日本における社会民主主義の成立は、そもそも、共産党の成立と権力への屈服を前提にしている。西ヨーロッパの社会党とりわけ、ドイツ社会民主党が、10月革命以前、半世紀にもわたる「歴史的伝統」を保持していたのに比するならば、日本の社会主義政党の歴史は余りにも底が浅かった。もちろん、明治期の日本社会主義同盟や、日本社会党が治安警察法のもとにあっても解散せず、その党組織を保持しえていったならば、社会主義者やサンジカリストや、様々な思想傾向を持った者たちの玉石混交であった日本社会党の分解過程は20〜30年代と異なった道を進んだかも知れない。だが、治安警察法で解散命令が出てから、堺利彦らのマルクス主義者も、そしてまた、高山岩三郎や安倍磯雄などの社会民主主義者たちも、独自の党を再組織しようとは決してしなかった。危機感はむしろ、幸徳、大杉らの無政府主義者の中に最も鋭く表現されたとすってよい。そして、社会民主主義者たちが、再び、自己の党を再組織し始めたのは、1922年日本共産党がコミンテルン支部として形成された後であった。しかも、普通選挙が治安維持法と引き換えに実施される動きがはっきりし始めたときにおいて、彼らは、天皇制下における議会内の議席を得ることを目的に一つの党に集まり始めたのだった。それ故、最初から彼らの共通項は、天皇制国家権力と相容れない共産党との絶縁であり、且つ又、最初から議会主義を表看板にしていた合法主義者の集まりであった。
1923年の関東大震災を契機とする朝鮮人大虐殺と社会主義者に対する弾圧・迫害を目の当たりにした山川均らの共産党創立者たちが、合法無産政党という協同戦線党の大同団結の中に、共産主義者の党の確立の準備過程を見出そうとしたのもそもそも、権力の弾圧を前提にしていたからに他ならず、10月革命の勝利によってもなおかつ、共産主義の側に自己をたたせることが出来ない者たちが、合法無産政党の様々な組み合わせを追及していったのであった。そして、労働農民党の分裂に伴う右派、中間派、左派の形成は、戦前、戦時、戦後の社会民主主義の系列を支える基軸になっていった。
片山・西尾などの社民系は、戦前からの総同盟をバックとし、労資協調主義を一貫して唱えるとともに、日本帝国主義の中国大陸侵略がエスカレートしていくや、「労資の協力による銃後生産能率の増大」と称して労働者大衆を軍需生産協力へと駆り立てていった。社会民衆党が、合法無産政党たる労農党を分裂させて出発し、その右翼社民的性格を露にしたとき、三輪寿荘、河野密、浅沼稲次郎らは、その本質においては右翼社民的な姿に、その左翼的なベールを被せて、労働者大衆が左に転換することを防止するために中間政党たる日本労農党を結成した。だが彼らは、社民系のように労働者大衆にほとんど足を持たなかったがために、侵略戦争が激化していくと転向と屈服は鋭角的になり、社民系以上に侵略戦争に対する積極的な協力者に転落していった。日本労農党の指導者麻生久らは、日本帝国主義の中国大陸への侵略戦争が激化するに及んだとき、軍部を反資本主義勢力とみなし、軍部と結ぶことが社会主義への道と称し、労働組合を解散して権力が作り上げた労働団体、産業報告会の最も熱心な鼓吹者になるという国家社会主義に転落していったのであった。
そして、1928年の3.15、翌29年の4.16の弾圧によって共産党が壊滅的な打撃を蒙り、合法無産政党たる労農党が解散させられた後、山川均らとともに労農派に属していた鈴木たちは、日本帝国主義の圧制に抗して革命的労働者党を建設する方向に向かわずに、合法左翼、つまり治安維持法によっても許容されるぎりぎりの合法性の中にのみ、自己の存在をたえず位置づけていったのであった。戦前の合法無産政党の四分五裂と離合集散の過程は、すべてこの三派を基本的な軸として展開していったが、戦後の結党後もこの事情は変わらず、三派の連合政党が社会党であり、共産主義に対する合法主義と議会主義をその統一的焦点としていた。そしてGHQの「戦争犯罪人の公職追放」の指令にあって、三輪、河野らの日労系の多くがパージされた為に、社会党のヘゲモニーは旧社民系に移行していったのだった。
鈴木などの労農派は1933年、いわゆる「人民戦線事件」で逮捕されたが、日本帝国主義の中国大陸侵攻作戦が本格化しようとしているとき、帝国主義を打倒する立場から非妥協的な反戦闘争の組織化を、合法と非合法の活動形態を統一させながら展開した「マルクス主義者」では決してなかった。彼らは一歩一歩、沈黙を守り始めていたのであり、「人民戦線事件」が起る直前、日本無産党は「時局に関する指令第一号、出征兵士家族救援について」という「反戦運動」を展開していただけだったのである。このような合法左翼が一斉に検挙されたのは、侵略戦争が激化していくなかで、民衆の抵抗を恐れる帝国主義者が、一切の平和主義に至るまでのその存在を抹殺し始めたからである。その上、加藤勘十は「皇軍慰問」のため中国大陸を旅し、検挙を逃れた。
このような戦時下における彼らの活動は、彼らにとっても汚点であり、「獄中18年」というその限りでは天皇制国家権力に対して節を曲げなかった共産党に対するコンプレックスをとりわけ「左派」の場合には、形成していくことになる。労農派が「社会主義革命論」を唱えて自己を形成したとはいえ、この汚点は、共産党に対する卑屈感を植え付けるに十分であった」。
「徳田球一たちが45.10月に出獄したとき、帝国主義戦争に一貫して反対した自己を称え、味噌もくそも一緒くたにして労農派を含めた社会民主主義者たちを社会ファシストと罵倒したが、戦時中、獄外にいて大衆的な反戦闘争を組織することさえできなかった合法左翼たちは、徳田の罵声に返す言葉がなかったのは止むを得なかったのはまた止むを得ないことであった」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。
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