皇統譜考 |
(最新見直し2007.3.7日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
[太田龍の時事寸評]長島銀蔵著「皇統正史」に関する寸評2つ。「皇統正史」の著者、長島銀蔵とはどんな人物だったのか。、その他を参照する。 |
万世一系としての連綿たる皇統譜が云われるが、古代天皇史を別にしても、室町時代の南北朝抗争史から見えてくるのは、血統の断絶である。逆に云えば、血統は断絶しながらも天皇制は維持され今日まで存続していることになる。現代は、これをどう観るかが問われている。 鎌倉時代中期、第88代後嵯峨天皇が退位して上皇となり、嫡流の皇長子の後深草に天皇位を譲った。後嵯峨上皇は、後深草天皇は程なくして退位させられ、庶流の子であった亀山を天皇に任命した。後深草天皇から持明院統、亀山天皇から大覚寺統が始まる。後嵯峨上皇は、皇位は亀山系大覚寺統が引継ぎ、持明院統は皇位の望みを絶つべきことを遺言して崩御した。 後深草系持明院統は納得せず、鎌倉の執権・北条時宗と諮り、大覚寺統の後宇多天皇を退位させ、持明院統が皇位につき伏見天皇となった。1317年、持明院統の代表者・後宇多、大覚寺統の代表者・伏見の両上皇が議定し、両統迭率立の約を交わした。その後、持明院統の後伏見、大覚寺統の後二条、持明院統の花園、大覚寺統の後醍醐と交互に皇位が並立した。 第96代後醍醐天皇が、皇位を持明院統のに譲ることを拒否したことから、南北朝対立時代が始まった。後醍醐天皇は、鎌倉の北条政権を妥当して、天皇親政の御代を再興しようとした。 室町時代になり、足利幕府は、北朝を擁立した。後醍醐天皇は南朝であり、為に南北朝の抗争が始まった。南朝の皇統は、現在の熊澤正照王(寛道王)まで続いている。しかし足利義満が北朝の血統を全殺させ、足利義満とその息子貞成親王の血統が北朝となった。六代将軍足利義教の時代に、南朝系の血統を根絶せよ、との方針を打ち出し、根絶やしにしようとする迫害政策を採り続けた。足利義満とそのあとの時代に、北朝の血統は絶え、足利義満の血統が北朝と成った、してみれば、そのあとの北朝天皇は足利系天皇朝である、ということになる。明治天皇が、公式発表の如く、北朝孝明天皇の皇太子とするなら、足利系天皇の系譜ということになる。 南朝は、応仁の乱の頃までは健在であったが、その後地下に潜り、熊澤系、三浦系、大室系となり、その系統は明治大正昭和まで生き延びている。これは、長島銀蔵著「皇統正史」(昭和41年)に、詳しく述べられてある、とのことである。 熊澤大然尊憲王は、明治41.11.2日、第一回の上奉文を明治天皇に上奉した。熊澤大然尊憲王の上奉文が各界に伝わると、大きな波紋を引き起こし、遂に国会に於る大問題と成り、明治天皇は、明治十年に「大政紀要」を出版されて、南朝正統を裁決された。時の桂内閣は瓦解した、更に、明治十年元老院発行纂輯の御系図では、貞成親王の父は不詳、と明記してある。しかし、明治天皇が間もなく崩御されて、そのために、南朝熊澤天皇問題は事実上封印されてしまった、と。 |
(私論.私見)