多くの人が戦争犯罪人に指名されぬようもがいていたときに、石原は自ら戦争犯罪人と称し、「私は戦争犯罪人になろう」と言っていたそうです。
どうも石原は、自分が戦犯となって東京裁判を混乱させ、その進行を不可能にしようと計画していたらしいです。そこで、マッカーサー司令部・極東軍事裁判所は石原を戦犯にしないよう努め、検事たちも彼が戦犯にならぬよういろいろな逃げ道を探しました。極東軍事裁判では前代未聞のことでした。
満州事変に関する極東軍事裁判証人として法廷に立つに先立ち、中国記者に語った石原の言葉です。
「満州国独立の結果、日本人が満州を独占し、多民族を圧迫し、同国の建設そのものも多くのビル建設と鉄道敷設にとどまり、産業の開発もまた期待を裏切る結果となった。わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底から踏みにじられたのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。その意味においてわしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対し、誠にすまなかったと思っている。しかし、今となってはわびのしようもない。ただ中国当局者がこれらの人々に寛大な心を持って臨まれるようお願いする次第である」
石原が戦争裁判に対して持っていた考えは次の言葉に表れていると思います。
「戦争も大きな政治の問題として争うべきである。戦争に負けたからといって卑屈になる必要はいささかもない。卑屈になってはいけないのである。日本も侵略国だと称して裁判している最中に、なんと米ソ両国がお互いを侵略者といい、争っているではないか。彼らに良心があるなら恥ずかしくて裁判なんかやってられない。大泥棒たちがお互い泥棒を決めつけながらコソ泥を捕まえ、お前は人様のものに手をつけたからお仕置きするのだ。俺たちは正しい、というに等しい。後世、ことに今の青少年たちが歴史をひもといた場合に、それは間違っている、それなら自分たちにも理由がある、と言って、また戦争をはじめるかもしれない。今のうちに正しいことを言うべきである。ヒトラーは英雄であった。勝敗には関係なく英雄だった。そして独裁者でもなかった。そのころのバカ正直なドイツ人には、ヒトラーのような政治がふさわしく、そして彼が必要だったのだ。また、ロシア人にはスターリンのような専制政治がよかったのだ。英国は一応、国家を仕上げてしまったのでもっともらしいことを言うが、ドイツはヒトラーのようにしなければ生きられなかったと思う。しかしヒトラーは勝利を目の前にしながら負けた。ドイツはソ連軍に負けたんじゃない。アメリカのB29に負けたのだ」
その言行に嘘は微塵もなく豪放磊落そのものであったため、諸外国のジャーナリスト・裁判関係者たちは、石原に対し大変な好感を寄せていたそうです。
後日の話ですが、石原を担当した検事が東京裁判が終了して帰国するにあたり、石原を訪問し、「あなたの話は非常に面白かったし、人生の指針になった。ありがとう。あなたの生きてきた道をぜひ本にしていただきたい。本ができたら私にも送ってください」と言ったという話が残っています。
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>後世、ことに今の青少年たちが歴史をひもといた場合に、それは間違っている、それなら自分たちにも理由がある、と言って、また戦争をはじめるかもしれない。今のうちに正しいことを言うべきである。
果たして彼の予見どおりに・・・
http://users.goo.ne.jp/carlmaria/
国道7号 |
起点 |
新潟県新潟市 |
終点 |
青森県青森市 |
延長 |
475.7 km |
重要な経過地 |
豊栄市(浦ノ入) 新発田市 新潟県岩船郡荒川町 同郡神林村 村上市(山辺里) 同郡山北町 山形県西田川郡温海町 鶴岡市 酒田市 同県飽海郡遊佐町 本荘市 秋田市 秋田県南秋田郡昭和町 同郡飯田川町 同県山本郡八竜町 能代市 同県北秋田郡鷹巣町 大館市 青森県南津軽郡碇ケ関村 同郡大鰐町 弘前市 同郡藤崎町 同郡浪岡町 |
指定区間 |
新潟市本町通七番町千五十四番の二から青森市長島二丁目十番二まで |
石原莞爾:酒田特別法廷への道(もう一つの極東軍事裁判)
昭和22(1947)年4月30日午前7時,酒田駅に到着した特別列車には極東軍事裁判嘱託尋問委員,および日本人弁護士を含む総勢約60人が乗り込んでいた.
一方,その日の夕刻,酒田から北に位置する西山(飽海郡遊佐町)の自宅から同志によってリヤカーで国道10号(現国道7号)まで牽かれ,付き添われながら国道を南下した車に膀胱癌に冒された石原莞爾が座っていた.酒田には17時に到着.その日は,市内の酒田ホテルで宿泊する.
翌日の5月1日から2日まで,東京から離れたこの酒田の地で,石原莞爾一人のために極東軍事裁判酒田特別法廷が開かれた.場所は本町二丁目にある酒田商工会議所二階であった.
石原莞爾と言えば昭和6年9月18日の柳条湖における満州鉄道爆破(柳条湖事件)を画策した満州事変の中心人物であり,その後の満州国建国の立役者ともなった.満鉄の守備のための沿線警備軍(関東軍)1万を以って在満州の張学良軍20万を退けたことは石原莞爾の戦略眼を示すことにはなったが,「政府の認証なくしても成果が上がれば処罰されず」という,その後の大陸にて戦線を拡大するための日本軍の悪しき常套的伝統となったことは否めない.
この酒田臨時法廷においては石原莞爾の満州事変との関わりが主題とされた.極東国際軍事裁判酒田法廷記録・宣誓口述書によれば清朝崩壊後の中国では国権回復運動に影響された排日運動が盛んになり,特に満州における張学良軍による妨害行為,在満邦人への危害が増加する状況にあり,万一の衝突に際して軍独自の作戦準備,および治安維持に関する研究・訓練の向上は行っていたが,自分(石原)を始め関東軍将兵が事変を引き起こすが如き計画を謀議したことはないとの旨を示している.
酒田臨時法廷は5月2日正午に閉廷となった.13:30からは外国記者団とのインタビューを軽快に応じた後,石原はその日の16時過ぎに再び車で国道10号を北上し自宅の西山へ戻った.そして,一年半後の昭和24年8月15日に他界する.奇しくも第4回目の終戦記念日であり,彼が帰依していた日蓮の命日でもあった.
飽海郡遊佐町のR345(旧R7)とR7吹浦バイパスが分岐する一角に石原莞爾の墓がある.この地は東北第二の秀峰である鳥海山(2,236m)の優美な姿を望むことができる景勝地.また,名勝十六羅漢岩で知られる西浦海岸も遠望できる.昭和49年度から事業が開始された吹浦バイパス工事によって墓標の移転問題も取り沙汰されたが,今はその地を迂回するように国道7号は北へ延びる.平成8年10月に西浜-鳥海ブルーライン間が部分開通.平成11年11月に全線開通した.
墓標に刻まれる「都市解体 農工一体 簡素生活」.これは『新日本建設大綱』(昭和22年2月)に記される一節でもあるが,後段には
「近代文明は都市を母体としこれを中心とするものであったが,都市はいよいよ膨張の一途をたどって止まるところを知らぬ.生産は極度に集中した大規模工業に依存し,他のあらゆる文明の集中現象と相俟って,文化の偏在,都市と農村の相克対立は深刻を極め,農村は日に荒廃して救済のすべがない.生活程度の向上に対する人類の欲求は,都市文明なる特殊の環境に支配されて徒に浪費賛沢の弊害を深め,都市自体また道義の頽廃その極に達し,各種慢性病の巣窟と化した」
と説明する.皮肉なことに,現代の日本は当時以上に状況がひどくなっていることを考えれば,ここにも石原莞爾の先見性もしくは観察の鋭さが見え隠れする.
【参考文献】 山形県史(現代資料・政治行政編) 山形市,2000 酒田市制五十年 酒田市,1983 人類後史への出発 石原莞爾平和思想研究会,展転社,1996 石原莞爾 武田邦太郎,菅原一彪,冬青社,1996 最終戦争論・戦争史大観 石原莞爾,中央公論新社,1993 |