4284112 | 南京戦における日本軍および中国軍の編成 |
【日本軍の編成】 | ||
まず、南京攻略戦を行った日本軍は、松井石根(まついいわね)陸軍大将を軍司令官とする中支那方面軍であるが、その麾下に上海派遣軍と第10軍があった。次の通りである。総兵力は約10万と号していたが、上海戦での消耗はげしく、実際に南京戦に参加した兵力は7〜8万程度とみられている。「16万とも20万とも」云われている。 | ||
【陸軍】 | ||
軍隊名 | 軍司令官
参謀本部 |
直属部隊 |
中支那方面軍 | 松井石根大将
参謀長・塚田攻少将、参謀副長・武藤章大佐、参謀・公平国武中佐・光成省三中佐、中山寧人少佐・二宮義清少佐・吉川猛少佐・河村弁治少佐、特務部長・原田熊吉少将 |
第3飛行団(値賀忠治少将) |
上海派遣軍 | 朝香宮中将
参謀長・飯沼守少将、参謀副長・上村利道大佐、参謀・西原一策大佐1課長・長勇中佐2課長・寺垣忠雄中佐3課長・その他 |
直属部隊
第16師団(中島今朝吾中将・京都)、第9師団(吉住良輔中将・金沢)、第13師団(高田)の一部・山田支隊、第3師団(名古屋)先遣隊。他に、第13師団主力(揚子江北岸)、第3師団主力と第11師団、天谷支隊(善通寺)、第101師団(東京)は後方警備。野戦重砲兵第5旅団 |
第10軍 | 柳川平助中将 | 直属部隊
第6師団(谷寿夫中将・熊本)、第114師団(末松茂治中将・宇都宮)、第5師団の一部・国崎支隊、第18師団の一部(蕪湖方面)。 |
【海軍】 | ||
支那方面艦隊 | 長谷川清中将 |
【中国軍の編成】(張其的、魏汝霖編著『抗日戦史』中華民国国防研究院出版による) | ||||
「蒋介石は、第一次上海事変(32年)が上海や華中に多くの利権を持つ英米など列強の圧力で停戦協定が結ばれたように、今次の第二次上海事変においても、アメリカやイギリスの干渉を誘い出して停戦に漕ぎ着けること、あるいは国際連盟加盟国や9カ国条約加盟国による対日軍事・経済制裁を引き出すことを期待して、上海防衛戦に最大勢力をつぎ込んだ。しかも、蒋介石は、国民政府の精鋭部隊のほとんどを投入した。 さらにドイツから派遣された軍事顧問団(団長・フォルケンハウゼン)が、ドイツ製武器で武装し、ドイツ陸軍式に訓練された精鋭部隊に市街戦、陣地戦の戦術と技術を直接指導した。また、上海市民の支援も得て、中国軍将校の抗戦士気は高かった」(笠原「南京防衛戦と中国軍」)。 |
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司令官 | 唐生智 | 第72軍 | 孫元良(88師) | |
副長官 | 羅卓英、劉 興 | 第78軍 | 宋希謙(36師) | |
第2軍団 | 徐源泉(41師、48師) | 教導総隊 | 桂永清 | |
第66軍 | 葉 肇(159師,160師) | 第103師 | 何知重、第112師、霍守義 | |
第74軍 | 兪済時(51師,58師) | 江寧要塞司令 | 陌百昌 | |
第83軍 | ケ竜光(154師,156師) | 憲兵部隊(両団) | 齏山令 | |
第71軍 | 王敬玖(87師) | その他砲兵、通信部隊 |
【中国軍の戦力について】 |
南京市内外の中国軍の戦力がどれほどであったか正確にあげるのは難しい。この問題を廻っても、肯定派と否定派の見解は大きく相違している。肯定派は数十万、否定派は南京陥落時の城内の兵力はその約5万とみているようである。 当時日本軍は中国の首都防衛軍を約10万と見ていたとされている。 |
【肯定派の見解】 |
笠原氏の見解は次の通りである。「南京防衛軍に参加した中国軍の総数については、私はかって詳細に検討し
たことがあり、戦闘兵が11−13万、それに雑役を担当した少年兵、 輜重兵などの後方勤務兵、軍の雑務を担当した雑兵、防御陣地工事に動員され
た軍夫、民夫(民間人人夫)等々、正規非正規の区別もつきづらい膨大な非戦
闘兵をくわえて、総勢15万人いたと推定した。 (南京防衛軍の戦闘詳報など中国側の豊富な原資料を整理・分析した孫宅魏・
江蘇省社会科学院研究員の「南京保衛戦史」も、南京防衛軍に参加した中国軍の総数を15万人としている)」。
「第16師団佐々木支隊隊長・佐々木到一少将私記」には、「南京攻略戦に於ける敵の損害は推定約7万にして、落城当日迄に守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せらる」とある。「上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の陣中日誌12月17日」では、「(前略) 今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約20コ師十万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約五万、海軍及び第十軍の撃滅したる数約三万、約二万は散乱したるもの今後尚撃滅数増加の見込。鹵獲品は相当多数の見込みなるも未だ調査完了せす (略)」とある。 「第16師団参謀長・中沢三夫大佐の手記」では、「(敵の基本部隊は)計八−九師、当時の一師は五千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく一万ありしものとすれは、八−九万。以前(上海派遣軍)軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ20師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か10師分ある故二−三千と見て二,三万、総計十−十二(三−原文)万の守備兵力なるへし」(防衛庁防衛研究所戦史部所蔵「第16師団関係綴」)とある。 「関係資料の記載に基づくと、南京防衛軍の部隊は15万人余りで編成されるべきであったが、兵員を戦闘のために損失しており約12万人であった。半月の南京防衛戦争で約1万人が負傷したり死亡している。1937.12.11日、蒋介石が南京守備軍に撤退命令を出したが、日本軍の包囲網を突破するのが非常にあわただしく、揚子江岸の渡し船も少なく、少数の部隊が突破した以外、大部分の部隊が南京城の中に封じ込められた。この守備軍の人数が約8万人であった。これ以外に、また相当の数の南京ー上海鉄道と道路沿いに、南京まで逃げてきた他の土地の難民や負傷兵がいた。情勢が悪化して交通が制限され、南京に滞留させられた人たちは約9万人だった。指摘しておかなければならないことは、安全区やその他の南京市内や郊外の農村に残った人たちを除いて、その他に10万人以上の難民と一部の中国兵が揚子江岸に残り云々」ともある。 他方、三好捷三「上海敵前上陸、P226」(図書出版社1979年)では、「こうして日本軍は、各方面より進出して南京の百キロ圏内にせまり、その包囲網を圧縮していったが、同時に南京の中国防衛陣も急激に整備されていた。このときの南京の周辺に配置展開していた中国軍の兵力は約三十五万といわれていた」とある。 これらの資料から窺えることは、肯定派は、ほぼ十万見当兵力であった説を基調にしつつ、最大約35万人説まで包含していることになる。 |
【否定派の見解】 |
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、次のように述べている。「南京包囲の日本軍に対抗したのは、広東軍数個師団、江西軍2、3個師団、若干の湖南軍、さらに城内では第36師、第88師およびいわゆる南京師団であった。広東軍部隊は、上海付近から日本軍の前面を退却する間、何週間も日本軍の砲撃にさらされていた。かって蒋介石総統の精鋭軍であった第36師と第88師は、既に上海付近で大損害を蒙っていた。これらの師団は南京に退却して新兵を補充した。蘇州と句容の間で日本軍の進攻に第一線に立って抵抗してきた四川軍の大部分は蕪湖から揚子江を渡河してしまい、南京の戦闘には加わらなかった。 推定では、南京攻防戦には16個師団が参加したと見なされる。中国軍の師団は平時においてさえも、平均してわずか5000名編成にしかすぎない。南京を防衛して痛撃を蒙った大師団は、少なくとも場合によってはそれぞれ2〜3000名編成であったこともあり得る。在南京米大使館アリソン三等書記官から在漢口ジョンソン大使あてに送付した南京米副領事ジェームス・エスピーの報告書には、「町(南京)は5万を越えざる兵数にて守らるることとなり居れり。実際僅かに唯の5万に過ぎざるなり」とある(「速記録」58号21・8・29)。東京裁判の判決文の中にも、「中国軍はこの市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した」、「残留軍5万の大部分は云々」とあり、中国の南京守備兵力5万と判定して議論を進めている。また「南京安全区国際委員会」の日本大使館への公文書の中にも「南京衛戌軍五万」と記載されており、昭和12.12.13日の南京陥落時における唐生智麾下(きか)の兵力はおおむね5万とみられていたことが判明する。してみれば、約5万人の軍が南京防衛戦に参加し、袋のネズミとなったといっても間違いないと思われる。 なお、歩兵第19旅団司令部の通信班長犬飼總一郎氏は、紫金山で戦闘した体験と、戦後の中国側の資料その他から推理して「陥落当時の城内の兵力は、『せいぜい3万ていど』」という見方をしている。これを裏付けるように、最近秦郁彦が台湾で取材したところによると、中華民国の関係者は、城内兵力3.5万と計算している。要するに3.5万から多く見積もっても5万であったと見て良さそうである。 |
(私論.私見)