4284149 | 事件否定派の講話集 |
(事件は必ず調べられる)
昨年の暮、ハワイに行きました。五日間の滞在でしたが三
つのことを経験いたしました。私より一日遅く日本から来たと
いうお年を召された男性が、「嫌なことがあるもんですね。今
日、ハワイに着きましたけど、機内に、二、三時間も閉じ込め
られ、随分疲れました」と仰るんです。「どうして閉じ込められたんですか」とお訊ねしましたら、「ホノルル空港で爆発物が仕掛けられたことが発見され、それで」と仰る。「爆発物は見つかったんですか」とお聞きしましたら「見つかったようですが、どうも日本人が仕掛けたようですよ」ということでした。
爆発物ということにも驚かされましたが、日本人の犯行と聞いて、もっと驚かされ、がっかりしたことでした。 ところが翌日、現地のバスガイドの日本人の方が仰るには、その爆発物というのは日本人のスーツケースに新型の小型ビデオカメラが入っていて、それがホノルル空港の係官には爆発物に見えたということでした。私たちはたまたま真相を聞きましたので真実を知りましたが、その話をされた男の方は事の顛末を知られただろうか、まだ爆弾騒ぎという風に思っていらっしゃるのではないかと思ったりしました。 二つ目は、交通事故の目撃です。私たちが乗ったミニバスが時速二十キロ十キロとゆっくり徐行しておりました。丁度二十メートル位先にライトバンが停まっておりました。そのライトバンと私達の間から乗用車が出て来て右折し、ライトバンに近づいた時、ライトバンの運転手がそれに気づかずドアを開けてしまった。接触事故です。ライトバンの運転手がどんなに自分の正当性を主張しても、車の破損状況や当事者の事情聴取、また大通りや私たち旅行者の目撃者により、非はライトバンの方にあると、話は一致すると思います。 三つ目は、昼過ぎにホテルで休んだのちカーテンを開けてみますと、ホテルに隣接する真向かいのマンションの駐車場に、人の死体が見えました。正確には死体の上にビニールが被せてありましたが、手が見えていました。その死体の横には人の形のような血痕が残り、肉片が散らばり、死体の場所からは血が流れていました。非常に吃驚したのですが、警官が来て事情聴取をしており、もし私がたまたまその死の瞬間を目撃していましたら証人となっていたことでしょう。その死体が警察の車で運ばれたのが四時過ぎでした。 この三つのことから言えることは次のことなんです。事件というものは必ず調べられる。そして結論が出るまで、答が出るまで、調べ上げられるということなんです。 今、私が申し上げたことを、どうか心の片隅にちょっとおいて南京の問題を御一緒に考えて頂きたいと思います。 |
(市民にたいする虐殺はなかった) いわゆる南京大虐殺事件というのは、昭和十二年十二月十三日に、南京が陥落してから起ったと言われています。虐殺とは、市民や、捕虜が、軍隊により、組織的に殺害されるということです。従って、この事件の検証のポイントは、市民が組織的に殺害されたのか、捕虜が組織的に殺害されたのか、殺害されたとすればその数はどの位だったのか、などです。 ところが今日「虐殺数」にかんしても、三十万人虐殺だとか二十万人虐殺だとか四万人虐殺だとか、はては三千人虐殺だとか、まちまちに言われていて、答えは一致しておりません。これは未だにこの事件が調べつくされていないということではないでしょうか。 そこで先ず最初に、南京で市民が大量に殺害されたのかということから話を進めていきたいと思います。 昭和十二年十二月八日、南京が陥落する五日前の日、重要な決定が二つ出ます。まづ城門が全て閉門されます。南京の城壁は東京の山手線と同じ三十四キロなんです。ちなみに大阪の環状線は二十二キロです。その城壁の出入り口となっている城門が閉じられるのです。もう一つは南京城内の市民は全員が安全地帯に避難するようにという、南京防衛軍司令長官唐生智の避難命令が出ます。その安全地帯というのは避難民のための非武装中立地帯で、広さは三・八六平方キロメートルです。従って、〇・九六平方キロメートルの皇居前広場の四倍の広さになります。そこに二十万人が避難しました。王固磐警察庁長官が、南京陥落の約一カ月前に南京残留市民二十万と発表していました。その数字が国際委員会に踏襲されて、国際委員会は人口二十万という風に発表したわけです。しかしこの二十万という数字の根拠の裏づけが長い間分らなかったのです。ところが、国際委員会委員長のラーベの日記が出たことにより初めて判明しました。 次に安全地帯の外は、どうだったのかといいますと、安全地帯の外から内に市民全員が避難しておりましたから、安全地帯の外は無人地帯でした。ラーベの日記には城内の安全地帯の外は人影が無いと書かれてあります。日本軍の戦闘詳報にも人が見えないと書かれてあります。そしてティンパーリ編の『戦争とは何か』にも安全地帯の外は「事実上の無人地帯」と書かれてありますから、これは一致しているわけです。 城壁の外、城外ですが、そこはどうであったかと申しますと、城外は戦場となることが予測されておりました。戦場となるところに残るような物好きな市民はおりませんから、城外の市民は安全地帯に避難するか、遠くへ逃げておりました。 従って安全地帯以外は事実上の無人地帯であったと考えるのが自然です。ところが、中国系アメリカ人のアイリス・チャンは、安全地帯以外に多くて三十万人が残留したと書いています。そんな三十万という人間の大集団を目撃した記録は一つもございません。そういう人間集団が城外にいるということに触れた記録も一つもございません。以上のことから、全ての市民が南京の安全地帯に避難していたと考えるのが自然になります。 そのような状況のもと日本軍が城内に入って行きました。十二月十三日に南京が陥落して、注意深く、一歩、一歩、足を進めて城内の飛行場の西の第一公園まで進みます。そこから更に西に進むと鮨詰めの安全地帯の南端に達することになりますが、それは翌十四日のことになります。十三日の時点では日本軍はまだ安全地帯に入っていなかった。ところがアイリス・チャンは十二月十三日南京が陥落すると日本軍は人を見かけるや手当たり次第に殺しまくって、最終的には三十万人が殺されたと言っておりますが、そんな大量無差別殺害というものはラーベの日記にも出てこないわけです。勿論、同時代のどの記録にも出てきません。安全地帯の外は無人地帯でしたから、無人地帯で殺人などできるはずもありませんでした。 また安全地帯で日本軍が組織的に市民を殺害したと仮定しますと、必ず誰かが目撃していたはずです。というのは安全地帯の面積は先程も言いましたように三・八六平方キロメートルでした。計算しやすいように四平方キロメートルとしますと、そこに二十万人が避難していたということは、百平米(三十坪)の土地に五人が避難し、縦五メートル、横四メートルの二十平米の土地に一人がいたことを意味します。殺人とか強姦とかの不祥事件が発生すれば、必ず誰かが目撃していたわけです。ところがその大量市民殺害の目撃の記録がありません。国際委員会委員長のラーベも、日本軍も、全く目撃しておりません。何よりも安全地帯の掃蕩を担当した日本軍第九師団の第七連隊は十三日ではなく、十四日に、安全地帯に入っています。 では実際どれ位が安全地帯で殺されたのか、どの位の殺人事件があったのか、それが『南京安全地帯の記録』という本に記録されています。本書は重慶の国際問題委員会の監修の下に準備作成されたと書かれてあります。編者は燕京大学(現北京大学)教授の徐淑希でした。この本が一九三九年に上海、香港、シンガポールで出版されます。 ここで重要なことは、中華民国の国際問題委員会Council of International Affairs というのは政府機関であると考えられる点です。その理由は、委員会と申しますと私どもの日本では民間機関という風にも考えられますが、中華民国の委員会はれっきとした政府機関でもありました。たとえばナショナル・ミリタリー・カウンシルといえば、これは中華民国政府の軍事委員会のことで、蒋介石が委員長でした。 この『南京安全地帯の記録』、すなわち『ドキュメント・オブ・ザ・ナンキン・セイフティ・ゾーン』というのは、南京市民の被害届の総特集です。この本の中に何件が書いてあるかといいますと殺人事件は二十六件です。被害者は五十二人です。ところが、その殆どが伝聞、つまり他人から聞いたという噂に過ぎませんでした。殺人の瞬間を目撃したというのは二件です。しかも二件とも合法です。目撃はしなかったが死体が確認されたという事件が三件で、死体は六体でした。これが南京の市民に関する被害の全体像です。 日本国政府外務省は、非戦闘員に対する殺害は動かすことのできない事実であると申しますが、どこにその主張を裏づける確証があるのでしょうか。 こういう風に申しますと、一人殺しても虐殺は虐殺だと仰る方がいらっしゃいますので、ご参考までに申し上げておきます。戦前海軍の鎮守府のあった広島県の呉に、昭和二十年十月六日、アメリカ軍が占領のためにやって来ました。呉には昭和二十一年二月から昭和二十七年までは英連邦軍(同年末現在で、豪軍、インド軍、英軍、ニュージーランド軍)が駐留しますが、昭和二十年十月六日から年末迄の五十日間にアメリカ兵による殺人事件の被害者は十四人でした。呉大虐殺と言ってよろしいんでしょうか。 それは言えません。その理由は、個々の兵士の悪行から市民殺害に至ったことと、軍隊が命令して組織的に殺害したこととは、区別しなければならないからです。これは要するに個々の兵士の悪行の結果と言えます。 さて南京の問題に戻りますと先程申しましたように陥落時の人口は二十万でした。陥落後に虐殺があったのであれば当然人口は減ります。ところが陥落一カ月後の人口は二十五万人に増加します。人口二十五万人というのは国際委員会の記録に出て来る国際委員会の認識でした。何故二十五万人という風に国際委員会が発表したかと申しますと、日本軍が市民に良民票を発行して市民登録を行っておりました。しかしその際「十歳以下の子供」と幾つかの地区では老女が含まれていなかったため、それを勘案して国際委員会は一月十四日「二十五万から三十万」と発表しますが、これを多すぎると見て十七日には二十五万と下方修正します。 虐殺があれば人口は減る。平和で安全であれば人が集まって人口は増えます。従って五万の人口増加、正確には四万なのか六万なのか分りませんが、兎も角、数万人の人口増加という認識に、誰も異論を唱えなかった。そのことに注意する必要があるわけです。数万人増加というのは人が増えて安全であったことを意味しております。つまり市民に対する虐殺が無かったということを強く私たちに示唆しているわけです。 |
(非捕虜の処刑は違法ではない) 次に捕虜が殺害されたのかということに話を移します。 昭和十二年十二月十四日、南京陥落の翌日に始めて第七連隊が安全地帯を掃討します。掃討というのは軍事用語でして、敵を蹴散らすという意味です。陥落直前、安全地帯に、支那の多くの正規兵が軍服を脱ぎ捨て、武器を隠し持って潜伏しました。司令官が逃亡していましたから、高級将校、その他も逃亡しました。 そこで烏合の集団となった支那兵たちは、司令官が逃亡した☆江門から逃げ出そうとします。しかし支那軍の督戦隊が兵士の逃亡を阻止するため機関銃で友軍兵士を撃ちはらったため、死体の山ができます。やがて督戦隊も逃げますが、一つの門に多くの兵士が殺到したため、かなりの兵士が圧死しました。 ちょっと横道に逸れますが、現在小学校で使われている教育出版の教科書『社会6上』は南京事件にかんして次のようなアメリカの新聞記者の目撃談話を載せています。 「ナンキンの道路上には、たくさんの死体が横たわっていた。わたしたちは、時には死体を前もって移動させてから自動車で通行することもあった。」 これは十二月十八日の『ニューヨーク・タイムズ』に出たダーディン記者の記事です。これを読んだ小学生は日本軍に殺された死体の山を連想するでしょう。ところが、その死体の山は、支那兵が☆江門から城外へ脱出する際に「踏みつけ」合って「圧死」してできたものでした。ダーディン記者とスティール記者は、南京陥落五十年後に、そのように訂正し、真相を告白しています。 つまり南京陥落直後の城内の兵士は次のように分類が可能でした。 戦闘で戦死した兵士、 野戦病院に運び込まれた負傷兵と、運び込まれた けれども死んだ兵士、 支那軍の督戦隊に撃たれて死んだ兵士、 城壁から城外に脱出した僅かの兵士と、脱出時に 転落死した兵士、 ☆江門を通って城外に出た兵士、 軍服を脱いで、武器は捨てるか隠匿して、城内の 安全地帯に潜伏した兵士、 以上の六種類に分類が可能です。 このうち問題になるのが、武器を隠匿して安全地帯に潜伏した兵士です。 もし支那の軍隊が安全地帯で蜂起して日本軍を攻撃しますと安全地帯が戦場になります。市民が傷つきます。日本軍も安全が脅かされます。そこで南京市民と日本軍の安全を確保するため正規兵の摘発が必要不可欠となってきたわけです。 ここで断っておきますが、もし安全地帯に一人の支那兵も逃げ込んでいなければ、また欧米人が安全地帯に逃げ込んでくる支那兵の侵入を断固として拒否していたならば、日本軍の掃討も摘発も処刑も必要なかったわけです。このような状況の下で日本軍は摘発しました。そして反抗的な兵士を処刑し、その他の兵士を捕虜として扱い、苦力(人夫)として働かせておりました。 問題はこの時の処刑が不法殺害に当たるのかどうかということです。先ず認識しておかなければならないことは、戦争という状況下の出来事であったということです。平和な状況下であれば、それは酷い、可哀想だと、色々な意見が出てきますが、殺すか殺されるか、一瞬を争う時には何を判断基準にするか、判断基準がどうしても必要となってまいります。それがハーグ陸戦法規です。 戦争には戦争のルールがあります。戦闘員には、戦争における義務と、戦争における権利があります。それを定めたものが「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」です。ご存じかと思いますが、これについて簡単に説明しておきます。 これは「陸戦に関する諸法規を包括的体系の下に成文化した唯一の条約として、この条約は不滅の意義を担う」と今日なお専門家に評価されている戦時国際法です。簡単にはハーグ陸戦法規と言いますが、これには条約と条約附属書がございます。その条約附属書が「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」です。その第一条が「交戦者の資格」となっております。最も重要な事項が第一条に出てきますが、それが「交戦者の資格」なのです。言葉を換えて言えば「交戦者の資格」とは「捕虜の資格」なのです。第一条を読んでみます。 第一条[民兵ト義勇兵]戦争ノ法規及ビ権利義務ハ、単ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラズ、左ノ条件ヲ具備スル民兵及ビ義勇兵団ニモ亦之ヲ適用ス、 一、部下ノ為ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト 二、遠方ヨリ認識シ得ベキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト 三、公然兵器ヲ携帯スルコト 四、其ノ動作ニ付戦争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト」 この「交戦者の資格」四条件は「民兵ト義勇兵」にのみ適用されると解釈される人がいます。しかし立作太郎『戦時国際法論』(日本評論社、昭和六年)が四条件に触れて、「正規の兵力たるときは、是等の条件は当然之を具備するものと思惟せらるる」と言うように、正規兵も当然この四条件を順守することは、言わずもがなの鉄則でした。そこでこの「交戦者の資格」四条件を支那軍正規兵に当てはめて考えてみますと−。 「一」にあるように、部下のために責任を負う指揮官をいただくことは、味方にとっても、敵にとっても、大変重要でした。たとえば指揮官がいれば指揮官の命令のもと全軍一丸となって降伏することができます。指揮官がいなければ、全軍一丸となった行動が望めない。一方がバラバラの行動に出たら、他方が困ります。ところが南京の支那軍は昭和十二年十二月十二日二十時に司令官の唐生智が逃亡していました。このように指揮官不在ということは第一条件に違反していました。 「二」は遠方より認識できる固有の特殊徽章を有することでした。交戦者と非交戦者とを区別することがハーグ陸戦法規の最も重要な観念でしたから、戦闘に市民が巻きこまれないよう、遠くから戦闘員と分るよう軍服を着て階級章を付けていることが、交戦者の守るべき義務でした。ところが城内の支那軍は軍服を脱いで安全地帯に潜伏しました。従って第二条件に違反していました。 「三」は公然と兵器を携帯することでした。外国の新聞をご覧になると分りますが、紛争地の兵士は公然と兵器を携帯しています。隠し持っていません。ところが支那軍正規兵は武器を隠し持って安全地帯に潜伏しました。日本軍の特務機関はトラック五十台分を摘発しました。従って第三条件に違反していたわけです。 「四」は戦争法規を遵守することでした。たとえば第一章の「一」「二」「三」その他を守らなければなりません。ところが三条件を破っておりましたから第四条件にも違反していたことになります。 ここで注意すべきは、義務を守って始めて権利が生じるということです。義務の違反は権利の消滅を意味します。 南京の支那軍正規兵は「交戦者の資格」四条件を守っていませんでした。従って彼らは囚われても捕虜となる法的資格がなかったのです。囚われても捕虜に非ず、今ここではこれを「非捕虜」と申し上げておきます。又、今ここでは、彼らの法的資格を問題にしているのであって、実際にはこの「非捕虜」を日本軍は相当数「捕虜」として待遇していたことをも言い添えておきます。 さて彼らの法的資格の問題ですが、「捕虜の処刑」と「非捕虜の処刑」とでは意味が全く違います。「捕虜の処刑」は明確に禁止されています。 しかし「非捕虜の処刑」は明確に禁止されていません。しかも『現代戦争論』(啓正社、昭和54年)において足立純夫防衛大学教授(当時)が書かれているように、「武装部隊は、戦争法規で明確に禁止されていない一切の手段をもって敵を攻撃し又は敵に抵抗する権利を有し、敵が抵抗を継続している限りそれを破摧することができる」のです。安全地帯の支那軍正規兵は「降ヲ乞ウ」て来ませんでしたから抵抗を継続していたと認識されます。このようなとき、明確に禁止されていない「非捕虜の処刑」が行われたとしても、それは合法であるということになります。従って、後に述べますように、南京の欧米人も日本軍の処刑を合法と認識していました。今ここではそれだけを申し上げて先に進みたいと思います。 |
(四万体で埋葬は完了) さて今まで市民が殺されたのか、捕虜が殺されたのか、という順序でお話してきました。そこで次に全体としての被害者数の問題に移りたいと思います。この数の問題は埋葬の記録から合理的な判断が可能となります。 南京の支那の正規軍が死体を放置したまま逃げますと、その死体を片付けるということは、ペストやコレラの疫病の発生を防ぐという意味から日本軍の行なわねばならない宿題となりました。日本軍特務機関が埋葬計画を立て、佐方繁木特務機関長がその実行を特務機関の丸山進氏に一任いたしました。丸山氏は埋葬を紅卍字会に一括委託し、二月上旬から始めて三月十五日頃には終ったといいます。 また一体当り手数料〇・三円を支払ったということが証言されています。〇・三円というと、当時中華民国の警官の月給が三円から五円の時代に、〇・三円が支払われたわけです。この丸山さんの証言を裏付けるものとして、例えば南京救済国際委員会、−国際委員会というのは二つございまして、今申しましたのは南京安全地帯国際委員会が発展的解消を遂げて、昭和十三年二月下旬にできた国際委員会です。 その南京救済国際委員会が支那事変から二年後の昭和十四年(一九三九年)夏に『南京救済国際委員会報告書』という英文の報告書を出版しました。その報告書の中に、「必要な埋葬作業の全てが紅卍字会によって行なわれた」とありますから、埋葬は全て紅卍字会が行なったという丸山さんの証言と一致するわけです。 さらに「埋葬完了のために二千五百四十ドルが使われた。実働約四十日間に紅卍字会はおよそ百七十人を雇った。実働一日あたり四〇セントの標準賃金で請け負われた」と書いてあります。そこで計算してみますと、一日に百七十人を雇って、一人当り〇・四ドルを払いますと、一日当り六十八ドルを支出したことになります。一日六十八ドルの支出額を三十七・三倍しますと二五四〇ドルになります。つまり実働約四十日というのは三十八日と推定できます。 丸山さんに私が初めてお会いしたのが平成七年でございました。それから二年後の平成九年でしょうか、ラーベの日記の翻訳が出ました。そのどこかに埋葬開始の記述があるのではないかと思って読んでいましたら、二月一日に埋葬が始まったとラーベは書いております。そうしますと二月一日から三月十五日までは四十三日間となり、『南京救済国際委員会報告書』の言う実働三十八日よりも、五日多いではないかという疑問が出てきます。が、これは当然でして、雨が降ると道路が泥道になり、大八車を引っ張れない。作業中止です。従って丸山氏の証言と先程の計算がほぼ一致するわけです。つまり実働三十八日から四十日であったことが確認されます。 次に全体で埋葬体はどのくらいになったのかを計算していくことにします。二月は一日二百体は無理だとラーベも書いております。丸山さんも仰っております。しかし最大限の二百体が連続二十五日間埋葬されたとしても、二月は五千体の埋葬です。三月は、ドイツ南京大使館ローゼン書記官のベルリン外務省宛て報告書(三月四日付)に、一日最大五百体から六百体だと書いてあります。最大限の六百体としますと六百体×十五日で、三月の埋葬は九千体です。これを足しますと一万四千体、簡単に一万五千体と申し上げておきましょう。私にとりましては実質一万五千体であろうと公称四万体であろうと、それほど問題はないのです。ただ実際には一万四千体、それに揚子江に少し流された死体もありますから一万五千体と判断しました。 ところが紅卍字会は既に埋葬完了当時から四万三千体と公称していました。丸山氏はそれは水増しだとおっしゃるんです。そこで丸山氏に「水増しの事実を知りながら何故お認めになったんですか」とお訊ねしましたら、「先生、私たち特務機関の仕事は難民救済です。難民の救済のためにはお金を放出しなければならない。だから目を瞑って市民活性化のために出したのです」と仰ってました。 そうしますと、南京の埋葬は実質一万五千体で、公称四万体しか死体がなかったということは、多く見積っても五万人以上は殺されなかったということを意味する。四万人虐殺が主張できる上限です。ですから中華人民共和国が三十万人虐殺だとか、或いは笠原十九司教授たちが二十万人虐殺だとか言うのは、全く根拠のないことになります。 その笠原教授たちが『南京大虐殺否定論十三の嘘』という本を出ましたが、その本は『南京救済国際委員会報告書』が∧南京の埋葬は紅卍字会によって完了した∨と記録していることを完全に無視しています。南京の埋葬は紅卍字会の作業で完了した、水増し数を除けば紅卍字会の埋葬で完了したと考えるのが正しい。そのことがこの『南京救済国際委員会報告書』に書いてある訳です。 |
(南京の欧米人たちも認めていた) そこで、この公称四万体がアウシュビッツのように虐殺された死体なのか、換言すれば∧殺害された市民と捕虜の死体∨なのか、それとも∧戦場で戦死したり合法的に処刑された死体∨なのかということが、残された問題となってくるわけです。このことについて、私は、先程、市民の虐殺はなかった、支那兵の処刑は合法であった、と述べました。これをより確実なものとして裏づけているのが次の事実です。 当時、南京虐殺事件について、南京の欧米人の外交官や大学教授は次のように検討し、次のように検証をし、次のような結論を出したという事実について、話をしたいと思います。 昭和十二年十二月十八日は南京陥落から五日後のことになります。『シカゴ・デイリーニュース』のスティール記者が十二月十八日付の『シカゴ・デイリーニュース』に、囚えられた支那兵は「略式裁判もなしに殺戮された」と書きました。彼は十二月十五日、南京を離れていましたから、これは南京の欧米人から聞いて書いたと判断されますし、「裁判なしの処刑」という事実が南京の欧米人の間で広く知られていたことを物語っています。 同じく十二月十五日、国際委員会が日本大使館宛ての抗議文のなかで支那軍正規兵は「法的資格を満した捕虜」であると宣言いたします。平たく言えば支那軍正規兵は囚われても戦時国際法に照して見る限り捕虜となる資格があるから、日本軍は支那兵を捕虜として扱い、決して殺してはならない、−と国際委員会は認識していたことになります。先程も申しましましたように、陥落後の日本人は反抗的な正規兵を摘発し、白昼公然と揚子江岸で処刑していました。南京城内で処刑しては市民に与える影響が良くないということで揚子江岸で処刑していました。この処刑を、欧米人は「裁判なしの捕虜処刑」であり、違法だ、と判断していたことになります。 国際委員会は十六人の欧米人で組織された私的な組織でした。メンバーには委員長のドイツ人ジョン・ラーベのほかに、南京大学教授マイナー・ベイツ、同教授ルイス・スマイス等々の社会的地位のある方々が入っていました。従って十二月十五日の四号文書が「法的資格を満した捕虜」という風に記したことは、国際委員会十六人の一致した意見だったと判断されます。 ところがこの十二月十五日だけの一日のみで、つまり十六日も処刑が行われたはずですが、その後国際委員会のどの文書にも、日本軍は「法的資格を満した捕虜」を「略式裁判もなしに殺戮した」といった記述が一切見えなくなります。 たとえば南京のドイツ大使館にゲオルグ・ローゼンという書記官がおりました。見るからに日本嫌いと評された方です。このローゼンは一月二十日付報告書の中で、南京下流の揚子江の中の島で日本軍が十八日以降展開する予定の掃討にたいして、これは「無防備の敵兵の殺害のことであり、人道的な戦争遂行の最高原則に矛盾している」、つまりハーグ陸戦法規に違反していると非難しました。ところが、その四日前に、南京の安全地帯で展開された掃討にたいしては、ゲオルグ・ローゼン書記官は一言も非難の言葉を発していないのです。 それから四日後の一月二十九日付報告書の中でジェッフリィ英国領事は、「軍(日本軍)の法律無視が続いている。司令部の統制がないためである。その大多数の事例は略奪の事例である」と書いております。ことの当否を別にすれば、略奪が日本軍の法律違反の典型であるとは言っておりますが、虐殺が日本軍の戦時国際法違反の典型だとは書いていないのです。 ところが、その四日前の一月二十五日、南京の有名な宣教師の南京大学教授マイナー・ベイツが四万人虐殺説を「メモランダム」の中に書いております。これがティンパーリが一九三八年(昭和十三年)三月に編集した『戦争とは何か』に掲載されます。ベイツは何と主張したかと言いますと、日本軍は、市民を殺すな、捕虜を殺すなと定めた国際法を「無視」して、一万二千人の市民と三万人の捕虜を殺した、と「メモランダム」で主張しました。お手元の資料にあるベイツの一文がそれです。 「非武装の四万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。そのうち約三割は決して兵士ではなかった」 つまりベイツは埋葬された四万体を全て虐殺されてできた死体とみなして四万人虐殺を主張した訳です。これが一月二十五日に書かれました。 他方、一月五日、漢口の総統司令部の宋美鈴はアメリカの友人に宛てた手紙のなかで南京虐殺数千人に言及してりました。また二月十三日には漢口の『大公報』は日本軍が南京市民二万人を虐殺したと報道しました。三月十九日には、漢口の準政府機関の支那国際連盟協会が編集する『チャイナ・フォーラム』が八万人虐殺を主張する匿名論文を載せています。 従って日本軍は南京で何をしたのかという問いにたいして、一九三八年(昭和十三年)三月までは異なる二つの見解があった、−という風に指摘できるわけです。 |
(確認された「南京」の史実) ところが意外な事実が発見されました。四万人虐殺説を主張するベイツの「メモランダム」は、一九三八年三月の翌月、四月に、中華民国の国際問題委員会の編纂した『日本人の戦争行為』に再び掲載されました。又、『要約・日本人の戦争行為』(一九三九年一月)『チャイニーズ・イヤーブック一九三八−三九』(一九三九年三月)『南京安全地帯の記録』(一九三九年五月)にも再録されます。この四冊は、いずれも中華民国の政府機関と考えられるカウンシル・オブ・インターナショナル・アフェアズ、漢字表記ではどのように表記されていたのか不明ですが、これを直訳しますと国際問題委員会となります。この国際問題委員会の監修する本に、ベイツの「メモランダム」がそっくりそのまま再録されたのですが、どうしたことか、右に引用した「非武装の四万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬証拠は示している。そのうち約三割は決して兵士ではなかった」とう肝心な四万人虐殺説の部分だけは、右の英文四冊において、そっくりそのまま削除されました。ベイツ「メモランダム」の心臓部が中華民国の政府機関と考えられる国際問題委員会によって否定されてしまったのです。この事実を全く無視して、『南京大虐殺否定論十三の嘘』は論じています。 そして昭和十三年四月下旬、東京のアメリカ大使館の大使館付き武官キャーボット・コービルが南京までやって来て、広く南京の状況を聞き取りました。このときコービルと会ったのは、アリソン領事、エスピー副領事、ベイツ教授、スマイス教授(米)、ジェッフリィ英国領事、ローゼン書記官(独)ほかでした。 彼ら六人は東京のアメリカ大使館のコービル武官にたいして、どこそこに死体があるという話はしましたけれども日本軍の戦時国際法違反の殺害を指摘したことはありませんでした。つまり戦時国際法に違反して日本軍が市民や捕虜を殺したという話は一切しませんでした。 大事なところですので一緒にお考えいただきたいのですが、このベイツ四万人虐殺否定と南京在住欧米人の言動は、どのような意味を持つのでしょうか。私は次のように考えています。 南京陥落から三カ月間、様々な虐殺説が飛び交いました。南京在住の欧米人はすべてそれを知っていました。その話が本当なのかどうか調べていました。そして終に陥落から四ケ月目の昭和十三年四月には、日本軍に対する審判を、全員が一致して下したということです。日本軍が、南京で虐殺をした、戦時国際法違反をした、ということは、妥当であるとは判断しなかったのです。それが顕著に分るのが、ベイツの四万人虐殺説の箇所の四回にもわたる削除です。そしてその結論にたいして誰も異論を唱えなかったということも重要です。 一九三八年(昭和十三年)三月まで飛び交った南京虐殺の非難は、翌四月を境にして、その後三年間一切公式には言及されません。その三年間に見られる主な記述を見てみます。たとえば「チャイニーズ・イヤーブック一九三八−三九」という支那人の編集した英字年鑑は、重慶の国際問題委員会の所有する「公式資料」から作成されておりますが、この「チャイニーズ・イヤーブック一九三八−三九」の中に「捕虜殺害」という章があります。その中に、ベイツの「メモランダム」全文が再録されていますが、四万人虐殺説だけは完全に削除されています。 その一カ月後、昭和十三年(一九三八年)五月二十七日、国際連盟の理事会が開かれます。この中で極東に関する決議が採択されますが、南京虐殺ということが出てまいりません。 毛沢東が五月二十六日から六月三日まで九日間、あの有名な「持久戦について」という持久戦論をぶちます。その九日間の中で南京という言葉が度々出てきます。日本軍はまずいことをしたと言っております。日本軍は南京で包囲したけれど殲滅しなかった。殲滅、即ち皆殺しにしなかった。だから我々は助かったが、日本軍としてはまずかった。こういう意味の発言をしております。これが五月から六月にかけての講演です。 そして蒋介石は七月七日の日中戦争、支那事変一周年の時に「日本国民への声明」と「友好国への声明」という二つの英文のメッセージを発表しましたが、その中で一切「南京虐殺」に触れておりません。半年前の一月五日に総統司令部の宋美鈴がアメリカの友人に南京虐殺数千人を主張していたにもかかわらずです。つまり昭和十三年四月に南京の欧米人が下した最終的な結論にたいして裏では宣伝があったにしても、公式には誰も一切文句をつけていないわけです。 次に上海の英文雑誌ですが、アヘン戦争から三年後の一八四五年にイギリス租界ができて以来、かつての上海には警察権と行政権を外国が持つ租界が成立しておりました。その国際都市の上海では外国人が様々な英文の雑誌を自由に編集し出版しておりました。その英文雑誌は南京陥落三ケ月間は南京の欧米人の主張を基に「南京虐殺」を書いていましたが、一九三八年(昭和十三年)四月以降になりますと文責の明らかな論評は一切「南京虐殺」に言及しておりません。 さらに当時の国際連盟の各国の協会の一つとして支那国際連盟協会が存在しておりました。準政府機関の支那国際連盟協会の発行する週刊の英文雑誌『チャイナ・フォーラム』は一九三八年三月十九日号が匿名論文で「南京虐殺八万人」を主張しておりました。ところが、それにもかかわらず、日中戦争一周年の時の七月九日号の特集記事「日中戦争の一年−研究グループのための練習問題」は「南京陥落後」を問題にしながら「南京虐殺」に全く触れない訳です。これは自己否定、即ち三月十九日号の「南京虐殺八万人」説の白紙撤回でした。この事実もまた今まで隠されてきたわけです。 同じことは支那にかんする最も権威ある英字年鑑『チャイナ・イヤーブック』にかんしても言えます。上海で英国人の編集発行する『チャイナ・イヤーブック』一九三八年版は末尾に「過去の主な出来事」という索引を載せております。その索引の「南京」の項目に出てくるのは、一九二七年(昭和二年)三月に蒋介石の国民革命軍が日英米三ケ国の領事館やキリスト教会を組織的に襲撃して五人を虐殺した忌まわしき「南京暴行事件」でした。しかも、この歴史認識は誰からも非難されませんでしたから、翌年の『チャイナ・イヤーブック』一九三九年版もこの歴史認識を明記しつづけています。つまり南京で戦時国際法違反の市民殺害(や捕虜殺害)があったとすれば、それは一九三七年の日本軍南京占領時ではなく、その十年前の支那の国民革命軍南京占領時であった。この事実が『南京大虐殺否定論十三の嘘』という本では完全に無視されております。 |
(「南京」の悲劇) このように多くの人が三ケ月間「南京虐殺」を散々主張した揚げ句、昭和十三年四月以降は「南京虐殺」についての言及がぱったりと止まるのです。このような状況をどのようにお考えになりますか。私はいわゆる南京大虐殺事件にかんしては既に一九三八年(昭和十三年)四月の時点で一致した答えが出ていたと考えます。それにもかかわらずその答が人目につかないよう隠されてきたと考えます。 最初のハワイの死体に戻りますと、仮にそれを検証した警察が、自殺という結論を出したとします。その自殺という結論を否定して、たとえば一年後に、いや自殺ではないんだ、他殺なんだと言うためには、その他殺説を支える決定的な新証拠が出されなければならないわけです。同じように、一九三八年四月の段階で南京の欧米人が一致した結論を出していたにもかかわらず、それを覆そうと思うのであれば、それを覆すに足る決定的な新証拠を提示する必要があります。しかしそのようなものは存在しませんでしたから、一九三八年四月から三年間「南京虐殺がなかった」という南京の欧米人の一致した答えを、誰も覆すことができませんでした。 ところがエドガー・スノウの『アジアの戦争』(一九四一年)はベイツの四万人虐殺説が再三再四「公式資料」から削除された事実をひた隠しにしたまま、ベイツ説を基に、四万人虐殺を主張しました。しかも、スノウは兵士と市民の比率を逆転させ、そのうえ大部分が女子供であったとベイツの言わないことまで主張します。しかし、そこには、新証拠も新発見も何もありませんでした。ただの蒸し返しでした。この蒸し返しが日本にとって第一の悲劇でした。ところが、それが検証された結論であるかのように、東京裁判で主張されました。これが日本にとっての第二の悲劇となります。 東京裁判は勿論何の確証もなしに「南京虐殺はあった」と判決をくだしました。それがそのまま今日に至っています。昭和四十七年に本多勝一『中国の旅』が出て以来、それからはたくさんの本が、また学校の教科書までが、「虐殺はあった」と言い続けてきました。そのため私たちの中には動かしがたい先入観があります。 しかし今まで説明してきましたように、一九三八年(昭和十三年)四月の段階で既に南京の欧米人が南京で虐殺はなかったという一致した結論を出したという、この忘れられた隠された事実に立ち戻って、私たちは常に考え直さなければならないのではないでしょうか。最後までご清聴いただき有り難うございました。 |
現在、「南京」がつく歴史用語は複數あつて、それらが錯綜し、混亂を助長してをります。ちなみに、「南京事件」と云へば、國民黨の北伐の過程で發生した事件を指します。(『大東亞戰爭への道』參照)中村粲教授はこの「南京事件」が、コミンテルンの指示に基き、革命軍中に入り込んだ共産分子によつて惹起こされたものとしてをります。それを考へると、南京攻略戰の最中に發生したとされる「南京虐殺」を「南京事件」と呼ぶのは、共産主義者の起した「南京事件」を覆ひ隱すのが狙ひである、と推測する事も出來ます。
Yahoo!掲示板で、私が申した事を繰返します。「南京虐殺」が「あつた」と言ふ人達は、南京周辺で起つた掠奪・暴行・捕虜處刑をひつくるめて「南京虐殺」と呼ぶべし、と主張します。これに對して、私は次のやうな喩へ話で反論しました。
西暦2000年4月1日午前6時丁度に、澁谷で殺人事件が、新宿で放火事件があつたとして、その二つの事件が同じ時刻に、同じ東京都區内で發生したからと云つて、「東京事件」と呼ぶのは妥當か――この二つの事件の間に、何らかの繋がりがある事が立證されたのならばともかく、論理的に何の繋がりもない別個の事件を一つに纏めてしまふのは、亂暴な話です。所謂「南京虐殺」「南京事件」では、ただ單に「南京で同じ頃に起きたから」と云ふだけの理由で、複數の事件を一つに纏めてしまへ、と云ふ話になつてをります。ですから、私はそれらの「複數の事件」を「一つに纏めてしま」ふべき根據を「南京虐殺あつた派」に要求した譯です。「あつた派」はその根據を一切呈示出來ませんでした。
私は、存在しない事件に「南京虐殺」とか「南京事件」とか、名前を與へてやる必要など無いと言ひたいのであります。「あつた派」にしてみれば、私の主張は腹に据ゑ兼ねるものです。だから彼等は、私を氣違ひ呼ばはりし、私を默らせる爲に奔走してをります。しかしながら、私の指摘を無視する事によつてはじめて「南京虐殺」が成立するのならば、「南京虐殺」など存在しない事は明かなのであります。
まあ、支那政府の言ふやうな「30萬人の虐殺」があつたとしても、たかだか30萬人です。ヒットラーやスターリンが數千萬人殺したのに比べて、誠にけちな「虐殺」です。しかも、ヒットラーやスターリンは、己の正義を信じて虐殺をやらかしたのに對して、日本軍は何の正義も信じないまま「虐殺」を(やらかしたのだとすれば)やらかしたのであります。私は、さう云ふ根本的な違ひを無視して、「俺達の御先祖樣は大虐殺をやらかしたのだぞ」と日本人が威張るのは間違つてゐると思ひます。
己の正義を信じて敵に對して冷酷になるのと、己の正義を信じられずに敵を闇雲に殺すのとでは、結果が同じ「敵を殺す」事になつても、同じ評價を與へられるべきではありません。前者は勇氣の發露であり、後者は臆病の發露だからです。
電腦正統記傳言板に投稿した記事。
★南京事件の大疑問(資料)
※1937(昭和12)年12月の南京攻略戦で南京「大虐殺」事件がおこったというが、この事件は以下のような理由で存在したかどうかも疑問である。多数の人が死んだだけでは虐殺ではない。当時「支那事変」という名の戦争中だったのである。「事件」を主張する人は、人が死んで当たり前の状況だったことを忘れている(わざと?)のである。
※個人的な非道や一部部隊による捕虜殺害はあったが、これは組織的な「大虐殺」の証拠とはならない。
※中国で、南京「大虐殺」事件の写真集が売られているが、なぜか一般の日本人には販売しない。しかし、南京の全住民が殺されたこの事件で、いったい誰が「血に飢えた日本軍」の目を盗んで写真を撮ることができたのだろうか? ちなみに、南京「大虐殺」の写真証拠と証明されたものは、一枚も残っていない。なぜなら、死体が写っているだけの写真は、証拠にはならないからだ。
※推測や伝聞に基づく南京「大虐殺」事件が教科書に載っているのに、日本人がソ連軍 や中国軍に虐殺されたり、強姦されたりした事件が載っていない事に疑問を感じない か?
◎「大虐殺」を主張する人は、下記のような疑問に答えられない。
1.日本軍は30万人殺したと言うが、当時の南京の人口は16〜25万人である。しかも戦 闘が迫って避難する人々も多かった。さらに日本軍の南京入城から1か月後には人口5万人になっている。その後の日本の8年にわたる軍政下で、人口は増えつづけている。虐殺があったとしたら、一般市民は南京に戻らないのではないか。
2.何十万人もの人間を短期間で殺すためには組織的な準備が必要である。ナチスの収容所のような所でも、一度に殺すには限界がある。ちなみに広島の原爆で人口30万6500人のうち24万7000人が死んだ。それに匹敵する人数を、数日間で行うことは不可能である。仮に東京を絨毯爆撃しても7〜8万人が限界であると考えられている。しかし、もちろん日本軍はそのような準備はしていなかった。
3.大量に死体を放置しておけば当然伝染病が発生するので、直ぐに殺した側の軍隊はそこから離れなければならないはずだ。しかし、日本軍は南京を統治する意思があったので組織的に大量虐殺を行い、病気をはやらせるわけがない。
4.日本軍は南京が平静を取り戻したのち、軍人と民間人を識別するために「良民票」 を発行したが、その発行数は約20万で、これは外国の機関にも確認されている数である。つまり、南京攻略戦で一般市民はほとんど死んでいないということである。
5.軍隊が貴重な「鉄砲の玉」を抵抗能力のないものに対して無駄遣いさせるはずがない。また石油をかけて殺したという話もあるが、当時は「石油の一滴は血の一滴」と言われており、これもまた考えられない話である。
6.欧米の外交団や反日的なキリスト教牧師や大学教授,ジャーナリストが南京城内に残っていたので、司令官の松井石根大将は細心の注意を払っていた。近くにある中国国革命の父・孫文の墓を荒らさぬことまで気に掛けていた。
7.軍需品や必要な食料を占領地域から徴収することは国際法上合法である。これは日本軍人の悪事ではない。
8.東京裁判で初めてこの事件が公にされたが、証人のマギー牧師が実際に見た殺人事件はたった1件で、しかもそれは警備兵に誰何(すいか)されて逃げたからであった。誰何して逃げれば味方でも殺すのが戦時国際法の措置である。それ以外の彼の証言は伝聞,噂話,憶測ばかりであった。
9.マギー牧師は当時の南京城内の実写フイルムを所持し、これは現存しているが、死体の映像が写っているだけで、日本軍の仕業かどうかはわからない。東京裁判にも証拠として提出されなかった(つまり、採用される見込みがなかったということ)。
10.中国軍は国際法で禁止されている便衣隊(非戦闘員を装った兵士、ゲリラ。便衣隊を銃殺してもジュネーブ条約第4条により合法である)の取締りをしなかったために、便衣隊に混じって、不幸にも民間人が殺されたケースは考えられる。これを含め、日本軍人による若干の事件はあったが、松井大将は犯人を軍法会議にかけ、厳しく処断している。ちなみに軍法では強姦者は銃殺であった。
cf. ハーグ条約(1907年)では、敵から見えるように武器を持ち、正規兵の服装をしない者(つまりゲリラ)は、条約の与える保護を受けることはできないと定められている。これは、現在も生きている戦時国際法である。
11.南京は国際都市であり、非戦闘員を集めた「安全区」があり、欧米人が管理していた。当時日本に反感を持っていた米,英,仏も外交的な抗議を行ってはいないし、「安全区」を砲撃せず、病院に肉などの食料を贈った日本軍の行為に対して感謝状まで贈っている。
12.蒋介石は小さなことでも国際連盟に訴えていたが、南京での出来事を国際連盟(日本は脱退していたが)に提訴していないし、他の問題で日本を非難した国際連盟が、南京「大虐殺」を非難していない。
13.当時、支那事変のニュースを送っていた欧米の通信社(マスコミ)が、本国に「大虐殺」事件を打電していない。
14.日本の新聞記者や著名な評論家・作家など
120人も南京陥落と同時に南京入りしたが、戦時中は軍が怖くて批判が無理だったとしても、戦後に至っても「大虐殺」に関して何の記事も書いてはいないし発言もしていない。ちなみに、支那事変の初期には、報道は自由であった。「大虐殺」を非難する「ジャーナリスト」本多勝一や「歴史学者」洞富雄,藤原彰一らによる著作は、当時少年だった数人の「証言」を一方的に伝えたもので、検証を行っていない。ゆえに信憑性が薄く、また関係者の「回想」なるものも、矛盾に満ちており、時流便乗的なものばかりで史料とはなりえない。
15.日本軍は首都南京の被害が大きくなることを考慮し、蒋介石に対して南京をオープ ン=シティ(無防備都市=国際法により、降伏する代わりに敵に攻撃されない)とすることを勧めたが、彼はこれを拒否した。責任者である将軍達は市民や敗残兵
(中国人敗残兵はタチが悪いことで国際的に古来有名である。また、虐殺したり、死体を辱めることも常であった)を残して逃げてしまっていた。彼らによる略奪や強姦,殺人といった事件もあった(米国の外交官や新聞記者が、中国人敗残兵が市民から衣服を奪い、抵抗する者を殺しているという報告している)。オープン・シティにしないのであれば、降伏するか、徹底的に戦うかの意思を内外に表明すべきであった。首都南京で戦闘が行われた混乱の責任は国民政府にある。
16.南京陥落前に南京を脱出したドイツ人の日記なるものが南京「大虐殺」事件の新資料として宣伝されたことがあったが、そこには、「南京の揚子江岸は、死骸が山のようにあった」と書いてある。この時日本軍はまだ南京に入っていないのであるから、これが事実なら「大虐殺」は日本軍以外の何者かが行ったことになるのではないか?
※余談であるが、(昭和2年の)「南京事件」や「済南事件」以外にも、日本の敗戦後中国に在留していた日本人が、無実の罪で各地で中国人に虐殺されるという事件が起きており、行方不明者も含めてその数は5000人にのぼるという。鞍山(1500),本溪湖(290),安東(300),黒河(200),哈爾浜(1300),通化(700)など(地名のあとの括弧内の数字は殺された日本人の数)。