福本理論の眼目と歴史的意義 |
【福本イズムとは】 |
「福本イズム」をれんだいこが概説すると次のように云えるのではなかろうか。 |
【福本イズムの席捲過程】 |
福本イズムの概略は「生涯の概略履歴」で確認するとして、ここではその席巻ぶりを見ておくことにする。 福本は、第一次共産党の一方の旗頭であった山川が合法無産政党=労農党運動へ靡きつつあった局面で、他方の動きであった党再建派に力強い援護理論を提供して行った。福本理論は、マルクス、エンゲルス、レーニンの原典に依拠し、マルクス主義の原理原則を再確認せしめるのに大いに役立った。 こうして、1925年から19826(大正15)年にかけて、福本和夫による精力的なマルクス主義理論活動が展開されていった。日本マルクス主義運動はあたかも福本イズム一色となった。福本イズムの今日的評価はともかく、概要「1925年、福本イズムは一世を風靡した」(高知聡「日本共産党粛清史」)という情況が生まれ、福本自身も「俺は日本のレーニン」と自負していた、と伝えられている。この頃福本は、初期三部作、「社会の構成並びに変革の過程」、「無産階級の方向転換」、「経済学批判の方法論」を刊行した。 |
【福本イズムに対する当時の寸評】 | ||||
栗木安延氏は、著書「福本和夫のドイツ留学と日本マルクス主義」の中で次のように記している。「それは主にドイツのカール・コルシュやジョルジュ・ルカーチらの影響ないし息吹を日本に輸入した」。
林房雄の「文学的回想−狂信時代」には次のように記されている。「読んでみて、私はびっくりした。引用されている文は、私などは一度も読んだことの無い重大な章句ばかりだ。堺利彦も山川均も猪俣津南雄も佐野学も佐野文夫も青野季吉も、引用してくれたことはない。日本のマルクス主義者がいかに無学であったかを、いやでも思い知らせる新鮮な内容を持っている。−少なくとも学生理論家の私には、そう思われた。完全に圧倒された形で、私は無条件で発表するように西雅雄に薦めた。福本和夫の論文は、それから毎月続けて発表された。そして次第にセンセーションを巻き起こした。最初は研究論文だと思っていたら、3回目当たりから政治論文であることがわかった。引用文ばかりでありながら、それがそのまま山川均をはじめとする古い指導者に対しての痛烈きわまる批判になっている」。 |
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![]() 福本の以降2年余の精力的活動は日本左派運動史上稀有なるマルクス主義の創造的な時代で有り得ていたように思われる。福本イズムに対する否定的評価の大合唱こそナンセンスの極みと云うべきではなかろうか。 |
【戦前日共運動における福本の果たした役割その1、哲学的訳語創出「揚棄」の造語について】 |
福本は、マルクス主義の哲学的認識論に於いて、「アオフへーベン」をそれまでの和訳語「止揚」に対して「揚棄」と表現すべき、と指摘した功績も持つ。 |
【戦前日共運動における福本の果たした役割その1、哲学的訳語創出「疎外」の造語について】 |
更に、1926年当時において「疎外」という訳語をも造出し、概要「人間疎外の現実と対決して『階級性と人間性との統一的考察』を目指していくのがマルクス主義運動の眼目であり、本来のマルクス主義に立脚して『自主性、人間性の回復、その実現』を重視した運動を展開せねばならない」とした。 「疎外−主体性論」を打ち出した福本は、史的唯物論の再構成、組織論、経済学研究などに先駆的な業績を残した。半世紀以前の日本の政治的社会的現実の中で展開された福本イズムの意義と限界を、全体にわたって解明するのは今後の課題であるが、福本の圧倒的な優位性は、「マルクスに基づくマルクス主義」の再建が目指され、それ故に当時の国際的権威であったブハーリン批判をも可能とし、当然のことながらまだスターリン主義によって毒されていなかった、ことであった。 |
【戦前日共運動における福本の果たした役割その2、理論面「山川主義批判」について】 |
福本は、山川主義の本質が「投降主義的マルクス主義」にあることを見抜き、これを鋭利に批判した。その観点は、今日に於いても瑞瑞しいものがある。 その後、マルクス主義的日本左派運動は、労農派、共産党中央、福本イズムの対立を見せつつ独自に発展していくことになった。革命戦略論において、労農派は、「日本はすでに不完全ながらブルジョアジ−に権力が渡った資本主義国である」として、社会主義革命を主張。共産党は、日本は天皇制絶対主義」との見方からブルジョア民主主義革命−社会主義革命の2段階革命論を主張した。この論争は理論的には明治維新をどう位置づけるかという点に集中し「日本資本主義論争」と呼ばれ、戦前戦後を通じて論争されていくことになる。 |
【戦前日共運動における福本の果たした役割その2、理論面「分離結合論」について】 |
福本理論の眼目は、その理論において従来の日本コミュニズム運動の在り方に鋭い批判が込められていたことにあった。福本は、日本マルクス主義運動に「分離−結合」論を持ち込んだ。「分離−結合」論とは次のようなものであった。概要「無産階級の運動は、経済闘争から政治闘争へと転換すべきであり、そのためには革命意識の昂揚を必要とする。それにはまず無産階級の中から真のマルクス主義者のみが分離して、それだけが結合しなければならない」。 この観点は、主として山川イズムを右翼日和見主義であると論難していることに意味があった。加えて、日本共産党史に輝く「渡政、市正、徳球系運動」が経験主義でしかない欠陥を鋭く突いていた点でも、「(そういう)組織実態を考えるなら、理論闘争の即自性自体においてすら、圧倒的な意義があったといえるほどである」(高知聡「日本共産党粛清史」)。 福本イズムの特徴は、「先に既に革命を遂行した一国を除いては果敢なる理論闘争により、世界いずれの国におけるよりも先鋭なる意識を獲得したる政党」として、日本共産党を形成しようとしていたことにある。いわば「理論百%主義」と評されているゆえんのところであるが、理論を実践の直接経験から形成する仕方を「組合主義」として否定し、これに癒着していたのが「従来我々の陣営を支配していた指導精神」であるみなして「折衷主義」と批判していた。 |
【戦前日共運動における福本の果たした役割その2、理論面「福本テーゼ」について】 |
福本は、「22年テーゼ」から「27年テーゼ」の間において、むしろ「福本テーゼ」とも云うべき純日本産の論点を随所に示している。その白眉なところを確認すれば、1・日本資本主義急速没落論を否定、むしろ上向論。2・非連動式二段階革命論を否定、むしろ急速転化式二段階革命論。ブルジョア民主主義革命が急速にプロレタリア革命に転化するとの展望を打ち出す。3・明治維新の封建革命論を否定し、むしろブルジョア革命論。4・明治維新政府のその後の政体を絶対主義的天皇制と規定。5・山川イズム的合法主義運動ではなく、前衛的組織論の下での運動の指針。「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」論文による提起。 |
【戦前日共運動における福本の果たした役割その3、実践面「第二次共産党再建指導」について】 |
福本は、第二次日本共産党創出時の理論的指導者であった。この福本イズムの登場により共産党再建活動が進展していくことになった。福本、佐野文夫、渡辺政之輔の3名がこれを指導した。こうして、山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建されることになった。 |
![]() 福本理論に対して次のような批判が為されている。概要「福本主義は、そのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである」。 上述のような批判は、ならば手前達が極右でもなく極左でもなく真性の運動を進展せしめている立場にあってこそ通用しよう。2005年時点に於いて果たして、これに資格の有る潮流が存在するのだろうか。単に批判だけの己の自己批判に向わないその精神こそ批判されるべきだろう。 |
【コミンテルンの福本イズム批判】 |
再建を指示したコミンテルンは、第二次日共を生み出すのに功績のあった福本イズムを警戒し、これと決別するよう強制した。第二次共産党を創建した指導部メンバーが大挙モスクワ詣でし、コミンテルンと打ち合わせした。度重ねて会議が持たれたが、席上、福本イズムが否定された。モスクワ詣での一行は、事大主義的に競うようにしてこれを受け入れた。 こうして、コミンテルン事大主義下の日共運動は自ら福本イズムを排斥して行くことになったが、福本主義の2年余の活動は日本左派運動史上の金の卵であり、その卵を自ら潰したことになる。日本左派運動はこの時より「理論軽視」の負の歴史がついて廻ることになる。 同年秋、「27年テーゼ」が日本に持ち込まれ、党幹部全員一致で意思統一した。この「テーゼ」は、日本を半封建社会と位置づけ、「天皇制と結びついた封建社会残存物を一掃する民主主義革命からはじめなければならない」とし、「共産党を前衛として指導の中心に立てるとともに、統一戦線戦術によって、労働組合および大衆政党を内部から占領していかねばならない。かくしてブルジョア民主主義革命から適時、社会主義革命へと転化していくことが必要である」と、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命へ急速転化という「二段階革命戦略」を明示した。 |
【日本左派運動の福本イズムとの決別による負のツケの自己撞着について】 |
福本イズムを超法規的に廃棄したその後の日共運動には、次のパターンしか残されていなかった。自主性を損なったその上で、国際主義においてコミンテルンへの拝跪、国内闘争に於いて、一つは左翼化としての無謀冒険主義、二つは転向、三つは反左翼化としての日帝への協力主義。いずれにしても、自暴自棄路線であり、本来の意味での左派精神は発揮されない。 |
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【福本の鋭い指摘について】 |
福本は、かの当時に於いて、階級としての労働者概念と個々の具体的労働者との区別について、「それを同一視してはならない」と指摘していた。これは労働者分子とインテリの問題に繋がる。 「我々は市正説のような傾向には反対だった。いかに個々の労働者には忌み嫌われ、憚られようとも、労働者が労働者階級としてその歴史的使命を果たすためには、この区別はハッキリ十分に認識した上で、使命達成の道に添うよう向上し発展してゆくべく適切に対処し努力していくのでなければならぬというのが我々の考えであり、マルクス・レーニン主義はまさにこうあるはずだと我々は思っていた」。 |
【福本の鋭い指摘について】 | |||||
「共産主義は再生するか!? ─福本和夫『革命回想』を再読する─」参照。追って、れんだいこなりに整理しなおす。 福本の著書集「革命回想」の第三部第二章の中で「生産協同組合論からみた本来のマルクス主義とレーニン主義」が掲載されている。福本はこの中で、凡そ日本左派運動史上初めて「プロレタリア独裁と生産手段の国有化を二本柱とした公認の共産主義建設路線」に疑義を唱え、代わりに「1860年代初めのマルクスは 共産主義に至る全く新しいの構想を『協同組合の連合体』に見出していた」なる視点を打ち出している。 恨むらくは、福本は、国有化理論のハシリを1848年の「共産主義者の宣言」に求めていることか。れんだいこの知る限り、「共産主義者の宣言」にはそのような記述は無い。 それはともかく、福本は、「マルクス主義の成立に、第二の構成要素を成しながら、左翼陣営ではまったく顧みられないでいる一連の空想社会主義者、わけてもイギリスのオーエンの再検討」が不可欠である、と指摘して次のように云う。
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(私論.私見)