428162 明治期 自由民権運動

 徳川270年の幕藩体制が崩れむ明治の世になった。士族は解体され、その階級移動は必ずしもうまくは行かなかった。百姓・町民側から見ても、当初は新政府に期待したが、税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は依然として重く、これでは葵の紋が菊の紋になっただけだと不平不満が噴出した。こうした不満が各地に一揆を頻出させた。が、明治10年に西南の役が鎮圧された頃より、武力闘争に代わり立憲政治、議会政治闘争へと方向転換していくことになった。



(参照・「明治維新の史的過程考(2―1)(伊藤体制から憲法発布まで)」

民撰議院設立建白書
 幕末の頃既に、坂本竜馬など先覚者によって欧米の議会制度に関する知識が不十分ながらも紹介され、明治政府になってその要求が強くなった。

 1874.1.12日、板垣退助および後藤象二郎たちが愛国公党を創立し,それからわずかに5日後の同年1.17日に、板垣退助および副島種臣(そえじまたねおみ)たちが時代に先んじて民撰議院設立建白書を明治新政府に提出した。民間における議会開設の要求の初めとなった。

 1875.
4.14日、明治政府は、元老院および大審院ならびに地方会議設置を決めるとともに漸次立憲政体樹立の詔書を出してこれを公表した。このとき立法府としてこれまでの左院に代えて元老院をおいてこれを上院になぞらえ、地方官会議を再興してこれを下院になぞらえたが、いずれも天皇の官吏で構成される機関にしか過ぎなかった。

自由党結成
 1881(明治14)年、板垣は、自由民権運動の力を結集し、自由党を結成。これが日本最初の本格的な政党となった。この自由党が、明治から昭和にかけて、いく度か離合集散を繰り返し、その名を替えながら、戦後の保守政党に受け継がれている。

国会開設運動

 1881(明治14).4月から5月頃、24歳の青年植木枝盛が立志社 東洋大日本国国憲案(全文204条)起草。「日本国の最上権は日本全民に連属す」。

 この頃の板垣は「板垣死すとも、自由は死せず」という言葉にに象徴される在野の民権派であり、国会開設の請願運動を全国に広めて行く中心人物として活躍した。


保安条例公布
 1887(明治20)年、保安条例が公布された。後の首相となる清浦が内務省警保局長として指揮し、狙いは民権派の言論の封殺にあった。

大日本帝国憲法が発布
 明治22年、大日本帝国憲法が発布された。明治天皇がこれを公布し、自らを国家統治者として元首の地位に就いた。この時、1年後に総選挙を実施し、帝国議会を開設することを宣明した。帝国議会は、貴族院および衆議院の二院からなっていた。貴族院は、皇族および華族ならびに勅任された議員から構成されていた。皇族の成年男子は全部、華族のうち公・侯爵は25歳(後に30歳)になると誰でも当然に貴族院議員となれ、伯・子・男爵は25歳(後に30歳)以上の同爵者のなかから互選されて議員となる。

 勅任議員のその1は、いわゆる勅選議員であって、国家に勲労があり、または学識のある満30歳以上の男子から勅任され、その2は、多額納税者議員であって、立候補の資格は、30歳以上の男子で、北海道および各府県において土地あるいは工業・商業について多額の直接国税(地租・所得税・営業税・営業収益税)を納めるもの(国に納める税金が15円以上)100人のうちから一人、または200人のうちから二人を互選して勅任され、男子とされていた。皇族・公・侯爵およびいわゆる勅選議員は終身であるが、しかしその他の貴族院議員の任期は7年であった。

 選挙権は、衆議院では直接国税15円以上を納める25歳以上の男子。当時の日本の全人口は凡そ4000万人、そのうち有権者は45万人、人口の僅か1.1%に過ぎなかった。しかし、第一回総選挙の投票率は92%。選挙資格のない者まで関心が高く、各地の演説会に聴衆が詰め掛けたと云われている。

第一回総選挙
 総選挙の結果は、自由民権運動を支えてきた自由党と改進党の圧勝。衆議院300議席のうち、自由党が135議席、改進党が43議席、合わせて178議席と3分の2近くを反政府勢力が占めることになった。

 改進党では、尾崎行雄(32歳・三重選出)、犬養毅(35歳・岡山選出)、田中正造(49歳・栃木選出)、自由党では、中江兆民(42歳・大坂選出)、植木枝盛(33歳・高知選出)。高知県では、1区が吉田茂の実父・竹内綱、2区が林有造と片岡健吉、3区が植木枝盛と4議席全てを自由党が独占するという圧倒的強さを見せていた。

 当時の内閣総理大臣は、山県有朋。明治18年に内閣制度が出来て以来、3代目の首相。伊藤博文が貴族院議長、松方正正義が大蔵大臣。明治政府の主要ポストは、薩摩・長州の出身者によって固められていた。

第一回帝国議会が召集される
 これに基づき、明治23年11月、天皇の名のもとに第一回帝国議会が召集された。帝国議会衆議院に集まった代議士は300名。開院式の日の日比谷の議事堂周辺では数万の群集がエンドウにふれ、「祝国会」と書いた熱気球も打ち上げられ、議会を祝う国民の熱気が取り囲んだ。このニュースは世界に打電され、例えば「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」では「大君(将軍)の国がミカド(天皇)の国に代わって開かれた議会」と報じられている。明治維新以来20年余り、近代化を急ピッチで進めてきた日本は、遂に欧米の議会制度を取り入れ、アジアで最初の議会開催に漕ぎ着けることに成功した。

 首相山県の初の施政方針演説か為され、この時「日本の国土と独立を守るためには、日本だけではなく、アジア周辺地域での軍事的影響力の行使も必要である」として、陸海軍に巨大な予算を割かなければならないと強調し、政府は8800万円の膨張予算案を出してきた。この富国強兵策に、議会が真っ向から反対し対立することになる。議会はのっけから荒れた。

 植木枝盛らは、議会独自の予算案を作り、政府案に800万円の削減と、重税に苦しむ農民の20%減税案を打ち出した。更に、中江兆民が、政府と議会は対等であるべきだと主張し、憲法67条の法文上の不備を突いて徹底的に抗戦しようとした。

自由党が議会対策で三路線に分裂する
 自由党は、議会対策で三路線に分かれた。@・硬派(中江兆民ら)、A・実務取引派(板垣退助、植木枝盛ら土佐派の路線)、B・帝国ホテル派(中間軟派)。議会始まって間もないこの時期、自由党内は「四分五裂」の分裂の危機に陥った。

 明治24年1.19日自由党の生みの親板垣退助が、突然、党を離れると党機関紙の「自由新聞」に発表。

 明治24年2.20日自由党土佐派が政府側に寝返り、その結果、政府案賛成135名、反対108名となり、妥協的な予算案が成立した。それは当初の政府予算案より650万円を削減し、17%の減税策という折衷となっていた。

 中江兆民等の自由党硬派が敗北した。翌2.21日中江は議員を辞職した。以降二度と政治の舞台に戻ろうとはしなかった。

 明治25.1.23日植木枝盛は35歳の若さで逝去。
 中江兆民

 1847・弘化4−1901・明治34。土佐藩出身。フランス留学後、東京外語学校長に就任するが、著書「三酔人経綸問答」により明治政府の保安追放処分を受けた。その後、東雲新聞や東京自由新聞で藩閥政府への抗議活動を展開。第一回総選挙に立憲民主党から出馬し当選。民党内の脆弱(ぜいじゃく)堕落を憤り議員を辞任。後に新聞の発刊、国民党の結成などを通じて、自由民権運動の啓蒙に努め、東洋のルソーと称された。
植木枝盛

 1857・安政4−1892・明治25。土佐藩出身。福沢諭吉らの啓蒙思想の影響を受けて板垣退助の立志社に入り、自由民権思想・理論の指導者の一人として活躍した。第一回総選挙に当選。明治政府の専制に人民主義の立場から反対活動を行い、「民権自由論」など多くの著書も著している。

 戦後の自由党総裁吉田茂は、板垣と同じ高知県の出身であり、板垣の側近、竹内綱の実子。板垣らの自由党の血脈は、吉田茂を経て現在の自民党にも続いている。


『共産党宣言』の現代的意味―資本主義分析と政治綱領のはざまで】(加藤哲郎・一橋大学政治学教授)

 最近みつかった故丸山真男の講演記録のなかに、こんな一節がある。

 「『愛国』というのは明治の維新以後、発明された言葉です。西村茂樹という明治の初期の思想家が居ます。『日本道徳論』なんかを書いて、どっちかというと保守的な思想家でありますが、この人がハッキリ『愛国とはパトリオティスムの訳なり』と言ってるんですね。つまり、愛国という言葉は――パトリオティスムもそうですけども――、これはフランス革命以後できた考え方。……したがって、自由民権運動のごく初期の政党は『愛国公党』と言ったんです。なぜ『公』と言うかというと『党』というのは悪い意味だったんですよ。『ともがら』と言って、余り良い意味がなかった。そこで『党を結んで悪いことをする』と派閥の意味で使われた。そこで『そうじゃないんだ、公の党なんだ』というんで『公党』と言った。その上に『愛国』とくっつけた」(丸山真男講演記録「日本の思想と文化の諸問題」(上)、1981年秋田県本荘市、『丸山真男手帖』2、1997・7、pp.11-12)。

 日本で最初の政治結社とされる板垣退助らの愛国公党は1874(明治7)年の創設、パリ・コミューン直後である。当時の日本の政治結社には、立志社・愛国社・国会期成同盟会など「社」や「会」が多い。明治14年の政変後に、自由党・立憲改進党・東洋社会党など「党」が現れる。societyが初めて「社会」と訳されたのは1875年『東京日日新聞』紙上の福地源一郎(桜痴)の論説とされるが、当時は営利経済組織もまた「社」「会」「組」を名乗り、company、firmの「会社」の訳は定着していなかった。「悪党」「徒党」の系譜の「党」にも、無論「良い意味がなかった」。





(私論.私見)