428419 | 極東国際軍事裁判での事件の取り扱われ方 |
東京裁判の名で知られる極東国際軍事裁判は、1946.5.3日に開廷され、2年半後の1948.11.12日、東条英機元首相以下25名のA級戦犯被告全員に有罪(うち7名は死刑)の判決を下して閉廷した。2年余の審理で、法廷には計419名の証人が登場し、779通の供述書を含む4336通、約900万語、48412ページに及ぶ書証が受理された。この規模は、史上最大の裁判となっている。 キーナン首席検事が読み上げた起訴状は、対象の時期を「昭和3年1.1日より昭和20年まで」と規定した上で、日本が「侵略戦争を計画し準備し開始し且つこれを実行した」と罪状を告げ、「共同謀議による侵略戦争の遂行という基本的な史観」に基づき、この時期の日本は「犯罪的軍閥によって支配され、また指導された」としてA級戦犯を主として軍人に定めた。判決でもこの観点がほぼ踏襲され、被告と弁護人達が、共同謀議の存在を否定し、自衛戦争であった所以を説き、「平和の罪」という事後法で裁くのは国際法違反である、との主張を退けている。 この法廷で何が裁かれたのか。朝日新聞法廷記者団著「東京裁判」シリーズの第1巻「はしがき」で、「審判するものは東洋の三国を含む戦勝国連合41カ国、被告として擬せられた者は28人の個人とはいえ、日本の行動の名の故にあることを思えば、審判台に立つものは紛れもなく日本帝国そのものである」と書いている。 |
1945(昭和20)12.6日東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事が38名の米検事団一行を引き連れて羽田空港に到着した。この時ナチスの戦争指導者達を裁くニュルンベルク裁判は既にスタートしていた。以後、裁判に向けての資料収集と聞き取り調査を開始している。
1946(昭和21)5.3日より東京裁判が始まった。通例の法廷手続きに従い、@・検察側立証、A・弁護側反証・一般段階(1947.2月〜)、B・
弁護側反証・個人段階(1947.9月〜)、C・検察側反証(1948.1月)、D・検察側最終論告(1948.2月)、E・弁護側最終弁論(1948.3月)の各段階を経て、判決に至った。
訴因は、@・「平和に対する罪」、A・「殺人及び殺人共同謀議の罪」、B・「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の三種より構成され、それぞれ更に具体的な項目が挙げられていた。28名の被告は多い者で54項目、少ない者でも25項目に該当するとされた。
南京事件の現場の証人として、ロバート・O・ウィルソン(金陵大学付属病院医師)、マイナー・S・ベイツ(金陵大学歴史学教授)、ジョン・G・マギー(アメリカ聖公会伝道団宣教師)、スマイスらが法廷に立って、詳しい陳述を行った。中国側からは、許伝音(きょでんいん・南京安全区国際委員会委員)、その他「幸存者」(幸運にも虐殺から逃れて生き残った中国人被害者)等5名が、生々しい体験事実を証言した。さらに、フイッチ、マッカラム牧師、ダーディン記者らの「宣誓口述書」が多数膨大法廷に提出された。ダーディン記者のそれは検察側が不提出としている。
各証人らは、「哀声地に満ち、屍山を築き、流血膝を没し、さながらの生き地獄を現出したと云われる惨たる4週間」(朝日新聞)と云われるほど凄惨な「南京大虐殺事件」の様子を語った。
これに対する日本側の反証も為されている。1947.5月の一般反証段階では、日高信六郎(大使館参事官)、塚本浩次(上海派遣軍法務部長)、中山寧人(同参謀)の3名が応答し、中でも塚本は概要「掠奪、強姦など散発的不祥事はあったが、厳重にこれを処断したと述べ、検察側の具体的追及に対しては『知らぬ存ぜぬ』で押し通した」(秦「南京事件」P34)。いつの頃の反証か定かでないが、その他、旧部下の多くは、「見なかった」、「聞いていない」と全面否定している。特に小川関治郎法務官(第10軍法務部長)は、概要「12.14日から19日まで南京にいたが、不法行為の噂を聞いたことなく、起訴せられたこともなく、軍紀はすこぶる厳粛だった」。
が、東京裁判における南京事件関係の証言全記録は、政治的理由から公刊されていない。ナチス・ドイツを裁いたニュルンベルク裁判の判決と後半記録(全42巻)が直ぐに公刊されたのと対照的である。洞富雄編「日中戦争 南京大虐殺事件資料1 極東国際軍事法廷関係資料編」という大部の資料集が世に出ているが、全記録ではない。
松井被告担当の弁護人は伊藤清であった。伊藤は、概要「真相は別とし、松井被告には気の毒とは思ったが、事実そのものの認否の事は一応に止め、方面軍司令官としてこのような不法行為の防止にできるだけの努力を払ったこと、その部下に直接的責任の地位にあった軍司令官や師団長がいること、故に松井被告に刑事責任まで負わせるべきではない、との方針」(児島襄「東京裁判・下」)を取り、せめて極刑を逃れる弁護に当たった。
秦氏の「南京事件」P35では、ブルックス弁護人とマギー証人の次のような遣り取りを記している。概要「ブルックス弁護人が、マギー証人に、『それでは、只今のお話になった不法行為もしくは殺人行為と言うものの現行犯を、あなたご自身幾らぐらいご覧になりましたか』と問い詰めたところ、マギー証人は『一人の事件だけは自分で目撃致しました』と述べ、証人が二日間にわたって証言した百件以上もの日本軍による虐殺、暴行、掠奪、強姦等の数々は、ほとんど伝聞に属すると印象付けることに成功し、唯一の有効な『反撃』となった」。
戦後、極東国際軍事法廷と南京軍事法廷は、ともに南京大虐殺を引き起こした戦犯たちに対して裁判を行った。二つの法廷は、大量の証拠を基礎に、それぞれ松井石根、谷寿夫等の戦犯に対して絞首刑と死刑を言い渡した。二つの法廷は当時の歴史的条件にかんがみ、ともに不徹底ではあったものの、しかし、その道義性、合法性と権威性については、疑いをさしはさむ余地はない。南京大虐殺に対する裁判の結果は、二つの法廷は基本的に一致している。
(1)大虐殺の犠牲者の人数について
南京軍事法廷は、日本軍によって集団虐殺され、跡形もなく死体を焼き払われたものは19万人余りであり、バラバラに個別分散的に虐殺され、死体は慈善団体によって埋葬されたものは15万余りであり、被害総数はあわせて30数万人である。
東京法廷の判決では、「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数(被害者総数)は20万人以上であり……この数字はまだ、日本軍によって焼き払われた死体や、揚子江に投げ込まれ、あるいはそのほかの方法で処理された人たちの数は計算に含まれていない」。
日本軍の戦犯、元日本軍南京碇泊場司令部少佐の太田寿男の供述によると、日本軍が1937年12月中旬に焼却して埋めたり、揚子江に投げ込んだ死体は15万体余りに達した。このため、われわれは極東国際軍事法廷は実際上、南京大虐殺の被害者人数は30万人以上と判定しているものと認識している。
(2)焼き払われて破壊された家屋について
南京法廷では「市内の半分が灰燼に帰し」と認定し、東京法廷の判決では「全市の約三分の一がすべて破壊された」とされた。
(3)日本軍による女性への強姦について。
南京法廷では確実な統計は示されてはいない。ただ「日本軍によって南京が陥落した後、さらに至るところで強姦がおこなわれ、獣欲をほしいままにした」と漠然と判定している。東京法廷での判決では、「占領後の一ヶ月の間に、二万件前後の強姦事件が南京市内で発生した」としている。
戦後、日本政府は、二つの法廷の判決を承認し受け入れている国際講和条約に署名した。『サンフランシスコ講和条約』の第11条には次のように明確に規定されている。「日本軍は極東国際軍事法廷と、日本国内あるいは国外の同盟国の戦争犯罪法廷の判決を受諾する」。
1952年、日本政府はこの講和条約に署名し、国際法廷と同盟国の戦争犯罪法廷裁判の正当性と合法性を承認すると表明した。
松井石根の罪状。朝日新聞は、「南京の残虐行為/この一訴因で絞首刑」という小見出しで、次のような松井の罪状判決文を掲載している。「中支那方面軍を率いて、彼は1937.12.13日に南京市を攻略した。修羅の騒ぎは、1937.12.13日に、この都市が占拠されたときに始まり、1938.2月の初めまで止まなかった。この6、7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち12.17日に、松井は同市に入城し、5日または7日の間滞在した。(中略)本裁判所は、何が起っていたかを松井は知っていたという十分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために効果のあることは何もしなかった。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたとともに、その権限をも持っていた。この義務の遂行を怠ったことについて、彼には犯罪的責任があると認めねばならぬ」。
他の戦犯6名が、「平和に対する罪(侵略戦争の準備・計画・遂行)」などの罪に問われたのに比べて、松井だけは南京事件の「違法行為阻止怠慢の罪」、すなわち「不作為の責任」を問われて絞首刑を宣告された。
1948.11.13日の朝日新聞の社説は、「東京法廷において決定された意思が、ポツダム宣言を受諾して無条件に降伏した日本にとって、動かし難い権威あるいは意思であることは、いうまでもない。したがって、我々は決定された意思の尊厳について論ずる資格を持たないし、また論じようとも思わない」と述べている。
松井は@・不知、A・不作為、B・不統制の責任を問われた。@・不知とは、「法の不知をもって罪を免れず」という。A・不作為とは、「これらの恐ろしい出来事を緩和するために、彼は何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった」。
(私論.私見)