42864 | 昭和天皇のネオ・シオニズム親疎考 |
(最新見直し2007.5.5日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
右翼には覚えのめでたい昭和天皇、めでたくない大正天皇であるが、昭和天皇はどうやら現代世界を牛耳る国際金融資本にして現代パリサイ派にしてネオ・シオニズムの宗家のロスチャイルド派と親疎していた形跡と気配がある。この観点から昭和天皇を論ずるのは、右翼からもネオ・シオニズムからもサヨからもタブー中のタブーのように思われる。れんだいこは天邪鬼故にならば挑む。 2007.5.5日 れんだいこ拝 |
Re:れんだいこのカンテラ時評287 | れんだいこ | 2007/05/05 |
【「富田メモ」が語るもの考】 2007.4.30日、日本経済新聞社は、故富田朝彦・第三代宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)についての調査報告を発表した。昨年10月、社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」を設置し、御厨貴氏(東大教授)、秦郁彦氏(現代史家)、保阪正康氏(作家)、熊田淳美氏(元国立国会図書館副館長)、安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)が計11回の会合を重ね、この日最終報告をまとめた。 報告は、「富田メモ」が、「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」 と評価した。「富田メモ」が史料として重要なのは、昭和天皇の最晩年の生の声が記録されていることにある。二人のやりとりの様子は、富田氏が事前に項目を個条書きにしたメモを用意し、言上に臨む。富田氏の説明に対し天皇が幾つか質問や感想を口にし、富田氏が答える。時に、天皇が、言上と直接かかわりのないことを語り出す。このやり取りがメモされているところに「富田メモ」の特徴が認められる。 天皇とのやりとりをすぐに要点メモし、時間をおかずに庁内の自室で整理した可能性が高い。言葉は肉声そのままに近い形で記録されているとみられ、昭和天皇の言葉遣いを研究するうえでも貴重である。 昨年7月、同社が報じたA級戦犯靖国合祀に不快感を示した昭和天皇の発言について更に精査したところ新たに、1988.5.20日付けの「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」と述べたことを伝える走り書きが見つかった。同年4.28日付けの「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた時点より3週間後の発言であり、不快感が裏付けられた。「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との見解を打ち出した。 委員会は、靖国神社に絡む記述をすべて抽出し分析した。その結果、靖国神社がA級戦犯14名を合祀した1978(昭和53).10月、富田氏はすでに長官に就任していたが、当時の日記には合祀を巡る記述はなかった。又、合祀が報道された1979.4.19日、故入江相政元侍従長の日記には、「朝刊に靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになつちまふ」とあるが、富田氏はこの時期も「靖国」に言及していない。 昭和 天皇は、「松平(永芳)宮司になって 参拝をやめた」と話しており、4月のメモでも述べていた「松岡(洋右元外相)」、「白取(白鳥敏夫元駐イタリア大使)」 の名を5.20日にも繰り返している。日独同盟を推進した松岡、白鳥に対する嫌悪が強いことが確認された。 1988.5月、富田氏が、後任の長官に藤森昭一宮内庁次長(当時)が決まったことを報告した際、昭和天皇が、「後任に政治家でも来てはと思ったが」と話している記述もあった。富田氏の後に政治家が起用されるのではないかと、天皇が心配していたことがうかがえる(1988.520日)。 メモは、昭和天皇が、政治、経済、国際情勢などを常に気にかけ、宮内庁側も最新の情報を提供するよう配慮していたことが記されている。進講者を何度も驚かせた政治、経済、社会に対する幅広い知識、関心や記憶力が、最晩年まで衰えなかったことも裏付けられた。晩年、中曽根元首相との関わりが異常に深い様子も明らかにされた。 他にも、浩宮(現皇太子)の結婚に強い関心を見せており、繰り返し報告を求めたり予算面での心配まで口にしたりした(1988.1.26日、3.29日など)。また、1971年の訪欧や1921(大正10)年の皇太子時代の訪欧のエピソードを語る語り口からは、2つの旅行が生涯を通じた楽しい思い出だったことが窺えた(1988.5.11日など)。 宮内庁には行政官庁としての「オモテ」と、侍従ら側近の「オク」という二重構造がある。「入江日記」だけでなく、昭和天皇の晩年まで仕えた徳川義寛元侍従長、卜部亮吾侍従の日記は「オク」の記録になる。これに対し、富田メモにはオクとは異なるオモテの職務や天皇との距離感、一般公務員とは異質の宮内官の職務の特徴が刻まれている。特に、1987(昭和62年)1月から1988.6月の退任までの詳細な公務の記録を遺している。 初代の田島道治氏の日記・手紙類は一部公表されている。25年間にわたり長官の職にあった第二代の宇佐美毅氏の記録類は、明らかになっていない。富田氏は、皇室と無縁の警察官僚から宮内庁に転じ、天皇が高齢に向かう昭和50年代以降、宮内官トップの職務のあり方を模索し続けた。 当時、中曽根内閣の官房長官だった故後藤田正晴氏は富田氏の警察庁時代の先輩で親しかったこともあり、特に頻繁に連絡を取り合っていたことが判明した。天皇の開腹手術の方針が決まった後、1987.9.18日、富田氏は、後藤田氏に会い、天皇の病気の様子と、それに伴って派生する沖縄訪問中止、皇太子による天皇の公務(国事行為)の臨時代行、皇太子夫妻の訪米や宜仁親王独立問題の扱い、マスコミ対応など、対処すべき案件を相談している。後藤田氏とは二日後の9.20日に再度会い、中曽根首相からの指示を受けている。後藤田氏は、1987.11月の竹下内閣発足で官房長官を退くが、富田氏はその後もしばしば相談に訪ねている。二人の関係を抜きに、この時期の宮内庁は語れない。 宮内庁長官の職務の幅の広さは、メモの随所にうかがえる。1987.8.10日には、岸信介元首相の通夜に侍従を遣わす際の天皇のお言葉から、天皇の「思し召し」にあった「安保改定」の語句が削られた経緯が簡潔に書かれている。 以上が、れんだいこが纏めた「日経『富田メモ』報告概要」であるが、昭和天皇の「個性」が革めて浮き彫りになった。れんだいこ解析によると、政府自民党内のハト派対タカ派の抗争に於いてタカ派と親疎しており、特に中曽根との繋がりが深いことが判明する。逆に言えば、田中角栄を嫌っており、内奏が少なかった。象徴天皇制規定にも拘らず、戦後もかなり政治的発言をされている様子が判明している。昭和天皇の政治的立ち回りについては今後も検証していきたい。 最後に。近代天皇制の明治、大正、昭和、平成の4代に於いて、明治天皇、昭和天皇を好評価し、大正天皇を脳病視するのが通説であるが、れんだいこはこの説を採らない。案外と大正天皇こそが象徴天皇制のイデーに近く、英明であった。「大正天皇の脳病」は、「大正天皇押し込め」の為に拵えられた作為であり、実は、日本帝国主義の外治的戦争政策に棹差し続けたため幽閉されたとみなしている。それにしても、天皇を押し込めるとは「とんだ度胸」である。天皇制護持派の心根の本性が透けてみよてこよう。この大正天皇に対してウヨもサヨも語らないのは奇妙な一致である。 あれこれ思えば、日本学問界の水準は決して高くない。虚学に染まっており役に立たない。資料的価値を見出すに限られる。下手な断定なぞ聞きとうない。資料は極力公開されるに限る。判断はこちらでやるから。著作権閉塞だけはよしてくれ。 2007.5.5日 れんだいこ |
(私論.私見)