4285312 戦犯容疑者逮捕と東京裁判準備の流れ

 (最新見直し2006.8.19日)

 アメリカ本国では、終戦を見越して国務省、陸軍省、海軍省の三省からなる政策調整委員会の極東小委員会、通称SFEにおいて、対日占領政策の基本問題としての天皇戦犯論が闘わされていた。つまり、戦争裁判にかけるべきかどうかという議論が為されたということである。問題は、天皇を裁判にかけた時の政治的効果にあった。既に上院には「天皇を戦争裁判にかけることをアメリカの方針とせよ」という94号決議案が出ていた。SFEの上部機関政策調整委員会SWNCCは、マッカーサーに対して、「天皇ヒロヒトが、自らの意志に基づいて、戦争を始めたかどうか」についての証拠を極秘裏に収集するよう指令した。これに対してマッカーサーは、陸軍参謀長アイゼンハワーに次のように打電している。

 「過去10年間、日本の政治決定に天皇が参加したという特別且つ明白な証拠は、発見されなかった」
 「もし連合国が天皇を裁けば、日本人はこの行為を史上最大の裏切りと受け取り、長期間、連合国に対して、怒りと憎悪を抱きつづけるだろう」。

 このマッカーサー勧告が影響を及ぼし、4.13日、SWNCCは、天皇制を存続すべきだとする覚書を、国務長官に提出した。 

 続いて4.5日、米.英.ソ.中からなる「対日理事会ACJ」が東京に設置され、第一回連合国対日理事会開かれた。「対日理事会」は、日本の占領と管理に対してマッカーサーに助言を与える権限をもつ諮問機関として発足した。これらの機関が超法規的権力となり、戦後の日本の再建を指導していくことになった。戦後の日本統治は、この「GHQ」と「極東委員会」(ワシントンに設置.議長米.他)と「対日理事会」(東京に設置.議長米.英.ソ.中の4カ国代表によって構成)によって運営されていくことになった。(「1945年敗戦まで1、連合国軍による日本占領政策の研究」参照)



【A級戦犯逮捕の流れ】

 連合国最高司令官として来日したマッカーサー元帥が最初に為した指令は、日米開戦時の首相であった陸軍大将・東条英機の逮捕と戦争犯罪人リストの早急な作成であった。「すなわち、日本弱体化政策の使命をおびて、マッカーサーは厚木飛行場に降り立ったのである。彼は厚木に到着すると真っ先にソープ准将に東條以下の戦犯狩りを命令した」(「極東国際軍事裁判」)とある。

  9.6日、トルーマン大統領は、「降伏後における米国の初期対日方針」を承認、マッカーサーに指令しているGHQが早急に取り組んだことは、「日本が再び米国又は世界の脅威にならないようにする為の武装解除.非軍事化」であった。日本軍国主義的要素の徹底的な破壊であり、この延長上での国家再建となった。こうして軍隊及び軍事施設の解体及び戦犯の追及から着手された。この動きとワンセットで獄中反軍国主義者の解放が指示されることになった。他方で、「基本的人権の尊重や民主主義的組織の形成が奨励、育成、指導」が為された。この流れで、GHQ指令により党の獄中幹部も又全面釈放されることになった。

 
この経過は次の通りに進行した。GHQが焦眉に取り組んだことは、戦争の主柱であった帝国軍隊の解体を手始めとする「天皇制軍国主義とその社会的基盤の解体」となった。9.2日、「指令第1号」で軍需生産全面停止を指令した。

 続いて戦争責任者の追及に向かった。GHQ内に、キーナンを首席検察官とする国際検察局が設立され、被告の選定に当った。

 9.11日、大東亜戦争開戦時の首相・東条英機以下その内閣時の閣僚(外相・東郷茂徳、海相・嶋田繁太郎、蔵相・賀屋興宣、商工相・岸信介ら)を筆頭に戦争指導犯罪者43名の逮捕指令が出され、以後容疑者が次々と収監されていった。

 東条邸は早朝より進駐軍の車に取り囲まれ、外国人記者も駆けつけ騒然としていた。東条は自らが作った「生きて虜囚の辱めを受けず」、「死して罪禍の汚名を残すことなかれ」の通り、娘婿の古賀少佐が玉音放送の後、自決に使ったコルト32口径で心臓を狙って発射させたが僅かに手元が狂い、自殺を図ったものの一命をとりとめた。

 この時、次のように述べたと伝えられている。

 概要「一発で死にたかった。大東亜戦争は正しい戦争であった。切腹は考えたが、ともすれば間違いがある。後から手を尽くして生き返らないようにしてくれ。陛下のご多幸を行く末までお守りして、どこまでも国家の健全な発達を遂げることができれば幸いである。勝者の裁判は受けたくない。勝者の勝手な裁判を受けて、国民の処置を誤ったら国辱だ。俺の死体はどうなってもいい。遺族に引き渡さなくてもいい。しかし、見せ物ではないとマッカーサーに言ってくれ。天皇陛下万歳」。

 9 .12日、東条内閣の海相だった嶋田繁太郎大将がMPに逮捕された。戦犯第2号となった。吹きまくる戦犯狩りの嵐の中で、敵軍の裁きをいさぎよしとしない幾人かは、逮捕を前に自らの命を絶った。開戦当時の陸軍参謀総長杉山元帥はピストル自殺し、その夫人が後追い短刀自決した。9.13日、東条内閣の厚生大臣小泉親彦軍医中将、9.14日、文部大臣橋田邦彦が青酸カリによる服毒自殺している。

 9.14日、賀屋興宣(元蔵相)、岩村通世(元法相)、井野碩哉(元農相)、鈴木貞一(元国務相、企画院総裁)、村田省蔵(元逓相・鉄道相)の5名が出頭。9.15日、橋本欣五郎、上田良武、本間雅春(元陸軍中将)、黒田重徳(元陸軍中将)が出頭。9.16日、寺島健(元逓信相、海軍中将)、9.17日、岸信介(元国務相兼軍需次官)、9.23日、土肥原賢二(元法相)、9.30日、東郷茂徳(元外相)。

 9.27日、昭和天皇がマッカーサー元帥を初訪問。

 東条を除くこれら第一次逮捕者21名は横浜刑務所に収容された。10.5日、旧陸軍の大森俘虜(ふりょ・捕虜)収容所(終戦まで多くの連合軍捕虜たちが収容されていた首都圏最大の収容所だった)へ移送された。10.7日、傷の癒えた東条が送られてきた。

 11.1日、巣鴨プリズンが開所した。

 11.10日、マッカーサーは、A級戦犯を米国独自の軍事法廷で早急に裁きたい意向を本国に伝えていたが、この日、国際法廷で裁くよう通達してきた。

 11.19日、マッカーサー指令部は、第2次逮捕命令で、次の11名を戦犯容疑で逮捕し、巣鴨拘置所に拘禁するよう日本政府に指令した。荒木貞夫(元陸相、文相)、本庄繁(元陸軍大将、枢密顧問官)、鹿子木員信(元言論報国会理事長)、小磯国昭(元首相、陸軍大将)、久原房之助(元政友会総裁)、葛生能久(元黒龍会主幹)、松岡洋右(元外相)、松井岩根(元陸軍大将)、真崎甚三郎(元陸軍大将)、南次郎(元陸軍大将)、白鳥敏夫(元駐イタリア大使)。

 11.20日、逮捕命令が通告された。本庄繁元陸軍大将は自決。荒木はモーニング姿、葛生は羽織袴の正装で巣鴨に出頭してきた。

 11.20日、ドイツでニュルンベルク裁判が開廷。

 12.2日、マッカーサー指令部は、第3次逮捕命令で、皇族の梨元宮正王ら59名の逮捕命令を出した。顔ぶれは軍人や政治家だけでなく、国策団体の幹部、企業家、言論人など広範囲に及んだ。主な顔ぶれは、平沼騏一郎(元首相)、広田弘毅(元首相)、大川周明(元聖戦思想家)、徳富猪一郎(蘇峰・元聖戦煽動家)、畑俊六(元陸相)、佐藤賢了(元中将)、梨本宮守正殿下(皇族、元元帥)。梨本宮は一番乗りで巣鴨ブリズンに出頭した(翌1946.4.13日釈放)。

 12.6日、マッカーサー指令部は、第4次逮捕命令で、次の9名に対する追加指令。主な顔ぶれは、近衛文麿(元首相)、木戸幸一(元内大臣)、酒井忠正(元貴族院副議長)、大島浩(元駐ドイツ大使)、大河内正敏(元理研所長、貴族院議員)、緒方竹虎(元国務省)、大達茂雄(元内相)、伍堂卓雄(元商相)、須磨弥吉朗(元スペイン公使)。

 この日、11.29日にトルーマン大統領から日本の戦争犯罪者捜査の法律顧問団団長に任命され、東京裁判の首席検察官を務めることになるジョセフ・B・キーナンが19名の検事を含む随員38名を率いて来日してきた。キーナンは、報道陣との会見で、「戦争犯罪人の追及は日華事変の1937(昭和12)年7月まで遡ってやる。現在逮捕されている人たちが必ずしも全て有罪という訳ではないが、逮捕にはそれ相応の理由がある訳である。しかし、慎重に事実を調べた上で釈放される人も出てくるだろう。裁判は公明正大にやる」と述べている。12.8日マッカーサーはキーナンを国際検察局の局長に任命している。

 12月、モスクワに集まった米、英、ソ、三カ国会議で、ドイツのナチス残党同様、日本のA級戦犯を国際軍事裁判にかけて処断することを決定した。そしてマッカーサー元帥が「判・検事の任免権」および「減刑権」をふくむ、最高指揮権を掌握し、裁判を統轄することとなった。

 12.8日、大森俘虜収容所に拘置されていた戦犯容疑者等が巣鴨プリズンに移送された。12.15日、近衛文麿が青酸カリによる服毒自殺。

 戦犯のA・B・C級分けは、次の識別によった。但し、B級とC級の区別ははっきりせず、BC級と一括して呼ばれた。

A級  戦争を遂行した国家指導者ないしは影響力大であった者。
B級  戦場で指揮・監督にあたった将校・部隊長など命令する立場に居た指揮官。主として捕虜取り扱いに関する不法行為責任が問われた。
C級  直接捕虜の取り扱いにあたった者で主として下士官、兵、軍属。

 A級戦犯容疑者は延べ百名を超え、BC級戦犯容疑者の逮捕へと続いていった。B・C級戦犯とは、主として捕虜取り扱いに関する不法行為による摘発で、B級は指揮・監督にあたった将校・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵、軍属である。B・C級戦犯約5、600人が各地で逮捕投獄された。横浜、上海、シンガポール、ラバウル、マニラ、マヌス等々南方各地の50数カ所の牢獄に抑留され、簡単な軍事裁判にかけられて約1000名が戦犯の名のもとに処刑された。多くは裁判とは名のみで、ほとんど弁護人もなく、あっても形式だけで、はなはだしきは三、四回法廷に呼び出されたのみで死刑を宣告されるといった、ずさんな断罪であった。人違いもあり、犯罪事実に至っては、懲罰のため殴ったことがある、食事を減じた――ただそれだけで銃殺刑に処せられた兵もあった。これらの詳細については、巣鴨遺書編纂会の『世紀の遺書』、巣鴨法務委員会編集の『戦犯裁判の実相』および角田房子氏の『責任―ラバウルの将軍今村均』、上坂冬子氏の『遺された妻―横浜裁判BC級戦犯秘録』『巣鴨プリズン13号鉄扉』等を参照されたい。

 受刑者は次の通りである。日本国内での逮捕は、1948(昭和23)まで続けられ、総数2万5千名を越えた。

 (正村公宏著『戦後史』(上)より)
 B・C級戦犯被告       5606 名 
 絞首刑または銃殺刑    937 名
 自決及び獄中死   131 名
 終身刑   385 名
 無期懲役  1046 名 
 有期懲役  3075 名
 事故死及び死因不明    32 名

 こうしたA、B、C級戦犯の逮捕と併行して、戦争協力者と称する各界の指導的地位にあった者が一斉に公職から追放された。その数は21万人に及んだ。



【公判の流れ】
 キーナンらアメリカ検事団はA級戦犯を確定するため、連日のように巣鴨ブリズンに通い、精力的に尋問を開始した。

 12.28日、米国国務省は、日本の降伏文書に調印したイギリス、フランス、中国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソ連の各国に裁判官と検察官を1名ずつ指名するよう要請した。

 1946.1.1日、昭和天皇が人間宣言。


 1.9日、オーストラリアが、ロンドンの連合国戦争犯罪委員会に対し、昭和天皇を含む64名の戦犯リストを提出した。

 1.19日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、国連検察局のアメリカ人法務官らが起草した「極東国際軍事裁判所条例」を公布した。その内容は、ナチス・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判所の条例を参考にしたもので、5章17条から構成され、「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」の三項を重大な戦争犯罪と規定していた。

 昭和58年、来日したオランダ代表判事のレーリンク博士によると、当初マッカーサーは東京裁判にはほとんど興味が無く、真珠湾をだまし討ちした東條一味に復讐することと、自分がフィリピンで敗北し、不名誉の敗走を余儀なくされた本間雅晴中将に対する復讐についてはえらく熱心であったという。本間中将は裁判開始後わずか2ヶ月で処刑されている。しかもこの裁判の判事も検事も彼の部下を指名して行わしめるといったリンチ(私刑)にも等しい処刑であった、とのことである。

 2.2日、イギリス検察陣の来日。続いて中国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソ連の代表検事とスタッフが来日した。

 2.5日、マッカーサー司令官は、9カ国の代表を正式に極東国際軍事裁判の裁判官に任命した。2.15日裁判長にオーストラリア代表のウィリアム・F・ウェップ判事を任命した。

 3.2日、国際検察局執行委員会(委員長・イギリス代表検事・コミンズ・カー)が設立され、被告の絞込み作業に入った。

 3.4日、この報告に対して、各国の検事で構成された参与検察官会議にかけて最終決定案とし、この決定案をマッカーサー司令官が承認するという手順をとった。A級戦犯は29名に絞られた。

 4.3日、ワシントンで開かれた極東委員会で、天皇の不訴追が決まった。元陸軍少将の田中隆吉の意見を踏まえつつ、張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作、南部仏印進駐を推進した海軍大佐の石川信吾、対米開戦を廻る陸軍の主戦派トリオの参謀本部の田中新一、服部卓四郎、辻政信らも容疑者から見逃された。731部隊の隊長・石井四郎も、人体実験のデータを米軍に提供する条件で訴追を免れた。

 4.8日、参与検事会議で、A級戦犯から石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩(元俘虜情報局長官)の除外が決まり、26名に絞られた。

 4.13日、ソ連検事団が到着。4.17日、参与検事会議で、ソ連検事団がA級戦犯被告の追加を求め、重光と梅津の2名が追加された。結局、28名が起訴されることになった。

 4.26日、裁判所条例の改正が行われ、インドとフィリピンから裁判官が追加任命され合計11名となった。

 4.29日、昭和天皇の誕生日である天長節のこの日、国際検察局は28名の起訴状を極東国際軍事裁判所に送った。


 他方、戦犯容疑者の弁護人選定は難航した。特に東条の弁護人を引き受けようとする者がいなかった。漸く清瀬一郎(1920・大正9年に衆院議員に初当選して以来連続8回当選し、その間衆院副議長や東京弁護士会会長を務めた著名人で、戦争末期には請われて陸軍省の国際法律顧問団の嘱託となっていた)が引き受けることになった。

 5.3日、東京市ヶ谷の旧陸軍士官学校の特設法廷で開廷。

 5.4日、極東国際軍事裁判日本弁護団が結成され、団長に鵜沢聡明弁護士が、副団長に清瀬一郎氏が選ばれた。裁判は英米法で行われるため、マッカーサーは日本の終戦連絡事務所の申し出を容れて、アメリカ本国から日本の弁護人を補佐する弁護団を送ってきた。こうして東京裁判の陣容が整った。

Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評203 れんだいこ 2006/08/21
 【戦犯で死亡せしめられた者と無罪放免された者とで、死亡せしめられた者の方がより戦犯的という根拠を聞かせてたもれ】

 大東亜戦争のA級戦犯の筆頭として東条英機の概要履歴を追跡したところ、折りよく2006.8.21日、「1950年前後、旧軍復活の動き」がスクープされた。米国立公文書館で保管されている機密指定を解除された米国公文書の中から判明したとの事である。

最近は著作権が煩いからして、こういう記事を検証しようとするには、先ず米国の著作権法を調べ、米国立公文書館の了承を取り付け、これを報じた日本の新聞社にも了承を取り付け、最近は創作発明者の権利も生じつつあるからして記事を書いた記者にも念を入れて了解を取るのが筋道だと、自称著作権士から苦情されそうだ。それをしないと盗用呼ばわりされるか、レンタル人士と呼ばれるようだ。

 最近の学校の先生は、父兄からのイチャモン付けで精神内科に掛かる者が多いらしい。れんだいこは、ええいままよ、云いたい者には言わせておけ。七面倒くさいことはあの世に任せ、この世はズバリ直球で完投しようと思う。物事は寿命との相談だ。それはそうと夏の甲子園野球大会の2006年決勝戦は見応えが有り面白かった。日本の将来は頼もしいなと感じさせられた。どうか、このままで、著作権付き投球法とかバッティング法なぞが流行らずに、今後も良い試合を見せてくれますように。

 もとへ。「1950年前後、旧軍復活の動き記事」で興味を覚えたことは、河辺虎四郎や宇垣一成らがA級戦犯とならずに、あるいはA級戦犯でもリストから外れた者や絞首刑にならずに済んだ者や無罪放免された者やといろいろ有る中で、誰がどういう基準で絞首刑A級戦犯を選定し実施したかということである。これを歴史の偶然と看做すのは、よほどピンボケだろう。裏に何があったのか事情を推測せねばなるまい。

 この作業抜きに、A級戦犯といえば、特に絞首刑死せしめられたA級戦犯になればなるほど悪し様に罵倒するのが反戦平和の人士と勝手に思い込み、口角泡を飛ばす手合いが今もサヨ圏に多い、というかとぐろを巻いている。妙なことに、この手合いがよほど著作権好きなようで、我が政党の機関紙誌の内容を無断で引用転載広報相成らぬと、妙なところに監視の目を光らせ、正義気分に浸っている。この連中には漬ける薬が無いので処置せずに放置しておくことにする。

 再びもとへ。絞首刑宣告された土肥原賢二、広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、東條英機らは、当局との取引に応ぜず最後まで操を屈せなかった有る意味で誉れの武人達ではないのか。終身禁固刑者は、平沼騏一郎、小磯国昭、白鳥敏夫、荒木貞夫、南次郎、畑俊六、橋本欣五郎、佐藤賢了、大島浩、鈴木貞一、嶋田繁太郎、岡敬純、木戸幸一、賀屋興宣、星野直樹。量刑禁固刑者は、東郷茂徳、重光葵も然りで、しかとした理由は分からぬが、公判途中で死亡した松岡洋右と永野修身。判決後、米軍病院で死去した小磯国昭、梅津美治郎、白鳥敏夫、東郷茂徳らこそむしろ誉れの国士達ということではないのか。この連中の死因を含め再調査せねばなるまい。

 れんだいこが思うに、蓮っ葉なA級戦犯論を弄ぶべきではない。大東亜戦争も然り。顧みるべきは、幕末維新から富国強兵への流れ、日清、日露、第一次、シベリア出兵、支那事変、大東亜戦争への流れを促進せしめた要因についてであり、戦後は何を反省したのか、何を国際的に公約したのか、今どう変質せしめられ、なぜ再度自衛隊が海外出兵せしめられようとしているのかではなかろうか。これこそ本質論議とすべきではないのか。

 公債乱費も然りである。誰が戦後の国是である国債発行の禁止の扉を開けたのか。それは福田である。誰が乱発行したのか。それは三木と中曽根である。皆稀代の売国奴系タカ派ではないか。後はこの基調の中で天文学的過重債務の道へ突っ走っていった流ればかりである。小渕、森、小泉のここ三代でますます悪化させている。

 その事後対策としては、重税で切り抜けようとの粗雑案ばかりで、最大の冗費である軍事予算、公務員給与、同退職金、同天下り金に手をつけようとする声はか細い。日共はご丁寧なことに公共事業費の削減を付け加えて、国家機能停止の道を後押ししている。

 再再度もとへ。テレビの政治討論会なぞ聞いても、安易放逸の道へ流れ過ぎているのではなかろうか。靖国神社問題で、靖国神社解体が全てを解決するような論調を次第に形成しつつあるが、それもシナリオ通りの道ではないのか。

 小泉はんの批判するのなら、つい先だってのイスラエルでのユダヤ帽被っての嘆きの壁参拝を採りあげればよい。靖国では英霊の声を聞く為と述べているが、嘆きの壁では何の声を聞いたのか聞いてみればよい。こういうところを議論せずに空回りばかりさせてうつつを抜かしている。見て居れない聞いて居れない。

 締めはこうだ。こういう本質議論がなおざりにされている状況下で、そのことにはピント来ず、著作権になると途端に反応する者に告ぐ。今からでも遅くない、著作権のない時代と著作権まみれの時代を考えて、どっちの世の中のほうがいいのか見解を聞かせてたもれ。もし後者なら、それが如何に素晴らしい世の中か説教してくれ。

 「戦犯容疑者逮捕と東京裁判準備の流れ」( daitoasenso/tainitisenryaku_kyokutosaiban_senpantaiho.htm)

 2006.8.21日 れんだいこ拝




(私論.私見)