42841 | 日清戦争考 |
(最新見直し2006.3.12日)
1894(明治27)−95年、朝鮮(李氏朝鮮)を廻って日本と清国間に争いが生じ、戦争が起った。「朝鮮(李氏朝鮮)を廻る対立」とは、朝鮮を属国とみなす清国及びその内通派(事大党)と、列強のアジア侵略に対抗して朝鮮への進出をはかる日本及びその内通派(独立党)のことを云う。 1894年、朝鮮で農民の反乱である東学の乱(甲午農民戦争)がおこり、朝鮮が清に援軍をもとめると日本も居留民の保護を名目に出兵し、日清両軍の戦争がおこった。8.1日、日清両国は宣戦を布告した。戦争を指揮したのは、第一軍司令官として陸軍大将・山県有朋、第二軍司令官として陸軍大将・大山巌、海戦では浪速艦長・東郷平八郎。 近代的な軍備をもつ日本軍は、朝鮮から満州(今の中国東北区)に進出し、各地で勝利をおさめた。1895(明治28).2.12日、清国北洋艦隊水師提督・丁汝昌が降伏し、部下の除名を乞い服毒自殺した。清は降伏し、3.18日、アメリカ公使を通じて李鴻章を全権大使として講和を申し入れた。3月、下関で講和会議が開かれた。日本側は伊藤首相、陸奥外相が交渉に当たり、4.15日、下関講和条約をむすんだ。これによって、清は、1・朝鮮の独立をみとめ、2・遼東(リアオトン)半島・台湾などを日本にゆずり、3・2億両という多額の賠償金をしはらう、4・西欧列国と同一特権の通商条約の締結、5・沙市、重慶、蘇州、杭州を開市開港することになった。 戦費2億円、当時の経常収入の2.5年分に相当。臨時軍事費特別会計が創設されたが、その財源は52%が軍事国債、24%が日銀借り入れ、10%が国庫剰余金で賄われた。戦勝で植民地台湾と賠償金3億6千万円を得て金本位制を確立した。しかし、一度膨張した財政規模が元に戻ることはなかった。「帝政ロシアの脅威」に備えて富国強兵路線を更に一歩進めることになったからである。 ラフカディオ・ハーンは、次のように評した。概要「一隻の船舶も失わず、一度も敗れることなく、日本は中国の大きな力を打ち破り、新しい朝鮮を創設し、自分自身の領土を拡大し、東アジアの政治的様相を変えた。これら全てのことが、かくも政治面において脅威であり、心理面では更に驚くべきものである。日本の力は古代の信仰の力に似ている。偉大な各民族の真の力が根付いている同じその中に根付いている-つまり人種の魂の中に」。 マービン・トケイヤー氏は、著書「ユダヤ製国家日本」の中で次のように述べている。
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日清戦争の結果、日本はアジアでの覇権を確立し始め、欧米列強がこれを国際的に認知したことにより、日本の帝国主義的植民地化の動きが強まっていくことになった。 れんだいこは、日共及びその指導者・不破を滅多に褒めないが、2001.8.5日付の赤旗論文「『歴史教科書』(扶桑社)は中国にたいする侵略戦争をどう書いているか」における次の記述は分かりやすく且つ有益な観点である故に転載する。
1902年、日英同盟。日本が世界に冠たる帝国として認められたことを意味する。 |