4284113 | 南京市の解説、南京市の当時の人口について |
【南京の地勢について】 |
南京の都市の規模に触れておくと、案外と小さな街で、1937年に中国が発行した南京の地図によれば東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。南の中華門から最北の悒江門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さということになる。地理的な南京の位置は、揚子江(長江)の流れに沿った大陸部であり、その下流には上海がある。 |
【当時の南京の人口について】 | ||||||||||||||||||||||||
当時の南京の人口について中国政府による公式な記録もなく、これに代わる信頼できる統計もない。ということを前提として「南京攻略当時の人口」数を考察せねばならないが、ここでも肯定派、否定派の見解が大きく対立している。肯定派は多く、否定派は少なく推定している。 この人口推定がなぜ重要であるかというと、次に述べる大虐殺数論争と関係してくるからである。つまり、「当時の南京の人口が20万人だったとすると、30万人も殺せるわけがない」という主張になる。
「南京特別市は、南京城壁内とその周辺地域からなる南京城区(中国の都市は西欧の都市と同じように周囲に城壁をはりめぐらした中にあるので、城あるいは城市とも言う)と、行政区として南京特別市に属する近郊県城(中国の県は県都にあたる小都市も城壁に囲まれていたので県城という。六合県、江浦県、江寧県、りつ水県、高淳県、、句容市が該当する)と村を合わせた近郊区からなる」とあるので、上記の人口数字がどの辺りまでの地域のそれか知りたいところであるが分からない。 この点について、日本の上海駐在の岡本領事が1937.10.27日に広田外相に宛てた秘密の手紙の中で次のように書いている。「南京市内の公務員と軍人の家族はすでにみな避難し、人口は激減している。警察庁の調査によると、現在の人口は53万人余りであり、それらはすべて、各機関の公務員、財産を移転することができないものや現地の商売人等、とことんまで南京に居続けなければならない人たちである」。 |
【南京攻略戦時の南京の人口について】 |
問題は、陥落直前(12.12〜13日)の人口が正確には何万人であったのかということである。1937.8.15日からの南京攻略戦勃発後市民はどんどん避難をはじめていき人口推定が出来なくなるが、こうした流動的な人口に対して、肯定派、否定派の見解は大きく対立しており、次のような見解を披瀝している。 こうした極端な人口差は、度重なる爆撃と予想される南京攻撃により中国政府機関が疎開したためのようである。但し、人口は相互に流入と流失して変動していること、特に婦女子について不完全であることが認められているので、最大限50万の推定まで可能と、れんだいこは推理する。 |
【肯定派の見解】 肯定派は次のように推定している。 |
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南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方部勤務部に送付した書簡(1937年11月23日)では、「調査によれば本市の現在の人口は約五〇余万である。将来は、およそ二〇万人と予想される難民のため食料送付が必要である」という下りがある。丁度事件の1ケ月前の南京の人口数が50余万人とされていることになる。その後1ケ月の間に人口流出があったと思われるので、南京陥落時には推定20万人〜最高50万人ということが云えそうだ。但し、流入ということも考えられる。日本軍の侵略により周辺の農村から南京の安全区目指して沢山の人が避難してきたことが考えられる。こう考えれば、30万人虐殺は不可能な数字ではないということになる。(れんだいこコメント、しかしこの場合はジェノサイドということになろう) 宇都宮大学の笠原教授は次のように云っている。日中全面戦争勃発前の南京城区の人口は100万以上であったが、日本海軍機の連日の空襲のために同区の人口は激減していき、37年11月初旬には
50万近くになっていた。同11月23日、南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤
務部に送付した書簡には、「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約
50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記されている。11月下旬には、国民政府はすでに首都遷都を宣布しており(11月20
日)、中支那方面軍の南京進撃もすでに始まっていた段階で、南京から遠隔の
地に避難したい階層は基本的に脱出を終了していた。その後、南京城区から安全と思われた近郊農村に避難していった市民も多かったが、いっぽうでは、南京防衛軍の「清野作戦」の犠牲になった城壁付近の膨大な農民が難民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。
このように笠原教授も南京の人口を、市民40−50万人、軍関係者15
万人、合計55−65万人としており、孫氏の60−70万人とだいたい一致
しています。この人口推計を、あるいは「犠牲者30万人」説を補強するため、増量しているのではないかと思う方がおられるかも知れません。しかし、孫氏は犠牲
者数の誇張などは不必要、無意味であると戒め、事実を尊重する姿勢をこう示
しています。 「数十万人の軍人、市民が虐殺されたのは中国人の大恥辱であることは指摘
されなければならないが、このような屈辱を誇張する必要はない。誇張しても、中国人民は栄光も何も得られない。世界には無垢の人々が何人虐殺されれば、
戦犯としての裁判が実施されるかというような法律規定はない。 |
【否定派の見解】 否定派は次のように推定している。 |
南京の人口問題に関して肯定派の資料が弱いのに対して、否定派は次のような裏付けをして20万人から25万人というのが正確のようであると推定している。 |
(私論.私見)