4285332 【東京裁判開廷の様子と以降の流れ】

 (最新見直し2005.12.23日)



【東京裁判の流れ】
 東京裁判所は、東京市ヶ谷台の元陸軍士官学校跡地で戦時中の大本営や陸軍省のあった旧陸軍ビルに設置された。946(昭和46).5.3日に開廷し、結審は2年後の1948.4.16日。

 
1946(昭和46).4.29日、開廷4日前のこの日、GHQ直属の国際検察局が、100名を越すA級戦犯容疑者リストから選ばれた28名の被告の名前と起訴状を公表した。起訴状には、通例の戦争犯罪に加えて、新たな戦争犯罪概念として「平和に対する罪」、「人道に対する罪」が加えられていた。但し、「人道に対する罪」は最終的には適用されなかった。

 
5.3日午前11時20分、戦犯追及の極東国際軍事裁判所(以下、東京裁判と云う)が開廷された。木戸幸一被告を先頭に28名の被告が登場し、2列に並んだ。大川被告のシャツの胸元をはだけた姿が人目を引いた。傍聴席は500名を超え、外国メディアを含めた報道陣約200名が詰め掛けた。

 東京裁判は、「極東国際軍事裁判所条令」に基づき審理されていった。同条令は、捕虜虐待など従来の戦時国際法に規定された「『通常の戦争犯罪」に加え、侵略戦争の計画.準備.遂行などの「平和に対する罪」、民間人の殺害や人種的迫害などの「人道に対する罪」という新たな戦争犯罪の概念を適用していた。

 「平和に対する罪」に関わる戦犯はA級戦犯と呼ばれ、その他の戦犯(B.C級戦犯)と区別され、東条元首相等28名が起訴された。  起訴されたA級戦犯被告は東条英機ら18名、元首相が平沼騎一郎.広田弘毅、外交官が松岡洋右ら4名、その他政府高官が賀屋興宣ら2名、内大臣の木戸幸一、右翼思想家大川周明の28名だった。この日入廷したのは病気のものを除く26名。

 判事は、戦勝国のうち米、英、仏、中、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドと、戦勝への貢献国インド、フィリピンの11カ国から各1名が任命された。つまり、中立国からは一人も選ばれていない。
そのうちアジア人判事は中国、フィリピン、インドの3カ国。東京裁判の構成国と判事は次の通りである。
 イギリス    パトリック
 ソ連   I・M・ザリヤノフ
 フランス  アンリー・ベルナール
 中華民国代表(現台湾政府)      梅汝敖
 オランダ  バーナード・ウィクター・A・ローリング 
 カナダ  E・スチュワート・マックドゥガル
 オーストラリア  ウィリアム・F・ウエップ
 ニュージーラン  エリマ・ハーベー・ノースクロフト
 フィリピン      ジャラニラ
 インド  ラダ・ビノード・パール

 検察官は、首席検察官のジョセフ.キーナン(米国)を始めとする11名、その他500名近くの国際検察局スタッフ。裁判長には、 オーストラリアのクィーンズランド州最高裁判所長官であったサー.ウィリアム.ウエップが主任判事としてマッカーサーによって抜擢された。

 対する弁護側は、鵜沢総明、清瀬一郎ら主任弁護人とアメリカ人弁護人の約50名。
 
 東京裁判の審理は、1946(昭和46).4.29日から1948.4.16日まで約2年間にわたって416回を重ね、出廷した証人は419名、証拠採用された書類は4336通に上った。

 審理対象となったのは、1928(昭和3).1.1日から日本が降伏調印した1945.9.2日までの期間における日本の「侵略戦争」における被告の役割と行動だった。張作霖爆殺事件を起点とし、満州事変、満州国建国、日中戦争、日独伊3国軍事同盟、太平洋戦争、無条件降伏に至る17年8ヶ月に亘る期間の「戦争の歴史」が裁かれた。ソ連との張鼓峰事件、ノモンハン事件も含まれていた。

 5.3日の初法廷は、ウェッブ裁判長の開会の辞で始まり、午後から起訴状の朗読に入った。

 この時、大川が彼に対する告訴状の写しを丸め、一列前にいた登場の禿げ頭をピシャリと叩くという椿事が発生している。緊張した雰囲気の法廷に失笑が漏れた。その様子は精神異常を明らかにしていた。間もなく退廷させられた。大川は翌5.4日精神鑑定の必要ありと宣告され、米陸軍病院に送られた。「梅毒性進行麻痺に伴う精神病」を患っていると判断し、「正邪の弁別」が出来ず、「彼に対する訴訟手続きの性格を理解する能力」を欠いているとして、療養所へ収容した。大川は、ここで、「宗教のための序説」を執筆しながら極東国際軍事裁判が終わるまで留まった。裁判後釈放され余生を過ごした。1957.12月に71歳で死亡するという風変わりな経過を見せている。

 起訴状の朗読は5.4日、5.5日は休廷、5.6日も続いた。5.4日付毎日新聞は、「世界の注視を浴びた歴史的大裁判」との見だしで開廷の模様を伝えた。2面で、次のような書き出しから始まる記事を載せた。
 「軍国日本のかっての指導者らは今は人の忌みきらう拘置所の表玄関かには出られぬ身となってしまった」。

 5.6日、改廷日の奇行で入院した大川被告を除き、全員が無罪を主張した。清瀬一郎日本側弁護人が緊急動議を提出し、裁判の正義と公正の見地からウェッブ裁判長の適格性を問うた(「裁判開始直後の裁判長忌避動議」)。法廷は混乱し、休憩宣言された。ウェッブ裁判長は再開した法廷で、「忌避動議却下」を言い渡し、予定の罪状認否に入った。9分間で終わり、次回の審理が5.13日に行われると宣告され休廷した。

 5.13日、首席検察官キーナンは、被告たちを前にして、「平和に対する犯罪、殺人、人道に対する犯罪、このゆえに被告らは断罪されなければならない 」と主張した。清瀬一郎弁護人は再度異議を提出し、1・「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を裁く権限はない、2・侵略戦争は犯罪ではない、3・国家の戦争で故人責任は問われないと主張した。

 清瀬弁護人は、概要「この裁判は、『自己の有せざる権限を他人に与うることあたわず』という法律上の格言及び『罪刑法定主義(法律が無ければ犯罪無し)』と『法律不遡及の原則』に違反しているから、連合国には『平和に対する罪』、『人道に対する罪』で被告達を裁く権限は無い」、「我々がここに求めんとする真理は、一方の当事者が全然正しく、他方が絶対不正であるといふ事ではありませぬ」と主張した。

 宇野正美氏は、著書「戦後50年 日本の死角」の中で、この時の清瀬弁護人の主張を記している。これを転載する。
 概要「かねて提出しておいた当裁判所の管轄に関する動議の説明をさせていただきたい。その第一は、当裁判所においては平和に対する罪、又人道に対する罪について裁く権限はないということを申し上げたいのである。いうまでもなく当裁判所は、連合国が1945(昭和20).7.26日のポツダムに於いて発した降伏勧告宣言、そのうちの連合国の俘虜に対して残虐行為をなしたる者を含む全ての戦争犯罪者に対して、峻厳なる裁判を行うべしという条規がその根拠である。

 このポツダム宣言は同年9.2日に東京湾に於いて調印された降伏文書によって確認受諾されたものである。それ故にポツダム宣言の条項は我が国を拘束するのみならず、ある意味に於いて連合国をも拘束することになる。

 ポツダム宣言受諾はその条項にある通り、日本軍隊の無条件降伏であって、日本という国家の全面的無条件降伏ではないのである。

 俘虜の虐待を含む戦争犯罪を厳罰に処する条件は認めるが、問題となるのはせかそう犯罪という言葉の意味である。(この当時の国際法学者の誰一人として、宣戦布告、戦争行為自体を戦争犯罪とみなしている者はいなかった)

 平和に対する罪、又人道に対する罪というのは、ポツダム宣言の時点では法律上、戦争犯罪の範囲外に位置していたのであった。従って、このような罪によって起訴することは違法である。ある行為を後になってから法律を作って処罰することは、近代法の大原則に背くものである。従って、公正をうたった裁判の起訴を根底から崩壊させることになるのである。

 『世界の歴史始まって以来、初めて戦争製造者を罰する裁判が行われつつある』(米国大統領トルーマン発言) あなたがたの大統領自身が従来の法律的概念では律し得ない裁判が行われていることを認めているのではないか。それなのにこの裁判が適法であり、公正であると主張するのは矛盾なのである」。

 清瀬弁護人のこの動議に対し、アメリカのキーナン首席検察官やイギリスのコミンズ・カー検事などから反駁が為され、キーナン首席検察官は、日本弁護団の主張に対して、「戦勝国が侵略戦争の責任者達を処罰できないという理由は有り得ない。日本は無条件降伏したのだ!」なる論法で反論している。

 アメリカ人のブレイク二ー弁護人とファーネス弁護人は清瀬動議を補強して、「新たに『平和に対する罪』や、『人道に対する罪』を本法廷憲章により創定することは、事後法の制定となる。事後法で人を処罰することはできない」と弁護している。

 宇野正美氏は、著書「戦後50年 日本の死角」の中で、次のように記している。これを転載する。ブレイク二ー弁護人は、発言の時期は不明であるが次のようにも述べている。
 「戦争は犯罪ではない。なぜならば、国際法は国家利益の追求のために行う戦争をこれまで非合法とみなしたことはないのである」。
 「国家の行為である戦争での個人の責任を問うことは法律的に誤りである。なぜならば、国際法は、国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない。個人による戦争行為という新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである」。
 「戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからである。つまり、合法的な人殺しなのである。殺人行為の正当化である。たとえ嫌悪すべき行為でも犯罪としての責任は問われなかったのである。キット提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪になるならば、我々は広島に原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名前をも挙げることが出来る。その国の元首の名前も我々は承知している。彼らは殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が付せ意義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、如何なる証拠で戦争による殺人が犯罪と云えるのか。原爆を投下した者が居る。この投下を計画し、そして実行を命じ、それを黙認した者が居る。その者たちが裁いているのである」。

 ファーネス弁護人は、発言の時期は不明であるが次のようにも述べている。
 「本当に公正な裁判を行おうとするならば、戦争に関係の無い中立国の代表によって行われるべきである。勝者による敗者への裁判は決して公正で有り得るはずはないのである」。

 清瀬弁護人の法理論を今日的に評すれば、「東京裁判は公正な裁判ではなかった」ことが判明する。特に、裁判管轄権、裁判官の適任性、法の不遡及、共同謀議の法理等々明白な法的不備が確認でき、裁判の形式的な手続きを踏んだだけ狡猾にされた勝者側の敗者に対する見せしめ裁判であったことが判明する。即ち、清瀬弁護人の法廷闘争には鋭いものがあったということになる。

 5日後の5.17日(第7回開廷)の午前に、ウェッブ裁判長は「『管轄に関する全ての動議を却下する。その理由は、将来宣明する』として、その場を切り抜け、事件の進行を図った」。しかし、その「将来宣明」は、昭和23年11.4日の判決言い渡しの時まで行われなかった。

 弁護側が提出した管轄権に関する動議が却下された後、法廷は約半月休廷して6.3日、再開され、翌4日、キーナン首席検事の冒頭陳述書の朗読が行われた。英文にして約4万語、朗読に2時間50分を要した膨大なものだった。

 6.13日より検察側の立証が開始され、昭和22.1.24日まで約7ヶ月続いた。この間登場した内外の証人は延べ1千名を超え、法廷で採用された証拠書証は2282点にのぼった。この膨大な証人と証拠によって、それまでブラックボックスに閉じ込められていた日本近現代史の奥の院のヴェールが次々と明るみに出されることになり衝撃を与えた。

 なお、法廷陳述では、それぞれが次のように自己弁護している。平沼元首相「戦いを欲しなかった」、小磯陸軍大将「私は対米戦回避論者だ」、関敬純海軍中将「東条内閣の出現を憂えた」。東郷外相と海相嶋田繁太郎は責任のなすりあいで罵倒しあった。

 6.18日、ジョセフ.キーナン首席検察官は帰国し、ワシントンで「我々、極東国際軍事裁判検事団は、天皇ヒロヒトを訴追しないことに決定した。我々は、天皇に関するあらゆる証拠を検討したが、天皇を戦犯として起訴する明白なる証拠は、一つとして発見し得なかった」と記者会見の席上述べた。天皇戦犯問題が、不起訴という形で、初めて公にされた。

 6.27日、松岡洋右被告が死亡。

 7.5日、検察側証人として出廷した田中隆吉・元陸軍省兵務局長は、米国のサケット検事の質問に答え、1928年の張作霖謀殺事件について次のように述べた。「張作霖の死は、当時の関東軍高級参謀河本(大作)大佐の計画によって実行されたものであります」。田中氏は、満州事変についても、陸軍の謀略を暴露し、国民が知らされていなかった史実を次々と明らかにした。こうした告発証言で後に「怪物証人」と云われる。

 8.16日、元満州国の皇帝溥儀(ふぎ)が出廷し、自ら「満州国は日本の傀儡(かいらい)だった」と証言した。こうして重要証人が次々と出廷した。南京大虐殺の証言も出た。

 8.29日、第58回裁判で、多摩部隊(1644部隊)による人体実験を明らかにした。検察官は次のように朗読した。
 「我、人民を医薬試験室に連れ行き、各種有毒細菌をその体内に注射しその変化を実験せり。死亡せるものの確数は明白ならず。残暴凶悪無道の極み」。

 10.1日、ニュルンベルク裁判で、絞首刑12名などの判決が出され、10.16日、絞首刑が執行された。

 10.10日、ジョセフ.キーナン首席検察官は、天皇訴追免除を決定した。

 日本側弁護人は、ポツダム宣言が対象とする太平洋戦争に限るべきと主張したが退けられた。原爆投下責任については審議が却下される等、連合国側の戦争犯罪は不問にされるという「勝てば官軍」の一方的なものとなった。

 しかし、皮肉なことに、大本営発表ばかりを信じ込まされていた日本国民にとって満州事変以来の「歴史の真相」が次々と明らかにされていった。

 この間、清瀬弁護人により代表反論が為されているが、自存自衛戦争であったという観点からの日本軍の正当化であり受けは良くなかった。各論反証をそれぞれ担当弁護人が務めたが、「この弁護側の反証の中でますますはっきりしてきたのは、ウェッブ裁判長初め判事団の態度と立場が、極めて検察側に近いということだった」。

 11.3日、戦争放棄などを定めた日本国憲法が公布された。

 1947.2.24日、弁護側反証が開始された。清瀬弁護人が冒頭陳述。

 9.10日、一般段階の反証が終わり、この日から個人段階の反証に入った(個人立証開始)。実際にたったのは16名で、被告の対応もまちまちとなった。問題は、被告達は天皇に責任を負わさないよう反論せねばならず、検事側もそこに気遣うというかなり難しい反証を為さねばならないところにあった。

 12.26日、東条被告の個人立証が始まった。220ページに及ぶ宣誓供述書が読み上げられた。「我が国の関する限りに於いては、自衛戦として回避する事を得ざりし戦争なることを確信するものであります」。質疑が為されたが、東条の受け答えは明瞭であった。東条被告の個人立証4日目の大晦日、「木戸幸一被告が天皇の平和を希望する態度に反する行動をとったことがあるか」との質問に次のように語った。「日本国の臣民が、陛下の御意志に反して、かれこれするということは有り得ぬことであります。いわんや、日本の高官に於いてをや」。ウェッブ裁判長はすかさず、「只今の回答がどういうことを示唆するということが分かるでしょうね」と口を挟んだ。年明けにかけ、この東条発言を撤回させるため、弁護士らを通じた水面下の工作が為され、1948.1.6日、東条被告は、キーナン首席検事の質問に対し、12.31日の発言を次のように修正した。「国民としての感情を申し上げておったのです。天皇のご責任とは別の問題。(戦争開始は)責任者の進言によってしぶしぶご同意になったというのが事実でしょう」。こうして、天皇責任難問をクリヤーさせた。

 1948(昭和23).2.11日、検察側の最終論告が始まり、キーナン首席検事が序論、イギリス代表のコミンズ・カー検事が起訴状、アメリカのソリス・ホルウィッツ検事が一般論告、次に合計21名の検事により個人論告が行われた。死亡の2名と大川元被告を除く25名被告全員に「法律で知られた最量刑」を求刑した。

 次に弁護側の最終弁論となり、一般弁論を弁護団長・鵜沢聡明氏が行った。その後一般弁論の中の法律論の部を高柳賢三弁護人が行ったが、弁護人間の足並みが揃わなかった。個人弁論を廻っては、各弁護人間で激しい応酬が展開された。つまり、被告人間の深刻な責任なすりあいが最後まで演ぜられたということになる。4.15日、審理終了。その後タベナー検事が検察側回答をして休廷。

 マッカーサー創るところの「極東国際軍事裁判所条例(チャーター)」に基づき、いわゆるA級戦犯28人が起訴されたのは1946(昭和21).4.29日(昭和天皇の誕生日)であった。すべての審理が終了したのが1948(昭和23).4.16日。以降裁判のため7ヵ月の休憩に入った。

 10月、A級戦犯容疑者の豊田副武(元軍令部総長)と田村浩をBC級戦犯として起訴した。GHQが東京丸の内に特設した法廷で行われたことから「丸の内裁判」とも呼ばれた。翌年、田村には重労働8年、豊田には無罪が言い渡された。

 11.4日、判決文朗読が始まった。土日の休廷日を挟み12日午後まで7日間計30時間続いた。

 11.12日、判決文の朗読が終わり、最後の「刑の宣告」が行われた。
被告28名のうち、大川周明が精神障害で免訴され、松岡と永野は判決前に死亡していた。残る25名に判決が下され、全員有罪。概要は「判決に記す。

 GHQは訴願並びに再審申し立ての期間を11.12日以後19日までとした。これを受けて全被告を代表してブレイク二ー弁護人がマッカーサー司令官に再審査権の発動を促す申立書を提出した。これを受けてマッカーサーは、11.22日、総司令部の一室で対日理事会を構成する各国の代表を招き、刑の宣告について意見を聴取した。その結果、再審申し立て却下を決定した。

 11.24日、マッカーサーは特別声明を出して、米第8軍司令官に判決どおり刑の執行を為すよう命じた。

 この間、アメリカに帰国していたジョン・G・ブラナン弁護人が米連邦最高裁へ訴願提出している。ディビッド・F・スミス弁護人は人身保護令を提出している。「米大統領の命令によってマッカーサー元帥指揮下に設置された東京の法廷は、国際的な合法性を持たず、また、アメリカの立法府はこのような新規の裁判所の設置をマッカーサー司令官に委任したこともない。よって東京の軍事法廷はアメリカの憲法に違反している」との趣旨を添えていた。

 12.20日、米連邦最高裁は弁護人側の再審訴願申し立てを却下した。「極東国際軍事裁判所はマッカーサー元帥によって連合国の機関として設置されたものであり、このような機関の決定事項について、合衆国の法廷は審理する権限を持っていない」というのがその理由だった。

 12.21日、この米最高裁の訴願却下の報国を受けたマッカーサーは、ウォーカー米第8軍司令官に7死刑囚の死刑執行を命じた。
 
 12.23日、皇太子の誕生日であるこの日、7名の絞首刑が執行された。

 12.24日、処刑執行の翌日、岸信介元国務省ら戦犯容疑者19名全員が不起訴で釈放された。

 1950.3.7日、マッカーサー元帥が、服役戦犯の仮出所の為の審査委員会設置を発表。

 6.25日、朝鮮戦争勃発。

 11.21日、重光葵元外相がA級戦犯で始めて仮出所。

 1952.4.28日、サンフランシスコ講和条約発効。

 8.15日、戦犯の釈放などを求める「引揚援護愛の運動中央協議会」が1000万人の署名をまとめ首相官邸で善処要請。

 1956.3.31日、終身禁固刑を受けた佐藤賢了元陸軍中将釈放。戦没者を除き、級戦犯全員が自由の身に。

 1958.5.30日、巣鴨プリズン(BC級戦犯)全員仮出所。

 0978.10.17日、靖国神社が東条元首相等A級戦犯14名を合祀。


(私論.私観) 「極東国際軍事裁判」について

 この裁判の公正性は、論理的にも実務的にも整合していないように思われる。戦勝国側のイデオロギーの押し付けの臭い裁判であり、その方向で徹底的に利用されたという観点からみなさないとあちこちに齟齬を生ずる。つまり、「極東国際軍事裁判」の正邪論は不毛であり、戦後日本社会がこの裁判を通じて何を遮断され何を移入されたかということの実態解明こそが学究的であると思われる。

 然るに、戦後日本の平和運動は、この「極東国際軍事裁判」の判決を無条件に受け入れ、A級戦犯に対する徹底追求を金科玉条としてきた。これが問われてきたのは後日発生した靖国神社へ合祀問題である。社共及び新左翼を含む戦後平和運動はこれに猛然と異議を唱えてきたが、果たしてその論拠をどこに置いているのだろうか。れんだこが見るのに、大東亜戦争の仕掛人としてのA級戦犯故に合祀を許さない、という観点のように拝察するが、正論足り得るだろうか。

 れんだいこが思うに、合祀事件の問題性は、A級戦犯を合祀した非にあるのでは無い。戦後日本が先の大東亜戦争の歴史的総括をせぬままに、それを道義的に云々するのではなく歴史的位相において少なくとも是非論と手法論と責任論の観点からだけでも自己切開すべきところその労を取ることなくなし崩し的に合祀しそれを追認している非にこそある、と云うべきだろう。

 この観点の差は、ミソとクソほど違いがある。然るに、戦後日本の平和運動は見かけが似ているというだけでクソ運動しか主張し得ていない、まことに社共運動に似合いのレベルではあるが。そう観ずるのはれんだいこだけだろうか。

 2003.9.26日 れんだいこ拝





(私論.私見)