4285371 | 【BC級戦犯裁判】 |
(最新見直し2006.6.22日)
45.10月から51年4月まで、中国や東南アジア諸国など49の地域でBC級戦犯裁判が行われた。「BC級戦犯」とは、終戦により連合国が執った戦犯認定によるものであり、戦争指導者を「A級戦犯」、捕虜虐待や一般人への犯罪などを犯した戦争行為の中での犯罪者を「BC級戦犯」、「C級戦犯」は人道に対する罪として国際裁判で裁いた。 佐藤優(著)「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/409389731X/250-4052047-9021816)は、文中で、A級戦犯、BC級戦犯という区分について次のように解説している。
A級戦犯は1946年に極東国際軍事裁判(東京裁判)で28人が裁かれ、東条英機元首相ら7人が死刑判決を受けた。BC級戦犯は、国内や海外で開かれ、戦争捕虜に対する非人道的扱いを禁じたハーグ陸戦条約(1899年採択、1907年修正)で規定された「通例の戦争犯罪」に問われた戦犯を裁いた。現地指揮官や下級兵士ら計5700人が裁かれ、法務省の推計によると934人が死刑判決を受け(984人に死刑判決ともある)、執行920人、有罪判決3413人であった。 |
【BC級戦犯】 |
2001.12.9日付け毎日新聞(ワシントン・中井良則)は、「54年ぶり遺書発見 GHQが遺族に届けず」なる見出しで次のように書き記している。 第二次大戦後の1947年に、仏領サイゴン(現ベトナム・ホーチミン市)でBC級戦犯として処刑された旧日本軍憲兵ら15人が妻や親にあてて書いた遺書が、米国立公文書館で54年ぶりに発見された。同時に見つかった連合国軍総司令部(GHQ)の文書によると、仏当局から配達を依頼されたGHQは、内容を検閲し「占領反対につながる」という理由で、送付せず保管していた。 発見したのは米国在住の戦後史研究家、グリーン誠子さん。公文書館でGHQの資料を調査中、秘密指定を解除された遺書15通とGHQ部内文書9件が一緒になったファイルを見つけた。 遺書は46年10月〜47年3月、サイゴンの刑務所で書かれた。「名誉ある戦争犯罪者」、「道義上恥ずる所なし」、「作戦命令に基づく職責達成の行動」と戦争中の行動を正当化する一方、妻に「再婚することを望む」と書き残すなど家族の幸福を望む言葉が多い。 同時に見つかったGHQ文書によると、47年11月20日、仏当局が「あて名人に渡してほしい」と遺書をGHQ外交部に渡した。情報機関の参謀2部(G2)が検閲し、担当官は「家族には送付しない」と判断した。 48年2月14日付のG2覚書では、G2部長で占領政策に影響力を持ったウィロビー少将が「受取人が日本の報道機関に話さないよう警告すれば、我々の不安はおさまるのではないか」と部下に再検討を指示した。 ところが、民間諜報局(CIS)のパトナム大佐が同月19日付でG2に提出した報告書は「日本の(戦争の)理由が正当であり、死刑が不当だという感情を刺激する内容だ。配達しても何の利益にもならず、逆に占領への反対をうながす批判につながる」と述べ、送付反対の論拠にした。 実力者のウィロビー少将が乗りだすほど遺書は重要視されたと見られるが、占領行政に不利益になるとの理由で結局、家族に届けられなかった。 ◇遺書の背景は? 54年間、米国の公文書館で眠っていた15通の遺書と添付資料は、これまであまり表に出てこなかったフランスによるサイゴン裁判の貴重な資料だ。裁判はどう行われ、連合国軍総司令部(GHQ)はなぜ遺書を遺族に渡さなかったのか。背景を取材した。 ■サイゴン裁判 旧日本軍は1940年、仏領インドシナに進駐した。約9万5000人の仏軍も駐留していたが、本国がドイツに一時占領されたりして日本軍進駐を容認したため、武力衝突は起きなかった。 しかし、日本の敗色が濃くなると、米軍攻勢に仏軍が呼応するという懸念から日本軍は45年3月、仏軍を攻撃して武装解除させ、スパイ取り締まりなどを行った。 今回発見された15通の遺書や関連資料によると、この日本軍の攻撃で捕虜になった仏軍将校らが中心となってBC級戦犯を取り調べ、230人を起訴した。うち167人が憲兵だった。 憲兵は国内では言論弾圧など国民生活に干渉し、占領地では治安維持やスパイ摘発をした。虐待行為などもあって恐れられ、「ケンペイ」という日本語は、現在もアジア各地で日本占領時代の暗い歴史を象徴する言葉として残っている。 その憲兵らに対する仏軍の取り調べも過酷だったようだ。遺書には「水責め、火責めの激しい拷問を受けた」などの記述がある。 恵泉女子学園大の内海愛子教授(日本アジア関係史)は「憲兵は占領地の治安維持活動の当事者ゆえに、戦犯裁判で虐待行為などを問われることは多くなる。サイゴン裁判は被告の待遇が悪く、言い分も聞き入れられないなど裁判上の問題も多いが、旧日本軍が戦犯裁判に問われるような行為を行った事実も忘れてはならない」と話す。 ■検閲 戦犯裁判の研究者で米パシフィック・ウエスタン大名誉教授の茶園義男さん(75)によると、死刑判決を受けたBC級戦犯の遺書のほとんどは同僚ら復員兵が下着や帽子に隠すなどしてこっそりと持ち帰った。内容が戦犯裁判の不当性を訴えるなど占領政策に批判的な内容だった場合は「占領目的を阻害した」としてGHQから追及を受ける恐れがあったからだ。 茶園さんは「遺書の内容が反連合国的だったので、没収されたのではないか。遺書検閲は占領政策の一環だが、実際に没収されて遺族に渡らなかったケースは聞いたことがなく、珍しい。今回の遺書の発見は占領政策の一端をうかがわせるもので貴重だ」と語る。 ■遺族たち 15通の遺書には、残された家族を心配し励ます言葉が多くつづられているが、遺族は有形無形の差別を受けた。GHQの指示で戦犯に対する恩給は全面的に差し止められ、戸籍には「刑死」(後に「法務死」)と記載された。一般市民の視線も冷たく、「戦犯の墓は5年間建てられない」などの流言が広まり、近隣住民に内証で葬式を出したり、自治体主催の戦没者慰霊祭で門前払いを受けた遺族もいた。 |
【BC級裁判関連年表】 「殉國之碑」サイトの「軍事裁判」の「BC級裁判関連年表」に次の貴重資料が開示されており、これを全文転載で紹介します。 |
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昭和20年 7月26日 連合国がポツダム宣言発表 昭和20年 8月14日 日本がポツダム宣言の受諾を決定 昭和20年 8月15日 終戦 昭和20年 9月 1日 GHQがBC級戦犯容疑者の逮捕令を発令 昭和20年 9月 3日 比島方面軍最高司令官山下奉文陸軍大将、逮捕 昭和20年10月 8日 米、マニラ裁判開廷(〜22年 4月15日閉廷) 昭和20年11月20日 米、クエゼリン裁判開廷(〜20年12月24日閉廷) 昭和20年12月 3日 豪、ラブアン裁判開廷(〜21年 1月13日閉廷) 昭和20年12月 7日 豪、モロタイ裁判開廷(〜21年 2月28日閉廷) 昭和20年12月 9日 豪、ラバウル裁判開廷(〜22年 8月 6日閉廷) 昭和20年12月18日 米、横浜裁判開廷(〜24年10月19日閉廷) 昭和21年 1月21日 英、シンガポール裁判開廷(〜23年 3月12日閉廷) 昭和21年 1月29日 英、クアラルンプール裁判開廷(〜23年 1月11日閉廷) 昭和21年 2月11日 英、タイピン裁判開廷(〜22年12月26日閉廷) 昭和21年 2月12日 米、上海裁判開廷(〜21年 9月16日閉廷) 昭和21年 3月 1日 豪、ポートダーウィン裁判開廷(〜21年 4月29日閉廷) 昭和21年 4月 8日 中、北京裁判開廷(〜22年12月13日閉廷) 昭和21年 4月 8日 英、ラブアン裁判開廷(〜21年 5月24日閉廷) 昭和21年 4月10日 英、ビルマ裁判開廷(〜22年11月21日閉廷) 昭和21年 4月10日 英、アロールスタン裁判開廷(〜22年11月16日閉廷) 昭和21年 4月11日 米、グアム裁判開廷(〜24年 4月28日閉廷) 昭和21年 4月25日 英、香港裁判開廷(〜23年12月10日閉廷) 昭和21年 4月26日 由利 敬陸軍中尉、巣鴨ブリズンの執行第一号として絞首刑 昭和21年 5月16日 中、広東裁判開廷(〜22年 2月20日閉廷) 昭和21年 5月17日 豪、シンガポール裁判開廷(〜22年 4月 2日閉廷) 昭和21年 5月24日 中、上海裁判開廷(〜24年 1月26日閉廷) 昭和21年 5月30日 中、南京裁判開廷(〜25年 5月13日閉廷) 昭和21年 6月15日 中、徐州裁判開廷(〜22年 4月30日閉廷) 昭和21年 6月28日 中、漢口裁判開廷(〜23年 1月29日閉廷) 昭和21年 7月20日 中、瀋陽裁判開廷(〜23年 1月 8日閉廷) 昭和21年 8月 5日 蘭、バタビア裁判開廷(〜24年10月24日閉廷) 昭和21年 8月12日 英、ジョホールバル裁判開廷(〜22年 7月12日閉廷) 昭和21年 8月25日 中、済南裁判開廷(〜22年11月13日閉廷) 昭和21年 8月30日 英、ペナン裁判開廷(〜21年 9月28日閉廷) 昭和21年 9月13日 蘭、バリックパパン裁判開廷(〜22年 5月25日閉廷) 昭和21年 9月30日 仏、サイゴン裁判開廷(〜25年 3月29日閉廷) 昭和21年10月 2日 蘭、マカッサル裁判開廷(〜24年 8月16日閉廷) 昭和21年10月10日 蘭、モロタイ裁判開廷(〜23年 1月21日閉廷) 昭和21年10月21日 蘭、ポロチャナック裁判開廷(〜23年 1月16日閉廷) 昭和21年10月30日 蘭、メナド裁判開廷(〜23年 5月28日閉廷) 昭和21年11月20日 英、ジェッセルトン裁判開廷(〜22年10月 8日閉廷) 昭和21年12月 1日 中、大原裁判開廷(〜23年 3月29日閉廷) 昭和21年12月 5日 蘭、アンボン裁判開廷(〜23年12月10日閉廷) 昭和22年 2月 6日 蘭、メダン裁判開廷(〜24年 3月10日閉廷) 昭和22年 7月30日 蘭、クーパン裁判開廷(〜23年 7月25日閉廷) 昭和22年 8月 1日 比、マニラ裁判開廷(〜24年12月25日閉廷) 昭和22年11月11日 蘭、パンジェルマシン裁判開廷(〜23年 7月17日閉廷) 昭和22年11月24日 豪、香港裁判開廷(〜23年12月23日閉廷) 昭和23年 3月 1日 蘭、ホーランディア裁判開廷(〜23年10月21日閉廷) 昭和22年 5月24日 蘭、タンジョンピナン裁判開廷(〜23年 8月30日閉廷) 昭和25年 6月 5日 豪、マヌス裁判開廷(〜26年 4月 9日閉廷) 昭和27年 4月28日 対日平和条約発効、巣鴨プリズンを日本へ移管 昭和27年 8月 5日 日華平和条約発効、在中国戦犯91名釈放 昭和28年 3月19日 グアム裁判の刑死者遺骨、一部返還 昭和28年 3月24日 東京護国寺に「身代り地蔵尊」建立 昭和28年 6月 5日 在仏戦犯30名釈放 昭和28年 8月 3日 「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 昭和28年12月 1日 在ソ戦犯811名釈放、遺稿集「世紀の遺書」初版発行 昭和28年12月14日 横浜久保山墓地より刑死者60名の遺骨発掘 昭和28年12月15日 護国寺にて60名の追悼法要、遺骨を遺族へ伝達 昭和28年12月30日 在比戦犯全員釈放 昭和29年 4月22日 在仏戦犯2名釈放、フランス戦犯解消 昭和29年 6月30日 恩給法一部改正(戦犯代理家族により受給可能) 昭和30年 4月 2日 マレー地区戦犯刑死者遺骨194柱返還 昭和30年12月18日 中共刑死者遺骨40柱返還 昭和31年 1月 1日 在英戦犯2名釈放、イギリス戦犯解消 昭和32年 5月24日 中、広東裁判刑死者遺骨16柱返還 昭和33年 5月30日 米関係戦犯18名釈放、巣鴨プリズン在所者0 昭和30年12月15日 連合国全戦犯解消 昭和31年 4月19日 厚生省社会援護局長「靖国神社合祀事務協力について」発行 昭和34年 4月 6日 BC級刑死者346柱、靖国神社へ合祀 昭和34年10月17日 BC級刑死者479柱、靖国神社へ合祀 昭和39年 5月30日 オランダ関係刑死者遺骨3柱返還 昭和39年 7月 3日 「東京拘置所の敷地を戦争裁判の遺跡として保存する件」閣議了解 昭和39年 7月21日 オランダ関係刑死者遺骨68柱返還 昭和41年 2月 8日 オランダ関係刑死者遺骨140柱返還 昭和42年10月18日 戦争裁判刑死者114柱、靖国神社へ合祀 昭和43年10月 日 横浜光明寺に「六十烈士忠魂碑」建立 昭和55年 6月 日 東池袋中央公園に「永久平和を願って(碑)」建立 平成 6年 5月14日 高野山奥の院に「昭和殉難者法務死追悼碑」建立 |
【BC級裁判概要】 「殉國之碑」サイトの「軍事裁判」の「BC級裁判関連年表」に次の貴重資料が開示されており、これを全文転載で紹介します。 |
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※この外、ソ連では秘密裁判により3,000名、中国の人民裁判では約3,500人が処刑されたといわれているが、未だにその詳細は明かにされていない。 ※昭和41年12月20日、法務大臣官房司法法制調査部資料より加工(資料によって人数が違う)。 |
(私論.私見)