ゾルゲ事件考

 (最新見直し2006.3.30日)

 れんだいこは、ゾルゲその人の興味もさることながら、尾崎ら当時の日系革命家たちの動機の方に解明せねばならない問題があると思っている。通俗的にはスパイ事件とされているが、もう少し奥行きが深いのではなかろうか。仮説として、戦前の日共運動が治安維持法体制に封じ込められ、もはや頼りにならずという絶望的心情から屈折した形で、もう一つの主義者運動として「事件」が取り組まれていたのではなかろうか、と思っている。つまり、これは革命運動の変種であったのではなかろうか。

 「日本における活動期間は1933年から41年まで約8年にわたっているが、グループが強力な組織となって機能が発揮できるようになったのは36年の秋ごろからであった」とあるが、例の「小畑中央委員リンチ致死事件」が1933年12月23日から始まっていることを思えば、丁度この頃からの動きであったことが判明する。彼らは、宮顕―袴田グループに乗っ取られる方向で収斂しつつあった当時の日共指導部に対して端から何も期待していなかったのではなかろうか。とすれば、日共の最後的瓦解という共通認識を踏まえた上での秘密結社型の別種の革命運動であったとも見なせるように思われる。


 この時の心情として、事件関係者達には、祖国ソビエト政府の防衛、国際共産主義運動の真価を問う活動に殉ぜようとするものがあったのではなかろうか。更に云えば、日中の泥沼的危機の進行状況にあって、中国国内の革命的危機において次第に中共活動が力をつけつつあることを客観認識しており、その意味では当時最も視野が広く確かな連中によってこの運動が担われていたのではなかろうか。そうした中国の闘いに呼応して、次の時代の「青写真」を俯瞰し、何事か日本国内でも革命的運動を展開せねばならない、というメンタリティーに支えられていたのではなかろうか。

 これを裏付けるのが次の遣り取りであろう。「ある革命家の回想」(川合貞吉・谷沢書房・1983.2.10日初版)の中から引用する。概要、1939年初秋川合貞吉氏が、尾崎秀実宅を訪れ時局談義しているが、この時の軍部独走状況に対しての尾崎の弁は次のようなものであった。
 「僕達は、今度こそは非常な決意をもって臨んでいるんだよ。日本の党は、まだまだ力が弱くて、とても下からの革命なんて今のところ考えられもしないよ。強いのは軍部だけだ。今の日本は軍だけがオールマイティーだ。そこで、軍は自分達の力を過信して、政治でも何でも強引に引きずろうとしているが、あのプーアな政治理念ではやがて行き詰まって投げ出すに決まっている。そして結局最後の切り札はやはり近衛だよ。その時はだね、今度こそは軍に横車を押させないだけのはっきりした条件を付けて近衛を出す。

 いわゆる東亜新秩序の理念をそのまま社会主義理念に切り替えてゆくつもりなんだ。むろんソ連や中国の共産党と緊密な提携の上に立ってだよ。しかし、近衛の力でそれを最後までし遂げられるとは、もちろん僕だって思ってはいない。近衛はね、結局はケレンスキー政権だよ。次の権力の為の橋渡しさ。僕は今近衛の5人のブレーンの一人になっているんだが、一応はこのケレンスキー政権を支持して、やがて来る真の革命政権の為に道を開く―僕はそんなつもりで今やっているんだ」。

 それから数日後、川合貞吉氏は宮城与徳氏と時局談義している。
 この時の宮城の弁「労働者や農民が『九段の母』かなんかの浪花節を唸っているのを聞くと、僕はこの国が嫌になるよ。日本民族ってのは革命をやれる民族ではないような気がして来てね」。川合氏が「しかしそういったもんでもないよ。大衆というものは何か一つの機会にぶつかると、急に政治的な自覚を呼んで革命化するものだと僕は思うなァ」。対する宮城の弁「うん、大衆というものの本質は確かにそうだろう。しかしだね、今の現実を見ているとだね、国民精神総動員なんてもので段々と去勢され、首にされ、奴隷にされて、結局は餓死するまでついて行ってしまうんじゃないか、という気がするんだ」、「客観的条件は熟しつつある。上層の危険は既に来ている。そして、大衆は革命化しない。毎日のように万歳万歳の声に送られて、青年達は戦場に向かっている。そして、天皇陛下万歳といって、羊のように従順に死んで行く。それが今の日本の姿だ」。

 これを読み取れば、尾崎も宮城も川合も日共党員ではなかったが、祖国の革命に極めて強い関心を見せており、当時の絶望情況の中から何事か企てようとしていたことが分かる。しかし、この心情が歴史の波間で揉まれ当人達が憧憬していたようには機能しない。どういうことかというと、当時のソ連はスターリニズム体制下で有能主義者が次々と排斥されていた。建設されようとしていた社会は社会主義の理念とはほ遠いある意味でマルクス主義の名を借りた中世的政治システムへの回帰であった。この祖国ソ連邦の変貌を疑う術を彼らは持たされていなかった。むしろ、ひたすら殉じようとする精神があるばかりであった。かくて、ゾルゲ事件関係者達は二重に翻弄された。事件の悲劇とはここに真因があるのではなかろうか。

 ゾルゲは、検事の訊問にたいして次のように語っている。
 「私をはじめ私のグループは決して日本の敵として日本に渡来したのではありませぬ。また私たちは一般のいわゆるスパイとは全くその趣を異にしているのであります。英米諸国のいわゆるスパイなるものは日本の政治上、経済上、軍事上の弱点を探り出し、これに向って攻撃を加えんとするものでありますが、私たちはかような意図から日本における情報を蒐集したのではありませぬ。私たちはソ連と日本との間の戦争が回避される様に力を尽してもらいたいという指令を与えられたのであります」。

 つまり、ゾルゲらの情報活動は、彼を中心とする国際共産主義者たちが戦争に反対し世界の平和を守るためにおこなったものであり、したがって当時世界における唯一の社会主義国ソ連を帝国主義国家の侵略から守るための闘いをその目的にしていた、ということになる。

 
 2005.5.20日再編集 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評その152 れんだいこ 2006/03/30
 【ゾルゲ事件の新視角】

 2006.2.28日付「太田龍の時事評論第1589回」の「ロックフェラーの資金が太平洋問題調査会を通じて、真珠湾攻撃工作のために、ゾルゲ経由、日本の皇族に渡された」は、ゾルゲ事件の新視角を提供している。(http://sv1.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi)、(http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/1053)

 成甲書房から平成18.3月下旬刊予定のジョン・コールマン著「タビィストック洗脳研究所」第一章には次のように記されている。れんだいこが意訳すれば、次のようになる。
 概要「1925年、地下ユダヤ政府・ロックフェラーグループの諮問機関として『太平洋問題調査会』(IPR)が発足している。実質的にはその前に活動は開始されて居るであろう。タビィストックがIPRのすべての出版物を起草している。

 1941年、地下ユダヤ政府の多額の資金が、IPRを通じて東京の関連機関に拠出された。その資金は、日本の真珠湾攻撃誘導工作のために、ロシアスパイの大立者=リヒャルド・ゾルゲを経由して日本の皇族に渡された」。

 即ち、日本の真珠湾奇襲攻撃の背後には国際ユダヤの用意周到な誘導があったということになる。これにゾルゲ機関が関係していたと云う。ウソかマコトか、これを検証せねばならない。ゾルゲ事件は従来、ソ連スパイ説のみから論ぜられているが、新たに国際ユダヤのエージェント説が登場したことになる。こうなると、ゾルゲ派の背後関係を洗い直さなければならないことになる。

 同時に、国際ユダヤの誘導に乗った「皇族」とは誰か。当時、皇族は、民族派とフリーメーソン派、反米英派と親米英派その他に複雑に分かれている。フリーメーソン派にして親米英派の皇族にして、急遽反米英派に転じ真珠湾攻撃を主張し始めた皇族が特定できれば該当者ということになろう。

 それにしても、ユダヤ問題に注ぐ太田氏の眼力は鋭い。れんだいこには、「ゾルゲ事件よ、おまえもか」ということになる。こうなると、ユダヤ問題に緊張した視点を持たない歴史書、社会評論は、スパイスの入らない丼ものに似て味気なさ過ぎる。その味気ない丼ものを振り回して、料理はこう作るべきだと説教される。これに唯々諾々する者は詰まらない。ましてや、舌鼓して「ユダヤの云うことはその通り。反ユダヤ主義は撲滅されるべし」などと提灯して徘徊するお調子もんよ、手前達こそ正真正銘のシオニスタン・ファシストと呼ばれるに相応しい。

 ネオ・シオニズム・ファシストが、己の所業をナチスに転嫁させ、ナチスを叩くという倒錯テキストを押し付けてきたのではなかろうか。歴史の真相はそう読めばはっきり見えてくる。現にパレスチナで、アフガン、イラクでやっている彼らの鬼畜の所業を見よ、国際法も何もあったものではない無慈悲さと悪徳の極致の蛮行を繰り返しているではないか。その手際を見れば、昨日今日始まったものではなかろう。

 もとへ。れんだいこが思うに、実際に発生した歴史責任の応分のナチス批判は為されるべきだろう。しかし、ナチスの所業では無いものをナチスに罪を被せたり、ユダヤファシストの所業をナチスにすり替え批判するなどは馬鹿げていよう。この種の批判のオクターブを上げれば上げるほど評価点が高くなるとでも思っているサヨが多過ぎる。れんだいこは既に食傷している。会話を共に出来ない。

 「ゾルゲ事件考」( daitoasenso/what_kyosantosoritu_zorugegiken_rendaicoco.htm)

 2006.3.30日 れんだいこ拝




(私論.私見)