事件の概要と推移

【「百人斬り競争事件」の概要】
 「百人斬り競争事件」を概括すれば次のように云える。現在の毎日新聞の前身で当時の主要紙の一つであった東京日日新聞が、昭和12年の南京攻略戦を報じた際に、これに参加した第16師団の野田毅、向井敏明両少尉が、どちらが先に100人斬れるかを競ったとする記事を都合4回にわたり掲載した。典型的な時局迎合型の記事であったが、この記事が数奇な運命を呼び込むことになる。

 戦後、この時の野田、向井両名が戦犯扱いになり、南京軍事裁判に引きずり出され、無実を訴えたが処刑された。1971(昭和46)年、今度は朝日新聞が主役となる。同社の花形記者・本多氏が執筆した連載「中国の旅」の中で、「百人斬り競争事件」を大々的に取り上げ、南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺されたとする南京大虐殺の証拠として盛んに喧伝するところとなった。

 ところが、1973(昭和48)年、ノンフィクション作家・鈴木明氏が、著書「南京大虐殺のまぼろし」(文芸春秋社、大宅賞を受賞する)の中で、「百人斬り競争虚報説」をぶち上げ、大論争が始まる。この事件に冤罪を嗅ぎ取る動きが次第に強まり始め、次第に東京日日新聞の記事が戦意高揚の創作記事だったことが明らかにされるに至る。

 が、その後も中国各地の記念館では「百人斬り競争事件」記事が拡大展示され、中国側のプロパガンダに利用されている。国内の学校教育現場でも度々引用され、真実であるかのように独り歩きが続いている。2003年今日現在未決着という不幸な事態にある。

 2004.8.2日再編集 れんだいこ拝

【事件の発端となった新聞記事の概要】
 そもそもの発端は、当時の三大紙のひとつであった東京日日新聞(毎日新聞の前身)の記事による。日本中が南京攻略戦の勝利に沸き立っている最中、浅海記者は、南京を目指す日本軍をリアルタイムに報道する中で、第1報(1937.11.30日)、第2報(12.4日)、 第3報(12.6日)、第4報(12.13日)と4回にわたって次のような報道記事を書きこれが掲載された。

 参考までに記すと、東京日日新聞の記事は、昭和12年11月初頭の無錫から始まり、常州〜丹陽〜句容〜12月12日付けで南京郊外の紫金山上で二人が次は百五十人切りを誓うところで終わっていた。記事には浅海一男記者の署名が入っていた。

 れんだいこの整理に間違いなければ、その記事内容は次のようなものであった。

第1報 1937.11.30日付け朝刊  常州にて29日浅海、光本、安田特派員発として、「百人斬り競争! 両少尉早くも80人」の見出しで、概要「その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた2名の青年将校がある。無錫出発後早くも1人は56人斬り、1人は25人斬りを果たしたといふ。野田少尉は無錫を距る8キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、4名の敵を斬って先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み55名を切り伏せた」。
第2報 1937.12.4日付け朝刊  丹陽にて3日浅海、光本特派員発として、向井少尉が「丹陽中正門の一番乗りを決行した」と記事にされている。
第3報 1937.12.6日付け朝刊  句容にて5日浅海、光本両特派員発として、「 ”百人斬り”大接戦  勇壮!向井、野田両少尉 」 という見出しで、「勇壮な」向井、野田両少尉が軍刀を前にした姿を写真入りで大きく紹介していた。
第4報 1937.12.13日付け朝刊  紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発として、「百人斬り”超記録” 向井106−105野田  両少尉さらに延長戦」の見出しで、「野田『おいおれは105だが貴様は?』、向井『おれは106だ!』 両少尉は”アハハハ” 結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、 結局『ぢゃドロンゲームと致さう。だが改めて150人はどうぢゃ』 (向井少尉は)『俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろとも唐竹割りにしたからぢや・・・』と飛来する敵弾の中で106の生血を吸った孫六を記者に示した」。

 この記事が数奇な運命を辿っていくことになるのが「百人斬り事件」の特質と言える。どういうことかというと、この文中記事に拠れば、@・白兵戦の中で敵を斬った武勇伝として描かれている。A・但し、向井・106−野田・105の殺人記録の中には、必ずしも白兵戦ではなく、据え物斬り殺人競争をも行われていたのではないか。B・果たしてこの記事はノンフィクションなのかフィクションなのかの疑念が拭いきれない、という三種の観点から物議を醸していくことになる。

 ちなみに、向井、野田両少尉のうちの野田少尉による戦後の次のような証言が確認されている。それによると、「百人斬り」というのは戦闘中に 勇敢に敵を斬ったというのではなく、ほとんど無抵抗の中国人を斬殺した「百人斬り」模様であったようである。野田少尉が帰国して、故郷の小学校で語った内幕は次の通りである。それを直接聞いた志々目彰氏が紹介している。概要「郷土出身の勇士とか、百人斬りの競争の勇士とか新聞に書いているのは私のことだ。実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない。 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵は馬鹿だから、ぞろぞろ出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱし から斬る。 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ。 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない」(月刊誌『中国』・1971年12月号)。

 「百人斬り事件」本筋から外れるが、この事件が実際にあったとしてのことだが、ほとんど無抵抗の人を百人以上も斬り殺して「何ともない」といっていることになる。戦争という特殊心裡下にあっては何とも無かったということであろうか。


向井、野田両少尉、戦後突如逮捕される

 通例であれば、こうした「百人斬り競争事件」も歴史の中に埋もれるところであるが、そうはならなかった。「百人斬り競争事件」の重みがここにある。終戦後、戦犯を裁く軍事法廷が各地で開かれた。この2名の兵士は、南京の戦犯裁判で責任を問われ、絞首刑に処せられるという運命になった、と言う重みにおいて「百人斬り競争事件」は画然としている。

 巷間伝えられるところの「大虐殺事件」に拠れば、「百人斬り競争事件」なぞ物の数ではないほどの虐殺証言があまた流布されている。その「南京大虐殺事件」の戦犯を裁く法廷で、選りによってこの2名が死刑を言い渡されていると言う史実がある。南京裁判において死刑に処せられたのは4名であり、他の指揮官クラスの責はここでは触れないとして、この2名はいわば一般兵士であった。もう一人三百人斬り事件で名を馳せていた1名がいるようであるが詳細不明である。

 このこと自体をどう見るのかと言うのも重要では有るが、「百人斬り競争事件」が「南京大虐殺事件」を象徴する重みとして位置付けられており、決して「南京事件」の一つのエピソードに過ぎないとする訳には行かないということが確認されねばならないであろう。ここの認識を正確にしておかないと、「百人斬り競争事件」考察の価値が毀損されることになる。

 ところで、向井敏明氏が逮捕される経過が次のように明らかにされている。「元帝国陸軍大尉・向井敏明のもとに警察が訪れたのは、復員後1年足らずの昭和22年であった。米軍憲兵が彼を捜しているという。警察は暗に逃亡を進めたが、『自分は悪いことをしていないから、 出頭します』と答えた。妻は、虫の知らせで『もしや、百人斬りの事が問題になるのでは?』と聞いたが、向井は『あんな事はホラさ』と、事もなげに言った。しかし妻の不安は的中し、これが夫婦の最後の会話となった。 向井は南京に連れ去られ、『百人斬り』をした戦争犯罪人として死刑となったのである」。

 詳細不明であるが、向井・野田両氏はいきなり南京に連れ去られたのではなく、その前にGHQに呼び出され取調べを受け、更に東京裁判でも「百人斬り競争事件」が虐殺の象徴的事例として注目され、「二将校を拘留し、尋問」とある。

 この時のことであると思われるが、浅海、鈴木両記者が検察側の喚問を受けているようである。鈴木氏は次のように書いている。
概要「どの特派員もこの二将校が実際に斬り殺した現場をみたわけではなく、 ただ二人がこの“競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、 “二人とも逃げるのは斬らない” といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別々にとられた)わけではなかったが、期せずして、 『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』 と強調した」とある。

 結局
、新聞記事では証拠にならないということで2兵士は放免されたと伝えられている。「東京裁判では二将校を拘留し、尋問しながらも解放した」とある。こうして東京裁判からは解放されたものの、向井、野田両名は、戦後、浅海記者の記事が証拠となって南京に送られ、軍事法廷に立たされる事になった
この時の向井少尉の裁判中の様子の記録と遺書が残されており、それによると、「裁判中、家族が浅海記者に、あの記事がでたらめだったことを証言してくれ、と必死に頼んだようである」。が、浅海記者が書いてくれたのは、「同記事に記載されている事実は、向井、野田両氏より聞きとって、記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」という「消極的証言」だった。

 これを、「両記者は南京の軍事法廷にも嘆願書を送っており、嘘にならない範囲内で精いっぱいの弁護をしています」と「積極的証言」と見る向きもあるが、この解釈はおかしい。厳密には、「これは非常に巧妙なセリフ」で、「『百人斬り事件』そのものの存在事実は別として、ただ二少尉がそれを自分で話していたのは事実です」という意味になるであろう。事実、結局は逆に、二少尉と「百人斬り事件」との因果関係を証明した事になり、向井、野田両氏を弁護する役には立たなかった。

 南京法廷には他にも数多くの嘆願書が出されている由である。そのうち最も重要なのは直轄の隊長である富山武雄氏の証言で、概要「この砲兵大隊は12月12日に南京東方で停止し湯水東方に駐屯したので、紫金山に二人がいるのはおかしい。向井少尉は12月2日迫撃砲弾により脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため当時は救護班に収容されていた。原隊に復帰したのは15日だから、12日に紫金山上で新聞記者と両少尉が会うはずもない。浅海記者と向井少尉は無錫でしか会っておらず、その後記者達は自動車で南京へと移動したのでその間二人と会ってはいない筈である」と、冤罪説をしたためていた。この直轄の隊長である富山武雄氏の冤罪証言は永らく無視されてきたが、後述するようにこのたびの産経新聞記事と照らし合わせると信憑性がかなり高い証言であったということになる。 

 向井少尉は処刑の前に、次のような遺書を残した。 「我は天地神明に誓ひ 捕虜住民を殺害せることは全然なし。南京虐殺等の罪は全然ありません。死は天命なりと思ひ、日本男子として立派に中国の土になります。然れども、魂は大八州(おおやしま、日本)に帰ります。我が死をもって中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです。中国の奮闘を祈る、日本の敢闘を祈る、天皇陛下万歳、日本万歳、中国万歳、死して護国の鬼となります」。

 一方の浅海記者は戦後、毎日新聞を代表する「大記者」として活躍し、定年退職後は「日中友好推進派」として、毛沢東や文化大革命を礼賛した数冊の著書を残している、ということである。


向井、野田両少尉、南京戦犯裁判で判決くだされ、絞首刑に処せられる
 通称「南京戦犯裁判」は、向井歩兵砲小隊長と野田副官に対し、いかなる理由で起訴し、どのような証拠をもって死刑としたのか。「南京事件資料集 2中国関係資料編 南京事件調査研究会・編訳(p360〜364)」に判決文要旨が紹介されているとのことであり、これを参照する。
 
 正式名称は「中国国防部戦犯裁判軍事法廷」で、判決主文は、「向敏明・野田岩(野田毅)・田中軍吉は、戦争中捕虜および非戦闘員を共同で連続して虐殺をおこなった。よって各人、死刑に処すものとする」と言い渡した。

 事実として、概要「向井敏明・野田岩は戦争中日本軍第十六師団に所属し、両人とも少尉で、小隊長および副官であった。民国26.12月、南京侵攻作戦においてわが軍の頑強な抵抗にあったことへの恨みのあまり、計画的虐殺をおこない憤りを晴らした。向井敏明と野田毅は紫金山山麓で殺人ゲームをおこない、鋭利な刃物を振り回し老若の別なく逢えば斬り殺した。その結果野田毅は105人であったのに対し、向井敏明が106人を殺して勝利した云々」と断定している。

 理由として、「調査によれば、本事件被告向井敏明および野田岩は、南京侵攻作戦において紫金山山麓で殺人ゲームとして捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争をおこなった。その結果、野田毅が105人殺害したのに対し、向井敏明が106人を殺害して勝利した事実は、当時南京に滞在していた外国人記者ティンパレー(H.J.Timperley)の著した『日軍暴行紀実』にすでに詳細に記述されている。それだけではなく、それは極東国際軍事裁判法廷中国検察官事務所が捜査・入手した当時の『東京日日新聞』に、当被告らがどのように紫金山山麓で『百人斬り』競争をしたか、虐殺記録を超過達成したあと、どのように二人が血のついた刀をかざして笑みをうかべて向かい合い勝敗を語っていたかが掲載されていることも一致している。ならびに『百人斬り競争の両将校』等の説明書きのある、当時被告らが各々凶器の刀を手に武勲を誇示している写真も上記の事実の証明を補強するものである。そのうえ南京大虐殺事件の既決犯谷壽の確定判決所載の内容を参照することもできる」と述べている。

 この理由付けで、重要な役割を演じている外国人記者ティンパレーの素性が胡散臭い。曾虚白氏(中国国民党国際宣伝処を発足させ、その機関の責任者であった。1949年の中華人民共和国の成立後に台湾にわたり、中央通信社社長を務めた)の自伝の中で次のように述べられている。概要「ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝処を展開していた時に上海の『抗戦委員会』に参加していた三人の重要人物のうちの一人であった、オーストラリア人である。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわなければならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。この後ティンパーリーはその通りにやり、二つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した」。


 
ここで云われている二冊の著作の一つは、「南京の『殺人競争』(Murder Race)」という表題がつけられた「―実録・南京大虐殺―外国人の見た日本軍の暴行」(ティンバーリィ原書、訳者不明、評伝社)」のことと思われる。かような役割で立ち働いたティンパレーの指摘する「実録・南京大虐殺」が信頼されるに値するものであろうか、そこで挙げた証拠が使用に耐えられるであろうか、という疑問は当然発するであろう。

 鈴木明氏は、著書「南京大虐殺のまぼろし」(文藝春秋社)のp82で、上訴申弁書を掲載しており、その文中には次のような記載がある。「原判決は、被告などの『百人斬競争』は当時南京に在りたるティンパーリー(原文では田伯烈)の著『日本軍暴行紀実』に鮮明に掲載しあるを以て証し得るものなりと認めあるも、『日本軍暴行紀実』に掲載されある『百人斬競争』に関する部分は、日本新聞の報道に根拠せるものなり。該書は本件関係書類として、貴法廷にもあり。復ねて参照するも難しとせず、すなわち、ティンパーリーの記述は明らかに南京に於いて目撃したるものに非ざること言を俟たさるものなり。然るに、原判決の所謂『詳明に記載しあり』とは、如何なる根拠に依るものなりや、判知し得さるところなり。

 況や新聞記事を証拠と為し得ざることは、己に民国十八年上字第三九二号の最高法院の判例にも明にされあり。其れは単に事実の参考に供するに足のみにして、唯一の罪証と為す能はざるものなり。尚犯罪事実は須く証拠に依って認定すへきものにして、此等は刑事訴訟法第二六八条に明かに規定せられあり。

 其の所謂『証拠』とは、積極証拠を指して言うものなることは、己に司法院に於いて解釈せられたるところなり。而して貴法廷には、被告らの所属部隊と異なる兵団の部隊長たる谷壽夫の罪名認定を以て被告らに南京大屠殺に関する罪行ありと推定判断せるものなるも、かかることの不可能なることは、些も疑義なきところなり」。

 鈴木氏の云わんとするところ、もっともなりしと云うべきでは無かろうか。

 2003.11.29日 れんだいこ拝






(私論.私見)