42853 ソ連の対日参戦秘話

 平成5年10月2日の産経新聞の「戦後日ソの原点」によると、ソ連の崩壊により、ソ連の終戦前後の公文書が公開された。それによると、ソ連は対日戦争へ参加する代償として、樺太南部と千島列島を占領するのみならず、朝鮮半島の38度線以北まで進出して、北朝鮮をソ連の衛星国とすることをアメリカと了解済であった。

 朝鮮半島には、かねての了解の通り、米ソ両軍が同時に進駐して、38度線でピタリと止まった。朝鮮の人々は、いったい何がどうしたのか価値観が混乱して、善悪の判断がつかなくなった。そこで南に進駐した米軍は言った。「我々は韓国の方々を日本の圧政から救い、みなさんに自由を与えるために来たのだ」。又、北から侵入したソ連軍は言った。「我々は侵略者日本をこらしめ、搾取に苦しむ朝鮮の人々を解放して、民主的社会を建設するために来た」。米ソとも朝鮮半島分断とは一語も述べなかった。

 米ソの進駐軍司令部は日本の植民地支配が、如何に悪逆であったのかを繰返して説いた。大脳が白紙状態になった人々には、其の言葉は素直に入って行った。日本が悪逆であればあるほど、解放は有難くなるのだ。そこで南も北も解放を大いに喜び、この日を「光復節」として盛大に祝うという慣例が出来て、北では解放者ソ連へ、南は解放者米国へ、感謝を捧げている。 台湾の方々は植民地時代を回想して「中国本土よりも台湾の方が経済発展をしているのは、日本の教育のお陰」と、日本に対して好意を持ってくれるが、朝鮮の方々は台湾同様に、フィリピンやタイや中国よりも高度の経済発展をしているのに、日本に対して恨みや敵意を持っている人が少なくないのは、其の独立のやり方の相違と密接な関係があるように思われる。
(引用先アドレス失念)



  陸幕二部調査室     

http://www2u.biglobe.ne.jp/~UBS/taiso2.htm

3・ソ連の対日戦争計画

当時の日ソ間には1946年4月11日まで有効な日ソ中立条約が締結されていたが、アメリカは早い時期からソ連の対日参戦を要請しており、ソ連もそれに応えるように1943年11月のテヘラン会談で参戦意志を表明していた。1944年11月にはスターリンが日本を「侵略者」であると非難するなど、独ソ戦が一区切り付いた頃からソ連は日本に対し次第に敵対的な姿勢を取り始めていた。
そして1945年2月のヤルタ会談で、ソ連は米英との間で対日参戦を正式に決定する。
この当時、アメリカはまだ原子爆弾の開発に成功するという確証を持っていなかった。また、太平洋戦線において日本海軍の主要艦艇の大半は海没していたものの、日本陸軍は未だその主力を温存しており、700万余りの戦力を各地に展開させていた。本土に近づくほど日本軍の抵抗が激しさを増しているという現状から、1945年11月に開始予定の日本本土上陸作戦では甚大な損害が予測されていた(陸軍長官ヘンリー・スティムソンは「死傷者は100万人を超えるだろう」と予測している)。
このため、当時のアメリカはソ連の早期参戦をどうしても実現させる必要があったのである。
スターリンはこの要請に対し、次のような条件を提示した。

1・1904年の日本の背信的攻撃によって侵害されたロシアの旧権利の回復(サハリン南部及びそれに隣接する島々の返還・大連におけるソ連の優先的利益の保護・旅順港の租借権の回復・南満州鉄道の中ソ共同運営――ただし中国に関する協定は蒋介石総統の同意を必要とする)

2・千島列島の譲渡

ルーズベルトはこれらの条件を受諾、チャーチルも渋々ながら署名に同意し、ここにヤルタ秘密協定が成立したのであった。
一方、当時の日本政府はこの秘密協定の内容など知らないままに、同年5月頃からソ連に対し連合国との和平の仲介役を求めていた。ソ連はその要請に対し曖昧な態度を取り続け、その一方で対日戦への準備を着々と整えるという、したたかな二重外交を展開していたのだった。
7月26日、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が米英中三国の署名で発表されたが、この時点でソ連は参戦意図を日本に察知させないために同宣言に署名しなかった。
一方のアメリカは、反共主義者のトルーマンが新大統領に就任し、また原子爆弾の開発に成功(7月16日)したこともあって、ソ連の対日参戦を必ずしも望まなくなりつつあった。そうした動きを察知したスターリンは当初8月中旬を予定していた対日参戦を8月初旬に早めることとした。
トルーマンの特使としてモスクワに派遣されていたハリー・ホプキンズに対し、スターリンは「8月8日までにソ連軍は展開を完了するであろう」と言明していたが、同時に「対日戦争に勝利したらソ連は日本占領に参加したいと思うし、米英両国と占領区域について協定を結びたい」と通達している。スターリンの野心が前述のヤルタ秘密協定の取り決めだけでは満足していないことは明らかであった。                                                                       

 

*ソ連軍の作戦計画

ソ連軍は対日戦の当初から、満州・南樺太・千島への三方面同時侵攻を計画していたわけではなかった。
この時期の関東軍は、南方や日本本土への相次ぐ戦力抽出によって形骸化に等しい状態となっていたが、ソ連軍はその全貌を把握できていなかったのである。
ザバイカル方面軍司令官として対日戦に参加したマリノフスキー元帥の回顧録には、
「(関東軍の)その兵力は比較的大きかったが、兵器についていうと、大砲約5000門、戦車1115台、航空機1900機をもつにすぎなかった」
と記されている。戦記作家の楳本捨三氏によると、知人の元参謀たちはこの記述を見て、「せめてその半分、いや五分の一でもあったなら」戦争らしい戦争をやっていた、と口を揃えて嘆じたという。
スターリンやソ連軍首脳部の脳裏には、長年にわたって東部国境から自国を脅かしてきた日本陸軍最強の戦略機動集団・関東軍のイメージが未だに残っていたようである。このためソ連は関東軍の戦力を過大評価し、極東軍のほぼ全力を満州侵攻作戦に投入することとした。南樺太については満州侵攻作戦の進捗状況によって第二段階作戦として考え、千島については更にその後ということで、具体的な作戦計画は殆ど立案されていない状況であった。
満州侵攻作戦に投入された戦力は、80個師団、4個戦車・機械化軍団、、40個戦車・機械化旅団、4個狙撃旅団からなる兵員約158万、火砲・迫撃砲26137門、戦車・自走砲5556両、航空機3446機というものであった。

・上記のソ連軍戦力についての数値は、桑田悦・前原透編著『日本の戦争・図解とデータ』(原書房)の記述を引用させていただいたが、これらの数値は資料や書籍によってかなり食い違いが見られる。
例えば『日本陸海軍事典』(新人物往来社)の「満州侵攻」の項の記述(執筆者は防衛大教授の中山隆志氏)では、師団数と戦車・機械化旅団数については上記の数値と一致するものの、その他の数値は「兵員174万、砲・迫29835門、戦車・自走砲5250両、航空機5171機」となっている。
中国国防大学の教官である徐焔大佐の著した『1945年 満州進軍』(三五館)と、『日本の戦争・図解とデータ』とでは、戦車及び機械化軍団・兵員・火砲及び迫撃砲・戦車及び自走砲・航空機の数値については全て一致しているが、徐焔氏の著作では「88個師団、6個歩兵旅団(=狙撃旅団)、42個戦車・機械化旅団」とされている。
専門家の著作ですらこのように食い違っている現状であるから、他の一般書の記述も当然のことながら同様に食い違いを見せている。
必ずしも一概には言えないが、これは「極東軍の総戦力」と「満州侵攻作戦に投入された戦力」の混同から来ているのではないだろうかと私は推測している。ただ、この作戦にはソ連の傀儡国家であった外蒙古――モンゴル人民共和国軍も参加しており、それを含めた数値は明瞭ではないようである。

ソ連軍は極東軍総司令官ワシレフスキ−元帥のもとで、上記の戦力を3個の方面軍(ザバイカル・第1極東・第2極東)に編成し、新たな対日作戦計画を立案した。
従来の極東ソ連軍の満州侵攻作戦計画は、同方向の攻勢軸に大兵力を集中投入するというソ連軍の伝統的な突破戦略であり、攻撃方向は北満の牡丹江・チチハル方面へと向けられていた。
この作戦を採ったならば、満州北東部に配置された強固な要塞地帯に阻まれるだけではなく、それを突破した後も単に関東軍を北満から南満へ押し返すだけで、主力を殲滅することは不可能である。
そのためソ連軍首脳部は、独ソ戦の経験に基づいた迂回機動による包囲と縦深侵攻を組み合わせた戦略を新たに採用することとなる。結果策定されたソ連軍の新たな攻勢戦略は、

・三方向から満州内部に向けて求心的に突進し、第1極東方面軍とザバイカル方面軍が東西両端から新京・吉林付近で合流して関東軍を南北に分断し、第2極東方面軍と共に北に残された関東軍部隊を巨大な包囲網の中で殲滅する

・その後方向を転換し、南に残された関東軍部隊を遼東半島・北鮮方面へと圧迫する

というものだった。
問題は、極東軍が擁する唯一の戦車軍である第6親衛戦車軍をどの方面軍に配属するかということであった。北東・東部正面は要塞地帯が立ち塞がっており、また関東軍の国境守備隊もこの方面に集中配置されている。北西・西部正面は防備は手薄ではあるが、大興安嶺と砂漠地帯が立ちはだかっている。
結果、参謀本部と極東軍は北西・西部正面からの侵攻を担当するザバイカル方面軍に第6親衛戦車軍を配属することとした。関東軍の意表をついた縦深侵攻を実現させるため、あえて戦車・機械化部隊の進撃が困難と予測されるこの方面に投入されることとなったのであった。

なお、この三個の方面軍のうちの第2極東方面軍は元極東方面軍を改称したもので、満州侵攻作戦ではザバイカル方面軍と第1極東方面軍の補助的な地位に留まっていたが、後の南樺太・千島侵攻作戦では専らその主役を務めることとなる。

 

*綻びた神与の剣―――関東軍の作戦計画

前述したように、この時期の関東軍は度重なる戦力抽出によって精鋭師団を南方や本土に転用され、「皇軍の華」と謳われたかつての面影はもはやどこにも見られなくなっていた。関東軍の擁していた2つの戦車師団である戦車第1師団と戦車第2師団もそれぞれ本土とフィリピンに転用されていた。また、長年手塩に掛けて育成してきた砲兵戦力を根こそぎ引き抜かれたのは特に痛恨であり、航空戦力も名ばかりの第2航空軍(旧式機を含み、作戦機は約200機程度)があるのみに過ぎなかった。
南方へ転用された部隊は、フィリピンの第1師団や戦車第2師団・ペリリュー島の歩兵第2連隊に代表されるように、各地で「無敵関東軍」の名に恥じぬ働きを見せ、勇戦敢闘の末に壊滅したが、それらは皆往年の関東軍が如何に精強であったかを物語っている。ソ連極東軍が過大な戦力を満州侵攻作戦に投入したのも理解できぬことではない。
しかしながら、現状の戦力不足だけはどうしようもない状態であった。外面上は24個師団・14個旅団基幹の約68万の戦力を有していたが、当時関東軍作戦参謀を務めていた草地貞吾大佐の手記によると、それは従来の関東軍の師団戦力に換算して8個師団半にしか相当しないものであった。
(なお、この他に対ソ開戦後に関東軍の隷下に入る第17軍(朝鮮軍・司令部京城)の6個師団・独立混成2個旅団、満州国軍と内蒙古軍の15個師団、満州国海軍(松花江艦隊)の3個歩兵連隊が加わるが、これらの部隊も第17軍以外は実質戦力として期待できるものではなかった)。

このような戦力では増強された極東ソ連軍の侵攻を正面から迎撃・撃退することは到底不可能であり、そのため従来の対ソ戦計画は大幅に立て直されることとなる。
大本営との協議の末に策定された計画は、「主力部隊はソ連軍の進撃を可能な限り遅滞させつつ後退し、連京線地区(大連―新京)において補給線の延伸したソ連軍に反撃を加え、最終的には圖們―新京―大連の線で持久する」というものであった。要するに満州国の大部分を当初から放棄するという悲壮な作戦計画であったが、当時の関東軍にはそれ以外に採るべき手段は残されていなかったのである。
この作戦計画に従い、北部・東部の国境線付近に駐屯していた部隊は国境線から遠ざかるように南方・西方へ移駐することとなった。
ただ、このいわば専守防衛配置においても、従来の攻勢重視配置と同じように、「主戦力の東部への集中」という特徴はそのままであった。「ソ連軍の作戦計画」の項で述べた通り、関東軍の要塞地帯と国境守備隊は東部・北東部正面に重点配置されており、また主力部隊も東部・北東方面に指向していた。それに対して荒涼な地形の続く西部・北西方面は明らかに防備が手薄であった。この「東に厚く、西に薄い」布陣は、西部に戦車・機械化部隊を重点配置(ザバイカル方面軍)したソ連軍の前に格好の弱点を晒していたのである。

ところで、大本営と関東軍はソ連参戦の時期についてどのように予測していたか。
当時の日本政府はソ連に連合国との和平の仲介役を期待し、実現するはずのない交渉をモスクワで続けていたが、一方の大本営と関東軍は日本政府ほど楽観的ではなく、ソ連参戦は不可避であると見ていた。
しかしながら、その開戦時期の判断は誤っていたと言わざるを得ない。
開戦時期の判断については様々な見解が出されていたが、それらを総合して眺めてみると、8月が危険時期であるという見解もあったものの、9月以降という意見が大勢を占めていたようである。
当時の関東軍はソ連軍侵攻に備えての防備態勢の拡充を進めていたが、それが一段落するのは9月頃の予定であった。この辺りの事情に関しては、よく言われているように、「希望的観測」が入り込んでいたと言うほかない。
いずれにせよ、そうした対応の遅れがソ連軍の奇襲攻撃を許し、同時に在満邦人の避難の遅れをもたらし、その悲劇を招いた一因であったということは否定できない事実である。

 

4・満州における対ソ戦の概観

1945年8月9日未明、ソ連軍は各方面から満ソ国境を突破、日ソ中立条約を破って満州に対する侵攻を開始した。後に南樺太・千島と続くソ連の対日侵略戦争の始まりであった。
この侵攻は大本営にとっても関東軍総司令部にとっても「予期せぬ事態」であり、この報告がもたらされた時、関東軍総司令官の山田乙三大将は大連視察中であった。関東軍総参謀長の秦彦三郎中将が総司令官に代わって「国境警備要綱」の制約を解き、「戦時防衛規定」の発令などの必要処置を独断で行い、午前6時頃に全面開戦を隷下の全軍に発令したのだった。
一方、大本営は関東軍に対し、「関東軍総司令官は主作戦を対ソ作戦に指向し、来攻する敵を随所に撃破して朝鮮を保衛すべし」と発令した。つまり、昨日までの作戦計画であったはずの圖們―新京―大連の線での持久防御構想を突如放棄し、皇土である朝鮮を保衛せよと言うのである。関東軍総司令部はこの命令に動揺したが、11日には新京から通化(朝鮮国境付近)への総司令部の移動を開始した。なお、関東軍総司令部は開戦の翌10日に、満州の日本人居留民の北鮮への避難計画を決定し、大陸鉄道司令部に輸送の手配を命じている。

ソ連軍の進撃は当然のことながらその間も継続されていた。満州における対ソ戦と言うと、「関東軍は圧倒的なソ連軍の前に雪崩を打って敗走した」といった印象が一般に広く存在しているが、実際の所はどうであったか。
求心的に満州内部へ侵攻する3個の方面軍のうち、満州東部と北東部からの侵攻を担当する第1極東方面軍(メレツコフ元帥)と第2極東方面軍(ブルカエフ上級大将)は、この方面に配置された関東軍の要塞・陣地に拠る守備隊の激しい抵抗を受け、容易に前進できなかった。ようやくその間隙を突いて満州内部へ浸透したものの、今度は国境線の後方に位置していた関東軍の前方配置部隊の防御線によって阻まれることとなる。特に、牡丹江付近に布陣していた関東軍第1方面軍は、縦深陣地の突破を図ろうとする第1極東方面軍に対し、予備兵力を投入しつつ逆襲を繰り返し、この方面では終戦の日までソ連軍の進撃を押し止めることに成功した。
最終的に第1極東方面軍と第2極東方面軍は、難攻不落の関東軍拠点を後方に残しつつ100キロ以上前進したが、開戦前の関東軍が最終防衛線と定めていた圖們―新京の線に達することは出来なかった。独ソ戦で経験を積んだソ連軍の圧倒的な砲爆撃に晒されながら、有効な対戦車兵器を持たず訓練も行き届いていない関東軍部隊がこれだけ持久できたということは特筆に値するのではないだろうか。
在満邦人の大半が居住する新京以南地区により近いこの方面が仮に突破されていたとするなら、居留民の犠牲は著しく増大していたであろう。その意味においても、東部・北東部方面の関東軍部隊は、寡兵ながら遅滞防御によってソ連軍の進撃をよく食い止め、立派に戦ったと言える。

一方、満州北西部・西部からの侵攻を担当するザバイカル方面軍(及び外蒙古軍)は、第1極東方面軍・第2極東方面軍とは対称的に順調な進撃を見せていた。
前述したように関東軍はこの方面の防備を手薄にしていたが、ソ連軍戦車・機械化部隊はホロンバイル草原と大興安嶺を短期間で走破し、満州国の内部へ深く食い込んでいた。ハイラル陣地に拠る関東軍守備隊(独立混成第80旅団)は頑強に抵抗し、終戦まで陣地を確保し続けたが、その他の部隊(満州国軍騎兵部隊を含む)は敗走を重ねた。
8月13日にはザバイカル方面軍は白城子郊外に迫り、新京を西から脅かしつつあった。それと共に外蒙古領内から侵攻を開始したソ連・外蒙古連合軍は、この方面に布陣していた内蒙古軍を撃破しつつ、北支に駐屯する日本軍部隊の北上増援阻止を目的として長城付近の多倫・張家口に迫り、支那派遣軍と関東軍との連絡線を遮断しつつあった(支那派遣軍はソ連軍侵攻後、2個師団を基幹とする第6軍を満州へ転用すべく準備中であったが、終戦により実現しなかった)。
またソ連軍は満州への陸路侵攻と並行して、海上機動による北鮮沿岸(羅津・清津等)への上陸作戦を行ったが、ソ連太平洋艦隊の輸送・揚陸能力には限界があったので、上陸した部隊はソ連軍侵攻と共に関東軍の隷下に入った第17軍の反撃を受けて被害が続出し、沿岸部の拠点を占領できたのは終戦後になってからであった。

ザバイカル方面軍は満州内部へと深く食い込み、新京の間近に迫っていたが、300キロを超える進撃によって補給線は大きく延伸していた。これに対し、関東軍が後方予備として温存していた第3方面軍(9個師団基幹)は新京―大連の線に展開し、当初の作戦計画通りに補給線の延びたソ連軍に対し攻勢防御を試みようとしていた。
関東軍総司令部の前述の作戦計画変更によってこの攻勢防御計画は中止されることとなったものの、第3方面軍は隷下の部隊を新京―大連の線に集結させており、このままいけばザバイカル方面軍との正面衝突は必至という状勢であった。
そして、関東軍が温存していた主力部隊を投入し、反撃を試みようとしていたまさにこの時、終戦の詔勅が下されることとなったのである。
新京の関東軍総司令部では15日夜半より緊急の幕僚会議が開かれ、戦闘継続か否かを巡って激しい議論が交わされた。その中では「徹底抗戦」の主張が圧倒的多数を占め、また前線の各部隊からも「是非とも最後の一戦を試みたし」という旨の電文が総司令部に殺到しつつあった。しかし、山田総司令官と秦総参謀長は「我ら軍人は天皇陛下の勅令に従うより他に道はない」との決意を示し、嗚咽の声が響くなかで関東軍の降伏受諾が決定されたのであった。
16日、大本営からの停戦命令が関東軍総司令部に届く。だが同じこの日に、ソ連軍参謀本部は「15日の公告は一般的な宣言に過ぎず、軍隊に対する戦闘停止命令は発布されていない」として、全線部隊に対し侵攻続行命令を下達した。18日、山田総司令官は即時停戦と武装解除を麾下の部隊に発令し、また両軍の停戦交渉も行われていたが、ソ連軍は関東軍の司令部機能を奪い、通信連絡を禁止して、各個の部隊の降伏を要求しつつ、空挺部隊の投入を併用して侵攻を継続した。このため組織的な戦闘が完全に停止したのは8月下旬(9月上旬と記しているものもある)になってからであった。また、ソ連軍は満州制圧と併せて北鮮への侵攻も行ったが(平壌占領は8月24日)、関東軍隷下の第17軍は米軍の占領区であった38度線以南へと後退し、9月9日に仁川へ上陸した米軍に投降することとなった。

欧州戦線で行われたソ連軍の暴行・略奪・虐殺行為はこの満州でも同じように繰り返され、暴民の襲撃と併せて、辺境に居住していた在満邦人の悲劇を生み、終戦までの犠牲者は3万人に達していた。
だが、日本人居留民の犠牲の大部分は終戦後に発生する。終戦まで関東軍が保守していた連京線(日本人居留民150万人のうち100万人以上がこの沿線に居住していた)はソ連軍の終戦後の侵攻によって破られ、そこでも同じように暴行・略奪・虐殺行為が繰り返された。
それと共に、ソ連は翌年4月に満州の管轄を国民党政府に移譲するまで日本人の帰国を一切認めず、そのため居留民は占領下の満州での越冬を余儀なくされたこともあって、終戦後の在満邦人の犠牲者は13万5千人に達する。南方や支那各地の日本軍将兵・居留民が(復讐裁判によって無実の罪で処刑された者も多数いたものの)終戦後すぐに無事帰国を許されたのとは対照的であった。
また、ソ連軍と呼応して満州へ進駐した中共軍(主として八路軍)も、「人民裁判」の名のもとに満州各地で日本人に対する虐殺を繰り広げた。ソ連軍・中共軍の暴圧に苦しむ同胞の姿を見かねた関東軍将兵の一部は、終戦後も地下に潜っての抵抗活動を続けたが、それに対するソ連軍・中共軍の報復は凄惨を極め、特に通化では数千人の日本人が中共軍によって虐殺された。関東軍将兵のシベリア抑留や後の残留孤児問題などと併せて、これらは皆1945年の日ソ戦について考える上で決して避けて通ることのできない痛ましい出来事である。

なお、それらの点に関して、在満邦人の悲劇の全責任を関東軍へ押しつけるような論調が長らく存在している。
確かに、関東軍が開戦時期の判断を誤り、そのため居留民の避難計画の推進を怠ったことは悲劇の一因であり、そのことに関して関東軍が厳しく責められるのは当然である。
しかし、ソ連の責任の所在を不明確にして関東軍のみを糾弾するのは如何なものであろうか。
上に書いた通り在満邦人の犠牲の大半は終戦後に生じており、そもそも当時の日ソ間には相互不可侵を定めた中立条約が機能していたのである。
念のため書いておくと、私は過去の出来事を持ち出してソ連を批判するためにこのようなことを書いているのではないし、ソ連の戦争犯罪について今更恨み言を言うつもりもなければ、現在のロシア及びロシア人に対して何ら敵愾心を持っているわけでもない。
ただ、1945年の日ソ戦について振り返る上で、そうした事実は忘れてはならないのではないか、と考えるのみである。それと共に、「案山子兵団」「張り子の虎」と揶揄されながらも、ソ連軍の侵攻を食い止めるために、時には玉砕戦を選択してまで勇戦敢闘した関東軍部隊が多数存在したという事実も、同時に忘れてはならないのではないか、と考える次第である。

 

1945年8月17日、国務院会議において満州国解体が決議され、翌18日、皇帝溥儀は蒙塵先の通化省大栗子で満州国解体と皇帝退位の詔書を読み上げる。五族協和・王道楽土の理想と共に、満州国は13年と5ヶ月の短い生涯を閉じることとなった。

関東軍将兵と居留民の戦没者・犠牲者の御冥福を心より祈りつつ、この稿を終えたい。

 

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