4285341 【東京裁判の論理】
【東京裁判の論理】
 軍事裁判 」を参照する。連合国は極東軍事裁判所条例で戦争犯罪を次の様に区分した。
第1類 平和に対する罪 (訴因第1−第36)

宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争、もしくは国際法、条約、協定、保証に違反せる戦争の計画、準備、開始、実行、もしくは諸行為の何れかを達成する為の共通の計画(共同謀議)に参加したことまたは戦争慣例の違反の罪

東京裁判(1946〜1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行されることになる。

第2類 殺人罪 (訴因第37−第52)
第3類 通例の戦争犯罪 (訴因第53−第55) 戦時国際法又は慣習法に対する違反罪。この違反は、占領地における一般市民の殺害、虐待、奴隷的労働その他の目的の為の国外移送を指す。更に捕虜・人質の殺害、虐待、公私有財産の強奪、市町村の無差別破壊、その他正当と認められない破壊好意の罪。
人道に対する罪 (訴因第53−第55)

戦前または戦中に行われる殺戮、懺滅、奴隷的虐使、追放、その他の非人道的行為、もしくは政治的、人種的理由に基づく迫害行為、これらの共同謀議に参画したか又は実行に参画した首魁、組織者、教唆者、共犯者の罪。

 A級裁判は、時後に制定した法律での裁判であり、一般の法概念では成立しない。現在では日本を侵略国として確定させるために、戦勝国が敗戦国を法の名で裁いた「報復裁判」であることが定説化し、世界中の法律学者がその違法性を指摘している。

 昭和58年5月28・29日、東京池袋のサンシャインシティ(巣鴨プリズン跡)において開催された「東京裁判」国際シンポジウムの席上、西独ルール大学のクヌート・イプセン博士は次のように述べた。「平和に対する罪を裁く東京裁判の管轄権は、当時の国際法に基づくものではなかった」、「大多数の国は現在でも国際法上の犯罪に対し、個人責任を認める用意が出来ていない」。つまり東京裁判の国際法に対する違法性を述べており、これが今日の共通理解と言える。最初から日本が侵略戦争をしたという前提に立ち、日本側の主張は全て却下され連合軍の筋書どおりに裁判を進行した。

 BC級裁判は、日本では通例の戦争犯罪を裁いた裁判で、5年半にわたりアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、オーストラリア、中国(国民政府を含む)、フィリピンの7ヶ国、49の法廷で行われた。軍事裁判の名のもとに処刑された大半はB・C級戦犯と呼ばれる人達で、上官の命令で捕虜を処刑したり、たまたま収容所の責任者だった、というだけの理由で不当に裁かれた。実際の裁判では判事、検事、弁護士の多くを元捕虜が担当し、公正さを著しく欠いた裁判であった。また日本の戦犯容疑者が収容されたキャンプで、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、中国兵士の戦犯容疑者に対する虐待行為はすさまじかった。つまりBC級裁判は日本および日本人に対する怨恨の報復以外の何物でもなかった。

 かたや日本の民間人を巻き込んだ米軍の無差別な掃討作戦、都市空襲、原子爆弾や、ソ連軍の終戦後に至る戦闘・侵略行為、シベリア抑留などは、完全な戦争犯罪であるにも係らず全て一方的に免責された。そして、大東亜戦争の講和としてサンフランシスコ条約が締結されている。 



極東軍事裁判訴因(歴史関係のデーターベースの「極東軍事裁判訴因」 参照)
 裁判が訴追できる期間を廻って検察側と弁護側が対立した。弁護側は、ポツダム宣言が対象としていた太平洋戦争に限定して審査されるべきであると主張したが、検察側は、1928(昭和3).1.1日から1945(昭和20).9.2日の降伏調印日までの期間を対象とすべきであるとして、以下の訴因を列挙した。これについては判事の見解が分かれ、オランダ代表のレーリンク判事は、「極東国際軍事裁判所の管轄は、太平洋戦争に限定すべきであって、既に当事国の間で休戦協定が成立している張鼓峰事件やノモンハン事件のような過去の紛争は管轄外である」とする意見書を提出している(「少数意見書」)。
「平和に対する罪」 A.戦争遂行計画の包括 1928〜45における戦争に対する共通の計画謀議

満洲事変

支那事変

大東亜戦争

日独伊三国軍事同盟

B.各交戦国毎の戦争の計画準備

中華民国に対する戦争の計画準備
米国に対する戦争の計画準備
英国に対する戦争の計画準備
濠州に対する戦争の計画準備
10 ニュージーランドに対する戦争の計画準備
11 カナダに対する戦争の計画準備
12 インドに対する戦争の計画準備
13 比島に対する戦争の計画準備
14 オランダに対する戦争の計画準備
15 フランスに対する戦争の計画準備
16 タイ国に対する戦争の計画準備
17 ソビエトに対する戦争の計画準備
C.各交戦国に対する戦争の開始 18 中華民国に対する満洲事変開始
19 中華民国に対する支那事変開始
20 米国に対する大東亜戦争開始
21 比島に対する大東亜戦争開始
22

英国に対する大東亜戦争開始

23 北部仏印進駐による対仏国戦争開始
24 タイ国に対する大東亜戦争開始
25 ソビエトに対する張鼓峰事件開始
26 ノモンハン事件発生による国際条約協定違反
D.各交戦国に対する戦争の遂行 27

満洲事変以後の対中華民国戦争遂行

28 支那事変以後の対中華民国戦争遂行
29 米国に対する大東亜戦争遂行
30 比島に対する大東亜戦争遂行
31

英国に対する大東亜戦争遂行

32 オランダに対する大東亜戦争遂行
33

北部仏印進駐以後におけるフランス戦争遂行

34 タイ国に対する大東亜戦争遂行
35 ソビエトに対する張鼓峰事件の遂行
36 ソビエト及び蒙古に対するノモンハン事件の遂行
「殺人及び殺人共同謀議の罪」 E.宣戦布告前の攻撃による殺人 37 1940年6月1日から1941年12月8日の間における殺人罪又は殺人計画・共同謀議の立案・実行の責任者
38

米・英・比・オランダ・タイ国に対する上記責任

39 真珠湾不法攻撃による米国軍隊及び一般人の殺害
40

「コタバル」不法攻撃による英国軍隊の殺害

41 香港不当攻撃による英国軍隊の殺害
42

「ペトレル」号不法攻撃による英国軍人三名の殺害

43 比島不法攻撃による米及び比島軍隊及び一般人の殺害
F.俘虜及び一般人の殺害 44

1931年9月18日から1945年9月2日の間における俘虜、一般人従務乗組員虐殺の共同謀議の立案・実行の責任者

45 1937年12月12日以後の南京攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害
46 1938年10月21日以後の広東攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害
47 1938年10月27日における漢口攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害
48 1944年6月18日における長沙攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害
49 1944年8月8日における衝陽攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害
50 1944年11月10日における桂林・柳州攻撃による中華民国の一般人及び非武装軍隊の殺害
51 1939年ノモンハン攻撃による蒙古及びソビエト軍隊の殺害
52 1939年張鼓峰によるソビエト人民の不当殺害
「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」 53 1931年9月8日から1945年9月2日の間における米英仏加比中蘭ソ軍隊に対する戦争法規慣例違反の計画立案実行
54 1941年12月7日から1945年9月2日の間における違反行為の遂行命令・援護・許可による戦争法規違反
55 1941年12月7日から1945年9月2日の間における俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反


共同謀議という妄想

 さて、ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判所条例(チャーター)をそのまま東京裁判所条例としたものの、日本にはヒトラーはおらず、ナチスのような独裁政権ではなく、立憲君主国家であり、議会は完全に機能していた。起訴状にある昭和3年から終戦の20年までの17年間に、内閣は16回更迭している。しかもその理由は、主として閣内の意見不一致によるものである。しかるに、検察側は、28被告の「全面的共同謀議」によって侵略戦争が計画され、準備され、実施されたという法理論をうち立てた。このような法理論がいかに荒唐無稽の茶番劇であるかは、専門家をまつまでなく、日本の政治史を知る者なら中学生でもわかる常識である。

 荒木被告はいう。この被告席にいる28名の中には、会ったことも、言葉を交わしたこともない人物が半分ほどいる。顔も知らず、会ったこともない人間とどうして
共同謀議などてできようかと。また、賀屋被告はいう。「ナチスと一緒に挙国一致(17年間も)超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」(児島襄著『東京裁判』〈上〉119貢)。

 まったく日本の満州事変から大東亜戦争までの国情は、賀屋元蔵相の言うとおりであった。陸軍のなかでさえ、皇道派だ、統制派だといって二派が争っており、陸軍と海軍の間にも確執があり、加えて血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件 …と血なまぐさいテロの嵐が吹き荒れ、政党政治は腐敗混乱ついに崩壊している。共同謀議による日本の中国侵略ないしは対米戦争の開始と言ったシナリオがいかにナンセンスであるかは、昭和史を一別すれば歴然たるものがある。むしろこのてんでばらばらな、計画性も、一貫した国策もなく、その場を糊塗してきたやり方が、支那事変をドロ沼化してしまい、スターリンやルーズベルトの世界政策に翻弄され、そのあげくの果てが大東亜戦争であったと見るのが妥当であろう。

 しかるに、東京裁判の多数判決は、松井元大将と重光元外相の二人を除く、あとの東條元首相以下23人をこのありもしない「全面的共同謀議」という罪名によって処断したのである。



西にアウシュビッツ・東にナンキン

 しからば、「人道に対する罪」はどうか。日本にはアウシュビッツはない。組織的・計画的に捕虜や一般人を大量に殺害したという記録などどこにもない。集団殺戮の事実もない。そこで持ち出したのが“南京暴虐事件”である。
 ヒトラーの世界制覇のための侵略戦争――これを日本にあてはめたのが「全面的共同謀議」という虚構であり、ヒトラーのアウシュビッツに匹敵する非人道的な“大量殺戮”、これが「南京虐殺」という構図である。

○「平和に対する罪」
 ヒトラーの世界制覇 = 日本の指導者の共同謀議による世界制覇(侵略)

○「人道に対する罪」
 アウシュビッツの大虐殺 = 南京虐殺事件

 こうしたシナリオをまずつくり、シナリオにしたがって「平和」と「人道」に対する罪という事後法による新罪名で裁いたのである。
私はさきに、南京事件は最初から東京裁判の目玉商品として扱われたと述べた。検察側は南京事件の証人として米人牧師ジョン・マギー(John G.Magee)米人医師ロバート・ウイルソン(Robert O.Wilson)金陵大学教授米人マイナー・ベーツ(M.S.Betes)および中国から許伝音、尚徳義、梁廷芳、伍長徳、陳福寶を招致して、南京大虐殺宣伝のため証言台に立てしめた。それだけではなかった。米人ジヨージ・フィッチ(GeorgeA.Fitche)ルイス・S・C・スミス博士(Lewis S.C.Smythe)ほか十数名の中国人の宣誓口供書(米軍のトーマス・H・モロー(Thomas.H.Morrow)大佐ごときは、裁判の直前南京にとび、かれ一人で八通の口供書をあつめている)。および書簡類、「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」(東京裁判に証拠提出のため設立した機関)の報告書など五十七通を含む、合計六十六通にのぼる証拠書類が提出され、しかもこれらが連日にわたり、モニターによって朗読されたのである。

 昭和22年7月25日からはじまった検察側証人の証言、あるいは前記のおびただしい口供書や証拠書類の朗読は、断続的に8月30日まで実に1ヶ月以上にわたって行われた。

 この間、ラジオは毎晩「真相はこうだ」(のち「真相箱」)というGHQ制作の番組を、音楽入りで劇的に放送し、旧日本軍の残虐性を、あることないことを誇大宣伝した。GHQの言論統制下にある各新聞は、筆を揃えて、旧日本軍の暴虐ぶりを、これでもかこれでもかというように連続報道した。当時としてはこれに対する反論や批判は封ぜられ、厳しい言論統制下にあって、抗弁のしようもなかった。国民は、ただ身を縮め、いたたまれない思いで、じっとこれに耐えるほかなかった。

 このようにして、はじめて知らされた「南京大虐殺」なるものは、海外にも大きな反響を呼んだ。

 東京裁判は三つのねらいというか、三つの目的をもった裁判であるといわれている。
 その一つは「歴史の断絶」である。歴史観の革命的変革といってもいい。日本の戦前の歴史、文化、伝統はすべて“悪”として断罪することであった。つまり、日本を最初から侵略者と決めつけ、日本および日本軍の行った行為はすべて“悪”であり、犯罪行為であり、連合国の行った行為はすべて“善”であるという前提の許に開かれた裁判である。いうならば、戦勝国が力の正義をふりかざして敗戦国を一方的にさばいた裁判である。

 その二は、「罪の意識の扶植」である。旧日本軍がいかに大陸および東亜の諸国において非人道的な犯罪行為を行ってきたかを徹底的に内外にプロパガンダすることである。ひいては日本の伝統と文化にダメージを与えることによって、愛国心を抹消し、日本民族再起の芽を摘み取ることである。

 その三は、いうまでもなく復讐である。南京事件は、この三つの目的をかなえるための絶好の材料であった。



偽証罪のない裁判

 そのためにこの裁判は“偽証罪”は問わない、検証もしない、という、中世の魔女狩り的な裁判であった。すなわち旧日本軍の不法や暴虐、非人間性の犯罪行為については、たとえ伝聞であれ、うわさ話であれ、創作であれ、デッチあげであれ、何なりとこれを提訴せよ、裁判所は検証なしですべてこれを採択しようという、およそ文明国の軌範を脱した裁判であった。

 これに反して連合国軍の行った行為は、たとえそれが戦時国際法に違反していようが、条約違反であろうが、ウエッブ裁判長の「この裁判は日本を裁く裁判で、連合国軍の行為とは無関係である。」の一言の許に退けられ、結局、広島・長崎への原爆投下も、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、南樺太に侵入し、開拓民を含む約25万人の日本人を虐殺し、57万5千人の日本将兵をシベリアの奥地に連行して、長きは十余年にわたって、囚人同様の強制労働に服せしめ、死者5万5千人(以上は厚生省調べ)を出した不法も、終戦後日本が武装を解除した8月15日以降に侵略した北方四島の不法占拠も、東京裁判ではそのことの発言さえもゆるされなかった。

 南京事件を論ずるとき、「大虐殺派」の人々は必ず、東京裁判に用いられた検察側の証言や証拠を持ち出して立証する。だが、東京裁判およびそれ以後の資料はすべて信憑性のない二次資料以下の副次資料であって、私はこれを「後期資料」と呼んでいる。信憑性のある第一級史料(資料)とは截然として一線を画すべきであるというのが私の主張である。

 偽証罪もないような、片手落ちの一方的な裁判で、言いたい放題をならべたて、あるいはローガン弁護人が指摘するように「見たこともない、聞いたこともない、又どこにいるかもわからないような人間」の口供書をどうして信用できようか。

 米人マギー牧師は2日間にわたって日本軍の犯罪行為を並び立てたが、ブルックス弁護人の反対質問にあって、マギー証人が殺人を目撃したのはたった一件、それも占領直後日本兵に誰何(「だれか?」と声をかけ姓名などをたずねること)されて逃げ出した男が撃たれるのを見たというのである。

 南京安全区国際委員会のメンバーとして、日本軍の占領期間中、日本軍の行動を監視するため自由行動をとっていた米人牧師が、その目で見た殺害事件は前述の一件、強姦一件、窃盗一件のわずか三件のみで、他は全部伝聞に属するものであったことが暴露されている。

 これはほんの一例にすぎない、当時南京には、日本の行動をこころよく思っていない第三国人が常時監視しており、そのほか揚子江には5隻の米英の艦船が停泊していた。こうした衆人監視の中で南京占領は行われたのである。

 しかもこれら40名以上の第三国人のうちだれ一人として、何万はおろか、何千もの人間を虐殺しているのを目撃した者はいないのである。のちに述べるように、南京占領と同時に入城した日本の従軍記者やカメラマン、作家等もそうした集団虐殺の光景を見たというものは一人もいないのである。





(私論.私見)