428111 聖戦論(「聖戦論旧版」)

 (最新見直し2005.12.23日)

 大東亜戦争の聖戦論を学ぶことも必要である。日本左派運動の欠陥は、組織論でも運動論でも思想論でも偏狭独善主義に陥り、異論、異端に耳を傾けない、否むしろ理屈ぬきに排除するところにある。いわば嗜好運動していることになる。れんだいこに云わせれば、そういう扁平脳を作ることは邪道であり危険である。戦前の例で云えば、そういう作風が転向の下地を醸成させてきた。れんだいこは、そういう意味で、大東亜戦争の聖戦論にも耳を傾けて見ることにする。

 2005.10.3日再編集 れんだいこ拝


  いわゆる聖戦論派も一様では無い。1・戦前の皇国史観に依拠し、日帝の侵略行為を全肯定するグループ。2・少なくともそこに大東亜共栄圏の思想を見出し、アジア解放の起爆剤となったことを重視しようとするグループ、3・戦後の左派運動の暗黒史観の虚構を撃つという視角から、日帝の侵略行為論の見直しをしようとするグループ等々様々な見解が跋扈している。いずれ観点別に整理しようと思うが、とりあえずアトランダムに右派系論調を見ていくことにする。(れんだいこコメント)は追って付ける。

 聖戦派による大東亜戦争の大義名分は、主として次の事由により肯定されている。
天皇制思想  日本は神国であり天皇を中心として発展してきたとする「皇国史観」と古来よりの伝承としての「日本根の国思想」が合体して八紘一宇思想を生み出し、「大東亜共栄圏構想」に向った。これを聖戦とする観点。
アジア民族解放思想  「大東亜共栄圏構想」の内実がどうであれ、日帝が欧米帝国主義と互角に戦ったことにより当時欧米の植民地にされていたアジアを覚醒させ、白人の手から解放する契機となったことに注目してこれを聖戦とする観点。
反ネオ・シオニズム思想  近代をネオ・シオニズムが席巻しつつあるという観点から、日帝の自立自存を護持するためにも止むを得なかったとする歴史観から聖戦とする観点。
ソ連脅威論  日帝はソ連の赤化政策と闘い、これと戦うためにも止むを得なかったとする歴史観から聖戦とする観点。
非侵略思想  朝鮮、台湾、中国への進出は親日派の要請による出兵であったとし、「親日グループ」との合作による新国家形成であり侵略では無いとする歴史観から聖戦とする観点。「コリア人と違って、台湾人−しかも、日本統治時代を経験した世代は、概して『親日』的ですし、功罪双方を天秤に掛けた上で、客観的に『日本統治時代』を評価している」としている。
正当防衛論  反ネオ・シオニズム思想的観点を欠落させたまま、かの戦争は自立自存の正当防衛であったとする歴史観から聖戦とする観点。
昭和天皇礼賛論  昭和天皇の人徳を称揚し、大東亜戦争全体を聖戦とする観点。

【「天皇制思想よりする聖戦論」】
 「天皇制思想よりする聖戦論」は次のようなメンタリティーに支えられている節がある。
 戦前はみんなが国を心から愛した。天皇に対する思いは、日本人が日本人であるアイデンティティであり、民族の熱き血の流れを感じる愛国愛民族感情である。兵士は天皇陛下のために死んだのではない。日本人のため、家族のために戦って死んだのだ。「国家」、「公」のために戦ったのだ。アメリカ兵も、ドイツ兵も、イタリア兵も、みんな祖国、家族のために戦ったのだ。その魂が象徴である「天皇」に向けられたのである。天皇陛下もその意味をご存知であったはずである。

【「天皇制八紘一宇」的観点からする大東亜共栄圏聖戦論」】
 「天皇制八紘一宇的観点からする大東亜共栄圏聖戦論」もある。次のようなイデオロギーに支えられている節がある。
 概要「大東亜戦争は、白人の世界一局支配を打破するために、誰かが始めねばならない戦いだったのであって、犠牲となった有色人種も犬コロのように殺されたのではなく、人柱になったのである。これは独創的な虚妄ではなく、戦前にも世界を欧州、米国、東亜に三分割して、日本を東亜の盟主にしようと公言されていた。

 1933(昭和8)年、日本が満州事変と満州建国の後で国際連盟を脱退する前のこの頃、荒木貞夫氏は、次のような「全日本国民に告ぐ」(大道書院,)演説をしている。

 概要「我が皇国の真価を発揮し、先づ平和をかち得、欧州・米国・東亜と、この三大集団の連盟が出来た時、初めて真の世界平和が来るであろう。我が建國の眞精神と、日本國民としての大理想としての、混然たる融和合一の示現とも称すべき「皇道」は、その本質に於いて四海に宣布し、宇内に拡充すべきものである。故にこれが支障となるところのあらゆる事実は、実力を使用しても断固として排除しなければならぬのである。皇道國徳に反する者あらば、この弾丸(たま)この銃剣で注射をする。注射に先だって反省するならば敢て血を見る必要はない。又最小限の注射によって反省して、即ち帰順降伏するならば最早(もはや)武器を執る必要はない。然しどうしても利かなければ茲(ここ)に最後まで注射をする」。

【アジア民族解放思想よりする聖戦論】
 「アジア民族解放思想よりする聖戦論」もある。次のように云われている。

 「米国、国際政治評論家ラティモア氏証言」は、次のように述べている。これを仮に「白人の侵略の終着点」説とする。
 「日露戦争の勝利がアジア民族解放運動の出発点であり、終着点はまさしく大東亜戦争であった」云々。

 「仏大統領ドゴール氏証言」は、次のように述べている。これを仮に「白人の植民地主義の終焉」説とする。

 「シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉(しゅうえん)を意味する」云々と述べている。


 「白人列強のアジア支配を食い止めた日本」説もある。これを仮に「白人のアジア支配食い止め」説とする。
 この大東亜戦争こそ、白人列強による17世紀から始まったアジアへの侵略を最終的にとどめさせたものでした。南京攻略後、勝利を得た日本から平和を申し出、蒋介石も応ずる気持ちになっているにもかかわらず、ルーズベルトが戦争をしかけたのです。日米開戦前、日本は戦争を避けるために最後の最後まで平和交渉を続けたのです。それを拒否したのはルーズベルトなのです。ですから日本は絶対に侵略者ではないのです。米首脳部、白人列強は、どこまでもアジアを植民地化したかったのです。

 それを敢然と立ち上がった日本があったから今日の日本、アジア諸国があるのです。万一日本が立ち上がらなかったなら、17世紀以降アジアは今日なお白人列強の下に植民地として圧迫されているのです。 恨むべきはどこまでも戦争を挑発し、平和に応ずることのなかった者たち、そして国家間の条約を平気で破った者たちでありませんか!

 似たようなものに「誇りを持て」説もある。次のように述べられている。
 敗戦後、勝者によって悪者扱いされますが、日本こそ最後まで平和交渉をし、譲歩案を出し、協定条約を守って最後に座して亡ぶは祖国の先祖にまた子孫に申し訳ないと完全と戦ったのです。立ち上がったから白人列強のアジア植民地支配を食い止めたのです。今こそ日本人は米国の占領政策の間違った歴史を払拭して、正しい歴史を知って日本の心をさまさねば、物量戦で負け、最後に日本の心まで亡ぼしては本物の敗戦になります。今こそ正しい日本史を見直して日本民族の誇りをとりもどそうではありませんか。

 これは内容といい筆力といい面白かったので無断借用。
「歴史認識」が支持されてない・・。投稿者: internationalfederation 2001年6月09日
 「ピースで、ボーっと」な大学生のハナシ。「僕らはアジア諸国を旅しています。日本はアジアを侵略した悪い国です。みんなで謝罪しましょう!」

 WWUにおいて、日本軍はアジア各国に破竹の勢いで進軍した。これは事実。そのとおり。でも、この学生さん、ふと、あることに気が付いた。「あれえ?香港やシンガポールで日本軍に降伏したのはイギリス軍だよ。どうして?」。「あれえ?インドネシアで日本軍に降伏したのはオランダ軍だよ。インドネシア国軍じゃないよ。どうして?」。「あれえ?フィリピンで日本軍に降伏したのは米軍だよ。フィリピン国軍じゃないよ。どうして?」。「あれえ?インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボジア)で日本軍に降伏したのはベトナム軍じゃないよ。フランス軍だよ。どうして?」。「(ついでに)あれえ?WWTで、中国の青島で日本軍に降伏したのはドイツ軍だよ。中国軍じゃないよ。どうして?」。

 歴史の神様

 「フォッフォッフォ。もっともなギモンじゃのう。むかし日本の天皇陛下がオランダを訪問されたが、そのとき、なんと、オランダの退役軍人たちが、卵を投げつけるなどの暴挙に出おった。第二次大戦中に、日本軍の捕虜となったときに虐待された恨みからの抗議だそうじゃ」。

 「それはなるほど、もっともじゃ。が、日本はオランダまで攻めて行ったかのう?英国やオランダのように地球の裏側まで植民地分捕りに行ったかのう? いったい、彼らはど・こ・で・日本軍の捕虜になったのじゃろうのう?

 若者よ、自分のアタマでしっかりと考えてみるのじゃ・・・・」。

【反ネオ・シオニズム思想よりする聖戦論】

 米国大統領ルーズベルトの戦争責任論を次のように問うている。

 概要「ルーズベルトが、日本を戦争へ引き込んだ。ルーズベルトは、戦争の起こる危険を承知で日本に石油を止めた。悪化した日米関係を好転させることと、支那事変解決促進のため、昭和16年から日米交渉が開始された。日本は屈辱的な譲歩を以て米国の意に添おうとしたが、ルーズベルトは理解せず難航した。蘭印(オランダ、インドネシア)との経済交渉も米英の妨害策動で不調に終わり、我が国はいよいよ自存自衛の途を確保する必要からフランスとの協定に基づき、7月末南部仏印(ラオス、ベトナム)に平和進駐した。この南部仏印進駐に対して米英蘭中は全面的に経済封鎖を行い、ルーズベルトは我が国の在米資産凍結、全面的禁輸を行い英蘭(イギリス、オランダ)も追随した。米国大統領ルーズベルトは、対日石油禁輸が戦争を導く危険を十分に知っていてやった。ルーズベルトは我が国の南部仏印進駐より3ヶ月早くグリーンランドに、又アイスランドに進駐していた」。

 概要「米、英首脳が日本占領の密約をしていた。7月から8月にかけて日米関係は急迫し、近衛首相は首脳会談を決意し、天皇陛下も望まれて、米側に申し入れたがルーズベルトはこれを拒否した。ルーズベルトとチャーチルの米英首脳は大西洋で対日戦争での協力を約束し合っており、我が国がどんなに誠意を尽くしても日米交渉が進捗するはずがなかった」。

 概要「ルーズベルトは頑固に姿勢崩さなかった。昭和16.9.6日、御前会議が開かれ「外交努力を継続しつつも、10月下旬を目途に戦争準備を整え、10月上旬に至っても交渉が成立しない場合は対米(英蘭)開戦を決意する」を決定した。10月下旬が過ぎても米国はかたくなに姿勢を崩さず、外交交渉は行きずまった。我が国は石油禁輸以来、2ヶ月後には国家機能は完全に停止する事が明白であった。日本はこの戦略に誘い出された」。

 概要「ルーズベルトは、戦争を欲していた。東條内閣は最後まで平和努力したが、ルーズベルトは平和交渉を受け付けなかった。近衛首相に変わって東條内閣が成立し、天皇陛下より『9.6日の御前会議にとらわれず慎重に再検討するように』と思し召しが伝えられ、東條首相はご意向を体して、甲案を作成した。甲案は、支那や仏印からの撤兵について具体的な条件や方法を示すなど我が国としては重大な譲歩をしていた。三国同盟などその他譲歩をも含んでいた。東京裁判の米人弁護士ブレークニー氏は『日本の真に重大な譲歩は東條内閣の作成した甲案であり、甲案において日本の譲歩は極に達した』と論じているほどである。乙案も用意された。乙案は甲案不成立の場合、戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定協定案であった。

 ルーズベルトは日本の切実な気持ちを知り尽くしながら11.7日、甲案を拒否し、11.20日、乙案も拒否し、有名なハルノートを突きつけてきた。米国ハル国務長官供述書は、『日米交渉は、最初から平和解決をするチャンスは、百分の一もなかった』と述べている。パール博士は、このハルノートについて『米国が日本に送ったと同一のものを他の国に通告すれば非力なモナコやルクセンブルク大公国ですら必ず米国に対し自衛の為に武力をもって立ち上がったであろう』と述べている」。


 ルーズベルトの陰謀が次のように指摘されている。

 ルーズベルトは「攻撃を受けた場合の外は国民を戦場に送らない」という公約をしていたので、日本から攻撃させる必要がありました。老朽船3隻に米国旗を立てて、日本軍艦に接近させ、日本軍が撃ってくるのを挑発したのです。

 しかし、日本は静かにしていました。米国アナポリスの海軍研究所から『ラニカイ号の巡洋航海、戦争への挑発』という書物にルーズベルトの陰謀が暴露されています。 「どのように日本を操って我々の損害は少なく、いかに最初の一発を発射させるように追い込むかが問題だとルーズベルト大統領は語った」(米国スチムソン陸軍長官の日記より)。

 ルーズベルトの苦労にもかかわらず、日本のハワイ襲撃1時間20分前に公海において米国は日本の潜水艦を攻撃して撃沈させているのです。そして海軍司令部に「日本潜水艦を撃沈せり」との暗号電報を発していたのです。敗戦後、日本が米国へ無通告でハワイを襲撃したと逆宣伝されて日本国民でも信じている人が多いのですが、米国との戦争も米国が先制攻撃をしたのです。

(米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類第75)(1945年6月7日)による日本語訳は『現代史資料』35巻(みすず書房)407〜409貢参照


 「Re:A級戦犯の合祀・Kuu」を転載する。
 とあるMMで石原莞爾についてやっていました。 イギリス人検事を一喝した翌日、えらく愛想のいいアメリカ人将校(ア)が石原(石)の病室を訪れました。

石原は第一声、「仮にわしが参謀総長だったら太平洋戦争には勝てたはずだ。そうなれば、立場は今の逆だった」と真顔で言いました。ニコニコ笑うばかりのアメリカ人将校は、「戦犯の中でだれが一級と思うか」と言います。 以下、両者のやり取りです。
 「トルーマン」
 「それは大統領のトルーマンか」
 「そうだ」
 「君はそれを本気で言っているのか」
 「日本男児は金輪際、嘘はつかぬ。すべて本気である。今後そのつもりでいてほしい」
 「ならば、君の言を信ずるが、なぜ、トルーマン大統領が第一級戦犯であるのか」
 「彼が大統領に就任したとき配布したビラに、”もし日本国民が軍人に協力するならば老人、子供、婦女子を問わず爆殺する”とあった。国際法には明らかに”非戦闘員は爆撃すべからず”とあるにもかかわらず、それはなんだ。協力すれば爆弾を落とすというのは、協力するなという強請だ。連合軍と戦うには挙国一致が必要だった。にもかかわらず、子供、老人、婦女子を働かせないならばその分だけ戦力が落ちることになる」
 「あれは脅しだ」
 「とんでもない。ビラのとおり爆撃し、多くの死傷者を出した。B29が軍需工場にあらざる一般住居も爆撃し、非戦闘員を殺傷したのは衆知のとおりだ。長崎、広島の爆撃による惨禍を忘れたわけではあるまい。九死に一生を得た被災者でも、一生苦しまねばならぬ。神の御意志に背く悪逆非道といわざるを得ない。トルーマンは、この悪業をあえて実行したではないか。彼の行為は第一級戦犯どころか、その上位である。いいか、よく聞けよ。大国の大統領ともあろう者が、こんなぶざまなビラをまき、あまつさえビラのとおり蛮行を繰り返しながら、戦犯を作るなど厚顔もはなはだしい。こんな連中を相手にしたなど、本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい。トルーマンの行為のようなものを日本では、”過ちをかざる”という。その意味は、自分の過ちをごまかし、よいように見せかけて改めようとしない、というものだ。賠償は払うべきである。われわれはその2倍を連合軍に要求したい」
 「日本の犯した罪も深い。戦犯の範囲について聞きたい」
 「日清・日露の戦争までさかのぼらねばならぬ」
 「あれからもう数十年も経っている。なんでまた日清・日露まで手を広げるのだ。気の遠くなるような話じゃないか」
 「満州事変の根は、日本の大陸侵攻の日清・日露の戦争にあると思わんか」
 「歴史的に解明しようというなら証人が必要だ。ペリーを呼んできてくれ」
 「ペリーを呼べというのか?それはどういうわけだ。ペリーはこの世にはいない。あの世だ」
 「彼をあの世から呼び寄せ、戦犯としてその罪を問わねばならない。アメリカが勝利者の立場を誇示し、日本が犯した戦争の責任追求を満州事変、日清・日露戦争時点まで及ぼそうというなら、この事変からさらに7〜80年前、すなわち嘉永6年(1853年)6月3日、鎖国中の日本を武力で無理やり開国させたアメリカの責任も問うべきである。何せ日本としても、生きる道を考えなければならない。アメリカを教師として、日本も泥棒の手口を習得したんだ」

ソ連脅威論よりする聖戦論】
 「ソ連脅威論よりする聖戦論」も為されている。次のように述べられている。

 概要「米、英、ソはヤルタで日本分割占領を密約した。米、英、ソはヤルタで密約を交わし、日本分割統治を決め、ソ連に日ソ中立条約破棄をそそのかしたのは実はアメリカとイギリスでした。しかし終戦後、蒋介石が断固反対して下さったお陰で、日本は分割をまぬがれたのです」。

 概要「日ソ中立条約を破りソ連が参戦した。終戦3ヶ月前、日ソ中立条約を結んでいるソ連を通じて米国に平和停戦、平和交渉を依頼している最中に米国は広島、長崎に原爆を落とした。それから数日後、ソ連は日ソ中立条約を破って、突如満州へ侵略し暴行した。ソ連がヒトラーに追いつめられて危ない時、ヒトラーは、日本へソ連を背後から衝くように頼んだ。しかし日本は日ソ中立条約を守って攻めなかった。にもかかわらず、その上ソ連はポツダム宣言に違反して日本人50数万人を俘虜として抑留した。抑留者に徹底した思想教育をほどこし、最後には「天皇島敵前上陸」まで「敢行」させた。

 長い人は10年にわたって奴隷労働を強制され栄養失調その他による死亡者は7万人にも及ぶ。終戦時、蒋介石は在支那邦人軍人200万人もの日本人を無償で帰してくれたが、ソ連が侵略した満州が大混乱となり、残留孤児がたくさんできた。満州時代、日本人が満人をいじめていたらソ連侵攻後の多数の残留孤児をあれほど大切に育ててくれる訳がない」。

 概要「無道徳国家ソ連ロシアは今なお北方領土侵略し続ける。8.15日、終戦。その数日後、北方領土を侵略し、今なお侵略し続けている。日ソ中立条約を踏みにじり、終戦のどさくさに乗じて北方領土を奪い未だに返還しないロシア、この恐るべき無道徳国家は、ソ連ロシアです」。


非侵略思想よりする聖戦論】

【「正当防衛論」】
 次のような「正当防衛論」もある。
 
有名なのは、「マッカーサー元帥証言」である。最高司令官マッカーサー元帥は、終戦後、「日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に立ち上がったのは正当防衛であった」と証言した。 マッカーサー元帥は、昭和25年10月にウェーク島においてトルーマン大統領と会見して「東京裁判は誤りだった」と告白している。翌26年、米国上院で「日本が行った戦争は自国の正当防衛のためであり、即ち侵略戦争ではなかった」と証言している。

 「東京裁判関係者証言」も注目に値する。東京裁判ウェッブ裁判長は、帰国後、「東京裁判は誤りであった」と反省した。日本糾弾の急先鋒であった東京裁判首席検事キーナンは、裁判後数年にして「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった」と告白している。

 インドのパール判事は「日本は国際法に照らして無罪である」と主張し続けた。インドのパール判事は国際法上から全被告の無罪を主張し続け、オランダのレーリンク判事、フランスのベルナール判事は、裁判の進行中から、東京裁判にはいくつもの法的手続き上の、又、南京大虐殺のごとき事実認定上の誤りが犯されていることをみてとり、裁判終結後にはそれを公然と口にするようになった。

 パール博士は日本の戦後教育を大心配した。「大東亜戦争における日本は無罪である。(田中正明著『パール博士の日本無罪論』慧文社)欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人である」と主張した。日本の教育書は子弟に「日本は侵略の暴挙をした」「犯罪を犯した」と教えている。日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されてゆくのを、私(パール)は平然と見過ごす訳には行かない」云々。

 英国枢密院顧問官国際法権威ハンキー卿。『戦犯裁判の錯誤』を著わし、裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、「私は全然疑わない」と言明し、東京裁判の不公正を衝く。

 英法曹界重鎮FJPビール氏。『野蛮への接近』を著し、「東京裁判は戦勝者が敗戦者に加えた野蛮な行為にほかならない。」云々。

 英国国際法で有名な W・フリードマン教授。国会議員であり、王室弁護士R・T・パジョット博士等、皆パール博士を支持した。ロンドン世界事情研究所監修『世界情勢年鑑』(1950)は東京裁判を解説し、パール判定が正論であることを裏付けた。

 アメリカのチャールス・ベアート博士歴史学政治学の泰斗。『ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究』を著しその中で、日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令したと発表し、パール博士の指摘した点を裏ずけた。
 オランダ、フランスにおいても激論が戦わされ、ついに1961年オランダの法律雑誌は東京裁判に関するパール博士の論文を連載した。ヨーロッパ諸国においてはこのパール判決がビッグニュースとして紙面のトップを飾り大々的にその内容が発表され、センセーションを巻き起こした。


【「昭和天皇礼賛論」】
 次のような昭和天皇賛美が為されている。
 天皇陛下は「私の身はどうなっても国民を救って」と嘆願なされた戦後間もなく、昭和天皇はアメリカ大使館にマッカーサーを訪問されて「一切の責任は私にある。私の身はどうなってもかまわないから、国民を救って下さい」と宣べた。マッカーサーは命乞いに来られるかと思っていたところその尊厳と慈悲に大変驚いた。国民は国民で「自分はどうなってもよい、万一天皇陛下を死刑にするようなことになれば、最後まで戦い抜く」と覚悟して天皇と国民が一致団結していた。

 この日本の国体が、もし分割したり、天皇を死刑にしたりすると、占領後、米も大きく傷つくので、分割も天皇死刑もしなかった。さらにマッカーサーは「一兵も殺さず、一発の銃声もなく降伏を終わらせた例が、世界のどこの戦争史にあるか」と語っている。

【「異筋の大東亜戦争論その1」】

 「異筋の大東亜戦争論その1」を紹介する。2001.9.18日付け産経新聞・元駐タイ大使・岡崎久彦「運命の10年・昭和前期史上」は次のように述べている。

 「昭和前期史を一言で言えば、19世紀の苛烈な帝国主義競争を生き抜いてきた日本が、その規範の中での既得権の維持を求めたのに対して、中国のナショナリズムが国権の回復を求めて日本の影響力を排除しようとし、日本としては、それに対処する正攻法は時の実力者である英米社会と協同して既存の国際秩序を守ることであったのであるが、それに成功せず、孤立外交に走り、遂に中国側の戦略に屈した歴史である」。

(私論.私見)

 岡崎久彦は名うてのシオニスト外務官僚であるが、「それに対処する正攻法は時の実力者である英米社会と協同して既存の国際秩序を守ることであったのであるが」と述べているところが注目される。

 2005.12.23日 れんだいこ拝


【「異筋の大東亜戦争論その2」】
 「異筋の大東亜戦争論その2」を紹介する。1964(昭和39)年、社会党の佐々木更三委員長が、毛沢東主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶した時の毛沢東主席の言葉はつぎのようなものであった。(東大近代中国史研究会「毛沢東思想万歳」)
 「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利権をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか、皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」。

 1949.10.1日、中共政権による中華人民共和国宣言の際の周恩来首相の言葉は次のようなものである。(動向5月号1539号「唐沢」を嗤って過ごせるか 参照 戦史研究家 山内一正)

 「あのとき(支那事変勃発時)我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍(蒋介石軍)の両方に(夜暗にまぎれて)鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光をもたらした起因である」。


日米開戦を巡って
 「平和憲法」などという架空のお経。米軍によって守られてながら愚者の楽園の謳歌。しているうちに、国がメルト・ダウンを起こしつつある。これ総て元をたどれば、東京裁判史観に行き着く。日本が全て悪かったと言う断罪は、結局日本人の価値観そのものを根本的に否定することに他なりません。

 東京裁判での「パール判決書」。パール判事ただ一人が11人の判事の中で国際法の専門家でした(彼はその後国連の国際法委員会の委員長も務めています)が、しかも中立の立場で純法理的に被告全員無罪の判決を出した。
 
 
For the reasons given in the foregoing pages, I would hold that each and everyone of the accused must be found not guilty of each and every one of the charges in the indictment and should be acquitted of all those charges.

 全員どの項目についてもことごとく無罪、とこのように判決しました。そして、判決文の最後を次の言葉で結びました。

 “When time shall have softened passion and prejudice, when Reason shall have stripped the mask from misrepresentation, then justice, holding evenly her scales, will require much of past censure and praise to change places.”

 残念ながら、依然として「偏見」(prejudice) が支配して、日本侵略者論、加害者論、悪者論の歴史観が日本人を呪縛しています。さらにはそれを徹底的に利用して日本人を精神的に痛めつけ、優位な立場にたった上で、莫大な補償金を様々な形で要求し続ける、反人権、民族抑圧国家である中共等隣国の犯罪行為を許してしまっているのが現実ではありませんか?

 「中国に進出し、その大地に理想郷を築くのだ」などと、どこの誰が言ったことなのか、教えていただきたい。冗談ではありません。廬溝橋事件で、中共にけしかけられて戦争状態に巻き込まれ、その執拗な和平妨害に引きずり込まれ、通州の日本人(含む朝鮮人)市民200名を越える大虐殺があったにもかかわらず、画期的な和平案を以て8月9日、上海での和平交渉に臨もうとしていたその日に、今度は直轄精鋭軍の力を頼んだ蒋介石の野心から、大山中尉惨殺という挑発行為が行われ、ついに本格戦争へと進んでいった、と言うのが実際であり、あなたが言われるような、日本が支那を侵略しようとして起こした戦争などでは全くありません。

(なお、上海で、蒋介石がギャンブルに打って出たことを、「ケンブリッジ中華民国史」(これは中国語版も現在中国で出版されている)の中で、イーストマンは次のように書いている。

「蒋介石が、その高級幕僚、官僚を全て集め「全面抗戦」を決定したのは、8月7日のことである。ここで蒋介石は、彼の生涯における、最大にして後に最も議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た。それは華北で起こった中日の戦いの主戦場を、華北から華中、つまり上海に移すことを決心したのである。(9日に大山大尉惨殺を行ったのはこの決心の実行に他ならないー筆者注〕

 南京にいた国民党戦略家から見ると、上海は中国軍にとって後方からの補給が容易であり、攻撃を受けた日本軍は華北の他に上海にも兵力を割かなければならない。そしてもし中国軍が上海を堅守できれば、1932年の時のように、中国民衆の世論は政府に有利に働くであろう。その上、上海での作戦は外国人居留区と目と鼻のところで行われるので、このことは西側勢力の関心と同情を呼ぶことができるし、ことによればその介入もあり得るかもしれない。現在でも1部国民党寄りの学者たちは、この時蒋介石が行った大きなギャンブルは “空間を以て時間に変えた”大きな勝利であったと思っているが、実際にその作り出した結果は、最初に蒋介石が予想した最悪の状況よりも、遙かに悲惨な結果であった。」)

 なるほど、当時チャンコロと支那人を馬鹿にしていました。革命外交と称して暴力による条約破りを繰り返し、日本人居留民に対する暴行、殺害を繰り返し、そして戦争状態になっていった当時、こういうことがあったのはある意味で当然ではないでしょうか?アメリカでは、日本人をジャップと呼んで軽蔑し、敵愾心を高めていたことを見れば、そう理解して良いのではありませんか?中国人の独立を援助する気があったのか?と言いますが、例えば南京攻略戦の司令官松井大将は孫文らの中国革命を支援し続けた大亜細亜主義者で、日支協力の道を最後まで追求した人でした。中国をもっとも愛した人が、南京戦の指令官を勤めたというところに、日支事変の本質がある意味で反映されていると思いますが如何でしょうか?是非知っていただきたいことは、日支事変において日本は領土要求など一切行っていないと言うことです。失礼かもしれませんが、川村さんはとんでもない思い違いをしているのではありませんか?支那における日本軍の占領地域はどんどん拡大しました。それをあなたは、日本の領土拡大であるかのような思い違いをしているのではありませんか?飛んでもありません。それらの地域は全て、1940年成立の汪兆明政権の領土となったのであり、あくまでも中国領です。傀儡政権ではないかと馬鹿にしますが、中国で治外法権が歴史上初めて撤廃されたのは汪兆明政権の下でしたし(昭和18年)、余り宣伝に惑わされていると本当のことが見えなくなります。負けてしまったので汪政権のことは徹底的に抹殺されていますが、今にその姿も次第に浮かび上がってくることでしょう。鈴木明さんにお聞きしますと、汪政権時代の人間のことを書いた本が最近中国で大分出回ってきているとのことです。

 昭和19年11月に行われた大東亜会議こそは亜細亜初のサミットであり、日本の大東亜共栄圏の主張が単なる宣伝、とってつけた理屈でも何でもないことを示しています。サミット参加5カ国とオブザーバー1カ国の代表の言葉をいくつか見てください。

 タイ/バー・モウ首相「多年(中略)私の亜細亜人としての血は常に他の亜細亜人に呼びかけてきたのでしあります。昼となく、夜となく、私は自分の夢の中で亜細亜がその子供に呼びかける声を聞くのを常としましたが、今日この席において私は初めて夢にあらざる亜細亜の呼び声を現実に聞いた次第であります。」
                        

 中華民国/行政院院長 汪兆明 「我々は努力し、以て自己の国家を自主独立の国家たらしめ、又自国を東亜の強力なる分子となす事を要す。」                     

 自由インド仮政府/首班 チャンドラ・ボース 「本会議は戦勝者間の戦利品分割の会議ではないのであります。それは弱小国を犠牲に供せんという陰謀、謀略の会議でもなく、又弱小なる隣国を瞞着せんとする会議でもないのでありまして、この会議こそは解放せられたる諸国民の会議であります。」                        

 大東亜戦争が亜細亜の開放をもたらしたことを、まるで気休めであるかのようにおっしゃるのは、ハッキリ言わせていただけば宣伝に惑わされた戯言です。歴史を直視しない、と言うかそこから目を背けさせられた無知のもたらすものと言っても過言ではないと思います。年寄りが、過去を美化するために言っているだとか、あまりにも俗耳に入りやすい言い方でこのことを片づけられる態度には、残念ながら誠実さを感じられません。もう少し、この問題、常識論ですまさないで、もっと立ち入って勉強していただけないでしょうか?

 大嘘の前提の上に築かれた現在の体制は、必ず大問題を引き起こし、崩壊の危機を迎えます。嘘に対してはその認識間違いを、どんどん指摘し、事実を示し、議論をしていくことこそが正しい態度ではないでしょうか?

 よく考えてみると、日米戦争において、アメリカは途方もない思い違いをしていたのでした。民主主義とファッシズムとの戦争などというのは大嘘であることは、さすがにご認識いただいていると思います。日支事変が始まるころの国民党政府は、ナチスドイツと極めて緊密な関係にあり、軍事顧問団を受け入れ、(その効果で日本軍は大苦戦を強いられました)、国民党の組織もナチスの影響を受けたものでした。ロスアンゼルス・オリンピックには、たった2名の選手、役員しか派遣しなかった中国が、日支事変前年(昭和11年)に行われたベルリン・オリンピックにはなんと日本の249名を上回る、280名の選手・役員を派遣していることを見てもその関係の深さが知れようと言うものです。もちろん、自由選挙などは行われておらず、国民党1党独裁政権でした。従って、この国民党政権を支持したアメリカは、決して反ファッシズムの大義からそれを行ったのではなく、中国大陸への進出をねらっていたからに他なりませんでした。第一、日本はいろいろな制約はあったにしろ議会政治が継続され、昭和になって以来昭和16年の東条内閣成立までに、15の内閣が交代しており、独裁国家とはおよそ趣をことにした状態でありました。となると、蒋介石政権への援助、そして日本との戦争目的は、反ファッシズムではなく中国大陸をアメリカの勢力圏に入れることにあったことになります。そして、100万のアメリカ人の血を流して日本と戦って得たものは何であったか?その本当の戦争目的はどうなったのか?ご存じのように、共産党にごっそりさらわれてしまったではありませんか?言ってみれば付属的なものは別にして、本来のねらいは全然達成できなかったわけです。ルーズベルトの共産党への甘い認識と、日本に対する偏見が、その目を曇らせ、アメリカ人に甚大な損害を与えながらその本来の戦争目的を全く実現できないばかりか、戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争を初めとして、共産党勢力との数々の戦争を戦わなければならない羽目に陥ってしまったのです。どうも未だそのことに十分自覚が進んでいないようで、アメリカの不認識に対して我々は、問題提起をして行くべきではないでしょうか?大東亜戦争に対する認識もこのアメリカの根本的な亜細亜観、日本観、中国観と関わってくるのです。

 マッカーサーは日本に乗り込んできたときには、封建的で好戦的な軍国主義勢力が戦争を引き起こしたと本気で考えていたことは疑いありません。その蒙昧な国民を民主化してやろう、と言う無邪気な好意とアメリカに刃向かえないように骨抜きにしようと言う、戦勝者の戦勝永続化の意図とが混ざり合って、東京裁判といわゆる民主化措置(その中心が憲法)というものが実行されたと見て良いでしょう。そのマッカーサーが、日本を知り、そして北朝鮮軍の侵入を経験して、そうした考え方を大反省するに到ったのは間違いないようです。1つは、ウェーキ島でトルーマン大統領と会談した際に「東京裁判は誤りであった」と告白したこと。2つ目は、上院軍事外交合同委員会での証言で、「太平洋において米国が過去100年間において犯した最大の政治的過ちは、共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」と述べたこと、3つ目は、同じく上院の合同委員会で「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。」と証言したこと。(この証言の英文をご参考までに添付します。)などからして十分に立証できます。未だにこのレベルにも達しない戦後改革賛美者、憲法崇拝者、東京裁判史観信奉者が日本にも数多くいるのは、悲しくも滑稽なことと思っております。


【「マッカーサー証言」】
a)合同委員会の開催日 昭和26年(1951年)5月3日ー5日

 それまでの流れ。昭和25年6月朝鮮戦争勃発、昭和26年4月マッカーサー解任、昭和26年9月講和条約調印、 昭和27年4月講和条約発効

b)合同調査委員会証言の目的  

 朝鮮戦争の収拾方法でマッカーサーは全面戦争を辞さない積極戦略を主張したのに対し、トルーマン大統領が反対し、その結果マッカーサーが解任されて直ちに米国に召還された。所がマッカーサーは議会の演説で自分の戦略は統合参謀本部も同意済みであったと主張したので、事態は政治問題となった。それで真相究明のために、合同委員会を開催して、当事者達の証言を求めたのが目的であった。特に朝鮮戦争当時の米国の極東政策についての証言を求めるもので、その過程の中で、日本の再軍備や、ソ連の日本侵略の可能性などの発言が出た。

c)「東京裁判は誤りだった」との趣旨の発言

 これは合同委員会ではなくて、マッカーサーが解任の前に、昭和25年10月15日に、ウェーキ島でトルーマンと会談した際に発言したものとされている。この会談の内容は該合同委員会で始めて公表された。この内容については朝日新聞の昭和26年5月4日に次の記事がある。これ以外に日本に資料があるかあるかどうかは不明である。

   朝日新聞の記事

   昭和26年5月4日 戦犯裁判には警告の効なし  マ元帥確信  ワシントン2日発 UP ヘンスレー記者

 米上院軍事合同委員会が2日公表したウェーキ会談の中で注目を引く点は、マ元帥が次の諸点を信じているという事である。マ元帥はハリマン大統領特別顧問から北鮮の戦犯をどうするかとの質問を受けたのに対し、「戦犯には手を付けるな、手を付けてもうまくいかない」と答え、これを現地司令官に一任するよう述べた。またマ元帥は東京裁判とニュールンベルク゛裁判には警告的な効果はないだろうと述べた。マ元帥は特に日本の安全保障の問題について「日米双務協定により米軍師団が講和後も日本に駐留するものと信じる」と語った。

 この発言ならば、「東京裁判は効果がなかった」と見出しすべきだろう。

d)「自衛戦争」の証言

 合同委員会の第1日目、5月3日、「第2次世界大戦における日本に対しての戦略」についての証言の5番目の質問(質問者、上院議員ヒッケンルーパー氏)に対してのマ元帥の答弁がこれに該当する。ヒッケンルーパー上院議員による第5の質問「レッドチャイナを海と空から封鎖してしまえと言う貴官の提案は、米国が太平洋において日本に対する勝利を収めた際の戦略と同じ戦略なのではありませんか」

 マッカーサーの将軍の答弁「その通りです。太平洋で我々は彼らをバイパスしました。我々は包囲したのです。日本は約8千万の巨大な人口を抱え、それが4つの島にひしめいていることを理解して下さい。(中略)日本には蚕以外に国産の原料はないのです。彼らには綿がない、羊毛がない、石油プロダクトがない、錫がない、ゴムがない、その他非常に多くの原料に欠けています。これらすべてが、アジアの海域に存在していました。もしこれらの原料の供給を断ちきられたら、1千万から1千2百万の失業者が発生することを彼らは恐れていました。従って彼らが戦争に飛び込んだ動機は大部分が安全保障の必要に迫られたからです」

 疑問

 マッカーサーは同じ日の証言で「米海空軍の総力をあげて、中共に対する封鎖、爆撃を実施し、中共がソ連その他の地域から戦争資材の供給を得られないようにする。米国の政策に対して国連や北大西洋条約諸国の支持が得られぬ場合は、米国独力で、又は国府の援助を得てこれを実施する」ことを主張している。(前掲文献 p559、及び朝日新聞昭和26年5月6日)

 ヒッケンルーパー氏の質問は「中共に対する封鎖は、日本に対する封鎖と同じく勝利をもたらすものか」というもので、マ元帥の答弁は「中共を封鎖すれば、日本を封鎖したと同じく米国の勝利を導く」という趣旨であるが、その回答の中で「日本の開戦は米国の経済封鎖に対する自衛戦争であった」と言っている。マッカーサーは中共の封鎖と、日本の(封鎖に対する)自衛戦争を関連づけて、結論として何を言わんとしているのか。中共を封鎖すれば、日本が自衛戦争に立ち上がったように、中共も自衛戦争に立ち上がるだろう、それをチャンスとして、中共に全面攻撃すれば勝利すると答えたのであろう。即ち中共封鎖を日本封鎖と同じく米国勝利の基礎と発言している。マッカーサー証言は日本の自衛戦争と中共の自衛戦争を比較して、日本を降伏させたように、中共を封鎖し中共を自衛戦争に引き込み原爆攻撃を含む全面戦争により、中国を屈服させよと主張しているようである。マッカーサー証言の真意は日本との過去の戦争で勝利したのと同じ方式で、中共を撃滅すべしというマ元帥の持論(その為に解任された)を証言している。日本を引き合いに出した質問に対して日本封鎖は成功であったし、中共封鎖も同じく成功するだろうと述べている。マ元帥の真意については、前記「小堀資料」では不足であり、更に検討が必要である。昭和26年5月3日に始まった米国上院合同委員会の全議事録と同委員会で公表されたウェーキ会談の内容を入手する必要がある。又この議事録は当時の極東政策についての最も豊富な資料を提供するものであろう。今まで全容が日本で研究されていないのは不思議と言うより、東京裁判を批判する立場の反共産保守の歴史学者の怠慢と見て良い。

e)マッカーサー証言の影響

 マッカーサー証言は米国の対日世論と対日政策にいかなる影響を及ぼしたか。これを述べた資料はあるのか。この証言により、米国政府そのものが公式或いは非公式に東京裁判を否定しているのか。

 マ証言は中共攻撃方針のために大統領に罷免されて失意の老将軍が議会で更に中共攻撃の持論を繰り返したもので、アメリカの世論と政策に何の影響も与えていないと思われる。マ証言に対する現在のアメリカの評価、世論を知りたい。

 中国が原爆をミサイルを持たないこの時間に、米国がマ元帥の主張を入れて、中共と全面戦争に突入しておれば、中共は撃滅されて、現在の反日日本人の存在はなかったと推定すべきか、米国と中共の全面戦争は結局数百万の米軍を中国大陸の泥沼に投入することになり、多数の人的損害で米国も手を引かざるを得ないようになり、トルーマン大統領がマ元帥を解任したのが正解であったと推定すべきか、判断できないが、後者を正解とするのが常識的見解であろう。

f)この証言は誰が発見したか

 この証言については、小堀桂一郎の「東京裁判、日本の弁明」(講談社学術文庫、1995、p556−564)の記述以外に文献が見あたらない。それではこの文献を誰が見つけたかという事になるが、これも小堀桂一郎の「再検証、東京裁判」(PHP研究所、1996、P70)に記述がある。これによると東大の学生が簡単に発見したとあるが、上院での速記録全体を調査したかどうか不明。今後更に速記録全体を精査、検討する必要がある。


【石原慎太郎の「大東亜戦争観」】
 石原慎太郎著「国家なる幻影」の「政治がもたらしてくれた人間関係」より。

 記述が前後してしまうが、初当選した昭和四十三年の十月に東京の武道館に天皇、皇后両陛下を迎えて行われた明治百年の式典も、あの中で起きたある出来事ゆえに、たいそう強い印象で残っている。翌々年に日本の戦後のメルクマールとなる万博が行われはしたが、私はあの時のあの出来事が、自分自身が生きていた歴史の部分のある象徴として今でも鮮烈に思い起こされる。

 明治に国を開いて以来の近代化への努力の甲斐あって、百年かけて、ともかくも日本はここまで来たのだった。日清、日露の戦いを経て、やがてはその主体者として日本が 起こした第二次世界大戦の意味について確かで十分な判定が下るのはまだ先のことだろうが、あの時点での大方の日本人の心境は、なんだろうとこの百年なるものは少なくとも我々日本人にとってはなかなか充実したものだったな、という感慨だったと思う。


 
周知のことだが、あの大戦で日本共々敗北したドイツ幸福に当たって三つだけ条件をつけ、相手もそれを認めて降伏が成立した。 ドイツ人がつけた条件とは、一つは、降伏の翌日からもドイツ国軍は存続する。第二は 、降伏後もドイツ人子弟の教育に関しては一切他国の干渉を許さない。第三は、当然考 えられるべき新しい憲法の起章は、他国の干渉を許さずドイツ人自身が行う。 そのための条件として、ナチズムへの批判反省とその淘汰は徹底して行うということだったが、日本がそんな条件を主張したという史実はないし、しても相手は許しはしなかったろう。 それは日本が起こした戦争こそが実はヨーロッパの近代主義を終焉せしめたということを、彼等は歴史の予感としてすでに知っていたせいだ。

 
レーニンは、「近代ヨーロッパの繁栄は、彼等の植民地における豊富な資源の収奪と 奴隷に近い安価な労働力の使役の上にのみあり得た」といっているが至当な分析だ。 そしてその繁栄の構造を破壊させたのは、有色人種が作った唯一の近代軍事国家日本の存在に他ならない。日本が引き金を引いて始まった太平洋戦争は、その副次的所産としてアジアに限らず世界全体の植民地の独立を促したのだから。

 
なぜか日本人自身の多くが憚って口にしないその歴史の公理について指摘した余人の論も他にあるから長々繰り返さぬが、私自身議員になる以前に、今は亡き高碕達之助氏の紹介で会ったエジプトのナセル、インドネシアのスカルノ両大統領から期せずして同じ事を聞いた。戦さに敗れはしたが日本人が西欧の列強を相手にあれだけの戦争をしてのけたことに我々は刺激され発奮して、日本人に出来たことが我々にも出来ぬ筈はないと信じ、大戦が終わった後再び我々を植民地化しようとして戻ってきた相手に独立戦争を挑んで独立を勝ち取ったのだと。この現代にも同じことを、マレーシアのマハティール首相もいっている。

 そう聞いて、いたずらに高ぶることもないが、しかしなお自らの歴史の意味と価値について我々はもう少し冷静に、相対的に眺めなおし、持つべき自信はもったらいいのではないか。歴史に限らず人間の物事には必ず相対的な意味と価値があるのであって、まして戦争なるものについて、ただ善か悪かといった評価ですむものでありはしない。戦争中は一億総玉砕を唱え、その戦さに敗れれば今度は一億総懺悔といった、日本人の好きな単純というか粗暴な二元論では、複合的な物事の中からもっとも本質的な価値を見出すことなど出来はしない。

 毛沢東が「矛盾論」で明晰に説いた主要矛盾と従属矛盾との関わりの通り、日本の近代において我々が体験してきたいくつかの戦争には、欧米の先進列強による植民地支配という重要な要因があり、それへの反発、あるいは後には迎合という従属した事態派生していったのであって、それを容易に道徳的な善悪という価値観で裁断するなどというのは軽率かつ歴史への冒涜でしかない。ともあれ私たちの過去百年の歴史は、世界全体の歴史に我々が意識している以上の本質的な影響を与えたことは間違いない。

 一昨年(1994)の暮れ近く、私もアソシエイト・メンバーである丸の内の外国特派員協会の午餐会に珍しい客を迎える案内が来たので出席した。ゲストスピーカーはかつての太平洋戦争時のゼロ戦の撃墜王のエースの坂井三郎氏だった。冒頭、隻眼の氏が、 「私はご覧の通りあの戦争で片目を失いましたが後悔などしていません。ただあの戦争で実に多くの優れた仲間と部下を失ったことは痛恨であります。しかし彼等には年に必ず二度靖国神社で会って、その都度報告しています。貴様たちの死は決して無駄ではなかったぞ。あの戦争のお陰で、世界はあきらかに発展して良くなったのだからなと」。 その途端聞いていた白人の記者たちの間に得も言えぬ空気が醸しだされるのがわかった。

 ベテランの撃墜王はそれを察して、実ににこやかな笑顔を浮かべ直し、重ねて諭すように、 「だって皆さんそうじゃありませんか。あの戦争の後国連に新しく誕生した国が数多く参加しましたな。今までに確か七十数ヶ国あります。しかしその中に、白人の国を探せば、正確には違うかも知れないが、強いていえばイスラエルただ一国だけです。後は皆かつて植民地支配を受けた黄色、褐色、黒色の民族が独立を果たし、一人前の国として認めれる事になった。これ即ち人類の進歩に違いない。そしてその事態を抱くために あの戦争は大いに意味があったということは、誰も否定出来ますまいに」。

 席上寂として声がなかった。私は痛快のあまり一人拍手をしたら、目の前にいた白人の若造のどこかの記者が振り返り険しい目で睨みつけてきたので、私は坂井氏に真似てにっこり笑ってやったら、その男が暫くして途中で立ち上がり、私の前にいた日本人の客の手に何やら紙切れを渡してそれを私に手渡すように促しそそくさと部屋から出ていった。 受け取った客は怪訝そうにテーブル越しにそれを手渡してくれたが、開いて見たら中に、You are ultra rightist, lunatic!(お前は極右の気狂いだ)と書いてあった。

 あの勝負はどう見てもわが日本チームの勝ちだろ。などなどということを、私としては、あの明治百年の行事を今また思い出してみると、関連して思わぬ訳にいかない。 あの時私は都合で少し遅刻をしてしまい、国会議員の席としては後ろ側の野党議員たち、主に社会党の議員たちの席に座っていた。式典が進んでいって、最後に体育大学の学生たちによる立体的なマスゲームが行われ、その後、佐藤総理の音頭で日本国万歳が三唱され式は終わった。

 やがて司会のNHKのアナウンサーが、 「天皇、皇后両陛下がご退席になります。」と報せ、参加した全員がまた立ち上がって両陛下をお見送りした。そしてあのことが起こったのだった。それが起こった瞬間に、私だけではあるまい、出席していたほとんど全員がこの式典に実は何が一つだけ足りなかったかを知らされていたとおもう。

 壇上から下手に降りられた両陛下が私たちの前の舞台下の床を横切って前へ進まれ、丁度舞台の真ん中にかかられた時、二階の正面から高く澄んだ声が、「テンノー、ヘイカッ」 叫んでかかった。その瞬間陛下はぴたと足を止め、心もちかがめられていた背をすくっと伸ばされ、はきっり声に向き直って立ち直されたのだった。そしてその陛下に向かって声は見事な間をとって、「バンザアーイッ!」叫んだ。次の瞬間会場にいた者たちすべてが、実に自然に、晴れ晴れとその声に合わせて万歳を三唱していた。私の周りにいた社会党の議員たちも全く同じだった。

 そして誰よりも 最前列にいた佐藤総理がなんとも嬉しそうな、満足しきった顔で両手を掲げ万歳を絶叫していた。あれはつくづく見事な「天皇陛下万歳」だったとおもう。あの席にいながらなお、あれに唱和出来なかった日本人がいたかも知れぬなどとはとても思えない。あれは単なる天皇への言寿(ことほぎ)ではなしに、私たちを突然見舞った熱い回顧であり確認だった。それを唱えながら私たちは忘れかけていたものを突然思い出し、静かに、密かに熱狂していた。あの瞬間ただひたすら、

゛ああ、かつて私たちはこうだった。なんだろうと、こういう連帯があったのだった゛と誰しもがしみじみと感じなおしていた。 あれはなんといおう、国家なり民族というものの実存への、狂おしいほど激しい再確認だったとおもう。 それは少なくとも政治家と自称する人間にとってはもっとも始原的なものに違いない。

 マックス・ウェーバーがいうように政治家が政治家たり得る最大の要件が情熱とするのなら、その情熱を醸し出す始原的な土壌について、私はあの時あの場で突然感知させられたといえる。 あの瞬時の熱狂の後、或いはある者は反省して、あの「万歳」のもとで多くの者たちが死に、歴史は歪んだ軌跡をたどっていったなどと思い直したかもしれない。 しかしなんだろうと、私たちはあの瞬間この戦後の推移の中でますます希薄になり、それを思うことが禁忌にまでなりかねないある種の分裂ある種の混乱の中で、失いかけていたものの実感を、瞬時とはいえ取り戻していたのだった。 それは誰にとっても懐かしかった。そしてそれを懐かしく思うことを許すまでの、思うもかけぬある種のの成熟の中に我々は入りつつあったのだといえるのかもしれない。そしてあれを思い出して見る今、あの時感知し確認させられたものがさらにますます消滅していこうとしている予感に苛まれるのははたして私一人だけだろうか。

 あの時二階正面からかかった「天皇陛下っ」の声に見事というか本能的にというか、誰よりも早くそれを聞きつけて立ち止まり、すっくと立ち向かわれた昭和天皇はもはや言寿を受ける天皇個人ではなしに、正しく私たちの歴史の象徴たり得ていたとおもう。 天皇はあの瞬間ご自身も忘れかけていたことを思い出し取り戻しておられたのではないかとさえ思う。あの瞬間天皇はまさしく歴史の祭司としてあそこに立っておられたのだった。

 翻って現今の皇室の在る姿を眺めれば眺めるほど、そのユニークな国家がある喪失に向かっているのではないかないかとおもうのは早計だろうか。今日では世界唯一の祭祀君主である天皇とその御一族が、開かれた皇室などという世論の虚妄のままにメディアに晒されるほど天皇制の核にある最も本質なものは薄らぎ失われていくのだ。神秘ならざるものに永遠なるものがあるはずはない。
  
 後年私は思いがけぬ形であの時の見事な「天皇陛下万歳」の秘密について知らされた。佐藤総理が引退してしまってからのことだった。ある縁で知り合った青年運動の指導者の末次一郎氏と、この国が失いつつある大切なもの、なにもいきなり愛国心とか天皇制といったことではなしに、戦後培われた他力本願の習性の中で、次第に蔓延しつつあるさまざまなアパシーに抗して取り戻さなくてはならぬもの一般について話し合っていた時、私は自分の今の思いのよすがとして何年か前の明治百年の記念式典の折の、思いがけなくも唱和した天皇陛下万歳の印象について話した。

 誰が行ったのか未だに知れぬ、あの見事な「天皇陛下万歳」に凝縮象徴されていたものについてそろそろ本気で考え直さないと、折あたかも、我々青嵐会だけが盾ついて警告反対していた田中角栄総理の金権主義に世の中がまきこまれていくまま、我々は致命的な喪失を味わわされるのではないかと。

 それにしても見事な万歳をいったい誰が唱えたのだろうか。陛下も見事にそれに応えられたものだが、あの絶妙なタイミングといい、声の張りとその抑揚の素晴らしさはといったら、目の前の末次氏が「いやあっ」と頭を掻いて、 「あの声の主は僕だよ」と告白したのだ。

 「あの式典に若者たちの動員も含めていろいろ協力しろと佐藤さんにいわれてね、それに異存はないが、ならば一つ条件があります。式の段取りの中に天皇陛下への万歳がありませんが、どこかで必ず入れてください。そういったら佐藤さんが暫く考えて、いや、それを事前にプログラムに刷ると、必ずつまらない文句がつく。それが話題になるだけでも陛下にはご迷惑をかけることになるからなとね。さすが臣吉田茂の弟子だとおもった。そうしたら、それは君がやれ、ぜひやってくれ。誰かが番外でやったなら、文句のつけようもあるまい。万が一問題になったら、その時は必ず俺が責任を取るからどうか頼む、ということになっちまったんだよ。」

 他のすべての手配がすんだ後、残された日々に、プログラムを眺めながら、いつにしようかと考えに考えたかわからない。ならばその日その場の雰囲気を眺めて、現場で決心しておこなおうと決めたそうな。「だから当日はもう他のことは全く頭に入らず、万歳のタイミングだけを考えて式を眺めていたな。 しかし式典はどんどん進められて行く。これでもしし損なったら、佐藤さんへの面子だけじゃなし、何かもっと大きなものへの言い訳が立たないとおもったね。失敗したらこれは切腹だなと思いだしたら、汗が流れてきた。」

 そしてあの絶妙なタイミングとなった。 「ぼくの一声に陛下がぴたっと足を止め、二階のこちらに向き直ってくださった瞬間には、感動というよりああこれで死んでもいいなと思った。」いうと末次氏は静かに破顔してみせた。

 「あれはたぶん日本で最後の本物の天皇陛下万歳でしたよね。今になればなるほどそん な気がしますよ。」私はいったが氏は黙ったまま何も答えはしなかった。



【村山首相式謝罪論の非を衝く】
 「村山首相式謝罪論」の非が衝かれている。次のように述べられている。

 インドネシア、サンパス将軍(東欧大使歴任)は、次のように日本の村山首相の謝罪をなげいた。(『祖国と青年』平成6年2月号、アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論 中島慎三郎より要約抜粋)
 平成3年、村山首相がASEAN諸国を謝罪して回った時、インドネシアの元復員軍人省長官で東欧大使を歴任したサンバス将軍は「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った村山演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。村山さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」。

 マレーシアのガザリー・シャフェ外相は、1988(唱和63).9月、先の大戦で詫びる日本の政治家達を次のように批判した。(名越二荒之助著『世界から見た大東亜戦争』展転社刊より)

 とくに私(ガザリー・シャフェ外相)が惜しいと思うのは、日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。

 「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちを受けたか忘れたのか?日本軍が進撃した時にはあんなに歓呼して迎えながら、負けたら自分のことは棚に上げて責任をすべて日本にかぶせてしまう。そのアジア人のことなかれ主義が、欧米の植民地から脱却できなかった原因ではないか」。


 アムステルダム市長(現内務大臣)サンティン氏は、平成3年日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時、歓迎挨拶で次のように話した。(外国から諭された大東亜戦争の意義  溝口平二郎より)

 概要「あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪しているがこれは間違いである。あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し救い出す人類最高の良いことをしたのだ。あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目かくしされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて悪いことをしたと自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。

 本当は私ども白人が悪いのです。百年も二百年も前から、東亜を征服し自分の領土としてきた。血を流して戦ってきたあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむ事を止め、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります」。


 インドネシア大統領特使アラムシャ陸軍中将は、1993(平成5).7月、大統領特使として来日した時、福田元首相や塩川自治大臣(当時)などと会見した。次のような遣り取りが為された。(『祖国と青年』平成6年2月号、アラムシャ陸軍中将の大東亜戦争肯定論 中島慎三郎より)
日本側  「大東亜戦争が長引いたばかりに労務問題などで、ご迷惑おかけしました」。 
アラムシャ  「とんでもない。むしろ大東亜戦争を途中でやめたことが残念であったと思ってる。あと5年はやるべきであった。これは私だけの意見ではない。アフリカに行けば、みんなから聞く意見だ。中東に行けばみんなから聞く意見だ」。
日本側  「どういうことですか?」。
アラムシャ  「なぜアフリカがあんな状態なのか。我々と同じく40数年前に独立すべきであったがそうできなかったからだ。あそこはオランダ人とイギリス人とユダヤ人が握っているから、どうしようもない。

 もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」。

【「大東亜戦争批判の批判論」】

 次のような見解も為されている。(参照『祖国と青年』平成5年12月号日韓両国民へのメッセージ  名越二荒之助より)

 公共テレビまで反日ねつ造して隣国を煽る異常さ。昭和57年、マスコミの誤報から起こった教科書問題が国際的大問題にまで発展した。公共のTV局までが反日のねつ造工作をして画面に写した。文部省では真実を知っていながら「誤報は誤報であり、真実はこうです」と言わねばならぬ日本のペコペコ政府が「政府の責任において是正する」と官房長官が言ってしまった。

 そして教科書は「近隣アジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱い」について検定意見をつけないことになってしまった。あの騒動が契機となって事実無根の「南京大屠殺記念館」が建設され、韓国内では反日感情が燃え上がり「民族独立記念館(反日記念館)ができた。これらを見学する中国、韓国の青少年は日本人に対して恨み骨髄に徹するでしょう。





(私論.私見)