福本理論の眼目と歴史的意義

福本イズムとは

 「福本イズム」をれんだいこが概説すると次のように云えるのではなかろうか。

 概要「1920年代半ばに登壇した第二次日本共産党再建の理論的立役者・福本和夫が唱えた理論で、第一次共産党解体後、穏和的合法主義への『方向転換』を企図していた山川理論が打ち出されつつあった流動局面に登場し、マルクス主義の原理論を対置して対抗した。『山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず』論文が度肝を抜いた。マルクス主義の通俗的理解に異を唱え、マルクス、エンゲルスの原典著作に基づく理論闘争を挑み、その理論は『分離結合論』に象徴されるが、その理論的精度の高さが当時の左翼意識の高い学生らに熱狂的に支持され、当時の左翼論壇を一斉風靡することとなった。

 この福本イズムありて日本共産党が再建された。しかし、コミンテルンは、福本イズムの理論重視主義の発展がいずれコミンテルンの統制からはみ出る可能性を持つことを察知してかその意義を認めず、福本イズムに対して『現実遊離の理論偏重主義にして分裂主義』と批判し、再建されたばかりの第二次日本共産党に福本イズムからの決別を迫った。第二次日本共産党幹部がこれを受け入れたため以降福本イズムは急速に影響力を失い、日本左派運動史上から封印されることになった。驚くことに、福本イズムに対するこの時の否定的観点は今日まで続いており、『当時、この党再建運動のイデオロギーとして猖獗を極めたのが彼の悪名高い福本イズムであった』と総括されたまま、この見解に疑義無きまま経緯している」。

 上述のような福本イズム観はいかがなものであろうか。他方、一部ながら福本イズムを高く評価する流れも有る。高知聡・氏は、著書「日本共産党粛清史」の中で、「(そういう)組織実態を考えるなら、理論闘争の即自性自体においてすら、圧倒的な意義があったといえるほどである」と福本イズムを評価している。

 れんだいこ史観に照らしてみても次のように云える。「福本イズムの意義は世界史的に認められ、先行して革命を遂行したロシアマルクス主義が公式主義的隘路に陥りつつあった当時に於いて、これに果敢なる理論闘争を挑み、当時のマルクス主義のどの潮流よりも革命的理論を称揚したことにおいて功が認められる。福本イズムは、党員の革命的理論と意識を重視し、これを獲得した党員達による党を構成しようとして実際に第二次本共産党を創建した実践的有効性にも意義が認められる」。「理論百%主義と酷評されようとも理論自身の生産性を的確に認識していた」、という意味でかなり価値が高いイズムであったと思われる。

 爾来、この国の左派運動史論は事態を逆に描き悦に入る習性がある。明治維新然り、幸徳ー大杉派のアナーキズム運動然り、「福本イズム」然り、武装共産党然り、徳球ー伊藤律派運動然り、60年安保ブント運動然り、70年安保全共闘運動然りで、史上高く評すべきものを悪し様に罵るのを学習する癖が有る。

 しかも、右から左からこれを為しており、どちら側の理論を学んでも本来望まれる革命的意識に辿り着かないという変態の裡にある。この不毛をどうにかならんか。

 2005.1.6日 れんだいこ拝


福本イズムの席捲過程

 福本イズムの概略は「生涯の概略履歴」で確認するとして、ここではその席巻ぶりを見ておくことにする。

 福本は、第一次共産党の解党後の流動局面の最中の1924年に帰国する。 帰国した福本は、非合法組織のコンミュニスト・グループと連結しつつも、暫くは雑誌マルクス主義の寄稿家としてとどまり、すぐに実践活動には飛び込まなかった。早速に山川均主宰の雑誌「マルクス主義」12月号に最初の論文「経済学批判のうちにおける資本論の範囲を論ず」を発表し左翼論壇にデビューした。翌1925.1(2)月号に「河上博士の経験批判論(マッハ主義)を批判す」を発表。以来、後に福本イズムと呼ばれる見地からのマルクス主義理論、革命の戦略、戦術、組織論を毎号論文を発表し続けていく。

 福本は、第一次共産党の一方の旗頭であった山川が合法無産政党=労農党運動へ靡きつつあった局面で、他方の動きであった党再建派に力強い援護理論を提供して行った。福本理論は、マルクス、エンゲルス、レーニンの原典に依拠し、マルクス主義の原理原則を再確認せしめるのに大いに役立った。

 福本理論の眼目は、その理論において従来の日本コミュニズム運動の在り方に鋭い批判が込められていたことにあった。福本は、日本マルクス主義運動に足らざるものとして意識的に「分離結合論」を持ち込んだ。この観点は、主として山川イズムを右翼日和見主義であると論難していることに意味があった。概要「理論を実践の直接経験から形成する仕方なるものは『組合主義』でしかなく、これが『従来我々の陣営を支配していた指導精神』であるが、これは『悪しき折衷主義』に他ならない」と批判していた。

 福本は、「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文を発表するや熱狂的に支持された。山川派の合法主義運動に反対し、これを組合主義・折衷主義、日向ぼっこ論であるとして批判排撃し、非合法をも辞さぬ前衛党としての共産党活動の意義を説き、共産党再建を主張した。他方で、日本共産党史に輝く「渡政、市正、徳球系運動」的急進主義運動でさえ経験主義でしかないとしてその欠陥を鋭く突いていた。原典に基づく理論闘争を開始し分離結合論を唱えた。この両面で学生らに支持され、福本の名を高め、のちに「福本イズム」と呼ばれるようになる。

 こうして、1925年から19826(大正15)年にかけて、福本和夫による精力的なマルクス主義理論活動が展開されていった。日本マルクス主義運動はあたかも福本イズム一色となった。福本イズムの今日的評価はともかく、概要「1925年、福本イズムは一世を風靡した」(高知聡「日本共産党粛清史」)という情況が生まれ、福本自身も「俺は日本のレーニン」と自負していた、と伝えられている。この頃福本は、初期三部作、「社会の構成並びに変革の過程」、「無産階級の方向転換」、「経済学批判の方法論」を刊行した。 


福本イズムに対する当時の寸評

 栗木安延氏は、著書「福本和夫のドイツ留学と日本マルクス主義」の中で次のように記している。「それは主にドイツのカール・コルシュやジョルジュ・ルカーチらの影響ないし息吹を日本に輸入した」。

 石堂清倫も「わが異端の昭和史」、「続 わが異端の昭和史」、「20世紀の意味」の中で次のように記している。

 概要「福本理論となると、たとえ一時期にせよ、あれほどの影響力をもったのは、それなりの根拠があったにちがいない。何といっても、日本のマルクス主義が、説明の学であって行動の学でないという歴史的負い目がある。だからといって、われわれはすぐさま福本主義に移行したのではない。それどころか多くの会員は大なり小なり福本主義に抵抗した。いわば懸命に抵抗したうえ、力つきて福本氏の軍門に降ったところさえある。その最大の力は目新しい弁証法的思考ということであろう。福本はわれわれよりもはやくルカーチもコルシュも知っていた。われわれのまずしい哲学的教養は、『カントに帰れ』の新カント派的なもので、ヘーゲルはマルクスをつうじてしか知らなかったから、ルカーチの魅力に惹かれるばかりで、それを批判するほどの目はもたなかった。コルシュ理論と福本理論の親近性は、福本の声価をたかめることになった。社会の構成と変革を一元的にとらえる論法は魅力でさえあった」。
 「これまでの指導者たちが触れるのを避けてきた問題を福本氏が大胆にとりあげたというのがわれわれのうけた印象である。福本の真意がどこにあるかを十分に考えることなしに、レーニンを(ママ)『分離結合』の理論にオーバーさせて福本の本を読んだのである。福本主義には革命的弁証法があり、それは革命党の組織論として、また革命戦略として現われると私たちは信じた。そして、福本理論に日本の社会と経済、文化と国家の具体的分析があるかないかを反省するいとまもなく、それに傾倒していった」。
 「山川批判であるならば、理論としての福本主義は支持しにくくとも政治的に支持したくなる空気があった。何かといえば大逆事件の二の舞は避けよという事なかれ主義、受動と待機の山川主義よりも、能動と敢為の福本主義のほうが頼もしい感じがした」。
 「共産党指導部が福本の論理に便乗したのは、それしか山川主義を超克する手段がなかったからだという説もある。とにかく、組織活動や党活動の経験がなく、したがって労苦をともにした戦闘の中での同志ももたず、日本の社会経済についてそれほど具体的知識があるとも見えない福本を党に迎え、いきなり最高のイデオロギー指導を託したのであるから、大変な冒険である。だから、福本その人よりも、これを迎え、これを利用した人々に『福本主義』の最大の責任があろう」。

 林房雄の「文学的回想−狂信時代」には次のように記されている。「読んでみて、私はびっくりした。引用されている文は、私などは一度も読んだことの無い重大な章句ばかりだ。堺利彦も山川均も猪俣津南雄も佐野学も佐野文夫も青野季吉も、引用してくれたことはない。日本のマルクス主義者がいかに無学であったかを、いやでも思い知らせる新鮮な内容を持っている。−少なくとも学生理論家の私には、そう思われた。完全に圧倒された形で、私は無条件で発表するように西雅雄に薦めた。福本和夫の論文は、それから毎月続けて発表された。そして次第にセンセーションを巻き起こした。最初は研究論文だと思っていたら、3回目当たりから政治論文であることがわかった。引用文ばかりでありながら、それがそのまま山川均をはじめとする古い指導者に対しての痛烈きわまる批判になっている」。 
(私論.私見) 福本イズムの史的意義について

 福本の以降2年余の精力的活動は日本左派運動史上稀有なるマルクス主義の創造的な時代で有り得ていたように思われる。福本イズムに対する否定的評価の大合唱こそナンセンスの極みと云うべきではなかろうか。

 2005.1.7日 れんだいこ拝


戦前日共運動における福本の果たした役割その1、哲学的訳語創出「揚棄」の造語について
 福本は、マルクス主義の哲学的認識論に於いて、「アオフへーベン」をそれまでの和訳語「止揚」に対して「揚棄」と表現すべき、と指摘した功績も持つ。 

戦前日共運動における福本の果たした役割その1、哲学的訳語創出「疎外」の造語について
 更に、1926年当時において「疎外」という訳語をも造出し、概要「人間疎外の現実と対決して『階級性と人間性との統一的考察』を目指していくのがマルクス主義運動の眼目であり、本来のマルクス主義に立脚して『自主性、人間性の回復、その実現』を重視した運動を展開せねばならない」とした。

 「疎外−主体性論」を打ち出した福本は、史的唯物論の再構成、組織論、経済学研究などに先駆的な業績を残した。半世紀以前の日本の政治的社会的現実の中で展開された福本イズムの意義と限界を、全体にわたって解明するのは今後の課題であるが、福本の圧倒的な優位性は、「マルクスに基づくマルクス主義」の再建が目指され、それ故に当時の国際的権威であったブハーリン批判をも可能とし、当然のことながらまだスターリン主義によって毒されていなかった、ことであった。

戦前日共運動における福本の果たした役割その2、理論面「山川主義批判」について
 福本は、山川主義の本質が「投降主義的マルクス主義」にあることを見抜き、これを鋭利に批判した。その観点は、今日に於いても瑞瑞しいものがある。

 
その後、マルクス主義的日本左派運動は、労農派、共産党中央、福本イズムの対立を見せつつ独自に発展していくことになった。革命戦略論において、労農派は、「日本はすでに不完全ながらブルジョアジ−に権力が渡った資本主義国である」として、社会主義革命を主張。共産党は、日本は天皇制絶対主義」との見方からブルジョア民主主義革命−社会主義革命の2段階革命論を主張した。この論争は理論的には明治維新をどう位置づけるかという点に集中し「日本資本主義論争」と呼ばれ、戦前戦後を通じて論争されていくことになる。

戦前日共運動における福本の果たした役割その2、理論面「分離結合論」について
 福本理論の眼目は、その理論において従来の日本コミュニズム運動の在り方に鋭い批判が込められていたことにあった。福本は、日本マルクス主義運動に「分離−結合」論を持ち込んだ。「分離−結合」論とは次のようなものであった。概要「無産階級の運動は、経済闘争から政治闘争へと転換すべきであり、そのためには革命意識の昂揚を必要とする。それにはまず無産階級の中から真のマルクス主義者のみが分離して、それだけが結合しなければならない」。

 この観点は、主として山川イズムを右翼日和見主義であると論難していることに意味があった。加えて、日本共産党史に輝く「渡政、市正、徳球系運動」が経験主義でしかない欠陥を鋭く突いていた点でも、「(そういう)組織実態を考えるなら、理論闘争の即自性自体においてすら、圧倒的な意義があったといえるほどである」(高知聡「日本共産党粛清史」)。


 福本イズムの特徴は、「先に既に革命を遂行した一国を除いては果敢なる理論闘争により、世界いずれの国におけるよりも先鋭なる意識を獲得したる政党」として、日本共産党を形成しようとしていたことにある。いわば「理論百%主義」と評されているゆえんのところであるが、理論を実践の直接経験から形成する仕方を「組合主義」として否定し、これに癒着していたのが「従来我々の陣営を支配していた指導精神」であるみなして「折衷主義」と批判していた。

戦前日共運動における福本の果たした役割その2、理論面「福本テーゼ」について

 福本は、「22年テーゼ」から「27年テーゼ」の間において、むしろ「福本テーゼ」とも云うべき純日本産の論点を随所に示している。その白眉なところを確認すれば、1・日本資本主義急速没落論を否定、むしろ上向論。2・非連動式二段階革命論を否定、むしろ急速転化式二段階革命論。ブルジョア民主主義革命が急速にプロレタリア革命に転化するとの展望を打ち出す。3・明治維新の封建革命論を否定し、むしろブルジョア革命論。4・明治維新政府のその後の政体を絶対主義的天皇制と規定。5・山川イズム的合法主義運動ではなく、前衛的組織論の下での運動の指針。「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文による提起。

 明治維新に対しては次のような見解を披瀝している。「明治維新は、不十分なものではあったが、明らかに、ブルジョア革命と見るべき一大変革で、封建制度は明治維新で根本的には打破された。しかし、明治政権は一面的に資本家政府とか、あるいはその逆に地主政府とか見るべきではない。資本家階級と地主階級とを平衡させ、ある独立性を保持しながら、それによって超階級的存在であるかの如く見せ掛け、ないしそう訴えながら、仲裁者として両者にのぞみ、両者を操ったのが、明治の国家権力と明治の天皇制であった」。「これが1926.12.4日の五色温泉での党再建大会で、我々の決定したところであり、それは私の持論にもとづいたものであった」。「それはいずれにせよ日本で初めて、テーゼの公式によらず、自主的に芽を吹いた独自の主張」。「27年テーゼによって、憐れにも無残にも二葉のうちに踏みにじられてしまった」。(「革命回想第三部 32年テーゼ並びに徳田主義の検討」)。


戦前日共運動における福本の果たした役割その3、実践面「第二次共産党再建指導」について

 福本は、第二次日本共産党創出時の理論的指導者であった。この福本イズムの登場により共産党再建活動が進展していくことになった。福本、佐野文夫、渡辺政之輔の3名がこれを指導した。こうして、山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建されることになった。

 つまり、第二次共産党再建に当たってこれを指導したのが「福本イズム」であった。云い方を変えれば、第一次共産党解党後の当時の主義者は、「福本イズム」を獲得することにより再建を可能にさせた。「福本イズム」はそういう史的意義を持つ。れんだいこの観るところ、その理論は当時の世界的左派運動の中でも見識が高い。この点はもっと評価されても良いように思われる。

(私論.私見) 福本イズムの実践性について

 福本理論に対して次のような批判が為されている。概要「福本主義は、そのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである」。

 上述のような批判は、ならば手前達が極右でもなく極左でもなく真性の運動を進展せしめている立場にあってこそ通用しよう。2005年時点に於いて果たして、これに資格の有る潮流が存在するのだろうか。単に批判だけの己の自己批判に向わないその精神こそ批判されるべきだろう。

コミンテルンの福本イズム批判

 再建を指示したコミンテルンは、第二次日共を生み出すのに功績のあった福本イズムを警戒し、これと決別するよう強制した。第二次共産党を創建した指導部メンバーが大挙モスクワ詣でし、コミンテルンと打ち合わせした。度重ねて会議が持たれたが、席上、福本イズムが否定された。モスクワ詣での一行は、事大主義的に競うようにしてこれを受け入れた。

 マーフィー→ブハーリンを主査とする委員会が徳田球一、片山潜、渡辺政之輔らを交えて「日本問題に関する決議」、いわゆる「27年テーゼ(ブハーリン・テーゼ)」を作成し採択される。日本の指導部はこれを受け入れ、共産党は路線転換を行った。福本イズムは舞台から去る。

 こうして、コミンテルン事大主義下の日共運動は自ら福本イズムを排斥して行くことになったが、福本主義の2年余の活動は日本左派運動史上の金の卵であり、その卵を自ら潰したことになる。日本左派運動はこの時より「理論軽視」の負の歴史がついて廻ることになる。

 同年秋、「27年テーゼ」が日本に持ち込まれ、党幹部全員一致で意思統一した。この「テーゼ」は、日本を半封建社会と位置づけ、「天皇制と結びついた封建社会残存物を一掃する民主主義革命からはじめなければならない」とし、「共産党を前衛として指導の中心に立てるとともに、統一戦線戦術によって、労働組合および大衆政党を内部から占領していかねばならない。かくしてブルジョア民主主義革命から適時、社会主義革命へと転化していくことが必要である」と、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ急速転化という「二段階革命戦略」を明示した。


日本左派運動の福本イズムとの決別による負のツケの自己撞着について
 福本イズムを超法規的に廃棄したその後の日共運動には、次のパターンしか残されていなかった。自主性を損なったその上で、国際主義においてコミンテルンへの拝跪、国内闘争に於いて、一つは左翼化としての無謀冒険主義、二つは転向、三つは反左翼化としての日帝への協力主義。いずれにしても、自暴自棄路線であり、本来の意味での左派精神は発揮されない。

(私論.私見) 福本の自主独立路線と国際プロレタリア主義考

 福本は、かの当時に於いて、日本左派運動の自主独立路線を指針させていた。後年福本がルネッサンス論へ向った伏線がこの辺りにあるように思われる。惜しむらくは、ならば、幸徳ー大杉派のアナーキズムに対してどう一致するのかしないのかについて考察して欲しかった。れんだいこはひれにつき知らない。

福本の鋭い指摘について
 福本は、かの当時に於いて、階級としての労働者概念と個々の具体的労働者との区別について、「それを同一視してはならない」と指摘していた。これは労働者分子とインテリの問題に繋がる。

 「我々は市正説のような傾向には反対だった。いかに個々の労働者には忌み嫌われ、憚られようとも、労働者が労働者階級としてその歴史的使命を果たすためには、この区別はハッキリ十分に認識した上で、使命達成の道に添うよう向上し発展してゆくべく適切に対処し努力していくのでなければならぬというのが我々の考えであり、マルクス・レーニン主義はまさにこうあるはずだと我々は思っていた」。

福本の鋭い指摘について
 共産主義は再生するか!? ─福本和夫『革命回想』を再読する─参照。追って、れんだいこなりに整理しなおす。

 福本の著書集「革命回想」の第三部第二章の中で「生産協同組合論からみた本来のマルクス主義とレーニン主義」が掲載されている。福本はこの中で、凡そ日本左派運動史上初めて「プロレタリア独裁と生産手段の国有化を二本柱とした公認の共産主義建設路線」に疑義を唱え、代わりに「1860年代初めのマルクスは 共産主義に至る全く新しいの構想を『協同組合の連合体』に見出していた」なる視点を打ち出している。

 恨むらくは、福本は、国有化理論のハシリを1848年の「共産主義者の宣言」に求めていることか。れんだいこの知る限り、「共産主義者の宣言」にはそのような記述は無い。

 それはともかく、福本は、「マルクス主義の成立に、第二の構成要素を成しながら、左翼陣営ではまったく顧みられないでいる一連の空想社会主義者、わけてもイギリスのオーエンの再検討」が不可欠である、と指摘して次のように云う。
 
 「イギリスでは1840─1850年代が、工業部門における協同組合の発展期で、そのうちには、消費販売の協同組合だけでなく、いくつもの生産協同組合があって、自治的に運営され、それが自治と機能的民主主義とを促進すると共に、さらによりよき状態のための闘争を展開するための貴重な補助手段となりうることが指摘されている」
 「マルクスがオーエン主義およびイギリスの労働運動から、特にまなんで、摂取したものは、これであったにちがいない。1848年の『共産党宣言』執筆のころは、マルクスもまだこの研究がおそらく十分でなかったので、一般に国有論に終始する外なかった」。
 概要「『資本論』第三巻の草稿ができる1860年代初めまでには、15、6年の時が流れている。この間にマルクスの協同組合とその運動についての研究、思考は進んだ。『資本論』第三巻では「利子と企業者利得」、「資本家的生産における信用の役割」などの章において、協同組合についての原理的、歴史的な思考が述べられている。しかし章の見出しには『協同組合』という言葉がないので研究者でも見落としている」。
 「労働者たち自身の協同組合工場は、旧来の形態の内容では、旧来の形態の最初の突破である。(中略)だが資本と労働との対立は、その工場の内部では揚棄される。協同組合工場は資本家的生産様式から工場制度がなければ発展しえなかったであろうし、また該生産様式から発生する信用制度がなくても発展しえなかったであろう。信用制度は資本家的個人企業が資本家的株式会社に漸次的に転形するための主要基礎をなすのと同様に多かれ少なかれ国民的な規模での協同組合企業の漸次的拡張の手段を提供する。資本家的株式企業は協同組合工場と同様に、資本家的生産様式から組合的生産様式への過渡的形態とみなされるべきであって、ただ、対立が前者では、消極的に揚棄され、後者では積極的に揚棄されているだけである」。

 「これが協同組合についてのマルクスの原則的な認識である。マルクスが協同組合について論じたのはパリ・コンミューンの短期間だけである、などというのは、解説書だけを頼りにした俗説にすぎない」。
 概要「生産協同組合の軽視ないし無視のムードを世界にひろく、少なくともこの場合はとくに日本だけでなく、ソ連でもはびこらせるにあずかって最も力のあったと考えられる今一つの文献がある。それは1917年のレーニンの『国家と革命』である。いうまでもなくレーニンは、1871年のパリ・コンミューンが、労働者階級は出来合いの国家機関をただうばいとるだけで、それをそのまま自分自身の目的のために動かすことはできないことを論じ、プロレタリア独裁の必然と形態を論証した。しかしレーニンが『国家と革命』のなかでは協同組合について一言も論じていないのも事実である。

 レーニンがマルクスの『フランスの内乱』も、それにつけたエンゲルスの序文も読んでいながら論じなかったのは、当時のロシアの現実では、生産協同組合は少数であったし、またそれ以上に、上述したマルクスのように資本家的株式企業や協同組合工場が『資本家的生産様式から組合的生産様式への過渡的形態とみなされる』という認識をレーニンが持っていなかったからである。

 以來『国家と革命』は世界の革命運動で、協同組合運動軽視の悪習を流布する大きな損害と弱点を残した。20世紀の歴史はプロレタリアートの独裁と生産手段の国有化さらに暴力の容認による社会主義建設が不可能であることを証明した。それは<不可能な共産主義>であった。しかしマルクスには別の道があった。「もし協同組合の連合体が一つの計画にもとづいて全国の生産を調整し、こうしてそれを自分の統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣(恐慌)とを終わらせるべきものとすれば諸君、それこそは共産主義、<可能な>共産主義でなくてなんであろうか!」(『フランスの内乱』1971)。




(私論.私見)