戦前日共史(補足)スパイ三船留吉考 |
「スパイ三船留吉考」を論ずるれんだいこの視点は、他の誰よりも違う。それは何も奇をてらってのものではない。松本清張、しまねきよし、立花隆、くらせみきおの諸氏が当然の如く三船留吉のスパイ性を論じ、他の誰それのスパイ性をも論じようとしているのに対し、れんだいこはむしろ疑念をもってそれを眺めようとしている。 宮顕一派によって指弾されたスパイ何がしについては当たっている場合もあろうしそうでない場合も考えられる。れんだいこは、そうでない場合の可能性について考えている。何しろ、れんだいこの一連の研究によって、宮顕一派の方がより胡散臭いことが判明している。「スパイM」以降の超大物こそ何を隠そう宮顕ではないのか。となると、そのスパイ一派宮顕派によってスパイ指弾された者にいかほどの根拠があってのことか、如何なる理由で暴露されたのか等々疑問を覚えるのも致し方なかろう。 れんだいこがつらつら考えるのに、宮顕派は、党内の有能党員あるいは将来の才器に対して予防拘束的にスパイ呼ばわりしていった可能性がある。特に労農畑出身の逸材に対して攻撃を集中している風がある。従って、れんだいことしては、スパイと見なされた人士のほうに温かい目線を送らねばならぬことになる。この当時、苛烈な治安維持法下では党員は誰しも一度は検挙され、脛に傷持つ身で釈放されている。そういう訳で、スパイ呼ばわりしようと思えばその材料には事欠かない。このような流れの中で、偽装転向も含め活動していた人士の特に有能党員に狙いを定めて、宮顕派が傷口に塩を塗るようにして追討に乗り出していた形跡がある。 既存の分析はここがからきし分かっていない。あたかも自称インテリの馬鹿さ加減を世に知らしめている風がある。それを思うから、市販の「スパイ三船留吉論」などとてもそのままでは食えない。れんだいこのこの観点が共有される時代が来るであろうか。 2004.6.28日 れんだいこ拝 |
戦前日共史(補足)スパイ三船留吉考 | れんだいこ | 2004/06/28 | ||
2004.5.15日、「小林多喜二を売った男」(くらせみきお、白順社)が刊行され、戦前日共史の闇の部分である潜入スパイ問題に言及している。既に考察されている「スパイM」については他書に譲り、専ら三船留吉に焦点を絞って解明せんとしている。れんだいこは、本書の資料的価値を認める。しかしながら、その観点に大いなる疑義を唱えたい。以下、これにつき言及する。 一体、著者くらせみきお氏は、「三船留吉論」に付き公式的観点に依拠し過ぎてやいないだろうか。今日判明している諸資料からスパイM、三船留吉のスパイ性を問うことは正論であろう。それはもっと精緻に掘り下げられる必要があろうからその労は評価する。だがしかし、今やちょっと知識を持った者なら誰の目にもはっきりしつつある最も胡散臭い宮顕、袴田、野坂ラインのスパイ性の実証に向かわず、むしろ宮顕、袴田の語る観点に依拠しつつ三船留吉論を展開するなどとは錯誤が甚だしい。そのような考証は一層迷路に陥るだけだろう。 「小林多喜二を売った男」が三船留吉であるとは、日共党史の公認見解の引き写しである。著者は、他の見解を排斥しながらどうしても三船留吉にしたがっているように見える。れんだいこにはこの凡俗性ががまんならない。「本書の資料的価値を認める」が、その見解部分は到底共有しがたい。 しかし、本書で重要な点を教えていただいた。「小林多喜二を売った男・三船留吉説」を説いているのが作家同盟の手塚英孝であるということを。しかしながら、手塚のそれは、「小林多喜二を売った男・三船留吉説」を指摘するだけで何の根拠も示していない。それはできないのだろうと思われる。 ところで、本書は指摘していないが、その手塚英孝こそ宮顕の入党推薦者である。同郷の誼ということであった。戦後になって宮顕の小畑中央委員リンチ致死事件の研究に向かうが、宮顕の顔色窺いながら書き上げたことが歴然の駄作を発表している。 ということは翻って、「小林多喜二を売った男・三船留吉説」には宮顕と手塚の共謀性こそ疑われねばならないことになる。つまり、このグル関係で「小林多喜二を売った男・三船留吉説」が流布されていることになる。これを知ったのは収穫であった。 本書の著者は、宮顕と手塚の共謀性による「小林多喜二を売った男・三船留吉説」に何ら疑問を呈していない。本来、研究すべきここら辺りを何ら論及せず、逆に異説を排撃するのに夢中になっている。そういう御用性が分かる。この種の難しい問題こそ難しい故に難しいままに正面から取り組まねばならないだろうに。 れんだいこが思うに、戦前日共党史における潜入スパイ論を手がけるなら、「スパイM」以前、「スパイM」時代、「スパイM」以降の三部作で捉えたほうが分かりやすいし正確を得るだろう。れんだいこが世の自称インテリ達に失望する所以は、この正面からの課題に向かわず、枝葉末節的な姑息的な営為に傾注するところにある。 つまり、何故に「スパイMその後」で、泰山鳴動型の宮顕・蔵原−袴田ラインの活動を詮索せずままに、ネズミ数匹型の重箱の隅を突付くかのような三船留吉論を大々的に持ち上げるのだろう。そういう意味で、本書はいわば捻じれ研究書に陥っていることになる。 戦前日共党史は、戦後日共党史も同じ事になるのだが、宮顕・蔵原−袴田ラインによって解体もしくは骨抜きにされたという史実がある。これは明らかなのに、ここを避けて通ろうとしている。本書もまたこの系譜に連なっている。如何に労作であろうとも、その事大主義性が資料価値以上の華を添えていない恨みがある。 この見解に異論があるなられんだいこは引き受けよう。 2004.6.28日 れんだいこ拝 |
【「三船留吉、小林多喜二を売った男」説について】 |
明治42.2.10日生まれ。秋田県由利郡鳥海町小川字戸坂47。1972.1.7日死亡(享年62歳)。三船(三舵、武田、佐原、水原、香川等々いくつもの変名がある。ここでは三船で統一する)留吉は、「小林多喜二を売った男」として知られる。しかし、今日なお「スパイM」ほどには詳細が明らかにされていない。 宮顕は、三船について次のように述べている。「第5回公判調書」で、「スパイ水原(三船の党名)のごときは、江東の改良主義的労働組合にいたスパイ」。「第7回公判調書」で、「元来、三船は、社会大衆党から入って来、共青、その他の組織に入り、その間組織を破壊される被害があったのであるが、探査をせぬうちに中央部に入ってきた男である」。 松本清張氏は、「小林多喜二の死」の中で、概要「小林多喜二は特高警察のスパイに転落していた三船留吉によって官憲に売られ、その結果、多喜二は特高の拷問によって築地警察署で落命した」と記している。しかし、三船の研究はスパイMのそれほどは進まなかった。しまねきよしが「日本共産党スパイ史」の中で三船の実態解明を試み言及しているが十分なものではない。 立花隆の「日本共産党の研究」は、三船の特高スパイとしての事績の概要を系統的に明らかにした。異色な点は、三船スパイ論を一層亢進させ「もともと根っからのスパイ」、「当局の雇われスパイではなく、当局の人間そのものだったのではないかとも考えている」なる見解を披瀝したところにある。 2004.5.15日、くらせみきお氏より「小林多喜二を売った男 スパイ三船留吉と特高警察」(白順社)が出版された。くらせ氏は、表題通り「小林多喜二を売った男」なる観点から、より精緻に三船氏の履歴を概述した。 |
従って、流布されてきた「三船スパイ論」は一から検証し直されねばならない。むしろスパイで無かった可能性から詮索せねばならない。スパイだったとして、何時から如何なる心境によってスパイになったのか。それはどの線のスパイであったのか、三船の手引きとされている検挙のどれが本当で後は濡れ衣かを検証せねばならない。最大のテーマは、小林多喜二を売ったとの説は本当かどうかの吟味であろう。 れんだいこは、小林多喜二を売ったとすれば宮顕の方こそ怪しく、それをそらすために三船説を流しているように見える。そもそも文芸戦線は特殊なそれであり、小林多喜二との秘密の連絡網は宮顕の方こそ本締めだったのではないのか。これは当然に勘ぐられねばならないのにどの識者も言及していない。 2004.6.28日 れんだいこ拝 |
【「三船留吉の党内履歴と系譜」考】 |
三船の「党内履歴と系譜」については、れんだいこの「戦前日共史(七)不屈の再建史考」と「戦前日共史(八)宮顕の党中央潜入と「スパイ摘発闘争」の実態考」に記した。云える事は、党内労農畑の出身であり、非インテリ系譜で登用されていった形跡がある。立花式の当初より特高筋の可能性については穿ち過ぎではなかろうか。大泉の軟派に対してむしろ剛派の臭いがする。れんだいこは、小畑に対するようなスパイではない論までは主張しないが、宮顕式の「小林多喜二を売った男」説は採らない。 |
【三船留吉の履歴考証その三、党活動から引退の活動】 |
1934.3.2日、三船が奥嶋時子と入夫婚の形で結婚。 1935.3.4日、共産党中央委員会が壊滅する。袴田里美検挙。 1939年春頃、吾*精機鋼業に鉄鋼職人として入社。数年勤務後、退社。満州へ渡る。シベリア抑留。1949.7.20日、帰国。富山で奥嶋組。関西電力の下請け会社。有力下請企業に成長。 |
(私論.私見)