42813 | れんだいこ史観 |
(最新見直し2005.10.3)
「やむにやまれぬときの戦いは正義であり、武力行使によるほか望みを断たれるときは、武力行使もまた神聖である」(ティトゥス・リウリウス) |
「君主はあらゆる手段を尽くして戦いに勝ち、国を守らねばならない。このための手段は全て善である」(マキャベリ) |
「列強時代の国際政治の力学や国家意識、価値観は、戦後の米ソ対立時代とは自ずと異なる。戦争も時代や国によって、あるときは『義戦』と呼ばれ、ある国では『聖戦』と呼ばれたりする。これが歴史(時代)におけるものの見方の限界ではないだろうか。戦後の歴史学者が、自国の歴史についてまるで裁判官のように批判したり、善悪の判断を下したりするのは間違っている。そのような意見はあくまで後知恵に過ぎない。同時代の価値観の限界や、時代の精神は全く考えに入れていないのである」(黄文雄「捏造された日本史」62P)。 |
【はじめに】 |
1945.8.15日の敗戦の日より半世紀を越えた。我々はそろそろ自前の観点から「かっての大戦」の総括に向かっても良いのではなかろうか。急速に台頭しつつある右派系論調は、こうした気分を反映しているように思われる。れんだいこは、その感性や良しとして、では具体的にどう総括しようとしているのかその内容に大いに関心がある。まだまだ私が知らないことも多々あり、正直に云って勉強になっている。互いの観点披瀝は自由であるべきだから、この傾向自体にとやかくは云わない。 れんだいこが歯がゆく思うのは、左派系論調の低迷と事態打開の拙劣さに対してである。垣間見えるのは、右派系論調の台頭に対する危機感だけであり、時代が要求しつつある新観点からのアプローチは見えてこない。連中にとって、「かっての大戦」総括は天動説的に公式化されており、この立場でリベラルソフトに闘うのか過激に闘うのかの違いしか新旧左翼を区分するものがないように見受けられる。れんだいこは、そうではないだろうと思う。分かりやすく云えば、右派系論調をギャフンと云わせる史観を確立して大いに論戦を挑むべきではなかろうか。 本来なら、こうした折にリベラルソフトを押しのけて出てくるのがかっての左翼の星・共産党中央であった。れんだいこは残念ながら、既にこの党にそれを期待する気持ちは微塵も無い。その論拠は面倒くさいので割愛するが、あたかも「かっての大戦」の史的過程を検証することが自前の党の歴史の検証をも誘発し、あたかも「かっての大戦」の天皇制秩序と官僚制度を検証することが自前の代々木官僚の検証をも誘発することを恐れているかの如くで、この党は決してその方向に向かわないであろうし、向かわせないよう悪知恵を働かすだけの宮顕―不破系党中央でしかない、と見なしているということを言い添えておく。 ならば、他のどこがそういう作業をやってくれるのだろう。こう考えると決まって火の粉がれんだいこ自身に降りかかってくる。因果な性分を持つれんだいこはこうして課題を引き受けていくことになる。ただ、今から云えることがある。出来の良し悪しは別にして、何か貴重なメッセージが出来そうだ。恐らく左程指摘されていない観点からの指針が打ち出せそうだ。そんな予感もするから行ってみようっと。 2003.4.12日再読み直し れんだいこ拝 |
【史観の必要性について】 |
「かっての大戦」の総括は、史観無しには出来ない。まずこのことを確認しておきたい。少し横道にそれるが、史観とは何ぞや、まずここから論じていきたい。史観とは、「木を見て森を見ず」の例えで考えると分かりやすい。「森」の調査の為に「森」の中に分け入り、その構成体である「木々」の調査を開始する。ところが、「森」が深ければ深いほど「木々」が膨大になり、その調査もままならない。ますます分け入るに連れて、「木々」の調査自体が目的になったり、「森」の入口も出口も抜け道も分からなくなり足元をすくわれる。いつしか「森」の構造と「木々」の関連なぞどうでも良くただ単に考証にのみ向かうことにもなったりする。 こうした時、「森」全体の見取り図を持って分け入ることは、「木々」の調査を能く進めるためにも必要だ。時には「木々」に目印を付けておき、互いの小関連を確保しておくことも有益だ。「森」の中から天空が仰げる場合、北斗七星を基準にした星座観測の素養を学んでおけば位置関係がよく分かり、迷うことも防げる。もうくどいので止すが、この種の役割を果たすのが史観である。そう理解すれば、史観の重要性がよく分かるというものだ。 ところが、気をつけなければならないことがある。この史観を持っていさえすれば、「森」の中に分け入ることも「木々」の調査も要らないかの如くの錯覚理論を振り回す手合いにぶつかることがあるということだ。この人士たちにとっては、史観こそが「重宝な真理」であり、この「真理包丁」をもってすれば何でも切れるという万能刀になっているかのようだ。凡そ公式化されており、時局の移ろいもなんのその屁の河童で後生大事にしようとする。 申し訳ないが、れんだいこはその種の史観を持たない。切れすぎてあぶないからというのではない。既に切れなさ過ぎて使い物にならないという意味と、そもそもその史観の生命は「森」の中に分け入ってこそ役に立つものであり、その際に分析と総合との確かな切れ刀であるべき筈であり、それを如意棒の如くに空中で振り回すなぞはそもそも馬鹿げていると思うからである。 そういう意味で、一見、史観は要るし要らないという二面性を守っているに思われる。しかし結論ははっきりしている。切れる鉈包丁を持って「森」の中に入ることは必要であり、切れなくなったら砥ぎ石で繰り返し砥いで切れるようにすれば良い。この認識は大事だろうと思う。で、れんだいこは、自らの史観を持っている。名付けて「れんだいこ史観」という。どういうものであるのかこれから披露する。 2005.10.3日再読み直し れんだいこ拝 |
【無知愚民教育について】 | ||
「阿修羅戦争73」の熊野孤道氏の2005.9.3日付け投稿文「日本人は侵略の犯罪に無知 無条件降伏60年で仏紙(共同通信)」を転載しておく。
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【「第二次世界大戦」とは】 |
「第二次世界大戦」は、民主主義派連合国とファシズム派日・独・伊軍の世界最終戦争であったという把握の仕方が永らく支配的であった。何故か? それは、この観点こそが戦勝国側のイデオロギーであったからである。もちろん、この観点がいい加減なものであったという訳ではない。「民主主義対ファシズム(全体主義)」という構図も確かに根拠はあるからである。だかしかし、この規定が万能ではない。むしろ、「第二次世界大戦」の戦争的意味の本質的規定ではないのではなかろうか、という観点へそろそろ向かうべきではなかろうか。 では、どう認識すべきか。れんだいこ観点は次の認識を重視する。「第二次世界大戦」は、近世以来の世界覇権闘争が行き着いた最終戦争であり、植民地の再分割を企図した日・独・伊側とこれを拒否した英・仏・米を主とする連合国側とのまことに熾烈な争闘であった。もう一つの強国はソ連であったが、この間終始日和見し、最終的に連合国側に加担した。その結果、史実は連合国側が勝利したが、「第二次世界大戦」後には「第一次世界大戦」後のそれとは明らかに違う新事態が発生した。ここが、「第二次世界大戦」総括を文明世界史的に捉える場合の最重要なことだ。 新事態とは、それまでの英国の世界覇権に代わってアメリカがこの舵を握ったという文明史的認識が肝要だ。アメリカ覇権のそれまでの覇権者との違いは、かってのポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスらのどんぐりの背比べ的一過性覇権とは様相を全く変えて、アメリカが段違いの強さで覇権国として台頭君臨することになったということである。「第二次世界大戦」後の世界は、まさにアメリカが「世界の憲兵」となった。 もう一つ新事態が生まれた。これまで述べた諸列強は全て資本主義国であったが、共産主義国家ソ連が史上初めてbQ的強国にのし上がったという事態が生起したのであった。こうして、「第二次世界大戦」後の世界は、アメリカとソ連という二大強国が世界の覇権をめぐって対峙することになった。これを「冷戦時代」と云う。以降半世紀、世界はこの二つの覇権国のどちらかの陣営に整序されていく時代となった。 もう一つ新事態が見えてくる。近代から現代に至る欧米諸国ではキリスト教的愛国主義派とネオ・ユダヤ主義的国際主義派が連合して国家形成する時代を迎えていた。ところが、第一次、第二次世界大戦を通して次第にネオ・ユダヤ主義的国際主義派がゆり深く国政に関与するようになったのではなかろうか。その後の冷戦時代から今日までこの傾向はますます強まっている。 してみれば、「第二次世界大戦」を総括する際の基軸は、以上の三観点から検証されねばなるまい。それを思えば、「民主主義対ファシズム史観」一つを経文ように繰り返すのは史実の隠蔽であり、ネオ・ユダヤ主義のプロパガンダに過ぎないことが分かる。 2005.10.3日再読み直し れんだいこ拝 |
【アメリカの強さの認識の重要性について】 |
以上のことまでなら誰でも認識し得ることであろう。ここかられんだいこはもう一つ観点を高める。では、なぜアメリカが世界最強の覇権国として登場し、今日もなお「世界の憲兵」足りえているのか。既にこの構図を優に50数年を経過させている。我々は、そろそろアメリカの強さの「正」の面の考察に向かうべきではないのか。 逆から云えば、「第二次世界大戦」の太平洋方面での闘いであった「太平洋戦争」(我が国からすれば「大東亜戦争」)で、日本はなぜ負けたのかの考察にそろそろ向かうべきではないのかということになる。この観点から「大東亜戦争」が考察されることは極めて稀である。小室直樹氏は珍しくもこの課題に向かった人士の一人であるが、「どうすれば勝てたのか」という教訓からの照射であり、正面切っての問いかけではない恨みがある。 戦後左翼は、マルクス主義的観点から、アメリカを帝国主義規定の下に打倒対象ないしは抵抗対象としてのみ捉えてきた。その理論は、アメリカを帝国主義の発するところ為すところが全て善悪二元論的悪玉のチャンピオンとしてのみ捉え、先験的に批判攻撃してきた。産軍複合体のこの国家には、この観点から究明されねばならぬことがある訳だからそれはそれで良いとも思う。 だがしかし、文明論的には、僅か建国百年の国家がなぜ世界史の舞台に踊り出得て、史上最強の覇権国となり今日まで維持し得ているのか、の解明もまた同様に精査されねばならないのではなかろうか。この観点からの究明が全く欠如しているのが我が左翼の凡庸なところと云えるであろう。 同様の観点は、戦後bQとして登場したソ連がなぜ機能しなかったのか、僅か50年の寿命で最終的に解体されたのかの考察と同源である。よく聞かされるようなスターリニズム批判的観点だけで足りるのであろうか。もっと重要なメッセージが託されているのではなかろうか。その非の言質遊びには事欠かないにも関わらず、こうした勝れて実践的な問いかけを発しないのが我が左翼の特徴である。それは何を語っているのだろうか。本稿の考察の趣旨から外れるので言及しないが一考の価値があろう。 さて、「大東亜戦争」経過後50余年、我々は当事国日本の歴史的行為を如何に総括してきたのだろうか。れんだいこ観点から見れば、アメリカの分析もソ連の分析もおざなりなように、我が日本の「かっての戦争」に対して何らまともな分析を為し得ていないように思われる。なぜなら、過去の史実の分析は、今に生きる教訓を生み出し、それを活用しえてこそ初めて分析し得たと云いえるのではなかろうかと思うからである。 現下日本の国家破産状況に際して、何らの対応力を持たない我等が政府、官僚、国民の現況は、過去の史実を学ばなかった当然の報いであり、その結果でしかなかろう。あまりにも多くの知識紳士を擁しているにも関わらずこのザマを何と見れば良いのだろうか。 とはいえ、知識紳士が為してきた功の部分を語らないのは片手落ちすぎようから一応コメントしておく。彼らは、「民主主義対ファシズム」の闘いの結果「民主主義」側が勝利したことにより、戦前の皇国史観による聖戦イデオロギーに代えて今度は「民主主義」を鼓吹してきた。曲がりなりにも戦後五十余年これを擁護してきた。ここに功がある。 ところが、今はなつかし経済成長たけなわの頃、右派的潮流が世界bQ病に冒され、「大国としての国家責任・応分の負担当然論」にシフト替えし始め、この傾向は今日ますます強まりこそすれ下火にはならないが、この時左派的潮流は、相も変わらず「民主主義」をお題目の如く捉え、決してその中身の精査には向かわない、向かわせないまま為す術を持っていない。 既に述べたが、ここでも善悪二元論がはびこり、戦前の日本は省みられる必要も無いほどに暗黒時代であるとする公式論の呪縛に取り付き、常に「正義」のしたり顔であれこれ指摘するだけであたかも仕事を為し得たかのように事足りている。この間、「戦後民主主義」の制度と理念が加速的に空洞化しつつあるというのに、「正義」の陳述だけをかすがいにしてきているかのようでさえある。 2005.10.3日再読み直し れんだいこ拝 |
【我々は何を総括すべきか】 | ||||||||||||||||||||||||||||
以上を踏まえて、れんだいこが日本の近現代史の総括に向かいたい。その際のれんだいこ史観は、明治維新から今日までの流れの大枠を次のように設定してみたい。
驚くことに、この観点からの分析抜きに大東亜戦争の総括なぞ為し得ないにも関わらず、どのテーマもほぼ手付かずのまま今日まで至っている。これは我等が知識紳士の事大主義的なエセ知識性を物語っているが、それで飯が食えてきたという我等が社会の豊かさの反映かも知れない。あるいは、右から左から総出でそのようなコミットしか認めておらぬという今に厳しい社会を物語っているのかも知れぬ。 云いたい放題のれんだいこであるが、その云いの責任において以下「大東亜戦争の教訓」について分析を試みようと思う。但し、これをまともに論じようと思えばとても紙数がたりなくなるばかりか、私の能力をはるかに超したものが要求されるであろう。という訳で、今までの研究成果とその態度において欠けているところをクローズアップさせて集中的に論ずることにする。
その他関心はママあるが、これらは今に極めて実践的な研究課題であるにも関わらずなおざりにされているところである。 これを思えば、中国、朝鮮、台湾その他のアジア諸国への「遺憾の意」とか「お詫び」の表明なぞは表皮的な問題でしかないと思われる。如何に言葉を尽くそうとも、その後の日本の歩みでの実証の方こそ真に歴史的謝罪の態度であろうし、憲法の定める国際協調精神が目指すところのものなのではなかろうか。「謝罪」はしないよりはましであるし、賠償もしかりであろう。だがしかし、事の本質は、やはり過去の教訓をどう汲んで現代に生かしているのかということにあり、ここで応えることこそが本来の責任の取り方であるという座標軸を忘れてはいけないであろう。 ところで、かく課題を明確にし得たので、以下暫く保留にしておくことにする。なぜなら、課題を明確に為しえたということはもうはや半分の仕事を終えたに均しいからでもある。もう一つ、れんだいこのみならずみんなで論じ合いたいからでもある。 2001.8.22日 れんだいこ拝 |
【大東亜戦争と大東亜共栄圏構想の狭間考】 |
森氏は、「太平洋戦争(大東亜戦争)は侵略戦争だったのか、正義の戦争だったのか。この点について私の考えを述べてみたいと思います」と切り出し、概略以下のように述べている。 太平洋戦争(大東亜戦争)がもっている一つの側面としての歴史的で客観的な側面は、アジア諸民族を西欧資本主義と帝国主義の支配から解放するという、進歩的で前進的な側面であった。この戦争がはじまったとき、フィリピンは一六世紀中頃からはスペインに、一九世紀末からはアメリカの支配され、その植民地でした。インドネシアは一七世紀頃からオランダに支配され「オランダ領東インド」として植民地化されていました。インドシナ半島(ベトナム、ラオス、カンボジア)は一七世紀からはポルトガル、一八世紀からはフランスによって支配され、一八六三年には「フランス領インドシナ連邦」となった植民地でした。マレーシアとシンガポールは一六世紀にはポルトガル、一八世紀になるとイギリスの植民地になりました。インドとビルマは一八世紀にはイギリスの支配下、タイは一八五五年からイギリスの保護領となりました。このような政治的支配とその以前の経済的支配を含めると十億のアジア民族は四百年以上の西欧帝国主義の支配下に苦しみ、その間、いくたびか血を流して民族独立闘争を展開してきたのでありますが、それはみな失敗し、敗北しました。 但し、この戦争にはもう一つの側面がある。それはこの戦争を指導した日本の国家権力、その権力の主体が日本の軍国主義ファシズムであったために、必然的な結果として発生した否定的で反動的で侵略的な戦争としての側面でした。だから日本(の軍国主義ファシズム)は敗北し、日本は敗戦の苦しみと、アメリカの軍事占領という屈辱を受けたのであります。この戦争で敗北したのは日本軍国主義であり、軍国主義ファシズムでした。 このように正しいヘーゲル歴史観とその二つの側面を統一した認識論に立脚すれば、細川首相のごとくあちこちで誤ってばかりいたり、あるいは正義の戦争論という時代遅れにしがみついたり、さらには権力問題を抜きにした空想的平和主義と戦争責任論におちいることなく、すべては国家権力の本質が引き起こす二つの側面に本質があり、真に正しいものは人民の手による、人民のための、人民戦争、人民闘争、人民の権力以外にはない、という結論に達するのであります。これが私の、そして人民戦線思想にもとづく太平洋戦争(大東亜戦争)論であります。 続・私の太平洋戦争(大東亜戦争)論! この問題を解決する一環は何か。それは結局のところ権力問題であります。すべては権力が決定し、権力が支配します。戦争と平和の問題も帰するところその権力が如何なる性格の権力か、権力は何をめざして戦争を起こしたのか、ということです。従って権力問題を抜きにして如何に論争をしても本当の解決にはなりません。太平洋戦争(大東亜戦争)の是非をめぐる論争は、日本の平和運動のあり方、行く末を占う根本問題でもあり、われわれにとっても重要なテーマです。次が私の『続・太平洋戦争(大東亜戦争)論』です。 (一)アジア諸民族を西欧資本主義(帝国主義)の支配から解放した太平洋戦争(大東亜戦争)の客観的側面を認めるか否か、という問題について。 われわれ人民戦線は、私が太平洋戦争(大東亜戦争)論ではっきりと言明したとおり、この戦争は歴史的、客観的にみた場合、解放戦争であったとの立場に立っています。太平洋戦争(大東亜戦争)を含めた第二次世界大戦が「反ファシズム解放戦争」であったことは歴史的事実です。事実をみればすべてが明らかになります。 一九三五年代、ドイツのヒトラーが一九三三年(昭和八年)政権につくやヨーロッパでは「反ファシズム運動」が急激に高まってきました。この中心に立ったのが文化知識人であり、労働者階級と人民、すべての反ファシズム団体でした。フランスやスペインではこういう気運のなかで人民戦線政府(後に敗北)が実現しました。 一九三五年七月、コミンテルンは反ファシズムの闘士・デミトロフの名において「反ファシズム人民戦線アピール」を発表。 そして、一九三九年九月一日、ドイツ・ヒトラーはポーランドを攻撃、第二次世界大戦が開始されました。この大戦は独・伊・日のファシスト同盟国と米・英・仏の連合国による植民地再分割のための争奪戦としてはじまりましたが、後にソ連が参戦し、戦争は「反ファシズム解放戦争」に転化、発展していきました。このことに大きな役割を果たしたのは、アメリカのルーズベルト大統領でした。ルーズベルトは第二次世界大戦が始まるや反共の闘士・イギリスのチャーチル首相を説得し、ソ連のスターリン首相と提携、ここに反ファシズム連合が形成されました。ルーズベルトはそれだけでなくアメリカは反ファシズムの兵器廠となるであろうことを宣言、アメリカは宣言どおり兵器を製造し、連合国に送りました。ルーズベルトの態度は歴史の要請としては正しかったのです。 一九四一年十二月、日本は真珠湾を攻撃、米・英に宣戦布告、太平洋戦争(大東亜戦争)がここに開始されました。一九四三年(昭和十八年)九月、イタリアが全面降伏、一九四五年(昭和二十年)五月にはドイツが降伏、同年八月には日本が降伏、ここに太平洋戦争(大東亜戦争)を含む第二次世界大戦は終わりました。 第二次世界大戦が終るや、ソ連のスターリン、中国の毛沢東、日本の徳田球一らはこの戦争を総括し、第二次世界大戦は「反ファシズム解放戦争」であった、と高らかに宣言しました。 わが人民戦線はこの立場を全面的に支持します。歴史の事実は第二次世界大戦が「反ファシズム解放戦争」であったことを証明しています。日本では戦争の結果、天皇は人間宣言をし、財閥は解体され、多くの自由・民主主義者は獄中から解放され、非合法下にあった反権力団体も合法化され、発言の「自由」を確保しました。これらのことは大戦前の軍国主義ファシズム下では考えられないことでした。 アジアでは、三十六年間も日本の併合下にあった朝鮮は独立し、満州国もまた日本の支配下から母なる中国大陸に帰っていきました。そればかりか戦争が始まった一九四一年(昭和十六年)には、フィリピン、ベトナム、カンボジア、ラオス、ビルマ(ミャンマー)、シンガポール、マレーシア、インドネシア、パプア・ニューギニア、インド、パキスタン、セイロン(スリランカ)は、すべてアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、の植民地でした。これらのアジア諸国はみな日本が太平洋戦争(大東亜戦争)を通じて西欧帝国主義に一撃を加えた結果であり、アジアの独立にとってそのきっかけになったことは客観的事実です。 その典型的事実はインドネシアにあります。この国は熱帯の宝庫であり、オランダにとって魅力ある植民地でした。その証拠に四百年の間に何回も独立闘争が勃発しましたが、その都度、オランダは鎮圧してきました。スカルノ大統領もまた一九二七年、オランダの支配下でインドネシア国民軍を結成し、独立闘争に取り組んだが、逮捕、投獄され、日の目をみることはありませんでした。ところが一九四一年、太平洋戦争(大東亜戦争)がはじまり、日本軍がインドネシアを占領、オランダ軍を追放、日本軍の手によりスカルノは獄中から解放されました。出獄するやスカルノはただちに国民軍を再編成し、オランダとの戦争に備えました。一九四五年、日本が降伏すると同時にスカルノはインドネシア共和国を宣言、反オランダの独立戦争を闘ったのでした。独立戦争を闘うこと四年間、一九四九年十二月、オランダは敗北し、インドネシアの独立を承認、スカルノは念願かない初代大統領に就任しました。 形は違うが、その他のアジア諸国もみな同じようなものでした。インドのネール、インドシナ半島におけるベトナムのホー・チ・ミンの闘い等を見れば判るとおりです。この歴史的、客観的事実を認めるか否か、これを否定するならすべからく自己否定に通じます。 (二)太平洋戦争(大東亜戦争)における日本軍国主義ファシズムの侵略性をどうみるのか、という問題について。 これもまたはっきりしています。日本軍国主義ファシズムは主観的には侵略的意図をもって太平洋戦争(大東亜戦争)をはじめたのです。当時アジア諸国を支配していた西欧の帝国主義に日本がとってかわろうとしたのです。軍国主義ファシズムの本性は侵略性にあります。歴史的事実がすべてを立証しています。 一九一〇年八月には日韓の併合があり、朝鮮半島は日本の支配下に組みこまれてしまいました。一九三二年三月には中国大陸に「満州国」を樹立し、東北地区(遼寧省、吉林省、黒竜江省)を占領、関東軍という日本の精鋭部隊を駐留させ、中国侵略の橋頭保としました。 一九三七年七月には慮構橋事件が勃発、これを機に日中戦争が開始され、日本軍は有名な「三光作戦」に代表される武力侵攻を全大陸に拡大していきました。この総仕上が一九四一年に始まった太平洋戦争(大東亜戦争)でした。朝鮮、中国、そして東南アジアへの支配の拡大を狙ったもの、これがこの一連の戦争であり、関連した大作戦でした。 東洋の真珠と呼ばれ、長年にわたってイギリスのアジアにおける根拠地となっていたシンガポールが陥落するや、後に「昭南」と改め、日本化政策を実行したことは余りにも有名です。 インドネシアのスカルノの場合も日本軍によって獄中から解放され、反オランダ独立闘争のために提携しましたが、その裏ではスカルノを傀儡政権にして、支配しょうとしていました。一九四五年(昭和二十年)、日本降伏の二日後にスカルノは、インドネシア共和国の独立を宣言しましたが、その場所はジャカルタの日本海軍武官の官邸で、しかも日本軍の監視下のもとで行われました。これらの事実は日本軍国主義の主観的意図を表しています しかしスカルノの側からいえば、当面の敵、オランダと闘うために日本軍と提携したのです。これは当然です。ですから太平洋戦争(大東亜戦争)の客観的側面と主観的側面が入り組み、問題を複雑にしています。大事なことは大戦の結果として起こったアジア諸国の独立と、日本がアジアの独立を大義名分にして実現しようとした侵略的意図を区分して見つめることが重要です。 また、一九四三年十一月には日本の東条英機が主催し、東京で「大東亜会議」が開かれましたが、これには南京国民政府の汪兆銘、タイの首相代理、満州国の代表、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバーモ首相、タイの首相代理、インド国民軍のチャンドラ・ボースが参加しましたが、みな日本の傀儡政権でした。タイのピプン首相がこれに参加せず、代理を出席させたのは日本軍国主義の侵略性に反発したからでした。 以上のこと、この客観的事実をみたとき、太平洋戦争(大東亜戦争)の主観的目的は明らかに侵略であったことです。このことの否定は結局のところ歴史の否定に通じます。 従って、太平洋戦争を含む第二次世界大戦の大局的、全体の流れは反ファシズム解放戦争であったこと。この歴史の流れ、大局に日本軍国主義は反対し、それに逆らった結果、日本は戦争に敗北したのです。ここに歴史の発展法則の偉大さがあります。 (三)人民戦線論からみた戦略・戦術論的な検討課題としての太平洋戦争(大東亜戦争)について。 太平洋戦争(大東亜戦争)は戦略・戦術論からみても多くの教訓を提起しています。この問題を考える上で、生きた教材はインドネシアのスカルノ大統領の歩んだ道です。すでに明らかにしたように彼は、インドネシアの民族主義者であり、独立闘争を闘った人物です。一九二七年(昭和二年)、スカルノは国民軍を結成したが、オランダ軍に逮捕・投獄され、悲惨な挫折を体験しつつも、それでも彼は独立の夢を失わず、非転向を貫き、獄中闘争を闘いぬきました。その結果、スカルノに歴史が新たな人民戦線を提起しました。それこそ解放戦争としての第二次世界大戦であり、太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発でした。 これはスカルノにとってまったく予想のできないことでした。彼はこの戦争の結果、獄中から解放され、再び独立闘争の先頭に立ちました。太平洋戦争(大東亜戦争)を含む第二次世界大戦に解放戦争としての性格がもしなかったとすれば、民族主義者の獄中からの解放は考えられませんでした。そればかりかスカルノは間違いなく虐殺されていたでしょう。仮に温情だけでスカルノが解放されたとすれば、ファシズムにも良い面がある、ということになってしまいます。そんなことはありえないことです。 ここにはやはり人民戦線的な法則が存在しています。日本軍がインドネシアを支配しているオランダと闘うためには民族主義者の力がどうしても必要だったのです。そこでシンボル的存在であったスカルノを獄中から解放し、反オランダで民族主義者と提携したのです。 スカルノはスカルノで当面の敵はオランダであり、敵の敵と提携し、オランダをインドネシアから追い出し、民族の独立を勝ち取る、という戦術を採用したのです。ここには当面の敵に対して、反権力ですべての勢力は団結するというわが人民戦線思想があります。 第二次世界大戦では多くの人民戦線思想が採用されています。反ファシズムでアメリカとソ連が手を結び、中国では蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が提携した「国共合作」があります。すべては権力であり、それ以外の勢力とは思想・信条の違いを乗り越えて団結し、統一すること。ここにも人民戦線思想のいきた実践があります。 主敵を倒した後はどうなるのか。人民戦線は、人民の意思と意向にしたがって行動します。歴史と人民が新たな段階でその時、人民戦線に必要な課題をしてきます。すべては人民戦線の支配権と人民意思が決定します。 この点でスカルノはオランダを倒したあと次は「日本軍との闘いだ」と主張しましたが、これはオランダにとってかわろうとした日本軍の侵略性への反発、完全独立をめざすインドネシア人民の意思にしたがって発言したものです。これはまったく正しいものです。 コミンテルンの「反ファシズム人民戦線アピール」でもいっているとおり、ファシズムに反対すると同時に帝国主義の支配にも反対する、ということは反権力人民戦線として当然のことです。中国、朝鮮、東欧、アジア、アフリカの民族解放戦争の歴史が事実として教えているとおりです。 ここに人民戦線思想の戦略・戦術論があり、人民戦線思想の偉大さがあります。 (四)その他の問題について。 @ 弁証法における二つの側面のうち主要な側面とは何か。 これは第二次世界大戦を対象にした場合は、主要な側面は反ファシズム解放戦争である、ということです。戦争の結果、独・伊・日のファシズムは倒され、アジア諸国を支配していた欧米列強は追放され、アジア諸国はみな独立した、という事実を見れば明らかなとおりです。 しかし、日本軍国主義が起こした太平洋戦争(大東亜戦争)を対象にした場合、主要な側面は明らかに侵略戦争であった、ということです。だからこそ軍国主義ファシズムは敗北したのです。解放戦争という歴史の流れ、客観的側面に従わなかった結果です。 A アジアの諸民族は日本軍国主義の侵略性に反対しつつも、独立のきっかけとなった太平洋戦争(大東亜戦争)の客観的側面について多くの人々はみな認めています。 東南アジア諸国の人民は日本軍を最初は歓迎しました。インドネシアのスカルノ、フィリピンのケソン、インドのチャンドラ・ボース、ビルマのバーモらはみな日本軍と提携し、独立運動を闘ったことです。インドでは一九四六年(昭和二十一年)、日本軍と一緒にイギリスと闘ったチャンドラ・ボースのインド国民軍のボースの副官三人がイギリスによって裁判に掛けられた時、反イギリスの暴動がインドで巻き起こり、三人の副官は一躍インドの英雄となり、ついにイギリスは釈放を余儀なくされるという事件が起こりました。この時、インド国民軍首席弁護人デザイ博士は「インドに独立の契機を与えたのは日本である」と明言したほどです。 また、同じインドのパール判事が東京裁判の席上「敗北者にたいするみせしめ裁判だ」と叫んだのはこうしたアジア諸国の民族主義者を代表する発言でした。 ただ、日本占領の後半では日本軍への反発が強まり、反日の気運が生れたこともまた事実です。アジア各国に反日のゲリラ組織が生れたのはそのよい証明です。これは日本の侵略性が表にでたことの結果でした。 B 真の民族の独立、真の平和は、やはり労働者階級と人民を中心にした人民戦線政府以外にない、ということです。アジアで民族の独立が本当に実現したのは中国であり、インドシナ半島ではベトナムだけであります。途中で挫折したのがインドネシアであり、その他の諸国では民族の独立とは程遠いものでした。独立国家の権力が人民戦線の手に握られているか否かです。すべては権力が決定します。 真の人民権力、本当の人民戦線は長い歴史のなかで訓練され、厳しい闘いのなかで一歩一歩鍛えられ、成長していくものです。今われわれはその過程のなかにあります。反権力でしっかりと団結し、個々の問題はすべて権力が生みだす産物であり、すべてを反権力人民戦線に統合し、批判の自由と行動の統一を基本にして、お互いに高め合い、学び合い、共に闘っていくことです。そして人民戦線に権力を掌握するまでは、今の人民戦線がわれわれの国家であり、この国家のなかで、喜怒哀楽を共にし、歴史の要請に応えていきましょう。 目を広く転じてみても、本当に権力と闘い、すべてを統一できるのはわれわれ人民戦線だけです。未来に確信を持ち、過去の歴史から学び、科学としての法則に従って、人民戦線のこの道を共に歩みましょう。 (おわり) |
(私論.私見)
戦国時代としての世界 投稿者:悠宏 投稿日: 8月19日(日)20時33分51秒
いつも興味深くこの掲示板を読ませてもらっています。今回はじめての投稿ですがよろしくお願いします。
浩二さんへ
はじめまして、横レスです。
>戦前の教育に対し、その当時「生の感覚」で疑問を持たなかった方々が、なぜ戦後、戦前の教育に対して疑問を持つようになったのか?そこにおける180度の転換は、いったい何によったのか?ここを解明しないかぎり、日本はまた、同じ誤りを繰り返すおそれがあります。
マメタンさん宛に書かれたこの浩二さんの意見に賛成です。私自身も戦後生まれとして同じような疑問をもっていました。戦争を体験した人々の書いたものを読んでも、その点が不明確でどうも釈然としませんでした。
そこで、自分自身で考えた結果、当時の人々は世界を戦国時代のように捉えていたのではないか、と思い至りました。戦国時代の世界の中で日本は信長や家康のように世界の覇者、ないしは亜細亜の覇者になりたかったのだろうと思います。
信長や家康が他の戦国大名を攻めることは何ら悪ではなく、それどころか彼らを打ち負かすのは誇るべき成果であったように、日本が中国や東南アジアに支配権を拡大してゆくのは輝かしい栄光に他ならず、なんら恥ずべき行為ではなかったのです。
では、なぜ終戦ののちに日本はそうした行為を悪と見なすようになったのか。それは日本の実力が信長や家康のように覇者となりうるレベルではないことに気づいたからであり、日本は家康である米国やソ連に逆らった愚かな大名でしかなかったことに気づいたからに他なりません。そして負けた結果、日本の行為は侵略行為として認識されたのであり、もし勝っていれば、日本の行為は栄光ある発展の歴史として語られたことでしょう。
つまり、負けたからこそ日本は欧米やソ連の価値観に従って過去の戦争を反省しているのであり、自らの体験と省察を基盤として反省しているのではないと思えます。日本の反省とは、戦時中の「皇国史観」の代わりに「平和と民主主義」という新しい神聖価値を玉座に据えただけであり、ただ大勢に順応しただけではないでしょうか。
もし、そうであるとするなら、いくら反省の言葉を述べても本当の反省とはならず、戦争の決算はいつまでたっても終わらないでしょう。
東京裁判と石原莞爾 | No: 274 [返信][削除] |
戦争を反省するとはどういうことか? 投稿者:悠宏 投稿日: 8月21日(火)17時51分10秒多くの人が戦争犯罪人に指名されぬようもがいていたときに、石原は自ら戦争犯罪人と称し、「私は戦争犯罪人になろう」と言っていたそうです。
どうも石原は、自分が戦犯となって東京裁判を混乱させ、その進行を不可能にしようと計画していたらしいです。そこで、マッカーサー司令部・極東軍事裁判所は石原を戦犯にしないよう努め、検事たちも彼が戦犯にならぬよういろいろな逃げ道を探しました。極東軍事裁判では前代未聞のことでした。
満州事変に関する極東軍事裁判証人として法廷に立つに先立ち、中国記者に語った石原の言葉です。
「満州国独立の結果、日本人が満州を独占し、多民族を圧迫し、同国の建設そのものも多くのビル建設と鉄道敷設にとどまり、産業の開発もまた期待を裏切る結果となった。わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底から踏みにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味においてわしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対し、誠にすまなかったと思っている。しかし、今となってはわびのしようもない。ただ中国当局者がこれらの人々に寛大な心を持って臨まれるようお願いする次第である」
石原が戦争裁判に対して持っていた考えは次の言葉に表れていると思います。「戦争も大きな政治の問題として争うべきである。戦争に負けたからといって卑屈になる必要はいささかもない。卑屈になってはいけないのである。日本も侵略国だと称して裁判している最中に、なんと米ソ両国がお互いを侵略者といい、争っているではないか。彼らに良心があるなら恥ずかしくて裁判なんかやってられない。大泥棒たちがお互い泥棒を決めつけながらコソ泥を捕まえ、お前は人様のものに手をつけたからお仕置きするのだ。俺たちは正しい、というに等しい。後世、ことに今の青少年たちが歴史をひもといた場合に、それは間違っている、それなら自分たちにも理由がある、と言って、また戦争をはじめるかもしれない。今のうちに正しいことを言うべきである。ヒトラーは英雄であった。勝敗には関係なく英雄だった。そして独裁者でもなかった。そのころのバカ正直なドイツ人には、ヒトラーのような政治がふさわしく、そして彼が必要だったのだ。また、ロシア人にはスターリンのような専制政治がよかったのだ。英国は一応、国家を仕上げてしまったのでもっともらしいことを言うが、ドイツはヒトラーのようにしなければ生きられなかったと思う。しかしヒトラーは勝利を目の前にしながら負けた。ドイツはソ連軍に負けたんじゃない。アメリカのB29に負けたのだ」
その言行に嘘は微塵もなく豪放磊落そのものであったため、諸外国のジャーナリスト・裁判関係者たちは、石原に対し大変な好感を寄せていたそうです。
後日の話ですが、石原を担当した検事が東京裁判が終了して帰国するにあたり、石原を訪問し、「あなたの話は非常に面白かったし、人生の指針になった。ありがとう。あなたの生きてきた道をぜひ本にしていただきたい。本ができたら私にも送ってください」と言ったという話が残っています。
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>後世、ことに今の青少年たちが歴史をひもといた場合に、それは間違っている、それなら自分たちにも理由がある、と言って、また戦争をはじめるかもしれない。今のうちに正しいことを言うべきである。
果たして彼の予見どおりに・・・http://users.goo.ne.jp/carlmaria/
現在、戦争を反省すべきだと主張している人々が力を注いでいることは、戦争中に日本がどれだけ悪いことをやっていたか、ということを暴露し糾弾することであるように思えます。確かに、過去の過ちを改めるためには過去の事実を真摯に受け止める必要があります。しかし、それは出発点であり、より重要なのはなぜそのような過ちを犯したかを明らかにすることです。そうしなければ、結局のところ同じ過ちを繰り返すほかないのですから。
原因を探求することよりも過去の残虐行為を糾弾することに力を注ぐような運動に多くの日本人はうんざりし、逆に過去の事実から目をそらそうとするようになったのではないでしょうか。最近の自由主義史観、「戦争論」、「新しい歴史教科書」などの現象は、際限のない過去の糾弾に対する反動であるように思われます。
自由主義史観などに特徴的に見られるのは、「戦争に善悪はない」「戦争においては勝利を得るために多少残虐な行為が生じるのはやむを得ない」という考え方であり、この「戦争に善悪はない」という考え方こそ、世界を戦国時代と見なす時代認識に他なりません。そして、こうした彼らの考え方こそ戦前の日本人の一般的な時代認識ではなかったのでしょうか。
当時の少年小説を見ても、戦争で活躍する軍人を英雄的に描くものはあっても、戦争を犯罪視するようなものは見当たりません。当時でも平和を望む声はありましたが、それは日本が東洋の盟主として君臨した上での平和であり、日本が中国や朝鮮から撤退することによる平和ではありませんでした。そうした考えは石橋湛山の小日本主義などごく少数のものに過ぎなかったのです。
しかし、こうした時代認識こそが過去の過ちの原因となったのであり、戦争を反省するとはこうした時代認識の誤りを改めることなのだと私は思います。
戦国時代であるという認識に立てば、人はたやすく国家エゴイズムに傾いてしまいます。国益のためであればどのような行為も許されるというこの国家エゴイズムの思想こそが日本を迷路へと導いてしまったのです。国際関係において重要なのは相互に協力してよりよい世界を築くことであり、決して他の国々を犠牲にして自国の利益だけを追求することではありません。
とはいえ、一部の左派の人々が言うように、自衛隊を廃止して自国の防衛を放棄し、過去の過ちを謝罪して、要求される賠償金を際限なく払い続けることを外交の基本とするような姿勢にはとても賛成できません。それは自国の利益をないがしろにすることであり、国のあり方として基本的に誤っています。こうした人々は国益の追求=国家エゴイズムと考える点で戦前の人々と共通の誤りを犯しているといえるでしょう。
外交において大切なのは、それぞれの国が利益を得ることができるようなシステムを構築することであり、そのルールに従って自国の利益を追求することです。公正な規範、公正なルールに従って行動することこそが大切なのであり、それを欠けば国益の追求は国家エゴイズムに堕してしまうのです。
国際会議において、しばしば日本の顔が見えないといわれるのは、「世界は如何にあるべきか」というヴィジョンを欠いているからであり、公正なルールに基づく世界ヴィジョンを構築することこそ今の日本の外交にもっとも必要なことではないでしょうか。
(私論.私見)