428417 戦勝者横暴アーノミーについて'

 第一次資料を改竄してまで、「南京”大虐殺”」はなかった」といい張り、中国政府が堅持する「三十万人」や「四十万人」という象徴的数字をあげつらう心ない人がいる。もしアメリカの反日団体が日本の教科書に出てくる原爆の死者数(実数は今でも不明確だが)が「多すぎる」とか、「まぼろし」だとキャンペーンを始めたら、被害者はどう感じるだろうか。

●百人斬りについて
 1937年11月30日から12月13日かけて数回にわたって東京日日新聞で報道されたのが2名の少尉による殺人競争である。どちらが先に100人を斬るかの競争であるが、最後はどちらが先に100人を斬ったのかわからずに競争は引き分けとなったというのである。

 この話については本多勝一氏は『南京への道』(朝日文庫)で以下のように結論を述べている。

 実際問題として、宮本武蔵や佐々木小次郎が少尉クラスにざらにいたとも思われず、白兵戦のような状況で自分が傷つかずに一〇〇人も斬るというようなことは、常識的には無理な話であろう。

 それでは、百人斬りはまったくのデタラメなのだろうか?これについては、本人の証言が残っています。(『南京大虐殺否定論13のウソ』より引用)

 郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦のなかで斬ったのは四,五人しかいない・・・占領した敵の塹壕に向かって「ニーライライ」とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ・・・二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・・」

 さて、これでおわかりいただけただろうか?つまり、この百人斬りとは白兵戦ではなく、単なる捕虜の虐殺競争だったわけです。そして、この二人の少尉は戦後、南京裁判によって死刑判決を受けています。なぜなら、白兵戦で百人斬りをおこなってのなら国際法違反ではありませんが、実際におこなわれた捕虜の虐殺競争では当然、国際法違反になるわけです。

 しかし、否定派は「原爆でも使わない限り30万人も殺せるわけがない!」、「日本刀はもろい。百人も斬れるわけがない。」などといった反論をします。日本刀の強度については、以下の文章をご覧ください。

 斯様な事を述べると、一見斯道の異端者とも見えるだらうが、実際にあたつて見て、元来から物打に二分からの刃ギレのあつた刀で、敵十五六人も斬つて何ともならず、却つて他の部分に刃こぼれの出来てゐたものも見、切先が蛇の口(口を閉ぢたる)のやうな刀で七名から斬つたのも、他に疵はついても、その部分は何ともなつてゐなかつた。
 概して日本刀は強靭なものである。ただ、研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼つぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ。
(成瀬関次著『戦ふ日本刀』)

 また、以下は14人斬りを見学をさせられた中国人男性の証言です。


 14人の中国人男性がしばられ、ひざまずかされていた。(中略)14人全員を斬り終るまでに30分か40分間くらいかかったが、軍刀は同じ1本だけであった。
(本多勝一著『南京大虐殺』)

 日本刀の強度についてはおわかりいただけたでしょうか?

次に、「原爆でも使わない限り30万人も殺せるわけがない!」といった否定派の主張について反論したい。まず、南京戦に投入された日本軍の兵力は20万人です。日本軍は3か月にわたって虐殺行為をおこなったわけです。刀を使って捕虜となった中国人を殺していけば、3か月以内に30万人を虐殺することも十分可能です。



中国における「皇軍」の実態

 熱烈な天皇主義者杉本五郎中佐の著書『大義』より(伏字復元結果)

 現在、大陸にいる皇軍は、侵略軍であって皇軍ではない。暴行・略奪・強姦などをほしいままにしているような軍隊は、断じて皇軍ではない。(略)軍よ体面を捨てよ。(略)ただちに大陸より軍を撤せよ。 (洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』p.134)

 「右翼の大物」児玉誉士夫の証言

(児玉誉士夫氏は、1938(昭13)年6月から8月にかけて中国を旅している。以下は、このときの経験に関して氏が戦後に述懐した内容である。)

 自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅する必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。

 当時大同では、「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁に「何年何月何部隊占領」などと落書きしてあった。人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも戦場では若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。児玉誉士夫『われかく戦えり』広済堂出版 p.79-80(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』p.136-137)

 昭和十二年の秋ごろ、さきに盧溝橋事件に端を発した日支事変は燎原の火のごとく全面的に拡大されつつあった。そんなある日、笠木先生の使いで、河相先生を外務省の情報部長室にお訪ねしたのであった。若輩の自分は、一人前の国士気取りで、大いに天下国家を論じた次第だが、その折、河相先生が自分に『児玉君、聖戦とはなにを意味するものか!皇軍とはいかにあるべきであるかを知っているか!』と言われ、数枚の写真を自分に示され、『これが皇軍の姿か!このまま行けば、皇軍どころか、日本軍は崩壊するぞ!』と言われた。その写真は現地から送られたもので、日本軍が良民を虐殺している場面や、中国の婦女子を暴行しているといった、見るに堪えないものであった。 (略)

 要するに宣戦の詔勅なき戦争、名分の明らかならざる戦い、日支事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかもしれぬ。自分は戦場を旅し、大陸における実状を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得えたとしても、すでに軍国主義の怒涛が逆巻き、もはや何人の力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。
児玉誉士夫『われかく戦えり』広済堂出版 p.321(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』p.137-138)

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 笠原氏の「南京事件」102Pに次のように記されている。「それよりも、行軍途上にある村々に侵攻し、残敵掃蕩、敗残兵狩りを名目とした部落掃蕩が、主な軍事行動になった。兵士の陣中日記は日本に帰還するときに厳しい検閲を受けたので、右の日記には残虐行為は記述されていないが」云々。106Pには、「日本軍に軍紀の乱れ方が様々な部隊があったことである。しっかりした指揮官のいる部隊は、非戦闘員は殺害しないという軍律を守っていた」。という注目される内容が書かれている。






(私論.私見)