42851-3 ハル・ノートについて

 【ハル・ノート】の経過については、れんだいこの大東亜戦争を問うサイトの「第二次世界大戦前の動き」の項の1940(昭和15)年の動きのところから記している。但し、が非常に参考になるので、当面これを下敷きに再度観ておくことにする。


日米交渉の発足

 日米国交調整は、1940(昭和15)年11月末以来近衛首相によって密かに裏面工作が行われていた。

 
12月5日 ウォルシュ司教、ドラウト神父が、松岡外相を訪問。
※ これは当時の民間外交であったと考えられる。西の「欧州戦争」・東の「支那事変」の流れに日米双方がどう認識し対処するのか、アメリカから見て、日本の「軍事同盟交渉に関する方針案」(1940.9.6日)で「第東亜新秩序建設の為の生存圏」の範囲を規定し、太平洋地域への進出を事実上決定していた動きにどう対処するのか、その為に的確な情報を得ようとしており、仮に米国が対独参戦をした場合に、太平洋地域がどうなるのかという日米双方の思惑が交差していた。

 この当時の「日米了解案」の内容は、ハル・ノートと基本的には同じもので、日本軍の中国からの撤退も入っていたようである。但し、一定の条件の元で「満州国の承認」、汪兆銘政権と中華民国政府の合流などが盛り込まれていた。しかし、日本は交渉の一方でベトナム進駐を進め、独ソ戦が始まるや、ソ連に対して開戦すべく約80万の兵力を満州に動員していた。 対ソ戦は中止となったが、ベトナム進駐が交渉の重要項目になってきていた。ベトナム進駐へ向かえば、目と鼻の先のフィリピン、マレー半島、インドネシアに向かうことが趨勢でもあった。

 12月28日 ウォルシュ、ドラウト帰米。


 以降、1941(昭和16)年になると本格的な政府間交渉へ入っていった。

 2月11日 野村吉三郎駐米大使ワシントンに着任、日米交渉が本格化。

 【一回目の野村・ハル会談 】
 3月8日ハル国務長官と野村吉三郎駐米大使との間で、非公式会談が開始された。これは爾後開戦に至るまで数十回にわたって行われた会談の最初のものであった。


【ハル4原則と日米了解案】

 4月16日 『ハル4原則』が野村大使に提示された。

    1 あらゆる国家の領土保全と主権尊重
    2 他国の内政問題に対する不干渉原則
    3 通商上の機会均等を含む平等原則
    4 平和的手段により変更される場合を除き、太平洋における現状の不攪乱

 また民間主導の非公式折衝として『日米原則協定案』を作製、これはのちに4月16日の『日米了解案』へと発展するもので、日本はこれを基本として交渉を進めようとの考えであった。 しかし多分に融和的は了解案の内容は、ソ連より帰国した松岡外相の手によって大幅修正された。松岡外相はまず日米中立条約を提案、さらに松岡修正(日米了解)案をハル国務長官に提出することにより交渉を進めようとしたが、ハルはほとんど問題とせず『ハル4原則』が交渉の基礎であることを強調した。

 日米交渉は、政府・大本営の連携のもとに進められたが時間の経過とともに米側の態度は硬化し、速やかなる交渉成立には失敗した。三国同盟を外交政策の基本と考える松岡外相と、ドイツに対する敵意を強め原則的立場に固執するハル国務長官との対立は激化していった。 さらに国内でも、対米関係悪化を望まず日米交渉の妥結を望む内閣全体の意向から松岡はうきあがっていったのである。

 6月22日 独ソが突如開戦した。これは日本にとって大きな衝撃であり、我が陸軍は ①武力南進 ②米英と協調しつつ北方解決 ③現状の推移を待つ の三案を検討したが結局北進/南進とも決しない『準備陣』案へと傾いた。わが国は長年にわたり対ソ戦を想定してきたが、陸軍省・海軍ともに北進には消極的であった。

 この間南方情勢も悪化していた。前述の如く蘭印との交渉は不調に終わり交渉は打ちきりとなった。 米・英・蘭の諸国は南方の戦備を固め、対日政治的・経済的・軍事的圧迫は日に日に強まった。 このためわが国は、南部仏印を勢力下におさめるため、一部の兵力を進駐させることとし、6月25日 対米英戦を辞せずの決意をもって南方施策を促進することに決定した。


7月2日の御前会議

 7月 2日 御前会議で『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』を決定した。
帝国は依然支那事変処理に万進し 且つ自存自衛の基礎を確立する為南進の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決すという方針である。即ち南部仏印進駐の確認と対ソ警戒強化であった。 北進の基本構想は、のちに関特演を実施し極東ソ連軍が西方に兵力が転用されてから武力発動が予定されており、独ソ戦の推移如何であった。だがドイツ軍の進撃は停滞し、8月9日大本営は年内における北方解決企図を断念、南方に努力を傾注することとした。

 一方フランスとの交渉は合意に達し、米国による援蒋ルートの遮断を目的として陸海軍は7月28日から南部仏印に平和進駐を開始した。これを見た米国は、7月26日 対日資産の凍結を発令、英・蘭もこれに続いた。さらに8月1日 対日石全面輸出禁止を決定した。


いわゆるジリ貧論

 経済断交は武力行使に勝るものであり、このままの状態が続けば日本海軍は2年後には全機能を喪失し、重要産業は1年以内に生産を停止し、「ジリ貧」となることは明かであった。さらに翌年以降になれば、米側の軍備は急速に増加され、彼我の戦力比率は著しいものとなってしまう。もし戦うのであれば今である。「機を失せず」「死中に活を求める」以外の方法は、石炭液化による人造石油の確保であったが国内の技術では甚だ不十分であった。

 加えて極東米陸軍司令部が比島に新設され、英増援部隊がシンガポールに到着し、米軍事使節団は重慶に派遣されると米大統領は発表した。米海軍長官は 「米海軍は、米国の極東政策遂行のため必要な措置を敢行できる」と言明、ABCD包囲網はますます強化されていったのである。


日米巨頭会談提唱

 近衛首相は対米交渉を促進するため強硬派の松岡外相を更迭、7月18日 一旦総辞職して第3次新内閣を発足させた。

 8月7日近衛首相は日米両国首脳による直接会談を提議した。生き詰まりを打開するための最後の秘策であった。陸海軍もこの会談に多大の期待をかけ随行員の人選などの準備を進めたが、米国からの回答は近衛に「甚だ失望的であった」と書かせた程冷淡であった。

 8月14日米英共同宣言いわゆる『大西洋憲章』が発表された。これはチャーチル首相主導のもと企図された対日警告の一種であったがルーズベルト大統領は 「3ヶ月間日本をあやすこと(to baby)ができる」と語ったといわれており、米英首脳はこの共同宣言以降においては日米交渉をもって時間稼ぎとみなしていたと考えられた。

 8月26日近衛首相は米大統領あての親書を送り、日米首脳会談を早急に実現するよう再度提案した。これに対して米大統領は「重要な原則問題(ハル4原則)について合意に達した上でなければ会談には応じられない」と回答してきた。それは対日不信もさることながら米国の遅延策-対日戦争準備に他ならなかった。


陸海軍の戦争決意


 政府が外交による時局収拾に苦慮しているとき、統帥部・大本営も時局打開の検討を進めていた。 対米戦の場合の主役は陸軍ではなく海軍であったため、海軍主導による国策決定を陸軍は期待していた。

 8月16日 海軍から『帝国国策遂行方針』が提示された。これは10月下旬を目途として戦争準備と外交を併進させ、外交が妥結しない場合は武力を発動する というものであった。 これは海軍としては画期的な重大決意の表明であり、以降この海軍案を基礎として大本営は研究を進めた。

 これに対し陸軍は、戦争の決意なくして戦争準備を進めることはできない として反対し意見が対立した。陸海軍の折衝の結果 「戦争を辞せざる決意のもとに~」 と修正し
『帝国国策遂行要領』として9月3日の大本営政府連絡会議で討議された。この会議では和戦決定時期のリミットについて問題とされたがこの時点では不明確のままであった。


9月6日の御前会議

 この『帝国国策遂行要領』が御前会議で決定されたとき、昭和天皇は異例の御発言をされ、外交による局面打開を要望された。また明治天皇の御製を読み上げられ、和平への希望を強調された。「昭和天皇は平和を強く希望し、9月6日の御前会議で『帝国国策遂行要領』を白紙に還元し、国策を和平に向け根本的に立て直すよう要請をした」とされている。御前会議は極度の緊張裡に散会となったのであった。「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」

 その後政府は、聖旨に沿って日米交渉に努めたが進展することはなかった。
 8月15日 海軍は出師準備第2着を発動、9月1日 年度海軍戦時編制実施を発令した。

 大本営は和戦の決定時期を遅くとも10月15日までに行うよう政府に要望した。政府首脳の意見は一致せず、情勢判断を異にしていた。 この決定をめぐる折衝において、東郷外相は交渉継続を主張、及川海相は首相に一任、東條陸相は米国提案に反対 という状況であった。

 海軍は日米戦争は不可能であるとの判断を有していたが、之を公開の席上で発言することはできなかった。これは当時の空気として「海軍は戦えない」などと口にすることは、 1)海軍の存在意義を失う、 2)艦隊の士気に影響、 3)陸海軍間の物資争奪において「戦えない海軍に物資を与える必要なし」となり、さらに軍令部は毎年作戦計画を陛下に奏上しているが、対米戦はできないということは陛下に対し嘘を申し上げることになってしまうのである。これにより武藤陸軍軍務局長より、海軍は戦えないと言ってくれれば陸軍強硬派も断念する との働きかけも実を結ばなかった。


第3次近衛内閣総辞職

 10月14日 近衛首相は、官邸に東條陸相の来邸を求めて支那からの撤兵問題について再考を求めた。支那事変に重大責任がある私としては更に前途に見通しのつかない大戦争へ突入することは何としても同意し難い。この際一時屈して撤兵の形式を米国に与え、日米戦争の危機を救うべきであるとして同意を求めた。これに対して東條陸相は、今米国に屈すればますます高圧的に出てとどまるところがない。米国の要求は日本を独伊から切り離すことにある。もしその方向に行けば、米英が独伊を撃滅した後に日本打倒に向かってくるだろう。支那全土よりの撤兵は、陸相としても日本陸軍としても、大陸に尊い生命を捧げた幾多の犠牲に対し、絶対に認めることはできない。と主張して物別れとなった。

 陸軍は戦争を必ずしも望むものではなかったが支那からの撤兵には反対し、外相は支那からの撤兵を認めなければ日米交渉は成立しないとの見解であった。とかく優柔不断の感があった近衛首相には決断することができず、第三次近衛内閣は閣内不統一によって総辞職した。


東條内閣の成立

 近衛・東條両大臣は、後継首班に東久邇宮内閣を提唱した。しかし昭和天皇は「皇族が政治の局に立つ事は平和の時はともかく戦争になる虞の場合には慎重に考えるべきである」との御内意であった。また木戸内務大臣も宮様内閣には反対であった。結局名目上の白紙内閣として陸軍部内の統制を得られる人物として東條陸相が推挙され組閣の大命が降下したのである。近衛政権をつぶしたのは陸軍だから、陸軍が最後まで責任を負えばいいとする空気もあった。なお、東條本人は陸相に留任する意図はまったくなく、首相就任など考えてもいなかった。

 10月16日 東條内閣が成立。東條首相は9月6日決定の『帝国国策遂行要領』を白紙撤回するように との陛下の聖旨を受け、連日再検討をおこなった。 大本営側はこれに焦慮し、時間が切迫しているので検討を急がれたいと申し入れたが、政府は十分検討して責任をとりたい と慎重であった。


11月1日の大本営政府連絡会議


 11月 1日 東條首相は以下の3案を示し、各閣僚、大本営首脳の意見を求めた。
    1 戦争を極力避け、臥薪嘗胆する
    2 直ちに開戦を決意、政戦略の諸施策等はこの方針に集中する
    3 戦争決意の下に、作戦準備の完整と外交施策を続行し妥結に努める
陸軍省首脳を含む閣僚の大部分は3に賛同し、大本営側は2であった。

 同日11月1日の連絡会議は、午前9時から深夜に及ぶ激論が続く歴史的会議となった。東郷外相は、外交交渉の条件とする『甲案』のほかさらに穏やかなる『乙案』を提議した。

 甲案は、9月29日提出の日本側提案を修正緩和したもので

    1 ハル4原則の通商無差別問題は、全世界に適用されるという条件で承認する
    2 三国同盟の解釈履行問題は、いわゆる独自解釈に基づく
    3 支那撤兵問題は、華北・蒙彊の一定地域と海南島は25年駐屯 それ以外は2年以内に撤退、仏印からはただちに撤退

 乙案は、第2次譲歩案であり、米による資産凍結前=南部仏印進駐前の状態に復帰しようというもので

    1 日米両国は、仏印以外のアジア・太平洋に武力進出を行わず
    2 日米両国は、蘭印の物資獲得について協力する
    3 日米両国は、通商関係を資産凍結前に戻す
    4 米国は、日支和平の努力に支障を与えない
    5 以上が成立すれば、日本は南部仏印から撤兵する

 11月 5日の御前会議で『帝国国策遂行要領』は原案どおり採決され、日米交渉は甲案ついで乙案によって進められた。が、日本のこの対米戦争回避案をアメリカは受け入れなかった。ハル長官もルーズベルトもこれが日本の最後的提案だと知っていたと思われる。が、この2人は日米交渉に見切りをつけていたのに、時日を稼ぐために交渉を 続行した。

 米国の態度は強硬であった。 打開をはかるべく大使辞任を申し出ていた野村大使の補佐として来栖三郎特使の派遣を決定、当時としては異例の空路によって11月15日ワシントンに到着した。しかし、来栖特使の派遣によって状況が変わることはなかった。米側は三国同盟の死文化を要求するといった状況の変化が見られたが、すでに交渉に見きりをつけており、不信感は決定的であった。

 アメリカはマジック情報により日本の外交電報を解読していた。日本が「11月25日までに日本の要求に応じない場合は戦争も辞さない」ことを知っていた。ハル国務長官は「日本は既に戦争の車輪をまわしはじめている」ことを知った上で交渉を行っていたのである。のみならずルーズベルト大統領は、既に対日戦争を決意し日本をして先に手をださせようとしていた。このように実に一国の外交機密暗号電文のほとんどが、長きにわたって想定敵国に解読されていた ということは外交史上空前のことであった。


 米国政府が、対日政策を最終決定したのは、昭和十六年十一月二十五日である。この日の午後、ホワイトハウスの大統領ルーズベルトの執務室に、国務長官ハルと陸海軍の首脳が集まって対日戦争計画を審議した。陸軍長官スチムソンの日記によると、この会議の議題は、如何にして日本に最初の一発を撃たせるかであった。最後に、ルーズベルトは日本の攻撃を十二月一日と予告して、その準備を命じた(防衛研究所「ハルノートと開戦」 (SECURITARIAN 2000年10月号より・http://www.jda.go.jp/j/library/senshi/00-10.htm)。


ハル・ノート
 http://www3.ocn.ne.jp/~kenpou/sub3/kokusai-jyouyaku/harunoto.htm
 http://www.tetsureki.com/home/library/shiryoukan/haru=note.html(かな使用版)
 防衛研究所「ハルノートと開戦」 (SECURITARIAN 2000年10月号より)
 http://www.jda.go.jp/j/library/senshi/00-10.htm

 11月26日野村吉三郎、来栖三郎両大使が国務省に招かれ、ハルから覚書(いわゆる『ハル・ノート』)が直接手渡された『ハル・ノート』の正式名称は、「合衆国及び日本国間協定の基礎概略(tentative and without commitment)」とオーラル・ステートメント。

    1 ハル4原則の無条件承認。
    2 支那・仏印よりの日本軍・警察の全面撤退
    3 三国同盟の死文化。
    4 重慶政権以外の政権の否認。

日本も参加していた九カ国条約による、中国の主権、独立、領土保全、商業の機会均等を具体的に記述していた。9条で、米国は日本にだけでなく「両国政府」が外国租界、諸権益、1901年の北清事変議定書による諸権利、治外法権を放棄するように提案していた。ハルノートには日本側の主張と米国の主張が併記されています。また「試案」であることも明記されている。しかし、当時は米国側の主張だけが報道され、現在もまたこのレトリックが使われている、との観かたが有る)

 ハルノートの内容は、これまでの日米交渉の成果を根底からくつがえして「シナ及びインドシナからの軍事力の全面撤退、汪兆銘政権の否定」等、当時の日本政府が到底承認できない要求をして、日本に全面屈服かそれとも戦争かの決断を迫ったものであった。

 これは今までの日米交渉のプロセスを全く無視した最後通牒ともみなされるものであり、米大統領の斡旋により成立した日露講和条約(明治38年)をまったく無視し、遼東半島租借権のみならず全満州からの総撤退を要求していた。これは我が国を日清・日露戦争以前に戻ることを要求する峻烈なものであった。 「甲案」には実質的譲歩としては見るべきものは少なかったにせよ、米国案に少しでも歩み寄ろうとする誠意は払われており、「乙案」は心から戦争を回避したいという東郷外相の熱意の表れであった。その東郷外相は、ハル・ノートを受け取ると和平への熱意を一挙に失い「目がくらむばかりの失望」にうたれ、木戸内大臣は万事休すと思った。戦争を回避しようとしていた多くの人々に決定的打撃を与えたのであった。

 永野軍令部総長「米国の主張に屈すれば亡国は必至とのことだが、戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は魂を喪失する民族永遠の亡国である。

 日本側がぎりぎりの譲歩で応じれば、アメリカ側が更に譲歩を迫ると言う外交策が展開された。スチムソンは「問題が終わった」、さらにハル長官は「私は手を洗った」と発言をした。要するに、交渉を成立させる意思が無かったということになろうか。

 翌朝(11.27日)、陸軍長官スチムソンは、ハルノート交付の結果を聞くために、国務長官ハルを朝一番の電話に呼び出した。ハルはスチムソンに「私はそれ(日米交渉)から手を引いた。今はもう君とノックス、陸海軍の手の中にある( I wash my hand of it. It is now in hand of your and Nocks, Army and Navy.)」と答えている。

 ハルの回答を聞いたワシントンの陸海軍の総司令部は、計画にしたがって、直ちに太平洋各地にある米軍基地に極秘の警戒警報と作戦命令を発令した。海軍作戦部長が発令した電報(機密電報二七二三三七号)の内容は「本急報を戦争警告とみなすべし。太平洋における情勢の安定を目指す日本との交渉は終了した。日本の攻撃行動は数日中に予期される。所命の防衛展開を実施せよ」であった。当然のことであるが、各部隊は作戦準備を開始し、戦闘態勢に入った。例えば、ハワイからウエーキ島に向かったハルゼー提督指揮下の空母エンタープライズでは、「本艦は戦時態勢下で行動中」との戦闘命令第1号が三十日に発令され、昼夜を問わぬ厳戒態勢と戦闘準備が命ぜられた。こうして、米陸海軍は、ハルノート交付の翌日から対日戦争態勢に入った。この事実もまた、ハルノートの性格を雄弁に物語っている。

 11月27日の連絡会議で「ハル.ノート」を最後通牒 と認め、天皇の発意により御前会議が開かれた。重臣の大多数の意見は自重論(林・阿部以外) だったが、開戦を決意した東条首相の考えを変えることは出来なかった。これは抑えられなかった海軍の汚点かも・・・。


(私論.私観)「ハル.ノート」をどう見るべきかについて

 「ハル.ノート」に対し、「アメリカが戦争回避を願ってハルノートを突きつけた」という見解があるようである。典型的な白黒逆裁定的観点であるが、近時のサヨの見方の一つでもあるようである。史実は、見てきたようにアメリカ側は対日決戦のシナリオ通りに日本が立ち往生するように運んできたと見るべきではなかろうか。もし、日本側に非があるとすれば、否応無くそのシナリオに組み込まれれていかざるを得なかったそれまでの過程にこそあるであろう。日米決戦は既に歴史の要請するところの勢いであった、とれんだいこは観る。

 次に、「ハル.ノート」がアメリカ側の最後通牒であったのか、引き続きの交渉を前提としていたのかという見方の相違があるようである。概要「外交文書においては、文書の題名や使われている用語が重要な意味を持つ。『ハル.ノート』の正式名が『合衆国及び日本国間協定の基礎概略(tentative and without commitment)』であるからして、これを最後通牒と判断した当時の日本側に責任がある」という論のようである。これに対し、「建前上『試案』と書いてはあった(吉田茂)だけで、それは形式的なものに過ぎず、誰がどう見ても内容は最後通牒であった。最後通牒は最後通牒と記すべし、というようなルールはない」とする見方がある。当然ながら後者の流れで捉えるべきであろう。



開戦決意


11月29日 宮中にて政府と重臣の懇談会が行われ、重臣たちは政府の開戦決意をやむを得ないと諒承。
12月 1日 御前会議でついに開戦-自衛戦争の開始-が決定された。

 その後、ルーズベルト大統領の天皇あて親電による局面打開が図られたが、既にハル・ノートに接したる日本では問題にならなかった。それは「マジック」によって我が国の手の内を知った米大統領による、単なる戦争回避のゼスチャーに過ぎなかった。

  



開戦経緯 補足資料
   三国同盟 支那問題 駐兵と汪政権 通商その他
日米諒解案
  4月 9日
日本-軍事上の義務はドイツが
現参戦国以外の国から攻撃
された場合のみ発生 と解釈

米国-一方を援助し他方を攻撃しない

米国は次の条件で和平を勧告
・支那独立
・日支協定に基づく日本軍の撤兵
・非併合・非賠償
・蒋介石・汪兆銘両政権の合流
・満州国承認
太平洋海空兵備の制限
物資供給の提携
通商金融の提携
平和的手段による
日本の南方資源取得を支持
日本側
最終提案 甲案
 11月 2日
条約の解釈と履行は日本政府が
決定するが拡大解釈はしない

(米国が先にドイツを攻撃しない
 限り参戦しない)

北支・蒙彊の一定地域と海南島に
一定期間駐兵(概ね25年)

他地域は和平後2年以内に撤兵

通商無差別原則が
全世界的に適用されるならば
支那でも適用に合意
ハル・ノート
 11月26日
米日英支蘭ソタイ間に
不可侵条約締結

三国同盟からの脱退・空文化

支那及び仏印からの
全兵力・警察力を撤去
満州からの即時撤兵
蒋介石政権以外の否認・不支持
通商協定の協議を開始
資金凍結の撤廃

 ハルノートに対する反応

 東條首相
 11月26日附覚書は日本に対する最後通牒である。
 この覚書は我が国としては受諾することができない。かつ米国は日本の受諾し得ざるを知って通知して来ている。
 以上のことから米国側においては既に対日戦争の決意をしているものの如くである。
 それ故いつ米国より攻撃を受けるやも知れず、十分警戒を要する。

 東郷外相
 出席者の各員総て米国の強硬態度に驚いた。軍の一部の主戦論者はほっとした気持ちがあったらしいが、
 一般には落胆の色がありありと見えた。
 米国が今迄の経緯及び一致する範囲を凡て無視し、従来執った最も強硬な態度さえ越えた要求をここに持出したのは
 明かに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、ただ日本に全面的屈服を強要するものである。
 結局長年にわたる日本の犠牲を全然無視し、極東に於ける大国の地位を捨てよと云うのである。
 これは日本の自殺と等しい

 大本営機密戦争日誌
 米の世界政策、対極東政策何等変化なし。現状維持世界観による世界制覇之なり
 =参謀本部第20班による業務日誌=

 宇垣聯合艦隊参謀長
 帝国の主張する処は一も容るる処なく、米本来の勝手なる主張に各国の希望条件さえ織込まれてあり。
 今更何の考慮や研究の必要あらん、米国をやっつける外に方法なし。
 =戦藻録 11月29日附=

 嶋田海軍大臣
 之では将来日本は大陸における特殊地位を失い、満州・支那においての投資開発はその根拠がなくなり、
 更に朝鮮の現状維持も困難となるだろう。之は政府も国民も到底受諾し得る条件ではない。(中略)
 或いは先方かた積極的行動に出る危険も考慮せねばならず、我が国としてはこのハル・ノートを
 実質的には最後通牒と諒解するの外なかった。

 パールインド代表 極東軍事裁判所判事
 真珠湾攻撃の直前に米国国務相が日本に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、
 モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえも戈をとって起ち上がったであろう

 オリバー・リットルトン 英国軍需大臣
 米国が戦争に押し込まれたというのは歴史を歪曲するのも甚だしい。
 米国があまりにひどく日本を挑発したので日本軍は真珠湾で米軍を攻撃するの止む無きに至った。
 =1944年6月20日 ロンドンでの演説=

 ロバート・クレイギー 駐日英国大使
 ハル・ノートは日本の国民感情を全く無視したもので、あれでは日本として立たざるを得なかった。
 イギリス政府が私の意見に耳を貸さなかったのは、かえすがえすも残念だ。

 太平洋艦隊司令長官 キンメル大将
 1941年12月7日(米国時間)朝の攻撃は、
 コーデルハル国務長官の11月26日の対日最後通牒に対する烈火の回答であった。

開戦に至る米側のうごき

ルーズベルト大統領は独自の考えで、11月6日ころ「6ヶ月間軍事行動を停止し、その間日支両国が和平をはかるよう提案しても良い」として、スチムソン陸軍長官の意見を求めた。スチムソン陸軍長官はフィリピンへの兵力移動は中止すべきでなくまた支那と日本とを交渉させるべきではない として反対した。 同大統領の構想は、冒頭に6ヶ月間と期限を特記していることから見ても時間稼ぎの意味が強いものであった。
スチムソン陸軍長官の日記
「我々が大きな危険にさらされる事なく、最初の発砲をするような立場に日本人をいかに追いこむか」 (how we should maneuver them into the position of firing the first shot) が米国の狙いであった。

他にも11月11日提出の国務省による暫定協会案-できるだけのことをする我々(米国)の努力を記録にとどめることをねらいとしたもので、全体を通じて米国の主張する原則からは一歩も後退せず、日本の歩みよりを求めたものや、 11月17日起草 国務省極東部による『太平洋における若干の領土と日本の艦船を交換する提案』などがあった。

ハミルトン極東部長は提案にあたり「あらゆる可能性を探求するようにとの(ハル)長官の要求に照らしてこれを進達するものであります」として、米国務省はいかにも真剣に日本との戦争回避を希望していたかのようである。
だがコーデル・ハルの回想録には、「時間を稼ぐ」ために「藁をもつかもう」としたことを物語っているかのような記述があるのである。仮にハル及び国務省当局が真に対日戦争を回避して太平洋の平和を念願していたとしても、その為に主義・原則についての自説を謙る考えはいささかもなかったことは明確であった。
開戦の詔書に
「彼は毫(すこし)も交譲の精神なく」という文言は「今や自存自衛の為蹶然起って一切の障礙を破砕するの外なきなり」と共に、開戦の直接の契機を表す詔書の眼目である。

ハルは回想録で「11月26日 野村・栗栖両大使に手交した提案(ハル・ノート)は、この最後の瞬間においても、少しでも常識が東京の軍部の心に浸透するようにとの望みをもって、我々の会談を継続するための誠実なる努力であった」と記している。
だが一方で、翌11月27日 ハルはスチムソン陸軍長官に対して「自分は日本との暫定協定を取りやめた」 さらには「私はこのことから手を洗った。今や問題は貴方及びノックス海軍長官 即ち陸海軍の掌中にある」 と語っているのである。これは一体何を意味するのか?
ハル国務長官自らが今や交渉を放棄して開戦を決意したことを明かに証拠だてるものではないのか? ハル・ノートが日本に交渉を断念させるものであることは、ハル長官以下国務省全員熟知のことであった。

ルーズベルトは英国に愛着を抱くとともにソ連にも好意的な感情を終始持ち続け、他方ドイツと日本を激しく嫌悪していた。ヒトラーの脅威から英国を救うために米国が対ドイツ戦に参加できるよう、参戦に消極的であった世論・米国議会を無理やり日本との戦争に引きずり込んだ結果であった。 根底にあった米国による対日謀略を見逃してはならない。

 
ともあれ日本は、真珠湾攻撃の戦果に狂喜しながらも戦争の前途に緊張を禁じ得なかったが、米国は真珠湾の大敗(実は大敗でもなかった)を喫しながらも、戦争突入に安堵を禁じ得なかった、という奇妙な現象が見られた。これは我が国が米国(英国)の政治的狡猾さを過少評価し、世界の変乱における自らの試練の未熟さというものを物語るものであろう。



  

投稿者:Kuu  01/09/04 Tue 18:36:13

■日本参戦の背後にソ連工作 「ハル・ノート」

米に強硬提案提示
 【ワシントン21日=前田徹】米国の対日最後通告「ハル・ノート」を作成したルーズベルト政権の財務次官、ハリー・デクスター・ホワイト氏が実はソ連スパイだったことがわかったことで、「米国の対日政策の背後にソ連工作があった」というショッキングな事実が明るみにでた。当時の日本はいずれ参戦せざるを得ない状況にあったとの見方はあるが、参戦の過程にソ連の工作があったという事実は歴史解釈の見直しを迫るものだ。

 ホワイト氏がハル・ノートの原案を作成したことは、ニューヨーク郊外にあるルーズベルト大統領記念図書館に残されたホワイト氏作成の対日強硬提案から明らかにされている。しかも、そのホワイト案をモーゲンソー財務長官がルーズベルト大統領に提案し、より穏健なハル国務長官の対日妥協案を押しのけることになったというエピソードも四五年にスタートした米議会真珠湾攻撃調査委員会で明らかになっている。

 だが、経済専門のホワイト氏がなぜ米外交を左右するほどの影響力を行使するようになり、しかも、対日強硬案を作成した意図は何だったのかという疑問が残されてきた。

 ホワイト氏とハル・ノートをソ連工作が結んでいたという解答は、VENONA資料によるスパイ活動の証明とともにソ連NKVD(人民内務委員部=後のKGB)工作員で、後のKGB高官、パブロフ氏の退役後の回顧録が埋めることになった。

 同回顧録によると、当時のソ連指導部は、日本の軍事的脅威を取り除くために米国の対日参戦を早急に進める「スノウ作戦」にとりかかっており、その作戦に最も重要な役割を果たしたのがルーズベルト政権内で最も影響力のあるホワイト氏だった。パブロフ氏はホワイト氏と四一年五月にワシントン市内のレストランで接触し、米国が日本に対し中国および満州からの撤退、さらに日本軍の所有する武器の三分の二を米国に売却しなければならないとする提案を早急に作るよう指示したという。実際、その指示どおりの強硬なハル・ノート原案が同年六月に作成されている。

 当時、米国は対日禁輸などいわゆるABCD包囲網を展開し、日本は追いつめられた状況だったが、その一方で、平和解決のための日米交渉が続けられた。また、日本側でも宣戦やむネしとの強硬意見の一方で、米との妥協を求める声もあったのである。米側の交渉当事者であるハル国務長官も対日宣戦は避けられないだろうが、まだ時期尚早とし、あの時点での強硬な提案には消極的だったことが回顧録で明らかにされている。

 そうした中、日本側でさえ驚いたほど強硬な「ハル・ノート」が提示されたことが歴史上の謎(なぞ)とされてきたが、VENONA資料などによってソ連の存在が明らかにされ、新たな歴史解釈の必要性がでてくると考えられる。
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 ホワイト氏は三四年に米財務省勤務となったあと、通貨政策専門官として頭角を現し、四一年には同省ナンバー2の次官にまで上り詰めている。戦後の世界金融システムを形作ったブレトンウッズ体制はホワイト氏が考案、創設したもので、四六年にはIMFの初代米国理事にもなっている。

 しかし、四八年にソ連スパイであることを告白したエリザベス・ベントレー氏らによる告発で米下院・非アメリカ活動委員会に召還されたが、スパイ容疑を否定したあと、三日後に心臓まひで死亡している。ホワイト氏の直接の部下だったコー氏ら二人の財務省高官も同様のスパイ容疑をかけられたあと、中国に亡命、同地で客死している。

http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9908/22/paper/today/internat/22int002.htm

 関連
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9908/22/paper/today/itimen/22iti001.htm
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 日米開戦になればソ連は対ドイツ戦(1941/6/22開始)に集中できるので確かにもっとも漁夫の利をかっさらうのはソ連ではあるが、できすぎかなぁ・・・。

http://users.goo.ne.jp/carlmaria/