敗戦責任含意の「昭和天皇詔書草稿」考 |
2003.7月号文芸春秋に加藤恭子氏による「封印された詔書草稿を読み解く」なる貴重資料の開示が為されている。ここに引用し、共に愚考してみたい。 それによれば、該当草稿は、昭和23.6月から28年末まで宮内府(昭和24.6月から宮内庁)長官を務めた田島道治氏が保管していたという。それを機縁あって加藤恭子氏が目にすることになった由であるが、筆跡は田島氏のものであるものの、内容は昭和天皇自身の御言葉であり、しかも「謝罪詔書草稿」になっている点で驚きのものとなっている。 「この文書が書かれた昭和23年の前後、占領下の皇室は重大な危機に晒されていた。昭和天皇の御退位を求める声が津内外に強くあり、戦争責任問題も追及されていた。昭和21年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)も、この年に判決が下されている。こうした情勢下にあって、昭和天皇が自らの言葉で国民に対して、先の大戦についての謝罪を行っていらした事実は、戦後60年近くを経た現在でも強い驚きをもって受け止められるであろう。もしも今回発見された草稿通りに、天皇の『謝罪詔書』が公布されていたら、昭和史の一頁は大きく塗り替えられることになったのではなかろうか」とある。 以下、506文字の幻の草案を見ていくことにする。原文は漢字カタカナ文であり、れんだいこが読みやすくするため現代語に改めた。 |
【幻の昭和天皇戦争責任謝罪詔書草稿】 |
朕、即位以来ここに二十有余年、夙夜(しゅくや)祖宗と萬姓とに背かんことを恐れ、自らこれ勉めたれども、勢いの赴く所能(よ)く支うるなく、先に善隣の誼を失い、ひいて事を列強と構え遂に悲痛なる敗戦に終わり、惨苛 屍(しかばね)を戦場に暴(さら)し、命を職域に致したるもの算なく、思うてその人及び遺族に及ぶ時、まことにちゅうだつの情禁ずる能(あた)わず。戦傷を負い戦災を被(こうむ)りあるいは身を異域に留められ、産を外地に失いたるものまた数うべからず。あまつさえ一般産業の不振、諸価の昂騰、衣食住の窮迫等による億兆塗炭の困苦は誠に国家未曾有の災おうと云うべく、静にこれを念(おも)う時憂心妬(や)くが如し。朕の不徳なる、深く天下にはず。 然りと雖(いえど)も方今、稀有の世変に際会し天下なお騒然たり。身を正しうし己れを潔くするに急にして国家百年の憂(うれい)を忘れ一日の安きを偸(ぬす)むが如きは真(まこと)に躬(み)を責むる所以にあらず。これを内外各般の情勢に稽(かんが)へ敢えて挺身時艱(かん)に当り、徳を修めて禍(わざわい)を嫁し、善を行ってわざわいを攘(はら)い、誓って国運の再建、国民の康福に寄与し以って祖宗及び萬姓に謝らんとす。 全国民また朕の意を諒(りょう)とし中外の形勢を察し同心協力各々その天職を尽し以って非常の時局を克服し国威を恢(かい)弘せんことをこい願う。 |
田島氏が長官に任命された経緯もドラマで、昭和23.2.10日に総辞職した片山哲内閣の後を受けて3.10日に組閣した芦田均首相が、宮廷の民主化を迫るGHQの意向を受け、辞退する田島氏を涙混じりに懇請し受諾させている。この時、侍従長も替えられ、駐仏大使を務めた三谷隆信氏が就任している。田島も三谷も爵位を持っておらず、任期中宮中の抵抗が強かったと伝えられている。 田島氏は当初、皇室の新しい在り方として白紙で臨んでいたものの、次第に「昭和天皇の退位已む無し論」から「退位は抽象的空論」と考えるようになった。このあたりの事情が、8.29日付け芦田日記に次のように記されている。「田島君は御進退問題について自分は白紙でいると言った。(中略)然し宮仕え3ヶ月にして自分は天皇が退位の意思無しと推察している―然しそれは自己中心の考え方というのではなく、苦労をしても責任上日本の再建に寄与することが責任を尽す途だと考えていられる如く見える。又、色々考えて見ると周囲の情勢は退位を許さないと思う、と云う。T(田島)氏の言う周囲の情勢とは、a、退位によって帝制の維持が容易になるとの見解は当らない。悪くすると退位のために帝制が動揺するかも知れない。b、摂政となるべき適任者が無いのみならず皇太子は余り若年である。c、SCAP(連合国軍最高司令官)が之を許すかどうか。という点である。(中略)田島君は今夕もまた天皇は私心の無い、表現人そのものであり、職についた人間は信頼して御使いになると言うた」。 「昭和天皇戦争責任謝罪詔書草稿」はどうやら極東国際軍事裁判のA級戦犯判決に合わせて発表される予定であった形跡があるとのことである。その後も機会を窺ったが遂に果たさず幻の草案となった。その経緯は詳らかでは無い。侮恨と謝罪を強く打ち出している田島草案の判断を廻って決断がつかなかったということであろう。 |
【憲法施行5周年記念式典での「御言葉」】 5.3日憲法施行5周年記念式典で「御言葉」が発せられた。以下、その全文である。 |
先に、万世のために、太平を開かんと決意し、四国共同宣言を受諾して以来、年をけみすること7歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力によって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました。ここに、内外の協力と誠意とに対し、衷心感謝すると共に、戦争による無数の犠牲者に対しては、あらためて深甚なる哀悼と同情の意を表します。又特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちを再びせざることを堅く心に銘すべきであると信じます。 今や世局は非常の機に鑑み、前途もとより多難ではありますが、いたずらに明日を憂うることなく深く人類の禍福と、これに対する現世代の責務とに思いを致し、同心協力、事に当るならばただに時難を克服するのみならず、新憲法の精神を発揮し、新日本建設の使命を達成し得ること期して待つべきであります。須らく、民主主義の本旨に徹し、国際の信義を守るの覚悟を新たにし、東西の文化を総合して、国本につちかい、殖産通商を振興して、民力を養い、もって邦家の安栄を確保し、世界の協和を招来すべきであると思います。 この時に当り、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、敢えて自らを励まして、負荷の重きに耐えんことを期し、日夜ただ及ばざることを恐れるのみであります。こい願わくば、共に分を尽し事に勉め、相携えて国家再建の志業を大成し、もって永くその慶福を共にせんことを切望してやみません。 |
(私論.私見)