428415 南京事件の史的経過と政治化の過程

 60年間の、国内外の「南京大虐殺」事件の研究は、おおむね四つの段階に分けることができる。



【第一段階】(30年代末から40年代の終わり頃、事件直後から敗戦前までの動き)
 事件直後にも一定、その後も隠然と「南京大虐殺」の残虐行為が伝えられていた。第二次世界大戦での日本軍の敗色濃厚になるに連れて、「南京大虐殺」が国内外で公然と語られるようになった。一連のドキュメント的なニュース報道、映像、専門書等の資料が出版された。それらは南京大虐殺事件の有力な証拠、南京大虐殺史研究の一連の貴重な歴史的史料となり、それ以降の研究の史料的基礎を固めた。
〔その@、中国内外の記者の当時の現場のニュース報道〕
 日本軍が南京に侵攻し占領したとき、南京にはアメリカ、イギリスなどの外国人記者が留まっていた。ダーディン、スティール、スミス、マグダニエルとパラマウント映画ニュースのメンケン撮影技師等である。彼らは日本軍の残虐行為を目撃した後、それぞれ、『ニューヨーク・タイムズ』、『シカゴ・デイリー・ニュース』、AP共同通信社、ロイター社等のメディアで事件の暴露を行った。その中で、最も早く南京大虐殺の情報を報道していったのはアメリカの記者のダーディンであった。1937.12.18日、彼が『ニューヨーク・タイムズ』で報道した「捕虜全員を殺害、南京での日本軍の残虐行為拡大。民間人も殺害、アメリカ大使館も襲撃にあう」という知らせで世界中の世論が沸騰した。続いてイギリスの『ザ・タイムズ』、ソ連の『プラウダ』等も相次いで報道した。

 国外のニュースメディアが日本軍の残虐行為を暴露したのと同時に、中国内の『大公報』、『中央日報』、『新華日報』等も、日本軍の南京での残虐行為に対して、また大量の暴露と報道を行った。『新華日報』だけでも1938.1月から5月まで、日本軍の南京での残虐行為のニュースを10数編報道している。ちなみに、1937.12.25日の「シャンハイ・イブニング・ポスト」は「南京入城後殺人鬼と化せる日本軍」、1938.1.23日の広東の「中山日報」は「南京で殺害されたる支那人1万人以上、姦淫されたる婦女数8千〜2万人」と報道されている。 
〔そのA 南京に留まった中国人、外国人の手紙、日記および映像資料〕
 当時、南京にいた外国人たちが、自分の眼で目撃した残虐行為を詳しく、いつわりなく記録し、手紙の形式で友人に知らせている。1938.3月、イギリスの『マンチェスター・ガーディアン』紙の中国特派員のティンバリーが、これらの資料をまとめて編集し『戦争とは何か−中国における日本軍の暴虐』(英文版)を発行した。この本の中国語版が1938.7月、漢口の民国出版社から発行され、郭沫若がこの本に序言を寄せている。彼は「このように公平で客観的な描写は、われわれ自身の手にはなりがたい。……ここには人類の同情が、それにもまして力強く正義の叫びがこもっているのだ」と述べている。

 南京に留まった南京安全区国際委員会の委員で、国際赤十字会の南京分会委員長のマギー牧師は、16ミリカメラで、生命の危険を冒して、極めて秘密裏に日本軍の南京での残虐行為を撮影している。南京国際安全区の副総幹事のフィッチは、マギー牧師のフィルムを南京から上海に極秘に持ち出し、そこで四部のコピーをつくり、一部はドイツの外交官のローゼンに贈り、一部はイギリスの宣教師に送り、一部はアメリカに持ち帰り、一部は中国に残した。そのフィルムは世界中に日本軍の残虐行為を暴露した。このフィルムは1991年アメリカであらためて発見され、今日までに残された、当時、現場で撮された、南京大虐殺の動く映像になっている。

 当時、南京にとどまり、身をもって体験し、自分の眼で日本軍の残虐行為を目撃し、逃げのびた南京の軍人や一般市民たちは、日記やドキュメントの形式で多方面に血なまぐさい日本軍の残虐行為を明らかにしている。その中には『陥都血泪録』、『陥京三月記』、『淪京五月記』、『血泪話金陵』、『地獄中之南京』等がある。
〔そのB 日本側資料
 日本軍の市民虐殺、掠奪を最初に記述したのは石川達三の「生きてゐる兵隊」で1938年に発禁となった。石川は「中央公論」の特派員として1938(昭和13).1.4日南京に乗り込んで、八日間の滞在中に第16師団歩兵第33連隊の兵士たちを中心に取材したのち、帰国して一気に「生きてゐる兵隊」を書き上げ、「中央公論」3月号の創作欄に掲載された。330枚のうち80枚が伏字ないしは削除されていたが、2.18日発売と同時に内務省から頒布(はんぷ)禁止処分通告された。石川と雨宮編集長は警視庁に連行され、8.4日起訴されている。

 当時の日記としては、小川関治郎「ある軍法務官の日記」(みすず書房,2000年)も貴重資料である。

 (軍の命令で整然と捕虜を殺戮することと、出会った市民を殺傷したり徴発と称して略奪することは別である)


第二段階(45年〜48年、敗戦直後から極東国際軍事法廷までの動き)

 日本国内では、日本軍の南京での残虐行為について不問にしてきた。そのため、極東国際軍事法廷が日本の戦犯を裁判する前までは、日本国内のほとんどの人はこの事件について耳にすることはなかった。その理由として、事件肯定派は「報道管制が敷かれていた故」とし、事件否定派は「いわれるほどの事件が存在しなかった証拠」とみなす。

 40年代中期、日本の戦犯裁判にともなって、極東国際軍事法廷と中国南京戦犯裁判軍事法廷は、南京大虐殺事件の調査と確認ををおこない、裁判の保存書類をつくった。これがまた南京大虐殺史の直接の資料にもなっている。

 極東国際軍事法廷は南京大虐殺事件について専門的に審理を行った。南京大虐殺は、第二次世界大戦期間での日本軍による残虐行為の中でも最も際だった事件であったため、法廷はこの事件について審理して、一連の重要な保存書類をつくった。たとえば起訴状、調査して書面で出された百余件の証言と関係資料、伍長徳、梁廷芳、マギー、ウイルソン、スマイス、ベイツ等の中国および外国の証人の証言、検察と被告側の双方の問い質しと申し開き文や松井などの上申書、そして、1218ページにのぼる厖大な『極東国際軍事法廷裁判書』の中の「南京攻撃」と「南京大虐殺」に関する判決文等々である。

 中国南京戦犯裁判軍事法廷は、B・C級戦犯に対して裁判をおこなった。法廷は1250人の受難者および当時南京で日本軍の残虐行為を目撃した外国人のスマイス、ベイツ等の証人を調べ証言を得た。法廷は当時の紅卍字会、崇善堂、赤十字会の報告、図表の綴じ込みおよび、南京の偽市長の高冠吾が霊谷寺に合葬した無主孤魂墓地の碑文を取得した。法廷は中華門、雨花台等で土盛りの墓五カ所を掘り起こして被害者の白骨や頭蓋骨数千体を発掘し、法医学の検査を経て書き入れられた鑑定書などの資料をえた。法廷はまた、日本軍が武功をひけらかすために自分で撮影した虐殺の写真16枚と、現場で撮影した皆殺しの映画などの犯罪の証拠を収集した。法廷には、審理した戦犯の谷寿夫、向井敏明等の起訴状および判決書等がある。これらはすべて中国侵略日本軍の南京大虐殺研究の重要な資料である。



第三段階】(1950年代から1970年頃まで)
 1951.9月に日本が連合国と調印した「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)の第11条には、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国国際戦争犯罪法廷の裁判を受諾し」と明記されている。日本は、戦後世界に独立国として再出発するに際して東京裁判の判決を受け入れ、「南京暴虐事件」の事実を承認した。

 極東国際軍事法廷が南京大虐殺事件について専門的に審理を行っていたにも関わらず、1950年半ばから1970年代に至るまで南京事件はさしたる話題にならず、教科書からも南京で残虐行為があったとする「南京大虐殺」の記述が消えていた。文部省の保守的検定によったとされている。70年代に至るまで、日本の新聞や出版でも、南京大虐殺に関する報道はさほど熱心ではなかった。事件肯定派は「事件がタブ視されてきた為」とみなし、事件否定派は「火の無いところには煙が立たない故」としている。

 とはいえ、この間
60〜70年代にかけて国内外の専門の学者たちが学術的な観点から南京大虐殺史の研究を開始し、論文と専門書の編集や著述をおこない、南京大虐殺史の系統的研究の初歩的な学術的基礎を固めている。

 国内で最も早くから南京大虐殺の研究をおこなったのは、南京大学の歴史学部であった。1960年南京大学歴史学部の日本史グループは、一部分の学生を募り、南京大虐殺というこの世界を震えあがらせた歴史的事件について、詳しい調査と研究をおこない、多くの得難い資料と写真を収集した。そして1962年に『日本帝国主義の南京での大虐殺』が書かれた(内部出版)。この本は約4〜5万字にのぼり、日本軍の南京での、殺人、放火、強姦、掠奪の残虐行為を明らかにした。資料内容は豊富さに欠けるとはいえ、学術方面から「南京大虐殺」事件の研究を展開していく上で、一定の促進作用を引き起こした。


 
1965(昭和40).6月、当時の東京教育大教授・家永三郎氏が、高校歴史教科書「新日本史」を文部省の教科書検定に持ち込んだところ、南京大虐殺等々数箇所の記述を廻って書き換えを要求され、1967(昭和42)年、教科書検定是非裁判に持ち込んだ。(年月日についてはやや曖昧)。家永教科書訴訟は、検定制度の是非を争う形で起こされたが、「歴史教科書における南京事件の記述をめぐる裁判」ともなり、「南京事件の歴史認識を廻っての国家的国民的認識が問われる裁判」ともなった。裁判の審理と並行する形で、「南京大虐殺論争」が展開されることになった。

 1967年、新島良友氏が南京を訪問した後、はじめて南京大虐殺に関する数編の文章が発表された。この後、早稲田大学の洞富雄教授が「近代戦史の謎」を書き、その中で多くのページを使って南京大虐殺事件を紹介した



第四段階(1972年、本多勝一氏による「中国の旅」が出版され、論議が起る)
 1971年、日本の有名な新聞記者の本多勝一氏が中国を訪問し、日本軍の残虐行為を受けた幸存者たちの取材をおこない、多くの保存書類と写真を収集し、帰国して1972年に「中国の旅」を出版し、朝日新聞にも連載され、日本国民の関心を呼び起こした。このとき、洞富雄氏は南京大虐殺に関する『南京事件』を新たに著し、二巻の南京大虐殺事件資料集を出版した。事件肯定派は、「ここに至って、数十年間の長い間埋もれてきた重大な歴史的事件の真相がやっと日本の人民の前にさらけ出されるようになってきたのである」と評価している。

 
これに対し、事件否定派からは、鈴木明氏による『「南京大虐殺」のまぼろし』が出版され、こうして両書の上宰が国内での南京事件論争の発端となった。

 
秦氏の「南京事件」P51に、「本多レポートは、例えば被害者数が一挙に2〜3倍に膨らんだこともあって、各方面から不満と反発の声が噴出し、1972(昭和47)年には洞富雄の『南京事件』が、翌年には鈴木の『南京大虐殺のまぼろし』が刊行された。後者は百人斬り伝説の考証を軸に、事件の虚像部分を公然と指摘した最初の作品で、著者の本意は別として、以後『まぼろし派』の象徴的役割を果たすようになる」とあるように、この後今日まで本多―洞サイドの虐殺派と鈴木サイドの否定派の論争が続いていくことになった。


第五段階(80年代、日本の教科書問題が、南京大虐殺事件の論争を引き起こす)

 80年代に入って、日本の歴史教科書への戦前の軍靴の歩みの記述をめぐって、謝罪派と居直り派の見解が衝突するという事態が発生し、いわゆる「歴史教科書問題」となった。1982年、日本の文部省は、中・小学校の歴史教科書の検定で、侵略を否定し、南京大虐殺を否定する目的で、中国侵略を「進入」と改竄させたと新聞各紙が一斉に報道した。この報道が、中国や韓国からの抗議を誘発し、日本国内でも教科書問題が政治的紛争の目玉となる。(しかし、木村愛二氏の「憎まれ愚痴『百人斬り』言論詐欺批判」に拠れば、「これが実は誤報」で、当時の文部省の意向は認められるが、それに応じて書き直した出版社は、実は無かった、というのが真相のようである)

 この報道に対し、中国人民とりわけ南京市民の憤怒がわき起こり、続々と中国侵略日本軍による南京大虐殺史の編纂、記念館の建設と慰霊碑の建立の要求が生まれてきた。1983年11月から、南京市人民政府は市民の願いに応え、力を結集して、南京大虐殺史の全面的で、深く掘り下げた研究を展開していった。こうした流れを受けて、日本の事件肯定派の歴史学者による本格的な研究が開始され、数々の貴重資料の収集、研究成果が発表・出版され、、研究作業が系統化していく段階に入った。その都度、南京大虐殺事件をめぐっての論争が引き起こされることになった。

 
1982(昭和57)年に洞氏の「決定版・南京大虐殺」が刊行され、内外の文献と証言を集成し、本多と並ぶ「大虐殺派」の代表格になった。

 南京事件調査会などが設立され、資料の発掘と収集が積極的に始まった。第一に、多方面から歴史資料を募り、収集した。様々な方法と、多くのルートを通じて、全市、全省、全国の大都市の公文書館、図書館、博物館、映画資料館、歴史学研究機関、総合・単科大学に手紙を出し、ネットワークをつくり、手がかりを見つけるや、専任者を派遣して重点的に個別訪問させ、南京大虐殺の資料の収集作業を広範囲にわたって行った。この効果は顕著だった。集まった主な資料には、@・二つの戦犯裁判を中心とした保存書類資料、A・当時、国内外で公に出版されていた新聞、図書の資料、B・当時の日本軍による虐殺の現場写真やフィルムの資料、C・日本軍の側が当時編纂し出版していた『支那戦跡』等の、一連の日本側の資料等々が収集された。

 第二には、南京大虐殺の幸存者の全面的調査である。1984年3月から、五ヶ月近い時間をかけて、はじめて南京大虐殺の幸存者の全面的調査をおこない、幸存者、目撃者、被害者でいまなお健在な1756人を発見した。同時にまた、集団虐殺に遭い、被害の重大な多くの証人が見つかった。その中には、中山埠頭での集団虐殺の幸存者の劉永興、草鞋峡の集団虐殺の幸存者の唐広普、石炭港の集団虐殺の幸存者の陳徳貴と潘開明、一家九人のうち日本軍に七人虐殺された夏淑琴、日本軍の凶暴に反抗した李秀英などがいる。調査した幸存者については、証人の人名簿を編纂して出版し、被害の一覧表に書き込んだ。重要な証人についてはすべて個別訪問の記録をつくった。身体に傷跡のある人については、また、傷跡の写真を写した。

 第三には、かつて「極東国際軍事法廷」と「中国南京戦犯裁判軍事法廷」に参加して裁判をおこなった重要な歴史の証人を訪問した。

 (1)1964年、中国側から極東国際軍事法廷の仕事に参加した人たちを訪ねた。それは、担当司法官で、検察官の向哲俊、元中国検察官主席顧問の兒征、首席書記の裘劭恒、書記兼通訳の周錫卿と高文彬、張培基、中国司法官の梅汝(故人)の秘書の楊寿林などである。楊寿林は当時の極東国際軍事法廷裁判の実況を写した写真帳一冊を快く提供し、全部で141枚の写真を、東京裁判研究のために重要な証拠資料として提供してくれた。 

 (2)1984年9月、わが国の駐パキスタン大使館職員の葉於康を紹介する過程で、はじめて彼の父親の葉在増がかつて当時南京戦犯裁判軍法廷で審理にあたり、現在は九江に住んでいることがわかった。われわれは、すぐに専任者を派遣し訪問し、その結果意外にも彼こそが南京大虐殺の主犯の谷寿夫を審理した担当の司法官であり、重要な歴史の証人であることがわかった。

 その次に幅広い資料の収集の基礎の上に、われわれは南京地区の専門家、学者を結集して、収集した資料の整理研究をおこない、史料集と学術専門書を編集し出版した。その主なものは、『侵華日軍南京大虐殺史料』[8]、『侵華日軍南京大虐殺残虐行為写真集』[9]、『侵華日軍南京大虐殺史稿』[10]、『侵華日軍南京大虐殺档案』[11]である。そのほかに、『侵華日軍南京大虐殺』を撮影し、歴史的文献を記録映像とした。これらの成果は、すべて研究の系統化と全面化としてはっきりとしてあらわれていった特徴をもっている。

 この他に80年代では、その他の地区と国外の専門的学者もまた南京大虐殺の系統的研究論文や専門書を出版した。

 しかし、事件否定派も黙ってはいない。1984(昭和59)年に田中正明著「南京虐殺の虚構」が刊行され、渡部昇一氏が「本書を読んで、今後も南京大虐殺を云いつづける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押して良いだろう」と推薦文を添えていた。

 1985(昭和60)5月田中正明編「松井石根大将の陣中日記」が刊行され、松井大将の弁護を試みた。

 ところが、1985(昭和60)11月板倉由明氏が、「歴史と人物」60年冬号の論文で、田中正明編「松井石根大将の陣中日記」が約900箇所にわたり、「南京事件の否定に向かって」改竄されている事実を詳細に論証し、その要点が朝日新聞の11.24、25日付けに報道され、大きな反響を呼んだ。


家永教科書訴訟と判決を廻って
 1980年代になると家永教科書訴訟の判決に至る動きを廻って、謝罪派と居直り派の論争もかまびすしくなった。1980年代の初めにそれまで「侵略」と記述されていた箇所が「進出」に、「占領」が「対外膨張」などの曖昧な表記に差し替えられ、これに対し、中国、韓国、ベトナムなどのアジア諸国から強く抗議が寄せられることになった。つまり、国際的な「教科書問題」の発生となった。その結果、1982年頃から教科書検定において近隣諸国への配慮が為されることになった。

 一方、この頃から「多くの教師が、たんに犠牲者としてだけでなく侵略者としての日本の役割をも重視するようになった」。つまり、この頃までは太平洋戦争の被害者としての意識が強くあったのに対し、加害者として過去の史実を洗いなおすという作業が始まった。

 1984年「南京事件調査研究会」発足。 

 このような流れの中で上智大学英語学教授 渡部昇一が「進出」に書き替えたさせたことはない、「南京大虐殺」は20〜30万の虐殺ではないと主張し始めた。田中正明の「南京大虐殺」否定論も、その後の「南京大虐殺」の全面否定論は、田中説に拠って展開されていくほど強い影響力を持った。その論旨は、すでに刊行されていた日中戦争資料集を使って、「南京大虐殺」は @・東京裁判でのでっちあげ、A・戦闘員まで虐殺に含めている、B・便衣隊戦術を中国がとった、C・中国軍のした掠奪暴行などを日本軍のせいにしているなどにあった、等々展開していた。

 この流れが、逆に事件肯定派の反発を生み、現在の「南京大虐殺」論争の原型が1980年代に作られる事になった。「南京大虐殺」に関する書籍の多くは1982年以降に出版されているのは、このような経緯による。

 「20〜30万の虐殺」の数字が問題となったのは1985年前後で、国際的にも1985年「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」開館、中国の「公式」の被害者推定が30万人とされました。1987年には「侵華日軍南京大屠档案」が出版されました。

 教科書に犠牲者数が20万以上、中国では30万以上とされるという記述が現れたのは1980年代末です。(この記述は洞氏らの専門家による研究を反映したものです)


偕行社見解の変遷について
 この時に至るまで、「南京大虐殺」の被害者実数に対してはさほどされていなかった(これは抗日戦争を戦ったのが国民党ではなく、中国共産党であるとしてきた中国の国内事情もあるように思います)。

 このような中で、陸軍の退役軍人・遺族の団体である偕行社が、1984(昭和59)年4月号より「偕行」誌上の「証言による南京戦史」で、「南京大虐殺」を全面否定をしようと会員に寄稿を求めたところ、南京で捕虜が組織的に多数殺害されたという参戦者の証言が寄せられ、全面否定はできなくなり、表現は微妙ながら 捕虜「処断」約16.000人、市民被害約15.000人に落ち着くことになった。

 この編集委員の一人が板倉由明で、「約1万3千名の虐殺はあった」という説を採る事になり、「中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と総括した。板倉氏は田中正明「松井岩根大将の陣中日誌」が意図的に改竄されていることを最初に指摘した人です。 ちなみにこの時、加登川幸太郎氏は「3千ないし6千名の虐殺」と総括していた。


第五段階】(90年代、新資料が続々公開される)

 80年代の末以降、国内外の一連の新しい史料の発見と公表に従って、南京大虐殺の歴史的研究は次第に深化し、新しい段階に入った。

 80年代末以来、中国だけでなくアメリカやドイツなどにおいても、相次いで「南京大虐殺」に関する史料が発見された。その中で主要なものをあげれば、1990年ドイツの公文書館ポツダム支所で見つかった『ローゼン報告』、1991年アメリカであらためて発見されたマギー牧師の映した日本軍の残虐行為の記録フィルム、かつて南京に留まり、金陵女子文理学院の代理校長のヴォートリン日記、鼓楼病院の医師のウイルソン日記、南京国際安全区副総幹事のフィッチの日記と手紙がさらに発見され、彼らはみな日本軍の南京での放火、殺人、強姦、掠奪を自分の眼で目撃したのである。

 1993.10月た家永教科書裁判第3次控訴審の結審で、南京事件記述にたいする文部省検定を違法とする判決が出され、文部省が最高裁に抗告しなかったため、さきの最高裁判決で国側の敗訴が確定した。以来現在まで、高校の日本史教科書と中学校教科書のほとんどに南京事件が記述されるようになっている。

 1994年、アメリカワシントンの国立公文書館で公開された電報の中で、南京大虐殺に関する内容が発見された。それは、1938年1月17日、日本外務省の外務大臣広田弘毅が、日本の駐ワシントン大使館に宛てた電文の中で、日本軍が南京で三十万人を虐殺した事実にふれている。また、遼寧省の公文書館の日本の満鉄に関する保存書類の中でも南京大虐殺に関する資料が発見され、その中に記載されている死体埋葬の数が、中国南京紅卍字会が埋葬した死体の数と完全に一致した。さらに、東史郎氏などの元日本軍兵士が当時南京大虐殺について書いた手記や日記が公開されている。

 1996年12月、新たに発見された国際安全区委員長のラーベの日記は、南京大虐殺事件の中でも数量が最も多く、ほぼ完璧に保存されている史料である。それは、当時南京に滞在した一人のドイツ人が自分自身で目撃した南京大虐殺の真実の記録である。日記を書くと同時にラーベは入念に80数枚の現場で写した写真を保存しており、詳細に説明を加えている。ラーベの日記とその写真は、南京大虐殺事件を証明するもう一つの動かぬ証拠である。

 1997.8月南京で「南京大虐殺史国際シンポジウム」が開催された。11月にはプリンストン大学で「南京1937・国際会議」が開催された。12月には東京で「南京大虐殺60年国際シンポジウム」が開かれた。

 1997.8.29日家永教科書訴訟の最高裁判決が言い渡され、事件をめぐる文部省の教科書検定が違法であったことが最終的に確認された。この最高裁判決で国側の敗訴が確定した。南京事件から60年目、家永裁判32年経っての結論であった。 

 獲得した新しい資料の基礎の上に、わが国の南京大虐殺に関する研究と資料整理の作業は、この十年間で顕著に進み、一連の新しい史料集と専門書を編集し発行した。それは、『侵華日軍南京大虐殺幸存者証言集』、『日本帝国主義侵華档案資料選編…南京大虐殺』、『南京大虐殺写真集』、『南京大虐殺の歴史的証人』、『血腥い嵐…侵華日軍の江蘇省での残虐行為記録』、『血の証拠』、『血祭…侵華日軍南京大虐殺実録』等である。『侵華日軍南京大虐殺の外国人の証言集』は年内に出版される予定である。

 ここ数年来、南京大虐殺の研究は、全体から局部に、マクロからミクロに深められて発展しているという特徴があらわれてきた。南京大学歴史学部教授の高興祖先生は、南京大虐殺について長い間研究にたずさわり、際だった功績をあげられている。彼の著述した『日軍第16師団の南京下関での虐殺』の文章では、大虐殺の全体像から具体的な事件について詳細に研究している。江蘇省社会科学院歴史研究所の研究員の孫宅巍氏は、それぞれの慈善団体の死体埋葬の元々の記録を入手して真剣に考証し、南京大虐殺の被害人数について研究を深め、「多くの正確な根拠をもって、日本軍によるわが三十万人同胞虐殺の歴史的事実を論証したのである」としている。

 南京大虐殺史の研究の深まりの基礎の上に、もうひとつの新しい特徴があらわれている。それは、直接の知覚に訴えて教育する効果のある文学や映画、テレビが現れてきていることである。とりわけ、テレビドキュメントの三つの作品をあげなければならない。それは、江蘇省テレビ局が撮影した記録映画『南京大虐殺……幸存者の証言』(上、下)、南京テレビ局がつくった記録映画『南京大虐殺…歴史の証言』(第8回)、吉林省テレビ局の撮影した記録映画『南京大虐殺秘密文書』である。文学の方面では、徐志耕の報告文学『南京大虐殺』、周而復の『南京の陥落』等であり、映画では、前からあった南京映画制作所が撮影した『屠城血証(みな殺しの証拠)』の他に、劇映画『南京大虐殺』(監督呉子牛)、『黒い太陽・南京大虐殺』(監督牟敦蒂)を発表した。テレビ劇の方面では、南京テレビ局が撮影したテレビ音楽映画『心祭』、テレビ劇『弾痕のあいた一元銀貨』などがある。

 新しい史料の発見で、南京大虐殺史の研究は深められ発展し、促進されていった。そして日本の右翼分子の絶えまない侵略否認や、南京大虐殺を否定するデタラメな言論も、かえってますます多くの人たちの関心と南京大虐殺史の研究への参加を促した。80年代以来、国内外の南京大虐殺史の研究は不断に深められていることは、現在次のことに現れている。

 
国内外で、一連の地域的な、ゆるやかな研究機構が相次いで発足し、それぞれの人の分散的な研究が組織的集団的な研究に変わり、一般的で表層的な研究から、具体的でより深められた研究へと転換していった。

 アメリカで、抗日戦争史実擁護会、祈念南京大虐殺受難同胞連合会等の組織が成立し、多くのアメリカ籍の中国系学者が団結した。彼らはまた学術シンポジウムを開き、テレビフィルムを撮影し、書籍を出版するなど、際だった成果をあげている。彼らはまた日常の組織活動を展開し、広範に南京大虐殺の史実を宣伝している。例えば中国系作家の張純如女史は、南京大虐殺に関する作品を書くために、一年余りの時間を費やし、幅広く資料を収集し、ついに『ラーベの日記』を捜しあてた。1996.12.12日、ニューヨークの祈念南京大虐殺受難同胞連合会が記者会見を行った席上で、ラーベの孫娘のラインハルト夫人によって『ラーベの日記』が世間に公開された。尹集鈞と史泳が編集して著した『南京大虐殺』写真集は、英文で南京大虐殺を全面的に紹介した写真集で、ヨーロッパ方面の読者に南京大虐殺についての理解を深めた。

 日本では、「南京事件調査研究会」等の組織が結成され、南京大虐殺についての研究が深められてきた。この会の会員の洞富雄、藤原彰、本多勝一、笠原十九司、井上久士、吉田裕等の二十数人が、2ヶ月に1回例会を開いており、その成果は非常に大きい。各種の文章以外に、この会員が編集し著した南京大虐殺関係の著作はすでに数十冊になっている。その中には、『南京大虐殺』(藤原彰)、『南京大虐殺の証明』(洞富雄)、『南京への道』(本多勝一)等が含まれている。日本の学者小野賢二氏は、多くの元日本兵の日記を収集・整理し、彼の書いた『山田支隊の幕府山下での虐殺』の文章は、十分な事実の根拠に基づき、日本軍の一部隊の具体的な虐殺地点で犯した暴虐行為を明らかにし、南京大虐殺研究をさらに一歩前進させた。

 この他に、「南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会」および「南京大虐殺60カ年全国連絡会」等の組織が相次いで結成された。彼らは南京大虐殺暴行展や絵画展をおこない、南京大虐殺の幸存者を招請し日本で講演し、日本の右翼分子たちの歴史を否定するデタラメな言論を批判している。また在日中国人の有志によって、日本で南京大虐殺記念碑が建立され、南京大虐殺史料陳列館がつくられた。

 香港と台湾では、「祈念抗日受難同胞連合会」等の組織が結成され、毎年の12月に、南京大虐殺で犠牲になった同胞を追悼する取り組みがおこなわれている。台湾の学術界の南京大虐殺についての研究は非常に特色をもっており、李恩涵氏の書いた『日本軍による南京大虐殺の虐殺指令について』、『日本軍の南京大虐殺の戦時国際法にかかわる問題』等、ともに比類なきすぐれた見解である。

 1985年、南京に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館が建設された後、南京大虐殺史の研究に積極的な役割を果たし始めた。この館では多くの専門的学者が団結し、『短信』を編集して発行し、不定期に研究のニュースや学術的な動きを掲載し、国に、「永久的な保存資料」として定められた。

 1995年、南京でまた、「侵華日軍南京大虐殺史研究会」が発足し、現在の会員はすでに百余人に達している。学会の成立後、日本の戦犯に対する東京軍事法廷および南京軍事法廷裁判五十周年の座談会と南京大虐殺史学術シンポジウムを開いた。この会員の高興祖氏は大虐殺の全体的な研究をおこない、孫宅巍氏は中国守備軍の人数、埋葬死体の数字的な研究をおこない、ともに非常に高い水準のものである。

 このような動きに対抗するかのようにして、日本の歴史を見直す運動が1990年代になってから、東京教育大学教育学 藤岡信勝らによって開始された。


南京事件をめぐっての諸見解グループについて
 70年代以降、日本国内では、南京大虐殺の史実の真実性をめぐって、長い時間をかけた激しい論争がおこなわれてきた。日本国内では、激烈な論争のなかで、南京大虐殺の研究が発展を遂げている。この論争をめぐって日本国内では三つの学派ができている。
 
【1、「虚構派」、「まぼろし派」】
 その一つは、「虚構派」である。南京大虐殺の真実性を否定する日本の右翼分子を「虚構派」あるいは「まぼろし派」といい、その代表的な人物は、鈴木明、山本七平、田中正明氏らである。彼らの代表的著作はそれぞれ、『南京大虐殺のまぼろし』、『日本人とユダヤ』、『南京虐殺≠フ虚構』である。1985年、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館が落成しオープンした後、田中正明はすばやく雑誌『正論』誌上に『南京大屠殺記念館に物申す』という挑発的な文書を臆面もなく公表している。
【2、「虐殺派」
 二つ目は、「虐殺派」である。南京事件調査研究会の洞富雄、藤原彰、本多勝一氏などを代表としている。歴史を尊重し、虐殺の真相を明らかにし、中日友好の態度を擁護する態度をとっている彼らは、日本軍は確かに大虐殺をおこなったと認識し、「虐殺派」といわれている。彼らは日本の右翼と不撓不屈の闘いをおこなってきた。

 洞富雄氏は日本における南京大虐殺史研究の大家と言うことができる。『近代戦史の謎』に続いて、『南京大虐殺(決定版)』を出した後、彼はまた『南京大虐殺の証明』など一連の大きな影響を与えた著作を発表した。

 藤原彰氏は彼の『南京大虐殺』の中で、武器を捨てた中国兵を虐殺したのは国際法と人道主義の原則に違反すると特に強調して指摘し、遭難して死んだ兵士たちを被虐殺者の人数に入れないやり方を痛烈に批判した。

 本多勝一氏は『ペンの陰謀』を書き、鈴木などの誤った議論に対して一つひとつ反駁した。「南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会」が編集した『南京大虐殺』、笠原十九司氏が書いた『南京安全区の百日』、津田道夫氏が書いた『南京大虐殺と日本人の精神構造』等、「虐殺派」の研究は、従来にない高い水準に達し、極めて大きな影響力をもつ学派になっている。


 激しい論争の中で、「虐殺派」は新しい証拠の発掘に特に注意をはらい、南京大虐殺の真実性の裏付けをさらにもう一歩前進させた。1984年、1987年、南京事件調査研究会は二回南京に実地調査のために訪れ、幸存者を訪問し、保存書類を調べた。1985年、元日本軍の第16師団長の中島今朝吾の『陣中日記』が発見され、これはまた重要な証拠であった。その後、『ローゼン報告』、『ラーベの日記』等の一連の多くの新資料が陸続と発見され、「虚構派」と「中間派」に大きな打撃を与えた。
【3、「過小損失派」
 その三つ目は、「過小損失派」である。「虚構派」の破綻があちこちで出て来る状況の中で、秦郁彦、板倉由明氏などを代表とする「過小損失評価派」(「中間派」ともいう)が扮装して登場してきた。

 80年代の始めに、板倉由明は『南京大虐殺≠フ数字的研究』を発表し、日本軍による被虐殺者の人数を1万3000人と推定した。続いて拓殖大学教授の秦郁彦は『南京事件』を出版し、彼は日本軍の虐殺人数は、ただ3万8000〜4万2000人にすぎないと推算した。秦氏は、「敗残兵」や「投降兵」の殺害は正常な戦闘行為とみなし、一般民衆の中に紛れ込んでいたいわゆる「便衣兵」の殺害は、彼らの抵抗行動に対する「処刑」であり非合法の虐殺として勘定することはできないとの見解を披瀝した。

 虐殺派系からは、「中間派」は「大虐殺はなかった」ことを大いに宣伝することを通じて、人々に「南京大虐殺はなかった」かのように思わせようとしており、これは一種のさらに巧妙な虐殺否定論である、とみなされている。


3.今後の任務

 60年来、とりわけ80年代以来、南京大虐殺史の研究は実り多い成果をあげることができたにもかかわらず、研究の範囲を広げ、さらに掘り下げていくことが必要である。とりわけ、日本国内では依然として極少数の者たちがかってに歪曲し、侵略の歴史を抹殺し、南京大虐殺を否定する状況の下では、南京大虐殺の歴史の定説を守りぬく闘いを長期にわたって継続していかなくてはならない。学術研究の視点からみて、われわれは以下のような主要な任務と主要な課題に直面している。

 (1)南京大虐殺の被害者、加害者とその他の目撃証人の関係資料の発掘と収集の努力を続け、この作業を南京大虐殺史の学術研究の基礎を深め発展させる取り組みとして、早急に取り組む。

 まず、史料を求め集めることが、現在直面している最も重要で、最も差し迫った仕事である。つまり、速やかに緊急措置をとって幸存者、証人の証言を録音と録画で保存し、歴史の証言として残していかなくてはならない。南京市では過去、1984年と1991年に幸存者に対して全面調査と再調査をそれぞれおこない、多くの重要な直接資料を得ることができた。しかしながら、当時の客観的条件の制限から、全面調査の範囲は主に南京の市内の一部と郊外に限られ、内容形式でもただ部分的な証言に限定されていた。歳月が過ぎ去るに従って、当時の南京大虐殺の被害者、幸存者と目撃者等、生きた証人たちが年を追って減少し、現在健在といえどもすでに年は70歳に達している。このため、南京の各区県および全国的な範囲で、法律的な公証と音声・映像手段を使って、歴史に対して重い責任を負う態度で全面調査を行って幸存者を探し尋ね、緊急的な措置で資料を収集していかなくてはならない。この基礎の上にたって、現代の科学技術的手段を駆使して、きちっと整理された永久に保存できる文書資料をつくりあげるのが今後極めて重要な任務である。

 第二は、南京大虐殺史の学術研究をさらに深め大きく発展させるためには、加害者に関する証人や物証の発掘に努力することが重要である。侵略加害国の日本として、今日に至るまでいまなお、多くの当時の南京大虐殺に関する政府筋や軍関係の文献、元中国侵略兵士の陣中日記や手記、現場写真あるいはその他の証人や物証があるが、様々な原因から埃の中に埋もれたままにされ、未だに世間に公表されていない。われわれは良識と勇気をもって、自分の陣中日記と手記を公開発表し、日本軍の残虐行為を明らかにした東史郎さんの正義の行動に対して、賞賛し支持するものである。同時に日本のより多くの正義の人たちに、歴史にまっすぐに向き合い、南京大虐殺を反映している写真、日記、文献などの証人や物証を公開発表し、あるいは南京に寄贈していただくように要請する。歴史を尊重する人も必ずや歴史から尊重されるであろう。

 第三には、国内外の各方面の力量を結集して、第三国の証人の証拠を探し続けることである。当時中国の首都であった南京には、その痛ましい災禍を自分の身をもって体験し、目撃した多くの外国人たちがいた。彼らは特別な身分で、様々な形態で滞在し、客観的で公正な一連の証拠を残している。例えば、アメリカのジョン・マギー牧師が日本軍の残虐行為の現場の映画、写真を撮影し残している。ドイツのヨーン・ラーベ氏は、大量の貴重な日記と写真およびその他の資料を残している。イギリスの有名な記者のティンバリーは事件の直後に『外国人の目撃した日本軍の残虐行為(日本翻訳名:戦争とは何か−中国における日本軍の暴行)』を書き、また数人の外国人は、戦後の極東国際法廷と中国戦犯裁判軍事法廷に出廷し、事実に基づいて証言し、人類の正義と尊厳を擁護した。しかしながら実証的に検討すれば、南京大虐殺の期間中に南京に留まった第三国の外国人は20数名いるが、しかし、いままで発見された外国人の関係する史料で公開されたものは十数人にすぎない。また、例えばマギー牧師が使った撮影機、日本軍の「百人切り」の軍刀等の証拠物は、未だに海外にある。従って、引き続き資料を募って集め、こうした史料の研究を深めることが今後の重要な仕事である。

 (2)南京大虐殺史の学術研究をさらに深く掘り下げよう

 今後、南京大虐殺史の学術研究の方法を深く掘り下げるために、われわれは事件の全体の研究に力を入れるだけでなく、また各部分の具体的な個別の事件の研究も重要視し、マクロ的な観点から把握するだけでなく、同時に、いつ、どこで、誰が、どのような事件なのか等というミクロ的な研究を重視しなくてはならない。表面的に分析するだけでなく、かつ深層にわたる本質的な研究をおこなうように力を入れ、努めて研究を不断に深め、水準を絶えず高めるようにしなくてはならない。今後、われわれは下記のような重要課題に重点をおいて研究を進める。

 @ 南京大虐殺の中でのそれぞれの重要な集団虐殺の個別の具体的な研究に関して。広範囲に史料を収集整理し、十分な証拠をもって系統的にそれぞれの典型的な虐殺事件の例について、逐一論証していく。

 A 南京大虐殺で犠牲になった人たちの名簿の調査研究に関して。日本軍は当時、南京で血腥い大虐殺をおこなったが、殺人手段は極めて残忍で、殺人後もまた死体を焼き捨て証拠を湮滅し、その被害者の人数は非常に多く、被害地区は広範囲にわたった。このため、犠牲者の名簿調査の作業は多くの困難にぶつかった。しかしながら、歴史的な文献資料の掘り下げた検討と、大規模な捜索と訪問活動を通じて、この作業は一定の進展をみることができる。

 B 南京大虐殺の期間に受けた損失の状況の調査研究について。中国侵略日本軍は南京大虐殺事件を引き起こし、中国の南京では多くの生命と巨大な財産の損失をこうむった。日本軍による虐殺、強姦、放火、破壊、掠奪等の残虐行為が作りだした損失について、調査研究をもう一歩進め、比較的正確な判断をおこない数字的な統計として出さなくてはならない。

 C ヨーン・ラーベ氏および南京大虐殺に関する日記資料の研究について。当時、ドイツ人のヨーン・ラーベ氏は、南京安全区国際委員会委員長として、そのおかれている特殊な役割から、彼が現場で記載した日記と保存した史料は非常に重要な歴史的価値があり、深く掘り下げて研究する価値がある。

 D 南京大虐殺期間の慰安婦問題の研究に関して。日本軍が南京を占領した後、女性に対して強姦をほしいままにした以外に、また南京に多くの慰安所を設け中国の女性に無理矢理慰安婦をやらせ野蛮にも性奴隷として酷使したことは、日本が南京で犯したもうひとつの犯罪行為であった。 

 E ニュールンベルク軍事法廷でのナチスの戦犯裁判と東京極東国際軍事法廷での日本戦犯の裁判の状況の比較研究に関して。

 F アウシュビッツ収容所でのナチスによる大虐殺と中国侵略日本軍の残虐行為の比較研究に関して。

 G 中国侵略日本軍による南京大虐殺の残虐行為とすべての中国侵略の過程での残虐行為を関連づけた学術研究を継続して進めていく。

 H 南京浦口の戦争捕虜収容所問題の研究に関して。中国侵略日本軍は、国際法に違反して捕虜を虐待し、経済的な掠奪と暴行をおこなってきたことを暴露していく。

 I 南京「栄」細菌部隊問題の研究に関して。日本軍が南京で鬼畜にも劣る生きた人体を使った細菌実験をおこない、浙の戦場で使用するという残虐行為を行った事実を明らかにしていく。

 (3)国内外の学術交流と協力を強化し、高い水準の学術研究の隊列をつくりあげよう。

 現在、われわれは、喜ばしいことに、南京大虐殺史の学術研究の隊列が、ちょうど不断に発展しつつあることがみてとれ、特に、多くの若い専門的な学者が頭角を現しつつある。歴史の悲劇を再び繰り返さないために、歴史の教訓を戒めとし、中日の友好関係と世界平和を永遠に擁護していかなくてはならない。今後われわれは、侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館と侵華日軍南京大虐殺研究会を拠り所とし、南京大虐殺史研究の専門家学者の多くの有志は団結し、国内外の研究機構と学者の密接な連携を保ち、今回の国際学術シンポジウムを新たな契機と出発点として、国内外の学術交流と協力をさらに強化し、南京大虐殺史の学術研究を引き続き前進させていこう。

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木村愛二氏の登場による新たな波紋
 1998.4.15日、木村愛二氏が「『南京大虐殺』の大嘘」を世上公開している。この特異なところは、これまで「南京大虐殺」を廻って、これを史実とするいわゆる左派系とこれを否定する右派系という色分けで対立していたのに対し、左派系人士の側から「南京大虐殺」否定論が為されたことにある。木村氏の場合、ホロコースト問題も絡めて虚構説を採っており、いわばユニークな視点を提供している。

 この木村氏と朝日新聞の花形記者・本多勝一氏とが、「南京大虐殺」論も含むいわゆる歴史観を介在させての訴訟に入っている。以下、この概略を整理しておくことにする。




(私論.私見)