428531 軍事裁判の歴史

【軍事裁判の歴史】

 軍事裁判」を参照する。

 戦争犯罪を事後に於いて戦勝国側が裁くという歴史は無かった。戦争犯罪者に対する処罰は、その国の法に触れる行為を為した兵士を当該国の軍事法廷で裁判するのが建前であり、戦後になって戦勝国が敗戦国の国民を裁くという手法はなかった。 

 国際裁判の考え方は、第一次世界大戦後に初めて歴史に登場した。第一次世界大戦終結後の大正8年1月、パリ平和会議に於けるベルサイユ条約で23項目を戦争犯罪として規定し、法廷設置に合意した。日本政府もこれに調印している。しかし、
敗戦国の指導者を、戦勝国が軍事裁判にかけて処刑するということは、かつて歴史にその例を見ないことであった。第一次世界大戦の時、被告人のドイツ皇帝ウイルヘルム2世を裁判に掛けて処断すべしという声があったが、皇帝はオランダに亡命し、オランダは皇帝の引き渡しを拒んだため、未遂に終わった。

 昭和17年8月21日、米大統領ルーズベルトは「侵入者は(中略)現在抑圧しつつある国において、裁判の法廷に立ちその行為に応えなければならない。」と声明して、軍事裁判所の設置を明かにした。更に昭和18月11日には、カイロに集まった米英中の三国首脳が「日本の侵略を阻止し、これを罰する為に今次の戦争を行っている。」と宣言(カイロ宣言)。

 昭和19年には、中国重慶に「連合国戦争犯罪委員会/極東分科委員会」を設置して、戦争犯罪の証拠の収集や戦犯リストの作成を開始した。

 第二次世界大戦は、連合軍の圧倒的な戦力、物量の前に、1945(昭和20)年4月にドイツが降伏した。

 8.8日、米英仏ソ四カ国代表がロンドンに集まり、ヒトラーのひきいたナチス・ドイツの傍若無人の侵略性と凶暴性を将来の見せしめのためどう断罪すべきかについて協議した。戦勝した4大国は次の2点に関して完全に意見の一致を見た。その一は、独裁者ヒトラーが一握りのナチス指導者と共に、世界制覇の野望をとげるために、近隣諸国をむやみやたらに侵略して、あるいは領土、財物を強奪するなど暴虐の限りをつくした。これは断じて許し難いことである。このようなナチズムの暴挙を断罪せざるかぎり、近隣諸国は枕を高くして眠ることは出来ない。将来の平和のため断固として裁判にかけて処断すべきである。

 その二は、アウシュビッツに殺人工場まで作ってユダヤ人狩りを行い、600万人という大量の人間を、大がかりな組織のもとに計画的に殺害した。このような非人道的な行為は断じて許すことはできない。

 この観点から「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(「ロンドン協定」)を合意している。この協定(条約)で、捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」の他に、侵略戦争を計画・実行した者を犯罪者として裁く「平和に対する罪」、占領地の一般住民に対する虐待、虐殺などの非人道的行為をした者を裁く「人道に対する罪」という二つの新しい罪名が取り入れられることになった。これに該当する戦犯容疑者を「A級戦争犯罪人容疑者」、その他の戦犯容疑者を「BC級戦争犯罪人容疑者」と識別することにした。

 同協定は、「これらの戦犯を裁く為の国際軍事裁判所条例」を付属させ、これに則りドイツのニュルンベルクに国際軍事裁判所がもうけられ、ナチスの首脳を裁判にかけて処刑する事になった。この裁判を行うため、従来の戦時国際法にはない「平和に対する罪」と「人道に対する罪」の二項目が設けられた。この流れを受けて日本の東京裁判が開かれることになった。

 8月15日には日本がポツダム宣言を受諾して降伏し終結を迎えた。連合軍はドイツ
日本に対し戦争裁判を実施することとし、日本に対してはポツダム宣言第10項として、「我々は日本人を民族として滅亡させる意思は無いが、俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加える」ことを明らかにした。



 連合国最高司令長官・マッカーサー元帥が日本進駐の前日に当たる8.29日、アメリカ統合参謀本部は第一号アメリカ政策文書・「降伏後初期の米国の対日政策」(「連合国最高司令官に対する日本占領及び管理の為の降伏後における初期の基本的指令」)を伝達した。こう記されている。「連合国の逮捕その他の国民を虐待したことにより告発された者を含めて、戦争犯罪人として最高司令官又は適当な連合国機関によって告発された者は、逮捕され、裁判され、もし有罪の判決があった時は処罰される」、「日本国が再び米国の脅威となり、または世界の平和及び安全の脅威とならざる事を確実とすること」

 1946.1.19日、連合国軍最高司令官マッカーサーの特別布告で、東京裁判が発足した。




(私論.私見)