42857 ワイマール共和国、ワイマール憲法について

ヴァイマル共和政】(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』)

 1918.11月、ドイツは、第一次世界大戦において軍事的敗北を期した。これを契機に革命が勃発し、いわゆる11月ドイツ革命によって帝制が崩壊する。革命は多数派ドイツ社会民主党の主導権の下に議会主義の方向で収拾されていく。

 1919年、ドイツ社会民主党は革命の進展を阻止して、ヴァイマル国民議会を召集する。ヴェルサイユ条約を受諾してヴァイマル・ライヒ憲法(Weimarer Reichsverfassung、略称WRV、「ヴァイマル憲法」ともいう)を採択し、ヴァイマル共和政(Weimarer Republik。ヴァイマル共和国、ワイマール共和政、ワイマール共和国などとも訳される。但し、「ワイマール」という表記はドイツ語の発音からかけ離れている。ヴァイマルとは都市の名である)が建国された。こうして、第一次世界大戦後のドイツは議会民主主義の共和国を成立させた。

 共和国の歴史はふつう三つの時期に区分される。

 【初期 1918〜1923/1924年】

 
社会民主党のエーベルトが初代大統領に就任し、政権は当初いわゆるワイマール連合によって担当された。だが、苛酷なヴェルサイユ条約の押しつけ、多額の賠償金、破局的なインフレーションの進行などにより政治・経済が混乱し、左右両翼からのクーデタや革命の試み、政府要人の暗殺などが相次ぐ。

 1920年、右翼連合によるカップ一揆もその一つである。

 シュトレーゼマン
外交でロカルノ条約を締結させる。

 1923年、フランス・ベルギー両国軍隊によるルール占領(ルール問題)により混乱はその極に達し、同年秋にはヒトラーによるミュンヘン一揆も起こった。

 【安定期 1924〜1929年】

 共和国の束の間の安定の時期。1924年、賠償に関してドーズ案が成立したことで大量の外資が流入し、経済は復興に向かう。この時期を代表する人物は外相シュトレーゼマンで、彼のもとでロカルノ条約の締結(1925年)、ドイツの国際連盟加入(1926年)などに示される西方諸国との協調外交が展開される。ただし、ラパロ条約(1922年)以来のソ連との関係もベルリン条約の締結(1926年)によって持続された。

 この時期には左右の過激な勢力も影をひそめるが、小党乱立の機能麻痺に陥ったため危機を招き、1925年、フリードリヒ・エーベルト大統領のあとを継いだ保守派のヒンデンブルク政権では不信が進み、大恐慌となると大統領制となり、ナチスの台頭をもたらすこととなった。

 
【崩壊期 1929〜1933年】

 1929年の世界恐慌の勃発を契機に共和国が崩壊に向かった時期。1929年以降ドイツ経済の不況は急速に深刻化し、1932年ごろには600万以上の失業者を生み出すに至る。

 1930.3月、社会民主党のミュラーを首班とする大連合政府が
失業保険問題をめぐる対立のために崩壊するが、これを最後に議会の多数派に基盤をおく政権は姿を消し、いわゆる大統領政府の時期に入る。すなわち、憲法第48条に規定された大統領の緊急権限に依拠した政治が行われるようになる。1930.3月以降政権を担当したブリューニングは、恐慌の克服と議会主義への復帰を意図する。

 同年9月、国会選挙で、群小政党の一つにすぎなかったナチスが第二党に躍進した。同党は1932.7月に行われた
パーペン政権下での選挙では、三分の一の議席を得て第一党となり、他方で共産党の議席が伸びたこととも相まって、議会主議への復帰はますます困難となる。この間、1932年の大統領選挙ではヒンデンブルクヒトラーを抑えて再選されるが、彼の周辺では政治工作が渦まき、とくに国防軍を背景とするシュライヒャー将軍の政治への介入が強まる。

 1932.12月、自ら首相となったシュライヒャーは、ナチスを分裂させて政権の安定を図ろうとするが失敗に終わり、舞台裏での
パーペンの工作によって1933.1.30日のヒトラー政権の誕生を迎えるに至る。

 ワイマール共和国を短命に終わらせた要因としては、国際環境の厳しさ、ワイマール憲法の欠陥、恐慌時の経済政策の失敗、大企業や大土地所有者の圧力、中間層の困窮と不安・官僚や国防軍の反共和制的姿勢など、さまざまなものを挙げることができる。


 1933年、ナチス党が政権につき、ヒトラー政権の出現によって憲法が停止されワイマール共和国に終止符が打たれた。


 ワイマール憲法が当時の世界で最も民主的な憲法とされながら、この共和国が短命のうちに
ナチズムの前に崩壊したことのゆえに、その歴史は民主主義の問題を考える上で大いに示唆に富む。現在のボン基本法は、不信任は建設的でなければならないなどヴァイマル憲法の反省の上に立っている。



ヴァイマル憲法】(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』、ヴァイマル・ライヒ憲法 から転送)

 第一次世界大戦でドイツ帝国が崩壊したのを受けて、ドイツは新制国家作りに向った。フーゴ=プロイスによって新憲法が起草され、1919.7.31日、中部の小都市ワイマールで開かれたドイツ最初の国民会議(ワイマール国民議会)で、公式名は、「ドイツライヒ憲法」(Die Verfassung des Deutschen Reichs)を賛成262票・反対72票の大差で修正採択した。

 1919.8.11日、新憲法が制定された。ドイツの憲法は、フランクフルト憲法ボン基本法のようにその憲法が制定された都市の名をつけて通称とする慣例があり、憲法制定議会が開催された都市ヴァイマルの名に由来させて通称「ヴァイマ−ル憲法」と云われる。「ワイマール憲法」と表記される場合も多いが、これは英語発音にしたがったものであり、ドイツ語ではWeimarer Verfassung または Weimarer Reichsverfassung と表記されることからすれば「ヴァイマ−ル憲法」と記すのが正確と云える。全文181条で、8.14日、公布・施行された。

 ヴァイマル憲法の最大の特徴は、国民主権主義に沿った共和政憲法にある。統治制度の面では、議会と大統領の二元的権限による3権分立制を採用した。国家元首に、直接選挙で選ばれる大統領を置き、任期7年とし、首相任免権や国会解散権、武力発動権(第48条1項)、公共の安全と秩序が危機に瀕したときには、国民の基本的人権の一時停止を含む非常大権(第48条2項)が与えられた。議会は、国民代表の下院と、州(ラント)代表の上院からなる両院制である。大統領は議会の解散権を有し、議会は不信任決議をすることで首相を罷免させることができる。司法機関は、通常裁判所の他に、国事裁判所がある。

 男女20歳以上の普通選挙、比例代表原則のライヒ(国)議会、議院内閣制を定めた。大統領は国民の直接選挙で選ばれ,任期7年,軍事統帥権・大臣任免権・議会解散権などを持った。従来からの連邦制は,国の権限を強化しながらも継承した。

 「国民の法の前での平等」(第109条)、人権保障規定のほかに第145条「就学はこれを一般の義務とす。就学義務の履行は8学年以上を有する小学校及びこれを終わりたる後、満18年に至るまで補修学校に就学することをもって原則とす。小学校及び補修学校の教育及び学用品は無償とす」なる教育権が認められた。 

 「経済的自由の保障」(第151条)、「所有権の保障」(第161条)、「労働運動権の保障」(第159条)、「健康維持、母性保護」(第161条)、「社会的生存権の保障」(第163条)。「ドイツ人民は、その経済的労働により、その生活資料を求むることを得べき機会を与えられるべし。適当なる労働の機会を与えられざる者に対しては必要なる生活費を支給す」世界ではじめて生存権的社会権をみとめており、1918年のロシア社会主義共和国憲法に続く歴史的に画期的な意義を持つ。当時は世界で最も民主的な憲法といわれた。自由権に絶対的な価値を見出していた近代憲法から、社会権保障を考慮する現代憲法への転換がこのヴァイマル憲法によってなされ、その後に制定された諸外国の憲法の模範となった。

 ナチスが台頭し、立法権と行政権の融合をはかる「全権委任法(授権法)」が制定された後も憲法は廃止されなかったが、現在の研究では「全権委任法」が制定された時、この憲法は死滅したと考えられている。

 145条「就学はこれを一般の義務とす。就学義務の履行は8学年以上を有する小学校及びこれを終わる後、満18年に至るまで補修学校に就学することをもって原則とす。小学校及び補修学校の教育及び学用品は無償とす」。
 163条「ドイツ人民は、その経済的労働により、その生活資料を求める事を得べき機会を与えられるべし。適当なる労働の機会を与えられざるものに対しては必要なる生活費を支給す」。

近代憲法成立の歴史的経過

 

 王権の臣民に対する恣意(しい)的な課税と支出及び逮捕・拘禁を、議会がどうコントロールするかという深刻な対立と抗争の中にあったイギリスにおいて、1215年(建保3年=鎌倉時代の初期・3代将軍源実朝〈さねとも〉の時代)6月15日、国王(イングランド王ジョン〈即位=1199〜1216〉)は、貴族や聖職者に譲歩して普遍的な憲法の聖典を意味する大憲章=マグナカルタMagna Carta;画像=〈Great Charter。ラテン語 MagnaCarta〉=63ヵ条の法)を勅許(ちょっきょ=王の勅命による許可。王の許可)した。立憲制原理(人民の支配)の萌芽である。

 

そしてその12条には、国王の課税には一般評議会(議会)の同意が必要であり、かつ第39条は人身の自由と裁判に関する規定が置かれた(もとよりこの憲章の成立した背景には当時のジョン王の圧政があった)

 

 

前文

神の恩寵(おんちょう愛やめぐみ)により、イングランドの王、アイルランドの主、ノルマンディとアクィティーヌの公、およびアンジューの伯であるジョンは、その大司教、司教、修道院長、伯、バロン(注・国王から直接に封を受けている者)、裁判官、猟林官、州長官、荘官、役人に対して、また、そのすべての代官および忠誠な臣下に対して、挨拶をする。朕は、神への崇敬を抱きつつ、朕の霊魂および朕のすべての祖先ならびに相続人の霊魂の救済のために、神の栄光と神聖な教会の称美のために、そして朕の国土の改革のために、朕の尊敬すべき諸師父……、諸々の高貴な人びと……、およびその他の朕の忠誠な臣下の忠言によって、以下のことを承知する。

 

第1条〔イングランド教会の自由と自由人の自由の確認〕

 朕は、イングランド教会が自由であり、その諸権利を完全に享有し、その自由は侵されることがないことを最初に神に誓い、次いで朕および朕の相続人のために、この朕の現在の特許状をもって永久に確認する。……朕のこの希望は、朕と朕のバロンたちとの間に紛争が発生する以前に、イングランド教会にとって極めて重要かつ不可欠なものである選挙の自由を、朕の純粋かつ自由な意思によって、朕が付与し、朕の特許状によって確認し、教皇イノケンテイウス3世によって確認されたことからも、明らかである。……朕は、朕および朕の相続人のために、以下列挙の自由のすべてを、朕の王国すべての自由人およびその相続人が……保有保持すべきものとして、かれらに付与した。

 

第12条【一般評議会の同意による課税】

 いかなる楯金(たてきん scutagium scutage)または援助金(auxiliumaid)(注・課税)も、朕の王国の一般評議会(注・議会)による他は、朕の王国においては課されないものとする。ただし、朕の身代金を支払うため、朕の長男を騎士とするため、または朕の長女をはじめて嫁がせるために課せられるものはこの限りでなく、またこれらのためであっても、合理的な援助金か課されないものとする。ロンドン市からの援助金についても、同様に行なわれるものとする。

 

第38条【同輩による裁判と人身の自由】

 いかなる自由人も、その同輩の合法的裁判によるか、または国土の法によるのでなければ、逮捕、監禁、差押え、法外放置、もしくは追放され、またはなんらかの方法によって侵害されることはない。また、朕も彼の上に〔軍隊とともに〕赴かず、また彼に対して〔軍隊を〕派遣しない。

 

 

 1628寛永5=第3代将軍徳川家光の時代)年6月17日、英議会はチャールズ1世に議会の承諾のない課税を禁止及び人身の自由と法の適正な手続きを内容とする権利請願(Petition of Rights)を提出、チャールズ1世は特別税徴収の承認と引き換えにこれを裁可(さいか=君主が臣下の奏上する案を自ら裁決し許可すること)する。ただしこの年の9月、バッキンガム公が暗殺されると王と議会との対立が先鋭化し、翌1629年議会が解散させられ、以後11年間、無議会政治状態が続くこととなる。

 

 

〔T〕【承諾なき課税の禁止の確認】

 

われらの至高の君主たる国王陛下に対し、本国会に召集された聖俗貴族および庶民は、謹んで以下のように奏上申し上げる。エドワード1世の治世に作られた通称「承諾なき賦課金に関する法律」と呼ばれる法律……[等]によって、陛下の臣民は、国会の一般的承諾によって定められたのでないいかなる税金、賦課金、援助金、その他同様の負担も支払うことを強制されることはないというこの自由を受け継いでいる。

 

「V」【マグナ・カルタと人身の自由の確認】

 また、[マグナ・カルタによって]、いかなる自由人も、その同輩の合法的裁判または国土の法によらずして、逮捕、監禁され、その自由……を侵害されることはないと定められている。

 

〔W〕【法の適正な手続きの確認】

 また、国王エドワード3世治世第28年に、いかなる身分または地位にある者であっても、法の適正な手続きによって答弁を行なうことができずに、……逮捕もしくは監禁され、相続権を否認され、または死にいたらしめられることはないと、国会の権威により宣言され、定められている。

 

 

 1679(延宝7=第4代将軍家綱の時代)年6月5日、英議会が人身保護法制定(法によらない拘禁・逮捕を禁ずる)⇒1689年の権利章典で確認され、基本的人権の重要な柱となる。

 

 

〔T〕【官吏による人身保護法の無視と臣民の苦痛】

 

刑事事件あるいはそのように称されている事件のために国王の臣民を収監している州長官、典獄(てんごく=監獄で、事務を扱う官吏)その他の官吏が、その義務および既知の国土の法に反して、第2、第3、そして時にはそれ以上の回数の人身保護令状を求めさせ続け、また、当該令状にしたがうのを回避するために他の諸手段を用いて、彼らにあてられた人身保護令状に対して答弁をすることを非常に遅らせている。……このことは彼ら臣民にとって、重大な負担と苦痛である。

 

〔Y〕【同一犯罪容疑による収監の繰り返しの禁止】

 また、同一犯罪〔の嫌疑〕を理由とする収監の繰り返しによって、不公正な苦痛が加えられるのを防止するために、…-人身保護令状により監禁を解かれまたは自由の身にされた者は、今後いかなる者によってであれ、同一の犯罪〔の嫌疑〕によって監禁または収監されることはない。…

 

 

 1689(元禄2=第5代将軍徳川綱吉の時代)年、名誉革命における権利章典(Bill ob Rights=イギリス議会が発布した法。権利宣言を王が承認し、議会が法制化。国民と議会の権利を明確化し、イギリス立憲政治の原点となるは税について3点「(1)すべての課税は納税者の同意を得なければならない。(2)議会は国の経費を監督し、承認する権利を持つ。(3)予算を議決するため、毎年、議会を開設する」を定め、かつ人民の古来の権利と自由を擁護する権利の宣言を行なった。

 

 

…そこで早速に、前記聖俗貴族および庶民はそれぞれに宛てた書簡に応じて選挙を行ない、この国民の完全かつ自由な代表としてここに召集され、前述の諸目的を達成する最善の手段をきわめて真剣に考慮して、最初に、(かれらの祖先が同様の場合に通常行なったように)かれらの古来の権利と自由とを擁護し、主張するために、以下のとおり宣言する。

 すなわち、

() 国会の同意なくして、王の権威により、法律の停止権、または法律の執行停止権があるかのようにふるまうことは違法である。

() 近年、現にせん取され行使されてきたことであるが、王の権威により、法律の免除権または法律の執行免除権があるかのようにふるまうことは違法である。

() 教会関係訴訟を担当する旧宗務官裁判所を設置する授権状および同様の性質を有するその他すべての授権状は、違法かつ有害である。

() 国王の用に供するための金銭の賦課は、それが〔国会により〕承認されている、もしくは承認されるべきである期間より長期に、またはそれが承認されている、もしくは承認されるべきである態様と異なる態様で、国会の同意なくして、大権を口実にして行なわれることは違法である。

() 国王に請願することは臣民の権利であり、したがってこのような請願を理由とするあらゆる収監および訴追は違法である。

() 平時に王国内で常備軍を徴集し、維持することは、国会の同意がない限り、法に反する。

() 新教徒である臣民は、かれらの条件にふさわしい自衛のための武器を、法によって許されたものとして、持つことができる。

() 国会議員の選挙は自由でなければならない。

() 国会における言論および討論または議事手続きの自由は、国会以外のいかなる裁判所またはその他の場所においても、非難され、または問題にされてはならない。

(10)  過大な保釈金は要求されてはならず、過大な罰金は科されてはならず、残虐かつ異常な刑罰も科されてはならない。

(11) 陪審員は正当な方法で陪審名簿にのせられ、かつ選出されねばならず、また、大逆罪を理由に裁判されている人びとに評決を下す陪審員は自由土地保有者でなければならない。

(12) 有罪決定以前に、特定の者の罰金および没収に関して、いかなる権利の付与および約東をすることも、違法かつ無効である。

(13)  そして、あらゆる不平の救済のため、また、法律の修正、強化および保全のため、国会はたびたび開かれねばならない。

 

 

 ここに近代予算制度(財政議会主義)と人身保護制度が確立した。つまり、近代憲法の最大のテーマが、租税と支出に対する議会の監督と恣意的な国王の刑罰権からの解放であったのである。==⇒租税法律主義⇒法の適正手続き==⇒日本国憲法83条・84条及び第31条以下はその現れである。

 

 1776年6月、イギリスの植民地だったアメリカのヴァージニアが独立を前にして権利章典を発したヴァージニア権利章典)。自主的な人民宣言文書としては世界で最も早いものである。18世紀の自然権思想を集約的に成文化したもので、他の国の人権宣言や憲法の先躯としての役割を果たした。

 

 

1 すべての人は生来ひとしく自由かつ独立しておリ、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は人民が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、人民が子孫からこれをあらかじめ奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安寧(あんねい=世の中が平穏無事なこと)とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由とを享受する権利である。

2 すべての権力は人民に存し、したがって人民に由来するものである。行政官は人民の受託者でありかつ公僕であって、常に人民に対して責任を負うものである。

3 政府というものは、人民国家もしくは社会の利益・保護および安全のために樹立されている。あるいは、そう樹立されるべきものである。政府の形態は各様であるが.最大限の幸福と安寧をもたらし得、また失政の危険に対する保障が最も効果的なものが、その最善のものである。いかなる政府でも、それがこれらの目的に反するか、あるいは不充分であることが認められた場合には、社会の多数のものは、その政府を改良し、変改し、あるいは廃止する権利を有する。この権利は疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることのできないものである。ただし、この権利の行使方法は公共の福祉に最もよく貢献し得ると判断されるものでなければならない。

 

 

 アメリカ独立戦争開始1年後の1776年7月4日、フィラデルフィアでアメリカの東部13州がイギリスからの独立を宣言した(後の第3代大統領)トマス・ジェファーソンらが起草した『アメリカ独立宣言』全文が発表された(宣言起草者5人の中には、ジェファーソンの他に、新聞発行や出版業等のジャーナリズムの分野で活躍したほか後に初代駐仏大使などを務めたベンジャミン・フランクリン〔Benjamin Franklin。1706〜1790。電気の性質に関する科学的研究でも知られ、なかでも「凧(たこ)の実験」による大気電気の確認、避雷針の発明は有名〕や後の第2代大統領ジョン・アダムズらがいた)。

 

宣言は前段でイギリス王朝の圧制を批判しているが、その特色は、人民主権、人権尊重・代議制そして革命権をうたい、それを自明の真理として主張しているところにある。しかし黒人奴隷が独立戦争に勇敢に参加したにもかかわらず、奴隷制度に寄生する地主や商人たちの主張によって「奴隷貿易の禁止」と題した草案の1項は、完全に抹消された。また生命・自由・幸福の追求という天賦の人権を明記しながら、先住民インデイアンの権利については何一つ考慮されなかった。

 

 

われわれは、次の真理を自明なものと認める。すべての人は平等に創られていること。彼らは、その創造者によって、一定の譲るべからざる権利を与えられていること。それらの中には、生命、自由および幸福の追求が数えられること。そうして、これらの権利を確保するために、人びとのあいだに政府が設けられ、その正当な権力は、被治者の同意にもとづくこと。どんな形態の政府でも、この目的に有害なものとなれば、それを変更または廃止して新しい政府を設け、その基礎となる原理、その組織する権力の形態が、彼らの安全と幸福をもたらすに最もふさわしいと思われるようにすることは.人民の権利であること。

 

 

 1789年、フランスで革命が起こり、同年8月26日に憲法制定のフランス国民議会は「人と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を発した。同宣言は、前文と全17条から成り、第1条で「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」とうたい、その他、主権在民、法の前の平等、所有権の不可侵などを規定していた。

 

しかし、人権宣言で宣言されている諸権利は、ほぼ男性の権利であり、女性は、政治活動より、家庭内の仕事をすべきであるとするいわゆる役割分担論が根強くあった。そのため、フランス革命期に先駆的フェミニストとして重要な役割を果たしたオランプ・ド・グージュという女性が、1791年にジェンダーの観点から痛烈に人権宣言を批判した「女性の権利宣言女権宣言)」を発表して、男女平等を訴えたが、受け入れられなかった(例えば、普通選挙権に関して男性は1848〔寛永1〕年に認められたが、女性はそれから約100年後の1944〔昭和19〕年のことであった)

 

なお、この権利宣言は、フランス初の憲法であ1791年憲法の冒頭に掲載されている。

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1941(昭和16)年1月6日、アメリカ第32代大統領F・D・ルーズベルトは、第2次世界大戦の意義についての議会にあてた教書において、連合国の戦争目的は、4つの基本的な人間の自由の回復にあり、われわれは安全を保障された将来を企図していると述べ、全世界の未来のあるべき姿を示した(「四つの自由」)

 

この四つに自由は、大西洋憲章・ヤルタ協定・国際連合設立・世界人権宣言の基調(きちょう=思想・行動・学説・作品などの根底にある基本的な考え・傾向となっている。

 

 

われわれが安泰(あんたい=無事でやすらかなこと。平穏)と願う、来るべき日々において、われわれ人間にとって必要不可欠な四つの自由の上に構築された世界をのぞむものである。

第1は、言論と表現の自由−−全世界に及ぼす

第2は、すべての個人に対する信教の自由(神をうやまう自由)−−全世界で確立

第3は、欠乏からの自由(健全な平和生活を送る保障=社会権の保障)−−全世界で実現

第4は、恐怖からの自由(世界的規模の軍縮、いかなる国も近隣に対して実力行使による侵略を行わないようにする=平和主義)−−世界のどこにも確立






(私論.私見)


http://www.ohnichi.de/Doitsu/weimar.htm

975年、オットー二世が皇帝であった時代に大公の集まった場所として《Wimares》の名称で初めて文献に登場する。

1250年前後から市としての造営が行われ、1410年には都市権を授与された。ザクセン大公の家系の一つであるヴェティン家(Wettiner) の所有となるが、後(1485年)にはエルンスト家(Ernestiner) の所有に移る。

1525年: プロテスタント(ルター派)に改宗。

1547年: ザクセン・ワイマール公国の首都になった。

ワイマールが歴史上注目されるのはアンナ・アマリア侯爵夫人の治世時代(1758〜1775年)からで、同夫人は子息カール・アウグストの教育係にヴィーラント(Christoph Martin Wieland)を迎えた(1772年)。

1776年には教会(プロテスタント)説教師としてヘルダー(Johann Gottfried Herder) もゲーテの推薦で招かれている。それ以前に大バッハ(Johann Sebastian Bach) も1708年から17年まで宮廷オルガニスト、コンサートマスターをしており、この間に息子フリードマン(1710年)、エマヌエル(1717年)が生まれた。

アマリア夫人の長男カール・アウグストは1775年9月に成人(18歳)すると、当時フランクフルトにいたゲーテをワイマールに「大臣」として招いた。当時「大臣」という役職はこの公国にはなかったので、実際にはカール・アウグスト侯に助言を与える Conseils と呼ばれる評議員の一員となり年俸は1200ターラーであった。当時、ワイマールの人口は6000人程度で、ゲーテは「若きウェルテルの悩み」を書き文壇に彗星の如く登場してはいたが、ワイマールに1775年11月7日に到着した時はまだ26歳の若さであった。

ちなみに、カール・アウグスト侯も18歳、アンナ・アマリア夫人も36歳、ゲーテと恋愛関係におちいるシュタイン夫人も33歳、ヴィーラントも42歳、翌年ワイマールにやって来るヘルダーも32歳という若さであった。

ゲーテは「外交」問題に携わり、道路建築、軍事、イルメナウ鉱山の各委員会の首席となったが、汚職が原因で退職したカルプの後継者として特に財政問題を担当することになった。文化問題を担当する、一種の「文化相」となるのはイタリア(への逃避)紀行から帰ってきた後である。

ゲーテはこの貧しい公国に健全な財政的基盤を確立しようと努力し、それまで実施されていなかった予算の作成・管理という手法を採用したのもゲーテであった。10000ターラーという準備金からこの小国の予算規模が推察できよう。宮廷運営、旅行等の歳費は25000ターラーで、これはイギリスの若い貴族がロンドンのクラブで一夜に賭ける位の金額にすぎなかったという。

国債発行により財政の窮乏状態を乗り切ろうと、ゲーテはカール・アウグスト侯とベルン共和国に出かけ、ベルンは侯爵の領地を担保に50000ターラーの借款に応じている。ちなみにこの仲介にはフランクフルトのベトマン銀行があたった。
またゲーテはカール・アウグスト侯の「軍隊」(といっても歩兵532人、砲兵8人、士官1人、騎兵30人)の「軍縮」を行い、歩兵を293名に減らした。但し、解雇されたのは老兵だけであった。

また鉱山開発に力を入れ、新たな財源を得ようとするが、現実には成功しない。ワイマールのゲーテの家にあるおびただしい鉱石の見本はそうした仕事の合間に採集したものである。

ゲーテはこうした激務の中で文筆活動が出来ぬことに悩み、10年後逃げるようにイタリアへの旅に出る。
イタリアから帰ったゲーテは1791年新設の宮廷劇場の監督となり、シラーと共にワイマールを世界的に有名な劇場都市とする。



17世紀のワイマール( マティアス・メリアン銅版画) (↓)

 (1) 聖ペーター・パウロ教会( St.Peter und Paul)(↓)

                                                      
1498〜1500年に建築。この教会を活動の場としていたヘルダーを記念しヘルダー教会(Herderkirche)とも呼ばれている。ヘルダー(1744〜1803)は文芸批評家、思想家、牧師で、ゲーテとはシュトラースブルク時代に知り合っている。「言語起源説」(Abhandlung uber den Ursprung der Sprache)や「人類歴史哲学考」(Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit)等の啓蒙主義的著作で有名。とはいえ、一般の啓蒙主義者ほど楽観的な歴史発展観はとっていない。「有機的」歴史発展説をとり、ある意味では歴史主義の先駆けをなした。
アンナ・アマリア侯爵夫人の招きに応じ、1776年に(プロテスタント教会)ワイマール管区総監督(Generalsuper
intendant)としてこの町に来て、ここで没した。
この教会にはクラーナハ(父)が制作を開始、息子が完成(1555年)したと言われる(観音開きの)祭壇がある。