戦前日共史(補足)小林多喜二考







(私論.私見)


児玉 悦子「小林多喜二論」

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第二章

 小林多喜二の代表作といえばやはり『蟹工船』である。船内での過酷な労働者への搾取とそれによる民主主義の発生を描いたこの作品は歴史的に見ても高い評価を得たものとなっている。ここではこの『蟹工船』を中心に、多喜二の文学運動の様子と、またプロレタリア運動の動向を明らかにしていこうと思う。そのためにも『海に生くる人々』で有名なもう一人のプロレタリア作家、葉山嘉樹を取り上げてみることとする。大きな影響力をこの時代の日本社会に与えた二人のプロレタリア文学者を比較し照らし合わせることは、プロレタリア運動を理解するためにも大きな意味のあることである。
 プロレタリア文学運動は一九二四年、まず人民主義的な考えを持つプロレタリア文芸連盟が成立し、これが活動の第一歩となった。そして二年後の一九二六年には日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸、機関紙『プロレタリア芸術』)と改組をする。これはアナーキストを除外し、理論的、思想的立場としてマルクス主義の方向をより明確にしようとしたものである。多喜二、葉山はこの時点では二人ともプロ芸にいた。
 翌年六月福本主義(労働者の自然発生的な階級意識の成長を重視する山川均の考えを批判したもの。革命的分子の階級意識を外部から注入しなければならないとする理論)の影響から対立が起こり分裂、労農芸術家連盟(労芸、機関紙『文芸戦線』)が結成された。しかし同じ年の一一月労芸内で山川派とそうでない人々との間で内部闘争が起き、非合法下に再建されていた共産党を支持する人々によって新たに前衛芸術家同盟、(前芸、機関紙『前芸』)が結成された。ここで多喜二は新たに組織された前芸に移るが、葉山は労芸に残ることとなる。のち三・一五事件(一九二八年)を機に前芸とプロ芸の合同による全日本無産者芸術連盟(ナップ、機関紙『戦旗』)が結成され、労芸とナップは対立の関係にまでなるが、労芸は次第に文学的な活力を失い始め、反対にナップは、新たに日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)を結成し文学運動はさらに共産主義的な運動へと発展していった。
 多喜二がついたナップ側と葉山がついた労芸側の大きな違いとは、分裂の原因となった山川イズムと福本イズムにある。一九二〇年代前半の日本のマルクス主義の理論的指導者は山川均であった。その一方で、共産党の外ではあるが河上肇のマルクス主義理論が存在した。しかし一九二五年頃福本和夫の出現とともに福本イズムが広がってきた。福本和夫はそれまでの「川上肇の二元論」と「山川均の機械的な反映論」をともに批判し、「分離結合」説を唱え、強く結合するためには、まずはっきりと分離しなくてはならないとして、理論闘争の重要さを強調した。ちょうど一九二五年はプロレタリア文学運動が大きくなり始めた頃であった。この年日本農民組合が中心となり全国的単一無産政党樹立のための運動が起こったが、この無産政党の主導権を巡って、労働組合の総同盟系と、共産党系の対立が持ち込まれた。共産主義者たちは、具体的な項目としては自分たちと大して違わない総同盟系の綱領案の背後には、資本家的精神への屈服があるとし攻撃した。そうした共産主義者の活動の中で、山川の「折衷主義」よりも福本の「分離結合論」が共産主義者をひきつけることとなったのだ。
 さて、多喜二と葉山だが、多喜二はナップ、葉山は労芸の道を突き進んだことによって全く異なった文学運動をしたこととなる。二一歳の頃多喜二が初めて葉山の『淫売婦』を読んだ時の感想に「自分にとつては少くとも記念すべき出来事である。」「自分にはグアン!と来た。言葉通りグアンと来た。」(『小林多喜二日記』一九二六年九月一四日より)と、大きな衝撃を受けたことが明らかに伺える。それからというもの葉山の文学に尊敬の念を抱き、表現法などをお手本にまでしていたのにもかかわらず、なぜ翌年の文学運動内での分裂のときに、葉山とは正反対の道へ進んだのだろうか。そこでまず、多喜二が葉山をお手本とし、尊敬していたと見られる、作品中で伺える例を挙げてみたいと思う。
 『蟹工船』の第四章にこういった文章がある。

積取人夫は蟹工船の漁夫と似ていた。監視付きの小樽の下宿屋にゴロゴロしていると、樺太や北海道の奥地へ船で引きずられていく。足を「一寸」すべらすと、ゴンゴンゴンとうなりながら、地響きを立てて転落してくる角材の下になって、南部せんべいのよりも薄くされた。ガラガラとウインチで船に積まれて行く、水で皮がペロペロになっている材木に、拍子を食って、一なぐりされると、頭のつぶれた人間は、蚤の子よりも軽く、海の中へ叩き込まれた。

 この文章は私に葉山嘉樹の『セメント樽の中の手紙』(『文芸戦線』一九二六年一月)を連想させた。セメントを作る破砕機にはまり骨も肉も粉々にされて立派にセメントになった青年が恋人に送った手紙が小説となっている作品だが、多喜二が『蟹工船』を執筆し始めた頃は葉山嘉樹やゴーリキーなどの作品を熟読していて大きな影響を受けていたと十分考えられる。葉山独特の持つユーモラスな比喩手法をお手本にしたものであると考えられる。
 また多喜二が、葉山の代表作について「『海に生くる人々』一巻は僕にとって、剣を凝した『コーラン』だった」とまで慕っていたのは有名である。さらにあげれば、葉山嘉樹の『海に生くる人々』は『蟹工船』を書くきっかけとなった作品と言われていて、どちらも海上での船が舞台となっていること、船内では多くの労働者がいて、ブルジョア階級の支配人や船長などが労働者を遣っている。船内で未組織だった労働者が団結し、運動にまで発展するという、まことに題材や舞台が酷似し、今まででも数多くの人により批評の対象になっている。
 それではここで反対に、多喜二と葉山嘉樹の作品による大きな違いを簡単に分析してみる。
 多喜二は帝国主義国家の「辺境」における植民地的な搾取、未組織労働者の団結、国家と財閥と軍隊との関係、天皇制の問題などを『蟹工船』の作中で示そうとした。そしてそれを生き生きとした描写で見事にやってのけた。しかし同時に個人を集団のうちに解消してしまったところにこの作品の欠点がある。           
 多喜二はこの作品を作り上げるにいたって長時間を費やして調査をし、作り上げた作品である。作品では労働者の独自な階層的・個人的な容貌が充分にはっきりと示されていない。全体としてはダイナミックな出来上がりとなっているが、ここの形象がはっきりと印象付けられない結果となった。また強いていうならば、ブルジョアの浅川のみの個人の形象がはっきりしていて、中心となるはずのプロレタリアの人々の人物像はくっきりと描かれていないのだ。
 『海に生くる人々』の登場人物は一人一人のプロレタリアの人物像が鮮やかである。これは葉山が一九一六年に体験した航海をもとに描写などが文章で再現されたようなものであるためだ。この作品でも団結してストライキを起こしたり、警察に連行されたり、馘を切られたりなどと蟹工船内の労働者と同じような苦しみを味わっているが、個人としての意思や容貌が描かれているため、その苦悩が受難としての印象は受けない。しかし多喜二の『蟹工船』での場合、登場人物たちは地獄のような労働を強いられただけの受難だけの存在のように思える。
 このように『海に生くる人々』では葉山自身の経験をもとに忠実に書かれた作品であり、個人から周りや情景を見つめる手法となっているが、『蟹工船』は自分の体験を通して描いてはいないために、全体として一枚の絵のようなものになってしまい、そのため個人もよりいっそう集団に埋没してしまい立体的に浮き上がってはこないものとなった。
 多喜二は確かに葉山の作品の影響を強く受け、文学的にも尊敬をしていた人物であったであろう。しかし多喜二はこの頃から自分は葉山とは別の道を歩み始めるだろうということを分かり始めていたのだ。
 葉山が一八歳の頃ゴーリキーの作品に出会いその影響を強く受け、それまでのただの放蕩生活から立ち直った、というエピソードがある。(『ゴリキイを追慕する』一九三六年八月『文芸評論』より)しかし多喜二はこのエピソードについて、

(葉山嘉樹は)手のつけられないゴロではなくなったらう。だが、そのゴロは、葉山の身体の何処にもまだゴロゴロしてゐるのだ。(『葉山嘉樹』一九三〇年『新潮』より)

と述べ、続けて

  葉山は、いわば「親父」の時代の「体験作家」であって、僕ら「息子」の時代が来ている以上、「胆石のような『ゴロ』を何処かへ捨てゝ来」ないかぎり、僕らを逞しかったその腕で振り回すことはもはやできないだろう(『昭和文学の陥穽 平野謙とその時代』中山和子著 一九八八年)

と述べている。この年は一九三〇年頃で、多喜二が『蟹工船』を発表したのは一九二九年なので、この時期に多喜二の心の中で葉山の文学的才能は認めるが、自分とは違う道に進むだろうことをわかっていたに違いない。というよりも、多喜二自身が葉山よりも別の道を進もうと歩みだしたのである。この時代の日本の特殊な困難な情勢の要求する、「鉄」の「スターリン」型の道には、葉山のような「気楽」な「ゴーリキー」型の道は全く異なったものであったのだ。葉山の文学では『海に生くる人々』でも感じ取れるように、人間のままに欲求を表面化し、プロレタリアの人々はとにかくは生きていかなければならない!というような力強さは感じるが、『蟹工船』ではそれのみではなく、プロレタリアの人々の目指すべき道を明確に示していて、文全体は『海に生くる人々』よりは客観的かもしれないが、「前衛の視点」から作品を描いている。そうなることが多喜二にとって最終の重大な目標でもあったのだ。
 ここまで上げたような多喜二と葉山の違いそのものがまたプロレタリア文学運動でも言え、それが労芸とナップであった。それから日本プロレタリア文学界は、多喜二の支持するナップ系のマルクス主義運動がひた走りに大きくなっていくこととなる。
 ではここでさらに多喜二が「前衛の視点」として、文学を作り上げようとしていた例を具体的にあげてみよう。
 私は『蟹工船』を読んで気になったところがあった。この作品は最後の文章で
そして、彼らは、立ち上がった。−もう一度!

というような力強い描写で終わっている。しかしその後に「附記」が付けられているのだ。この「附記」は作品を書き終えたしばらくした後に改めて付け加えられたものであるらしい。なぜそれまでの力強い労働者たちのストライキと再び立ち上がった描写を描いていたのに続けて、「附記」という箇条書きを付け加えたのだろうか。
 思うに、未組織労働者たちが団結してストライキを起こし、失敗に終わったが改めて再び立ち向かう、というクライマックスはとても盛り上がりに長け迫力があるのだが、それで話を終えてしまっては、多喜二はただの自然主義作家となってしまうからではないだろうか。以前まで志賀直哉の文学に傾倒していた多喜二だが(志賀直哉宅訪問や、手紙のやり取りなどを学生時代から続けていた)二年ほど前から葉山嘉樹をはじめとするプロレタリア文学に関心をよせ、深い影響を受けることとなり、そのために労働者をテーマとする作品を多く書き始めた。志賀直哉によるリアリズムの特色の影響はとても大きなものであった事は、多喜二の作品にところどころ想像し易いほどの切実な現実描写が感じられることで明らかである。しかしプロレタリア作家である多喜二とっては、ただ暗黒の現状を書き表すだけの自然主義文学者とは異なり、それだけではなくて労働者たちがこれから立ち向かうべき道標や闘争の方向を示す必要があったのだ。そして「付記」の最後の一文に、

ムこの一篇は、「植民地に於ける資本主義侵入史」の一頁である。

とある。この一行で、作中の労働者たちだけではなく、現在のプロレタリアの人々にも闘争への方向を指し示したこととなるのだ。これが今日でもなお高い評価を得ている理由で、それまでになかった現実の労働者へと直接訴える手法をとっており、当時のブルジョアジーにとっても恐れられた方法であった。
 しかしこのように「前衛の視点」で作品を描くことが本当に正しいことだったのだろうか。私はこの時代のプロレタリアの人々にとって親しみやすかったのは、多喜二とは反対の葉山側の労芸ではないかと思う。それにもかかわらず、なぜナップ側が支持を得てのちの日本に大きく広まることとなったのだろうか。
 それは、この時代の読書層が重要な位置を占めている。本を実際しっかりと読むことができたのはせいぜいプチブルジョアジー階層の人々ぐらいで、労働者で読むことができたとしても、何らかの方法で運動に少しはかかわりを持っていた小インテリな人だろう。一日一六時間ないし一八時間の悪条件での労働を休みなく強いられたプロレタリアの人たちには読書をする時間的ゆとりも経済的ゆとりもなかったはずだ。このような本来本を読むべきはずの手元には届かず、深いところまでのプロレタリア問題を知らない階層が多くの読者となっていため、頭でっかちな運動へと発展していったのではないかと思う。
 葉山は『海に生くる人々』を発表する前年一九二五年に『淫売婦』(『文芸戦線』第二巻七号)を発表しているが、この時からすでに、自分はどんなにプロレタリアの人々に近付こうとしても結局のところ自分は彼らより上の層にいるため本当の深いところまでは理解できず、問題は深く困難で解決するのは容易ではないということをわかっていた。葉山は多喜二からみて「親父」であったために、「息子」よりも社会の変革の困難さはよくわかっていたのだろう。そのため農民・労働者を第一と考えた労芸へと道を進めたのだろう。しかし「息子」のように力強く社会を変革しようとする力もまたこの時代必要であった。そしてこの時代の読者が支持をしたのも事実である。ブルジョア階層にとっては、それからの文学活動はさらに脅威なものとなり、弾圧を強め始めたのがその証拠である。
 次の章では、その激戦期へと立ち向かっていった頃の運動の様子と、その後の運動がどうなっていったか、多喜二の後期の代表作品とも言える『党生活者』を同時に取り上げて、具体的に述べていこうと思う。