ゾルゲ事件首謀者の履歴

 (最新見直し2006.11.24日)

ゾルゲRichad Sorge  、1895.10.4 〜 1944.11.7
 ゾルゲの経歴は次の通り。ゾルゲ家は学者の家柄で、父方の祖父は社会主義思想家でカール・マルクスとの親交があり、第一インターナショナルのすぐれた活動家であった。この祖父のことか大伯父のことか詳細不明であるが、アメリカに移民、そこで共産主義クラブの役員をして第1インターナショナルアメリカ支部の創設者となっているようである。彼はアメリカ社会に受け入れられることなく、貧窮のうち死亡した。「ゾルゲは、マルクス・エンゲルスの友人であったリヒャルト・ゾルゲの甥の子」であったようである。

 1895.10.4日帝政時代の南部ロシアのバクー生まれ(南カフカス、現・アゼルバイジャン共和国)で、父アドルフ・ゾルゲがドイツ人・母がロシア人であった。3歳のとき両親と共にベルリンに移り幼少期を過ごす。

 当時のドイツの国家主義的教育を受け、高校生の時とき第1次大戦に遭遇、志願してキンダーモルト(無垢なる子供の死)軍団の近衛予備第3野砲連隊に入隊した。青年時代は熱烈な愛国者であったということになる。第1次イープル戦に参加し、1914年11月イープル北方ディクスムーデで歴史に残る激戦に遭遇し負傷している。この野砲連隊はフランス軍の機銃ポストを突破した際全滅に近い被害を受けた。ゾルゲが生還できたのは幸運と言うしかなかったということになる。

 その後、ベルリン大学に入学し医学を志す。しかし再度召集となり、ベルリン予備第53擲弾兵連隊に入隊した。その後この連隊は東部戦線のリンシンゲン集団に属してプリペット沼沢地正面にいた。第1次ナロッチ湖の戦いでまた負傷する。その後ガリシアで受けた負傷は重傷で、足を切断しかけたと言う。このため生涯跛足をひいた。

 1916年11月ベルリン大学に復学した。1918年キール大学に移動。そこで水兵の反乱に参加した。1919年ハンブルグ大学に移動。そこで政治経済学博士号を得る。その後マルクス主義を信奉するようになり、独立社会党員としてドイツ革命に積極的に参加している。

 1919年にドイツ共産党創立とともにその直後に入党(党員番号878番)している。党の専属として党の情宣活動に従事、「ローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論」を出版する。

 1924年フランクフルトでソ連の秘密党員と出会いモスクワ行きを勧められ、1925年ドイツ共産党の指令でモスクワへ派遣された。「全人類が待ち望んでいた社会悪の浄化と、貧困・不正・不平等に侵された世界の根本治療とはこのことではないのか」。

 
この時ソ連国籍を得てソ連市民権を獲得している。ソビエト共産党へ入党(党員番号49927番)後、コミンテルン本部に所属する。リヤザノフに勧められマルクスレーニン研究所に所属し、コミンテルン(国際共産党)の仕事につく。この時、「ドーズ案とその影響」、「新ドイツ帝国主義」を刊行している。「ドイツ帝国主義」は広く読まれ、日本訳もある。

 志賀義雄氏の「日本共産党史覚え書」に拠れば、「ゾルゲは傑出した理論的・政治的能力を持ち、また接触した人々を信服させる人物であった。彼がゾンターという名で発表した『ドイツ帝国主義論』は、その当時の第一等の水準のものであった」と述べている。
 

 その後同志ピャトニッキーの紹介でスターリンの知遇を得ている。1927年までコミンテルンの本部で働いていたが、赤軍第4本部に編入され、情報活動を開始する。1927年情報活動収拾目的でスカンジナビアに派遣され、1929年に帰還している。

 中国情勢の緊迫化につれ、1931年今度は中国の上海へ派遣された。”社会学雑誌”特派員として上海で諜報活動を行なう。上海ではフランス租界のジョフル街に居を構えた。ここはロシア人街で白系ロシア人の経営する商店が軒を連ねていた。この時アメリカ人ジャーナリスト・スメドレー(ニューデイーラーだが中国共産党と親しかった)の紹介で朝日新聞記者尾崎秀実(ほつみ)と知りあう。これは外国人記者クラブでの出来事らしい。第1次上海事変に遭遇、日本軍の装備を通報している。

 ゾルゲはこの頃赤軍第4部ベルジンの配下だった。身分はエージェントで、日本軍の活動の監視が主たる任務だった。この頃ソ連のスパイ網は多方面に亘っているが、KGBが最も有力でスターリンの支持を得ていた。赤軍第4部は主として軍事関係の分析が主任務だった。ゾルゲはなんらかの理由で情報部の本線からはずされたのだろう。このベルジンも1937年に粛清された。

 1933(昭和8)年モスクワに帰り(ドイツに立ち寄りゲッペルスと面会したと云う)、日本派遣が命ぜられる。

 1933.9月ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙などの記者として来日、ナチス党員としてドイツ大使館の私設情報担当となって活躍、日本の政治、外交、軍事に関する情報の入手、通報に努めた。

 東京に着いてからは猛烈な勢いで日本研究をおこない、その間に書いた論文、通信も多い。検挙された時には古事記、源氏物語などの英訳もふくめ、千余冊の研究書とみずから作成した多数の精密な統計表が残され、押収されたタイプ原稿はビール箱に二、三杯あったという(司法省の空襲ですべて焼失)。また各地を巡遊して調査研究し、その成果の一部は「フランクフルター・ツアイトング」や「ゲオポリティーク」誌等に発表され、ドイツにおいてすぐれた日本研究者として名声をえていた。

 この間、ゾルゲは日本での諜報活動網を確立すべく、慎重にメンバーを選定した。ゾルゲは、朝日新聞の記者だった尾崎秀実や画家宮城与徳らと情報組織を確立し、活動を開始した。その目的は、満州事変以降の日本の対ソ政策、対ソ攻撃計画を探知し、日本帝国主義のソ連への侵入を阻止することにあった。

 1935年モスクワに帰る。ベルジンと打合せ。1935年、横浜へ来航。帝国ホテルに居を構え、その後麻布永坂町に下宿した。ゾルゲはドイツの雑誌にもよく寄稿しておりソ連からの手当ても加わり生活資金は潤沢だった。

 ゾルゲらの活動は、1936年の二・二六事件以降本格化する。ゾルゲはドイツ大使館の信頼を得、オットー大使の私設情報官に就任した。指揮下にフランス共産党員にして通信社特派員の肩書きを持つヴーケリッチを置いた。その頃、尾崎は朝日新聞退社後、昭和研究会のメンバー、近衛文麿内閣嘱託、満鉄調査部嘱託となったいた。この二人が旧知の連絡を取り、以降両者の活動によってきわめて広範囲な情報がソ連に提供された。その活動は国際的反戦平和運動の一環であった。

 ゾルゲは一方で、駐日ドイツ大使(その前は大使館附陸軍武官)オットーの深い信任を獲得し、大使館附情報官として大使館内の最高スタッフとなった。ゾルゲは、ドイツ大使館首脳部から日本の外務省、陸海軍省の高級情報や日独外交交渉などの情報を入手し、無電技師・ベルンハルト、クラウゼンによって暗号文がモスクワへ送られた。

 ゾルゲは、専門的知識と精密な調査に基づく適確な判断により、高度な情報を通報することができた。その代表的な例はヒトラーのポーランド侵入とソ連に対する侵略準備の情報であり、侵略開始の日時まで知らせ(しかしスターリンはそれを無視してしまったという)、また日本が南進策をとり太平洋開戦に戦力を結集しているとの情報を正確に伝えたことであった。そしてこれらの情報の提供にたいして、ソ連最高首脳部からと推定される祝賀、感謝のメツセージを無電でしばしば受け取っていたとゾルゲは書いている。

 この情報活動は、彼を中心とする国際共産主義者たちが戦争に反対し世界の平和を守るためにおこなったものであり、したがって当時世界における唯一の社会主義国ソ連を帝国主義国家の侵略から守るための闘いが中心となっていた。検事の訊問にたいして、「私をはじめ私のグループは決して日本の敵として日本に渡来したのではありませぬ。また私たちは一般のいわゆるスパイとは全くその趣を異にしているのであります。英米諸国のいわゆるスパイなるものは日本の政治上、経済上、軍事上の弱点を探り出し、これに向って攻撃を加えんとするものでありますが、私たちはかような意図から日本における情報を蒐集したのではありませぬ。私たちはソ連と日本との間の戦争が回避される様に力を尽してもらいたいという指令を与えられたのであります」と答えている。

 日本の対ソ攻撃の計画が中止され、日本軍の南進作戦が決定的になったあと、ゾルゲは日本における任務はすでに終了したとして、日本を離れて新しい任務につくことについて指令を求めるむねの電報を打電しようとしたが、その電文原稿を執筆した翌朝に検挙された。なおゾルゲは日本にいても党費はきちんと納めていたというが、コミンテルンとは直接の関係はなく、組織的には赤軍第四本部に所属していたらしい。

 1941.10月、国際スパイの嫌疑でゾルゲ、宮城、尾崎秀実(ほつみ)らゾルゲグループが次々に検挙され、国防保安法、軍機保護法、治安維持法、軍用資源秘密保護法違反で起訴された。1943年にゾルゲ、尾崎に死刑判決が下され、1944.11.7日大社会主義10月革命記念日に処刑執行された。最後の言葉は「し残した事はない」だったと伝えられている。遺体は戦後になって、愛人の石井花子により多摩墓地に埋葬された。

 1964年「ソヴィエト連邦英雄」の称号が贈られた。



尾崎秀実ほつみ、1901.4.29〜1944.11.7

 1901(明治34).4.29日、岐阜県加茂郡白川村(現・白川町)で生まれる。


 父秀太郎が1901(明34)年「台湾日日新聞」記者となり、幼少年期18年を植民地台湾の台北で過ごす。台北第一中学校に進学。この時の体験が、後年民族問題に関心を寄せ、中国研究に向かう素地を作った。

 1922(大正11)年、第一高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部(現東京大学)に入学。1924(大13)年、高文試験に失敗。1925(大正14)年、東大卒業後、一年間を東大大学院に在籍。そこで、大森義太郎が指導する唯物論研究会に参加し、共産主義の研究に没頭する。第一次共産党検挙事件と大震災後の白色テロ事件にあって社会問題の研究に志ざし、中国革命への関心を深めた。一高時代の友人関係や、大学院での勉強に加え、時代の動きもあり、マルクス主義と中国問題を同時追求するに至った。

 1926(大正15)年、朝日新聞社に入社し、東京朝日新聞に勤務。社内で「レーニン主義の諸問題」をテキストとした研究会を開催。1927(昭2)年、大阪朝日本社に転勤、社会部から支那部に移り、細川嘉六らと中国革命研究会を作る。長兄の妻であった英子と結婚している。

 1928(昭和3).11月、待望の上海支局に転勤し特派記者となり、3年余上海で過ごす。長女をもうけて楊子と名付けた。この期間、魯迅をはじめ中国の進歩的な知識人たちと交際し、中国の文化運動に参加し、在留邦人たちの「日支闘争同盟」などとも密接に結びついた。文芸団体「創造社」同人と親交を結び、機関誌「大衆文芸」に白川次郎などのペンネームで寄稿、また魯迅の知遇を得て邦訳の作品集「阿Q正伝」の冒頭に文章をのせた。

 中国共産党と交流するようになり、実践団体「日支闘争同盟」と接触、水野成ら東亜同文書院の学生等と結ばれた。

 1929(昭和4)年末、上海でアグネス・スメドレー(1892〜1950)と出会う。彼女はアメリカ南部の貧農の家に生まれ、インド独立運動に共鳴し、中国にも関心を寄せて、ドイツ新聞社記者として来中していた。

 1930(昭和5)年秋頃、スメドレーの紹介でドイツ人ジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲと出会う。ゾルゲはコミンテルン情報局やソ連赤軍に所属し、尾崎に中国での諜報活動の協力を求めた。こうして、尾崎は、アグネス・スメドレーやゾルゲと結びつき、コミンテルンの諜報活動に参加するようになる。

 1932(昭和7).2月、社命で帰国し、大阪本社に戻り、外報部に勤務。

 1934(昭和9).10月(1933.9月ともある)、東亜問題研究会の新設で東京本社に呼ばれ勤務する。中国問題の評論家として頭角を現したが、1936年末に突発した西安事件の本質をいち早くとらえたことで有名となる。

 この頃、本拠を日本に移したゾルゲと再会し親密な関係に入った。尾崎は当時すでにすぐれたジャーナリストであり、中国問題の専門家として言論界に重きをなしていた。ゾルゲと尾崎、宮城が中心となって諜報団が組織された。機関員として、水野成、川合貞吉、船越寿雄らが列なった。

 1937.4月、「昭和研究会」に加わり、「支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍していた。この「昭和研究会」は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制をつくり上げた中心機関となる。ここで風見章の知遇を得る。

 1938(昭和11).7月、朝日新聞社を退社、第1次近衛内閣の嘱託となり政界上層部の動向に直接ふれることのできる地位に就く。近衛内閣の有能なブレーンとして首相官邸内にデスクをもち、秘書官室や書記官長室に自由に出入りし始めた。「朝飯会」のメンバーにもなり、これは、第2次近衛内閣、第3次近衛内閣まで続いた。

 この間、中央公論6月号で「長期戦下の諸問題」を発表し、早期講和に反対し長期戦を正当化した。当時、最も進歩的な愛国者、支那問題の権威、優れた政治評論家と評されるようになる。「中央公論」(昭和14.1月号)に「東亜共同体の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。 「東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである」とのべている。尾崎の云う「東亜共同体」の実態がどのようなものなのか明瞭でないが、ソ連・日本・中国による「東亜共同体構想」であった。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。

 1939(昭和14).1月、第一次近衛内閣の総辞職で嘱託から退く。「中央公論」(昭和14.5月号)での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。

 概要「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(重慶へ移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権をつくり上げること、さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地につくり上げて、日本自身がそれによって消耗する面を少なくしていく。さういう風な条件の中から新しい、それこそ僕等の考へている東亜共同体、本当の意味での新秩序をその中から纏めていくといふこと以外にないのじゃないか」。

 つまり、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとしていた。「中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようという計画であった」と評されている。

 1939(昭和14).6.1日、満鉄調査部嘱託職員として東京支社に勤務。ゾルゲ事件で逮捕されるまで、同社に勤務する。


 1940(昭和15).6月、近衛は本格的に新体制運動に乗り出す。麻生久の社会大衆党、赤松克麿の日本革新党、中野正剛の東方会などの革新勢力を結集し、前衛政党的な新政党を結成しようとした。7月に第二次近衛内閣が成立し、10月に新体制運動の中核体として、「大政翼賛会」が発足した。

 1940.7月の第2次近衛内閣の成立前後には、風見の依頼で国民再組織案を練るなど、国策に参与する機会をつかみ、1936年以来本格化した諜報活動のなかで、高度の情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲらの日ソ間の戦争回避とソ連防衛のための活動を助けた。中国社会の全体的・動態的把握を試みて、中国の民族解放運動=抗日民族統一戦線の意義を解明した尾崎は、日本自体の再編成を必要と考え、東亜共同体論提起したが、ねらいは帝国主義戦争の停止と日中ソ提携の実現にあった。その前提として、戦争の不拡大が当面の目標とされたのである。
 
 尾崎は国内世論を誘導するだけでなく、和平の動きそのものも妨害した。蒋介石以下の国民党首脳部と親しい間柄にあった茅野長知は、上海派遣軍司令官・松井石根大将の依頼により、昭和12年10月ごろから、日中和平に乗り出した。昭和13年4月には即時停戦、日本の撤兵声明発表などの合意にいたった。近衛首相も板垣陸相も承認して、この線で和平実現に努力することになった。茅野は国民党政府と接触し、5人の代表を東京に派遣することとなった。

 しかし、茅野が再び帰国して、交渉の結果を報告すると、板垣陸相の態度は急変「支那側には全然戦意はない。このまま押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり撤兵を約束する必要はなくなった」という。茅野が「それはとんでもない話だ。国民政府は長期抗戦の用意ができている。そんな情報はどこから来たのか」と問いつめると、板垣陸相は、同盟通信の上海支局長をしていた松本重治が連れてきた国民政府の外交部司長・高宋武から直接聞いたという。松本重治は尾崎の年来の友人であり、共に「朝飯会」のメンバーとして近衛首相のブレーンともなった人物である。

 高宋武は、日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝え、蒋介石には「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。こうした謀略によって、茅野の和平工作は水泡に帰し、その後、高宋武、松本重治、尾崎らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。

 国民党副総裁であった汪兆銘は、蒋介石にコミンテルンの謀略に乗った抗日戦争を止めさせるよう願っていた。尾崎らは、その汪兆銘を担ぎ出して親日政権を作らせ、それを以て日本と国民政府の戦いを続けさせようというたくみな謀略をしくんだのである。

 近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明のなかで「国民政府といえども従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。

 まさに「見えない力にあやつられてゐたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎の描いた筋書きに完全に乗せられていたのである。尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響を加えた。ゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦うえで不可欠であった。(「ゾルゲ事件」参照)
 1941.10.日、ルゲ事件が発覚。日米開戦の予告をモスクワに通信したのを最後にして、彼とそのグループは検挙された。「伊藤律によるといわれる密告」(れんだいこによれば、これは神話化された冤罪である)で、仲間に続いて検挙され、18日に検挙されたゾルゲと共に「国際諜報団」として起訴される。

 尾崎は、取調べの際に次のように述べたと伝えられている。
 「世界革命の実現を目指し、国家的対立を超えて、万国のプロレタリアートの団結を図ろうとする共産主義者の立場から言えば、自己の現に属する資本主義国家は階級的には、我々の敵対勢力であり、社会主義国家ソ同盟のみが我々の味方であることは理論的にも亦現実的にも正しいので有ります。そして各国の共産主義者はソ同盟の進歩し且つ勝ち得た地歩によって、それぞれの国に於いて革命を遂行しなければならないのであります。

 また先ほど述べた通りコミンテルン、ソ同盟共産党、ソ同盟政府の三者の現実の連関関係から見ても、ソ同盟を擁護することは即ち各国共産党の世界的結合であるコミンテルンの擁護とその拡大を図ることになるのであります。

 私は上海時代には直接的にはスメドレーらとの交友関係から今次のスパイ活動に入ったのであって、初めからスパイを専門にやる気であった訳では有りません。又中国に於けるスパイ活動の対象は中国の事が主で、これに日米関係のことも多少注意する程度であった訳ですが、日本に帰って再びゾルゲと連絡がついて以後は日本の事情を対象とする諜報活動であることが明瞭になりました。そして私は我々の活動の諸部局の中で、ソ同盟防衛の一役は最も重要なものの一つであり、そのソ同盟を防衛する手段として、対ソ進撃の世界的勢力の中でドイツと共に、ソ同盟にとって最も有力な脅威の一つである日本の隠れたる国情を正確にコミンテルンに通報して、これが対策を講ぜしむるということは、このような時期においてまた、日本に於いて共産党が存在しないが如き状態まで陥っている無力な場合に於いては、最も重要な使命であると考えてきたのでありまして、私は日本に於ける共産主義者としてこの困難な、割の悪い仕事に従事することこそむしろ誇るべきことであるとまで、密かに考えることもあったような次第で有ります云々」(山村八郎「ソ連はすへてを知っていた」98p)。

 尾崎は処刑の前に次のような心情を吐露している。
 概要「戦争後に大東亜戦争新秩序社会が現れて、『世界革命の一端』を形成するであろう」、「自分が永く仮面を被った危険な潜行運動をしたその苦心の為に、頭の髪は全く白くなってしまった。自分らの日本赤化運動は、既にその目的を達し、日本は遂に大戦争に突入し、擾乱は起り。革命は必死である。自分の仕事が九分通り成功しながら、今その結果を見ずして死ぬのは、残念である」。

 1944(昭和19).11.7日、ロシア革命記念日にあたるこの日、逮捕から3年後、国防保安法・軍機保護法・治安維持法違反で東京拘置所で極刑に処せられた。

 獄中から妻子に宛てた書簡を集録した「愛情は降る星の如く」は敗戦直後ベストセラーになったものの、冷戦状況などもあって真相究明は遅れたが、今日では「尾崎秀実著作集」5巻(77年)、「現代資料・ゾルゲ事件」4巻(62〜71年)などの刊行により、尾崎の優れた人間像や、その歴史的位置づけも明らかにされつつある。

 朝日人物辞典調べ


 尾崎にたいする今日の評価はきわめて多様であるが、彼の英雄的ともいうべき努力の中心は戦争を避け社会主義を防衛しようとする必死の抵抗であった。彼はたしかに情報を収集する活動を意識的におこなったが、それも彼のことばによれば政治的な便宜のための手段の一つにすぎなかった。彼がゾルゲに提供したといわれる情報も、新聞社の特派員や在外公館の手に入れる秘密情報と大差ないものであり、むしろ彼は情報収集者であるまえに一個の独立した情報源であり、彼の政治判断や見通しによってゾルゲの活動に協力したのである。彼がゾルゲと深い関係を結んだのも、彼独自の「東亜協同体」論も、日本民族の将来を思いなやんで求めた結果であった。将来ソ連や新中国と提携してゆく場合に予想される日本国内の変革について、彼は労働者階級を主体とする階級闘争によってではなく、もっぱら既成政治勢力内部の工作によって上からなしとげることができるし、またそうあってほしいと考えていたようにみえる。

 尾崎はソ連または日本共産党に入党していない。そこがひどく特異でもある。


宮城与徳(よとく、1903.2.10〜1943.8.2日) 

 沖縄県名護市生まれ。沖縄県立師範中学校中退後アメリカへ渡っている。沖縄の中でも相対的に貧しい本島北部のこの地域は、戦前多くの移民を世界に送り出した。小さな集落でもハワイ、カルフォルニアや南米に親戚を持つ家が多い。宮城與徳の親族も何人かがアメリカに渡った。

 14年間滞在、カリフォルニア州立美術学校やサンディエゴ官立美術学校で画を学んだ。ロサンゼルスでプロレタリア芸術会の機関誌「プロレタリア芸術」の発行に協力、絵筆を取ると共にアメリカ共産党日本人部に所属して、赤色救援活動や反戦運動に従った。

 従兄の宮城與三郎もメキシコ経由でアメリカに入り、與徳よりも積極的に西海岸の移民労働運動に加わった。1931年末のロングビーチ事件で国外追放になりソ連に亡命、モスクワ東洋学院の日本語教師になったが、1938年他の沖縄出身アメリカ共産党員島袋正栄、又吉淳、山城次郎らと共に「日本のスパイ」として粛清された。同じ「アメ亡組」の照屋忠盛のみ死刑をまねがれたが、強制収容所に送られ消息不明のままである(加藤『モスクワで粛清された日本人』青木書店、九四年)。照屋・島袋・山城も北部出身である。長寿の沖縄には彼らを知る古老がまだ存命している。照屋の実兄は、四五年沖縄戦中に「アメリカのスパイ」と疑われ、日本軍によって虐殺されていた。(「加藤哲郎氏の『生還者の証言──伊藤律書簡集』(五月書房)を沖縄で読む」)より。

 1933(昭8)年、帰国。その後は、尾崎秀実とゾルゲの連絡に当たり、九津見房子、山名正実、田口右源太、北林ともらを組織し反戦のための情報活動を行った。1941.10月ゾルゲ事件で検挙され、未決勾留中に東京拘置所で結核のため獄死した。享年40歳。作品に「林間」、「月光像」他がある。

 1990年に遺作展が開かれ、翌年沖縄タイムズ社から『宮城與徳遺作画集』、野本一平『宮城与徳──移民青年画家の光と影』(1997年)が刊行されている。



川合貞吉(ていきち、1901.9.18〜1981.7.31日)
 岐阜県生まれ。明大専門部卒。在学中から学生組織に加わり、反帝、軍教反対運動に参加し、一方で政友会院外団に関係し護憲3派運動に従う。

 1928(昭3)年中国へ渡り、上海で日支闘争同盟を結成、さらに尾崎秀実、ゾルゲを識り、ゾルゲの協力者となり情報活動に従事、軍部や右翼グループに接近、熊沢天皇擁立工作等を行う。

 1936年検挙され、懲役10カ月(執行猶予3年)の刑を受けるが、ゾルゲの線は発覚せず出獄、帰国後の41年10月ゾルゲ事件で再検挙された(10年刑)。戦後は言論活動に従い、「ある革命家の回想」「革命の哲学」他がある。
 
(尾崎秀樹)  朝日人物辞典より




(私論.私見)