42842 | 日露戦争考 |
(最新見直し2006.1.21日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこは、日露戦争は未だ総括されていないと考えている。日清戦争の場合には、極東アジアの支配権をめぐる日清の抗争であったと割り切っても問題ないように思われるが、日露戦争の場合には、その観点からだけでは真相が見えてこないと思っている。日本は、国際ユダヤの陰謀を告発し続けるロシア帝政を叩く駒として使われ、予想を上回る戦局優位で終結させたことにより、極東アジアでの以降の支配権を握った。しかし、養豚政策で太らせられた挙句、大東亜戦争に誘い込まれ召し上げられた。そういう流れとして歴史を観、日露戦争がその端緒であったと見立てている。以上を踏まえて、以下検証していくことにする。 2006.1.21日 れんだいこ拝 |
【日露開戦の前夜の政治状況】 |
桂太郎首相、元勲・元老として山県有朋、伊藤博文、松形正義、井上馨。伊藤は外交的回避を主張し、恐露論者のレッテルを貼られた。桂は、日英同盟に依拠しつつ開戦派。「サーベルを吊った幇間(たいこもち)」と陰口された。 |
【日本が対露宣戦布告する】 |
1904(明治37).1.13日、日本はロシアに最後通牒を発した。2.4日、再び御前会議を開いて交戦の議を定め、1.10日、対ロ宣戦が布告され、日露の国交は断絶した。 |
【日本の戦費調達】 |
2月、戦費調達のため、日本銀行総裁・高橋是清が欧米へ派遣され、イギリスでロスチャイルド財閥から、アメリカでクーン・ロエブ財閥から支援を受け、戦費19億円のうち8億円を調達した。(「日露戦争にヤコブ・シフ(その陰にロスチャイルドー)有り」」参照) 3.1日、戦費調達に成功した日本政府は、第9回臨時総選挙を執行し、3.18日、第20回議会を召集、臨時軍事費予算5億7600万円を成立させ、挙国支援の名の下に政府提出案をことごとく可決した。11.28日、第21議会で、軍事費追加予算7億8千万円を全院一致で承認した。 |
【戦争の陣容】 | ||||||||||||||||
日本軍は、満州軍総司令部を編成して、第一、第二、第三、第四軍、及び独立第十師団がその下に属し、総司令官き大山巌陸軍元帥、参謀総長は児玉源太郎陸軍大将が就任した。
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【戦争の経過その1、緒戦の動き】 |
5.1日、第一軍は、ロシア軍(約3万名)を撃破した。 5.5日、第二軍は遼東半島に上陸開始。兵軍を2分割し、一方は東清鉄道に沿って北上。別軍(第一師団(東京)、第三師団(名古屋)、第四師団(大坂)の兵力約3万6千名)は金州半島の南山要塞を陥落させた。 8月上旬、第一軍、第二軍、第四軍は満州の遼陽平野に迫り、「遼陽会戦」。日本軍歩兵123個大隊、騎兵35個中隊、砲兵66個中隊。対するロシア軍は歩兵181個大隊、騎兵156個中隊、砲兵67個中隊。「遼陽における勝敗の意義は、攻略的に見ても旅順要塞攻略の成否と並び日露戦争の要というべき重大事であった」。 |
【戦争の経過その2、旅順攻防戦】 |
8.7日、日本海軍陸戦重砲隊が*子山南麓の陣地から旅順港に向けて砲撃を開始した。戦艦ポルタワは沈没、ポペーダ、セワストーポリ、ペレスウエトにも命中して、それぞれの艦隊に甚大な損傷を負わせた。
8.19日、日本軍の砲兵隊が旅順要塞に向けて砲撃の火蓋を切った。二日間砲撃後、続いて日本軍5万の兵士が総攻撃を開始した。ロシア軍の機関銃がこれをなぎ倒し、日本軍は兵士1万5千800名の死傷者を出して惨敗した。この時のロシア兵の死傷は約1千500名。日本軍参謀の誰一人として、旅順要塞にどれだけの大砲、機関銃、兵力が配置されているのか、知る者は居なかった。 11.26日、第三次旅順要塞総攻撃が早朝より開始された。だが、その突撃方法はワンパターンの無理押しで、敵機関銃の猛射の前にパタパタと無念の屍を累積していった。午後になっても乃木司令部にもたらされる情報は不利を伝えるものばかりで、各師団の突撃はことごとく失敗した。第三軍の参謀本部の参謀連中の無能さが露呈した。 本来海岸の防御用に使用する巨大砲であった榴弾砲を短時間に運搬させよという児玉の発案に対して、無能参謀連中はこぞって非常識だとして反対したが、『うるさい!文句いわずにやれ』。かくして28センチ巨大砲を203高地にぶっ放した為、さしもの要塞が陥落することになった。 この間、ドイツのウィルヘルム皇帝は、ロシア軍が日本軍に苦戦しているのを見て、「ドイツにとって非常に幸運である」と大いに喜んだと伝えられている。ドイツから見て、北方の巨人の力が弱くなるのは好都合であったということであろう。この当時、ロシアとフランスが同盟を結んでおり、間接的にフランスの力も弱くなることを意味していた。 |
【戦争の経過その3、ロシア・パルチック艦隊の動き】 |
アメリカのルーズベルト大統領は、旅順要塞陥落直後、フランス大統領を通じてロシア皇帝に日本との講和を勧告している。ところが、ロシア皇帝は、「バルチック艦隊の極東派遣及び奉天に集結した数十万の勝利を確信している」と述べ、拒絶している。ルーズベルト大統領の読みは、「ロシア・バルチック艦隊と日本艦隊の戦闘での日本艦隊の勝利の確率は20%であり、日本の敗北は日本国の滅亡の悲運に遭遇することになるだろう」であった。 明治37.10.15日、リバウ軍港からロシア・パルチック艦隊(正式名称は、太平洋第二艦隊、総員1万2千785名)が出航。旗艦スワロフ、戦艦ボロジノ、オスラビヤ、アリヨール、ナワリンら戦艦8隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻、その他7隻という世界史上最大規模の遠征艦隊となった。司令長官はロジェストウエンスキー海軍少将(極東へ向けて航海中に中将に昇格)。 このパルチック艦隊の1万8千海里の航海に、イギリスが日英同盟の誼で様々な障害を設け、日本を支援している。同艦隊の最初の寄港地スペインのヴィゴ港で5日間立ち往生させた。結果的にこの5日間の遅れが日本軍に幸いした。というのも、この時乃木第三軍が旅順要塞を落としきれず困惑していたからである。イギリスは国際法の許す限りの方法でパルチック艦隊の航海を妨げるよう画策し、この間の時間つなぎで日本軍が旅順要塞陥落に成功することが出来た。 |
【戦争の経過その4、ロシア国内で「血の日曜日事件」起る】 |
1905(明治38).1.22日(1.9日)、「血の日曜日事件」。旅順要塞陥落後一週間ほどして発生した事件である。この日、ぺテルブルグの14万人の労働者とその家族が、それぞれの教会の白旗、聖像、皇帝の写真を掲げて賛美歌を歌いながら宮廷広場に向かった。ある工場で3人の労働者がクビを切られ、それに対する陳情で皇帝に請願に行く行列であった。極寒に耐えながら、ガボン神父(ロシア政府のスパイであったという説がある)を先頭に大行列が進んだ。その様は厳粛な宗教儀式のようであった。 |
【戦争の経過その4、奉天会戦、日本海海戦】 |
大山満州軍総司令官が、乃木第三軍に北進を命じ、明治38年1.15日、開始した。 |
【戦争終結】 |
1905.6.9日、米国大統領セオドア・ルーズベルトは日露両国に斡旋の労をとり、日本は小村外相、駐米大使・高平小五郎を全権委員とし、ロシア側は前蔵相ウイッテ、駐米大使ローゼンを全権として交渉に当たった。 7月、米国大統領セオドア・ルーズベルト政権の陸軍長官W・H・タフト(第27代大統領)が日本を訪れ、桂首相と会見。日本は、アメリカのフィリピン植民地化を承認。アメリカは日本の朝鮮植民地化を承認するという覚書を作成した。同覚書は、大統領の承認を得た。 8月、第二次日英同盟締結。 |
(私論.私見)