のあり方にかかわる認識である。ただ目前の必要性に迫られて必要最低限の付き合いだけをやっていくのが、依然として日本の最善の道なのか、二度と戦渦を招かないために、日本が積極的に平和創造にかかわっていくほうがいいのか。原点を決める必要がある。

 日本の二度と戦渦を招かない誓いは国連の実力にも大きく左右される。国際紛争の解決を国連の決定にゆだねるには、日本も国連の決定に大きな影響力を行使しなければいけないはずである。だが現実はイラク戦争でも明らかになったように、国連に決定能力はなかった。われわれが見たのは悪役の押し付け合いだった。このままの国連に全面的に依存はできない状況にどう対応していくのか。日本政府の得意技「泥縄」では取り返しがつかないことになる。平和に積極的に関与するため本気で常任理事国になる覚悟が必要ではないか。それを通してわれわれは世界の問題でもっと真剣に悩んでいく道を歩みたい。


 http://www.jca.apc.org/~altmedka/aku473.html
http://asyura.com/2003/war20/msg/850.html
『亜空間通信』473号(2003/01/07)
【米戦犯裁く自称アフガン民衆法廷「偽の友」前田朗教授2重3重の欺瞞の果て唖然】
[中略]
http://postx.tripod.co.jp/NHK-kaizan/tennou_fr.html
フランクフルター・ルントシャウ2000年12月13日
 論評天皇の罪責 カール・グローベ
 [中略]
 日本社会は総体として自らの歴史と向き合ってこなかった。歴史の真実と正義を求めたのは日本の国家ではなかった。国家にとっては、1946年から1948年にかけての東京裁判での主たる責任者7名に対する死刑と16名の終身刑で、十分こと足りただろう。受刑者が1959年に(裕仁の個人的な指示で)都心にあるあがめの場、靖国神社の、国家的英雄や偉大な指導者らの連綿と続く列に加えられたことは、それ自体数少ない連合軍裁判の判決を相対化してしまった(訳註1)。
 [中略]
 訳註1:この部分戦犯合祀に関して、朝鮮人BC級戦犯裁判を考える会の田口裕史さんから以下の御指摘をいただいた。1959年に合祀されたのはBC級戦犯で、A級戦犯は1978年10月に合祀された。合祀されたのは14名。「裕仁の指示で」と明言してある個所は、疑問のあるところだ。(バウネット評)
[中略]
 上記の「訳註1」で指摘されている「A級戦犯」の「合祀」が、1978年10月」に強行されたこと「こそ」が、いわゆる靖国神社「参拝」問題の最大の焦点であることは、批判的な歴史研究の初歩中の初歩である。
 このような、まさに決定的な論争的問題点で、初歩的な間違いを平気で犯す幼稚な連中が、全共闘時代こと、無秩序な学園紛争時代の学園祭さなながらの「法廷茶番劇」を演出してしまったのだから、この失敗については、当然、主催者が頭を丸めて詫び、訂正を発表すべきところである。
 それなのに、もしかすると、「無辜の若者」たち相手なら、その間違いを隠し通せ、今後も、同じようなお粗末「平和売人」商売を続けることができるとでも、思っているのだろうか。
 こういう連中が「平和」を語っている内は、この私までが、「また騙っている」と思われてしまって、誰もが歴史の真相を知ろうとしなくなり、誰もが本気で平和の実現のために戦おうとは思わなくなるだろう。
 [後略]

---------- 引用ここまで ----------

 さらには、上記のごとき、1978年のA級戦犯合祀と中曽根の1985年の「公式参拝」の中間には、以下のごとき、「左」による「挑発」お粗末があったのである。わが2年前の旧稿が、電網検索で、実に簡単に探しだせた。

フランクフルター・ルントシャウ2000年12月13日

論評天皇の罪責

カール・グローベ

[フランクフルター・ルントシャウ2000年12月13日記事]

火曜日に東京で裁断を下したのは、正規の裁判所ではなかった。その判決は何らの義務をも課すものではない。この判決からは、日本軍に売春を強要され、人としての尊厳を奪われた中国や朝鮮、インドネシアやその他の国々の女性30万人のうちで生き残った人々が、その想像を絶する屈辱へのほんの僅かな額の補償すらも引きだすことはできない。
旧ユーゴ国際戦犯法廷前所長ガブリエル・カーク・マクドナルドは、単なる「法廷」の座長を務めたに過きず、また、この「法廷」を催したのは、女性の権利や人権問題に取り組んでいる団体でしかない。だが単なるトリビュナール──そしてこれがもっとも重要な点だが──であるからこそ、当時は神とされた天皇裕仁の歴史的な役割について、これまで日本の世論で公認されてきたのとは異なる評価が下せたのだ。
日本社会は総体として自らの歴史と向き合ってこなかった。歴史の真実と正義を求めたのは日本の国家ではなかった。国家にとっては、1946年から1948年にかけての東京裁判での主たる責任者7名に対する死刑と16名の終身刑で、十分こと足りただろう。受刑者が1959年に(裕仁の個人的な指示で)都心にあるあがめの場、靖国神社の、国家的英雄や偉大な指導者らの連綿と続く列に加えられたことは、それ自体数少ない連合軍裁判の判決を相対化してしまった(訳註1)。
一政権政党にほぼ不断に支配され、永遠の官僚制に行政を任せ、大企業の経営者たちに組織され、そしてこの3つの勢力の相互のせめぎ合いを通して制御される中で、国家は朝鮮や中国、東南アジアや太平洋地域への暴力的な略奪行軍の歴史を、一方では記憶から排除しつつ、他方で国の歴史の中に取り戻してきた。政府は何十年もの歳月を費やして、ようやく許しを請うところまで漕ぎ着けた。近隣の諸国に対して──。だがそれは国から国に対してであって人間に対してではない。森喜朗首相が天皇の神的系譜について語る際にときおり用いる奇妙な表現からうかがわれるように、近隣諸国が経験上恐れていることが、日本社会の少なくとも一部ではコンセンサスになっている。
「法廷」が下した裁断は、歴史認識の霧の中を一条の稲妻のごとく突き抜けた。それは法的効果は持たないものの、ニュルンベルク裁判の後、アウシュヴィッツを始めとする絶滅収容所の加害者に対する訴訟がドイツ人の意識に及ぼしたこと、すなわち啓蒙をもたらすものだ。
啓蒙は日本人自身の課題だったはずだ。日本人がほとんどそれに取り組まなかったことは、世界の政治情勢に負うている。天皇を国家の象徴として在位させることは、1945年以降の短いがラディカルな自由化改革の期間においてアメリカ占領軍自身の関心事だった。この象徴が、危慣された政府の転覆や革命をふせぐ保証となったからだ。そして朝鮮戦争勃発(1950年)の後は、(おそらく治癒効果をもたらしたであろう)意識改革をさらに推し進めようにも、日本はアメリカの同盟国としてあまりにも重要になりすぎていた。歴史を記憶の彼方に排除するメカニズムは、太平洋の彼岸と此岸に跨がる妥協策の片面であり、その別の一面は軍事戦略によって規定されていたのである。無数の名もない犠牲者たちを忘れ去るというシニシズムは、そのことから必然的に導き出された。
前提となる諸条件が、したがってドイツとは異なっていた。ドイツの西側連合軍の3占領地区は、冷戦の時代にあって、もっとも近い過去との訣別と引き換えにようやくその役割を達成しえた。西側世界への統合には、ナチス独裁に対して下された判決を社会に根づかせることが前提だった。「東」ブロックに対しては、旧態依然の連邦共和国(訳註2)は時にはラディカルだが概ね穏健だった労働運動を社会市場経済に統合することで初めて優位性を示せるようになった。そして、統一を遂げたこの国は、不和に満ちた過去から導かれる教訓を忘れない限りにおいて、ヨーロッパという枠組みの中で平和の旗をかかげる役割を果たせるのだ。もしドイツが違った態度をとれば、ヨーロッパ大陸においてアメリカの「陸の剣」たることすらできないであろう。歴史の道義的教訓を持ちだすまでもなく、この国は、存続していくためにあらゆる国々との宥和と友好を必要としているのである。
このことは、海の向こうでイデオロギー上の敵やその他の独裁者が支配していた間は、日本にはさほど厳密には当てはまらなかった。だがソ連の権力機構の崩壊と中国の経済開放、韓国と台湾における民主化が、ここでもこの前提条件に長く尾を引く変化をもたらした。日本は、平和を維持しようというのであれば、隣国との間で適当に折り合いをつけるだけではもはやおさまらず、和解を実現する必要がある、それも言葉の上だけではなく。天皇の責任そしておそらく罪も、そうなれば、もはや問わずにおいたり、美化したりしてはおれまい。歴史から学ばない者は、学び直さなければならないのだ。東京の「法廷」がそのための一つの方向性を示している。

訳註1:この部分戦犯合祀に関して



---------- 引用ここから ----------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/d-1-7-4.html
電子手紙の送信日付け順・注釈付き一般公開文書館
7.4.(水)「アジア諸国からの猛烈な批判」を武器とする主体性なき偽善系の右往左往と教科書問題誤報
送信日時 :2001年 7月 4日 水曜日 11:15 PM
件名 :[pmn 15467] 教科書問題誤報と偽善系の主体性なき右往左往

 自分の国の日本の教科書を論ずるのに、「アジア諸国からの猛烈な批判」を武器として振りかざすのは、いわゆる「他人(ひと)の褌を借りる」典型、まことに主体性 のない屁っぴり腰のへぼ相撲さながらの議論の組み立て方でありまして、下手糞漫画 家にまでしてやられるのは、当然の帰結です。

 そこで、この主体性のなさを、典型的に示す「世紀の大誤報」を紹介して置きます。 この問題は、発端に私の古巣、日本テレビ放送網株式会社とその隣組みの位置関係に ある教科書専門の実教出版社が関係していたので、かすかに記憶に残ってはいたのですが、このほどの新たな騒ぎを切っ掛けとして、国会の議論に再浮上し、『正論』 (2001.6)に、当時の社会部記者、現・産経新聞・石川水穂論説委員による一文、「教科書問題の発端/『世紀の大誤報』の真実」が掲載されるに至りました。

 簡単に言うと、1982年に、教科書検定で「侵略」を「進出」に書き改めさせたと、 各紙が一斉に報道し、中国や韓国からの抗議を誘発し、日本国内でも教科書問題が政 治的紛争の目玉となったのですが、これが実は誤報だったのです。

 確かに、多くの資料に基づき、当時の文部省は、「侵略」という表現を「進出」に 改めよと求めていたと認め得るのですが、それに応じて書き直した出版社は、実は、 なかったのでした。

 では、なぜ、このような誤報が各紙を飾ったかというと、記者クラブと称する大手メディアの情報独占機関は、特にスクープ競争をする気はないけれども手間の掛かる問題については、各社分担して取材結果を持ち寄り、総合的な記事にまとめるというカンニング習慣に馴染んでいたのでした。実は、今も、この習慣は密かに続いています。

 で、その当時、世界史に関して近所の実教出版社を取材した日本テレビの記者が、 聞いた通りに報告し、それを各社が一斉報道してしまったのでした。つまり、出版社 の編集者も、いい加減だったのです。

 これを切っ掛けとして「アジア諸国」の抗議を自分の武器にする主体性のない自称平和主義者、自称左翼が続出し、今に至っているわけです。実に情けない話なのです。自分で納得できる教科書でも、単行本でも、せめて雑誌記事でも発表してから初めて、発言の資格ありとすれば、もっとまともな議論になるのかもしれません。いや。もっと混乱を極めるかも。

 ともかく、金魚の糞よろしく、「つくる会」許さずなどと口から泡を吹いても、水面がかすかに揺れるだけで、物笑いの種になるだけです。ぶりっ子の偽善系なんて、 言われてしまうかもしれませんので、お気を付け下さい。今年の3月12日に、この誤報を信じて参議院の予算委員会で質問して、赤っ恥をかいたのは、民主党の竹村泰子議員だそうです。悪いのは大手メディアの記者とか編集者とかなのですが、気の毒なことです。
---------- 引用ここまで ----------

 ところが、何と、このような教科書」問題の底辺には、実は、「右」でも「左」でもない「胃袋」の事情が潜んでいたのである。



 
---------- 引用ここから ----------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/d-1-7-5-2.html
電子手紙の送信日付け順・注釈付き一般公開文書館
7.5.(木)「つくる会」教科書の最大の成果は現在の教科書免責のメビウスの帯「会社擁護」編と指摘
送信日時 :2001年 7月 9日 月曜日 12:13 PM
件名 :[pmn 15526] 教科書問題メビウスの帯「会社擁護」編



[中略]
日教組の担当者は、現在までの教科書にも問題は多いことは自覚しており、内輪の議論にはなっているが、教科書全体を再検討せよという方針にはなっていない、と認めました。出版労連との関係では、作っている人自身が自分の仕事を批判するのは難しいでしょう、との感想でした。

 このことへの批判を自由な立場で展開したいこともあって、私は、6月末日をもって、出版労連加盟のネッツ労組から退会したのですが、出版労連の方には、そのことをも伝えつつ、後述の民放労連での経験をも話し、実情を聞いたところ、やはり、現在までの教科書への批判の運動方針はないと認めました。

 問題の核心は、ちょっと考えてみれば、まったくもって何のことはないことなのですが、「つくる会」批判運動をやっている出版労連の組合員の社会的身分なのです。出版労連の教科書共闘は、教科書会社の企業内組合の組合員によって構成されています。悪く言えば、自社製品の売り場を確保すための運動だから、会社は、この「労働組合の活動」を妨害しないのです。

 ところが、日教組や、かつての社会党やら共産党やらは、親亀の上に子亀、その上に孫亀が乗るような状態なのに、上に乗っている方ほど、威張りくさるという実に間抜けな構造になっているのです。本来という言葉を使うならば、亀より先に人間の親の方が動くべき問題なので、誰が悪いのかと言えば、皆が悪いのです。

 私が、この構造を詳しく知っているのは、昔からのことです。民放労連の放送問題の担当をしていたからです。出版労連の内部事情も知っていましたが、基本は同じなのです。

 1960年安保闘争で戦闘化した民放労連は、最初、「放送を国民のものにしよう」という宣伝文句を作りました。これに対して、国労の綱領制定にも関わった堀江正規さんが、そんなことできるわけはないよという主旨の批判をしたので、「放送の反動化に反対し、民主化を獲ち取る闘い」と変わりました。

 事実経過を見れば、これも、じり貧の敗北の連続です。民放労連の場合には、出版労連の教科書問題に対する闘い方よりも、少しは反体制的でしたが、やはり、「企業内組合の連合体」の域を出ていませんでした。「反動化に反対」と言いましたが、それだけでは、現状が「反動」ではないかのような誤解をされかねません。事実は、すでに「反動の極」なのでした。特にテレヴィ放送の場合には、最初から全国放送網がアメリカの意図の下に、張り巡らされたのでした。

 私は、それだからこそ、個人として、いくつかの組合新聞の連載記事を書きましたし、単行本としては、1979年に「征矢野仁」の筆名で、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、絶版)を発表しました。これも含めて、私が出した関連の単行本はすべて、佐野真一さんの『巨怪伝/正力松太郎と影武者たちの一世紀』の資料リストに収録されています。

 詳しくは、その後の『読売新聞・歴史検証』(汐文社、1996)にも記しました。これはまだ残部があります。民放労連の方針を上回った一番象徴的な問題点は、日本のテレヴィ放送網の建設がアメリカの議会での「共産主義との戦い」「B52爆撃機2機分」とい演説の文句にも露骨に表明されていた事情です。

 そこで再び、かなり前の教科書問題のメビウスの帯の指摘を繰り返すと、現在の日本の教科書は、「アメリカ王朝」時代の歴史粉飾なのです。「つくる会」の方は、その粉飾に逆らう「かのように」見えるから、一般受けするのです。「いじめ」っ子諸君! 「つくる会」に対抗して、自分の歴史書を作ってみんしゃい。呵々。
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 さてさて、ここで、再び、B,C級戦犯の問題に戻る。その典型の一つは、東京裁判こと、極東軍事裁判と称する日本支配のためのアメリカの猿芝居では、無罪となりながらも、当時は国民政府の中国の「対日報復」気運の犠牲者として、中国で有罪判決、死刑に処せられた二人の日本軍下級将校である。
 
 これまた、自称「左」の実に醜い「言論詐欺師」による「平和売人」行為の典型であるが、以下の産経報道を、わが目で見て、聞いた木村愛二本人が、間違いのない「真実の報道」であることを、保証し、以下、再録する。この原告の「陳述」は、「報告会」でも再び読み上げられ、私は、その録画を所持している。近く編集し、複写して、「遺族」田所千恵子さんと弁護団、支援者に贈呈する予定である。
 



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 http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/030708-4etc.html
2003.07.08
■百人斬り訴訟 口頭弁論で遺族切々「父の汚名そそぎたい」
苦痛からの解放願う

 東京地裁で七日開かれた「百人斬り」訴訟の第一回口頭弁論で、向井敏明少尉の二女で原告の田所千恵子さんが意見陳述し、「『百人斬り』が真実ならどんなことでも耐えますが、うそなのです。汚名を着せられ、歴史に残るのは残念」と訴えた。
百人斬り報道

 昭和12年の南京攻略戦に参加した第16師団の野田毅、向井敏明両少尉が、どちらが先に100人斬れるかを競ったとする記事を、東京日日新聞が同年、4回にわたり掲載。2人は戦後、南京軍事裁判で無実を訴えたが処刑された。朝日新聞は昭和46年、本多元編集委員が執筆した連載「中国の旅」の中で取り上げ、「南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺された」とする“虐殺派”の証拠として再三持ち出されるようになった。東京日日新聞の記事は、同僚カメラマンの証言やノンフィクション作家、鈴木明氏の大宅賞受賞作「『南京大虐殺』のまぼろし」によって、戦意高揚の創作記事だったことが明らかにされたが、その後も中国各地の記念館では記事が拡大展示され、中国側のプロパガンダに利用されている。国内の学校教育現場でも度々引用され、「真実」であるかのように独り歩きが続いている。 父親が無実を訴えながら処刑された後、田所さんは昭和二十三年、千葉にあった祖母と叔父の家に預けられた。周囲の人が「あの子は戦犯の子供」とささやく言葉を耳にし、祖母に「戦犯って何?」と尋ねて困らせたこともあった。

 周囲が一気に波立ったのは、結婚後の昭和四十六年、朝日新聞の本多勝一元編集委員が執筆した「中国の旅」が連載されてから。記事は翌年、同社から単行本として出版された。家庭では口論が毎晩絶えなくなり、次第にうまくいかなくなった。夫は、会ったこともない向井少尉を悪く言い、「人殺しの娘」呼ばわりされて、ついに離婚を決意した。

 職場でも「戦争だったのですから仕方ないですよね」としばしば励まされた。「百人斬り」が事実であるという前提の言葉に、逆に傷つけられた。

 マスコミへの恐怖と失望を抱き、「戦犯・南京・抗日」といった言葉には常に過敏に反応してしまう。気持ちを張り詰めた生活が続き、今も心穏やかに過ごせる場所はないままだ。

 「中国の旅」の文庫本では、実名表記がイニシャルに改められているが、「周りのほとんどの人は誰のことか知ってますし、注釈では『捕虜を据えもの斬りする虐殺競争をした』と、ますます残虐な人間に描かれている。本多さんはどこまで私たちを侮辱するのか」と声を震わせた。

 裁判長に「遺族にとってこの裁判は最初で最後の機会。公正な裁判を信じ、父たちの汚名をそそぎ、精神的苦痛から解放されることを願っています」と訴えた。
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 この件では、日本国内で、毎日新聞、朝日新聞、柏書房、】本多勝一が、「被告」となっている。しかし、1947年に2人を死刑に処したのは「国民政府」であった。当時、中国共産党との内戦を抱えていた国民政府は、一方で妥協、一方では民衆の対日報復気運への迎合という矛盾を抱えていた。それまでの勢いからすれば、「昭和天皇を処刑せよ!」と叫ぶのが筋だったのだが、その代わりに証拠不十分な2人の将校を殺してしまい、しかも、それを中国共産党の政権が、そのまま、引き継いでいるのである。
 
 中国も、相当に好い加減である。中国に対しても、2人の名誉回復の処置を要求すべきなのである。それができるメディアが、組織が、あるのか無いのか、個人が、いるのか、いないのか。
 
 ああ、また、私は、名乗り出てしまうかもしれない。ああ。4歳から8歳までを暮らした北京の風景を、脳裏に想い出しつつ、ああ。





(私論.私見)