4281674 | 戦前日共史(四)第一次日共解党される |
(最新見直し2005.11.13日)
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1923(大正12)年の動き |
1923(大正12)年、大震災後の山本内閣は、普通選挙実施を表明した。 |
【「第一次解党運動」】 |
1923(大正12)年、この当時の指導部が誰かは不明であるが、当局の苛酷な弾圧政策と関東大震災の混乱に乗じた大虐殺に動揺した解党主義的な日和見(ひよりみ)主義(形勢により、有利な方につこうとして、事態のなりゆきに対して傍観者的態度をとること。機会主義とかオポチュニズムとも)の潮流が党内に生まれた。 その後、赤松、野坂が解党派として立ち働き、堺利彦、山川均、猪俣津南雄、田所輝明らがこれに同調した。後の流れとの関係で、これを「第一次解党運動」と称することにする。解党派は、「求心主義的な党の結成はまだ早い。今は提唱するにとどめ、時を待とう」という説を唱えた。 この時山川は、「日本の客観情勢では、まだ、共産党を造ることは時期尚早である。まず、大衆が入りやすい無産政党を造って大衆の成長を促進し、しかる後に共産党を造るべきだ」論を展開した。 11月、荒畑寒村は帰国したが、佐野文夫、赤松克麿ら仮執行部の方針で、暫く所在をくらまし、検挙を避ける為に転々とした。荒畑は解党是非論を問われ、言下に拒否している。この時期、反対論を徹底していたのは、荒畑寒村と高瀬ということになる。 |
![]() 野坂は、第一次共産党解党の立役者である。その野坂は、共産党が再建されるや又にじりより機会を窺いながら解党運動に精出す。野坂の共産党との関わりは終生これが原則であった。この事実が案外知られていない。戦後、六全協以降、これをやらなくなったのは、共産党が牙を抜かれた投降主義的体制内野党運動に堕落し、もはや解党させる必要が無くなったからに過ぎない。それにしても、そういう野坂とコンビを組んだ宮顕の胡散臭さはいかがなものだろう。同じ側のものでないと有り得ない、れんだいこはそう窺う。 |
11月、日本労働総同盟は、中央委員会で、普通選挙に向けて投票権の有効行使を決議し、組合内に政治部を設け日本農民組合も極めて積極となった。
11.1日、全国水平社青年同盟が結社される。委員長・松田喜一、中央委員・高橋貞樹ら。翌大正13.3月から機関紙「選民」発行。発行責任者は岸野重春。岸野は後に当局と内通しスパイ活動に転じる。
【虎の門事件】 |
12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・摂政宮裕仁親王が、摂政の宮として大正天皇の代理で開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上、虎の門を通過中に仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。 この事件で、翌日に第2次山本権兵衛内閣は総辞職。事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。正力は警視総監・湯浅倉平らとともに、即刻辞表を提出。警務部長らは懲戒免職、山口県知事は休職、父は衆議院議員を辞任して閉門 蟄居、謹慎した。正力は、翌大正13.1.7日、懲戒免官となった。 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。 難波大介の履歴は次の通り。 山口県熊毛郡周防村立野(光市)の旧家に生まれる。父作之進は県議を経て大正9年(1920)代議士当選。母はロク。長兄は東京帝国大学、三兄、弟は京都帝国大学出身。 母方の遠縁に河上肇・大塚有章、長兄夫人の遠縁に宮本顕治がいる名望家。 徳山中学に進んだが退学、私立鴻城中学に移り、高等学校受験に失敗。11年、大正第一早稲田高等学院文科に入学したが、翌大正12.2月、退学。深川の労働者街に身を投じた。この間、河上肇『断片』(「改造」)を讀むなど左傾化しつつあった。関東震災直後の帰省の途次、甘粕事件・亀戸事件などを聞いて官憲の非道ぶりにテロリズムの実行を決意する。12.22日、父のステッキ銃を持って上京。京都の友人宅に滞留の後、事前に新居格ら新聞記者にテロ決意の手紙を送ったうえで、12.27日、虎ノ門で帝国議会開院式に赴く車中の皇太子(当時摂政にして後の昭和天皇)を狙撃したが失敗した。この銃は、韓国帰りの林文太郎が作之進に譲ったものだが、伊藤博文が部下の林に与えたものという説がある。 事件当日より予審訊問が行われ、翌年2月本裁判に付された。裁判長は横田秀雄大審院長、検事は小山松吉検事総長ら。官選弁護人は今村力三郎、岩田宙造、松谷与二郎であった。10.1日、公判開始、11.13日に死刑の判決が下った。 大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、難波の「日本無産労働者、日本共産党万歳」の絶叫で挫折した。判決2日後の15日、大助は処刑された。26歳。 |
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12月末、青野末吉、島中雄三、高橋亀吉、鈴木茂三郎らが中心になり、在京労働団体、思想団体の有志が参加して「政治問題研究会」を発起した。
第一次共産党事件の難を逃れた佐野、近藤はウラジオストク会議で、片山潜の配下で佐野がコミンテルン、近藤がプロフィンテルン入りとなった。
1924(大正13)年の動き |
1924(大正13).1月、英国で、労働党内閣が出現。これが、日本の無産政党運動を大きく刺激した。
【第一次日共の最高指導者堺、山川両氏が離党】 |
1924(大正13)年始め頃の時点において、堺、山川両氏は実質的にボルシェヴィズム派党運動から戦線離脱していた。山川派は、概要「権力の強暴な弾圧体制下と労働者運動の遅れた我が国の情況では共産党を直ちに再建することは間違いで、当分の間は宣伝提唱で行くべきだ」と主張し始め、「無産階級運動の方向転換論」を掲げ、合法的無産政党運動を目指し、体制転覆的革命的闘争よりも労働者の日常的経済闘争を支援する党運動へ向っていく。 |
【第二次護憲運動の波】 |
この頃、政党及び労働組合運動の動きは次のような状況であった。1924(大正13)年1月に清浦「超然」内閣が成立している。これに憲政会・政友会・革新クラブの三政党が反発、「政党内閣」を掲げて第二次護憲運動を展開した。 |
【「第一次共産党解党決議される」】 |
1924(大正13).3月、東京府下荏原郡森ヶ崎の某温泉宿にて、佐野文夫、市川正一、荒畑勝三、徳田球一、野坂参三の5名が会議し、党の解体が決定された。同時にその為のビューロー(残務整理委員会)を設置した(森ヶ崎会議)。 ここに第一次共産党は正式に解党され、1年8ヶ月の短命を終えた。以降1926年の再建までほぼ2年間、日本共産党は存在しなくなる。再建されたのは、大正15年12.4日山形県五色温泉での党再建大会であり、この間2年半経過している。この間「ビューロー時代」となる。 第一次共産党は、綱領の制定もできないまま解党したことになる。この時、将来の党再建を考慮して、少人数の残務整理事務局「委員会(ビューロー)」を残して窓口とした。「当面の残務整理の為にも一定の機関が必要である」という口実で、青野季吉、佐野文夫、北原竜雄、徳田球一らがその任務についた。これは解散理由にも関係しており、「党のボリシェヴィキ的強化」という狙いがあったこととも関係している。 野坂は、1929(昭和4).4.1日の東京地裁において、予審判事・藤本梅一の訊問「解散の事情は」に答え、次のように述べている。「第一、前年6月事件の検挙により、党員の意気阻喪と活動分子を捕らえられた為ほとんど壊滅の状態に陥りたる事。第二、前年9月の震災により反動的気勢のため、活動が不可能となりたる事。第三、従来の党は社会運動の古参者が個人的関係を辿って集まったいわゆる宗派的のものであった事と大衆的でなかった事がその運動を不活発にした事。第四、非共産主義的分子がその中に並在し真実の共産党としての活動ができなかった事。の四つの理由により党は事実上崩壊状態に陥っておりました(「野坂参三予審訊問調書」)。 |
【解党派・野坂参三らが「産業労働調査所」設立】 | ||||||
3月、野坂参三らが中心となって、(マルクス・レーニン主義の立場からの?)日本の政治経済の分析と世界の労働運動、共産主義運動の紹介を主な任務として、「産業労働調査所」が設立された。 | ||||||
以上の指摘からすれば、現行党史が修辞しているような「マルクス・レーニン主義の立場から産業労働調査所を設立した」というのは、黒を白と塗り替える欺瞞的記述ということになる。全く宮顕−不破系党史は、意図的にしか思えないがこういう逆さま見解を至るところで記述している。 |
【ビューロー内が党再建派と様子見派の二派に分かれ、抗争する】 |
党解党後、党は徳球らを通して解党決議をコミンテルンに報告したところ、コミンテルンは「とんでもないことだ」と怒り、解党決議を受けつけずに直ちに党の再建を指令した。コミンテルンが「解党反対・党再建」の方針であることを知った徳球、渡辺政之輔、荒畑、市川正一らが中心となって党再建活動に取り組んでいくことになった 1923(大正12).*.24日、日本共産党第2回大会開催。急進主義派と穏和主義派の見解不一致が露呈する。急進主義の代表は徳球。 |
【最初の国政選挙】 |
5月、に総選挙が行われ、三派が285議席を占める勝利を収め、憲政会の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立した。加藤内閣は普通選挙の実施を打ち出し、同法案は翌1925(大正14)年2月に治安維持法と抱き合わせで成立することになる。 こうした情勢の中で、労働組合や農民組合など間には普選実施に対応するために独自の政党(無産政党)の設立をめざす動きが活発化していった。 |
【研究雑誌「マルクス主義」が創刊される】 |
5月、山川派は、研究雑誌「マルクス主義」を創刊した。同誌は1929(昭和4).4月までの満5年間、発行されることになる。後に満鉄調査事件で獄死する西雅雄が編集人で、市川らが加わっていた。 第一次共産党事件関係で西・市川が下獄した後を福本和夫が編集主任となり、水野成夫が名義人となった。1927.1月から志賀義雄が編集主任となった。この当時の編集人は、青野季吉、佐野文夫、西雅夫、志賀義雄であった。が、「マルクス主義」は1929年(昭和4)年の4.16弾圧までの命となった。この間党の合法的な理論機関誌の役割を果たした。 このグループが1927年に雑誌「労農」を創刊し、ここを拠点にして精力的な理論活動を行い始めたことからこの流れを労農派マルクス主義と云う。 |
【コミンテルン第5回世界大会】 |
5月(6.17−7.8日)、モスクワでコミンテルン第5回世界大会が開かれ、日本代表として片山潜、副代表として佐野学、徳田球一、近藤栄蔵の3名が参加した。日本に関して小委員会を設け、「党再建決議案」を決議した。党再建の指令が日本のビューローに向って発せられたことになる。 |
【コミンテルン上海会議】 |
コミンテルン第5回世界大会終了後、極東部主任ヴォイチンスキーが主宰で、佐野、荒畑、佐野文夫、渡辺政之輔、青野季吉、徳田球一、鍋山貞親らで上海会議を開き、「党再建決議案」の具体化を討議した。 |
6月、小川未明、秋田雨雀、加藤一夫、江口カン、江馬修、佐々木孝丸らが、雑誌「文芸戦線」を創刊。「無産階級運動における芸術上の共同戦線に立つ」との綱領を掲げて再出発した。
(私論.私見)