4285351 【東京裁判の副次産物としての戦史解明】
【検察側による戦史解明】
 たしかに「勝者による裁き」という面を免れえなかったこの裁判は、法理的にも事実認識の点からも、いくつかの疑問を残すものであったことは否定できないが、審査の期間を1928年以降の日本政府と軍部の行動を対象とした為、その審理の過程を通じてそれまで秘密の帷に包まれていた数々のショッキングな事実を白日のもとに暴露していった。

 平塚柾緒氏著作「東京裁判」(河出書房、2002.7.20日初版)を参照すれば、検察側の各論の立証は6.17日のアメリカのハンマック検事による「侵略戦争への道」から始まった。日本の軍国主義教育の実態解明が為され、海後宗臣(東大助教授)、大内兵衛(東大教授)、滝川幸辰(京大教授)らが証人として登壇した。大内氏らの教授グループ弾圧事件、滝川氏らの京大事件などの真相が初めて明らかにされた。続いて、前田多文(前文相)、伊藤述史、緒方竹虎、鈴木東民、幣原喜重郎、藤田勇、犬養健、若槻礼次郎、宇垣一成、後藤文夫らが登壇した。
 
 次に、張作霖爆殺事件、「満洲事変」勃発の端緒となった「柳条湖における満鉄線爆破事件」、軍部中堅層と民間右翼による軍事クーデター事件(3月事件、10月事件=昭和6年)が解明されていった。満州国皇帝だった溥儀が数奇な半生を陳述し話題となった。

 1937(昭和1二).7.7日のろ溝橋事件、12月の「南京虐殺事件」の状況が解明された。アメリカ人医師ロバート・C・ウィルソン、南京大学教授で南京国際安全地帯委員会委員だったマイナー・C・ベイツ、紅卍協会副会長だった許伝音、南京アメリカ協会牧師のジョン・G・マギーらが証言した。

 日ソ間の局地戦争たる「張鼓峰」(昭和13年7月)、「ノモンハン」(昭和14年5月〜9月)両事件の経過、「日独伊三国同盟」(昭和15年9月)、「日米交渉」(昭和16年4月〜11月)のさいにみられた外交と内政の緊迫した経過、真珠湾攻撃の違法性等々が解明された。

 締め括りは、「戦争法規違反、残虐行為」の検証に入った。「マニラの大虐殺」や「パターン死の行進」。
 
 しかし、極東裁判については関係資料がまとまった形では公開されていないため、われわれがこの裁判の全体像をつかむことは未だにきわめて困難である。
 
 たしかに法廷の速記録は残っており、その復刻版も出されたが(雄松堂・昭和43年)、これに収録されているのは厖大な書誌と準備資料の一部であり、裁判の進行を忠実に再現するには不充分である。いうまでもなく、当時の日本の戦争政策、あるいは軍国主義化の過程を極東軍事裁判が解き明かしたわけではなく、またそうできる筈もなかったが、裁判資料だけに限ってみても、ニュルンベルグ裁判の記録は英文と仏文版の速記録のほか、書誌類が別にまた一括されて公刊されているのであり、このこと自体連合国の戦争責任追及の姿勢と態度におけるドイツ、日本の違いを示唆しているし(このことはおそらく「冷たい戦争」の展開と無関係ではなかったように思われる)、その後ドイツ、日本で発掘され公表された第二次世界大戦の原史料についても、質量共にドイツ側の作業の方が圧倒的にすぐれており、この意味でも極東国際軍事裁判に関連して始めて陽の目を見るに至った諸資料の資料的価値について、過大な期待を抱くのは禁物である。
 
 しかし同時に、筆者の知る限り、旧軍関係の生の資料のなかには敗戦時の焼却の対象となって文字通り物理的に消えてしまったものも多数あるようであり、日本側の資料整備に絶対的な限界があることを考えれば、極東裁判関係の資料の方がニュルンベルグ裁判関係のものより歴史研究にとって有用であるという逆説も成り立ちうる(歴史関係のデーターベース「極東軍事裁判訴因」 )。


【弁護人の反論及び被告の弁論】
 この間、清瀬弁護人により代表反論が為されているが、自存自衛戦争であったという観点からの日本軍の正当化であり受けは良くなかった。各論反証をそれぞれ担当弁護人が務めたが、「この弁護側の反証の中でますますはっきりしてきたのは、ウェッブ裁判長初め判事団の態度と立場が、極めて検察側に近いということだった」。

 一般段階の反証が終わると、1947.9.10日から個人段階の反証に入った。実際にたったのは16名で、被告の対応もまちまちとなった。問題は、被告達は天皇に責任を負わさないよう反論せねばならず、検事側もそこに気遣うというかなり難しい反証を為さねばならないところにあった。東条の受け答えは、この難問を見事にクリヤーさせていた。




(私論.私見)