428419−4 | 「本多―木村裁判」考 |
朝日新聞記者本多勝一は、60年代半ばから開始されたベトナム戦争期のそのたけなわの時従軍記者として現地に赴いた。氏は、日本政府が加担する米国のプロパガンダ情報、それを一方的に垂れ流すマスコミの在り方に抗するかのように、南ベトナム民族解放戦線(通称、べトコン)側に立ってのルポ情報を発信し続けた。その記事が「戦場の村」というタイトルで連日朝日新聞の紙面を賑わした。丁度、れんだいこが高校生の頃のことと記憶する。本多記者のこのスタンスは、ジャーナリストらしさを如実に示しており、いわゆる左派圏から高い評価を受けることになった。 本多氏に対するれんだいこの印象はこの時のことが際立ったままであり、その後の歩みについては知らない。今日判明している事は、名声を得た本多氏が次に着手したのは、70年代の日中国交回復ブームに乗り、かっての日中戦争の史実検証記事「中国の旅」であった。特に、「南京虐殺事件」に光を当て、脇役として「百人斬り競争事件」をクローズアップさせ、旧日本軍の悪逆非道ぶりを暴露し続けた。そのスタンスは、政府系の動きに安易に乗って御用記事を書くのではなく、知るべき知識を提供することを我が身に架する風があり、本多氏の名声はますます高まった。その後の本多氏は、朝日新聞社内の出世階段を昇りつめていくことになる。 れんだいこは、2000年頃よりインターネット・ホームページを持つようになり、その中で各種論考をものすことになった。「大東亜戦争」もその一つであり、折柄他所の掲示板で論議されていた「南京大虐殺事件」の考察にも向うようになった。この時、本多氏の「中国の旅」文中の「百人斬り競争事件」がジャーナリストとしてあるまじきフレームアップ手法をとって改竄されていることを知った。 そういうとかくの癖を持つ本多記者の支持派と批判派が喧騒していることを知った。本多氏の政治的スタンスは、どちらかといえば日共党中央不破系とシンパシーしているように見える。実際に個人的にも親しそうだ。そういう事情から、本多支持派には日共系ないしいわゆる社民派が多いように見える。逆に、本多批判派には伝統的右派、体制護持派、あるいは非日共系学究が多いように見える。 さて、本サイトを設ける意味についてこれから述べる。「ホロコースト否定論」、「日共党中央批判」、「マスコミ批判論」等々でれんだいこの畏兄するインターネット仲間木村愛二氏が、この本多氏と裁判中であるというである。その経過は、「憎まれ口」の項「『週刊金曜日』犯罪記録」で詳細されている。れんだいこはこれまで、この経過にさほどの関心を持たなかった。ところがここへ至って旬になったのであろうか、「本多―木村裁判」について考察してみたくなった。個人的ないきさつ部分を削り、この裁判で問われている種々の論点を浮き上がらせ、その値打ち部分に光を当てたいと思う。 2003.9.4日 れんだいこ拝 |
【本多―木村の対峙は歴史的邂逅】 |
「本多―木村裁判」のれんだいこ的興味は次のことにある。両氏ともマスコミ畑出自で左派圏内の論客として世に位置している。これを仔細に見れば次のような違いがある。本多氏は朝日新聞の花形記者として名を為し、その歴史認識、平和運動観等々で親日共的いわばオブザーバー的に見える。木村氏は逆に元日共で、現在はその殻を打ち破り独自の観点からジャーナリスト足らんとしている。世上的権威は本多氏にある。木村氏はむしろアウト・ロー的である。現在の基準はそうであるが、これを学歴基準で見ると逆転する。本田氏は確か京大農学部卒で、木村氏は東大文学部卒である。学歴の権威は木村氏の方に分がよい。この二人はそういういろんなところで屈折した関係にあるところが面白い。 この両者が、木村氏の「ホロコーストは無かった論」を通じて決定的に対立するようになる。この時より始まる本多氏の木村氏罵倒が遂に名誉毀損として裁判に持ち込まれるに至る。その罵倒言辞については後で確認することにする。この経過には二つのメッセージがある。一つは、木村氏の「ホロコーストは無かった論」の是非、戦後牢として形成されている反ナチス観の再検証。もう一つは、いわゆる左派圏論客の資質の確認であろう。ちなみにこの場合、本多氏は日共系の代表的論客の一人であり、その論客の程度がこの程度のものであるとしたら云々、ということになろう。 |
(以下、未整理)
【「ホロコーストは無かった論」を廻る遣り取り】 |
【「『マルコポーロ』廃刊騒動時の本多氏の対応】 |
【本多氏の罵倒言辞】 |
1997.4.18. 提訴、平成9年(ワ)7639号 名誉毀損・損害賠償請求事件。原告・歴史見直し研究会こと木村愛二、被告・株式会社金曜日右代表者代表取締役・本多勝一、梶村太一郎、金子・マーティン。
原告は、被告・本多勝一からその当時創刊準備中であった『週刊金曜日』への寄稿を依頼された。原告は、同誌の1994年[平6]1月14日号に、「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」という題名の5頁の記事を寄稿し掲載された。原告は、その間及び以後に、被告・本多勝一と、日本ジャーナリスト会議(JCJ)などが主催する集会で何度か顔を合わせる機会があり、その都度、短い友好的な会話を交わした。 初代編集長の和多田進は1年を経ずして辞任し、編集委員の被告・本多勝一が編集長を兼任した。編集委員では、石牟礼道子と井上ひさしとが、相前後して辞任した。 1994年[平6]11月3日、JCJは、当日の読売新聞朝刊の1面トップ記事として発表された「改憲論」の批判を中心とする緊急集会を開いたが、その後の懇親会の席上、被告・本多勝一が原告の隣席に座ったので、原告は、たまたま別人に渡す予定が外れたために所持していた『アウシュヴィッツの争点』の第2草稿(当時の仮題は『「ガス室」神話検証』)を同人に見せた。すると同人は即座に、「これは有り難い」と押し頂き、原告が執筆した「『噂の真相』の記事(前出。1994年[平6]9月号、「映画『シンドラーのリスト』が訴えた“ホロコースト神話”への大疑惑」のこと)を見て、電話をしたのだが、その時は、お留守だった。ぜひ、これを連載させてほしい云々の積極的かつ具体的な申出をした。原告は、この同人の申出を受け、年内に、『週刊金曜日』編集部宛てに郵送した。しかし、この連載の計画は、同誌編集部内に反対意見があったことも手伝ってか、話が中断したまま年を越えた。 1995年[平7]1月30日、文藝春秋は、「ナチ『ガス室』はなかった」という題名の記事を掲載した『マルコポーロ』(1995年[平7]2月号)に対する不当な言論抑圧の攻撃に屈して、同号の全面回収と、同誌廃刊の決定を発表した。 以後、原告と被告・本多勝一との関係は、前述のような本件で争われる基本問題をめぐって急変した。右のように話が中断したままの連載の申出は、事実上、破約の状態になっていたが、被告・本多勝一はまず、原告に対して一言の詫びの言葉も発していない。事態急変の真因は、被告・本多勝一と『マルコポーロ』の出版元の文藝春秋およびその社員である編集者、花田紀凱との関係にあった。 被告・本多勝一は、文藝春秋と、同社発行の『諸君』1998年[昭56]5月号に掲載された記事、「今こそ『ベトナムに平和を』」における同人への批判についての訂正と反論掲載を求めて訴訟継続中(一審、二審とも同人の敗訴、現在、最高裁に上告中)である。廃刊決定当時の『マルコポーロ』編集長、花田紀凱とは、同人が編集長だった時期の『週刊文春』1988年(昭63)12月15日号に掲載された記事、「“創作記事”で崩壊した私の家庭、朝日・本多記者に当てた痛哭の手記」に反論掲載を求め、この件については訴訟を提起せずに、文藝春秋・花田紀凱と同時に日本の裁判制度への非難を機会あるごとに綴り続けているという関係にある。 この間の事情は、複雑多岐にわたるので、のちに証拠にもとづく詳しい立証を行うが、あえて要約すれば、原告は、被告・本多勝一が、自己の文藝春秋及び花田紀凱に対する宿年の恨みを晴らすために、本件の主題を利用するという許しがたい政治的な過ちを犯していると判断した。しかし、原告は、被告・本多勝一の過ちと動揺を知りつつも、手段を尽くして反省をうながし、合わせて、前述のような『週刊金曜日』創刊の趣旨の一つ、「苛烈な論争によって問題を前進させていく」編集方針を論拠にして、反論記事の掲載を求め、結果としてまず、同誌の1995年(平7)3月17日号「論争」欄に「『マルコポーロ』“疑惑”の論争を!」を寄稿した。 以後、若干の投稿の応酬を経て、一時、誌上の議論は途絶えていたが、1996年[平8]1月18日に発表された花田紀凱の朝日新聞移籍、及び、その後に具体化された朝日新聞社発行の『ウノ!』編集長への就任を新たな契機として、議論は再燃しはじめ、『週刊金曜日』は前記の合計14回の連載記事、「『朝日』と『文春』のための世界現代史講座」を掲載するに至った。 |
三、『週刊金曜日』における原告に対する誹謗・中傷・名誉毀損掲載等の事実経過
被告・本多勝一は、前期講座記事以前にも、原告に対する誹謗・中傷・名誉毀損記事の掲載を続けていたが、驚くべきことに本件の主題に関しては、日本語で出版された唯一の単行本である原告の著書、『アウシュヴィッツの争点』について、「手元にありますが、いただいた時に斜め読みしただけで精読はしておりません」(1996年9月25日付け原告宛ての署名入り手紙)と称したり、「ナチのガス室については、私は別に自分で調べたこともありませんから、あくまで『事実関係』については白紙です」(1997年3月18日付け原告宛ての署名入り手紙)と称したりしている。評論雑誌の編集者、または自称の「新聞記者」としては、いかにも無責任極まりない態度である。
被告・金子マーティンの場合には、原告の著書、『アウシュヴィッツの争点』を読んだ上でのこととして、「検討」(連載1)すると称しているのであるが、原告が極右のシオニスト支配を批判し、同時に、前述のような最新の法医学的鑑定結果の紹介に努めていることを故意に隠蔽し、原告に対して「歴史改竄主義者」という造語にはじまる罵倒を執拗に繰り返している。
被告・本多勝一は、すでに『週刊金曜日』の1995年[平7]2月17日号掲載「投書欄」でも、「下品な表現はやめよう」と題する読者の投書に答えて「(編集部から)[前略]ご意見はもっともと思われますので、今後留意してゆきたい所存です」と記していた。その2年後には、本件との関係で原告が電話で注意した際、同誌1997年[平9]1月24日号巻末の「編集部から」と題する編集後記で、「『応募規定』の『趣旨を変えない範囲で手を入れることがあります』を今後拡大して、削って短くする例を多くする予定」などと投書欄の紙面改革を約束した。ただし、この号では同時に、それまでの規模を大幅に上回る原告への誹謗・中傷・名誉毀損の記事連載が始まったので、原告がさらにファックス・メモで注意したところ、1997年[平9]2月14日号「編集部から」で、その注意の一部に答えて、つぎのように記していた。「木村愛二氏から次のような抗議がありました。『具体的な内容のない愚論は我慢するとしても「パラノイア」とか「下劣」とかの、執筆者の人格を暴露するだけの罵倒をそのまま掲載する貴編集部の姿勢について、見解があれば伺いたい』[中略]ご指摘はもっともと思われます[後略]」
被告・本多勝一は、投書欄に関しての「下品な表現」などについての批判を受けると、すぐに「もっともと思われます」と言葉だけの応対をするものの、実は右の耳から左の耳へと聞き流し、一向に改める努力をしないばかりか、むしろその逆に、投書欄を上回る規模で同種の罵倒記事の掲載を拡大するという、いわば悪口雑言罵詈讒謗癖の常習犯だと判断せざるを得ない。
「自著の宣伝文句に大言壮語を連ねる」「かかるいかがわしさ」「議論の余地なくそれらの言説はネオナチ宣伝」「政治的デマゴギー」、「冒涜」「ほぼパラノイアに近い」「ガス室否定論者の西岡昌紀氏と共に室内に入り、同志の花田紀凱氏に外からチクロンB[ドイツのデゲシュ社が製造販売していた青酸ガスを発生する殺虫剤であるが、殺人工場のガス室で使用された凶器と称されている]を放り込んでもらえばよい」「デマゴギーの典型」「売れない自著の宣伝意図までが見え、実に不毛かつ不愉快」「すり替え」「無神経」「不当」「歪曲」などの程度の、およそ他の一応の見識を誇る新聞・雑誌等の活字メディアでは絶対に見当たらない無内容な、罵倒的字句が頻発。
「犠牲になった人々の魂を冒涜すること」「年寄りのヨタ話」「みずからの『仮説』が正しいとうぬぼれるのならば、実物大のシャワールームを造り、再現実験を全世界の歴史修正主義者を被験者にして、ぜひ行うべきだ」「片々たる妄説」「木村氏の友人ネオナチ」「信念のない、下劣な政治的レトリック」「『ガス室はなかった』と唱える日本人に捧げるレクイエム」「歴史改竄主義者」「疑似学術的」「お粗末」「ナチスの犯罪の否定・矮小化をその使命とする『修正主義学派』」「いい加減さ」「研究不足と偏向」「非科学性」「泥酔者」「侮辱し冒涜する主張を繰り返す」「主張に内包する犯罪性や人権無視」「ユダヤ人排斥主義者」『細工』(資料改竄)なしに自分の主張を維持できない」「研究不足を暴露」「デマゴーグ」「煽動者」「極めて無責任」「ディレッタント」「歴史資料に基づかないデマ」「読者を惑わそうとする」「一味に属する」「学術組織を装った」「民族差別主義者」「欧米の歴史改竄主義者やネオ・ナチの主張の『翻訳』でしかない『アウシュヴィッツの争点』」「「職業的虚言者の『戯言』」「読者を煙に巻こうとする」「墓場から蘇ったような『ゾンビ』」「二次資料の改竄さえも怯まないディレッタントでかつデマゴーグ」「恥知らず」「低次元」「言い逃れ」「ドイツ語のイロハも知らない」「化けの皮」「負け犬の遠吠え」「犬は歴史改竄などをしません」「醜いゾンビ」「頭脳アクロバット」「愚説」「犠牲者・遺族・生還者たちを[中略]侮辱・冒涜」「悪あがき」
4、原告の著書からの詐欺的な趣旨を歪める引用に基づく 誹謗・中傷・名誉毀損の事実
5、事実の認定及び解釈を間違えた上での独断に基づく 誹謗・中傷・名誉毀損の事実四、被告・本多勝一自身が直接原告に対して行った主要な侮辱的言動
1996年[平8]6月30日付けの被告・本多勝一(代)署名による手紙……「木村さんの湾岸戦争の時のルポや読売新聞社問題に関する仕事は高く評価するものですが、このアウシュヴィッツ問題については取材不足で支持しかねます」
1997年[平9]1月25日以降、被告・本多勝一は、2月中旬ごろ(以下の事情で詳細不明)までの間の原告から『週刊金曜日』編集部への「注意」のファックス通信等を、原告の了解を得ることなく、しかも、同誌発行人の黒川宣之が「それはまずいのではないか」と止めるのも聞かずに、原告への罵倒記事を執筆中の被告・金子マーティンに、そのまま送付した。被告・金子マーティンは、これらを最終回での誹謗中傷・罵倒に利用した。原告は、最終回の記事を見て、はじめてこの事実に気付き、3月2付けファックス通信で同誌編集部に対し、「常識外れ」の「粗雑な対応」として抗議し、事情を問い合わせた。これに対して、黒川は電話で原告に直接、「文書で回答する」と約束したが、その後、何度も原告がその文書を求めているにもかかわらず、そのままになっている。
五、原告の「注意」に対する被告・本多勝一の対応の経過
被告・本多勝一の原告に対する態度には、この間、およそ一貫性が見られなかった。前記の「『朝日』と『文春』のための世界現代史講座」9「『ガス室はなかった』と唱える日本人に捧げるレクイエム」の掲載期間中においても、以後においても、それ以前と同様、またはそれ以上に無原則で動揺を繰り返す背信的な対応振りであった。のちに詳しく証拠に基づいて指摘するが、簡略に記すと、つぎのような4段階の部分的譲歩によって、事態を糊塗しようと図った。
1、「ガス室問題」はあと1回の「投書で打ち切る」との一方的宣言
被告・本多勝一は、前記講座の掲載期間中に、この「終了をもって、ガス室問題の投書は打ち切る予定」とし、連載終了後「1週間以内に」「投稿してください」(1997年[平9]2月7日号・66頁「編集部から」)と一方的に宣言した。
2、原告に対しては「投書よりも字数を多く」「論争」欄でという提案
原告宛てには、別途、被告・本多勝一の署名入りで、「特に『論争』のコラムで投書よりも字数を多くして載せたい」(1997年[平9]2月28日付けファックス通信)と提案してきた。この提案に対して、原告は直ちに、その同文書に記された「1回だけ投書」という条件を承服したと見なされるのであれば投稿しないと返事した。続いて同年3月6日付けで経過と問題点を詳しく記したB4判で5頁の要求書を送り、紙面に関しては、「最低限、金子氏の執筆分、6回で25頁と同じ頁数」の提供を求めた。
3、「ある程度長くなっても掲載すべきではないかと思っております」との意思表示
前項の原告の要求に対して、被告・本多勝一は、さらに「ある程度長くなっても」(1997年[平9]3月7日付けファックス通信)という条件を示したが、この提案においても、「問題はあくまで事実関係の間違い」として、論点の矮小化を図ろうとしており、原告は、このような一方的な条件付きの提案では承服できないとして、これをも直ちに拒否した。さらに被告・本多勝一との直接の対話を求めたところ、同人は、それまでの経過を略述して同人を諫めた原告の文章に対して、前述のように、「2年ほど前の片言隻句をとらえているようです」(1997年[平9]3月10日付けファックス通信)として、「今後は文書でお申し越し下さい」と通告してきたので、原告は、最早これまでと、通常の意思疎通を諦め、本訴状におけるとほぼ同様の要求に同年3月末日までに回答せよとの文書を送った。
4、「4ページ分のスペース」を「提言」するとの「返答」及び事実経過の捏造
被告・本多勝一は、さらに1997年[平9]3月18日付けの社印及び『週刊金曜日』編集長・本多勝一の名前と個人印入りの文書で、「4ページ分のスペース」を「提言」するとのファックス通信(のちに手紙で再送)による「返答」をしたが、これと同時に、被告・本多勝一本人の署名入りで、以上の「提言」を「役員会での協議の結果」としながら、「個人的な説明」を加えるファックス通信(のちに手紙で再送)をも一緒に送ってきた。その手紙の中には、原告がアウシュヴィッツ等の「ガス室」と称されてきた場所を実地検証してきた取材活動について、前述のように、「調査は非常に短期間であって、すぐ帰ってきたのには驚きました」などと、これまでの約2年4か月に及ぶ本件との関係での対話や文通に一度も出てこなかった主張などがあった。原告は、被告・本多勝一が「反論掲載」として「提言」する紙数の少なさもさることながら、一言の詫びの言葉すらないばかりか、訴訟を意識してか過去の事実関係の捏造さえ試みる同人の態度に驚き、直ちに、その点を指摘して批判を加えるとともに、この「提言」を拒否した。
5、「事実関係の間違い(ミステーク)なり改竄等の間違いがあれば」、「訂正しておわび」の「再提言」
被告・本多勝一は、同年3月末日に当たる3月31日に、ファックス通信(のちに手紙で再送)で、同年同月27日付けの「再提言」と称する文書を送ってきた。内容の要点は、「金子マーティン氏が書いた6回の記事の中に、事実関係の間違い(ミステーク)なり改竄等の間違いがあれば、それを箇条書きに列挙」せよと原告に求め、原告の「指摘が正しければ訂正しておわびします」というものであった。原告は、すでに問題を「「金子マーティン氏が書いた6回の記事」のみに限ってはいなかった。さらに原告は最早、被告・本多勝一らに、原告の「指摘が正し」いか否かの判断を委ねてみるような段階は過ぎており、第三者機関と世論の判断を仰ぐ以外の方法はないと考え、この「再提言」をただちに拒否した。
第3、原告が受けた損害と名誉回復方法
一、右の通り、被告らは、ありとあらゆる手段で原告を誹謗・中傷し、原告の名誉を毀損し、最後には、6週間も継続して、6回25頁の誹謗・中傷・名誉毀損の記事を浴びせ続けた。その間の原告の状況については、のちに詳しく証拠に基づいて立証するが、あえて要約すれば、原告は、前記訳書の仕上げ作業をやむなく中断せざるを得なくなったばかりか、ついには安眠を奪われる肉体的な危機に立ち至り、本件の提訴によって反撃する以外には、自らの生命を守ることも不可能な極限状態を迎えたのである。
被告・本多勝一は、原告の「お怒りの感情はよく分かります」(1997年3月7日付けファックス通信)という表現もしているのであるが、それ以前に、被告・金子マーティンが、「自分の『化けの皮を剥いだ』相手を憎いと思う木村の気持ちはわからないではない」(『週刊金曜日』1997年[平9]2月28日号23頁)と記し、被告・本多勝一が同号の巻末「編集部から」で、その金子マーティンに「労を謝したい」と異例の言を捧げている事実と照らし合わせるならば、「お怒りの感情」という表現に込めた同人の真意について深い疑いを抱くしかないのである。
同人は、このように極限的な状態に原告を突き落としておきながら、なおも、前述のような曲がりくねった対応を続け、「ジャーナリズムの問題として解決するつもりでおります」(1997年[平9]3月10日付けファックス通信)などと、いわゆる「カタカナ語」によるあいまいなごまかしに終始してきた。「ジャーナリズム」の原意は「日刊」でしかない。「卑俗なジャーナリズム」「煽情ジャーナリズム」「イエロー・ジャーナリズム」「翼賛ジャーナリズム」などの形容による意味の明確化をしなければ、まともな議論にはならない。「ブラック・ジャーナリズム」ともなれば、取材した極秘情報を使って恐喝を働く犯罪行為の意味にもなる。
被告・本多勝一が原告に加えた誹謗・中傷・名誉毀損は、およそ世間一般に「真実の報道」などとの同義語として理解されがちなこの「ジャーナリズム」というあいまいな表現の使用法とは掛け離れた暴挙であり、前述のような形容詞付きの低俗ないしは犯罪的な意味での「煽情ジャーナリズム」以外のなにものでもなく、原告に対する不法行為を構成するものであることは明らかである。
原告は、被告らの行為によって、著述業を営む上での社会的な名誉と信用を著しく傷付けられたばかりでなく、心理的および肉体的にも深刻な被害を受けたものであり、その被害は決して金銭で償えるものではないが、あえて損害賠償の金額を提示するのであれば、その被害は1000万円を下ることはない。
二、さらに、原告が被った有形無形の損害を回復するためには、金銭による賠償だけでは到底不十分であり、特に原告が著述業を営む立場であることを考慮するならば、被告・本多勝一が代表する株式会社・金曜日発行の『週刊金曜日』の誌上に、別紙一の文章と掲載条件による見開き二頁の謝罪広告を掲載し、かつ最小限、被告・金子マーティンが執筆したと同様の6回25頁の記事紙面を、原告に提供することが相当である。
よって、原告は、被告に対し、民法 709条、 710条、 723条に基づき、毀損された名誉と信用に対する損害賠償として金1000万円、ならびに名誉回復措置として、前述した断続的ないしは連続的な記事及び被告・本多勝一の原告に対する侮辱的な言動への訂正、取り消し、謝罪の広告、原告執筆の記事掲載を請求するとともに、右損害賠償金に対して、連続的な不法行為の中でも最大規模の被告・金子マーティン執筆による6回の連載終了日の翌日である1997年[平9]2月29日から完済まで、民法所定の年5分による遅延損害金の支払並びの金銭請求についての仮執行の宣言を求めて、本件訴訟を提起する。
なお、被告・梶村太一郎及び被告・金子マーティンの両人の身元に関して、原告は、『週刊金曜日』誌上でしか知り得ず、同誌編集部は両人の住所を原告に告げない上に、同誌上で知る限りでは、被告・梶村太一郎は日本国籍でありながらも通常はドイツに在住しており、金子マーティンは、本件の記事執筆時には日本に在住していたもののオーストリア国籍であり、さらには、両人が執筆した記事に関する責任は、当然、同誌編集部にもあることを考慮し、両人の住所は、株式会社・金曜日気付けとして取り扱うように申請する。
証 拠 方 法
一、甲第1号証 単行本『湾岸報道に偽りあり』(汐文社、92)
二、甲第2号証 単行本『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版、95)
三、甲第3号証 単行本『読売新聞・歴史検証』(汐文社、96)
四、甲第4号証 雑誌記事「映画『シンドラーのリストが訴えた“ホロ コースト神話”への大疑惑」(『噂の真相』94・9)
五、甲第5号証 雑誌記事「“見直し論”者からの反論/『マルコポー ロ』廃刊報道への大疑問」(『創』95・5)
六、甲第6号証 ヴィデオ『「ガス室」検証』(原作者はユダヤ人のデ ヴィッド・コール。日本語版95)
七、甲第7号証の1〜4 歴史見直し研究会機関誌、『歴史見直しジャーナル』 準備号1、創刊号、2号、3号
八、甲第8号証の1〜2 雑誌記事『月刊金曜日』各号の該当箇所
九、甲第9号証の1〜10 雑誌記事『週刊金曜日』各号の該当箇所
十、甲第10号証 単行本『貧困なる精神/悪口雑罵詈讒謗集/Z集』 (毎日新聞社、93)
十一、甲第11号証 要求書(原告から被告・本多勝一宛て)
十二、甲第12号証
の1〜2 回答書(被告・本多勝一から原告宛て)
その他、必要に応じて口頭弁論期日において提出する。
付 属 書 類
一、甲各号証の原本及び写し 各一通
一、商業登記簿謄 一通
1997年[平9]4月18日 原告 木村愛二
東京地方裁判所 御中
別紙1
謝 罪 広 告
本誌は、創刊に当たって広く支援を訴えるために標榜した「論争する雑誌」の趣旨に反して、論争を掲載する際の中立性と礼節を欠き、左記の字句を含む記事によって、本誌創刊に当たっては3年分の予約購読金納入のご支援をいただき、1994年1月14日発行の第9号には「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」を寄稿していただいた執筆者でもある木村愛二氏に、根拠のない誹謗・中傷を加え、氏の社会人並びに著述業者としての名誉と信用を著しく毀損致したばかりでなく、氏の本来の著述業の遂行にも3か月にわたる中断を余儀なくさせるほどの甚だしい被害を加えました。また同時に、該当記事の掲載時には編集長を兼任していた本誌発行会社、株式会社・金曜日代表の本多勝一は、木村愛二氏の渾身の著書、『アウシュヴィッツの争点』に対して、自ら「斜め読みをしただけ」と認めながら、誌上及び直接の手紙等により、「取材不足」と非難するなど、まったく根拠を欠く失礼極まりない侮辱を加えることによって氏の心を深く傷つけ、ついには氏の安眠を奪い、健康を害するまでの被害を与えるに至りました。
ここに、株式会社・金曜日代表及び記事掲載当時の『週刊金曜日』編集長としての本多勝一と、該当する主要記事の執筆者、梶村太一郎、金子マーティンの3者連名により、木村愛二氏に深甚なる謝罪の意を表明します。
なお、該当記事のその他の問題点及び本多勝一個人による侮辱行為に関しては、別途、木村愛二氏に直接、右金子マーティン氏の執筆による連載記事と同分量の25頁の記事を執筆していただきますので、その記事の中で忌憚のないご批判、ご指摘をいただき、今後の参考にさせていただきます。同記事は、原稿の到着次第、翌週より本誌に6回継続で連載します。
記
本誌が誤って掲載した木村愛二氏への誹謗・中傷・名誉毀損の字句(一般投稿者の場合の掲載責任は挙げて本誌にあるとの木村愛二氏のご指摘もあり、氏名を省略させていただきます。同じく氏のご高配により、同一の字句が頻発している場合には、原則として1回のみの記載とさせていただきます)
1996年10月11日号・65頁「論争」欄……「自著の宣伝文句に大言壮語を連ねる」「かかるいかがわしさ」「議論の余地なくそれらの言説はネオナチ宣伝」「政治的デマゴギー」
1996年10月25日号・81頁「論争」欄[梶村太一郎氏執筆]……「冒涜」「ほぼパラノイアに近い」「ガス室否定論者の西岡昌紀氏と共に室内に入り、同志の花田紀凱氏に外からチクロンB[ドイツのデゲシュ社が製造販売していた青酸ガスを発生する殺虫剤であるが、殺人工場のガス室で使用された凶器と称されている]を放り込んでもらえばよい」「デマゴギーの典型」「売れない自著の宣伝意図までが見え、実に不毛かつ不愉快」
1996年12月13日号・64頁「投書」欄……「犠牲になった人々の魂を冒涜」「年寄りのヨタ話」
1997年1月10日号・64頁「投書」欄……「みずからの『仮説』が正しいとうぬぼれるのならば、実物大のシャワールームを造り、再現実験を全世界の歴史修正主義者を被験者にして、ぜひ行うべきだ」「片々たる妄説」「木村氏の友人ネオナチ」「信念のない、下劣な政治的レトリック」
1997年1月24四日号・50〜53頁「『朝日』と『文春』のための世界現代史講座」9「『ガス室はなかった』と唱える日本人に捧げるレクイエム」(1)[金子マーティン氏執筆。以下「同講座」はすべて同氏執筆]……「レクイエム」(羅和辞典では[死者のためのミサ])「歴史改竄主義者」「疑似学術的」「お粗末」「ナチスの犯罪の否定・矮小化をその使命とする『修正主義学派』」「いい加減さ」「研究不足と偏向」「非科学性」「泥酔者」「侮辱し冒涜する主張を繰り返す」「主張に内包する犯罪性や人権無視」「ユダヤ人排斥主義者」
1997年1月31日号・50〜53頁「同講座」9(2)……「『細工』(資料改竄)なしに自分の主張を維持できない」「研究不足を暴露」「デマゴーグ」
1997年2月7日号・66〜69頁「同講座」9(3)……「煽動者」「極めて無責任」「ディレッタント」「歴史資料に基づかないデマ」
1997年2月21日号・28〜31頁「同講座」9(5)……「読者を惑わそうとする」「一味に属する」
1997年2月28日号・20〜24頁「同講座」9(6)……「学術組織を装った」「民族差別主義者」「欧米の歴史改竄主義者やネオ・ナチの主張の『翻訳』でしかない『アウシュヴィッツの争点』」「「職業的虚言者の『戯言』」「読者を煙に巻こうとする」「墓場から蘇ったような『ゾンビ』」「化けの皮」「二次資料の改竄さえも怯まないディレッタントでかつデマゴーグ」「恥知らず」「低次元」「言い逃れ」「ドイツ語のイロハも知らない」「犠牲者・遺族・生還者たちを[中略]侮辱・冒涜」「ドイツ語のイロハも知らない」「負け犬の遠吠え」「犬は歴史改竄などをしません」「醜いゾンビ」「頭脳アクロバット」「愚説」「悪あがき」
以上の誹謗・中傷・名誉毀損の字句を含む記事の掲載、執筆及び発表に関して、深くお詫びし、その他、ご指摘の諸点についても、今後に掲載される記事を熟読し、反省を深めることを誓います。
年 月 日
本 多 勝 一 印
梶 村 太一郎 印
金子マーティン 印
木村愛二 様
掲 載 条 件
大きさ 『週刊金曜日』の見開き2頁を全部使用する。
使用活字等 活字の大きさやレイアウトに関しては、見本作成の上、原告に見 せて承認を得る。
その他 年月日は、本謝罪広告を掲載する日とする。
以上。
|
「南京大虐殺まぼろし論」の経過を調べる気になったのは、本件の『週刊金曜日』を舞台とした私への不当極まりない名誉毀損・誹謗中傷行為が頂点に達し、私がやむをえず本来の仕事を中断して被告・本多勝一に反論の場の提供を求めて以後のことです。その当時、特に被告・金子マーティン執筆の連載記事が話題に上った際、ある事情通の出版編集者が、「本多さんは文藝春秋に同じ頁数の反論を要求していますよ」と教えてくれたのです |
(私論.私見)