428169―1 日系中国共産党員の活動考

 「ある革命家の回想」(川合貞吉・谷沢書房・1983.2.10日初版)を古書店で見つけ読み進めたところ、同氏が戦前中国共産党員となり大陸で活動していた様子、ゾルゲ事件の当事者ゾルゲや尾崎秀実と深く親交していた様が書かれており、これは貴重と判断した。そこでこの章を設け、考察することにする。


 1930年1月リヒャルト・ゾルゲがドイツの社会学雑誌の記者ジョンソンという触れ込みで上海へやって来た。・ゾルゲの経歴は次の通り。父方の祖父はアドルフ・ゾルゲでカール・マルクスとの親交があった人物で、社会主義思想の影響を受けている。南部ロシアのバクウ生まれで、父がドイツ人・母がロシア人であった。幼少時代両親と共にベルリンに移り、当時のドイツの国家主義的教育を受ける。青年時代は熱烈な愛国者として第一次世界大戦に志願し、西部戦線で負傷したが、その後マルクス主義を信奉するようになる。1919年にドイツ共産党に入党し、後にロシア共産党に移りコミンテルンの一員となる。同志ピャトニッキーの紹介でスターリンの知遇を得ている。1927年までコミンテルンの本部で働いていたが、1927年情報活動収拾目的でスカンジナビアに派遣され、1929年に帰還している。1931年今度は中国の上海へ派遣されてきたことになる。

 この当時中国のコミンテルン組織は1927年の蒋介石の上海クーデター及び武漢政府の弾圧などのため破壊されており、その再建の為にやってきたという背景があった。身分はコミンテルンから赤軍参謀本部第4局に移されていた。



 1930.7月日支闘争同盟が創立された。上海週報の同人・田中忠夫、中国社会科学者連名の王学文らを中心とする読書会を母胎として発展したものである。読書会メンバーは、当時の左翼翻訳家・温盛光氏の北四川路永安里の寓居を根城にして行われ、王学文、温盛光、田中忠夫、西里竜夫、船越寿雄、安斉庫治、白井行幸、手島博俊、小松重雄、副島竜起、岩橋竹二、水野成、川合貞吉らであった。安斉と水野は東亜同文書院の学生であった。彼らは別に学校内に浜津良勝、河村好雄、中西功らと社会科学研究会を持ち、中国共産党の細胞に所属していた。岩橋と船越は上海毎日の記者、西里は上海日報の記者、小松は満鉄社員、川合は上海週報の論説員、手島と副島は浪人中であった。

 日支闘争同盟はいよいよ実践運動に乗り出すという意思表明であった。読書会の過半のメンバーが参加し、新たに楊某、蒋文来(本名)らが参加していた。王学文が理論的な指導を為し、具体的な中国の政治経済の諸問題は田中忠夫が担当していた。王学文は、山東省の生まれ、川上肇博士の弟子で日本の兄弟出身であった。後、彼は延安に赴き、マルクス・エンゲルス学院の校長になっている。

 9月から10月にかけて、日支闘争同盟はいよいよ反戦活動の実践に入った。工作は専ら宣伝戦であり、対象は在上海の日本陸戦隊の兵士や停泊している駆逐艦の水兵達で、中日両文の反戦ビラを撒くことを任務としていた。



 尾崎秀実は日本に戻り、大阪朝日新聞社の外報部に職を得た。

 1933.2.11日フランス共産党員ブランコ・ド・ヴーケリッチはコミンテルンの密命を受け、横浜に上陸。フランスの写真雑誌ラ・ヴュウ及びユーゴスラビアの日刊紙ポリチイカの東京特派員という職名を持っていた。

 1933.5月ゾルゲはモスクワからベルリンへ向かい、フランクフルト・ツァイツング紙の日本特派員の資格を取り、ナチス党員となった。アメリカに渡り、組織との連絡を取った上、カナダのバンクーバー経由で日本に向かった。

 1933.9.6日ゾルゲが、ナチス党員でフランクフルト・ツァイツング紙の東京特派員という名目で、横浜に上陸した。東京麻布区永坂町30番地に居所を構え、日本における工作の第一歩を踏み出した。

 10月初旬、アメリカ共産党員、画家の宮城与徳がロスアンゼルスから横浜に着いた。

 12月下旬ヴーケリッチの仲立ちでゾルゲと宮城与徳が会談し、連絡体制を構築した。

 1934.2.11日天津から大阪に戻った川合貞吉が、尾崎秀実と連絡を取り、至急組織の連絡体制の構築を要請。

 2月ゾルゲと尾崎秀実が奈良の若草山で再会。その後、尾崎は転勤工作で東京朝日新聞本社詰記者となる。

 後に、尾崎は朝日を止めて満鉄東京支社の調査室へ勤務するようになる。


 1939年初秋川合貞吉氏が、尾崎秀実宅を訪れ時局談義している。この時の軍部独走状況に対しての尾崎の弁。「僕達は、今度こそは非常な決意をもって臨んでいるんだよ。日本の党は、まだまだ力が弱くて、とても下からの革命なんて今のところ考えられもしないよ。強いのは軍部だけだ。今の日本は軍だけがオールマイティーだ。そこで、軍は自分達の力を過信して、政治でも何でも強引に引きずろうとしているが、あのプーアな政治理念ではやがて行き詰まって投げ出すに決まっている。そして結局最後の切り札はやはり近衛だよ。その時はだね、今度こそは軍に横車を押させないだけのはっきりした条件を付けて近衛を出す。いわゆる東亜新秩序の理念をそのまま社会主義理念に切り替えてゆくつもりなんだ。むろんソ連や中国の共産党と緊密な提携の上に立ってだよ。しかし、近衛の力でそれを最後までし遂げられるとは、もちろん僕だって思ってはいない。近衛はね、結局はケレンスキー政権だよ。次の権力の為の橋渡しさ。僕は今近衛の5人のブレーンの一人になっているんだが、一応はこのケレンスキー政権を支持して、やがて来る真の革命政権の為に道を開く―僕はそんなつもりで今やっているんだ」。

 それから数日後、川合貞吉氏は宮城与徳氏と時局談義している。この時の宮城の弁「労働者や農民が『九段の母』かなんかの浪花節を唸っているのを聞くと、僕はこの国が嫌になるよ。日本民族ってのは革命をやれる民族ではないような気がして来てね」。川合氏が「しかしそういったもんでもないよ。大衆というものは何か一つの機会にぶつかると、急に政治的な自覚を呼んで革命化するものだと僕は思うなァ」。対する宮城の弁「うん、大衆というものの本質は確かにそうだろう。しかしだね、今の現実を見ているとだね、国民精神総動員なんてもので段々と去勢され、首にされ、奴隷にされて、結局は餓死するまでついて行ってしまうんじゃないか、という気がするんだ」、「客観的条件は熟しつつある。上層の危険は既に来ている。そして、大衆は革命化しない。毎日のように万歳万歳の声に送られて、青年達は戦場に向かっている。そして、天皇陛下万歳といって、羊のように従順に死んで行く。それが今の日本の姿だ」。

 9.28日北林トモ、10.10日宮城、10.13日秋山幸治と九津見房子、10.15日尾崎、10.17日水野成、10.18日ゾルゲとヴーケリッチ、10.22日川合貞吉が検挙されている。翌年4.28日までに更に24名が検挙投獄された。この事件に連座し投獄された者は34名に達した。犬飼健、西園寺公一などの知名の士も含まれていた。

 宮城与徳、船越寿雄、河村好雄は巣鴨拘置所で獄死。ヴーケリッチも獄死。浜津良勝は終戦と同時に出獄したが、牢後の疲れでまもなく死亡。副島竜起の消息は不明。北林トモは病気後仮出獄して、終戦直前に死亡。水野成も仙台刑務所で獄死。

 ゾルゲと尾崎は、1944.11.7日巣鴨拘置所で絞首刑された。






(私論.私見)