4285352 東京裁判と大川周明

 (最新見直し2006.6.22日)

 GHQにより逮捕されたA級戦犯の中にあって異色なことは、国粋主義的思想家大川周明氏が含まれていたことであった。大川氏は、東京帝大で宗教学を専攻し、古今東西の宗教思想・神秘主義思想に関しても深い理解に達しており、西洋列強の植民地支配に反発しただけでなく、西洋近代文明の弊害について鋭い視点を持っていた人物であった。俗に「右翼の巨魁」であった。

 なぜ大川氏が該当したのかその背景は分からないがとにかく混じっていた。ところで、この大川氏が東京裁判で奇態な行動を見せ、精神障害をきたしているとして裁判から除外された。その様子は映像に納められており、パジャマ姿で裸足に下駄を履いた格好で出廷し、ウエッブ裁判長の休憩宣告を受け外人写真班が被告席東条大将の真下に進んで撮影をはじめたトタンに、突然前列の東条英機の頭を平手で叩くという挙措動作を見せている。すぐに憲兵隊長が押さえたが、起ち上った博士が奇声をあげ、ドイツ語で「
インデアンス・コンメン・ジー(印度人、こつちへ来い)」、「お前ら早く出てゆけ」、次は英語で「坐れ」と怒鳴るというシーンが撮られている)

 そういう履歴を持つ大川周明氏をスケッチしておく。


【大川周明の履歴】


【大川周明の思想】

 「ぼくの哲学もどき」の「えっせー・べすとせれくしょん」の「侵略か連帯か」参照。

 大川周明は、京帝国大学で宗教学と古典インド哲学を勉強した。卒論で「龍樹菩薩論」を取り上げている。更に、キリスト教信仰を経て、松村介石の日本教会(後、道会)に入会している。その後も、人智学を唱えたドイツの教育哲学者ルドルフ・シュタイナーやロシアの神秘哲学者ソロヴィヨフの思想にふれ、ヨーガに傾倒していたフランスの哲学者ポール・リシャールと直接交流したりしている。

 古今東西の宗教思想・神秘思想にふれた大川は、更に思想を深めるべく渉猟する。晩年、「安楽の門」で、「道は天地自然の道なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己をもってせよ」という西郷南州遺訓こそ彼の思想の根本である、と述べている。西郷の思想に、民族や人種を超えた普遍的価値を見ていたことになる。

 彼は、「道理」に基づいた現実社会の確立を目指し始める。大川は、植民地下のインドの悲惨な状態を知って、アジアの植民地問題と独立運動の研究をはじめる。ちょうど第一次世界大戦とロシア革命が起り、世界が大きく揺れた時代だ。それとともに、植民地下のアジア各地で独立運動が起り、反帝国主義、反植民地主義の運動が燃え上がる。大川は、日本に亡命したインド独立運動家と知り合い、彼らを支援する。彼の活動はそのアジア観と密接に結びつき、アジア論の大家として一家言為していくことになる。

 西洋近代の植民地支配、それを支える政治経済のイデオロギーに対して、「天道の理」を鋭く対立させた。大川は果敢にも、それに挑んだ。 かくして大川は、日本の戦前右翼の理論家の一人となった。際立った特徴は、学術的な著作を多く持つ理論家にして行動派だったことである。

 1922(大正11)年、大川36歳の時、「復興亜細亜の諸問題」を著作している。同著は、インドをはじめイスラム圏までに及ぶアジア各地の独立運動を詳細に紹介している。それらの個別研究を通して、いまこそアジアが立ち上がり、ヨーロッパを撃退すべきときであることを論じる。本書で見る限り、大川は国粋主義者というよりは、アジア解放の闘士というべきだ。

 その大川が、戦前のアジア侵略戦争を支持し、そればかりかそのイデオローグになったのか。
それは、アジア対ヨーロッパの対抗史の最終をアジアの代表選手としての日本とヨーロッパ(欧米)の代表選手としてのアメリカとの争闘に見立てたことによる。この予言は、1925(大正14)年頃になされており、それは来るべき日米開戦の予告となった。

 大川理論は、国内革新―アジア進出―アジア解放―対米戦と進んだ。この歴史観に立つことにより、来るべき大東亜戦争は聖戦となった。そして、聖戦遂行の為の昭和維新クーデター断行を唱えることになった。

 1924.4月、「行地社」結成。「明らかに理想を認識し、堅くこれを把持し、この理想を現実の生活に実現する」を意味する古人の格言「則天行地」(天に則り地に行はん)からとったものである。

 クーデターを企画し、5.15事件のときには黒幕として逮捕され、禁固刑で刑務所に入れられた。この時、獄中でヨーロッパの植民史の研究を進め、40冊ものノートをつくった。これは後に「近世欧羅巴植民史」という分厚い3冊本にまとめられた。獄中でこれほど本格的な研究書を書いた人は他にいないだろう。

 日米開戦の頃には大東亜共栄圏のイデオローグの一人として活躍するようになった。
筋道だって大東亜戦争論の意義を唱えられる大川は時代の寵児となった。このように理論付けながらも他方で、同じアジアである中国の人々と戦わなければならないことをも悲しんだ。また、朝鮮の併合にも、いささか歯切れの悪いことを言っている。

 竹内好というすぐれた中国研究者、アジア研究者は、連帯と侵略は紙一重だと言っている。アジア連帯の思想が一歩間違うとアジア侵略の思想になってしまう。大川はそのいちばん危ないところを進み、連帯のつもりが侵略のほうに落ちてしまった。一所懸命アジアのことを考えようとした大川が、なぜ連帯のつもりが侵略になってしまったのか、その点をきちんと議論される必要がある。

 戦後、A級戦犯として逮捕された。ところが、東京裁判の進行中に精神障害を起した。有名な話だけれど、法廷で前に坐った東条英機のハゲ頭を殴ったり、奇声を挙げたりして、これはおかしいと言うので、精神鑑定を受けた。当然ながら仮病説もあったけれど、検査の結果、脳梅毒であると診断され、精神病院に収容された。ところが、精神病院ですっかり正気に戻ってしまった。完治したわけではないけれど、知的能力はかなり戻った。どうもそういうこともあるらしい。そこで、大川は入院中に何と、生涯の課題であった『コーラン』の和訳(『古蘭』)をなしとげてしまった。これはアラビア語からの訳ではないけれど、10ヶ国語を参考にした本格的なものらしい(実物は見ていない)。

 大川には『安楽の門』という自伝的な人生論があるけれど、その第1章は「人間は獄中でも安楽に暮らせる」、第2章は「人間は精神病院でも安楽に暮らせる」となっている。

 戦後、インドのネルー首相が日本を訪問したとき、そのパーティーに当時忘れ去られた元A級戦犯大川を招待した。すでに病気で出席はできなかったが、大川が単なる戦争犯罪者でなく、インド独立にとって恩人として見られていたことを証拠立てる話だ。


【大川周明は何ゆえA球戦犯から外されたのか】
 「阿修羅空耳の丘44」のTORA氏の2006.6.22日付投稿「日ソ戦争に関しては、日本が侵略された側で、米英はソ連の対日参戦を"教唆"したのである」は、佐藤優(著)「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409389731X/250-4052047-9021816)を紹介している。佐藤氏は同著で、「大川周明は何ゆえA球戦犯から外されたのか」につき次のように記している。

 1941年12月8日の日米開戦は、この連鎖の中で起きた。この開戦の経緯について、「客観的に見ればアメリカと戦っても絶対に勝つはずがないのに、アジア支配という誇大妄想を抱いた政府・軍閥に国民は騙されて戦争に突入した」という見方が現在では常識になっているが、これは戦後作られた物語である。

 あのとき日本がアメリカ、イギリスと戦争をしなくてはならなくなった内在的論理も大義もきちんと存在する。

 1941年12月の開戦直後、当時の政府は戦争の目的とそこに至った経緯を国民に対して論理的かつ実証的に説明することを試みた。その一つが大川周明によるNHKラジオの連続講演(全12回)だ。この速記録は講演が行われた翌月(1942年1月)に『米英東亜侵略史』(第一書房)という単行本として上梓され、ベストセラーになった。

 本書を読めば、日本が何故にアメリカ、イギリスとの戦争に至らざるを得なかったかがよくわかる。さらにその内容が、客観的事実に基づいた冷静な主張であることにも驚かされる。本書にはその全文を掲載している。読まれた方は、「鬼畜米英!」などといった過激なプロパガンダが見られないことを意外に思われるかも知れない。しかし、そのことは当時の日本国民の知的水準の高さを示している。

 帝国主義の時代において戦争は不可避であった。日本は開戦の大義名分をもっていたし、アジア国家としての筋を通した。しかし、筋を通す正しい国家が必ずしも勝つわけではないというのも歴史の厳粛たる事実だ。

 大川周明もA級戦犯容疑者として逮捕され、公判に引き出されたが、精神障害のため免訴となった。本文で詳しく紹介するが、この免訴の経緯については謎がつきまとう。大川が『米英東亜侵略史』の言説を法廷で繰り返した場合、理論的には開戦の正当性について、日本の大義と米英の大義をほぼ互角に持ち込めたであろう。

 日本国民は当時の国家指導者に騙されて戦争に突入したのでもなければ、日本人が集団ヒステリーに陥って世界制覇という夢想に取り懸かれたのでもない。日本は当時の国際社会のルールを守って行動しながら、じりじりと破滅に向けて追い込まれていったのである。あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。 (P1〜P6)

 裁判を行うには「ルール・ブック」が必要である。連合国は1946年1月19日付で極東国際軍事裁判所条例という「ルール・ブック」を定めた。敗戦国である日本はそのルール作りに関与できなかった。連合国から言われたルールを「はい、わかりました」と言って受け入れるしかなかったのである。大川が言うように「国際軍事裁判という非常に面倒な手続きをとろうとするのは、そうした方がサーベルや鉄砲を使うよりも、われわれを懲らしめる上に一層効果的であると考えたからに他ならない」からだ。

 聡明なアメリカ人が大川の謀略に気づいたのである。松沢病院から大川周明を法廷に呼び戻したならば、大川は『米英東亜侵略史』の論理で、日本が開戦に追い込まれた理由を説明するであろう。東京裁判という「本土決戦」の場で展開されるであろう大川の言葉の力にアメリカ人が怖じ気づいたのだと筆者は見ている。それだからこそ東京裁判60周年のいま、本書を復刻する意味があるのだ。

 戦後60年以上を経たわれわれの感覚からすれば、A級戦犯容疑者、開戦直後のラジオ演説、『米英東亜侵略史』という題名などの断片情報からエキセントリックな宣伝放送だったという印象がもたれがちであるが、既にテキストに触れていただいた読者には明白なように、深い学識に裏付けられた合理性を十二分に発揮しながら、対米英開戦という重大決断に関する日本政府の説明責任を大川は見事に果たしている。(P98〜P100)

 「株式日記と経済展望」は、「私のコメント」として次のように述べている。

 大川周明は東京裁判では醜態をさらしましたが、あれも米軍が仕組んだ「やらせ芝居」ではなかったのだろうか? 命を救ってやる代わりに狂人のまねをしろと言われてやったのではないか? 東京裁判で理路整然と論戦を挑まれたら東京裁判がどうなるか分からなかった。東京裁判自身がインチキであることは連合国自身が一番よく知っており、日本の歴史学者はそのインチキが見抜けない腰抜けぞろいだったのだ。

(私論.私見)

 このコメントは奇説であるが、案外真実かも知れない。

 2006.6.22日 れんだいこ拝


【大川周明のイスラム研究思想】

 「ぼくの哲学もどき」の「えっせー・べすとせれくしょん」と思われる「出所不明」参照というか転載。

 大川周明が古今東西の宗教思想から大きな影響を受けていたことについては、すでに書いた。彼が重視したものは、一言でいえば「天人合一」的、「万物一体」的な観念であったろう。つまり、天を中心にあらゆるものが相互に切り放されず結び付いているという思想である。それは、天の意志、宇宙の意志によって、万事がとりおこなわれるべきだという思想に展開する。例えば、道徳と正義が尊重されるような社会の建設という思想に発展するのだ。

 大川は天人合一の理想を現実社会の秩序に適応しようと試みたのである。だからこそ、現実の生活にまで大きな影響を持ちうる儒教とイスラームに大川は特別な意義を見出しのではなかろうか。

 当時、ケマル・パシャの活躍に象徴されるように、停滞していたイスラームが再び活力持ちはじめていたことも大川のイスラームへの関心をかきたてた。大正11年(1922年)年には、内藤智秀が「汎イスラミズムの将来」を、大久保幸次が「トルコの復興と回々教徒の復興」を発表したこともあり、大川はなおさら刺戟を受けたに違いない。この年、大川は「回教徒の政治的将来」を『改造』に発表している。

 こうして、大川は当時まだ日本で十分に知られていなかったイスラームの研究に突き進んでいったのである。1942年8月には名著『回教概論』を刊行している。 これまで、大川のイスラーム研究に関しては、この『回教概論』を「イスラーム研究の最高水準」と認めた竹内好による研究を除きあまり論じられてこなかった。ただ、ここにきて、山内昌之「イスラムの本質を衝く大川周明」『国際関係学がわかる』(AERA Mook5、1994年)、大塚健洋「復興亜細亜の戦士、大川周明」『国際交流』(1996年4月号)、鈴木則夫『日本人にとってイスラームとは何か』(筑摩書房、1998年)などで、ようやく大川のイスラーム研究の意義が語られはじめている。

 大川が日本のイスラーム研究の基礎を築く上で最も大きな役割を果たしたことは歴史の事実といっても過言ではない。というのも、後に世界的評価を勝ち取った井筒俊彦のイスラーム研究にしろ、大川が環境を整えなければ到達できなかったかもしれないからである。特に、大川が満鉄東亜経済調査局で収集したイスラーム文献は、相当なものであった。井筒は、これらの文献を自由に利用することによって研究の基礎を築いたともいう。

 前嶋信次は、ある座談会で次のように語っている。「あの方(大川)は、東大文学部の学生だったころ、印度哲学を研究していましたが、そのうちイスラームに興味をもちはじめて、いつも大学の図書館に行って英訳のクラーンを読んでいたんです。またあの方は鼻の高い人なもんで、当時ある人が歌によみまして、『図書館で、クラーンを読んでる鼻高男は……』なんていう句があるくらいなんです。そして年をとってから、ヨーロッパ人がアジアに来てアジア人をずいぶんいじめたといった内容の博士論文を書いたんですがね。その時にイスラーム教徒の覚醒が重要な役割を演じているのを感じ、もっともっとイスラームを研究しなくてはいけないというように考えられたらしいのです。それで井筒氏も私も皆、あの方の集めた文献などを利用させてもらいました」(『アッサラーム』NO5(1)一九七六年六月五日)。

 いずれにせよ、大川らの努力があってこそ、日本のイスラーム研究は進展した。

 ところが終戦後、大川が収集した東亜経済調査局の蔵書はアメリカ占領軍によって全て持ち去られてしまったのである。しかも、井筒や前嶋らごく少数の学者を除いて、イスラーム研究者たちはイスラーム研究を放棄してしまったのである(『日本人にとってイスラームとは何か』)。
 こうした中で、大川自身は戦後もイスラーム研究を続行した。彼は、アメリカによる日本とイスラームの分断と闘っているという意識を持っていたのかもしれない。

 記録映画『東京裁判』のシーンでも知られるが、大川は東京裁判被告席で東条英機の頭を叩くなど、異様な言動を繰り返していた。彼が本当に精神障害だったかどうかについては諸説あるが、いずれにせよ彼は松沢病院に二年半入院していた。このとき彼は、『コーラン』の翻訳に没頭していたのである。1949年末についに翻訳は完了、翌1950年岩崎書店から『古蘭』として出版された。これはアラビア語原典からの翻訳ではないが、英語だけでなく、ドイツ語、フランス語、中国語など10種あまりの翻訳を参照した貴重な日本語訳とされる。その後の日本における『コーラン』翻訳の起爆剤ともなっている。

 また、大川には「回教に於ける神秘主義」という未完の原稿もあることが明らかになっている。

 大川のイスラーム研究の問題はいまや、イスラーム世界からも注目されている。例えば、国際日本文化研究センター客員助教授をつとめるアハマド・ムハマド・ファトヒ・モスタファ氏は、1998年に大川についてアラビア語の書籍を著わしている(エジプトのアルアハラム新聞出版社から非売品として刊行)。

 大川のイスラーム研究については、まだ知られざる事実があるに違いない。



【大川周明の晩年の様子】
 大川は、愛川町中津485番地の1の中津熊坂地区の旧街道沿いにある古民家・山十邸に住み暮らした。山十邸は今も、この地方の明治初期における豪農層の住居の姿を示すものとして、愛川町が、その建物や庭園等を後世に残すために修復、保存を図っている。当時、熊坂家は「山十」(やまじゅう)の屋号で呼ばれたこの地方きっての豪農で、この邸は、明治初め熊坂半兵衛(1839〜1897)の代につくられ、すでに110年ほど経ている。山十邸は、昭和19年に熊坂家から、戦前の思想家大川周明の所有となり、 昭和32年に死去されるまで住居として使用されていた。


徳川 義親(とくがわ よしちか)1986(明治19).10.5〜1986(昭和51).9.5

明治19年、元越前藩主松平春嶽の五男として生まれた。幼名は錦之丞。明治41年、尾張徳川家の養子となって義親と改名。養父の後を受けて同家19代となり侯爵を襲名。学習院を卒業し東京帝国大学文科大学史学科に入学。翌年、尾張家の長女米子と結婚。明治44年史学科を卒業後、同大学理学大学植物科に学士入学。貴族院議員就任。大正2年植物科を卒業し自宅内に生物学研究所を設置。

大正7年には「徳川生物学研究所」を竣工。この研究所で多くの植物学者が活躍することとなる。同じ頃、維新後尾張藩士が移住して開拓した北海道山越郡八雲村の発展とその中心である『徳川農場』の経営に尽力。羆の害を減らす為に熊狩りを毎年行い、冬季の現金収入確保のため「木彫りの熊」を作ることを奨め、後に北海道の名産となる。

大正10、蕁麻疹治療のため温暖地への転地療養を奨められ、マレー・ジャワへ旅行。ジョホール国王の厚遇をうけ、虎狩り、象狩りを行う。また10月から翌年11月までは妻と共にヨーロッパを旅行。貴族院を発展的に解消し、1/3の華族代表と2/3の労働組織の代表からなる職業別議会制の導入を訴えるが、全く黙殺され、昭和2年に貴族院議員を辞任。

昭和6年、橋本欣五郎、大川周明らによる昭和期最初の革命事件である「3月事件」に、主義の違いを越えて資金を出資。直前に軍の上層部が離脱したことで、革命は不発に終わるが、この時の関係者とは生涯にわたる親交を結ぶことととなる。また同年、名古屋市別邸(14000坪)の大半を名古屋市に寄付し、残り3200坪を「徳川美術館」建設用地として、この年に設立した財団法人尾張徳川黎明会に寄付。以後資産の大半を財団法人に移し美術品等の散逸を防いだ。

昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発。同日マレー方面派遣を願い出る。翌年1月、陸軍省より陸軍事務嘱託(マレー軍制顧問)発令。2月にシンガポール入りし、ジョホール国王等の安全確保に奔走。その後、田中舘秀三氏が個人の資格で戦時の混乱による略奪から守り抜いていた昭南博物館・植物園の館長に就任し、昭和19年8月まで務めた。帰国後は終戦工作に参加。天皇へ直接終戦を働きかけるように依頼していた高松宮から8/10に天皇が終戦を決意されたことを知らされた。終戦時に軍の機密費から3月事件の時に出した資金が返却されたため、その資金の一部は「日本社会党」の創設費用に充てられた。

戦後、華族制度の解体により資産が激減したこともあり、「徳川生物学研究所」はその役目を終えたとして1970年に閉鎖され、義親自身も戦後植物学の研究をすることは無く、多くの協会や団体の役員、会長などを務めて、昭和51年9月5日自宅にて死去。満89歳11ヶ月であった。

注目理由

みなさん、木彫りの熊は昔から北海道の名産だったと思ってませんか?あれは義親氏がスイス土産だった物を元尾張藩の開拓村だった八雲村で作らせ始めた物なのです。他にも日本社会党の創設者だったり、昭和初期の革命事件のスポンサーになったり、東南アジアで虎狩りや象狩りを行ったりと、頻繁に大事件や珍しいエピソードに遭遇する、起伏と虹彩に富んだ人生を送っています。

本人は深く真剣に考えているにも関わらず、根回しをしないのと、熟考の末の発言があまりにも先に進みすぎていて突拍子もなく聞こえるため、若い頃は常にその真意を誤解され続けています。反面、基本的に実際に会って話をして人物を見極めた後でその人を評価するため、右や左に関係なく広い交友関係を持った不思議な人物でもあります。『殿様』という括弧でくくられるだけでも、その人そのものを見てもらえない可能性が大だと思いますが、世間から『バカ殿』扱いされ、意見がことごとく『無視される』といった扱いを常に受けてきた、義親氏の鬱屈と諦念を思うと、こんなにも朗らかなキャラクターで居られるのは、ほんとに凄いと思います。まぁ礼節というバリア―で自己を守っていることもあるのでしょう逆説的に考えると、彼が三月事件を通じて『盟友』となった人々を本当に大事にしているのも良く分かりますね。

三月事件時においても、大川周明や橋本欣五郎ら首謀者達とは、理想としている国家の将来像は異なる(義親は華族なのにもっと社会主義者的)のですが、「腐敗した政党政治の打破」という共通項から今のお金で十億近いお金を提供しています。これは国のために必要だと思ったので、尾張徳川家の財産管理者と協議の上、提出したのであって、ふだんの生活はちょっと引いちゃうくらい質素なのだそうです。「その行動は一見型破りで、時には突拍子もない様に映ったが祖父にとっては自分なりに筋の通った行動だったのだろう。」と孫の徳川義宣氏が『ジャガタラ紀行』の後書きで書いています。

参考文献

(1)最後の殿様 徳川義親 白泉社
(2)昭和史の原点 中野雅夫 講談社

信頼するジャーナリストである中野氏に義親氏が持つ3月事件の資料を提示し、これまで秘密にしていた事件について語った内容が基になっている革命の記録。事件の主役は大川周明博士と橋本欣五郎陸軍中佐。橋本は親分肌で行動力はあるのだが、視野が狭く単純に過ぎる人物。後に満州事変を影から指揮し、満州事変擁護のためのクーデター未遂事件(十月事件)をも引き起こしている日本を泥沼の戦争に引きずり込んだ影の発起人。事件の資料がGHQに渡っていれば絞首刑は免れなかったであろう。

中国で日本人女性達(娘子軍と呼ばれた)が物の様に売り買いされ、屈辱を耐え忍んででも国にお金を送らなければ、家族が生きて行けないのは社会システムが間違っているからで、トルコの初代大統領『ケマル・パシャ』のように、自分が日本社会を作り変えてみせると決意し、革命運動を押し進めます。橋本欣五郎達のそれ自体は尊敬に値するほどの「大いなる善意」と「無私の念」がきっかけとなって、これまで日本民族が経験したことも無い悲劇(日中戦争、太平洋戦争)が引き起こされたと取ることも出来、歴史の奔流の持つ壮絶な無慈悲について深く考えさせられます。まぁ、橋本欣五郎らは頭悪過ぎって気はしますが・・。

(3)じゃがたら紀行 徳川義親 中公文庫

(4)大東亜科学綺譚 荒俣宏著 ちくま文庫

(5) 殿様は空のお城に住んでいる 川原泉 白泉社

(6)日常礼法の心得 徳川義親 実業之日本社

(7)殿様生物学の系譜 科学朝日 朝日新聞社

(8)橋本大佐の手記 橋本欣五郎著 中野雅夫 みすず書房(→甘粕正彦

三月事件の失敗のあと、満州事変を日本から指揮し、事変の早期収拾を図る政府を妨害するため、クーデター(十月事件)を決行しようとするまでの経緯を橋本本人が記した「昭和歴史の源泉」に中野氏が注釈を入れた物。橋本が手記を書いたのは、満州国が成立し日本が戦争による好景気に沸く中、広島に左遷されたままの身を嘆き、自己の業績と無念を書き残そうとしたためらしい。もとより出版できるののではなく、橋本の同志に秘蔵されていた物を中野氏が発見した。昭和史の暗部が赤裸々に語られている歴史的資料としても重要な本であり、POD(注文に基づく印刷)という形式の本なので注文すれば手に入ります。なお、義親氏は3月事件にしか関与していないが、橋本欣五郎、大川周明、藤田勇(満州事変のスポンサー)らの葬儀を主催したり、墓碑の筆を執るなどして最後まで友人としての務めを果たしているようです。

(9)思い出の昭南博物館 E.J.H.コーナー 石井美樹子編訳 中公新書  

(10)革命は芸術なり−徳川義親の生涯 中野雅夫 学芸書林  

義親氏の死後に書かれた、(1)の本の姉妹編。著者は(1)のゴーストライターでもあった為、内容はかなり重複しているが、貴族院でただ一人治安維持法に反対した、義親氏の先見性と反骨(=孤立)を特に高く評価している。日本社会党設立の経緯も詳しく載っているが、設立経費として差し出した義親氏の資金は日本社会党にはまわらず、新党結成時に除外された、藤田勇が持って行ったとのことである。

(11)田中舘秀三−業績と追憶 山口弥一郎 世界文庫  

(12)徳川義親の十五年戦争 小田部雄次 青木書店  

東京裁判の資料としてアメリカ国立公文書館に保管されていた「徳川義親日記」をもとに、これまで伝えられていなかった義親像を示した本。呑気な殿様ではなく、優秀な華族財政再建家、経営コンサルタント、強気な事業家の義親氏に触れることが出来るが、より重要なこととして、日記からは日中戦争や南方進出に「積極的に」参加、推進している義親氏が伺える。陥落直後のシンガポール行きもこれまで喧伝されていたような、「サルタンへの友情」からではなく、日本軍の南方進出の推進者としてかなり高圧的な姿勢で参加していることがわかる。資料を集めていくとこういった個人のダークサイドが見えてきたりするが、これもまた調査の醍醐味であり個人的にはとても楽しい。

(13)昭南島物語 戸川幸夫 読売新聞社 

(14)きのふの夢 徳川義親 那珂書店 

(15)馬來語四週間 徳川義親、朝倉純孝 大学書林 

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<No99 2001/11/6>

                                
宇羅道彦の「春風録」
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