42812 | 侵略史観 |
既成左派系論調を以下見ておくことにする。(れんだいこコメント)は追って付ける。 |
アジアを征服し、統一し、教化するという使命観。日本帝国の野心的な事業。
戦前の日本では、軍事官僚制の中で、第一に軍国主義が圧倒的に強く、第二に官僚の中で警察が国民生活の毛穴まで塞ぐように支配していた。それが天皇制として、労働者と農民と勤労者を支配していた。その土台には、寄生的地主制と人身売買的雇用制と部落差別があった。(志賀義雄「日本共産党史覚書」)
日清戦争で開かれた東アジアの帝国主義による分割戦争は、日本とロシアとの闘いとなった。日露戦争に勝利した日本は、朝鮮の合併、満州の植民地化に乗り出した。
1868年に、明治維新の上からの革命が成功し、幕藩制に代わって封建家臣団を近代化した軍事官僚制(特に軍事警察的な)の先頭に立つ天皇制の下での、日本帝国主義の歴史的特徴は、資本主義の発展の急速なテンポにあった。
Re:日本人としての誇り(熊源 )2001/08/08 14:45
戦争は国(近代においては政府)がする行為です。あの戦争は単純に言えば自分のうちの米がなくなったので、よそのうちの米を”力づく”で借りにいった。向かいのうちが隣の味方についたので当然向かいの家にもどなりこみにいった。すると町内会長さんに注意をされた。切れたので町内会長さんの家に火をつけた。以下最後に自分のうちが燃えているところを命からがら泣きをいれました。
というのが、浪漫をさしひいた実情です。国際経済についた先の読めなかった政府、力にたよれば何とかなると思った軍隊、一国一党をしいてしまった失敗。さまざまな大きすぎる失敗がからまりあってああなってしまったのですな。他国のせいにするのは卑怯でしょう。中国進駐を止め。「満蒙は日本の生命線」などという狭い既得権重視の見かたがすべての足を引っ張ったのです。どれもこれも日本人がしたことですよ。その失敗を学んで同じ轍を踏まないようにすることがとても大事じゃないでしょうかねえ。そのような見かたができるほうがよほど「誇り」を持って行動できると思うがねえ。熟慮断行を時を得てですよ。
第二次世界大戦前、アジアにおける帝国主義の植民地支配は、英・米・仏・蘭・日によって分割されていた。すなわち、イギリスは、インド、ビルマ、マレーを中心に広大な勢力圏を構築して大英帝国の物質的基礎を創り出し、フランスはインドシナを、オランダはインドネシアを、アメリカはフイリッピンを支配していた。そして1967年の明治維新を契機に遅れて登場した日本資本主義は、日清、日露戦争などを通じてようやく、台湾、朝鮮、南樺太などを自己の支配下におさめ、満州にカイライ政権を樹立して中国大陸進出へ足掛かりを固めた。 太平洋戦争は、1929年の恐慌によって世界経済のブロック化が進行、帝国主義世界体制の危機が激化する中で、日本資本主義がもドルブロックからも、スターリングブロックからも締め出されていく中で危機の脱出のため中国大陸の侵略戦争の拡大からアジア再分割へと進んでいった帝国主義的な強盗戦争であった。なぜなら、広大な中国大陸は、半植民地状態にありながらも、いまだ帝国主義による完全な分割支配が完了せず、西欧帝国主義と日本帝国主義との激烈な争闘戦の対象となっていた。そして日本帝国主義は、日清、日露戦争の勝利を通じて中国大陸進出の地歩を固め、第一次世界大戦の結果、青島などのドイツの権益を奪い、満州事変を契機に一挙に中国大陸侵攻作戦に転じていったのであった。だがそれは、ブロック化進行の中で、太平洋とアジアの支配を廻る争奪戦にと発展していかざるを得なかったのである。 「鬼畜米英」という登場内閣の戦争遂行のための排外主義的民族スローガンは、ブロック化から締め出された日本帝国主義の植民地再分割を求める叫びだったといえよう。そして中国大陸への侵攻作戦から、ハワイ―マレー沖海戦を経て一挙的に太平洋とアジア全土に対する軍事的制圧に邁進し、「アジアはアジア人の手で」、「大東亜共栄圏の確立」を掲げた日本帝国主義は、アジアの植民地支配の暴力的再編に乗り出したのであった。 日本帝国主義の奇襲作戦が緒戦において勝利を収めていった結果、この軍事的制圧は、インドシナ、マレー、ビルマ、インド、インドネシア、フイリッピンから南太平洋の諸島にまで及び、第二次世界大戦前まで構築されていた帝国主義の領土的分割支配がまたたくまに崩れ去っていつてしまったのである。フランス、イギリス、オランダなどが永年にわたって築き上げてきたアジア支配の権益は、一挙的に崩壊し、アジア全土は、一時的にせよ日本帝国主義の軍事制圧下に置かれるに至った。だがしかし、日本帝国主義が自己の勢力圏を構築し、植民地再分割の暴力的再編のために掲げた「アジアはアジア人の手で」というスローガンは、それ自身、自己矛盾を含むものでしかなかった。なぜなら、そのようなスローガンは、逆にアジアの民衆の内部にある民族的契機を広範に顕在化させざるを得ず、日本帝国主義に対する反植民地闘争の激化をまた結果せざるを得ないものだったからである。しかも、このような自己矛盾を含んだスローガンを掲げることによってしか、「聖戦」を遂行し得なかったところに、第二次世界大戦が、帝国主義の歴史終幕を告げる墓標でもあったのである」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。 |
(私論.私見)