428418 捕虜処遇ないし「便衣兵」処罰の国際法との絡みについて
 ここで、便衣兵について考察する。1・正規兵と捕虜、2・ゲリラ兵とは、3・便衣兵とは、4・兵士の投降後の処遇について、という順序で考察する。明らかにすべきことは、1・兵士はどのように区分され、その違いによってどう処遇が変わるのか、2・便衣隊はどのように待遇されるべきか、3・「便衣兵彼らを処刑することは、へーグ条約・ジュネーブ条約の違反なのかどうか」というかなり高度な問題である。いきなりはこの問題には入れないので順を追って考察する。「便衣兵」考を参照した。(分かりやすくするため引用元等は割愛した。詳細は「便衣兵考」を各自読まれたし)
 関連法規【戦時国際法】1907年のヘーグ陸戦条約(陸戦に関わる交戦法規を集大成しており、基本法規的な性格を持つ放棄)、1929年のジュネーブ捕虜待遇条約(1899、1907年のハーグ陸戦規約中の捕虜に関する諸規定を一部補足し改善した意義を持つ)第1追加議定書、ジュネーブ条約第43条7項、同条3項

 外国人雇兵や職業軍人を中心とした絶対王政時代、さらにフランス革命を契機に国民兵制度が普及した近代国家の初期の段階においては、兵士というものは皆、外観上、明瞭に文民と区別され、「交戦者資格」をとりたてて問題にする必要はなかった。しかし、古くは武法(Law of arms)の時代から、戦争に従事しうる者は厳格に制限されており、例えばナポレオン軍に抵抗したロシアやスペインのゲリラは捕えらえた時、容赦なく処刑されている。そして、フランス革命を契機として制限戦争から全体戦争へと質的変化をとげるに従い、(文民と区別できない)不正規兵に対する捕虜待遇の許与を最重要問題として扱ってきたのが、戦争に関する一連の条約である。

 1949年のジュネーブ四条約およびその後の二つの追加義定書の根底にある考え方は、「文民保護」であることは常識であろう。そして、戦闘行為を規律する法規であるヘーグ法にしても、もとをただせば人道的考慮に基礎づけられていることは「マルテンス条項」を読めば明らかである。そして、文民保護のための大前提が「戦闘員と一般文民との区別」であり、同時にこれは、今も昔も一貫して、戦争法・人道法の基本原則なのである。

1・正規兵と捕虜について

 正規兵とは、「国・政府と法的・事実的に関係を有する兵」で、「戦闘員は、一般文民から自己を区別すべき義務を負い、特に正規軍については制服着用の慣行が義務付けられている」。「戦闘員は、攻撃又は攻撃の準備的軍事行動に従事するとき、自己を一般住民と区別しなければならない」ということであるが、その正確な定義はヘーグ条約では与えられておらず、慣行まで含めて各国の定めるところに委ねられていると言ってよい。

 制服着用についてみてみると、裏を返せば、制服や外部標識を付けていなければ、例え軍艦や航空機の乗組員とはいえ、正規兵とは認めてもらえるとは限らないということになる。ただ仔細に見れば、「戦闘員とみなされるための条件としては、自己の一般住民との区別(区別方法は特定されず)のみが要求され、この条件も一定の場合には公然武器携行でよいことになった。この区別条件は、その起草過程からみて、民族解放戦線と占領地域の抵抗運動の場合が念頭におかれている。なお、このような条件の緩和も、従来の正規軍の制服着用に関しては、一般に受け入れられた諸国のを変更するものではない」『国際人道法』藤田久一、87頁)などと解説されている。


 『ヘーグ条約の四条件』というものでかなり明確に規定されている。

(一)部下のために責任を負ふ者その頭にあること。

「部下のために責任を負ふ者その頭にあるを要するは、民兵又は義勇兵団の動作をして一般に無責任、乱雑ならしめ、特に之に属する者を結束して戦争の法規慣例を守らしむるの責任を負う者あるを求めるまり」(立作太郎氏、前掲書65頁)。

(二)遠方より認識し得へき、固著の特殊徽章を有すること。

「固着の徽章とは、固く身体又は身体に固着する衣服に付着して容易に取り去り難き標識にして、必すしも制服たるを要せす。(中略)而して是等の徽章は之を隠蔽すへからさること言を須たす」(立作太郎氏、前掲書65頁)。

また、「遠方」の範囲であるが、小銃の射程距離とされる。(立作太郎氏、前掲書65頁)

(三)公然兵器を携帯すること。

「公然兵器を携帯するを要するは、兵器たること外部より明知し得へき種類の兵器を、隠蔽することなく携ふることを求むるなり。拳銃、短刀、曝裂物を身体に隠蔽して携へ、又は仕込杖容易に組み又は解き得る小銃其他外部より兵器として明知難き兵器を携へ、又敵の近寄るに及ひて其兵器を隠蔽せるときは、所要の条件を充たささるものにして、交戦者の特権を認められさることあり得へきなり」(立作太郎氏、前掲書65ー66頁)。

(四)その動作に付戦争の法規慣例を遵守すること。

「その動作に於て戦争の法規慣例を遵守するを要するは、民兵又は義勇兵団全体の動作につきて云ふものなり。其中の或個々の兵士か敵国の戦時重罪人として取扱ひ得へき行為を行ふも、民兵又は義勇兵全体の者の交戦者たる特権を失はしむへきものに非す」(立作太郎氏、前掲書66頁)。


 捕虜(俘虜)の定義。

 「浮虜とは、交戦国の一方の権力内に陥り、敵の抵抗力を殺くの目的の為に抑留せられ、交戦法規の定むる一定の取扱を受くへき敵人なり」(『戦時国際法』立作太郎、217頁)とされている。

 “戦闘員と非戦闘員とを区別すべきことを成文法的に宣言した最も古い文献として今残つて居るものは、1179年のラテラン会議の定めた法規であつて、こゝに「司教、僧侶、旅行者、商人その他すべて武器を執らざる平和的人民は武力攻撃より保護されるべきこと」が命ぜられて居る。13世紀の中葉の神学者聖トマス・アクィナスは、敵の戦争の手段を構成しないものを攻撃することを得ないことを説き、14世紀の末戦争法に関する有名なるLarbre des bataillesを著したHonore Bonetも、商人、牧場に牛を逐ふ農夫、貧しき手工業者が戦争の惨禍を蒙らしめらるべきでないことを説く。武士道を重んずる侠勇の将士が是等の教を実行したことは、例へばDu Guesclinに就いて、又Bayardに就いて、史家の謳ふ所である。近世の初め其の名著によつて中世以来の戦争法学説を大成したVictoriaに至つて、この法規は最も力強く表現せられる。

 「我軍に害を加へざる人々を故意に殺害することは絶対に許されない。.......基督教徒間の戦争に於いては,武器を執らざる農夫その他一般の平和的私人を殺戮することは禁止せられる。何となれば,反対が証明せられざる限り彼等は総て我が軍に害をなさざることを推定せらるべきであるからである。ノノ.又将来武器を執つて立ち我軍に害を加える可能あるの故を以つて,現在無害なる人々を殺すことは許されない。何となれば,人は一の悪を,他の悪を予防する為なることを理由としてーーーたとへ後者がより大きい悪であらうともーーーなすことは許されないからである。

 ヨーロッパでは中世に至るまで捕虜は殺害や奴隷の対象でしたが(ジャン・ピクテは「奴隷の元祖は戦争による捕虜だ」と述べている)、17世紀になると捕虜の交換や身代金制度の道が開かれるようになり、18世紀になるとフランス革命を契機に当時の人権思想にもとづいて、捕虜を犯罪人と区別して一定の人道的待遇を保障する理論や実行が現われ、19世紀以降は捕虜を(一定の自由を制限する他は)自国の兵士と同様に待遇するようになった。

 ヘーグ条約(陸戦法規付属書)の第四条の「浮虜の取扱」には、1・「浮虜は敵の政府の権内に属し、之を捕へたる個人又は部隊の権内の属することなし。2・浮虜は人道を以て取扱はるへし。3・浮虜の一身に属するものは、兵器、馬匹及軍用書類を除くの外、依然其の所有たるへし、などとある。ヘーグ条約第23条(ハ)には、概要「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷することの禁止」、(二)は、「助命せざることを宣言することの禁止」を規定している。

 1949年のジュネーブ第三条約(捕虜の待遇に関する条約)の第5条は、第二次世界大戦の経験に鑑みて、1929年条約を更に大幅に改善拡大した。「本条約は、第4条に掲げる者(捕虜の待遇を受ける資格のある者)に対し、それらの者が敵の権力内に陥った(fall into the power of the enemy)時から、最終的に解放され、且つ送還される時までの間適用する」、「交戦行為を行って敵の手中に陥った(having fallen into the hands of the enemy)者が第4条に掲げる部類の一に属するか否かについて疑いが生じた場合には、その者は、その地位が権限のある裁判所によって決定されるまでの間、本条約の保護を享有する」。


 現在では戦争法上、捕虜がいかに手厚く保護されているか、具体的にはヘーグ条約、ジュネーブ条約、追加義定書をご覧いただきたい。捕虜になるということは、正に交戦者の「特権」なのである。
読者の中には、何故捕虜がそれほど“厚遇”されるのか、と疑問を抱く方がいるかもしれない。居住地や所持品等の若干の制限の他は、自国の兵士と同じ待遇なのである。なにしろ、使役させられた時は給料をもらえるし、将校捕虜には本国の同一階級の将校と同額の棒給が支給され、郵便料金はタダである。これは、(虐待や抑圧を禁止するといった)人道的配慮のみでは説明がつかないであろう。勿論、自国の兵士が捕虜になった時に、相手国に同様の扱いを期待するといった面もあるが、これを加味しても“厚遇”の説明は到底困難であろう。

 実は、捕虜のこのような扱いがなされる本質的な理由は、(これを捕獲する国の)「軍事的利益」に適うからなのであり、だからこそ、捕虜は「名誉ある地位」とされ、「特権」をもって厚遇されるのである。

 これを捕獲する国にとっての「軍事的利益」とはどういうことかというと、自軍の(無駄な)被害・損害を抑えられるということである。例え、相手の勢力が圧倒的に劣勢であるとしても、これを孅滅するからにはそれ相当の犠牲者が自軍に出るであろうし、時間や武器・弾薬の消耗も避けえないであろう。しかし、敵の降伏はこれらの被害・損害から自軍を解放せしめるのである。しかし、降伏した後の捕虜としての待遇が劣悪なら、そう簡単には降伏しないことは理の必然である。従って、捕虜を厚遇することは、降伏を促し、自国の「軍事的利益」に適うことになるのである。

 逆に言えば、自国の軍事的利益に適わない時は、投降を拒否したり、捕虜を殺害することが実際にありえるのである。しかし、勿論、これらの行為の正否は、“「軍事的利益(必要)」と「人道的考慮」のバランス”という戦争法の基本理念の上に立って判断されるべきである。


 また、付言すれば、20世紀に入って相当に廃れたかもしれないが、今なお残る騎士道・武士道精神などの軍人の名誉感覚からも、(逆説的ではあるが)捕虜の厚遇は是認されるのである。苟しくも軍人たれば、命をかけても任務を全うしようとするのが当然であり、安易にそれを放棄するのは軍人の面汚しともされかねない。しかし、完全に劣勢に立たされ、戦闘を継続することがもはや玉砕・犬死しか意味しないという状況においては、軍人としての恥辱に耐え(名誉感覚を抑え)、投降するというのも(軍人としての誇りが高ければなおさら)勇気ある選択として賞賛されてしかるべきである。そして、これが勇気ある選択であるからこそ、相手はこれに敬意を表わし、捕虜として(言ってみれば新たな)「名誉ある地位」を与えるのである。

 良心的・道徳的規範とともに、この軍人としての名誉感覚が、人の好戦的性向を抑制し、戦争法の発展・遵守を可能ならしめてきたということを決して忘れてはならない。捕虜に対する敬意は、この名誉感覚を決してないがしろにするものではないという意思の表われでもあるのである。

 戦争法の基本理念は“「軍事的必要」と「人道的考慮」のバランス”であるが、それを現実に支える基本原則の一つは“「戦闘員」と「非戦闘員(文民)」の区別”である。

 交戦時には戦闘員と非戦闘員(文民)は明確に区別されるべきで、それぞれがそれぞれの権利を有し、それと同時に義務を負う。これは中世に起源を発し、近世、そして現代を通じて一貫した原則である。

 捕虜とは、「捕虜については、捕虜資格を認められる範囲と、捕虜に与えられる待遇が重要な問題とされるが、捕虜資格は交戦資格をもつ者が捕えられた場合に認められるもので、両者は不可分の関係にある」(『戦争と国際法』城戸正彦、184頁)、また、「戦闘員が敵の手中に陥ったとき捕虜として保護されるという規則は、戦闘員の観念と捕虜の観念とを直結せしめ、両者を同一物の表裏として眺めさせることとなった。一九世紀中の主要な関心が合法的な戦闘員の範囲確定の問題に向けられたのは、そのためであった。その傾向は、一八九九年のヘーグ陸戦規則の構造そのものの中に、端的に表現されているといえよう。すなわち、陸戦規則の第一章では、合法的な交戦者資格について規定し、第二章で捕虜の享有する保護の内容について定めているが、何人が捕虜とみなされるかについて全く言及していない。第二章にいう捕虜は、第一章に定められた交戦者であることが当然のこととして前提されているのである」(『国際人道法の再確認と発展』竹本正幸、158頁)などと解説されている。

 要するに、ヘーグ条約やジュネーブ条約(追加議定書)にある、交戦資格が捕虜資格であると考えてよいということである。(実は、追加議定書では、両者に若干の乖離がみられる部分もあるのであるが、主として支那事変当時のことを問題とする本投稿では、詳細を述べない)


2・ゲリラ兵とは


 文民との区別がし難い「ゲリラ」については厳しい判断がなされており、「戦争の法規例尊守の条件は、絶対に維持されなばならない。戦争法を尊重しないゲリラが戦争法に基づく捕虜の待遇を要求するのは矛盾である。これはゲリラに限らずすべての戦闘員に要求される行為である。ゲリラ戦の特徴からみて特に問題となるのは、背信行為の禁止である。戦争法がgood faithに基礎をおく法規であるため、この禁止が重要となる」(『国際人道法の再確認と発展』竹本正幸、197頁)とされている。これにある「背信行為」とは、勿論、ヘーグ条約第二三条ロの規定で、具体的にはジュネーブ条約第一追加議定書第三七条1の(c)にある「文民又は非戦闘員の地位を装うこと」である。そして、1949年のジュネーブ条約の解釈上、捕虜の待遇を受けることができないゲリラは文民条約の保護を受けることになりるが、その文民条約第六条ですら「(前略)一人若くは二人以上の者を死に至らしめた故意による犯罪行為のため有罪とされた場合のみ、その被保護者に対して死刑を科すことができる。....」としており、ほとんどのゲリラが死刑を科せられるであろうことは自明であり、従って、ゲリラにとっては、捕虜の待遇を受けるか否かは、生死を分ける究めて重要な問題なのである(T.J.Farer,The Laws of War 25 Years After Nuremberg, International Conciliation,No.538, May 1971, pp.18-19)。そして、ゲリラについて、1949年のジュネーブ条約の条件を緩和して、条件つきながら捕虜の待遇を与えたのが、追加議定書の規定である。


 支那事変当時、世界規模ではゲリラ戦は一般化されてはいなかったたが、第二次大戦以後は多用されるようになる。「これは、奇襲などの方法を用いて、散開した小集団によって行われる戦闘であって、隠密性を特徴とし、通常、一般文民の中にまぎれて或いは一般文民の支援を受けて行動する。そのため、文民との区別がきわめて困難であり、そのことが一般文民の被害を増大させる一因ともなっている。例えば、第一次大戦までは、一般住民の死者数が全死者の五%前後、第二次大戦では四八%であったのに対して、朝鮮戦争では八四%、ベトナム戦争では九○%以上に達するといわれるほどである。ゲリラ兵は、その戦闘方法の特徴の故に、不正規兵に課された捕虜待遇を享有しうるための要件を満たすことが困難である」(『国際人道法の再確認と発展』竹本正幸、230頁)。


 ゲリラが正規兵の要件を満たしていないことを当然の前提として、では、不正規兵としての交戦資格を有しているかどうか、(ヘーグ条約やジュネーブ条約の)不正規兵としての交戦資格も有していないとしたら、捕虜になる資格があるのかどうかという問題が発生する。

3・便衣兵とは

 便衣兵(ピェン イ ツイ)とは、便衣という名の通り普通の衣服を指すことからして、民間人同様の服装をした戦闘員部隊の意。「1926年国民革命軍が北伐に際し福健か浙江の攻略戦に当り、便衣武装隊を都市に潜入せしめ、内部から内応させる戦術として使用したのに始まる。つまり、便衣隊は国民革命軍の北伐と共に生まれたということになる。以来、支那のあらゆる戦闘には此の戦法を用ひ、満州・上海両事変では特に盛んに活躍した。主として内牒・広報撹乱、宣伝、軍資金獲得等の秘密工作にあたるを常とする。平服であるから潜入に便に発見が困難である。外国租界や外人に対しても便衣隊が活動して大に外人を困らせたことがある」とある。

 抗日戦にこの便衣兵が大いに活躍したという伏線があり、「正規軍と民衆の統合−朱徳の言うところの『一つの秘密兵器』(『偉大なる道』)、ないしは『人民の大海』−による抵抗主体の形成がみられる。が、
一口に便衣隊といっても、その構成メンバーは単純ではない。学生団から組織された義勇軍、チンパンの大親分たる杜月笙が率いる隊、広東派の大親分が率いる隊、共産党系などに分類される。学生義勇軍については「.....復旦大学その他の学生は、学生義遊軍を組織し、前線で19路軍とともにたたかったが、復旦大学の学生だけでも、死傷者は200名にのぼった」(『中国新民主主義革命史』胡華)とあるが、復旦だけでなく、上海の学生たちは国民政府の抗日救国会と連携していた。2.8日、呉淞砲台にほどちかい周家屯で、日本兵を狙撃した「女の便衣隊」も学生義遊軍である(『上海事変』上海日報社編一八一頁)。

 また、当時の上海では、朝鮮人テロリストも活動しており、四月二九日、北四川路の軍官民合同天長節祝賀会の「君が代」斉唱中に、伊奉吉ら二人の青年により式壇に手榴弾が投ぜられ、白川大将、野村大将、重光公使が重傷を負っている。

 日本軍は、便衣隊について中国側に常々警告を発していたのであるが、「全民抗戦」を決意している者たちは、これを聞く耳を全く持っていなかった、というよりは、便衣隊は中国側の基本戦術の一つなのであり、この戦法を放棄するわけにはいかなかったようである。

 そして、これらはいずれも、国・政府と法的・事実的に関係を有する「正規兵」とは異なる範疇であり、民兵・義勇兵等である。「正規兵」が便衣兵となる例は上海事変では、あまり記録にないようである。ただ、「南京」では幾多もの報告にあるように、陥落直前に制服を脱ぎ捨てて便衣をまとい、難民区等で文民に紛れ込んでいった。

 上海の便衣隊の規模は、一月三○日の大阪朝日新聞の記事に「二九日朝来わが陸戦隊のため逮捕された便衣隊は午後九時までに九○○名に達し全部陸戦隊本部に護送収容された」とあることから、少なくとも数千名規模の便衣隊が活動していたとみられている。


 ゲリラ、とりわけ中国の便衣兵というのは、当初から便衣を着用して文民に紛れ込むということを、その特徴としていたわけであるから、正規兵としては見なされず、従って正規兵に与えられていた待遇条件は保証されないと考えるのが妥当。

 第9師団長・植田謙吉中将の指示の第5条、第5条は次のようなものであった。(正規兵と便衣隊を区別していること、また、処置の意味に注意)便衣隊及同容疑者は左の通り処置すべしとして、
1、祖界外に於て逮捕せしものは第3条及び第4条(武装解除・軍用品領置・氏名等尋問・名簿作成・収容・憲兵隊送致の手続きを定める)に準じて処置し、憲兵隊に於て調査処置す。
2、祖界内に於て逮捕せるものは前項処置後憲兵隊より工部局警察(注;原文では工務局警察)に引渡すものとす。
第6条 逮捕せる正規兵及び便衣隊同容疑者として収容せしものの糧食は戦時給与規則給与定量に準ず。


 捕えられた便衣隊は、「さきに工部局に引渡したる便衣隊嫌疑者は、我軍戦闘中の事とて証拠等の提出意の如くならざる為め、海軍側と協議の上、工部局をして全部釈放せしむ」(事変日誌」二月九日)との扱いが象徴的であるが、便衣隊としての証拠が明らかであったものは、処刑されている(処刑場は陸戦隊本部に近い建物あとの広場におかれていたが、処刑数は、はっきりした公式記録が残っていないようである)。
4・兵士の投降後の処遇について

 捕虜死資格付与条件に対する、国際法上の歴史的流れをみてみましょう。ヘーグ条約(1907年)、ジュネーブ条約(1949年)、そして第一追加議定書(1977年)に至る一連の議論や規定を歴史的にみますと、時間とともに捕虜要件と範囲が緩和されてきているということが分かると思います。当初は捕虜の資格を有していなかった「不正規兵」に対して、除々にではあるが、捕虜待遇を享有しうる者の範囲を拡大するために、条件を緩和してきたのが、一連の条約の歴史と言っても過言ではない。

 第一追加議定書の規定をみてみましょう。要点を簡単にいうと「正規兵と不正規兵の区別をなくし、戦闘員と一括。戦闘員は、戦争法規尊守義務と文民との区別義務を負う。そして、文民との区別義務に違反すれば、捕虜資格を失う」ということである(『図説国際法』西井正弘、291頁)。

 これと、上の仮定”ヘーグ条約によれば便衣兵も正規兵とみなされる”とをよく比較していただきたい。上の仮定が正しいとすると、便衣兵はヘーグ条約では捕虜資格を有していたのに、第一追加議定書では捕虜資格がなくなったということになる。とすると、「捕虜の資格を付与するために、条件を緩和してきた歴史」の流れと矛盾することになる。勿論、これは上の仮定が間違っているのである。文民と区別がつかない、より正確には、意識して文民との区別をつけない便衣兵は、今も昔も捕虜の資格がないと解するのが相当なのである。

 そして、ヘーグ条約でいう「交戦資格の四条件」というのは、制限戦争時代の正規兵なら当然に有していた属性なのであり、正規兵たる必要条件であるとも解されるのである。外観上文民と区別できない不正規兵が戦闘に加わってくるという状況は、正規兵にとってはたまったものではないし、必然的に文民にも被害が及ぶことになってしまう。したがって、このような不正規兵には(文民保護を基本理念とする)戦争法上の交戦・捕虜資格を与える必要はなく、もし捕虜資格が享有したいなら、外観上、文民と区別できるように、少なくとも正規兵の必要条件たる「四条件」を備えなさい、ということである。

 便衣兵についてのヘーグ条約の交戦・捕虜資格の議論では、「便衣兵は正規兵であるから”無条件”に交戦・捕虜資格があり、従ってこれを処刑したのは国際法違反である」との主張が一部とはいえまかり通っているようであるが、明らかに誤りである。まず、便衣隊には正規兵が殆どいなかったのである(正規兵は前線で戦い、便衣隊は民兵や義勇兵が後方で撹乱というのが基本的戦術であった)。そして、国際法上、正規兵が便衣隊になったら、正規兵としての資格を失うと解するのが相当なのである。さらに、例え、正規兵であるとの主張を認めたとしても、明らかに『背信行為』という戦時国際法違反なのであり、やはり重罰は免れえないのである。

 また、便衣兵について、「正式な裁判なしに処刑したのは国際法違反である」との主張であるが、これについて簡単に駁しておこう。明らかな戦時国際法違反である便衣隊について、日本側は再三にわたって中国側に警告を発したのであるが、それは無視されたのである。そして、日本は対抗措置として(上でも述べたように)便衣兵と確認されたものは処刑との基本方針でのぞんでおり、このように上部での方針が明らかな場合は簡易裁判で、場合によっては即決での処刑も、軍事的必要性という観点からすれば、必ずしも許されない行為ではないのである。

 「所謂『ヘーグ条約の四条件』を満たさない便衣兵には交戦資格がない、捕虜になる資格がない」ということが戦争法・国際法学者の間では“常識”であることが理解いただけたと思います。

 国際法・戦争法の泰斗である立作太郎氏は以下のように述べている。「正規の兵力に属するものに関して明文を欠くも、不正規兵に必要とする後述の四条件(注:所謂『ヘーグ条約の四条件』のこと)を備へさるを得るものに非す。正規の兵力たれは後述の四条件の如きは当然之を具備するものと思惟されるなり。正規の兵力に属する者か是等の条件を欠くときは、敵に依り交戦者たる特権を失ふを認めらるゝことあり得へきことなり。例えは敵対行為を行ふに当り制服の上に平人の服を著け、又は全く交戦者たるの特殊徽章を付したる服を付けさるときは、敵に依り交戦者たる特権を認められさることあるへきなり」(『戦時国際法』六一ー六二頁)

 正規兵たるものは、当然に所謂『ヘーグ条約の四条件』を具備するのである。私が、前の投稿で、所謂『ヘーグ条約の四条件』とは正規兵たる者の必要条件であると述べたのと、同じ意味です。上にいう「交戦者たる特権」は、勿論、「捕虜になる資格・権利」に代表されます。また、立作太郎氏の言葉をかりれば、不正規兵力・不正規兵とは「平素より国家の兵力として正則の編成を有すること無き兵力及之に属する兵士を指すなり」(前掲書64頁)ということになります。

 また、信夫淳平氏の著書には、便衣隊について以下のような記載があります。「便衣隊は勿論交戦者たるの資格を有するものではない。現交戦法規の上に於て認めらるゝ交戦者は、第一には正規兵、第二には民兵(Militia)及び義勇兵団(Volunteer Corps)にして(一)部下のために責任を負ふ者その頭に立ち、(二)遠方より認識し得べき固着の特殊徽章を有し、(三)公然兵器を携帯し、(四)その動作に付戦争の法規を遵守するといふ四条件を具備するもの(正規兵もこれ等の条件を具備すべきは勿論である)、.......」(『上海戦と国際法』114頁)

 最後に「正規兵もこれ等の条件を具備すべきは勿論である」とあるように、立作太郎氏と同様、正規兵も当然に所謂『ヘーグ条約の四条件』を満たすものであるとの見解に立っており、これは裏を返せばこれらの四条件を満たさない者は、「正規兵」といえども交戦資格、従って捕虜になる資格がないということを意味します。


「ハーグ陸戦条約は、国家間の戦争を合法としながらも、国際人道法の理念からその惨禍をできるだけ軽減するために、直接の戦闘外に置かれたものの苦痛や殺傷を防止しようとしたものだった」(藤田久一「戦争犯罪とは何か」)。その為に、戦争の手段と方法が規制され、非戦闘員である文民及び非軍事目標への攻撃を禁止し、更に戦闘員を人道法的に保護するために、直接の戦闘外に置かれた捕虜、投降兵、敗残兵などの殺傷も禁じられた。

ハーグ陸戦条約「規則」の第23条(害敵手段、攻囲及び砲撃の禁止事項)で、ロ・敵国または敵軍に属する者を背信の行為をもって殺傷すること、ハ・兵器を捨てまたは自衛の手段尽きて降参を乞える敵を殺傷すること、二・助命せざることを宣言することと「害敵手段」、を禁止していた。これは、直接の戦闘外に置かれた兵士を保護するための規定である。

 これを踏まえて、「南京事件」の際に発生した日本軍の為した投降兵、敗残兵、捕虜の殺害は適正であったかどうか、ハーグ陸戦条約に違反する不法行為ではなかったか、の観点からの考察が必要となる。「便衣兵を処刑するにはそうと認識する軍事裁判利の手続きが必要であったから、日本軍の『便衣兵狩り』による集団処刑は、交戦法規に違反した虐殺行為であったのである」(吉田裕「15年戦争史研究と戦争責任問題」)。 


 捕虜については、【ジュネーブ条約】(「捕虜の待遇に関する条約」・1929年)で、その保護と待遇改善を一層明確化した。(戦時国際法として存在することになったが、日本は調印はしたものの批准しなかった。しかし、欧米に対しては「同条約の規定を準用する」と表明した、とある)。






(私論.私見)