42855 | マニラ軍事裁判考 |
1945年末と1946年初頭にマニラで開かれた。それは「マレーの虎」と畏称されていた山下将軍の起訴をもって開始された。その経歴は、「1941年満州において南進の為の特別演習軍を訓練していた。1942年彼はパーシヴァル将軍に勝利した。1945年彼は貧弱な装備の軍隊による巧妙なルソンの防衛戦によってマッカーサー将軍に勝利した。山下は、彼の飢えきった部隊のほとんどをもってルソンの山岳部で8ヶ月もちこたえて、裕仁から降伏するよう命令を受けた時にはじめて降伏した。5千人の山下の兵士は、マニラ湾の入口にある要塞島コレヒドールを、1945年にアメリカ軍が島に上陸した後も11日間にわたって防衛した。4千人のマッカーサーの部下は、1942年に初めて日本軍がそこに足を踏み入れた時、12時間以内に同島を放棄していた。」このような業績は、山下が戦争犯罪人として彼の経歴を裁かれた1945.10.29日でも、日本の公衆の心の中ではなお新鮮であった。
この山下の戦犯度を追及したが、山下のあらを捜すことができなかった。彼は正しい戦争の指揮に対して非常に厳格な人物であった。むしろ、1941年から42年にかけてのマニラの戦場で、イギリス軍に対する残虐行為を許した彼の指揮下の将校を懲戒したいた。それは辻や裕仁の不満を招いた。1944年12月、彼は、彼が最後の凄まじい防衛戦を行う計画を立てたバギオを取り巻くルソンの山岳地帯の外へ、全てのアメリカ人戦争捕虜と収容者を連れ出すために骨を折り、そのためにガソリンを費消した。山下の抑止力は、フィリピンの捕虜収容所の所長が、アメリカ人捕虜の解放を許すよりもむしろ全員を殺せという、東京の天皇の大本営からの示唆に従うことを防止するのに役立った。
これらの事実にもかかわらず、マッカーサーは山下を裁くことを欲した。
彼には罪の無かったマニラの暴行と同様に、山下は、1944年1月のパラワン島におけるアメリカ人捕虜150人の焚殺、及び1945年初頭のパタンガス地方のフィりピン人部落に対する一連の報復虐殺の指導責任を負わされた。裁判で明らかになったことは、パラワンは残虐行為が為された頃は、東京が指令する海軍航空隊の指揮下にあったというのが事実であり、パタンガス報復爆撃もまた、山中に位置していた山下の指令によって為されたのではなく、むしろ東京からの命令で為されたと云うのが事実であった。フィリピン人の証言では、パタンガスの部落がゲリラ活動の中心であったことが裏付けられている。ゲリラが権利を持たないというのは、文明化した戦争行為の一般に認められた準則である。
日本軍将校団の中から見せしめになる人物として山下が選ばれた。
山下は法廷で、自己弁護に際して、簡明な雄弁をもって陳述した。
日本の軍体系の非能率の結果として、私は指揮を統一することが出来なかった。
日本の連絡網は極めて貧弱であった。
私は、次第に情況から切り離されることになり、接触感を失ってしまった。そのような状態のもとで、自分の為し得る限り最善の働きをした、と私は確信する。私は如何なる虐殺をも指令しなかった。私は私の軍団を指揮するために最大限の努力を払った。
山下は、日本の国内政治における無所属的立場であった。
判決は、「軍司令官上級職の権限によって、情報を与えられていない時でも、また命令を取り消されたときでも、自分の軍団に対して引き続き責任を負うべきである」とされた。それは、「戦争犯罪の法的責任が、彼の性格や動機や知識の状態に関わりなく、一連の指揮の連鎖の中にある誰に対しても、帰謬法によって判定され得ることを意味していた」
山下の死刑判決は、1945.12.7日、真珠湾4周年記念日に、マニラで下された。マッカーサー直属であったアメリカ軍の法律部門からの志願者から選ばれた山下の弁護人は、合衆国最高裁判所に対してこの判決を上訴した。1946.1月裁判所はこの上訴を受理したが、1ヶ月の審理の後、合衆国最高裁判所の判事の5分の3の投票によって、いかに情状酌量に値するものであっても、軍司令官がまさに彼の部下の犯罪に対して責任を負うものであることが承認された。
反対は、フランク・マーフィー、ウィレィ・レトレッジの両判事。その反対意見書は次の一節。「従来、戦争中、あるいはその他の軍事的作戦ないし任務の間に為された行動によって、我々が、敵の将軍を裁判し有罪と断じたことはかって一度もなかった−ましてや、行動を為す事に失敗した咎で我々が彼を有罪としたことなどかって一度も無かった」
概要「妥当性の無い罪名のもとでの急速審理、不十分な弁護期間、証拠の検討に要する法の利益の却下、かくて簡略な絞首刑判決が言い渡された」
「記録された戦争の年代記と確立された国際法の原則は、そのような告訴の為のいかなるささやかな先例をも作っていない」
「この告発は、要するに、本申立て人の任務と彼の無視された任務に関する偏見次第で、軍事法廷委員会に、それが欲すればいかなることでも犯罪にする法廷を許したことになる。」
マーカーサーの見解は次の通り。「私は軍事法廷委員会の報告と判決を承認し、そして西太平洋陸軍司令官に対して、軍服を脱がされ、階級章と軍人の一員であることを示す他の標示を剥奪された被告に判決を執行するよう指令する」
山下の弁護人は、着任したばかりのハーリー・トルーマン大統領のいるホワイトハウスに上訴した。大統領は、「マッカーサーの仕事に干渉する事を事態した」。
1946.2.23日午前3時27分、山下将軍はマニラ郊外のニュー・ビリビド刑務所の絞首刑台へ登った。
次に本間雅晴将軍。1945.12.7日に山下に対して判決が下されて間もなく、マニラの法廷は、本間将軍に対する訴訟手続きを取り始めた。彼は、1942年にパターンの死の行進が起ったとき、フィリピンの総司令官であったことによって裁判にかけられた。射撃小隊の前で銃殺刑を執行する判決が言い渡された。「あらかじめ判決が用意されている変則的な裁判」となった。1946.4.3日判決通りに処刑された。