4284149−3 事件肯定派の講話集

南京事件に対する人間的想像力の欠落

−水谷尚子にこたえる−

津田 道夫


[筆者前註] 『世界』8月号の水谷論文は、見過ごすことができぬと考え、関係者と相談、私は私にかんする批判部分について反論することにした。私は『世界』岡本編集長との打ち合わせ通り、以下の小論を、去る8月5日5時PMに持参したのであったが、岡本氏からは8月17日付で「掲載は難しい」との手紙が来たので、本誌上に発表させていただく。私は岡本氏の論点を納得した訳ではない。特に「裁判でたとえ東氏が勝ったとしても、それで歴史的真実が証明されたことにはならないし、逆に負けたとしても日本の中国侵略が否定されたことにはなりません」というようないい方は、一つ一つのたたかいの評価を一般論に解消してしまうもので、到底納得の行くものではない。また、岡本氏は、「中国側の認識」の混乱についても言及しているが、侵略国民の側の知性のあり方として、いかがかと思われる。以下−、(99・9・13)

           *     *     *

東史郎の『東史郎日記』が、この度、江蘇教育出版社から上梓され、その出版記念会があって、東をはじめとする7名の訪中団が組織され、私もその末席に加えてもらった(99年4月)。かなりのハードスケジュールのなか、4月11日には北京・中央テレビの「実話実説」というトーク番組みたいなものの録画撮りがあり4時間余、私も出演、発言をしたが、それは半分ぐらいに再編集されて4月18、25日の両日、2回に分けて放映された。これについて、当日、視聴者代表みたいなかたちで出席、発言もしていた水谷尚子(抗日戦研究者)が『世界』8月号に一文を寄せ、東や私などの発言を批判している。東発言や東史郎=南京事件裁判に関する批判的論点については、東弁護団関係者のほうで反論を用意しているとのこと(『世界』10月号にあり…後注)、私としては、私の名前をあげての批判の部分を中心に簡単にこたえておく。ただ、それに先だち、産経新聞(99・6・2)は、第4面の全部をとって、水谷や一緒に出席していた堀地明が、東の証言を極力貶しめ、私、津田道夫の発言などにも言及、中傷的発言を繰り返していたのを、鬼の首でもとったかに扱い、南京虐殺=まぼろし化工作に最大限利用していた事実は指摘しておく(この産経記事に対する私の反駁については、障害者の教育権を実現する会機関誌『人権と教育』308号を参照せられたい)。併せて水谷は右産経記事が「古森義久電として事実経過を伝えている」として、これを前提してしまっていることをも付言しておく。

そこで早速、水谷発言を引用する。「津田さんは先程、日本の若者はどうだというような言い方をされましたが、ああいう風に十把ひとからげに日本人はどうであるとか、日本の若者はどうであるという言い方をされては非常に困ります。(中略)今の日本の教科書では、高校の教科書では100%、中学の教科書でもほとんど南京大虐殺について記載しております。(中略)ですから、ましてや高校生の6割が大学受験するとして、その中の半分は歴史を受験科目に選択するとしたら、南京大虐殺ということを若者が知らないはずがない。ですから全部の若者十把ひとからげに、どうであるというような表現をされることは、国外に出しては非常に誤解を招くので、こちらで生活している一研究生として(中略)そのような宣伝めいた誤った印象を海外に与えがちな発言は慎んでいただきたい、云々」(録音テープから。『世界』での引用とは少し違う。)

「宣伝めいた発言」とは、中国側の意に添うた発言ということであろうが、私を知る読者なら、私はそんな権威主義とは無縁であるのを存じているはずだ。それに水谷や堀地の発言は、日本・対・中国、日本人・対・中国人というシェーマに立っているが、私はそういう立場には立たない。南京事件についていえば、「まぼろし」派・対・「大虐殺」派という対立で問題を立てている。水谷の問題の立てかたと私のそれとのちがいは、水谷文の副題が「日中間に横たわる歴史認識の溝」となっているのにも明らかだ。そのうえで、水谷が、高校教科書の記述問題をもちだして、日本の学生の少なくとも3割は南京大虐殺を知っているといった珍妙な算数を披露している件については、指摘のみにとどめる。

私は南京虐殺について自分の問題として考え行動している少数の日本人の存在を否定したことはない。だから、日本人十把ひとからげ論などは水谷にお返ししておく。そのうえで私は、大量現象としては戦争の記憶、とくに後ろめたい記憶は認識内面の無意識部分に心理的に抑圧して、戦後的な日常を生きてきたものが大部分であり、そうした戦後的の中で、戦後生まれの人びとも、この問題を己れの問題として対象化しえなかったが故にこそ、今日、大虐殺=まぼろし化キャペーンが巾をきかせる余地が開けていると、そう述べた。文部省が止むを得ず規範化した「近隣国条項」にもとづいて、教科書に数行の記述があるからといって、それが実際の教科書実体を反映しているなどとは殆ど考えられない。

水谷は堀地明の発言(放映されなかった)をも引用している。「(前略)中国側が主張する死亡者30万人という数字については根拠不明だから(生徒に)教えていない」と。これに対して私が「日本は加害国だから中国が30万と言ったらその数字を信じるしかない」と答えたと、津田発言を戯画化してみせるのだ。日本侵略軍の占領その他による混乱、不法虐殺者数のカテゴリーをどうとるかなどで、被虐殺者数が特定できないとすれば、被害者側の中国が主張する三十万という数字を、とりあえず当面は出発点として議論する以外にないのではないかと、加害国民の一員としての当然の矜持を、私は語ったにすぎない。それを「死亡者30万という数字については根拠不明だ」などというのは、一方的に被害を受けた中国人の歴史感情にたいして、人間的想像力が全く欠落した言い分としかいいようがない。「根拠不明」ということで、実証的事実にのみ固執するなら、結局、南京虐殺は、数のうえから“藪の中”というところに堕して行かざるをえない。

つまり、小虐殺派・中虐殺派・大虐殺派と、数のうえでの“真実”を競うところとなるのだ。私は、たんに数だけが問題なのではなく、その殺し方、それに伴う掠奪・強姦・強姦=殺害などを総体として問題にしなければならぬと考える。

それだけではない。被害者数だけを問題にして行くと、それに伴なう家族破壊・財貨喪失・国土荒廃などまで想像力が及ばなくなり、南京事件の総体像が遂につかみきれないと、私は考えている。さらにいえば、被害にあいながらも生き残りえた人々の間に、どれだけのトラウマが蓄積されたかなど、視野の外に置き去られることにもなる。私は、討論の中では似た発言をした筈であるが、どうやら今回放映はされなかったようである。(99・7・29)

 

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第2回総会 記念講演 全文
(1999年6月5日、於 たんぽぽ舎)

南京事件 −− 虐殺否定論の動向

吉田 裕 一橋大学教授


目次

一、南京事件をめぐる逆流をどう考えるか
  (一)2つの官房長官談話
  (二)軌道修正に対する逆流
  (三)大きな流れは変わらない
    (1)「大東亜戦争肯定論」の退潮
    (2)野中官房長官の言明
    (3)第3次家永教科書訴訟の最高裁判決
    (4)福地淳教科書調査官の解任
    (5)国民意識=極端な排外主義への不同調
  (四)無視できぬ最近の動向
    (1)若者の中に広がる大国主義的ナショナリズム
    (2)アイリス・チャンの著作について

二、南京事件をめぐる論争について
  (一)保守派内部の亀裂
    (1)偕行社の方向転換
    (2)奥宮正武『私の見た南京事件』
    (3)福田和也「南京大虐殺をどう読むか」
    (4)中村粲「『南京事件』の論議は常識に帰れ」
  (二)虐殺否定派の最近の動向
    (1)国際法の再解釈による虐殺の否定
    (2)国際法の無視による虐殺の否定
    (3)敗残兵の殲滅の正当化


一、南京事件をめぐる逆流をどう考えるか

(一)2つの官房長官談話

吉田です。虐殺否定論の最近の動向をどう考えたらいいかということでお話ししたいと思います。最初は南京事件をめぐる逆流をどう考えるか、最近虐殺否定論というのがさまざまな形で盛んになってきていますので、その背景をどう考えるかということなんですね。その背景として、80年代から90年代にかけて日本の政府がある程度従来の路線から軌道修正した面があって、それに対する逆流という面がある。ひとつはそこに2つの官房長官談話とレジュメに書きました。82年と93年の官房長官談話です。82年は鈴木内閣の宮沢喜一内閣官房長官の談話。この時は、ご存知のように教科書検定が国際問題化して、「侵略」を「進出」というふうに書き改めさせた、教科書検定の国際問題化、それで中国や韓国から非常に厳しく批判されたのを受けてですね、教科書の内容を是正するということを、官房長官談話で発表したわけです。それから93年は宮沢内閣の河野洋平官房長官談話で、まあかなり慎重な言い回しではありますけれど、慰安婦問題には軍が関与したということを認めて、関係者に謝罪する、お詫びの言葉を述べるということを言ったわけです。これは従来の日本政府の態度からするとかなり大きな、軌道修正であるのはまちがいない。特に大きいのは82年ですね。このとき教科書検定基準というのが官房長官談話に合わせる形で改訂されます。それが、資料の1ですね。俵 義文さんの『教科書攻撃の深層』という本の中に書いてありますように、官房長官談話を受けて、82年に検定基準に「近隣アジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いには国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」という文言が加わる訳ですね。これ以降文部省はそこに書いてありますように、「侵略」を「進出」などと書き改めさせるようなことを強制しない。南京大虐殺に関しても、南京事件は同事件が「混乱の中で発生した旨の記述を求める検定意見を付さない」、あるいは「南京事件の死傷者数を記述する場合は史料によって著しい差があることを考慮した記述をし、その出所や出典を明示することを求める検定意見を付す」、という新しい検定方針が示されるのです。こういう中で教科書の見直しがなされて、その中で一斉に731とか従軍慰安婦に関する教科書叙述が登場するようになります。教科書との関連で言いますと、占領期から講和が発効する1952、3年までは日本の教科書に南京事件はちゃんと載っているんですね。ところが講和が発効して、1956年に現在の検定教科書制度ができて、検定が非常に強まります。そうすると一斉に教科書から南京事件が消えます。そして74年版の高校の日本史で再登場する、これが1社です。75年版の中学校の教科書にも2社に再登場する。84年になるとかなり全面的に復活してきて、84年版の中学校教科書、85年版高校教科書には一応全社の教科書に南京事件が載るようになります。短い記述ですが全社の教科書に記述が載るようになります。

(二)軌道修正に対する逆流

こういう流れが出てきたことに対する逆流や反発が、新しい歴史教科書を作る会とか自由主義史観の人々で、彼らは中学校教科書の慰安婦叙述の削除を要求してきた。それから、新しい歴史教科書を作る会や自由主義史観の人たちが中心になって、南京大虐殺の否定論を展開する。これは突き詰めていくと、はっきりしているのは二つの官房長官談話、これを取り消せという要求なんですね。最終的には2つの官房長官談話の前言取り消しということです。いま右翼の側が目の仇にしているのは、鈴木内閣のときの宮沢官房長官談話のもとで改正された先ほどの教科書検定基準、その中の近隣諸国条項というんですけれど、近隣諸国との友好、協調ですね、国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされているか、という一項が教科書検定基準に入ったために、執筆者や教科書会社がだいぶ書きやすくなったわけですね。この一項を削れということが彼らの主張の大きな眼目になってきているんです。そういう点で80年代に入って政府の方針も一定程度の修正があって、それを受けて教科書の叙述にも変化が現れてきて、こういう流れに対する逆流として否定論が盛んになって、右から政府の軌道修正を攻撃する動きが出てくることになります。

(三)大きな流れは変わらない

(1)「大東亜戦争肯定論」の退潮
しかし、大きな流れとしては変わっていない、あるいは変えられないということが重要です。教科書の慰安婦問題でも、国会で何度も文部大臣が自民党系の議員から削除要求を突きつけられましたけれど、削除に応じませんでした。それから1995年の戦後50年の時も国会で不戦決議をしようという動きがあり、それがあの「戦後50年決議」になるのですが、それに対抗して戦没者追悼感謝決議というのを各県でずーっと挙げていったわけです。そのときは95年末まで26県議会90市町村で採択された。ところが慰安婦記述の削除問題では96年末までに意見書の採択が9市町村、趣旨採択が1県1市1町、その後ある程度増えていますけれど、それでも戦後50年のときの勢いは明らかにないということですね。そこは非常に重要なポイントだと思います。そういった中で、60年代にあったような大東亜戦争肯定論というのは明らかに後退してきている。日本の戦争の意図がアジア諸民族の解放にあったというような、戦争を丸ごと肯定するような大東亜戦争肯定論は後退してきている面がある。それはたとえば資料の2を見てください。これはいわゆる戦没者追悼感謝決議をやった、終戦50年国民運動実行委員会が出した請願ですけれど、「わが国を一方的に断罪する『反省と謝罪の国会決議』に反対する請願」、「平成七年の終戦五十年を期に先のわが国の戦争を一方的に断罪し、関係諸国に対して反省と謝罪を表明する国会決議を行う計画が進められています、かかる決議は世界史上で唯一わが国のみが戦争責任を負う犯罪国家である うんぬん」ということで、日本だけが悪いんではないといっているんであって、日本は悪くなかったといっているんでは必ずしもないんですね、内容的には。ですから、ここでは意図そのものを肯定しているんではないんで、他の国も悪いことをやったけれど、日本もやった、どうして日本だけが謝らなくてはいけないんだ。そういう論理に実際にはなってきている。また県議会などでの決議の場合でも全会一致で挙げますので決議の内容をみますと、曖昧模糊としていまして、とても大東亜戦争肯定論にはならないんですね。宮崎県議会のを見てみますと、資料の真ん中のあたり、「この平和な豊かな今日においてこそ自らの歴史を厳しく見つめ」、これはきっと社会党が主張したんだと思いますけれど、「戦争の悲惨さと幾多の尊い犠牲があったことを憶い、またこのことを次ぎの世代に語り継がなければならない」。そういう薄まった内容のものになっていってしまうわけですね。ですから、非常に否定論とか戦争肯定論の声が大きく聞こえますけれども、60年代と状況が明らかにちがってきてる面があって、たとえば60年代は大東亜戦争肯定論という林房雄の本が出てきますね、そのころは戦争そのものを肯定していたわけですが、今は大きな声では日本の戦争目的そのものを肯定することは必ずしもできなくなっている。

(2)野中官房長官の言明
それから、内閣でいうと野中官房長官の言明が重要で、2〜3年前、自民党の幹事長代理だった時、南京の虐殺記念館を初めて訪問して、そのときに彼は政治家としてのこれはけじめであるということを言いました。それから今度の都知事選で石原都知事のいろいろな問題発言が中国側を刺激しましたけれど、そのときに野中官房長官は南京大虐殺はあったということを記者会見で言明したんですね。政府としてはそういう方向になってきています。

(3)第3次家永教科書訴訟の最高裁判決
第3次家永教科書訴訟の最高裁判決が97年8月29日にでましたが、これに関しては南京大虐殺に対する検定、家永教科書への検定は違法だということで、違法性が確定した。家永さんの教科書に、混乱の中の出来事だったということを書けということを、検定官が強制して、結局、「激昂裡に南京に入城した日本軍は」というようなったんですが、これは違法性が確定して、先ほどの俵さんの資料にありますように、南京大虐殺が混乱の中で発生した旨の記述を求めないというふうに、文部省もなってきているんですね。

(4)福地淳教科書調査官の解任
非常に重要なのは4番目の福地淳という教科書調査官、これは新しい歴史教科書を作る会系の高知大の教授で日本史の専門家なんですね。これが教科書調査官に、異例ですけれど(逆はありますが)、大学教授から直接教科書調査官になる。この福地さんは新しい歴史教科書を作る会のエージェントではないかといわれたんですけれど、彼が座談会で教科書検定基準の近隣諸国条項、ああいうものがあるから日本の教科書は自虐的になるんだということを発言して、出版労連とかいろんな会から解任要求が出ます。江沢民が来る前だったと思いますが、解任されました。政府としては近隣諸国条項を守らざるを得ない。対外的な公約として守らざるを得ないということですね。

(5)国民意識=極端な排外主義への不同調
それから国民意識としても極端な、非常に極端な排外主義を煽るような動きが強くなってきているのは事実なんですけれども、必ずしも国民全体が同調しているわけではない。そこで総理府の世論調査をみてみますと、従来から非常に気になっていたるのですが、96年の総理府世論調査の嫌米感、嫌韓感、嫌中感ですね、嫌米感というのは従来からあまり変化はなくてたいした割合ではないんですけど、96年の世論調査から中国に親しみを感じないというのが51%、韓国に親しみを感じないというのが60%と急に増えてくるんですね。そういう中国や韓国からの対日批判に対する反発がおそらくこういう形で出てくる。この傾向は変わらなかったのですが、昨年の調査では、嫌韓感、韓国に親しみを感じないという人たちがかなり、そのデータをメモしてこなかったんですが、かなり大きく減少しているんですね。『月刊世論調査』という総理府が出してる月刊誌で、恐らく今度の6月号で結果がでると思うんですけど、新聞に一部載りました。これは金大中の訪日、その後の向こうの日本文化の解禁政策、そういうものが日本側でも受け入れられている面があって、そう言う形でお互い歩みよりがみられれば、かなりの変化が出てくる、そういう可能性を孕んでいる。論壇のレベルではかなり嫌米意識というか嫌米感が強くて、くりかえし太平洋戦争はルーズベルトの陰謀だとか、そういう議論が非常に多くて戸惑ってしまうんですけれど、しかし総理府の世論調査で見る限りでは嫌米感に変化はありません。ですから、論壇とはかなりずれがあるんですね。そういう点で逆流も激しいのですが、日本社会が変わっていく面も一方であるのではないか。

(四)無視できぬ最近の動向

(1)若者の中に広がる大国主義的ナショナリズム
その一方で無視できない傾向もあって、若者の中に大国主義的ナショナリズムというか、嫌米感、嫌中感、嫌韓感が広がってきているということ、これは私の実感でもあります。大学で若い学生と接してきて、非常に従来とはちがうなあと思うのは、右翼的な、小林よしのり的な言説をまじめに信じている学生が増えてきているのは、おそらく間違いがない。先ほどの総理府の世論調査を見ても、若い世代が嫌米感、嫌中感、嫌韓感が強いんですね。若い世代の方がです。日本が大国になったという意識と、その中で、外国から、アジアから批判されることに対する反発というようなものが若い人たちの中にあるということはいえると思います。その場合、小熊英二さんが『世界』の論文の中で書いていて、これは重要だなと思ったのですが、新しい歴史教科書を作る会とか藤岡信勝とか小林よしのりとかいうのは天皇のことには触れないんですね。これは確かにそうなんです。自由主義史観でもなぜ天皇の事に触れないんだという会員の批判があって、自由主義史観というのは一番右は本当の右翼ですから、そういう人たちは大変不満をもっているようですけれど、確かに天皇のことには触れない。小林よしのりも天皇はおまけなんですね、彼の『戦争論』を読んでいても。さきほど説明を落としましたけど、資料3が小林よしのりのまんがで、これもたとえば、「でも動機はインドネシアに石油採りにいったんでしょ」、「大東亜共栄圏って後付けでしょう」、「欧米の後で支配者になるつもりだったんでは」、「アジアの人民に差別感情ももったでしょ」、「無駄な人殺しもしたくせに」、「掠奪強姦もしたはずだよ」、「日本兵の無駄死に多すぎじゃん」、「動機が不純」、「動機は侵略」、「動機は帝国主義」、「動機が不純」、「動機なんかいくら不純でもいい」、「結果が良ければいい」、「結果主義だ」っていうんですね。結果としてアジア諸民族を独立させましたということになってるんですね。そういう意図があったといってるのではないわけです。そういう点では本来の大東亜戦争肯定論ではないんですね。同時に天皇の問題があまり出てこないということです。

それに照応するように、右翼の評論家、福田和也という自称右翼がいるんですけど、彼は天皇ぬきのナショナリズムということを今年に入ってからかなり言うんですね。皇室というのが国民の精神的統合という意味をもたなくなってきていると、だからこれからのナショナリズムは天皇はなくてもいいんだということをいって、ちょっと波紋を呼んでいます。そういった動きが出てきています。それは実際、世論の中にもあって、資料4ですね、時事通信の世論調査ですけど、天皇に対してどうい感情をもっているかという世論調査ですが、尊敬しているが25.8%、親近感をもっているが34.3%、尊敬や親近感はないが19.3% 、関心がないが18.6 %。新天皇になってから尊敬の気持ちや親近感がないや関心がない、無関心層が無視できない数になってきてるんですね。だからますますあせって、君が代、日の丸の法制化とかそういうことを言うんでしょうけれども、無関心層ですね、尊敬の念をもたない無関心層がかなり増えてきている。それからもうひとつ重要なのは、女性でもいいんじゃないかという議論ですね、問い11あなたは女性が天皇になることに賛成ですか反対ですか、賛成27.8%反対21.4% 。この3年前の世論調査くらいからこういう傾向が出てきました。それと同時に世論調査の側がそういうことを聞き始めます。といいますのは、皇室典範の改正が必要になる情勢になってきているのですね。今の皇室典範というのは男系主義です。皇位の継承者は男系の男子、つまり男の子のところに生まれた男の子。つまり、さーやって女の子がいますよね、さーやが男の子と結婚して男の子がうまれても、その子は皇位継承者にはなれないんですね。結婚するともう皇族の身分を離れちゃいますから。明治憲法の主義をそのまま引き継いでいるわけです。そうして考えてみますと、今のお姫様たちが子供を産む年齢というのが、まあ高年齢出産というのがだいぶ可能になってきましたけど、もうそろそろ生理的というか肉体的な限界なんですね。今、皇室で生まれた最後の男の子が、あの髭のなまずの殿下、秋篠宮、あれはもう34〜5になるんじゃないですか。それ以後30数年間男の子が生まれていない、これをめぐってってかなり水面下でちゃんちゃんばらばらがあってですね、数年前に読売新聞がスクープしましたけど、宮内庁の内部文書では、どうするかいろんな場合を想定しているんですけど、できるだけ女にはしたくないというのが底流にあって、いろんな案を考えているんです。たとえば終戦直後に臣籍降下という皇族のリストラをやりましたよね、そのリストラされた皇族をまた呼び返して皇族にして天皇にするとか、かなり苦労してるんですけど、まあ明日あたり産まれたとか御懐妊ということになるかもしれないですけど、どうもこのままでは危なくなる、そうすると天皇の皇位継承者がいなくなるという事態がこのままではでてきてしまう。これは実は明治憲法を作るときも、男系男子に限定するというのは危ないんではないかという議論があって、女系でもいいんではないか、女帝ではなくても女系で、女性のところに生まれた男の子でもいいんじゃないか、という憲法草案がいくつもあるんですけど、結局最終的に男系男子になっちゃったんですね。その理由はよくわからないんですけれども、おそらくで大元帥としての天皇というイメージを、近代化の過程で国民の中に植え付けていこうとしましたから、大元帥というのが女性では・・・、というのがどうもあったようで、ジャンヌダルクのような例がありますけど、結局男系男子にしちゃったんですね。このままでは、おそらく皇室典範の改正にまで進むと思います。

最近出た文藝春秋の文春新書で、高橋紘さんと所功さんのお二人が『皇位継承』という本を出しているんですけど 、そこでも世論調査の結果が出ていて、「参考までに、共同通信加盟の各誌は、今年の『みどりの日』に皇位継承についてのアンケート調査結果を掲載した。それによると50%が女性を天皇と認めてよいとしている。前回、平成4年には容認派は33%だったから、この6年間で17ポイントも増加している。一方 『男子に限るべきだ』とする”典範遵守派”は前回の47%から31%に減じ、今回の調査で双方の比率は逆転したことになる。」ということをいっている。こういうことを考えると,ナショナリズムは若い世代の中にあるんですけど,それは必ずしも戦前と同じような復古的なナショナリズムではない、場合によったら福田和也がいうような天皇抜きのナショナリズム、少なくとも天皇の占める位置は非常に低いものになる可能性があるように思います。それとても流動的なところであり、軽率には言えないところですが、しかし大分いろんな意見が出てきていて、皇室典範に関しては加瀬英明のような、皇室のスポークスマンのような人でも「皇室典範の改正止む無し」ということを週刊誌などでいってますので、これはちょっと面白い状況だと思います。

(2)アイリス・チャンの著作について
一方アイリス・なチャンの本が出て、僕も読んだのですが、これも難しい問題を孕んでいて、外国人の目から見れば日本人というのはこういう風に見えるんだな、ということが非常に良くわかるし、戦後の日本社会が南京大虐殺の問題を曖昧にしてきたということもわかるんです。しかし、歴史家の側から見ると内容的にはいろいろ異論があって、特に戦後の日本社会で曲がりなりにも南京大虐殺のいろんな研究があった、その研究成果が反映されていない。これは語学の問題があると思いますから、そういう意味では日本の研究者の著作をしっかり海外に紹介していく作業が、これはやっぱり必要なのではないかなと思います。それからもうひとつ読んで感じたのは、日本社会について、彼女は「セカンドレイプ」っていうんですね、戦後の日本社会が南京大虐殺を曖昧にしてふたをして、確かにその通りなんですけど、その一方、たとえば80年代には教科書にしてもすべての教科書に、たった二、三行ですけど載るようになった。教科書執筆者の側、特に家永裁判というのが大きかったと思います。外国からの批判に加えて、内側からの努力としては、家永裁判というのは大きかったと思います。そういう努力によってすこしずつ変わってきている、そちらの面にも少し目を配ってほしいというのが、歴史家としての僕らの言い分ですね。

 

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「南京事件」

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<南京虐殺はなかった>とする、文芸春秋社が過去に同社のオピニオン雑誌「諸君」などをとおして行なったキャンペーンは正しいのだろうか。もしそのキャンペーンが間違っているのなら、嘘の情報操作をおこなう文芸春秋社はジャーナリズムとして失格である。

*2000年以降の加筆訂正分については、栗色で書込みます。


1999年8月号の「世界」の論文/他

1999年の8月号の岩波書店の「世界」の水谷尚子さんの書かれた論文には非常に興味を誘われました。タイトルは「私はなぜ東史郎氏に異議を唱えるのか 日中間に横たわる歴史認識の溝」です。

水谷尚子さんは南京事件をはっきり大虐殺であると肯定されているのですが、東さんの主張や中国側の公式見解をそのまま鵜呑みにしているわけではありません。

中国国営放送CCTVの超人気番組「実話実説」に参加されご自分の率直な意見を述べた水谷さんに対して、抗日戦争記念館職員の中年女性は「東先生の話をあなたはいったい信じるのか、信じないのか」と糾弾するように迫ります。また、中華書局「日本侵華叢書」編纂工作委員会主任の呉広義さんは「あなたは南京大虐殺を認めるのか認めないのか」、「百人切り競争」の野田と向井の写真を見せ「彼らをどうおもうか」と連呼します。

このように「イエスかノーか」の二元論で迫り、公式見解からはみ出したり少しでも異議を唱えると途端に激しく糾弾するやり方に背筋が凍るおもいがする、と水谷さんはコメントしています。

このように、加害者側と被害者側の意識のすれ違いや溝は考えていた以上のものがあります。

また、中国系アメリカ人のIris Chanさんが書かれた、日本人による南京虐殺を糾弾してアメリカ合衆国でベストセラーになった本、"The Rape of Nanking"についても、南京虐殺を認め、虐殺否定派を糾弾している「週刊金曜日」でさえも1999年11月5日号(No. 290)で「不正確さゆえに否定派の標的になる」と批判をくわえています。

ここにも、加害者側と被害者側の意識のすれ違いや溝があります。

私達日本人は日中戦争では加害者側ではありますが、やっていないことまで認める必要はありません。ただし、加害者側と被害者側の意識のすれ違いや溝がいかに深くとも、「対話」を避けることはせず粘り強く外交交渉をすすめるべきです。この論文で水谷さんが言われているように、やはり日本は中国への公式謝罪が必要だとおもっています。

日本人は正面から事実と真実に向き合い、それを克服するしか方法がないようにおもいます。


日本政府は何故口を噤んでいる!

まず、どうしてもおかしいのが日本政府の対応です。もし本当に南京虐殺がなかったのなら、何故「南京虐殺はなかった」と世界に向けて公式に声明を発表しないのだろうか。

南京虐殺があったとする東京裁判の結果はそのまま受入れたようですが、その後日本政府は南京虐殺があったかないかについては態度をあきらかにしていません。また、文芸春秋社が行なった「南京虐殺は幻」というキャンペーンについても放置しました。また、何年か前には、なし崩し的に映画「ラストエンペラー」の南京虐殺シーンも日本上映ではカットされたようです。

これって非常におかしいと私は考えます。

もし本当に南京虐殺がなかったのなら、「南京虐殺はなかった」と世界に向けて公式に声明を発表すべきです。国際的には「南京虐殺はあった」と考えられているのですから、なかったと公式に主張しない以上、「南京虐殺はあった」と日本政府は認めていると同じです。

公式に「南京虐殺はなかった」と主張していない以上、非常に影響力のある文芸春秋社が行なった「南京虐殺は幻」というキャンペーンをいくら報道の自由があるとはいえ、日本政府が放置するのはいかがなものか、と私は考えます。

うがった見方をすれば、日本国内だけでも「南京虐殺はなかった」と日本国民におもわせたい、という陰謀を日本政府自身が奨励しているととられても仕方がありません。

もちろん、報道の自由、つまり言論の自由はいかなる場合でも尊重しなければなりませんので、日本政府は「南京虐殺はあった」という公式声明にとどめ、出版の差し止めなどという強行措置を含めいかなる言論の弾圧も行ってはいけません。


中国政府が南京虐殺をでっち上げたのか?(それは不可能です)

もし本当に南京虐殺がなかったのなら、どこが南京虐殺をでっち上げたのか。それは現在の中国政府か。

どこの国でも政府機関など権力者によってなかったことをあったとでっち上げることは比較的簡単ですが、これは自国内の問題に限られます。この南京虐殺のような大きな国際問題をでっち上げるのは事実上不可能といっていいでしょう。

思想信条や立場が違ういろいろな国々の目が光っているからです。

もし南京虐殺が中国政府によるでっち上げなのなら、アメリカ合衆国をはじめとして日本が所属する陣営にいる国々(冷戦時代でいえば資本主義諸国)が、何故あれは中国政府によるでっち上げであると主張してくれないのでしょうか。少なくても日本からこれらの国々に働きをかければ日本の主張を支持してくれることは可能なはずです。

特に、米中国交正常化以前は、アメリカ合衆国にとって中華人民共和国は仮想敵国だったはずです。また、ソビエト社会主義共和国連邦が存在し、社会主義国諸国との冷戦時代だったわけで、現在ならいざしらず当時なら日本の主張が正しければ「南京虐殺はなかった」と主張してくれたはずです。

この点からも、南京虐殺はあったと断言することができます。


「南京への道」を読む

本多勝一氏の書いた「南京への道」を読んだのですが、中華人民共和国は社会主義国ですからかなりの取材制限はあったのにせよ中国への民衆への緊密な取材、および朝日新聞の南京攻略戦に従軍した記者の戦後の証言と実際に南京の攻略に参加した兵士の証言をとおして南京虐殺の真実を暴き出しています。

この本をお読みになることをおすすめします。

中国の民衆の声を現中国政府によるでっち上げだという方もいらっしゃるとおもいますが、この本に書かれている様々な証言は多種多様でありとてもでっち上げられたものだとは考えるわけにはいきません。

また、100歩譲ってそれをでっち上げと考えるにしても、朝日新聞の南京攻略戦に従軍した記者の証言や実際に南京の攻略に参加した兵士の証言までも否定することはできません。

日本軍が南京を敗戦まで長期間占領したため、実際に虐殺された人の数が20万なのか30万なのかはもうはっきりしませんが、数十万単位で中国の非戦闘員や戦闘員が、南京や南京攻略の途上の町や村で日本軍や日本軍に協力した中国人に殺されたのは紛れもない事実であると私は考えています。


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東史郎と東史郎=南京事件裁判について

                        津田 道夫

 


東史郎=南京事件裁判について、僅かながら末席の方で支援しているものとして、簡単な紹介をこころみたい。中国では、非常に大きく報道されているのに、日本では民主主義的な陣営にぞくする人にさえ、ことの真相があまり知られていないからである。

 ご存知ないかたのために、まず東史郎について簡単に紹介しておく。東は、中国侵略戦争が全面化した1937年の8月、25歳にして福知山第20連隊第3中隊の上等兵として応召、華北から華中へと転戦、南京攻略戦にも参加した。東は言う。「強姦、略奪、虐殺、放火・・・・・・南京占領前後の1ヵ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、私は自ら体験し、見聞きした」(『わが南京プラトーン』への「まえがき」)。

 そのとき東は勿論、「日本鬼兵」であり、そのようなものとして行動した。しかし、旧制中学時代、後の海音寺潮五郎(本名は失念した)に師事した事は、文学青年としてそこそこ文筆もたった関係で、刻明(ママ)な戦場「日記」を記していた。それじたい珍しいことである。そして193911月、郷里の京都府・円後町間人(たいざ)に帰還後、これを改めて整理し、自分の人生の記録として清書していた。東が、なぜ検閲の厳しいなか、戦場「日記」をもちかえりえたかといえば、彼は帰国途次、マラリアのため下船、南京病院に入院して、結局1人で帰国除隊という僥倖にめぐまれたからであろう。東は、この「日記」を戦後もずっと筐底にしまいこみ、人目にさらすことはなかったが、1987年「平和のための京都の戦争展」に乞われて展示、その省録が、198711月、『わが南京プラトーン−一召集兵の体験した南京大虐殺』として青木書店から刊行された訳である。

 その折、私は直ちに1本を購読、その加害体験をつつみかくさず公表する勇気と誠意には、現代日本の大衆的思想風土をもかさねて考え、少なからぬ感銘を受け、併せて侵略戦争の実相をつぶさに知ることをえた。その後、二、三度の文通をへて、拙著『南京大虐殺と日本人の精神構造』(社会評論社)には、東「日記」から多くの引用をした。私と東との関係は凡そこんなところに始まる。

 ところが、『わが南京プラトーン』には、東の元戦友で上官の橋本光治(同書では、「西本」と仮名になっているが)が、1人の中国人を引っ張ってきて、郵便袋に入れ、これにガソリンをかけ火をつけ、そのうえ「地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげ」まわるのを、さらに、手榴弾を二発紐で袋に結びつけて沼の中に放りこんだという記述がある。そして、手榴弾が水中で炸裂、「水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった」と、そう記述はつづく。

 この記述について、板倉由明らに使嗾された原告橋本光治は、「平穏な生活が乱され、家族や事情を知らない友人達にこのことが知られたらと不安になっている」として、東および青木書店を名誉毀損で訴えたのである。これが、東史郎=南京事件裁判といわれるもので、地裁も高裁も東側敗訴となり、最高裁では、この1月21日、「本件を上告審として受理しない」という、極めて一方的かつ乱暴な、それこそ一片(紙一枚)の通知で、いわば門前払いにしたのである。

 高裁段階では――最高裁段階でも――、東および弁護人、ならびに関係者が、わざわざ南京の現地まで出向いて、実際に郵便袋に人形をいれ、手榴弾を結びつけて池に放りこむなどの実験をしてみたり、現地検証の文書を持出したりしたのであったが、それらは一顧だにされなかった。

 民事訴訟の権利を乱用したこの裁判には、はっきりとした政治目標があった。「板倉氏らにとっては、裁判の結論が期待した結果にならなくとも、それでも一定の目的は達せられる。すなわち、被告東のように、加害の事実を素直に認め、戦争の真実を知らせようとすると、板倉氏らから、名誉毀損の裁判をはじめさまざまないやがらせをうけるだろうという恐怖心がつのり、勇気をもって発言しようとする人は少なくなるだろうからである。本件裁判は、名誉毀損に籍口して、被告らの言論、表現、出版の自由を妨害しようとするものである」(「被告代理人の準備書面」19951215日付)。

 さなきだに、板倉や偕行社(陸軍士官学校出の旧軍人の親睦団体)の諸君にそそのかされて訴訟にふみきった橋本光治は、法廷で、『わが南京プラトーン』について、「この本の旧版も新版も」読んでなく、「そもそも内容を知らない」とうそぶく始末であった。つまり、橋本が、ひとにそそのかされたことを、問わず語りに認めたということなのである。さらに、981222日、勝訴した橋本側の高池弁護士は、その記者会見の席で、「私は(南京大虐殺は捏造だと)思っていますよ」とおらんでみせた。中国の取材陣も多かったのに、会見する高池の背後には「南京虐殺捏造裁判勝訴」という横断幕がかかげられていた。その高池勝彦は、自由主義史観研究会主催で19991215日に開かれた「『南京』はホロコーストではない」(東京・港区)という集会での講師にもなっているのである。それに、裁判には、東、橋本の元中隊長森英生をはじめ、「心に軍服を着た連中」(東の表現)が傍聴につめかけていた。

 まさに、民事に名をかりた政治裁判でしかありえなかった。ここで争われたのは、南京大虐殺=否定論と南京大虐殺=真実論の対立以外にない。そして、地裁も高裁も最高裁も、公然と右否定論に与したということなのである。

 かくて、東史郎さんの南京裁判を支える会と東史郎さんの南京裁判弁護団は連名で、「最高裁判所による『上告棄却および上告不受理決定』へ抗議する」という、つぎのような文書を公表せざるをえなくされた。

「1月21日、最高裁判所(第二小法廷・河合伸一裁判長)が行ったこの決定は、著しく国際感覚と歴史認識を無視したものである。これは東史郎弁護団からのたび重なる要請を無視し、調査官面接を一度も行わず、また原告・橋本光治氏の『犯行自認ビデオ』や中国で行った手榴弾再現実験などの新証拠を吟味しないなど、まともな審理を怠っているものである。この決定は、東京高等裁判所判決をただ形式的に追認するという、司法の最高責任を放棄したものであると言わざるをえない。

 この裁判の主体は、歴史の証言者を裁判で恫喝し、事実を語ることを妨害し、また、南京大虐殺を『まぼろし化』しようと暗躍する者たちである。彼らは、南京の虐殺も放火も強姦も中国軍の仕業だと主張してきた。こういう主張は歴史の改ざんにほかならない。

 この裁判の背景を見ようともせず、最高裁判所が同様に『まぼろし派』に加担したことに強い憤りを禁じえない。

 また昨年1213日に、中国をはじめとする海外7万人におよぶ『南京大虐殺事件の事実に基づいた厳粛な司法判断を求める』抗議署名の提出も、まったく無視している。

 私たちは、決してこのような『決定』を容認しない。今後とも、東史郎日記と南京大虐殺の真実を広く世界に訴えて、歴史の審判を求めて、東史郎さんと共に闘い続ける決意である。2000年1月23日」

2000年3月3日

 

  寄稿依頼者(山口勇)の注:津田道夫会員に上記原稿を依頼したのは、東裁判についてのマスコミ報道がほぼゼロに近いことが、異常な事態だと感じたからであった。『北京週報』(2000.1.23)は、中国の外務大臣がピース大阪における「世紀の大嘘・南京大虐殺」と題する右翼の講演集会を許可したことへの日本政府(在中国大使)への抗議とともに、東史郎裁判の高裁判決に対する抗議を掲載していた。これを目にするまで私は東史郎裁判について無知だったので、中国研究所→日中関係学会→歴史認識に関する総合研究とホームページを検索してゆき、中国南京で作成されている東史郎支援のホームページに辿りつき、そこで津田会員の写真を見たので、連絡をとった、という次第である。「中国でいま最も有名な日本人は誰だろうか。小渕首相ではない。石原慎太郎東京都知事でもない。日本では無名に等しい東史郎という87歳の人物である」(古森義久「まかり通る中国側の感情論」、産経新聞、2000年3月28日号)。日本のマスコミでは、産経新聞だけが南京大虐殺虚構論を支持する立場から東史郎裁判のことを報道し、他のマスコミはすべて沈黙している。それゆえに、中国では中学生でも知っている東史郎という名前を、日本では情報通の知識人でさえ知らないという著しい情報ギャップが生まれている。その後、「ノーモア南京の会」などのホームページがあることがわかり、古森が意図的な誤読のうえに誹謗対象としている孫歌「日中戦争:感情と記憶の構図」(『世界』2000年4月号)にいたる諸論文があることを津田会員から教わった。孫歌論文は、東史郎裁判をめぐる日中情報格差を知るうえで格好の論文であり、現代中国史だけではなく、現代史研究者必読の論文だと思われる。他に、水谷尚子「私はなぜ東史郎氏に異議を唱えるか」(『世界』8月号)、東史郎裁判の東側弁護士・中北龍太郎「東史郎裁判と南京大虐殺」(『週間金曜日』11.5、『世界』10月号)、などが、日中情報ギャップを埋める手がかりとなる。



「南京事件」笠原 十九司 岩波新書

 
 笠原 十九司 Kasahara, Tokushi(1944.4.6)宇都宮大学・教育学部・社会系・教授

  [歴]東京教育大学・文学部・東洋史学
  [会]歴史学研究会,日本国際政治学会,東洋史研究会
  [研]東第一次大戦期中国民族運動の構造的解明/中国五・四運動史像の再構成
  [業]"アジアの中の日本軍〈単著〉"大月書店(1994)
     "五・四運動史像の再検討〈共著〉"中央大学出版部(1986)
     "中国国民革命史の研究〈共著〉"青木書店(1987)

  (電気・電子情報学術振興財団編『研究者・研究課題総覧(1996年版)』紀伊国屋書店 第1分冊 P813)

 「一九三六年八月、海軍は、それまでの「帝国国防方針」が陸軍の戦略にもとづいてソ連を主敵国とする「北進論」であったのを、米英を仮想敵国とする「南進論」を入れさせ、「南北並進論」に改訂することに成功した。」
(P 二四)

南進論」の戦略思想は”中国の「宝庫」をめぐる日米の角逐は、やがて太平洋を舞台とする日米両海軍の一大争覇戦を導かずにはおかない。そのため、対米戦を目標に軍備を強化して南進態勢を固めることが必要であり、その第一段階として中国全土、とくに英米の権益と勢力の集中する華中・華南において日本海軍の制空権、制海権を確立することが急務とされる”というものだった。」
(P 二六)

 「もはや、戦闘的には無力で、あらゆる手段をつかって渡江しようと長江の流れに漂う群衆が、殲滅の標的にされた。
(P 一五八)

日本軍の捕虜になるよりは長江の中で一緒に死のうと八人が板に乗り、長江にのりだした。夕方の五時ごろだった。
 (中略)
そのころ、日本軍の軍艦が長江にやってきて、巡視しながら、長江上の敗残兵を掃射しはじめた。さまざまな器材に乗り、あるいはつかまって長江の流れにただよう中国軍将兵が日本軍の機関銃の餌食となった。また、日本軍艦にぶつけられて漂流道具もろともにひっくり返され、溺死させられた人たちも多かった。戦友たちの無数の死体がたえず近くを流れていく。長江の水は血でそまり、凄惨な光景は見るにたえなかった。軍艦上の日本兵たちが、長江を漂流する無力の戦友たちを殺戮しては拍手し、喜ぶ姿も見えた。このときの怒りは、生涯忘れることができない。

(P 一五九)