4284142 兵士証言、日誌資料に纏わるいかがわしさについて

 (最新見直し2006.10.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 急遽思いつくままに記す。南京虐殺60ヵ年全国連絡会ホームページ」元日本軍兵士の証言を参照し、コメント付けていく。その理由は、この種の事件の解明の為の一級資料には到底成りえないことを証するためである。れんだいこには参考資料としての意義としてなら価値があるように思える。参考資料では否定派と論を交えるには不十分であろう。が、それで良しとしてきた経過があり、その例証が同サイトの「元日本軍兵士の証言」であり、早急に一級資料の発掘が望まれるという提言として以下分析するれんだいこコメントは赤枠で示すことにする。

 ところで、一級資料とは何か、参考資料とは何かについてコメントしておく。一級資料とは、まず疑いないという史実を書き記した貴重資料のことであり、当然当人が体験、経験したことを書き記しているのが望ましい。但し、仮に当人のそれであっても万全ではない。同じ事態、事象に対する捉え方、表現も又銘々によって異なるからである。こう云う場合最も正確に伝えていると思われる者の証言を更に選定仕分けしていく必要がある。一級資料とはそれほど珍しい困難なものである。次に、参考資料とは、伝聞、推測が混じっているものであるが、書き記された内容が正確と思われる貴重資料のことを云う。

 
この区別から以下の証言を見るのに、なるほど南京事件の最中に当地に居たことのある兵士の証言集ではあるが、いわばただそれだけであり、それぞれが意味のある証言では有るが、それらの証言を照合させていくと整合しないという証言となっている。むしろ南京大虐殺を少しも証言していないという変なことになっていることに気づくであろう。「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」が「元日本軍兵士の証言」として採録するからには、もっとましなものがないのだろうかと却って不安になるのがオチであろう。しかし、不思議なものでれんだいこが以下のように解析して見せてもまだピンとこない者も居るようである。この手合いには漬ける薬が無い。

 2005.5.21日現在、リンク先の南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」元日本軍兵士の証言が開かない。当方のパソコンの調子の不良のせいかも知れないが、閉鎖されているのなら問題だ。何の為に元日本軍兵士の証言を公開していたのだろう。反戦平和の願いを込めてのものだとしたら、それを閉鎖してどうするのだ。何となく気持ち悪いので意見しておく。

 2005.5.21日再編集 れんだいこ拝


【「南京大虐殺60カ年全国連絡会」とは】
 2005.5.22日現在、「南京大虐殺60カ年全国連絡会」サイトがでてこない。そこで検索かけると、「戦争の真実を語り継ぐリンク集」の中で次のように紹介されている。これを転載する。但し、ここでも「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」のサイトが開かない。こうなると閉鎖されているのだろう。
 1997年は、日本が中国を侵略した1937年の盧溝橋事件から60カ年、そして中国侵略戦争の中でも、短期間に無辜の市民や武器を放棄した中国軍捕虜に対して、集団虐殺、掠奪、放火、強姦をおこなった南京大虐殺事件60カ年の年でした。1996年以前から日本各地で南京大虐殺絵画展、南京証言集会、731証言集会、毒ガス展を開催してきた各地の実行委員会は、市民への歴史の認識を深めるための運動を展開してきましたが、南京大虐殺60カ年を期して、中国侵略と南京大虐殺の歴史的事実に対する理解をさらに広範な市民に広めていくために、1997年1月25日、「南京大虐殺60カ年全国連絡会」を結成しました。・・・同サイトより。

(私論.私見) 「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」サイト閉鎖考

 「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」サイトは何故閉鎖されているのであるか。反戦平和を願う者が、それを閉じてどうするのだ。何を考えているのだ。せめて、れんだいこが知らないだけかも知れぬが、閉鎖理由を告知してからすべきであろう。告知せず閉鎖したとしたら、それこそ問題だ。れんだいこは特に以下の文をサイトアップしている。事象を知らぬ者が検証しようがないではないか。

 2006.9.26日 れんだいこ拝


【海軍第3艦隊、第11戦隊兵士の口演証言】
 1997年12月13日、めもりある南京1937inおおさかにて(司会:松岡環)、「海軍第3艦隊、第11戦隊兵士の口演証言」が為されている。れんだいこがこれを解析する。
司会者  南京に実際にいらっしゃった時の話をお聞かせ下さい。
元兵士  私が南京にいったのは1937年10月18日頃から12月25日頃間で、上海を起点として、南京攻略のための長江の遡航部隊にいました。それは第3艦隊第11戦隊第24駆逐隊のある船の一員として乗り込んでいたわけであります。
司会者  12月13日に南京にお入りになったと聞いておりますが…
元兵士  朝から南京は今日陥ちるという情報がありましたけれども私どもは南京のすぐ近くの浦口だったかな、そのあたりで待機していながら南京の陸上の砲台との艦砲射撃の交戦で、その頃の日本の海軍の艦砲射撃はものすごく正確で威力があったですからあまり時間がかからなくて砲台は沈黙しました。

 その後、砲撃戦とか戦闘状態は終わっていたのですが、上流から中国人らしい死体を整然と積んだ筏が三個か五個流れて来ました。死体の積み方があまりにも整然としていたので怪しいと言う事で、中になにか変造物があって何かが隠されて、流されているという予測のもとに全員が小銃で、目標は目前ですから腰だめで撃って撃って撃ちまくったような状態がしばらく続きました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 「上流から中国人らしい死体を整然と積んだ筏が三個か五個流れて来ました」とある死体は、これを事実として認めても日本軍の仕業だろうか疑問がある。中国軍の仕業とすると内戦の死者ということになるのだろうか。とすれば、内戦時の死者がかなりあったということになるのであろうか。史実は、「南京城にたいする攻撃は、12月10日から開始され、13日には日本軍の手中におちた。国民政府は漢口に逃げのびていた。そしてその日から、日本兵は捕虜の虐殺をはじめた」とあり、この時点で死体の片づけが始まるには早過ぎる。元兵士は、「12月13日に南京にお入りになったと聞いておりますが…」とあるから、12.13日の目撃証言であることになるが、いきなりかような虐殺証言が出ていること自体日程的に早すぎる気がするが、私の解釈に間違いがあるのだろうか。


司会者  腰だめというのは?
元兵士  特別に目で照準するのではなくおおよその目標が目前にあるのだから、手で支えながら腰に付けたまま発射するのを腰だめといいます。
司会者  先ほど死体が整然ととおっしゃいましたが、どのくらいの高さで?
元兵士  それはね、やはり1メートル半か2メートルくらいの高さであったと思います。あまりにも整然と積まれているということが腑に落ちない。何故そんなに絵に描いたようにがっちりといわゆる幾何学的に積み上げられたかということで、その中になにか隠されているという予測をもって射撃したのです。
司会者   南京市内には、城内にはお入りになりましたか?
元兵士  ちょうど南京が陥落したと同時に中山埠頭の沖合、沖合といっても川幅が1キロメートルかそこらの真ん中あたりですから、そこへ停泊して、17日南京の入場式があるということで各船からいわゆる陸戦隊を送り出して私どもは中山埠頭にランチで上陸したわけですが、それから先は徒歩で中山北路を歩きながら江門の厳重に積み上げられた土嚢のほんの一部からくぐりぬけて中に入ったわけです。
司会者  土嚢を積み上げてるということはそれは戦闘に際して日本軍の侵入を防ぐというためのものですか?
元兵士  とてつもない大きな城門の開口部があるのですが、ほとんどそれは土嚢が積み上げられていて中にはいることはできないけれども、わずかに人間が通れる隙間が片方、城外から見て右側の方に出入りができる程度の開口部が残されていました。そこから入って入場式の閲兵がある場所にさらに何百メートルかわからないでそこへいって待機した。その間にあたり近所の小公園、ちょっとした広場、あるいはテニスコートだったかもしれませんが、そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました。その人々は中国兵かあるいは市民の方かだれかさっぱりわかりませんが、裸で殺されている人、あるいは数珠つなぎの人、縄でつながれて数人ずつつなぎ合わせたものを射殺、あるいは銃剣で刺したあとが物々しく残っておりました。また積み上げられた中には裸で死んでいる。裸の死体はどうしてできたのかと思うんですが、たくさんありました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 12.17日に南京入場した時点で、「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」とあるが、それほど早く死体の処理に当たっていたのであろうか。それと、この証言に拠れば市民の目に触れるような公開であちこちに死体が晒されていたということになる。「山のように積む」理由も良く分からない。統治上得策と思えないこういうやり方をするであろうか。なお、この時点の死体は中国兵に限られているのだろうか、市民虐殺もこの時既に行われており、かように放置されていたということなのだろうか。 あちこちに公開されていたのなら、「国際委員会」メンバーの日記に記されているのだろうか。


司会者  17日の入場式が終わったあとも城内にとどまられたのですか?
元兵士  17日の入場式が終わった時点で船にもどりました。
司会者  艦に戻られてからどうされましたか?
元兵士  17日のうちに鑑(艦?)に戻って、その翌日あたりから毎日毎日トラックで捕虜とも中国人ともつかない人々を運んで来ては、中山埠頭から川のなかへ追い落とす。それを機関銃でもって射殺するということが朝から晩まで繰り返し繰り返し、トラックで積んで来る度にそういうことがおこっていました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 「トラックで捕虜とも中国人ともつかない人々を運んで来ては、中山埠頭から川のなかへ追い落とす。それを機関銃でもって射殺する」とは、かなり乱暴な虐殺の仕方であるが、どうやって川の中へ追い落としたのだろうか。あまりにも馬鹿げているように思えるが、私の理解がおかしいのだろうか。


司会者  肉眼で見えたのですか? 
元兵士  そうです。肉眼でも数百メートルしかないのでよく見えるが、私たちは見張りについていたので見張り用の望遠鏡で手に取るようにそれは見えました。
司会者  その御覧になった様子をくわしく話していただけますか?
元兵士   そうですね。なんといいますかね。運んで来た人を川に追い落としてそれを銃撃する。機関銃を撃ちまくるのだけれどもやはり川に潜って逃げようとするのですが、やがて息が詰まって浮き上がって来る、又それを撃たれるという状態が続いて行くし、撃たれた人はその場で沈むかあるいは川の流れにのって下流に向かって流されていくというような状態が続いていました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 「運んで来た人を川に追い落としてそれを銃撃する」、「川に潜って逃げようとするのですが、やがて息が詰まって浮き上がって来る、又それを撃たれるという状態が続いて行く」とは、リアル過ぎて却って信用置けない。当時の日本軍がかような稚拙な虐殺を果たしてしたのだろうか。


司会者  さきほど中国の市民の方か兵隊の方かわからないとおっしゃったけれど服装とか色とかわかりますか?
元兵士  それは白い服だったり黒っぽい服だったり、服装でもって前に兵隊であったかどうかは見分けられないようでした。
司会者

 トラックに積まれて来たおよその人数は?ずっと見てられたとおっしゃっていましたが。

元兵士  人数はまああの頃のトラックですから、トラックに積んだ状態を数えたわけではないですが二十人とか三十人とかあったと思います。一番疑問に思うのは、なぜトラックに運ばれて殺される所まで来たのかということ。私が思うにはなんらかの作業を命じられたか、何らかの使役に使う人々をどこかに連れて行くということしか想像できないのですが。そうでなければ途中でトラックから逃げるなり、あるいはそこまで来て殺されなくてももっと他にも殺される場所はあったと思いますけどね。何らかのそういった状態でだまされて連れてこられたとしか思えません。

 またそういったことが毎日のように続いていたのですが、たまには夜になると何かうごめくように叫ぶようにわいわいと炎が揺れて、やはりよく見れば人間が焼き殺されているという状態も見ました。これはまた翌日火事場の焼け跡のように焼けぼっくりのように人間らしい人々が黒こげになって倒れているのが望遠鏡ではよく見えました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 概要「トラックに収容された人数が二十人とか三十人」とは少なすぎる気がする。「そういったことが毎日のように続いていたのですが、たまには夜になると何かうごめくように叫ぶようにわいわいと炎が揺れて、やはりよく見れば人間が焼き殺されているという状態も見ました」、これは既に小説的発言である。夜になって生きたままらしい中国人が焼殺されているということになるが、話が出来すぎていやしないか。


司会者  それは人間の形をした焼きこげたあれですか?はっきりと見えましたか?
元兵士   そうですね。人間の形としか思えない。そんなとこに他のものがあろうはずはないのですが。それにまた揚子江という川は毎日毎日水か減ってきます。減水期なので、前に殺された人々が水が減ってくると共に岸辺に人間の形が泥をかぶってあらわれてくるという、そのようなことがありました。
司会者  それは岸辺にいっぱいあるのですか?
元兵士  岸辺に折り重なってそういう状態がある。水が減ってくるとそういう状態があらわれてきた。それをまた片付けている中国の人々も目撃できました。
司会者  片付けていると言いますと、死体を押し流すのですか?それとも引き上げるのですか?
元兵士  なんか穴を掘って引っ張って行くかな…首に縄をつけられたかどこにつけられたかよく分かりませんが、くぽみを作ってそこに引きずり込んで行く。そういうことが見えました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 後で出てくるが、元兵士は12.25日までしか南京にいない。12.17日以降の出来事とも語っている。中国人は、それほど手早く、揚子江に沈められた遺体の埋葬作業に着手し得たのだろうか、疑問を禁じえない。


司会者  死体の作業をしている人達は何人くらいだったのでしょう?
元兵士  何人くらいでしょうかねえ。そんなもの七、八人くらいでやっていたと思いますけど。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 何と、死体の引き上げから埋葬を僅か「七、八人くらいでやっていた」と「思う」と云う。常識的には相当の人数を要するように思えるがどうなんだろう。


司会者  それを御覧になったのは?
元兵士  だいたい17日の後ですね。それ以前入城までに目撃されなかったと記憶しています。私の見た南京大虐殺とは17日から後のことです。
司会者  それで連日日本兵が銃殺するのを目撃されたのですか?何日ぐらい続いたのですか?
元兵士   私が25日ごろまでそこにおったのだからね。その間は続いていたと思います。27日ごろを最後に佐世保に帰ったことになります。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 概要「連日、日本兵が銃殺されるのを目撃」という重要な決定的な証言が為されているが、何日ぐらい続いたのですか?の問いに、「25日ごろまでそこにおったのだからね。その間は続いていたと思います」となる。末尾が「思います」では一級資料にならない。最も大事な証言箇所なのだから、極力正確精緻に答える必要があるのではないのか。


司会者  そしたら見張りについていらっしゃるのが毎日でしたか? 
元兵士  それはだいたい一日に二時間くらいです。翌日また時間がかわった形で毎日そのように見張りについていました。見張りというのは、機関兵とか他の兵士は上がって来ない。水兵とかいわゆる兵科に属する兵隊が見張りに立つわけです。だから必ず一日に一回、時には二回はまわってくるわけですね。
司会者  その間見張りについているときにずっと虐殺を目撃されたわけですか?
元兵士   そうですね。だいたいそれは毎日続いていました。まあ最初のトラックがついてどんどんと次々と送られてくるわけではないですが、だいたい一日中そのように時間をおいてはそういう銃撃のような殺人行為、大虐殺は続いていました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここで、艦の上からの「見張り」の際の目撃証言であるということが明かされている。概要「だいたいそれは毎日続いていました。銃撃のような殺人行為、大虐殺は続いていました」もどうりで頼りない。これでは一級資料になり得ない。


司会者  他の同僚が見張りについている間も中国の捕虜、民衆・市民の虐殺があったとお聞きなりましたか?
元兵士   そうです。見張りに立つのが私どもだからよその科の兵隊も「どらどらおれにも見せろ」と見に来るわけです。そう簡単にだれでも見れるという状況でないので、好奇心が手伝って見に来たと思います。
司会者  当時そのような光景をごらんになって、又ご自分でも銃を握られて中国の民衆又兵士、中国人に対してどのような気持ちを持っていらっしゃいましたか? 
元兵士  当時はね、私どもは、日本人はほとんどですが、天皇のために死ぬということ、天皇に命を捧げることを最高の道徳として生きて来たわけです。そのような教育をこどもの頃からされて、私も18,9歳若い頃すでに軍国少年となってしまったわけですね。だから徴兵検査まで待とうと待つまいと男と生まれれば必ず兵隊に行くとということになっていましたから、ならば自分で選べる間に行きたいと、そういうことで海軍を志願したわけです。
司会者

 そうして60年目の今、南京大虐殺の日にあたります今日証言していただいたその思いですね、お考えを教えて下さい。

元兵士  60年ぶりにこうしてここにチャンスをいただけて大変感謝しているのですが。これまでにこういうチャンスに私はなかなか巡り合わなかったということです。常にね、このような事件があったこと、このようなことについては日本人として深く反省しているわけです。しかし今日、南京大虐殺はなかった。あるいは従軍慰安婦はなかったと言う人々はどういう人かということです。つまり日本国憲法をなしくずしに解釈を変えて、今日までに大きな軍隊を作り上げて、再軍備はすでに出来上がったということです。

 しかも、それがアメリカの目下の同盟者としてアメリカにくみする戦争の用意が着々と進んでいると言う事。新しい安保条約・新ガイドラインの下にアメリカが起こす戦争には自動的に日本が引っ張り込まれると言う事。こういう状態があれば、またしても南京大虐殺に似たようなことがおこるのではと考えられます。歴史の真実を明らかにして、これをちゃんと自分で確認できる状態の中でなければ、新しい反省の下に平和な世界、我々の家庭自身も築きあげることは出来ない。そういう意味から本日ここに証言に立たせていただきました。
司会者  どうもありがとうございました。

(私論.私見) (れんだいこコメント)

 元兵士は、いつでも証言できただろうに「これまでにこういうチャンスに私はなかなか巡り合わなかったということです」と云うが、 1997年12月13日の、めもりある南京1937inおおさかにて初めて為されねばならないほど、それほどこの証言を為す事に困難があっただろうか。

 よく聞いてみると、「アメリカの目下の同盟者としてアメリカにくみする戦争の用意が着々と進んでいる」という観点を披瀝している。これは、共産党独特のそれである。これでは、不戦の誓いと謝罪による歴史的責任を果たさんことを強調せんが為に政治的発言を為していると見られても仕方なかろう。「お里が知れる」とはこのことだろう。


【第16師団38聯隊6中隊(82歳)兵士の口演証言】

 1997年10月10日〜12日、南京大虐殺情報ホットライン・大阪にて、第16師団38聯隊6中隊(82歳)兵士の口演証言」が為されている。れんだいこがこれを解析する。  

 歩兵第38聯隊(1〜18のうちの)第6中隊に所属していました。私は昭和10年から12年まで軍隊にいて、そのまま引き続き現役延期で行きました。現役延期は昭和12年8月23日で、その時に現役そのまま延長しました。それで9月7日に大阪港を出発して、9月13日に塘沽上陸になっている。でもこれは記録の間違いで、大阪港出発ではなくて9月7日は大阪の堂島のビルに泊まっていてました。9月13日塘沽上陸は間違いありません。それから北支の戦闘ですね、これが石家荘までずーっと続くんですが、その細かい各地の戦闘はありますけど、おいといて、それから石家荘が終わって、大連港を11月10日に出発して、許保鎮で降りたんやと思います。

 それから「りゅうほちん」の戦闘に参加、「福山けん」の戦闘に参加、常熟といろいろあって、その次、ひまや港、大鎮港……(記録を見ながら語る)……まあ、兵隊やからどこ通ってるのか、土地の名前もわからなかった。昼も夜もない、雨も風もない、そんなふうなむちゃくちゃな戦争やったんやなあ。それで、憶えているのは、それまでに無錫へ行っているのは憶えている。おそらく12月上旬ですな。それから南京城入城です。これは12月14日。

 南京に入ったのは、この記録では12月15日になっているが、旗が立ててあったのを憶えているから12月14日。南京の東北の城門やったと思うけど、大大砲でぼんぼん撃って、そして、私らが足場をつくってかけ登った。城門の横を撃ったのは見ててわかった。日本軍が入った折りは、一人ぐらいしっか居てなかった。城門に入った時、中国人の兵隊の死体を14から15人見た。それは城門の外で、内は10人もいたなかった。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 この兵士をBとして先の元兵士をAとするならば、証言が大きく齟齬していることになる。A元兵士は、12.17日に南京入場した時点で、「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」と証言しているが、B兵士は12.14日付ではあるが、「城門に入った時、中国人の兵隊の死体を14から15人見た。それは城門の外で、内は10人もいたなかった」と云う。この両証言をどちらとも真実とすると、12.14日以降から12.17日までの間に「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」とあるような事態が現出したことになるが、戦闘は日本軍の完全勝利で既に終わっているのであり、日本軍は勝利後に左様な大量虐殺を本当に為したのであろうか。

 城門の名前は(あの折りは憶えていたのだが今は、)憶えていないが、とにかく紫金山の山裾で、門に入るときは民家はなかった。南京に入ってすぐ西を向いてか、南か、どの方向に行ったのかちょっと記憶にない。この町中を歩く折りに、中国兵は五十や百名ではない、ものすごい数でした。おそらく千名位の人間が倒れていた。折り重なる程でもないけど、死体を右、左とよけながら歩いた。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 B兵士は、今度は一転して、場所を定かでないと特定せぬままおびただしい死者が倒れていたと証言しているが、問題が無い訳ではない。先のA元兵士は、「そこに必ずと言っていいほど山のように積まれた遺体がありました」と云っているのに、B証言は「おそらく千名位の人間が倒れていた。折り重なる程でもないけど」と云う。これは明らかに内容が違うが、その双方の場合があったと、ないしは見た場所が違うとして済ませられることであろうか。どちらかの証言が相違しており、あるいは双方とも不正な証言であると考える余地があるのではなかろうか。

 道路の広さは、おそらく10〜15メートルくらいの広い道でした。二百から三百メートルの距離。これは奈良の聯隊の人は皆知っていると思います。当時は22歳の末頃、現在は82歳やからそれくらいの歳から90歳くらいの人は一緒に行っていると思います。兵隊同士では、血が出ていなかったから、毒ガスちゃうかと話していた。誰もいなかったのに、目の前でざーっと死んでいて驚いた。おそらく千名くらいと思っています。その死体は氷のように冷たかったのを憶えています。だから2,3日前の爆撃かと思う。南京を爆撃したというようなことも聞いていた。人によっては、内輪でもめて、中国兵が毒ガスをまいたんちゃうかという話があったけれどもそこのところは証拠もない。いまだに不思議。でも、日本の飛行機かなあと思う。しかし、毒ガスとしたら、自分たちが通った時に被害を受けるはずです。毒ガスでもきつくなったのかどうかいまだにわからない。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 
B兵士のこの下りの証言は、むしろ虐殺なかった論でさえあろう。「兵隊同士では、血が出ていなかったから、毒ガスちゃうかと話していた」とある。「人によっては、内輪でもめて、中国兵が毒ガスをまいたんちゃうかという話があったけれどもそこのところは証拠もない」とも云う。日本軍と中国軍の戦闘による死者数がそれほどでもなかったということを「内輪もめか、毒ガスか、南京爆撃による死者」ではないかと云う。してみれば、B兵士のこの証言は、むしろ「虐殺無かった論」の側が採用すべき証言ではなかろうかということにさえなる。

 その晩は南京の北の方で泊まった。こういうことが書いてある。12月16日、南京東地区掃蕩戦参加。この南京の城内が済んだんで、その東地区の掃蕩戦参加と書いてあるけど、これは私の中隊やなしに他の中隊やと思う。今に見ているのは「軍歴簿」で、聯隊本部からの指示などが書いてあると思います。食料は続かん場合が多かったから、みんな適当にその付近にある豚とか鶏とか、中国の人が飼っていたものを食べた記憶がある。中国の人は逃げた後で一人も残っていなかった。軍歴簿の他に当時のことがわかる物は持っていない。昭和14年8月に奈良に帰ったとき、憲兵隊が我々を並ばせて、中国から持って帰った物を集めていたと思います。(軍歴簿を見せていただきたいこととお伺いしたいことを言ったが、快く承諾された)
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 B兵士のこの下りの証言もむしろ「虐殺無かった論」を云っているに等しい。「食料は続かん場合が多かったから、みんな適当にその付近にある豚とか鶏とか、中国の人が飼っていたものを食べた記憶がある。中国の人は逃げた後で一人も残っていなかった」と云う。案外これが実際であったのではなかろうか。付近にある食糧を調達したのであり、逃げた後の中国人の家屋から調達したとも云う。ここには婦女の残忍な暴行シーンも略奪の様子もない。「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」の「元日本軍兵士の証言」の巻頭二番目の証言には不似合い不適切な話ではなかろうか。

【国崎支隊(歩兵第9旅団司令部)(83歳)】
 1997年10月10日〜12日、南京大虐殺情報ホットライン・大阪にて、「国崎支隊(歩兵第9旅団司令部)(83歳)」が為されている。れんだいこがこれを解析する。   
 私は大正3年生まれで、今年83歳になります。本籍は広島県で広島の第5師団(師団長・板垣征四郎)に入隊しまして、“北支長城作戦"に参加。その後、第5師団に国崎 登少将を長とする、国崎支隊が出来てそこに配属されて南京攻略戦に参加しました。国崎支隊は福山の歩兵第41連隊と久留米の独立山砲第3連隊が、主力でした。私は当時歩兵の軍曹で、分隊長でした。昭和12年11月5日、上海戦線の膠着(こうちゃく)状態を打開するために、第10軍(柳川平助中将)の一翼として、杭州湾に敵前上陸しましたよ。上海上空に「皇軍100万杭州湾に上陸す」というアドバルーンが揚がった有名な戦争です。

 その後、あの、蒋介石の中央軍を追って、大きい戦いでは“湖州戦"をやって南京へと攻略したわけです。私らの属した国崎支隊は南京の上流の“石馬河"というところで渡河作戦を行い、浦口を攻略して、蒋介石軍の退路遮断を行いました。南京が落城したのは12月13日、それで、17日に“入城式”をやったわけですが、国崎支隊はそのとき南京へ入って、その年の12月30日に南京の下関を出るまでの12月13日~12月30日の間、南京に居ったのです。

 私たちの分隊は中山路の難民区の近くに駐留しておりました。そこで“占領掃除"といって死体の整理や壕を埋めたり、交通路を整理する作業にあたりました。私たち殺したり、或いは殺されている現場を見たりしたことはありません。しかし、死体はたくさんありました。城内で死んでるのは、大部分は飛行機による爆撃または砲撃による死者でした。一般住民も死んどりましたし、蒋介石軍の兵隊もあったし、なかには、日本軍の兵士の死体もありました。死体は壕に埋めて、道を整理しました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 この兵士をCとすると、C兵士は、12.17日に南京に入城するまで「私たち殺したり、或いは殺されている現場を見たりしたことはありません」と云い、入城後に概要「一般住民、中国兵の死体がたくさんありました」と証言しているものの「南京爆撃または砲撃による死者」と推定している。これでは「南京大虐殺」の証言にはなり得ない。

 なお、「城内で死んでるのは」とあり、B兵士の「城門に入った時、中国人の兵隊の死体を14から15人見た。それは城門の外で、内は10人もいたなかった」証言矛盾している。それとも「城内」の捉え方の範囲が違っているのだろうか。

 隊員数から限度がありますから、私たちの分隊では数十人位、整理したでしょうか。そりゃ、南京には五個師団もおりましたし、駐留している区域も決まってましたから、全体からみたら、死人は相当な数になると思いますよ。全体からみたら何万人にもなるでしょう。戦さですから、爆撃とかやむを得ないです。そう言うことが、あったのは事実と思います。しかし30万ということは絶対にない。どういう証拠があるんですか? 30万も死体があれば整理するのに大変なことなんですわ。私ら処理した体験から30万は絶対ない。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 
「全体からみたら、死人は相当な数になると思いますよ。全体からみたら何万人にもなるでしょう」は伝聞推測であるから一級証言にはならない。むしろ、この証言を読めば、「しかし30万ということは絶対にない。どういう証拠があるんですか? 30万も死体があれば整理するのに大変なことなんですわ。私ら処理した体験から30万は絶対ない」の方に力点が置かれていることが分かる。

 してみれば、C兵士の証言は大虐殺否定論を補強していることになる。「南京虐殺60ヵ年全国連絡会ホームページ」は、「元日本軍兵士の証言」を採録するに当たり、自ら不都合な証言を選択しているという不思議さが又も見える。それとも基本的に読解力がないのだろうか。

 私たちが駐留しておった中山路の近くに難民区がありまして、20万の住民を収容して糧食を与えて保護しとりましたよ。憲兵隊が、軍人、軍属の出入りを厳重に警戒しておりました。こいうことも、堂々と言ってもらいたいですね。かっての日本軍は武士道の精神を持っとったんです。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここも同様であり、C兵士は、概要「難民区保護に当たっては、憲兵隊が軍人、軍属の出入りを厳重に警戒しており」、「日本軍は武士道の精神を持って20万の住民を収容して糧食を与えて保護しとりましたよ」という文意になる。これのどこが気に入られて、「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」では「元日本軍兵士の証言」として採用しているのだろう。

 12月30日に下関を出発して、正月に青島(チンタオ)に帰り第5師団に復帰しました。その後、曹長になりましてね。陸軍士官学校を出て任官して、最後は「満州」の部隊へ行きました。昭和19年8月の終わりに、関東軍直属の機動兵団が出来ました。“セイシン奇襲部隊です。空中艦隊によって、モスクワへ突入して、ソ連の死命を制するために訓練していた特攻隊なんですよ。それで、昭和31年までソ連に抑留されて帰ってきた者です。

第16師団京都歩兵9連隊第7中隊(80歳)
 1997年10月10日〜12日、南京大虐殺情報ホットライン・大阪にて、第16師団京都歩兵9連隊第7中隊(80歳)」が為されている。れんだいこがこれを解析する。     
 私は昭和11年1月召集されました。16師団京都歩兵9連隊(片桐部隊)第7中隊第2分隊です。(内地の訓練では)伏見の藤の森の兵舎を朝8時頃出て、、滋賀県饗庭野に昼頃着きました。途中どこどこに敵がいる、と演習しもって歩いたんです。その年の盆に宇治の火薬庫の爆発が起こりました。日本を発ったのは翌年の5月頃です。

 中国へ行った頃は上等兵でした。最初に上陸したのは天津で、そこらで銃砲が聞こえてました。真暗で、水を汲みにいくのも難儀しました。天津で初めて斥候に行き、20歳くらいの兵隊をつかまえてきて調べました。つかまえてきた者が殺せというので、いやだと思っても鉄砲の先に剣付けて突きました。なかなか突けないでいると、皆がまわりで見てて、そんなもん、どうして突けん、と言う。ええい、何くそ、と思って腹から力まかせに突くと、剣(先)が後(背中)から出まして、突かれた者が、ひゆっと後を見ました。その見た顔が何ともいえない顔で、こんなこと、もうかなわんなと思いました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 この兵士をDとすると、D兵士は貴重な虐殺シーンを証言している。天津で掴まえた中国兵を突いて殺したと証言している。但し、これは南京ではないということと、大虐殺シーンではないということと、「こんなこと、もうかなわんなと思いました」と述べているところからすれば、むしろ好んで殺戮におよぶようなことはなかったということを証言していることになる。

 つまり、ここでも、
これのどこが気に入られて、「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」では「元日本軍兵士の証言」として採用しているのだろう、ということになる。

 天津から済南へ行き、南京までずっと歩いていきました。16貫ほどの背嚢しよって、鉄砲弾薬持って、1日15、6里くらい歩いたんです。毎日、歩きながら戦闘していました。南京へは中山門から入りました。中山陵のあたりから4里まど離れたところから、重砲隊が前もって南京へ重砲を撃ち込んだんです。中山門の外の堀にはたくさんの死体がありました。想像ですが、門から出て逃げるところを撃たれたのでしょう。門の外から100〜150メートルほど離れたとこに陣地を張って、軽機関銃とかを持って伏せ、門から出てくるところをめがけ撃つんです。中山門から兵や民間人が逃げるのも見ました。中山門までは私らが先だったのが、そこで交替になり、福知山20連隊の後かち南京へ入りました。南京城内では、何かないか調べて討伐してました。便衣隊が隠れてないか、そこらの銀行や店を一軒一軒調べたんです。小隊で行って、分隊に分かれました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 D兵士の南京入城時の証言は、「中山門の外の堀にはたくさんの死体がありました」とあるものの、日本軍の重砲攻撃による死者ないしは軽機関銃によるものと推測しているだけで現認証言ではない。B兵士が毒ガス説を述べているのに対し、重砲ないしは軽機関銃説を主張していることになるが、こうなると推測でしかなかろう。

 続いて、「中山門から兵や民間人が逃げるのも見ました」とあるこの表現は、D兵士の部隊では、逃げる中国兵や民間人を見過ごしていたとも受け取ることが出来る。入城後は便衣隊の摘発に向かったと云う。

 一小隊4分隊(一分隊に12、3人)です。あやしい素振りを見せた中国人はつかまえてきて、中隊長とか、上の人にわたしていろいろきくんです。よっぽど調べんなん者は連隊にもっていったりね。(あやしい人は)ひとりか二人見ただけです。他の部隊が他の門から入ってるから、私らは城内の東部の南角4分の1くらいの範囲を調べました。中隊本部が城内のどこにあったかはわかりません。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここで便衣兵を摘発した際の様子が述べられているが、「あやしい素振りを見せた中国人はつかまえてきて、中隊長とか、上の人にわたしていろいろきくんです。よっぽど調べんなん者は連隊にもっていったりね。(あやしい人は)ひとりか二人見ただけです」とあるこの証言は、極めて秩序正しく摘発が為されたことを伝えており、とても大虐殺シーンを証言するものではない。

 南京ではそんなにたいしたことはなく、4、5日居ただけで裕渓口へ下がり、そこで正月をしました。南京から1里ほどで、あたりはクリークばかりで、道らしい道はありません。となりの部落まで1里か半里歩かないといけない。細いクリークで、百姓が舟で物を運んだりしてました。港はなく、内陸でした。ここでは夜でもうっかり寝ていられませんでした。子どもでも老婆でも、抗日排日の教育で、手榴弾を持って、寝ているところを襲うんです。そんなことが再々あって、子どもでも年寄でも、中国人は皆殺せと、連隊長の命令が出ました。鉄砲の弾一発で始末せえ、と。つかまえたち撃つことはしないで、試し斬りするんです。将校は軍刀持ってますから。兵隊は銃剣で突くんです。2、3人つかまえてきて、地形とか、そこらに兵隊がいないか聞き、調べるだけ調べてから、川のふちに並べて座らせ、斬るわけです。尋ねるときは穏やかにし、中国人も観念していて口をききます。首斬りはしょっちゅうはなく、1カ月かそこらでおさまり、後は治安維持といって子どもに体操させたりしてました。裕渓口には2カ月ほどいて、次の戦闘の命令を待ちました。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 ここで初めて大虐殺シーンが証言されている。「子どもでも年寄でも、中国人は皆殺せと、連隊長の命令が出ました」とある。「試し斬り」が為されたとも証言している。しかし、どう読んで見てもアナーキーな状態での大虐殺シーンの証言ではない。むしろ、「首斬りはしょっちゅうはなく、1カ月かそこらでおさまり、後は治安維持といって子どもに体操させたりしてました」とあることからすれば、危険を避ける為に戦闘状況下での最小限行為として抵抗者を粛清したことの証言であって、恣意的に為されたものではないことが逆に判明させられる。

 中国には4年居て、200くらいの戦闘がありました。討伐とかを入れたらもっと多いですが。いちいち記録する余裕はありません。目があいてるうちはずっと歩いてるんだから。4年後に部隊がえしになり、6カ月家に居て、大東亜戦争になって、また召集されました。そのときは日本に残って教育要員になり、新兵を教育しました。最後は敦賀の勤務で、東京で終戦を迎えました。(戦争というのは)人間対人間やから、何もないのに殺すのはね、命令だから、仕方が無い。殺すときは気がたっているが、一日か二日、一服すると、なかなか人は殺せんもんです。当時は教育方針がそういうもんで、侵略戦争だから、行けというからしゃあないから行ったんです。
(私論.私見) (れんだいこコメント)

 D兵士の「(戦争というのは)人間対人間やから、何もないのに殺すのはね、命令だから、仕方が無い。殺すときは気がたっているが、一日か二日、一服すると、なかなか人は殺せんもんです」も、むしろ虐殺シーンは有り得なかった側が採用しても良い証言である。

(私論.私見) 【「南京大虐殺60カ年全国連絡会お奨めの兵士口演証言」考】

 以上、ABCD4名の元兵士の証言を見てきたが、おかしなことにそのどの兵士も南京大虐殺事件を証言していない。ところが、「南京虐殺60ヵ年全国連ホームページ」のサイトでわざわざに掲載されているその真意は奈辺にあるのだろうか、皆目分からない。

 2005.5.21日再編集 れんだいこ拝


【日記証言】
(私論.私見) 【「虐殺派の以下の資料がアナーキー状態での無差別大量虐殺を証言しているかどうか」考】

 「南京大虐殺60カ年全国連絡会お奨めの兵士口演証言」が如何に杜撰なものか見てきた。ならば、「兵士日記証言」ならどうなのであろうか。急遽思いつくままに記す。南京事件資料集部隊別資料山田支隊の捕虜殺害)を参照し、コメント付けていく。云える事は、大虐殺派が主張する「アナーキー状態での無差別大量虐殺」が、彼らが根拠とする以下の文書で逆に否定されるということであろう。戦闘状況ないしはその過程に於ける虐殺と「アナーキー状態での無差別大量虐殺」との間には天地の差がある。精査すべき事は、「アナーキー状態での無差別大量虐殺」が存在したのかどうかであろう。果して「兵士日記」はどのように記しているのであろうか。

 2005.5.21日再編集 れんだいこ拝

 【飯沼守日記】いいぬま まもる、上海派遣軍参謀長・陸軍少将21期)(『南京戦史資料集1』偕行社 P164

 十二月二十一日 大体晴
 (略)荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。(略)


 【上村利通日記】かみむらとしみち、上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐22期(『南京戦史資料集2』偕行社 P268〜269)

 十二月二十一日 晴
 (略)N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。


 山田栴二 日記やまだせんじ=歩兵第103旅団・陸軍少将18期『南京戦史資料集2』偕行社 P331〜332

◇十二月十三日 晴
 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏龍山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す

◇十二月十四日 晴
 他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る

 幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、十四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒屋に泊す

◇十二月十五日 晴
 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
 皆殺せとのことなり

 各隊食料なく困却す

◇十二月十六日 晴
 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

◇十二月十七日 晴
 晴の入場式なり
 車にて南京市街、中山稜等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る
 仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る

◇十二月十八日 晴
 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す

◇十二月十九日 晴
  捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ
  軍、師団より補給つき日本米を食す


 【A氏(福島市、陸軍少尉)記録】(洞富雄他『南京大虐殺の研究』晩聲社 P132)

(16日)
 午後三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3000を揚子江岸に引率し之を射殺す戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

(17日)
 夕方(南京入場式から)漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す。二万以上の事とて終わりに大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一,傷者二に達す。


 両角業作(もろずみぎょうさく、歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐22期)手記『南京戦史資料集2』偕行社 P339〜341)

『南京大虐殺事件』

 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)−とりあえず、この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。
 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。

 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬ ので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

 私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果 を含めたのである。しかし私にはどうしてもできない。いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」−田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

 「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」。もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。

 十二月十七日、私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。そのいきさつは次の通りである。

 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面 に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>・・・なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。

 『日記』

昭和十二年 十二月
十二日 午後五時半、蚕糸学校出発。午後九時、倉頭鎮着、同地宿営。
十三日(晴)午前八時半出発。午後六時、午村到着、同地宿。敗残兵多し。 南京に各師団入城。T大隊烏龍山砲台占領。
十四日 午前一時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山に先遣。本隊は午前五時、露営地出発。午前八時頃、第五中隊は幕府山占領。本隊は午前十時、上元門附近に集結を了る。午前十一時頃、幕府山上に万歳起る。山下より本隊之に答へて万歳を送る。
(以下原文は横書き)
十五日 俘虜整理及附近掃蕩。
十六日 同上。南京入城準備。
十七日 南京入城参加。1は俘虜の開放準備、同夜開放。
十八日 俘虜脱逸の現場視察、竝に遺体埋葬。
十九日 次期宿営地への出発準備。
二十日 晴 九時半出発下関を経て浦口に渡河。
二十一日 晴 西葛鎮に宿営。
二十二日 晴 全椒に向ひ入城。同地警備。(途中山田少将は除県に)
二十三日 警備方針決定。中隊長以上に必要の指示を与ふ。
二十四日 附近視察。
二十五日 慰霊祭の為除県に出発(軍旗を奉じ)、同夜同地着。
二十六日 師団慰霊祭。(老陸宅の要図が天覧に供せられ、且つ朝香宮軍司令官の室を飾るものは此要図一枚あるのみにて他何物なし)
二十七日 全椒に帰還。
二十八日 慰霊祭場及陣地偵察。
二十九日 慰霊祭。(山田少将及師団代表として吉原作戦主任参謀来着)
三十日 師団会議事項下達。
三十一日 陣地視察。此夜杉山陸相、椙村中隊長の未亡人の手紙を受ける。

〔注〕この記録は、第13師団歩兵第65連隊長両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写 し、保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。


 荒海清衛(歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵)日記 (『南京戦史資料集2』偕行社 P345)

◇十二月十四日
 朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。

◇十二月十五日
 今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。

◇十二月十六日
 今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。

◇十二月十七日
 今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。


 【斎藤次郎(歩兵第65連隊本部通信班小行李・編成 輜重特務兵、1938年1月1等兵に進級)陣中日記】 (小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書店 P36〜39)

 十二月十三日 晴
 (略)
夜七時頃大行李二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷し居つた、一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写 真の映画其のものの感がする、××君より早く追つき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣をあびせかける、手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切ったのでくびをはねる積だったのだろうが手元が少し違ったのだろう・・・・自分も戦地に来て始めて人に刃を向けてみる、敵兵も年齢廿六才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して国難にあたって居るかと思えば敵兵をたおした痛快なる反面 、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる・・・・
(略)

 十二月十四日 晴
 (略)
第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位 より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入城以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だったらしい、(略)
 [欄外記事]一万四千七百七十七名捕虜とす(十四日)旅団本部調査

 十二月十五日 晴
 午前七時起床、朝の礼拝をして武運長久を祈願をする、今日は滞在なのでゆっくり起きる、今日は歩兵は残敵掃討するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く、自分と×××、×××君等三名で馬糧を徴発してくる午后から馬の治療があるので愛馬泰容の鞍傷を治療する、終ってから青田獣医殿の厚意で砂糖小豆を御馳走になる、今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか、今夜は早く就寝して疲れを医やす。

 十二月十八日 曇、寒
 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ 敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気だって居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居ったのが今夜は曇り、薄明い位 、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が耳を切る様だ、捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通 され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆっくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。
[欄外記事]銃殺捕虜の死体処理(十八日0時)


 【堀越文男(歩兵第65連隊本部通信班・有線分隊長・編成 伍長)陣中日記】(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』大月書店 P78〜79)

 十二月十四日
 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。 年、二十五才なりと、R本部は五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。 敵の銃をひろひて撃てるものなり。

 第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。
  一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。
 城壁一千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。
 午後五時半、R本部に至るも、本部未着六時四十分頃着す。

 十二月十五日
 午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。
 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づつ一度に行ふものなり。


 遠藤重太郎 陣中日記 歩兵第65連隊第T大隊本部・大行李・編成 輜重特務兵(1938年1月に一等兵に進級)(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P88〜89)

十月三日
(略)
 江陰出発して五日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向った所はやくも我六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまったので又南京北方の砲台に向かったら南京敗残兵が白旗をかかげて来たので捕虜二万、宗形君は十二月十七日夜十時戦死。

十二月二十二日
 我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後五時、敵は退きゃくして敵兵一人も居ない。
 南京北方一里の幕府山砲台一帯で捕虜にした敵兵のしまつは実に我々特務兵に取ってわすれる事の出来ない感を一寸記す。
 幕府山に着く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍にていこうしたのかとびっくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆
[このあと二頁分破られて欠]
 それから私と×××君と××君三人で英れいを拝し火葬後骨をおさめて我隊に帰った、誠に残念であった。そして十九日休んで又十二月二十日そこを出発したのであった。
(略)

十二月二十四日 曇り 前日と同
 新年の感想を福島民報新聞記者が内地の新聞に出してくれるとの事にて大行李全員が書いて出した。
 私も出した、信行等も見るだろう、今迄蔡寧宅出発して以来行軍に行軍を続け手紙書くひまもなければ野戦郵便局もなく書状は出せない、十二月十九日に南京北方一里の地点幕府山砲台のふもとに滞在して居る時捕虜を整理する時日日新聞記者に頼んで一通 私が書いたのを日日新聞記者に頼んで南京野戦郵便局に出し戴いたきりだ。(略)


 伊藤喜八 陣中日記 歩兵第65連隊第1中隊・編成 上等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P105)

拾二月拾七日
 午前八時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通 過、我部隊に復帰出来るだろふ、午前十時到着。
 門内、励志社、陸軍々学校、警衛司令部などがあった。
 午后一時から南京入場式。
 夕方は大隊と一所(緒)の処で四中隊で一泊した。
 その夜は
敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。

拾二月拾八日
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した、実にひどいざん場でした。
 我軍に戦死十名、負傷者を出した。
 夕方中隊の自動車にて宇立(烏龍)山砲台警備の処に復帰致して安心した。


 中野政夫 陣中日記 歩兵第65連隊第1中隊・編成 上等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P116)

十二月十三日 晴
 午前六時宿営出発。
 余(途)中数十名の敗残兵を射殺し十時銃胞(砲)声の中に入りたるの感あり、銃胞(砲)声を近くに聞く事始めての我等は、胸の度きをおぼゆる。
 いつか一ヶ中隊だけ独立となり、且、一小隊わ(は)将校斥候に出て居らず、此の附近、道には地雷を二十米をき位 にあり、山わ(は)ざんごうあり、鉄条網ありて厳(頑)強なる陣地の如し。
 午后三時頃はからず烏龍山砲台なるを知り占領。
 砲台は主として揚子江に面し陸にはとちかを築き陣地の補強工事中なり。

十二月十四日 晴
 警備。
 敗残兵掃蕩のため中隊長准尉一小隊の一分隊と我四分隊とで砲台に行く。
 幾名とも知れず射殺す。

十二月十五日 晴
 敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米。
 山中に小銃約百丁、チェック四、銃重機二其の他多数の弾薬を置き逃走。
 右武器を前日占領の自動車にて中隊に運ぶ。

(略)

二月十七日 晴
 警備。
 小隊員中××××、××××の両名歩哨服む中、敵敗残兵のため手榴弾をなげつけられ負傷す。
 毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず。


 宮本省吾 陣中日記 歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充 少尉(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P133-134)

〔十二月〕十三日
 前夜午后七時俄に命令に接し烏龍山砲台攻撃のため出発、途中大休止をなし午前五時出発前進す、午前十時将校斥候となり烏龍山方面 の敵情を捜索に出発、途中敗残兵等に会ひ騎兵隊と共に射殺す。
 敵弾の音の中を一時は潜り烏龍山の近く迄捜索するも敗残兵少々の外陣地に依る兵は見当らずに帰る。
 本隊に帰るも本隊はすでに前進をなし非常に困難して本隊に追付く。
 夕方烏龍山に攻撃を向かふも敵の陣中にあると□えず、敗残兵を多数捕獲し一部は銃殺す、夜十時野宿につく。

〔十二月〕十四日
 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚(蕩)すべく出発す、攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬ らずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八ケ所の歩哨を立哨 せしめ警戒に任ず、捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中食を採らぬ 者もあり喝(渇)を訴へる者あり全く可愛想なるも戦争の上なればある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ 、夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引卒(率)し来る、巡警二〇〇余もあり隊長もあり相当訓練的にて人員をしらべる等、面 白き事である、少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通 じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く平公(閉口)した様である。

〔十二月〕十五日
 一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。
 中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。
 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮(虜)兵の給食は勿論容易なるものでない。

〔十二月〕十六日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

〔十二月〕十七日
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。
 中隊死者一傷者二に達す。

〔十二月〕十八日 曇
 昨日来の出来事にて暁方漸く 寝に付(就)く、起床する間もなく昼食をとる様である。
 午后敵死体の片付けをなす、暗くなるも終わらず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

〔十二月〕十九日
 昨日に引き続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。
 夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる、牛肉の油上(揚)迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。


 柳沼和也 陣中日記 歩兵第65連隊第7中隊・編成 上等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P166-167)

十二月十四日
 出発して直ぐに八中隊で敵に山から手榴弾を投げられて戦死一、負傷者を出す、南京も目の前になる、明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)にして置え(い)た、居るわ居るわ全部集めて一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる、第五中隊が幕府山攻撃をして完全に占領する、そのため両角部隊が南京攻略の戦史にのったのだ、軍旗中隊となり夕方支那軍の水雷学校に宿営を取る。

十二月十五日 晴
 何する事もなくして暮らす。
 其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、
十六師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、英国の会社には電灯もついてりして日本軍の手がつけられない言ってた。
(略)

十二月十七日 晴
 四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる、日中は単哨で夜間は複哨である。
 工兵隊はトウチカを爆発させたり、南京の攻撃に一つの印象を残して居る。
 夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。
 一団七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。

(略)

十二月十九日 晴
 今日も別に大した仕事もなし、第三小隊は一昨日の支那兵を取り片附けるに行ったが自分は足が痛いので残る。
 皆これを片附けるに面白いとの事であったと。


 新妻富雄 陣中日記 歩兵第65連隊第7中隊・第2次補充 上等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P178)

十二月十三日 晴天 清国
 前の夜行軍□午后五時□□站出発部落泊る、本日□□□□□河江に対す我中隊□□□□□□山上にて警戒敵兵□□□□□□□□□□者を補りょ(捕虜)小隊長刀にて殺□□□て帳は其の兵の持品(物)なり。

十二月十四日 晴天 清国
 本日は朝四時五十分整列、南京中間虎子台砲台攻撃□□□□前の部落より出発、夜明間も無敵兵白旗を飛(翻)る返し約一万五六千人□□□改(解)除、砲台は戦死者約四五名□傷者七八名にして占領第二大隊我が中隊は其の地より南京入城、軍旗護衛として約二粁程前進して虎子台海軍独立陸戦隊兵営揚子江沿岸午後七時頃到着し宿舎割になる。
 第四次補充部隊四百三十名。

十二月十五日 晴天 海軍兵舎にて
 明れば朝東から太陽はゆうゆうとただ一発の銃声もなくのんびりとした朝聞くからに敵の補りょ(捕虜)兵二万五六千名我が聯隊でのみ「シュウヨウ」(収容)したと云ふ事だ。
 聞けば清モウ(櫓網)湾、馬鹿(家)宅の我が軍の苦しめられた事また戦友の戦死されたと事を思ひ浮べ今日共に戦友の霊をなぐさめる事が出来たと遠い上海の空を向いて異郷を向いて拝した。

十二月十六日 晴天 (記事全文抹消されている)

十二月廿九日 雲(曇)天
 昨日降った雪は朝になって止め。
 本日は聯隊の慰霊祭、午前十時より師団長参列し正午終る。
 聯隊の戦死者六百七拾九名
 不(負)傷者壱千四百名余
 師団戦死者二千三四百名
 井上分隊長帰る本日正午。

十二月卅一日 雲(曇)天
 本日は残兵ガリ(狩)行軍三里半。
 午前七時半出発。
 午後四時帰隊第二大隊。


 大寺隆 陣中日記 歩兵第65連隊第7中隊・第4次補充 上等兵(『南京戦史資料集2』偕行社 P348-350)

十二月十五日
 朝食は昨夜残してあった汁で一食分の飯を半分食ふ。出発は八時三十分。
 広漠たる広野も果てて今日は山道だ、途中で騎兵の十七大隊に会ふ、鎮江に帰へって警備に付くのだと云って居た。昼食を見ると米の中にヒエやらキウリの種、藁ごみ等が沢山入って居て、昼は食へない飯だと云って笑った。
 午后の道は左側の山には延々と交通壕が掘ってあり、所々にはコンクリーのトーチカが造ってあった。飯が少ないので空腹を覚えカンパン二つつみ郡君と食った。今日の宿営地、龍潭鎮に着いたのが五時頃だった。
 ここに着く少し前で敗残兵を一人殺す。ここは大変大きなセメント会社だ。今晩の徴発は米二斗、アヒル二匹、豚二匹と菜、チャン酒、味噌に醤油だ。それに小豆をみつけて来てシルコを造る、これが又うまかった、小豆飯にアヒル汁で舌鼓を打つ。今晩は皆寝台の上に寝る。

十二月十六日
(略) 今晩は郡君が泊りに来て二人で寝る、七時半だった。敗残兵が出て二人殺す、十六聯隊の一部が夕方敗残兵を掃蕩して来た。
 今晩は衛兵は勿論厳確、下士哨まで出して警戒、MGの第二小隊の二分隊では夜半火を出し、日本刀を焼いた者、雑嚢、水とう、飯盒、鉄兜等を焼いた者があった。

十二月十七日
  五時起床、今朝は鶏汁だ。郡君が来たので御馳走してやる。
 七時四十分整列、上元門まで約六里、途中には敗残兵又は地雷があるから注意せよ、との中隊長の話あり、敗残兵が居り小銃隊の尖兵が射殺す。足の調子は非常に良かったが天気が良すぎて汗が出る、皆水トウの水を不足させクリークの水を呑み始めた。今日は支那には珍しく山又山、峠ばかりを歩いて居た。時々小銃弾が頭の上をかすめて行く、昼食前に殺されて居る将校らしき者が、二百円ばかり持って居り皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰った。
 午后三時頃、今日朝香宮及松井大将が来られて南京入場式が行はれたそうだが、飛行機が三機編隊で九組も帰へった。峠を上りあげると南京の城が見える、もう少しだと元気を出す。午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き、糧秣をもらって宿舎に着く。夕方から風が吹き、小雪さへ加はり寒い夜になった。我々之ねぐらは六尺位 の棚に六人づつだ。きゅうくつではあったが割合に暖かだった。

十二月十八日
(略)
 午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞、帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて各分隊に別 れる、午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、七時だが未だ方(片)付け隊は帰へって来ない。
 俺は飯前に、直ぐ傍にある南京の要塞を見に行き、その完備せるのに驚いて帰へる。然しあれ程完備して置いてほとんど使はずに逃げてしまったのだ、第八中隊と第五中隊が占領したものらしい。

十二月十九日 幕布(府)山要塞
 午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に警(驚)く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午后二時までかかり作業を終わる。昼食は三時だ、すぐに夕げの仕度にかかり五時半頃又夕食だ、今日捕リョ死骸方付けに行き、松川の菊池さんに会ふ。ここの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。


 遠藤高明 陣中日記 歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充 少尉(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P219-220)

十二月十二日 晴
 橋頭鎮滞在、大小行季(李)糧秣輸送の為鎮江に帰る、午前中自ら隊員数名と共に徴発に赴き米国人経営の園芸学校に入り貯蔵せる果 物瓶詰果汁を多数獲得、2(第二大隊)副官、××少尉、中隊事務室にも領け与ふ、午後甕(かめ)を据へ風呂を沸し入浴す、天気好く暖なり、午後三時新任務により南京攻撃を命ぜられたり、104iは鎮江帰還対岸渡江を命ぜられたり、本Rは明十三日未明進発の予定の処、夕刻六時突然出発を命ぜられ、夜行軍三里、月明りの下を午後九時三十分迄かかり倉頭鎮に大休止、装具も解かず藁を被り仮眠す。

十二月十三日 晴
  午前八時三十分倉頭鎮発烏龍山砲台攻撃に向ふ、途中棲霞山麓に於て盛に銃声を聴く、敗残兵多数ありと、日向は春先の如き暖さなり 、午後五時分于村着、警備のため第×小隊同村南側の山に立哨す、時々飛弾あり山上寒気殊に厳し、正子(午後一二時)第×小隊と交代下山し焚火にあたり微睡す。
  南京陥落の報に接す。

十二月十四日 晴
 午前五時分于村発幕府山要塞(南京北部約一里)攻撃に向ふ、月既に落ち暗黒にて歩行困難、分于村西方二粁の地点に於て敵の埋設セル手榴弾の為第一分隊新開宝慶重傷を負ひ一時間にして死亡す、太平山附近に於て1(第1大隊)の捕へたる敗残兵数百名に逢ひモーゼル拳銃を獲得、尚支那将校の乗馬をとり馬上にて行軍正午幕府山麓着、敵は戦意なく敗残兵四百五十名及兵器多数鹵獲整理す、夕刻上元里に宿舎を定む、民家少く一室に小隊全員起居す、夕刻より更に四百余の捕虜を得。

十二月十五日 晴
 午前七時起床、午前九時第×小隊命を受け幕府山東側江岸に敗残兵掃蕩に赴き三百六名捕虜とし尚一万近き敵兵ありとの情報を得たるも午後一時途中より引返す、午後九時より日直将校服務、夜半一時銃声にて目覚む、第八中隊より立哨中の歩哨敵兵を射撃中誤ちてR本部伝令を射ち負傷せしめたりとの報告を受け直に取調べ報告書を作製午前三時就眠す。

十二月十六日 晴
 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般 情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す
 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し

十二月十七日 晴
 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差し出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書きにて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、
夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。

十二月十八日
  午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同八時三十分完了、風梢々治り天候恢復、幕府山警備兵帰舎、南京見学兵六名あり、午前中一時間仮眠す、久しく口にせざる林檎一個支給さる、正午第四次補充員九名編入さる、午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ

十二月十九日 晴
  前日に引続き死体取片付けの為午前八時より兵十五名差出す、Rは対岸渡江につき材料搭載掛を命ぜられ午后一時より中山碼頭碇泊司令部に連絡に赴く約一里半あり、徴発せし乗馬足を痛め使用に耐えず残置に決す、南京見学兵十二名ありて土産に羊羹、密(蜜)柑缶 等を持参せり、尚持参の赤玉葡萄酒一杯を飲む、増田リュ(ョ)ーマチにて入院す。

十二月二十日 曇りて寒し
  渡船準備の為午前八時先発す、部隊上船開始午前十一時、一時間にて終了、材料運搬のトラック故障にて大部分は機材運搬不可能となり一部隊を対岸に渡し勤務兵を指揮し浦口津浦の鉄路官舎に宿営す、浦口の街大半焼失し住民全くなし。


 本間正勝 戦斗日誌 歩兵第65連隊第9中隊・編成 二等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P239-240)

十二月十三日
 午前七時出発にて南京に向ふ、牛引き行軍午后六時まで、七時に宿舎に入る、残敵所々居った。

十二月十四日
 午前五時出発、体の工合いは良かった、途中降参兵沢山あり、中隊でも五〇〇名余捕慮(虜)す、聯隊では二万人余も捕慮(虜)とした。

十二月十五日
  具合悪く一日休養す、中食ぜす(せず)、夕方高木実君面会に来た、夕方自家母より女子出産の報あり、安心する。

十二月十六日
 午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、
捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる

十二月十七日
 午前九時当聯隊の南京入城、軍の入場式あり、中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、
今日一万五千名、午后十一時までかかる、自分は休養す、煙草二ヶ渡、夜は小雪あり。

十二月十八日
 南京見学と支那兵死体整理と中隊は分れる、自分舎内監視に残る、家へ手紙を出す。


 高橋光夫 陣中日記 歩兵第65連隊第11中隊・第4次補充 上等兵 (小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P289)

〔十二月〕十八日 雪 寒し
 午前八時半制(整)列にて各中隊に分類され十二時に中隊第十一中隊に入る、第四次二十二名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。
 
午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた。

〔十二月〕十九日
 本日も中隊の(以地)位置にて分隊に入る、第一小隊、第二分隊、午前わ(は)死体をかたつけるために前日の地に行く、本日又十六人程度の敗残兵をころした。


 菅野嘉雄 陣中メモ 歩兵第65連隊連隊砲中隊・編成  一等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P309)

〔十二、〕十四
 午後五時出発夜頃より敵丘(兵)続々と捕虜トス、幕府山要塞を占領し午後二時戦斗を中止す、廠舎に捕虜を収容し其の前に宿営警戒す、捕虜数約一万五千。

〔十二、〕十五
 今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。

〔十二、〕十六
 飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す

〔十二、〕十七
 未曾有の盛儀南京入場式に参加、一時半式開始。
 朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、
捕虜残部一万数千を銃殺に附す

〔十二、〕十八
 朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。

〔十二、〕十九
 本日も敵兵の片付に行く、自分は行かなかった。


 近藤栄四郎 出征日誌 山砲兵第19連隊第8中隊・編成 伍長(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P325-326)

〔十二月〕十四日
 午前四時起床、鞍を置き直ちに出発する、道路暗くて而も寒い、前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて三千名に達せん、揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面 白し、南京を目の前に南京城を見て降伏兵の一段を馬上より見下すのも気持が悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。

〔十二月〕十五日
  出発命令なく午前御令旨及訓示の伝達式あり。
  午后、米徴発に行く、幸南京米が沢山あったので六本駄馬を持って取って来る、支那の工兵の材料集積所らしい。

〔十二月〕十六日
 午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。
 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。
 夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
 
月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影(景)であった。


 黒須忠信 陣中日記 山砲兵第19連隊第3大隊大隊段列・編成 上等兵(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P350-351)

拾二月拾三日 晴
 七時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際我が海軍の軍艦がゆうゆうと進江(航)して居るのがよく見えた、敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后八時某地に到着宿営す。

拾二月拾四日 晴◎
 午前三時半出発して前線に進む、敵弾は前進するに従って頭上をかすめて来る、敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を六五にて一千八百名以上捕慮(虜)にして其の他沢山の正規兵で合計五千人の敗残兵を拾三師団にて捕慮(虜)にした、全部武装解除をして(た)のも見事なものである、命令我が大隊は馬風(幕府)山砲台を占領して東外村に宿営す、残敵に注意すべしと、本日の感想は全く言葉に表す事が出来ない位 であった、捕慮(虜)兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に集められて居た、馬風(幕府)山砲台には日章旗高く揚げられて万歳を唱へられた、種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、××××氏に面 会する事が出来て嬉しかった。

拾二月拾五日 晴
 南京城外其地に我が拾三師団は休養する事となった、午前馬糧の徴発に忙しかった、敵首都南京城も助川部隊(十六師団)が拾三日午前拾時三十分に占領してしまったのである、城内にも入城する事が出来た。

拾二月拾六日 晴
 午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向ふ 、二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
 山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、××少尉殿並に××××氏、×××××氏等に面 会する事が出来た、皆無事元気であった、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。


 目黒福治 陣中日記 山砲兵第19連隊第3大隊大隊段列・編成 伍長(小野賢二ほか『南京大虐殺を記録した皇軍たち』大月書店 P373)

十二月十三日 晴天
 午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃の為前進す、途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位 迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の(と)投降す、各隊にて捕い(え)たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。

十二月十四日 晴天  南京城外
 首都南京も落つ、休養、午前中南京市内見物旁々支那軍馬の徴発に行く、城内の膨大なるに一驚す。

十二月十五日 晴天  南京城外
 休養。

十二月十六日 晴天 南京城外
 休養、市内に徴発に行く、到(至)る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ、午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる、実に惨たる様なりき。

十二月十七日 晴天 南京城外
 午前九時宿営地出発、軍司令官の南京入場式、歴史的盛儀に参列す、
午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮(虜)は全部銃殺するものの如す(し)。

十二月十八日 晴天 南京城外
 午前三時頃より風あり雨となる、朝起床して見ると各山々は白く雪を頂初雪となる、南京城内外に集結せる部隊数約十ヶ師団との事なり、休養、
午後五時残敵一万三千程銃殺す。


 F氏 日記 歩兵第65連隊第三大隊(洞富雄ほか『南京事件の証明』晩聲社 P145 )

(一七日)午後にわ聯隊の捕りょ二万五千近くの殺したものをかたつける
(一九日)午後わ死体をかたつけるために前日の地に行く


 G氏 証言 第9中隊・上等兵(洞富雄ほか『南京大虐殺の証明』晩聲社 P139-140)

 「南京の捕虜の処置のようなことは2度とやるべきものでも、あるべきものでもない」
 「私は謝家橋鎮でマラリアにかかり、南京で城内見学に行く途中発病してしまった。だから、宿舎にいて暇だった。発病する前に一度だけ捕虜収容所の警備をやった。収容所は一〇棟あったが、捕虜は鮨詰め状態だった。この時、一万人といわれていた。食料には非常にこまり、全員には行きわたらなかったが、飯を炊いて少しは与えた。私は捕虜が連行されて行くのを見ただけだが、連行は二日間にわたって行われた。初日は三〇〇〇人連行。『収容所が焼けて入れる所がないので』との理由だった。二日目は七〇〇〇人、『前日と同じ場所に連行した』と聞いた。二日目に連行された捕虜は虐殺されるのを察知していた様子だったというが、暴動が起きたとは聞いていない。しかし、捕虜の中に整理係として入った日本兵が引き揚げないうちに撃ち始めてしまったことは聞いた。」


 H氏(西白河郡) 証言 第三機関銃中隊所属・下士官(洞富雄ほか『南京大虐殺の証明』晩聲社 P138-139)

 揚子江岸に海軍兵学校みたいな建物があり、三階建て位な非常に頑丈なもので、基礎がしっかりしており、前に広場があった。重機関銃を設置するため部屋の中から厚いコンクリートをくり抜き、トーチカのように動かせる範囲に穴をあけた。重機関銃は宿舎から分解して持って行き、前もって設置しておいた。第三機関銃隊は全部参加し、他の中隊の軽機関銃隊も加わった。当時、捕虜のことを『お客さん』と呼んでいた。今日も『お客さん』が来るから準備しておけと。だが、この捕虜がどこから連行されて来たのかは私は知らない。一回の連行が五〇〇〇人位 で、三日間続いた。ピーッと鳴ったら撃てと命令が出ていた。三日間とも日が落ちるか落ちないかの時刻で、連行されてきた捕虜はあきらめがいいのか、虐殺現場での騒ぎはなかった。集団での逃亡もなかった。しかし、虐殺時に少数の逃亡者はみた。二日目からは軍服を濡らして持って行き、冷却しながら撃った。揚子江岸に船などなかった。死体はその日のうちに揚子江に流し、一日目は流れたが、二日目、三日目は死体がたまって流れなくなった。(以上のことをのちにH氏は二日間の出来事と訂正)


 I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長(洞富雄ほか『南京大虐殺の証明』晩聲社 P139

 南京附近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。相当年輩の捕虜もおり、十四〜十五歳の若者もいた。敗残兵は少なかったのではないのか。捕虜収容所は幕府山の南側にあり、そこから見た幕府山はなだらかにみえた。山の下に”もろ”があり、捕虜はそこに全部収容した。何日か収容した後、捕虜には『対岸に送る』と説明し、夕方、五人ずつジュズつなぎにして、二日間にわたって同じ場所に連行した。捕虜収容所から虐殺現場までは二〜三キロメートルで、一日目の捕虜連行数は四〇〇〜五〇〇人だった。虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、一〇メートル位 の桟橋が一本あったが、両日とも桟橋に船はなかった。重機関銃は兵舎の窓を切り、銃口を出した。笛の合図一つで銃撃を開始し、一〇分間位 続いた。銃撃は一回だけだった。重機関銃は三〜四丁あり、軽機関銃、小銃も加わった。この時、我々歩兵は捕虜を取り囲んでいた。死体処理は一日目はその夜のうちに揚子江に流し、二日目は次の日に片付けた。


朝日新聞 記事37年12月17日 朝刊(洞富雄ほか『南京大虐殺の証明』晩聲社 P129)

『持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種』
[南京にて横田特派員16日]
 両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ 程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を捨てさせ附近の兵営に押込んだ、一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ、○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ 」と優しい仁愛の言葉を投げると手を挙げて拝む、終ひには拍手喝采して狂喜する始末で余りに激変する支那国民性のだらし無さに今度は皇軍の方で顔負けの体だ。
 それが皆蒋介石の親衛隊で軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、一番弱ったのは食事で、部隊でさへ現地で求めているところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。
 部隊では早急大小行李の全駄馬を狩集めて食べ物を掻き集めている始末だ。
(以下略)


 第13師団戦闘詳報 戦闘に関する教示(12年10月19日付)(秦郁彦『南京事件』中公新書 P69)

11、 俘虜の取扱いに就て
  多数の俘虜ありたるときは之を射殺することなく武装解除の上、一地に集結監視し師団司令部に報告するを要す。又俘虜中将校は・・・・師団司令部に護送するを要す。此等は軍に於て情報収集するのみならず宣伝に利用する・・・・但し少数人員の俘虜は所要の尋問を為したる上適宣処置するものとす
 



【10.3日】
 遠藤重太郎 陣中日記  歩兵第65連隊第T大隊本部 輜重特務兵

 (略)江陰出発して五日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向った所はやくも我六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまったので又南京北方の砲台に向かったら南京敗残兵が白旗をかかげて来たので捕虜二万、宗形君は十二月十七日夜十時戦死。

【12.12日】

 両角業作手記 歩兵第65連隊隊長歩兵大佐22期

 午後五時半、蚕糸学校出発。午後九時、倉頭鎮着、同地宿営。
 遠藤高明 陣中日記 歩兵第65連隊第8中隊・少尉

 橋頭鎮滞在、大小行季(李)糧秣輸送の為鎮江に帰る、午前中自ら隊員数名と共に徴発に赴き米国人経営の園芸学校に入り貯蔵せる果 物瓶詰果汁を多数獲得、2(第二大隊)副官、××少尉、中隊事務室にも領け与ふ、午後甕(かめ)を据へ風呂を沸し入浴す、天気好く暖なり、午後三時新任務により南京攻撃を命ぜられたり、104iは鎮江帰還対岸渡江を命ぜられたり、本Rは明十三日未明進発の予定の処、夕刻六時突然出発を命ぜられ、夜行軍三里、月明りの下を午後九時三十分迄かかり倉頭鎮に大休止、装具も解かず藁を被り仮眠す。

【12.13日】

 両角業作 手記 歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 午前八時半出発。午後六時、午村到着、同地宿。敗残兵多し。 南京に各師団入城。T大隊烏龍山砲台占領。

 山田栴二 日記 歩兵第103旅団・陸軍少将

 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏龍山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す。

 斎藤次郎 陣中日記 歩兵第65連隊本部通信班 輜重特務兵

 (略)夜七時頃大行李二大隊の熊田君外一名が敗残兵一名を捕虜にして来る、捕虜にする際少し負傷し居つた、一将校が軍刀で日本刀の切味を試さんとしたら少しのすきをみて逃げ出したのを自分と××君と二人で追い四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追ふ、若松で刃をたてた銃剣を引抜いて満月に近い月光をあびて追跡する様は内地でみる活動写真の映画其のものの感がする、××君より早く追つき銃剣を以て肩先を力にまかせて一剣をあびせかける、手ごたえあり其の場に昏倒してしまふ、ようやく追いついた友軍の人達が集まり先の将校が脳天を真二つに割る、昏倒して居るのを切ったのでくびをはねる積だったのだろうが手元が少し違ったのだろう・・・・

 自分も戦地に来て始めて人に刃を向けてみる、敵兵も年齢廿六才か、これも妻子を残してやはり我等と同じく生命を賭して国難にあたって居るかと思えば敵兵をたおした痛快なる反面 、一種の悲哀の情が湧いて、めい福せよと頭を下げる・・・・ (略)

 中野政夫 陣中日記 歩兵第65連隊第1中隊 上等兵

 午前六時宿営出発。余(途)中数十名の敗残兵を射殺し十時銃胞(砲)声の中に入りたるの感あり、銃胞(砲)声を近くに聞く事始めての我等は、胸の度きをおぼゆる。

 いつか一ヶ中隊だけ独立となり、且、一小隊わ(は)将校斥候に出て居らず、此の附近、道には地雷を二十米をき位 にあり、山わ(は)ざんごうあり、鉄条網ありて厳(頑)強なる陣地の如し。午后三時頃はからず烏龍山砲台なるを知り占領。砲台は主として揚子江に面し陸にはとちかを築き陣地の補強工事中なり。

 宮本省吾 陣中日記 歩兵第65連隊第4中隊 少尉

 前夜午后七時俄に命令に接し烏龍山砲台攻撃のため出発、途中大休止をなし午前五時出発前進す、午前十時将校斥候となり烏龍山方面 の敵情を捜索に出発、途中敗残兵等に会ひ騎兵隊と共に射殺す。

 敵弾の音の中を一時は潜り烏龍山の近く迄捜索するも敗残兵少々の外陣地に依る兵は見当らずに帰る。本隊に帰るも本隊はすでに前進をなし非常に困難して本隊に追付く。夕方烏龍山に攻撃を向かふも敵の陣中にあると□えず、敗残兵を多数捕獲し一部は銃殺す、夜十時野宿につく。

 新妻富雄 陣中日記 歩兵第65連隊第7中隊・上等兵

 前の夜行軍□午后五時□□站出発部落泊る、本日□□□□□河江に対す我中隊□□□□□□山上にて警戒敵兵□□□□□□□□□□者を補りょ(捕虜)小隊長刀にて殺□□□て帳は其の兵の持品(物)なり。

 遠藤高明 陣中日記 歩兵第65連隊第8中隊・少尉

 午前八時三十分倉頭鎮発烏龍山砲台攻撃に向ふ、途中棲霞山麓に於て盛に銃声を聴く、敗残兵多数ありと、日向は春先の如き暖さなり 、午後五時分于村着、警備のため第×小隊同村南側の山に立哨す、時々飛弾あり山上寒気殊に厳し、正子(午後一二時)第×小隊と交代下山し焚火にあたり微睡す。  南京陥落の報に接す。

 本間正勝 戦斗日誌 歩兵第65連隊第9中隊・二等兵
 午前七時出発にて南京に向ふ、牛引き行軍午后六時まで、七時に宿舎に入る、残敵所々居った。
 黒須忠信 陣中日記 山砲兵第19連隊第3大隊・上等兵

 七時半某地を出発した、揚子江附近の道路を通過する際我が海軍の軍艦がゆうゆうと進江(航)して居るのがよく見えた、敵の敗残兵は諸所に殺されて居た、午后八時某地に到着宿営す。

 目黒福治 陣中日記 山砲兵第19連隊第3大隊・伍長

 午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃の為前進す、途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位 迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の(と)投降す、各隊にて捕い(え)たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。

【12.14日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 午前一時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山に先遣。本隊は午前五時、露営地出発。午前八時頃、第五中隊は幕府山占領。本隊は午前十時、上元門附近に集結を了る。午前十一時頃、幕府山上に万歳起る。山下より本隊之に答へて万歳を送る。

山田栴二 日記
歩兵第103旅団・陸軍少将

 他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る。幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり。

 捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、十四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外の三軒屋に泊す。

荒海清衛日記
歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵

 朝四時出発。三十分位にて捕虜千名、十時頃二千名位有り。計一万五千名位 。

斎藤次郎 陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班
輜重特務兵

 (略)第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位 より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入城以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だったらしい、(略)[欄外記事]一万四千七百七十七名捕虜とす(十四日)旅団本部調査

堀越文男 陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班
伍長

 未明油座君支那の工兵大尉を一人とらへ来る。年、二十五才なりと、R本部は五時出発、吾は第五有線班の撤収をまちて八時半出発。午後一時四十分敗残兵一人を銃殺。敵の銃をひろひて撃てるものなり。

 第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上にカンシしあり(午前)。天気よし、彼の工兵大尉に車をひかせて南京へ向かふ、鹵獲銃は道路に打ちくだく。 一丘をこえて南京の城壁目(間)近に見ゆ。城壁一千米手前にて彼の工兵大尉を切る、沈着従容たり、時午後四時也。午後五時半、R本部に至るも、本部未着六時四十分頃着す。

中野政夫 陣中日記
歩兵第65連隊第1中隊・上等兵

 警備。敗残兵掃蕩のため中隊長准尉一小隊の一分隊と我四分隊とで砲台に行く。幾名とも知れず射殺す。

宮本省吾 陣中日記
歩兵第65連隊第4中隊
少尉
 午前五時出発、南京近くの敵の残兵を掃揚(蕩)すべく出発す、攻撃せざるに凡て敵は戦意なく投降して来る、次々と一兵に血ぬらずして武装を解除し何千に達す、夕方南京に捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、直ちに警備につく、中隊にて八ケ所の歩哨を立哨 せしめ警戒に任ず、捕虜中には空腹にて途中菜を食ふ者もあり、中には二、三日中食を採らぬ 者もあり喝(渇)を訴へる者あり全く可愛想なるも戦争の上なればある程度迄断乎たる処置をとらねばならぬ 、夜半又々衛生隊が二百余の捕虜を引卒(率)し来る、巡警二〇〇余もあり隊長もあり相当訓練的にて人員をしらべる等、面 白き事である、少佐とか参謀とか云ふ者もあり通訳より「日本軍は皆に対し危害を与へず唯逃ぐる事暴れる様なる事あれば直ちに射殺する」との事を通 じ支那捕虜全員に対し言達せし為一般に平穏であった、唯水と食料の不足で、全く平公(閉口)した様である。

柳沼和也 陣中日記
歩兵第65連隊第7中隊
上等兵

 出発して直ぐに八中隊で敵に山から手榴弾を投げられて戦死一、負傷者を出す、南京も目の前になる、明け方になったら前衛の第三大隊が支那兵を捕慮(虜)にして置え(い)た、居るわ居るわ全部集めて一部落に収容したが其の数およそ一万七八千と数へる、第五中隊が幕府山攻撃をして完全に占領する、そのため両角部隊が南京攻略の戦史にのったのだ、軍旗中隊となり夕方支那軍の水雷学校に宿営を取る。

新妻富雄 陣中日記 
歩兵第65連隊第7中隊
上等兵
 本日は朝四時五十分整列、南京中間虎子台砲台攻撃□□□□前の部落より出発、夜明間も無敵兵白旗を飛(翻)る返し約一万五六千人□□□改(解)除、砲台は戦死者約四五名□傷者七八名にして占領第二大隊我が中隊は其の地より南京入城、軍旗護衛として約二粁程前進して虎子台海軍独立陸戦隊兵営揚子江沿岸午後七時頃到着し宿舎割になる。第四次補充部隊四百三十名。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊・少尉

 午前五時分于村発幕府山要塞(南京北部約一里)攻撃に向ふ、月既に落ち暗黒にて歩行困難、分于村西方二粁の地点に於て敵の埋設セル手榴弾の為第一分隊新開宝慶重傷を負ひ一時間にして死亡す、太平山附近に於て1(第1大隊)の捕へたる敗残兵数百名に逢ひモーゼル拳銃を獲得、尚支那将校の乗馬をとり馬上にて行軍正午幕府山麓着、敵は戦意なく敗残兵四百五十名及兵器多数鹵獲整理す、夕刻上元里に宿舎を定む、民家少く一室に小隊全員起居す、夕刻より更に四百余の捕虜を得。

本間正勝 戦斗日誌


歩兵第65連隊第9中隊・二等兵

 午前五時出発、体の工合いは良かった、途中降参兵沢山あり、中隊でも五〇〇名余捕慮(虜)す、聯隊では二万人余も捕慮(虜)とした。

菅野嘉雄 陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵

 午後五時出発夜頃より敵丘(兵)続々と捕虜トス、幕府山要塞を占領し午後二時戦斗を中止す、廠舎に捕虜を収容し其の前に宿営警戒す、捕虜数約一万五千。

近藤栄四郎 出征日誌
山砲兵第19連隊第8中隊
伍長

 午前四時起床、鞍を置き直ちに出発する、道路暗くて而も寒い、前進して午前八時頃敵の降伏兵の一団に逢ひ敗残者の悲哀、武装解除に珍らしき目を見張る、更に数団、全部にて三千名に達せん、揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し、南京を目の前に南京城を見て降伏兵の一段を馬上より見下すのも気持が悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。

黒須忠信 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊


上等兵

 午前三時半出発して前線に進む、敵弾は前進するに従って頭上をかすめて来る、敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中敗残兵を六五にて一千八百名以上捕慮(虜)にして其の他沢山の正規兵で合計五千人の敗残兵を拾三師団にて捕慮(虜)にした、全部武装解除をして(た)のも見事なものである、命令我が大隊は馬風(幕府)山砲台を占領して東外村に宿営す、残敵に注意すべしと、本日の感想は全く言葉に表す事が出来ない位 であった、捕慮(虜)兵は両手をしばられ歩兵に警戒せられて或る広場に集められて居た、馬風(幕府)山砲台には日章旗高く揚げられて万歳を唱へられた、種々なる感想を浮べて前進を続け東外村に宿営す、××××氏に面 会する事が出来て嬉しかった。

目黒福治 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊・伍長

 南京城外  首都南京も落つ、休養、午前中南京市内見物旁々支那軍馬の徴発に行く、城内の膨大なるに一驚す。

【12.15日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 俘虜整理及附近掃蕩。

山田栴二 日記 やまだせんじ
=歩兵第103旅団・陸軍少将

 捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり各隊食料なく困却す。

荒海清衛日記
歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵

 今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。

斎藤次郎 陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班
輜重特務兵

 午前七時起床、朝の礼拝をして武運長久を祈願をする、今日は滞在なのでゆっくり起きる、今日は歩兵は残敵掃討するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く、自分と×××、×××君等三名で馬糧を徴発してくる午后から馬の治療があるので愛馬泰容の鞍傷を治療する、終ってから青田獣医殿の厚意で砂糖小豆を御馳走になる、今日も残敵五、六百名を捕慮(虜)にしたとか、今夜は早く就寝して疲れを医やす。

堀越文男 陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班・伍長
 午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づつ一度に行ふものなり。
中野政夫 陣中日記
歩兵第65連隊第1中隊・上等兵

 敗残兵数百降伏し来るとの報に一同出動、約二千米。山中に小銃約百丁、チェック四、銃重機二其の他多数の弾薬を置き逃走。右武器を前日占領の自動車にて中隊に運ぶ。(略)

宮本省吾 陣中日記
 歩兵第65連隊第4中隊・少尉
 一昨日来の疲れのため下士官以下に警戒をたのみ睡眠す、本日も出発の様子なく警戒に任ず。 中隊は衛兵を多数出し又自分は巡察将校を命ぜられ全く警戒のため非常に疲労す。 夕方より一部食事をやる、兵へも食糧配給出来ざる様にて捕慮(虜)兵の給食は勿論容易なるものでない。
柳沼和也 陣中日記
 歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
 何する事もなくして暮らす。其の辺の敗残兵を掃蕩に出て行ったが敵はなくして別に徴発して来た、支那饅頭うまかった、十六師団が敗残兵を殺すのを見たが惨酷だったと聞く、英国の会社には電灯もついてりして日本軍の手がつけられない言ってた。(略)
新妻富雄 陣中日記 
歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
 海軍兵舎にて。明れば朝東から太陽はゆうゆうとただ一発の銃声もなくのんびりとした朝聞くからに敵の補りょ(捕虜)兵二万五六千名我が聯隊でのみ「シュウヨウ」(収容)したと云ふ事だ。聞けば清モウ(櫓網)湾、馬鹿(家)宅の我が軍の苦しめられた事また戦友の戦死されたと事を思ひ浮べ今日共に戦友の霊をなぐさめる事が出来たと遠い上海の空を向いて異郷を向いて拝した。
大寺隆 陣中日記 
歩兵第65連隊第7中隊
上等兵

 朝食は昨夜残してあった汁で一食分の飯を半分食ふ。出発は八時三十分。広漠たる広野も果てて今日は山道だ、途中で騎兵の十七大隊に会ふ、鎮江に帰へって警備に付くのだと云って居た。昼食を見ると米の中にヒエやらキウリの種、藁ごみ等が沢山入って居て、昼は食へない飯だと云って笑った。午后の道は左側の山には延々と交通壕が掘ってあり、所々にはコンクリーのトーチカが造ってあった。飯が少ないので空腹を覚えカンパン二つつみ郡君と食った。今日の宿営地、龍潭鎮に着いたのが五時頃だった。

 ここに着く少し前で敗残兵を一人殺す。ここは大変大きなセメント会社だ。今晩の徴発は米二斗、アヒル二匹、豚二匹と菜、チャン酒、味噌に醤油だ。それに小豆をみつけて来てシルコを造る、これが又うまかった、小豆飯にアヒル汁で舌鼓を打つ。今晩は皆寝台の上に寝る。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊


少尉

 午前七時起床、午前九時第×小隊命を受け幕府山東側江岸に敗残兵掃蕩に赴き三百六名捕虜とし尚一万近き敵兵ありとの情報を得たるも午後一時途中より引返す、午後九時より日直将校服務、夜半一時銃声にて目覚む、第八中隊より立哨中の歩哨敵兵を射撃中誤ちてR本部伝令を射ち負傷せしめたりとの報告を受け直に取調べ報告書を作製午前三時就眠す。

本間正勝 戦斗日誌


歩兵第65連隊第9中隊・二等兵

 具合悪く一日休養す、中食ぜす(せず)、夕方高木実君面会に来た、夕方自家母より女子出産の報あり、安心する。

菅野嘉雄 陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵

 今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。

近藤栄四郎 出征日誌


山砲兵第19連隊第8中隊・伍長

 出発命令なく午前御令旨及訓示の伝達式あり。 午后、米徴発に行く、幸南京米が沢山あったので六本駄馬を持って取って来る、支那の工兵の材料集積所らしい。

黒須忠信 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊・上等兵

 南京城外其地に我が拾三師団は休養する事となった、午前馬糧の徴発に忙しかった、敵首都南京城も助川部隊(十六師団)が拾三日午前拾時三十分に占領してしまったのである、城内にも入城する事が出来た。

目黒福治 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊・伍長

 南京城外  休養。

【12.16日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 同上。南京入城準備。

山田栴二 日記 やまだせんじ
=歩兵第103旅団・陸軍少将

 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

A氏(福島市)
陸軍少尉

 午後三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3000を揚子江岸に引率し之を射殺す戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。

荒海清衛 日記
歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵

 今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の廠舎失火す、二千五百名殺す。

宮本省吾 陣中日記
歩兵第65連隊第4中隊・少尉
 警戒の厳重は益々加はりそれでも(午)前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎(束)の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ 光景である。
新妻富雄 陣中日記 
歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
(記事全文抹消されている)

大寺隆 陣中日記 


歩兵第65連隊第7中隊 上等兵

 (略) 今晩は郡君が泊りに来て二人で寝る、七時半だった。敗残兵が出て二人殺す、十六聯隊の一部が夕方敗残兵を掃蕩して来た。今晩は衛兵は勿論厳確、下士哨まで出して警戒、MGの第二小隊の二分隊では夜半火を出し、日本刀を焼いた者、雑嚢、水とう、飯盒、鉄兜等を焼いた者があった。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊・少尉

 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢い一般 情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し1(第1大隊)に於て射殺す

 一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し

本間正勝 戦斗日誌


歩兵第65連隊第9中隊・二等兵

 午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる

菅野嘉雄 陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵
 飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す
両角業作 手記 
歩兵第65連隊隊長
歩兵大佐

 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)−とりあえず、この建物に収容し、食糧は要塞地下倉庫に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。

 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。

 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。

 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。

 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果 を含めたのである。しかし私にはどうしてもできない。いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」−田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

 「十七日に逃げ残りの捕虜全員を幕府山北側の揚子江南岸に集合せしめ、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り、解放せよ。これがため付近の村落にて舟を集め、また支那人の漕ぎ手を準備せよ」。もし、発砲事件の起こった際を考え、二個大隊分の機関銃を配属する。
 

近藤栄四郎 出征日誌


山砲兵第19連隊第8中隊・伍長

 午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。

 夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。

 
月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影(景)であった。

黒須忠信 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊


上等兵

 午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面 に向ふ 、二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。

 山となって居る死人の上をあがって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切って見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、××少尉殿並に××××氏、×××××氏等に面 会する事が出来た、皆無事元気であった、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。

目黒福治 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊・伍長

 南京城外 休養、市内に徴発に行く、到(至)る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ、午後四時山田部隊にて捕い(え)たる敵兵約七千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる、実に惨たる様なりき。

【12.17日】

 南京入城参加。1は俘虜の開放準備、同夜開放。

山田栴二 日記 
歩兵第103旅団・陸軍少将

 晴の入場式なり。車にて南京市街、中山稜等を見物、軍官学校は日本の陸士より堂々たり、午後一・三〇より入城式祝賀会、三・〇〇過ぎ帰る。仙台教導学校の渡辺少佐師団副官となり着任の途旅団に来る。

両角業作 手記 
歩兵第65連隊隊長
歩兵大佐

 私は山田少将と共に軍旗を奉じ、南京の入場式に参加した。馬上ゆたかに松井司令官が見え、次を宮様、柳川司令官がこれに続いた。信長、秀吉の入城もかくやありならんと往昔を追憶し、この晴れの入城式に参加し得た幸運を胸にかみしめた。新たに設けられた式場に松井司令官を始め諸将が立ち並びて聖寿の万歳を唱し、次いで戦勝を祝する乾杯があった。この機会に南京城内の紫金山等を見学、夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。そのいきさつは次の通りである。軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面 に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面 に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。自分の本心は、如何ようにあったにせよ、俘虜としてその人の自由を奪い、少数といえども射殺したことは<逃亡する者は射殺してもいいとは国際法で認めてあるが>・・・なんといっても後味の悪いことで、南京虐殺事件と聞くだけで身の毛もよだつ気がする。
 当時、亡くなった俘虜諸士の冥福を祈る。

氏(福島市)
陸軍少尉
 夕方(南京入場式から)漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す。二万以上の事とて終わりに大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一,傷者二に達す。
荒海清衛 日記
歩兵第65連隊第1大隊本部・上等兵
 今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死有り。
伊藤喜八 陣中日記
歩兵第65連隊第1中隊・上等兵

 午前八時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひ黙祷して南京中山門通 過、我部隊に復帰出来るだろふ、午前十時到着。門内、励志社、陸軍々学校、警衛司令部などがあった。午后一時から南京入場式。夕方は大隊と一所(緒)の処で四中隊で一泊した。その夜は敵のほりょ二万人ばかり揚子江にて銃殺した。

中野政夫 陣中日記
歩兵第65連隊第1中隊・上等兵
 警備。小隊員中××××、××××の両名歩哨服む中、敵敗残兵のため手榴弾をなげつけられ負傷す。毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず。
宮本省吾 陣中日記
歩兵第65連隊第4中隊・少尉
 本日は一部は南京入場式に参加、大部は捕慮(虜)兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入場式に参加、壮(荘)厳なる史的光景を見(目)のあたり見ることが出来た。夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会い友軍にも多数死傷者を出してしまった。中隊死者一傷者二に達す。
柳沼和也 陣中日記
歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
 四交代の歩哨であるからゆっくりと休まれる、日中は単哨で夜間は複哨である。工兵隊はトウチカを爆発させたり、南京の攻撃に一つの印象を残して居る。夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。一団七千余人揚子江に露と消ゆる様な事も語って居た。(略)

大寺隆 陣中日記 


歩兵第65連隊第7中隊


上等兵

 五時起床、今朝は鶏汁だ。郡君が来たので御馳走してやる。七時四十分整列、上元門まで約六里、途中には敗残兵又は地雷があるから注意せよ、との中隊長の話あり、敗残兵が居り小銃隊の尖兵が射殺す。足の調子は非常に良かったが天気が良すぎて汗が出る、皆水トウの水を不足させクリークの水を呑み始めた。今日は支那には珍しく山又山、峠ばかりを歩いて居た。時々小銃弾が頭の上をかすめて行く、昼食前に殺されて居る将校らしき者が、二百円ばかり持って居り皆で分ける、俺も四十五円ばかり貰った。

 午后三時頃、今日朝香宮及松井大将が来られて南京入場式が行はれたそうだが、飛行機が三機編隊で九組も帰へった。峠を上りあげると南京の城が見える、もう少しだと元気を出す。午后五時両角部隊の屯する揚子江沿岸に着き、糧秣をもらって宿舎に着く。夕方から風が吹き、小雪さへ加はり寒い夜になった。我々之ねぐらは六尺位 の棚に六人づつだ。きゅうくつではあったが割合に暖かだった。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊


少尉

 幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差し出す、南京入場式参加の為十三Dを代表Rより兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書きにて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場迄三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支の在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。

本間正勝 戦斗日誌


歩兵第65連隊第9中隊・二等兵

 午前九時当聯隊の南京入城、軍の入場式あり、中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる、自分は休養す、煙草二ヶ渡、夜は小雪あり。

菅野嘉雄 陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵
 未曾有の盛儀南京入場式に参加、一時半式開始。朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり、捕虜残部一万数千を銃殺に附す

目黒福治 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊・伍長

 南京城外  午前九時宿営地出発、軍司令官の南京入場式、歴史的盛儀に参列す、午後五時敵兵約一万三千名を銃殺の使役に行く、二日間にて山田部隊二万人近く銃殺す、各部隊の捕慮(虜)は全部銃殺するものの如す(し)。

F氏 日記
歩兵第65連隊第三大隊

 午後にわ聯隊の捕りょ二万五千近くの殺したものをかたつける。

【12.18日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 俘虜脱逸の現場視察、竝に遺体埋葬。

山田栴二 日記 
歩兵第103旅団・陸軍少将

 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す。

斎藤次郎 陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班
輜重特務兵
 曇、寒とある。午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ 敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気だって居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居ったのが今夜は曇り、薄明い位 、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が耳を切る様だ、捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通 され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる。

 午前三時帰営、就寝、朝はゆっくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。
[欄外記事]銃殺捕虜の死体処理(十八日0時)
伊藤喜八 陣中日記
歩兵第65連隊第1中隊・上等兵
 大隊本部に行った、そして午后銃殺場所見学した、実にひどいざん場でした。我軍に戦死十名、負傷者を出した。夕方中隊の自動車にて宇立(烏龍)山砲台警備の処に復帰致して安心した。
宮本省吾 陣中日記
歩兵第65連隊第4中隊・少尉
 曇。昨日来の出来事にて暁方漸く 寝に付(就)く、起床する間もなく昼食をとる様である。 午后敵死体の片付けをなす、暗くなるも終わらず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。

大寺隆 陣中日記 


歩兵第65連隊第7中隊・上等兵

 (略)午前中に大隊本部に行き後藤大隊長の訓辞、帰へって中隊長矢本中尉殿の訓辞ありて各分隊に別 れる、午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、七時だが未だ方(片)付け隊は帰へって来ない。

 俺は飯前に、直ぐ傍にある南京の要塞を見に行き、その完備せるのに驚いて帰へる。然しあれ程完備して置いてほとんど使はずに逃げてしまったのだ、第八中隊と第五中隊が占領したものらしい。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊


少尉

 午前一時処刑不完全の為生存捕虜あり整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、寒風吹き募り同三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、同八時三十分完了、風梢々治り天候恢復、幕府山警備兵帰舎、南京見学兵六名あり、午前中一時間仮眠す、久しく口にせざる林檎一個支給さる、正午第四次補充員九名編入さる、午後二時より同七時三十分まで処刑場死体壱万有余取片付けの為兵二十五名出動せしむ

本間正勝 戦斗日誌


歩兵第65連隊第9中隊・二等兵

 南京見学と支那兵死体整理と中隊は分れる、自分舎内監視に残る、家へ手紙を出す。

高橋光夫 陣中日記
歩兵第65連隊第11中隊・上等兵

 雪 寒しとある。午前八時半制(整)列にて各中隊に分類され十二時に中隊第十一中隊に入る、第四次二十二名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた。

菅野嘉雄 陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・  一等兵
 朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。

目黒福治 陣中日記


山砲兵第19連隊第3大隊・伍長

 南京城外  午前三時頃より風あり雨となる、朝起床して見ると各山々は白く雪を頂初雪となる、南京城内外に集結せる部隊数約十ヶ師団との事なり、休養、午後五時残敵一万三千程銃殺す。
【12.19日】

両角業作 手記


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 次期宿営地への出発準備

山田栴二 日記 
歩兵第103旅団・陸軍少将
 捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ。 軍、師団より補給つき日本米を食す。
宮本省吾 陣中日記
歩兵第65連隊第4中隊・少尉
 昨日に引き続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かかる。夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かかる、牛肉の油上(揚)迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
柳沼和也 陣中日記
歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
 今日も別に大した仕事もなし、第三小隊は一昨日の支那兵を取り片附けるに行ったが自分は足が痛いので残る。皆これを片附けるに面白いとの事であったと。

大寺隆 陣中日記 


歩兵第65連隊第7中隊・上等兵

 幕布(府)山要塞。午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折重なる幾百の死骸に警(驚)く、石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午后二時までかかり作業を終わる。昼食は三時だ、すぐに夕げの仕度にかかり五時半頃又夕食だ、今日捕リョ死骸方付けに行き、松川の菊池さんに会ふ。ここの要塞は馬尾山の要塞と云ふ、工兵隊らしい、砲台の爆破をやる、見事なものだ、バクフ山要塞。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊・少尉

 前日に引続き死体取片付けの為午前八時より兵十五名差出す、Rは対岸渡江につき材料搭載掛を命ぜられ午后一時より中山碼頭碇泊司令部に連絡に赴く約一里半あり、徴発せし乗馬足を痛め使用に耐えず残置に決す、南京見学兵十二名ありて土産に羊羹、密(蜜)柑缶 等を持参せり、尚持参の赤玉葡萄酒一杯を飲む、増田リュ(ョ)ーマチにて入院す。

高橋光夫 陣中日記
歩兵第65連隊第11中隊・上等兵
 本日も中隊の(以地)位置にて分隊に入る、第一小隊、第二分隊、午前わ(は)死体をかたつけるために前日の地に行く、本日又十六人程度の敗残兵をころした。
菅野嘉雄 陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵
 本日も敵兵の片付に行く、自分は行かなかった。
F氏 日記
歩兵第65連隊第三大隊
 午後わ死体をかたつけるために前日の地に行く
【12.20日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 九時半出発下関を経て浦口に渡河。

藤高明 陣中日記


歩兵第65連隊第8中隊・少尉

 曇りて寒し。 渡船準備の為午前八時先発す、部隊上船開始午前十一時、一時間にて終了、材料運搬のトラック故障にて大部分は機材運搬不可能となり一部隊を対岸に渡し勤務兵を指揮し浦口津浦の鉄路官舎に宿営す、浦口の街大半焼失し住民全くなし。

【12.21日】大体晴

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 西葛鎮に宿営。

飯沼守日記 
上海派遣軍参謀長・陸軍少将
(略) 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ、遂に機関銃の射撃を為し、我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。(略)
上村利通 日記 
上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐

 (略)N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。

【12.22日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 全椒に向ひ入城。同地警備。(途中山田少将は除県に)

遠藤重太郎 陣中日記
歩兵第65連隊第T大隊本部
輜重特務兵

 我六十五聯隊はもくてき地に到着したのは午後五時、敵は退きゃくして敵兵一人も居ない。南京北方一里の幕府山砲台一帯で捕虜にした敵兵のしまつは実に我々特務兵に取ってわすれる事の出来ない感を一寸記す。幕府山に着く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に服して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五裂これでも皇軍にていこうしたのかとびっくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆[このあと二頁分破られて欠]

 それから私と×××君と××君三人で英れいを拝し火葬後骨をおさめて我隊に帰った、誠に残念であった。そして十九日休んで又十二月二十日そこを出発したのであった。(略)

【12.23日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 警備方針決定。中隊長以上に必要の指示を与ふ。

【12.24日曇り前日と同

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 附近視察

遠藤重太郎 陣中日記
歩兵第65連隊第T大隊本部
輜重特務兵

 新年の感想を福島民報新聞記者が内地の新聞に出してくれるとの事にて大行李全員が書いて出した。私も出した、信行等も見るだろう、今迄蔡寧宅出発して以来行軍に行軍を続け手紙書くひまもなければ野戦郵便局もなく書状は出せない、十二月十九日に南京北方一里の地点幕府山砲台のふもとに滞在して居る時捕虜を整理する時日日新聞記者に頼んで一通 私が書いたのを日日新聞記者に頼んで南京野戦郵便局に出し戴いたきりだ。(略)

【12.25日】

 慰霊祭の為除県に出発(軍旗を奉じ)、同夜同地着

【12.26日】

両角業作 手記


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 師団慰霊祭。(老陸宅の要図が天覧に供せられ、且つ朝香宮軍司令官の室を飾るものは此要図一枚あるのみにて他何物なし)

【12.27日】

 全椒に帰還。

【12.28日】

 慰霊祭場及陣地偵察

【12.29日】雲(曇)天

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 慰霊祭。(山田少将及師団代表として吉原作戦主任参謀来着)

新妻富雄 陣中日記 
歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
 昨日降った雪は朝になって止め。本日は聯隊の慰霊祭、午前十時より師団長参列し正午終る。聯隊の戦死者六百七拾九名、不(負)傷者壱千四百名余、師団戦死者二千三四百名、井上分隊長帰る本日正午。
【12.30日】

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 師団会議事項下達。

【12.31日】雲(曇)天

両角業作 手記 


歩兵第65連隊隊長・歩兵大佐

 陣地視察。此夜杉山陸相、椙村中隊長の未亡人の手紙を受ける。

〔注〕この記録は、第13師団歩兵第65連隊長両角業作大佐が、終戦後しばらくしてまとめたものである。昭和37年1月中旬、求めに応じ阿部輝朗に貸し与えられたものを筆写 し、保存しておいた。原文はノートに書かれ、当時の日記をもとに書いたという。

新妻富雄 陣中日記 
歩兵第65連隊第7中隊・上等兵
 本日は残兵ガリ(狩)行軍三里半。午前七時半出発。午後四時帰隊第二大隊。




(私論.私見)