4285352 | 【東京裁判と大川周明】 |
(最新見直し2006.6.22日)
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GHQにより逮捕されたA級戦犯の中にあって異色なことは、国粋主義的思想家大川周明氏が含まれていたことであった。大川氏は、東京帝大で宗教学を専攻し、古今東西の宗教思想・神秘主義思想に関しても深い理解に達しており、西洋列強の植民地支配に反発しただけでなく、西洋近代文明の弊害について鋭い視点を持っていた人物であった。俗に「右翼の巨魁」であった。 なぜ大川氏が該当したのかその背景は分からないがとにかく混じっていた。ところで、この大川氏が東京裁判で奇態な行動を見せ、精神障害をきたしているとして裁判から除外された。その様子は映像に納められており、パジャマ姿で裸足に下駄を履いた格好で出廷し、ウエッブ裁判長の休憩宣告を受け外人写真班が被告席東条大将の真下に進んで撮影をはじめたトタンに、突然前列の東条英機の頭を平手で叩くという挙措動作を見せている。すぐに憲兵隊長が押さえたが、起ち上った博士が奇声をあげ、ドイツ語で「インデアンス・コンメン・ジー(印度人、こつちへ来い)」、「お前ら早く出てゆけ」、次は英語で「坐れ」と怒鳴るというシーンが撮られている) そういう履歴を持つ大川周明氏をスケッチしておく。 |
【大川周明の履歴】 |
【大川周明の思想】 |
「ぼくの哲学もどき」の「えっせー・べすとせれくしょん」の「侵略か連帯か」参照。 1924.4月、「行地社」結成。「明らかに理想を認識し、堅くこれを把持し、この理想を現実の生活に実現する」を意味する古人の格言「則天行地」(天に則り地に行はん)からとったものである。
竹内好というすぐれた中国研究者、アジア研究者は、連帯と侵略は紙一重だと言っている。アジア連帯の思想が一歩間違うとアジア侵略の思想になってしまう。大川はそのいちばん危ないところを進み、連帯のつもりが侵略のほうに落ちてしまった。一所懸命アジアのことを考えようとした大川が、なぜ連帯のつもりが侵略になってしまったのか、その点をきちんと議論される必要がある。 戦後、A級戦犯として逮捕された。ところが、東京裁判の進行中に精神障害を起した。有名な話だけれど、法廷で前に坐った東条英機のハゲ頭を殴ったり、奇声を挙げたりして、これはおかしいと言うので、精神鑑定を受けた。当然ながら仮病説もあったけれど、検査の結果、脳梅毒であると診断され、精神病院に収容された。ところが、精神病院ですっかり正気に戻ってしまった。完治したわけではないけれど、知的能力はかなり戻った。どうもそういうこともあるらしい。そこで、大川は入院中に何と、生涯の課題であった『コーラン』の和訳(『古蘭』)をなしとげてしまった。これはアラビア語からの訳ではないけれど、10ヶ国語を参考にした本格的なものらしい(実物は見ていない)。 大川には『安楽の門』という自伝的な人生論があるけれど、その第1章は「人間は獄中でも安楽に暮らせる」、第2章は「人間は精神病院でも安楽に暮らせる」となっている。 戦後、インドのネルー首相が日本を訪問したとき、そのパーティーに当時忘れ去られた元A級戦犯大川を招待した。すでに病気で出席はできなかったが、大川が単なる戦争犯罪者でなく、インド独立にとって恩人として見られていたことを証拠立てる話だ。 |
【大川周明は何ゆえA球戦犯から外されたのか】 | |||||
「阿修羅空耳の丘44」のTORA氏の2006.6.22日付投稿「日ソ戦争に関しては、日本が侵略された側で、米英はソ連の対日参戦を"教唆"したのである」は、佐藤優(著)「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409389731X/250-4052047-9021816)を紹介している。佐藤氏は同著で、「大川周明は何ゆえA球戦犯から外されたのか」につき次のように記している。
「株式日記と経済展望」は、「私のコメント」として次のように述べている。
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【大川周明のイスラム研究思想】 |
「ぼくの哲学もどき」の「えっせー・べすとせれくしょん」と思われる「出所不明」参照というか転載。 |
【大川周明の晩年の様子】 |
大川は、愛川町中津485番地の1の中津熊坂地区の旧街道沿いにある古民家・山十邸に住み暮らした。山十邸は今も、この地方の明治初期における豪農層の住居の姿を示すものとして、愛川町が、その建物や庭園等を後世に残すために修復、保存を図っている。当時、熊坂家は「山十」(やまじゅう)の屋号で呼ばれたこの地方きっての豪農で、この邸は、明治初め熊坂半兵衛(1839〜1897)の代につくられ、すでに110年ほど経ている。山十邸は、昭和19年に熊坂家から、戦前の思想家大川周明の所有となり、 昭和32年に死去されるまで住居として使用されていた。 |
【徳川 義親(とくがわ よしちか)1986(明治19).10.5〜1986(昭和51).9.5】 |
明治19年、元越前藩主松平春嶽の五男として生まれた。幼名は錦之丞。明治41年、尾張徳川家の養子となって義親と改名。養父の後を受けて同家19代となり侯爵を襲名。学習院を卒業し東京帝国大学文科大学史学科に入学。翌年、尾張家の長女米子と結婚。明治44年史学科を卒業後、同大学理学大学植物科に学士入学。貴族院議員就任。大正2年植物科を卒業し自宅内に生物学研究所を設置。 大正7年には「徳川生物学研究所」を竣工。この研究所で多くの植物学者が活躍することとなる。同じ頃、維新後尾張藩士が移住して開拓した北海道山越郡八雲村の発展とその中心である『徳川農場』の経営に尽力。羆の害を減らす為に熊狩りを毎年行い、冬季の現金収入確保のため「木彫りの熊」を作ることを奨め、後に北海道の名産となる。 大正10、蕁麻疹治療のため温暖地への転地療養を奨められ、マレー・ジャワへ旅行。ジョホール国王の厚遇をうけ、虎狩り、象狩りを行う。また10月から翌年11月までは妻と共にヨーロッパを旅行。貴族院を発展的に解消し、1/3の華族代表と2/3の労働組織の代表からなる職業別議会制の導入を訴えるが、全く黙殺され、昭和2年に貴族院議員を辞任。 昭和6年、橋本欣五郎、大川周明らによる昭和期最初の革命事件である「3月事件」に、主義の違いを越えて資金を出資。直前に軍の上層部が離脱したことで、革命は不発に終わるが、この時の関係者とは生涯にわたる親交を結ぶことととなる。また同年、名古屋市別邸(14000坪)の大半を名古屋市に寄付し、残り3200坪を「徳川美術館」建設用地として、この年に設立した財団法人尾張徳川黎明会に寄付。以後資産の大半を財団法人に移し美術品等の散逸を防いだ。 昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発。同日マレー方面派遣を願い出る。翌年1月、陸軍省より陸軍事務嘱託(マレー軍制顧問)発令。2月にシンガポール入りし、ジョホール国王等の安全確保に奔走。その後、田中舘秀三氏が個人の資格で戦時の混乱による略奪から守り抜いていた昭南博物館・植物園の館長に就任し、昭和19年8月まで務めた。帰国後は終戦工作に参加。天皇へ直接終戦を働きかけるように依頼していた高松宮から8/10に天皇が終戦を決意されたことを知らされた。終戦時に軍の機密費から3月事件の時に出した資金が返却されたため、その資金の一部は「日本社会党」の創設費用に充てられた。 戦後、華族制度の解体により資産が激減したこともあり、「徳川生物学研究所」はその役目を終えたとして1970年に閉鎖され、義親自身も戦後植物学の研究をすることは無く、多くの協会や団体の役員、会長などを務めて、昭和51年9月5日自宅にて死去。満89歳11ヶ月であった。 注目理由 みなさん、木彫りの熊は昔から北海道の名産だったと思ってませんか?あれは義親氏がスイス土産だった物を元尾張藩の開拓村だった八雲村で作らせ始めた物なのです。他にも日本社会党の創設者だったり、昭和初期の革命事件のスポンサーになったり、東南アジアで虎狩りや象狩りを行ったりと、頻繁に大事件や珍しいエピソードに遭遇する、起伏と虹彩に富んだ人生を送っています。 本人は深く真剣に考えているにも関わらず、根回しをしないのと、熟考の末の発言があまりにも先に進みすぎていて突拍子もなく聞こえるため、若い頃は常にその真意を誤解され続けています。反面、基本的に実際に会って話をして人物を見極めた後でその人を評価するため、右や左に関係なく広い交友関係を持った不思議な人物でもあります。『殿様』という括弧でくくられるだけでも、その人そのものを見てもらえない可能性が大だと思いますが、世間から『バカ殿』扱いされ、意見がことごとく『無視される』といった扱いを常に受けてきた、義親氏の鬱屈と諦念を思うと、こんなにも朗らかなキャラクターで居られるのは、ほんとに凄いと思います。まぁ礼節というバリア―で自己を守っていることもあるのでしょうが。逆説的に考えると、彼が三月事件を通じて『盟友』となった人々を本当に大事にしているのも良く分かりますね。 三月事件時においても、大川周明や橋本欣五郎ら首謀者達とは、理想としている国家の将来像は異なる(義親は華族なのにもっと社会主義者的)のですが、「腐敗した政党政治の打破」という共通項から今のお金で十億近いお金を提供しています。これは国のために必要だと思ったので、尾張徳川家の財産管理者と協議の上、提出したのであって、ふだんの生活はちょっと引いちゃうくらい質素なのだそうです。「その行動は一見型破りで、時には突拍子もない様に映ったが祖父にとっては自分なりに筋の通った行動だったのだろう。」と孫の徳川義宣氏が『ジャガタラ紀行』の後書きで書いています。 参考文献 (1)最後の殿様 徳川義親著 白泉社 中国で日本人女性達(娘子軍と呼ばれた)が物の様に売り買いされ、屈辱を耐え忍んででも国にお金を送らなければ、家族が生きて行けないのは社会システムが間違っているからで、トルコの初代大統領『ケマル・パシャ』のように、自分が日本社会を作り変えてみせると決意し、革命運動を押し進めます。橋本欣五郎達のそれ自体は尊敬に値するほどの「大いなる善意」と「無私の念」がきっかけとなって、これまで日本民族が経験したことも無い悲劇(日中戦争、太平洋戦争)が引き起こされたと取ることも出来、歴史の奔流の持つ壮絶な無慈悲について深く考えさせられます。まぁ、橋本欣五郎らは頭悪過ぎって気はしますが・・。 (3)じゃがたら紀行 徳川義親著 中公文庫 (5) 殿様は空のお城に住んでいる 川原泉著 白泉社 (6)日常礼法の心得 徳川義親著 実業之日本社 (7)殿様生物学の系譜 科学朝日編 朝日新聞社 (8)橋本大佐の手記 橋本欣五郎著 中野雅夫編 みすず書房(→甘粕正彦) 三月事件の失敗のあと、満州事変を日本から指揮し、事変の早期収拾を図る政府を妨害するため、クーデター(十月事件)を決行しようとするまでの経緯を橋本本人が記した「昭和歴史の源泉」に中野氏が注釈を入れた物。橋本が手記を書いたのは、満州国が成立し日本が戦争による好景気に沸く中、広島に左遷されたままの身を嘆き、自己の業績と無念を書き残そうとしたためらしい。もとより出版できるののではなく、橋本の同志に秘蔵されていた物を中野氏が発見した。昭和史の暗部が赤裸々に語られている歴史的資料としても重要な本であり、POD(注文に基づく印刷)という形式の本なので注文すれば手に入ります。なお、義親氏は3月事件にしか関与していないが、橋本欣五郎、大川周明、藤田勇(満州事変のスポンサー)らの葬儀を主催したり、墓碑の筆を執るなどして最後まで友人としての務めを果たしているようです。 (9)思い出の昭南博物館 E.J.H.コーナー著 石井美樹子編訳 中公新書 (10)革命は芸術なり−徳川義親の生涯 中野雅夫著 学芸書林 (11)田中舘秀三−業績と追憶 山口弥一郎編 世界文庫 (13)昭南島物語 戸川幸夫著 読売新聞社 (14)きのふの夢 徳川義親著 那珂書店 (15)馬來語四週間 徳川義親、朝倉純孝著 大学書林 |
(私論.私見)
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