428414−4 石川達三の「生きてゐる兵隊」考

 「問答無用掲示板」での渡辺氏の「資料『石川達三インタビュー』(昭和21年5月9日『讀賣新聞』記事)」(投稿bP5709、投稿日2002.10.12)が「おっちゃんBBS」でのN.Q.氏の渡辺君の“南京大虐殺はホントだ!”論 の補足(投稿bR434、投稿日2002.10.13日付け)で再掲再編集されており、これを更にれんだいこが再編集して活用させて貰う。いずれれんだいこ自身が原文に当たるまで勝手ながら利用させていただく。
 文芸作家石川達三氏は、南京事件直後に「生きてゐる兵隊」を著して事件の状況について伝えた。これが昭和13年3月号の中央公論に掲載されたが、その内容が問題とされこの為中央公論は発禁処分、石川氏は安寧秩序紊乱罪で禁錮4ケ月執行猶予3年の刑をうけた。

 終戦となって、その内容の障りの部分が明らかにされた。戦後直後の1946年(昭和21年)5月9日に讀賣新聞2面に、石川達三氏とのインタービュー記事体裁で「裁かれる殘虐『南京事件』」として掲載された。この記事直前の1946年(昭和21年)5月3日に東京裁判が開廷している。讀賣新聞記事時点では「南京事件」について取り上げられておらず、微妙な時期の「生きてゐる兵隊」公開であったことになる。以下これを考察する。
 讀賣新聞記事

 
「東京裁判の起訴状第二類『殺人の罪』において國際検事團は南京事件をとりあげ、日本軍の殘虐行為を突いてゐる、掠奪、暴行、毆殺、毆殺―昭和十二年十二月十七日、松井石根司令官が入城したとき、なんとこの首都の血なまぐさかつたことよ、このころ南京攻略戰に從軍した作家石川達三氏はこのむごたらしい有様を見て"日本人はもつと反省しなければならぬ"ことを痛感しそのありのまゝを筆にした、昭和十三年三月号の中央公論に掲載された小説『生きてゐる兵隊』だ。しかしいま國際裁判公判をまへに"南京事件"の持つ意味は大きく軍國主義教育にぬりかためられてゐた日本人への大きな反省がもとめられねばならぬ、石川氏に當時の思ひ出を語つてもらふ」。

 (れんだいこ)

 上記の前書きから以下の地文へ移っている。但し、記事は、
「生きてゐる兵隊」の紹介と読売新聞記者の相槌が混合しているので記者文を取り除き、「生きてゐる兵隊」の記述だけを掲げることにする。南京事件に関わる様子が河中へ死の行進 首を切つては突落すの見出しで、次のように書かれている。

 「生きてゐる兵隊」
 「兵は彼女の下着をも引き裂いた。すると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた、みごとに肉づいた胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた。…近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた…彼は物もいはずに右手の短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた」。
 「かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大變なものだつた、大きな建物へ一般の中國人數千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた」。
 「また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使うのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中國人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した」。
 「戰争中の昂奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重縣からきた片山某といふ從軍僧は讀経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に珠數をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その數は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師團長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡單に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか」。
 「ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ。『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師團長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた」。

 インタビューでの石川氏の発言)

 「何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ」。
 

 (れんだいこ)

 「生きてゐる兵隊」文と「インタビューでの石川氏の発言」をどのように理解するのかが問われている。当時の軍部の悪行を暴露している点で希少価値があるが、問題は記述内容の正確性である。文章1・2の婦女暴行・凌辱記述、文章3の捕虜虐殺記述、文章4の兵士の殺人マニア告発、文章5の松井司令官の責任問題から構成されているが、致し方無い事情にあったにせよいずれもが伝聞であるところに問題がある。つまるところ、伝聞の質が問われている。

 れんだいこは真偽の判断を留保し、一級資料にならない参考資料としてその価値を認めるという態度を執りたい。


 実懇の「おっちゃんBBS」で『生きている兵隊』が取り上げられ、その縁で上記の一文を書き上げた。さて、「問答無用」掲示板で、渡辺氏が「資料『生きてゐる兵隊』初版序文(「誌」)」(投稿bP5719、投稿日2002.10.12)で「『生きている兵隊』の序文」を紹介している。「問答無用」掲示板管理人との過去のいきさつからすれば利用を避けようと思ったが、『生きている兵隊』記述の真偽を問う観点からその執筆背景を知ることは貴重と思われるので紹介させていただくことにする。
  『生きている兵隊』の序文

 此の作品が原文のまゝで刊行される日があらうとは私は考へて居なかった。筆禍を蒙つて以来、原稿は證據書類として裁判所に押収せられ、今春の戦災で恐らくは裁判所と共に焼失してしまったであらう。到るところに削除の赤インキの入った紙屑のやうな初校刷を中央公論社から貰ひ受け、爾来七年半、深く筐底に秘してゐた。誰にも見せることのできない作品であつたが、作者としては忘れ難い生涯の記念であつた。

 原稿は昭和十二年三月一日から書きはじめ、紀元節の末明に脱稿した。その十日間は文字通り夜の日も寝ずに、眼のさめてゐる間は机に坐りつづけて三百三十枚を書き終つた。この作品によつて刑罰を受けるなどとは豫想もし得なかつた。若気の至りであつたかも知れない。たゞ私としては、あるがまゝの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもりであつたが、このやうな私の意圖は葬られた。そして言論の自由を失つた銃後は官民ともに亂れに紊れて遂に國家の悲運を眼のあたりに見ることになつた。今さらなから口惜しい気もするのである。

 當時の社會状勢としてはこのやうな作品の發表が許されなかったのも當然であつたらう。しかし私は自分の意圖を信じ、自分の仕事を確信してゐた。第一審の検事はその論告のなかで、(この種犯罪の中に於ける最も悪質なるものであり、最も重く處刑すべし)と言った。私はこの論告に憤然として(此の種犯罪の中に於ける最も良質なるものと確信する)と裁判長に向って言つた。その目的に於て、動機に於て、責めらるべき筋のないものならば、たとひ結果かどうあらうとも(最も悪質)といふ結論か出てくる筈はない。作家は、彼が良心ある作家であるならば、たとひ生命を犠牲にしても(最も悪質)といふ論告をそのまゝ受け容れることは出来ない筈だ。私はたとひ十年の刑を受けようとも、國家社會に對する私の良心を擁護しなけれはならなかつた。作家が、據て以て立つ自己の精神を守らなければならなかつた。しかしこのやうな強情さは検事の理解するところとならなかつた。判決があつたその翌日、検事は直ちに控訴手続きをとつた。

 第二審の判決は一審と同じであつた。私は三年の執行猶豫を與へられた。いま、国家の大轉換に際會し、はからずもこゝに本書を刊行する機會が與へられて、感慨ふかいものがある。有罪の理由として判決書に記載されてゐる(皇軍兵士の非戰闘員殺戮、掠奪、軍紀弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊亂する事項)といふ點は私の作品を俟たずして世界にむかつて明白にされつゝあり、(現に支那事變が継續中なる公知の事實を綜合して‥‥)といふ理由は消滅した。今さら安寧秩序を紊すことも有るまいし、皇軍の作戰に不利益を生ずる畏れもない。

 事新しくこの作品を刊行する理由があるかどうか、一應私は考へて見た。永い歳月を経て讀み返して見れば心に満たぬものも少くない。しかし、私は敢て河出書房の求めに應じて刊行しようと思つた。終戦に、何かしら釋然としない、拭ひ切れなかつた私の気持は、この原稿を讀み返してみて何となくはつきりした。九年に亘る戰ひを最後に鳥瞰して、一種の理解を得たやうな気がするのである。これは私、個の主観にすぎないかも知れないが、戰場に於ける人間の在り方、兵隊の人間として生きて在る姿に對し、この作品を透して一層の理解と愛情とを感じて貰ふことが出来れば幸である。

 なほこの機會に當り、當時非常な御迷惑をかけた島中氏ほか中央公論社の諸氏に改めて謝意を表し、懇切な辯護をして下さつた片山哲氏、福田耕太郎氏ならびに舎弟石川忠の三氏に深く御禮を申し述べて本書の刊行を御報告致したいと思ふ。

 昭和二十年中秋          石 川  達 三

 [石川達三『生きてゐる兵隊』、河出書房、昭和二十年、p.1-3]


 これに関連して、「おっちゃんBBS」にN.Q.氏より渡辺君の“南京大虐殺はホントだ!”論(投稿bR429、投稿日2002.10.13日)次のような投稿が為されている。
 ヒョッとして、これ(↓)への反駁かも知れないのでここに書いておきます。(向こうでは書込み禁止)

11.「南京事件と日本人」 柏書房刊 笠原十九司 の虚妄。
12.「南京事件と日本人」 柏書房刊 笠原十九司 の虚妄−2。


 渡辺君は持論の“南京大虐殺はホントだ!”を擁護して、以下の書き込みをしています。

15709 返信 資料『石川達三インタビュー』(昭和21年5月9日『讀賣新聞』記事) URL 渡辺 2002/10/12 01:46

15719 返信 資料『生きてゐる兵隊』初版序文(「誌」):誤植訂正 URL 渡辺 2002/10/12 23:36

しかし、石川達三については、以下廉恥節義は一身にありの批判も知っておいた方が宜しいかと思います。

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 だが、石川氏の暴論を批判する前に、少しく石川氏の「前科」を洗つておくとしよう。
 石川氏は昭和十三年『中央公論』三月號に、『生きてゐる兵隊』といふ小説を書いた。底の淺い愚にもつかぬ小説だが、ここでは作品評はやらぬ。要するに、日本軍の殘虐行爲を描寫したといふ事で『生きてゐる兵隊』を載せた『中央公論』三月號は發賣禁止となり、石川氏は軍部に睨まれる事になつたのである。

 睨まれて石川氏はどうしたか。「前の失敗をとりかへし過ちを償」ひ「名譽を恢復」すべく、やがて再び從軍作家として武漢に赴き、歸國後『武漢作戰』を發表、やがて文藝興亞會の會則編纂委員となり、昭和二十年には日本文學報國會の實踐部長になつた。當時の石川氏が軍部に迎合して恥を捨て、いかなる愚論を述べたか、かうである。

 極端に言ふならば私は、小説といふものがすべて國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつぐことになつても構はないと思ふ。さういふ小説は藝術ではないと言はれるかも知れない。しかし藝術は第二次的問題だ。先づ何を如何に書くかといふ問題であつて、いかに巧みにいかにリアルに書くかといふ事はその次の考慮である。私たちが宣傳小説家になることに悲しみを感ずる必要はないと思ふ。宣傳に徹すればいいのだ。(『文藝』昭和十八年十二月號)

 しかるに、「國家の宣傳機關となり政府のお先棒をかつ」ぎ、「宣傳に徹」した甲斐も無く、昭和二十年八月十五日、日本は敗戰の憂き目を見る事となつた。石川氏は「われ誤てり」とて茫然自失、或いは祖國の命運を思ひ暗澹たる心地だつたらうか。否。石川氏は破廉恥なまでに鮮かに轉向した。そして敗戰後二ヶ月も經たぬうちに、今度はマツカーサー元帥に胡麻を擂るべく、十月一日附の毎日新聞にかう書いたのである。

 私はマツカーサー司令官が日本改造のために最も手嚴しい手段を採られんことを願ふ。明年行はれるところの総選擧が、もしも舊態依然たる代議士を選出するに止るやうな場合には、直ちに選擧のやり直しを嚴命して貰ひたい。(中略)進駐軍総司令官の絶對命令こそ日本再建のための唯一の希望であるのだ。

 何たる恥辱であらう!自ら改革さへもなし得ぬこの醜態こそ日本を六等國に轉落せしめた。 (中略) 私の所論は日本人に對する痛切な憎惡と不信とから出發してゐる。不良化した自分の子を鞭でもつて打ち据ゑる親の心と解して貰ひたい。涙を振つてこの子を感化院へ入れるやうに、今は日本をマツカーサー司令官の手に託して、叩き直して貰はなければならぬのだ。


「生きてゐる兵隊」考
 「おっちゃんBBS」に通りすがりの軍事マニア氏より「石川達三の『生きてゐる兵隊』について」(投稿bR451、投稿日2002.10.15日付け)で次のような内容の投稿が為されている。これも参考になるので転載しておく。
 兵頭二十八「軍学考」によれば、石川達三の「生きてゐる兵隊」は、「末尾にも作者の注記があるように体験記ではなく、下級の下士・兵が日本刀を持っていたりする単純な無知に基づくフィクションもあったが、中国戦線の死や殺人について、日露戦争以後の平和ボケした普通の日本人が抱く嫌悪感を、書生の正直さでもって表現してあった。そのため自然主義的な迫力や登場人物が抱く嫌悪感を、書生の正直さでもって表現してあった。そのため自然主義的な迫力や登場人物の深みは何もなくなった半面、当時の内地の大衆の読書力レベルにはピタリと填って、作者の嫌悪感はじつによく伝わった。陸軍省がこの作品を見て激怒したのは、そこであったにちがいない」。

 基本的な間違いも指摘できないようなのが小説の事実を問うなどというのは問題外のような気もしますが。





(私論.私見)