4281612 | 明治期 | 明治維新後の民衆闘争史 |
(最新見直し2006.5.6日)
幕末維新を目指す新権力は民衆に多大の幻想を与えることによって権力奪取への協力を取り付けた。明治維新は、民衆の期待と支持により成功裏に推進されたという面がある。かくて、徳川270年の幕藩体制が崩れむ明治の世になった。士族は解体され、新支配階層として官僚が生み出されていくことになった。しかしながら、明治維新政府は西欧列強化を夢見て、富国強兵政策・文明開化政策の強力導入により欧米に対抗しての資本主義化を推進することを目指すことになった。いわゆる日本帝国主義化の道である。 この動きは百姓・町民側から見て「裏切られた革命」となった。当初は新政府に期待したが、税の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)は依然として重く、これでは葵の紋が菊の紋になっただけだと不平不満が噴出した。民衆は次第に幻滅を味わうようになり、こうした不満が各地に一揆を頻出させていくことになった。 |
【明治初年に各地で騒動が勃発】(「19世紀日本の民衆思想」参照) |
早くも明治初年に各地で騒動が勃発している。1870(明治3) 年に柏崎で藤七騒動が発生している。この時作られた「しんはんちょぼくれ」では、「やれやれ皆さん、聞へてもくんない、天朝御政は、恐しものだよ」( 近代思想大系87) と歌われている。 1871(明治4)年、広島県の武一騒動では、廃藩置県による「異人支配」が、諸悪の根源であると叫ばれている。1872(明治5)年、「天地一変シテ世界泥海トナル」とする流言も生まれている。 新政府は、こうした民衆の動向に対して、「愚妹な民衆」つまり文明を解さない野蛮で粗野な民衆という視線で対処しており、これを上からどのように「教導」して国民化いくか、という姿勢を執った。大久保利通は「箇様ノ狼藉ヲ働クノ徒ハ幾万アリト雖、今度コソハ根ヲ断チ葉ヲカルニ至ルベシ」とし、国家「土崩」を招くかに見える民衆の動向に露骨な不快感と恐怖の目を向けている。 そして、こうした民衆に対して「威を以て畏す」という発想の軸に据えられたものこそ天皇に他ならなかった。天皇の権威を全面に押し出し、政府の政策に服従する民衆、更にはその政策に主体的に参加する民衆・国民を創造すること、これが明治国家が、天皇制国家として登場してきた最大の理由であったと思われる。 民衆の抵抗運動はやがて、地租改正反対一揆・反学制一揆・徴兵令反対一揆(血税騒動) へと繋がっていくことになる。1876(明治9) 年、伊勢暴動では、「方今一変シテ郡県ニ就キ、諸侯及士卒ノ禄ヲ廃シ、兵ニ庶民ヲ取ルト雖モ、租額敢テ減ゼズ、而シテ諸税益ス益ス加フ。( 太政官札は) 朝廷ノ欲スル所ノママ也。且天子モマタ人ノミ、其食ヲ喫スル匹夫ニ過ギズ」 (近代思想大系120)と叫ばれている。 明治十年代には、丸山教という民衆宗教を起こした伊藤六郎兵衛は「文明は人倒し」として、文明開化自体を呪う詞を投げかけていおり、明治維新後も一向に改善されないどころか、ますます苦しくなっていく生活のなかで、民衆のなかには西洋文明が諸悪の根源であるとする考えも広がっていったようである。 B こうした発想は、実は既に江戸時代に水戸学と言われる学問のなかで生まれていたものでした。水戸学とは、内外の危機的状況の中で、特にロシア・イギリスの接近という対外情勢のなかで、これと対抗する国家構想を述べた会沢安、藤田東湖ら、主として徳川斉昭の下に結集して水戸の天保の改革を担った人々によって主張された学問を言います。吉田松陰らの尊王攘夷運動にも大きな影響を与えたことで知られる学問です。代表的なものとして知られる会沢安の『新論』では、天皇を中心に据えた「祭政教一致」の国家こそが、「民志」つまり「民心」の集中をはかる最も効率的方法であるとされ、それが外国と対決する最も根本的道であると主張されています。「それ我に一定の略ありて、以て夷狄を御せば、すでに以て民志を一にするに足れり。」「この祭あれば、これを朝廷に行ひ、これを四方に達す。上その事に任じて、民は上に聴き、ただ廟堂をこれ仰ぎて、民志の純一なる所以なり。」 無論、会沢とて、外国に対抗するための武力の充実を軽視しているわけではありません。どのように富国強兵をはかっても、その担い手である民衆が離反したのでは、国家が根底から瓦解してしまうという危機感が、この主張の背景にあります。そして、愚かな民衆をひたすら国家に動員するためには、何よりも「天皇祭祀」による「威」によって、民衆を威圧することが肝要であるとされているわけです。 この水戸学の主張こそが、それのみとは言えないにしても、明治国家の対民衆政策の基本となったと言えます。例えば、明治初年に行われた神仏分離令・神道国教主義政策は、その代表的なものです。神道国教主義自身は、仏教などの抵抗によって結果的に失敗しますが、伊勢神宮を頂点とした神社を、国家的神社として位置づけ、その崇拝を国民に強要していく政策は、戦前を通じて行われた政策でした。これと並行して靖国神社・平安神宮・明治神宮などの新しい神社も創建されていきます。 江戸時代まで、村々で主として農作業のスケジュールによってバラバラに決まっていた休日(「遊び日」と言われました)も、こうした神社行事に関連させて、国民の祝日として一律に定められていきます。一月一日の新年節、一月三日の元始祭、一月三十日の先帝祭、二月十一日の紀元節、三月二十一日の春季皇霊祭、四月三日の神武天皇祭、十一月三日の天長節、十一月二十三日の秋季皇霊祭といった具合です。いずれも、先ず天皇自らが神社参拝や祭祀を実行し、民衆への神社崇拝を促すものとして機能しました。これらの祭りでは、天皇を軸とした礼拝・祝詞が新たに定められ、学校等を通じて徹底がはかられました。 これと並んで、直接民衆に天皇イメージの普及をはかるために、天皇巡行が再三にわたって行われました。明治5 年の近畿・中国・九州地方への巡行、明治9 年の東北地方、明治11年の北陸・東海地方、明治13年の中央道地方、明治14年の東北・北海道地方、明治18年の山陽道地方への巡行がそれです。ここでは、近代的文明開化の先頭をゆく洋服の天皇イメージの普及と並んで、地方神社への参拝を通じた最高祭祀者としての天皇イメージ、そして高齢者・孝行者などの表彰、困窮者への救済を行う「仁政」者としての天皇像が強調されていきます。また、これらの巡行と合わせて、軍部の大規模な地方演習も行われ、大元帥としての天皇像も演出されています。 こうした政策の集大成が、明治憲法であったわけですが、その体制を支えたものは徴兵制に基づく軍隊や、教育勅語に基づく義務教育体制、又、祝祭日等を通じて浸透させられた国家神道体制であったと考えられます。 C さて、こうした一連の政策を踏まえて、もう一度最初の『東京風俗志』の記事を見ると、興味深い事実に気づかされます。つまり、先に日清戦争頃の東京の人々は、江戸時代とあまり変わらない生活を送っていたのではないかと述べましたが、それは政府の必死の近代天皇制国家への動員策に拘わらず、それはあまり効果を挙げていなかったのではないか、ということになります。例えば、義務教育があまり普及していない様相、あいも変わらず雑多な信仰が「霊験」によって流行っていること、皇祖神として最第一に重視されたアマテラスですら、縁起棚で現世利益神として祭られていることなどを敢えて取り上げてみたのも、これらが実に近代天皇制国家の民衆支配の中核に抵触するものであったからです。しかも、こうした政府の政策をあざ笑うが如く、民衆は自分たち自身の救済・変革を、政府とは別の次元に求めつづけました。ここでは、先に挙げた金光教の場合を例にとってみます。 先に江戸時代の民衆の意識を代表させるものとして金光教を取り上げましたが、この金光教は明治時代になって爆発的に伸びはじめます。殊に、大阪など都市部の貧民層が中心的な担い手になっていきます。その理由は、金光教がかれらの日常的で具体的な願望に応えていったからです。一言で言うと、それは「病気直し」などの現世利益の実現と、民衆的な組織としての「講」的共同体の拡大ということになるかと思います。つまり、近代化に飲み込まれる民衆の切実な要求に応えるものとして、金光教は江戸時代以来の伝統的民衆の信仰を武器に教勢を拡大していったのです。このことは、同じく幕末に中山みきによって開教された天理教にも当てはまります。天理教も関西を中心に明治に爆発的に教線を拡大していきますが、そこでも「病気直し」と「講」組織が布教の中心でした。 しかも、金光教や天理教には、当時明治政府が押し進めていた政策を、真っ向から批判する思想が流れていました。金光教の教祖赤沢文治は明治九年に「天地の道つぶれとる」と激しく明治の社会を批判し、明治十三年には「教導職ではいけん」と当時の国家神道体制を批判しています。また、天理教の教祖中山みきは、「谷底」の生活から権力者である「高山」を痛烈に批判し、明治の「よなおり」を叫んでいます。そして、こうした教義の根底には、「天子様も人間」「人は皆神の氏子」(金光教)「一列は皆兄弟」(天理教)という、かなり徹底した人間平等観が存在し、平等な民衆の「陽気暮らし」(天理教)を願う心情が流れていたと考えられます。 しかしながら、こうした金光教・天理教などの主張は、明治国家の到底容認し得るものではなかったのです。明治政府から見れば、これらの宗教は、近代化と文明開化に立ちはだかる「愚昧」な民衆そのものであり、まして、金光教の掲げる「天地金乃神」、天理教の掲げる「天理王命」と言った神は、神道・神社とは凡そかけ離れた異端の教えであったわけです。こうして金光教の場合は明治三十三年まで、天理教に至っては明治四十一年まで、その教えは厳しく禁じられ、教祖を始め布教者は何度も拘置所に拘留されることになります。 こうした金光教・天理教の姿には、近代天皇制国家の政策とかけ離れた民衆の姿、あるいは天皇制国家の政策とは異なった民衆の心情が凝縮されて示されています。ついでながら、金光教・天理教は、合法化されて以降も戦前を通じて、国家からは一貫して不信の目で見られ続けます。そして、大正期には出口なおの開いた大本教が、昭和になるとホーリネスなどのキリスト教団が、更に同じような政府による厳しい弾圧にさらされます。近代天皇制国家による国家神道体制の「鬼子」として、これらの宗教は労働運動、マルクス主義・社会主義思想と並んで、国家から排除の対象として位置づけられていったのでした。 ところで、このような金光教・天理教の姿は、確かに教祖の教えに即した場合は、今述べたように明治の天皇制国家に動員されなかった民衆像を示していると言えます。そして、それは先に見た『東京風俗志』にも通じるものであったと言えます。しかしながら、これら金光教・天理教が明治国家から公認を得るため行った涙ぐましいばかりの努力からは、やはり結局は国家に動員され国民として統合されざるを得なかった民衆の姿も窺うことができるのです。ちなみに、金光教は国家から公認される、つまり合法化されるために、何と神様の名前や序列を変え、アマテラス=「日乃大御神」を一番目に持ってきて、「月乃大神」「金乃大神」を次に持ってきます。この場合は、金光教の本当の主神は、「金乃大神」つまり金神なわけですが、金神などという文明開化に「そぐわない」神名を変え、更に皇祖神を一番目に置くことで国家の公認を得ようとしたわけです。金光教では、いよいよ合法化の見込みが立った日清戦争時には、積極的にこの戦争への協力・献金を呼びかけ、朝鮮や清国を「討つ」ことを神の教えと説くに至っています。 再び『東京風俗志』ですが、日清戦争後に、未だ江戸時代と異ならない民衆の姿がそこにあることを強調して取り上げてきたわけですが、実は微妙に天皇制国家の民衆支配の浸透を窺わせる記事も存在しています。子供たちの遊びに日清戦争が影を落として「児童また勇壮を喜び、軍事を嗜み、隊を編みて足並みを揃へ、軍歌を嘔うてあるき、軍帽を冠り、隊章を掲げ、竹杖を銃に擬して闘ふあり」(214) とある記事や、一月八日の陸軍始め・観兵式、四月五日の臨時招魂祭、十一月五日の兵役者の交替の記事が見えはじめていることがそれです。こうして、江戸時代の風俗を色濃く引きずりながらも、次第に近代天皇制国家のイデオロギーが、戦争などを通して民衆に及び、国民化が進展していったと考えられます。その転換期の開始こそが、まさに『東京風俗志』の書かれた時期であったと言えるでしょう。そして、そこに国民化の世紀としての十九世紀の一つの帰結があったと、わたくしは考えています。 |
【足尾鉱毒事件と田中正造】 |
(私論.私見)