428411−3 「国際委員会」と南京國際安全区について

 日中両軍の全面戦争となった「南京攻略戦」(中国側からこれを見れば「南京防衛戦争」)は、多くの難民の発生を予想させた。事実その通りになるのであるが、これに対し南京駐在の欧米列強の人士たちにより「国際委員会」が急遽設立され、「南京攻略戦」の経過の監視と難民収容先としての「安全区」が作られて行った。日中軍はこれを認め、それなりに配慮していくことになるが、ここにもう一つの「南京事件」が発生することになった。

 1937.12.12日南京城が陥落し、日本軍が「南京攻略戦」に勝利した。以降、日本軍の進駐が為されていくが、この過程で日本軍の大虐殺事件が発生したと云われている。その虚実を解明するのがもう一つの「南京事件考」であり、その前提として「国際委員会」と「南京国際安全区」とはそも何ものぞの確認をしておきたい。


【南京安全区国際委員会の発起人】

 「国際委員会」は、先の上海事変の際に、仏人宣教師ジャキーノ神父が日本軍と交渉して上海の南市地区に難民区を設定し、15万人の中国人難民を戦火から守った先例にならって、馬南京市長の申し入れを受けて、南京市民の安全を守り、生活を保障するシステムとしてつくられた委員会である。委員会の事務局は寧海路5号にあり、11.20日前後の頃より組織的活動を開始し、事務所開設は12月1日と記録されている。

 「少数のアメリカ人宣教師とドイツ商人によって設立された」が、そのメンバーを仔細に見ると次のように云える。戦前から南京に在住していた第三国人は相当多数いたが、12月7日の蒋介石脱出と前後して南京を退去した。最後まで踏みとどまったのは民間系の40名前後(国際委員会の委員15名、新聞記者5名、若干の公館員など20数名)で、そのうちの15名が委員会を編成した。委員長はドイツのシーメンス会社支店長ジョン・H・D・ラーベで、書記長は米人の金陵大学社会学教授ルイズ・S・C・スミス博士。メンバーは、米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名の計15名であった。ラーベが委員長になったのは、「ドイツ人なら日本当局とうまく交渉ができる可能性がある」と思われたことに拠ったとされている。



【南京安全区国際委員会の構成メンバー】
 南京安全区国際委員会に働いていたのは、最初は3人のドイツ人、1人のデンマーク人、3人のイギリス人、9人のアメリ カ人であった。その中心がラーベであった。多くの中国人を日本軍の大量虐殺から救おう と奮闘したラーベは、多くのユダヤ人をナチスのホロコーストから救った人物 として有名なシンドラーに匹敵するとして、「中国のシンドラー」と呼ばれる。そのメンバーは次の通りです。

 氏名 国籍 職業
ジョン・H・D・ラーベ(委員長) John H D Rabe ドイツ シーメンス会社(商社員)
ルイス・S・C・スミス博士(書記長) Lewis S.C.Smythe アメリカ 南京大教授
P・H・マンロフ P.H.Munro イギリス アジア石油会社
ジョン・G・マギー牧師 John G.Magee アメリカ 米教会伝道団(宣教師)、国際赤十字委員長
P・R・シールズ P.R.Shields イギリス 国際輸出会社
J・M・ハンセン J.M.Hansen デンマーク テキサス・オイル会社
G・シュルフェ・パンティン G.Schultze ドイツ 新明貿易会社
アイヴァー・マッケイ Iver Mackay イギリス バタフィールド・アンド・スウィア会社
J・V・ピッカリング J.V.Pickering アメリカ スタンダード・バキュウム・オイル会社
エグァード・スパーリング Edouard Sperling ドイツ 上海保険会社
M・S・ベイツ博士 M.S.Bates アメリカ 南京大教授
W・P・ミルズ牧師 W.P.Mills アメリカ 北部長老伝道団
J・リーン J.Lean イギリス アジア石油会社
C・S・トリマー博士 C.S.Trimmer アメリカ 大学病院医師
チャールス・リグス Charles H.Riggs アメリカ 南京大教授

 同幹事でYMCA書記長のフィッチ、金陵大学教授のスマイス博士、ベーツ博士、ウィルソンら数名の医師


 ここで注意したいのは、この15名の第三国人はいずれも当時の日本の言葉で言う“敵性国人”である。つまり、日本軍を侵略軍と規定してこれを憎み、蒋介石政府=国民党政府に味方し、これを支援している国の人々であるということである。ドイツが日独同盟で親日政策を執るようになったのは、1938.3月リッペントロップが外相に就任して以降のことでそれまでは米英と同様、日本を敵視し、蒋介石軍に武器援助と、軍事顧問団を送っていた。(その証拠に占領後の捕獲武器にシーメンスが売った、チェコ製のマシンガン、その他武器等々が映像に残っている) さらに委員会は、YMCA会員や紅卍字会員を多数動員して、占領下の日本軍の非行調査にあたっている。


【南京安全区国際委員会の管轄区域】
 「国際委員会」は、1937年11月末に難民収容の為の「南京国際安全区(以下、「安全区」と記す)」を設けた。「安全区」は、南京市の西北方にあたる地区(南京市総面積の約8分の1にあたる、日本の皇居の4倍くらいの広さで、南は漢中路、東北は中山北路を境とし、北は山西路、西は西康路に区切られた約3.8平方キロの地区を区切った地域)を「安全区」として設定し、その中に25カ所の難民収容所が設け、そこに居残った南京一般市民全員を収容してその保護にあたった。

 安全区の人口が最も多いときには25万人前後になった。そのうちの7万人は、国際委員会の援助に完全に依存してはじめて生活することができた。「安全区」は、1938年2月初めに解散している(これにつき、大虐殺史観派は、日本軍の脅しによって解散を余儀なくされたと解説している)。


【「国際委員会」の活動について】

 13日の午後、ラーベは安全区の標識のある旗を高く掲げ、南京に進駐した日本軍を探し出し交渉を行ない、地図を持って難民区(国際安全区)の位置を説明した。このとき安全区の責任者としてラーべが直面した困難は、想像をはるかに超えるものだった。総面積はたったの3・86平方キロの中に、25万人の難民がひしめき合い、すべての空き地はアンペラ小屋がいっぱいにかけられた。

 これだけの人々の衣食住をどう確保するか、食糧、石炭、水、薬どれ一つ不足しても、生存し続けることは難しい。南京が陥落した初期の最も危険な2カ月余、この安全区に救われた難民は25万人に及び、その庇護によって蹂躙から免れた女性は数万人にのぼる。後に中国政府は、ラーベに玉の勲章のついた青、白、赤3色の首飾りを授与した。また1948年初頭、ラーべが生活に困窮していることを知った南京市民は、援助を惜しまなかったという。

 秦郁彦氏の「南京事件P8」には、「難民区の委員達は、こうした日本軍の暴行を傍観していたわけではない。日本大使館へ日参して、実情を告げ、取締りを要請したが、外交官達は無力で、『兵隊達は手に余る。誰も上官の命令に従わないんだから』と投げやりに答えるだけで、のちには米・英大使館を通じて抗議したが、効果は無かった」とある。他方で、フィッチの次のような回想も記している。「あるとき日本兵が建物に押し入り、略奪している現場へ、たまたま日本軍の部隊長が通りかかった。難民区委員の抗議を聞くと、部隊長は兵士達に平手打ちを食わせ、向うずねを足で蹴り飛ばした」。



【当時の国際委員会の能力、権限について】
【肯定派】

 (以下の文章は奇妙な論理構成になっている。肯定派見解のひねくれた見方の一例として紹介する)

 国際委員会の性格を考えるに当たってどういう構造を考えねばならないか事例を挙げておきましょう。例えば、現在日本には多くの国の在日大使館、領事館なるものが存在しています。ご存知のようにそれらの大使館の役割の内の一つは彼らの国民の生命財産を守る事のはずです。そしてそうした大使館は当然の事ながら自国民の生命財産に及ぶ被害の申告や相談の窓口を開いております。基本的には自国民の立場に立って相談にのってくれる組織といえます。その意味で南京の国際委員会が当時の中国側国民に対する位置と構造的に似ていると言えないでしょうか。

 ところで例えば、在日しているアメリカ人は日本で上記に当たる被害に遭った時、米国大使館に申告に行くでしょうか、米国大使館は自分のところに直接集まってくる情報から在日アメリカ人の被害状況を把握しているでしょうか。こういう問題なのです。

 僕はインドネシアにいた事もあります。そこで金品カメラなどを含む盗難に遭った事もあります。しかし僕はその事を在インドネシアの日本大使館に報告をしませんでした。そんな事をする人もいないでしょう。なぜでしょうか。簡単に言えば警察力もない日本大使館にそんな事を言っても始まらないからです。日本大使館がそれなりに日本人が殺害された場合などの状況や件数を知れるのはインドネシア当局からなのです。インドネシア当局がなぜそうした事件の存在を知っているかといえば、自分たちが実効的な警察力を持っているからです。

 ですから国際委員会がそうした事件の全貌を把握できるとなれば、可能なのは実効的な警察力を持っている日本軍を通してだと僕は考えるわけです。この場合、日本軍自体に嫌疑がかかっているのですから、国際委員会が全貌など掴めていたはずがない、国際委員会が掴んでいた情報はそれこそ、ほんの一部だったはずだと言う論理が出てくるのです。つまり国際委員会の把握している情報で虐殺者ゼロであっても、全体として虐殺者ゼロとはならないし、虐殺者十だったとしても、全体の虐殺者は十とはならない、百かもしれないし、千、万かもしれないと言う話になります。

 更に構造的に国際委員会に情報があつまるのに更に不利な問題があるでしょう。国際委員会の構成メンバーはほとんどが中国人でないと言う事になれば言葉の問題がありますね、また事件があったとたとえ報告しても、元々の南京市当局と違いよく状況が理解できなかったでしょうね。茂木氏が「根拠」あるものは適切に扱われたと言ってますが、強姦事件で「根拠」あるなどと言うレベルの報告書を作るには一件当たりどれだけの情報を集める必要があるか分かりますか。しかもそれを確認せねばならない。国際委員会のメンバーが強姦された言う場所の確認もせねばならない、つまりその場所に出かけて行って状況確認が必要ですね。警察力がない組織にはそんな事はできない。あるいは出来るとしても一日数件が限度だと思いませんか。

 在日アメリカ人が在日米国大使館と話を取る時には英語と言う自国語で充分、内容がよく伝わるでしょうが、中国人が国際委員会に報告するには言葉の問題もあります。欧米人が買い物できるぐらいに中国語を話せても、それこそ茂木さんの言われる「根拠」あるレベルの話をするには一件あたりかなりの時間がかかるとは思いませんか。

 ご存知のように中国語はいろいろな地方語があり、そうした状況で国際委員会なるものに申告していく事の馬鹿さ加減が浮き彫りになりませんか。その国際委員会が自分で知っていると言う活動報告をどのような意味で根拠に出来るのでしょうか。読み物としては当時の状況が別の視点から見れると言う意味で興味深いものだと思いますが、この資料を持って南京事件の虐殺数や強姦数を議論するための一級の資料などと言うのは滑稽ではないですか。国際委員会の報告書で南京事件の虐殺数の議論をするのは、「ぎしわじんでん」で南京事件を扱えると言ってるのと同じだと思いませんか。

【否定派】

 国際委員会がどれほどの力を持っていたのか、と言う疑問は尤もです。日本軍は、安全地帯を尊重するが正式には認めない、と言う態度をとりました。なぜなら、国際委員会が、中国軍がそこに侵入し、隠れるのを排除する力を持っていないことを危惧していたからです。その後の事態はその危惧通りでした。しかし、安全地帯に集結した、中国市民の面倒を見る唯一の存在であることを認識した日本軍・大使館は、その活動(と言っても多くは、日本軍に対する要望、非難であった)に協力したのでした。だからこそ、通報された強姦、殺人などのケースはチャンと処理されているのです。これを抽象的にどうこういうより、"Documents of the Nanking Safety Zone" を読んでみることです。

 当時、日本は米・英・独ほか有力国と戦争していたわけではありませんから、彼らはいわばそうした国々(の大使館)を後ろ盾にして、日本に対する要求をしていたとも言えるわけで、相当偉そうにいっているところもある。それを思えば、殺人、強姦の届けを国際委員会に出すことを日本軍が邪魔した形跡など皆無です。その数字を元にすれば251件になります。中国側の数千数万件数なる言い分は、こうした第1次資料と全く関係なく、後になってから勝手にでっち上げた話しとしか考えられないものが大部分だ、と言うことをご理解ください。ハッキリ言えば、話しにならないことをいっているのですよ。それが、今のところ大手を振ってまかり通っているというわけです。こうしたものは、当時の記録と照合させていくと淡雪のように消えてしまいます。それを怖がる虐殺派の人々は、いまやまともな討論集会を呼びかけても応じないと言う現状です。

 おっしゃるように、歴史研究の資料批判が大事です。当時の風聞、後になってから作られた話、そして証言と称するもの、それらを、当時の1次資料とつきあわせて、資料価値の検討をされたと言う点では、東中野先生の研究は第1級のものと考えています。まずは、「南京虐殺の徹底検証」、「ザ・レイプ・オブ・南京・の研究」をお読みになることをお勧めします。認識論の研究にもお役に立つところがあるかと思います。



「国際委員会」と日本側との交渉】

 「国際委員会」と日本側の交渉記録考察も、肯定派のそれは弱く、否定派の独壇場となっている。

 肯定派は云う。南京安全区国際委員会と南京赤十字会国際委員会の20数名のヨーロッパ人たちは、真心のこもった人道主義精神に基づいて、日本軍の血塗られた軍刀の下で、幾千幾万の中国人の生命を救い、数多くの女性を日本軍の蹂躙から免れさせた。彼らの日本軍による残虐行為への制止と抗議は、一定程度南京市民の痛みと損失を軽減した。彼らはまた、日本軍の残虐行為を詳細に記録し、様々なルートを通じて国際社会に日本軍による南京での殺人、放火、強姦、掠奪の暴虐な行為を暴露し、南京大虐殺の真相を宣伝し、日本のファシズムの暴虐に対する世界の世論の厳しい批判をまきおこした。彼らの記録は戦後、日本の戦犯裁判に有力な証拠として提供され、同時にまた、南京大虐殺研究の客観的で公正な資料にもなった。

 【否定派の見解】否定派は次のように説明している。

 「国際委員会」は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の『南京安全区襠案』とマンチェスターガーディアンの特派員ティンパーリーの『戦争とは何か』の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。

 「国際委員会」は、「安全区」を非武装地帯にするよう日本側に申し入れた。最初日本側はこの安全区の設置に同意したが、防衛司令官唐生智が降伏を拒否したため、軍は上海市におけるジャキーノ・ゾーン(南市非武装地帯)のように、公式にはこれを非武装地帯とも中立地帯とも認めなかった。その回答は12月5日、米大使館を通じて行われた。その理由は、

南京自体が一つの要塞と化しており、しかもこの地域はその中心地に当たるが、そこには何ら自然の障害物もなく、境界も判然としていない。
政府要人や高級軍人の官邸も多く、いかなる兵器や通信機器が隠匿されているやもはかり難い。(事実中国軍高級将校の中には、陥落直前まで安全区内に居住した者もいた(ラーベのドイツ総領事あて書簡)。
委員会自体が何ら実力を有せず、武装兵や便衣兵を拒絶するだけの厳正な中立態度を望むことは困難である(以上は日高参事官の東京裁判における口供書の要約)。 

 というものである。事実、予想通り、「国際委員会」は、便衣隊や敗残兵を全然チェックすることなく潜入せしめている(これがあとから問題になる)。
しかし、だからといって、日本軍はこの難民区を保護しなかったわけではない。占領と同時に歩哨を立て、各部隊には進入禁止区域と明示し、無用の者の出入りを禁止し、また松井軍司令官の命令により、砲・爆撃を厳にいましめ、戦禍の波及を防止した。

 そのうえ、救恤品を支給するなど手厚く保護している。従ってこの地区には、爆撃も砲撃もなく、火災も一回も起きておらず、「国際委員会」は日本軍のこのような保護に謝意を表しているほどである。



「安全区」内の安全度について

 「安全区」については、「国際委員会と南京国際安全区について」参照するとして、「国際委員会」の保護管轄下にあった「安全区」内の安全度の実態はどのようなものであったのであろうか。ここでも肯定派と否定派の見解は大きく相違している。 
【肯定派の見解】

 肯定派は次のように説明している。

 否定派が利用する南京国際委員会 委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)による「1937年12月14日 南京日本軍司令官殿」宛文にある「安全区」内の保護は、12月14日以前の状態に対して云われているものであり、「12月14日には暴虐が始まっていたので、すぐ話しあいたいと申し出た」ことに真意があるとみなしているようである。これを証するものとして次の資料が挙げられている。

 石田勇治翻訳「資料 ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書房,2001年)P6-7による、1938年2月16日付駐華ドイツ大使館報告第113号に添付資料の「1937年12月8日から1938年1月13日までの南京における出来事に関する、あるドイツ人目撃者の報告」(ラーベと推測される)として、「<途中省略>信頼すべき情報提供者が南京城内で日本軍を最初に目にしたのは、12月13日の午後遅くのことだった。 日本軍は当初、公正にふるまい、ある程度は協力的でさえあった。国際委員会はすぐ日本軍と接触し、案全区の承認を得ようと再度試みた。この承認は拒否されたが、いまや広い隊列を組んで新街口まで進軍していた日本軍は事態を静観する構えを見せた。<13日午後の記事を省略> 12月14日、日本軍の態度が一変した。国際委員会は外交部で中国人負傷者の看護を続けることを禁じられ、立ち入りも拒否された。また、同日、急 [せ]いた進軍のせいで十分な休養を与えられていなかった日本部隊が南京城に放たれ、正規軍としては言語に絶する行動に出た。かれらは難民から奪える限りの備蓄食料、毛布、衣服、時計など、要するに奪い取る価値のあると思われるものすべてを奪った。抵抗すれば言わずもがな、物品を差し出すのを躊躇したり、時間がかかったりした者もただちに銃剣が見舞われた。言葉やや身振りをすぐ理解できなかっただけで犠牲になった人も多くいた。

 映画「南京」のチーフカメラマン白石茂氏は南京陥落の2日後に到着しましたが、こう回想しています。 「高い柵について支那人が一列に延延と並んでいる。側を通ると、私をつかまえてシワクチャな煙草の袋や小銭差し出し、悲痛な顔で哀願する。この人たちはこれから銃殺されるので、命乞いの哀願を私のような者に向かって必死になって訴えているのだ。それがそうと分っても、どうしてやることも出来ない自分の無力さが悲しかった」。

 なお、戦死兵の火葬の「パチパチという炎の音」、「支那負傷兵の呻き声」が本来はあったはずなので、現存する「南京」にはかなり失われた部分があると思われます、とある。

【否定派の見解】

 否定派は次のように説明している。
 南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、国際委員会の管理する安全区(難民区)内に集められ、居住することとなった。日本軍は南京占領の12月13日、この地区の掃討を歩兵第7連隊(金沢・伊佐一男大佐)に担当せしめたが、第7連隊長伊佐大佐は、翌14日より、この難民区の出入り口10数ヶ所に歩哨を立て、無用の者の出入りを厳禁した。これを証するものとして、歩兵第36連隊長の脇坂次郎大佐が難民区内に立ち入ろうとしたが歩哨にとがめられて入ることが出来なかった、との東京裁判での脇坂大佐証言がある(速記録309号22・11・6)。大佐でさえも入ることを拒否されたところをみると極めて厳重であったということになる。

 松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなかった。放火もなく、従って1件の火災事故も起きていない。文字通りの安全区であった。一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が、国際委員会の公文書の中に記録されているが、婦人・子供の殺害事件等は全然起きていない。そういう記録もない。又、紅卍字会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無にちかい。ただ便衣兵の摘出に際して、良民が誤認されてまきぞいをくい、あるいは徴用、拉致等の厄に遭った若干の犠牲はあったものと思われる、が、概してこの地区は平穏であり、安泰であったことは、諸記録からみて疑う余地はない。難民区が安泰ということは、当時の南京の全市民が安泰であったということである。なぜなら全市民は例外を除き全員ここに蝟集(いしゅう)していたからである。


  これを裏付けるかのように「南京安全区トウ案第1号文書」(Z1)(南京安全区国際委員会寧海路5号)には次のように記載されている。「1937年12月14日 南京日本軍司令官殿」として、南京国際委員会 委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)名で差し出されている。
 「
拝啓 貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。 国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面 、住民に食を与えるために米と小麦を貯蔵し、地域内の民警の管理に当たっております。以下のことを委員会の手でおこなうことを要請します。
 安全区の入口各所に日本軍衛兵各一名を配備されたい。
 ピストルのみを携行する地区内民警によって地区内を警備することを許可されたい。
 地区内において米の販売と無料食堂の営業を続行することを許可されたい。
  • a われわれは市内の他の場所に米の倉庫を幾つかもっているので、貯蔵所を確保するためにトラックを自由に通 行させて頂きたい。
 一般市民が帰宅することができるまで、現在の住宅上の配慮を続けることを許されたい。(たとえ、帰宅できるようになったとしても、多数の帰るところもない難民の保護をすることになろう。)
 電話・電灯・水道の便をできるだけ早く復旧するよう貴下と協力する機会を与えられたい。

 昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。そのうち若干名は当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表達は貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、我々はこれらの兵士達を全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。現在、彼らの望み通 りに、これらの人びとを平穏な市民生活に戻してやることをどうか許可されるようお願いします。

 さらに、われわれは貴下にジョン・マギー師(米人)を委員長とする国際赤十字南京委員会をご紹介します。この国際赤十字会は、外交部・鉄道部・国防部内の旧野戦病院を管理しており、これらの場所にいた男子を昨日、全員武装解除し、これらの建物が病院としてのみ使用されるように留意いたします。負傷者全員を収容できるならば、中国人負傷者を全員外交部の建物に移したらと思います。当市の一般市民の保護については、いかなる方法でも喜んで協力に応じます。敬具」。


 次のような金陵大学病院医師マッカラム氏の日記及び手記からの抜粋もある(法廷証第309号=検察番号246号)。これを松井大将の弁護人伊藤清氏が東京裁判の弁護側立証段階で抜粋朗読している(速記録210号)。

(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。
12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。
1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。

 このようにラーベ氏は国際委員会を代表して感謝の手紙をしたためており、マッカラム氏は日本兵の善行を日記の中にしたためている。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ、「安全区は難民たちの“天国”だったかも知れない」(秦郁彦著『南京事件』84ページ)といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災もなく平穏であった」、「住民のほとんどはここに集まっていた」と述べている。

 当時同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外ニュース社発行の「世界と日本」(59・4・5、413号)の中でこう述べている。「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)『難民区』内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」。
 
 しかるに教科書には、「婦女子・子供も含む一般人だけで7〜9万人を殺害し」(東京書籍)とか、「子供や婦人を含むおびただしい数の住民を殺害し」(教育出版)というように、どの教科書にも女性や子供も殺害したと書いてある。いったいその根拠は何なのか?日本に悪感情を持っていた第三国人でさえ、難民区内の平穏な生活や日本兵の親切な行為に感謝しているというのに、日本の教科書がどうしてこのような事実を曲げてまでねつ造記述をのせ、自虐的教育を小国民に植え付けなければならないのか、私にはわからない、とある。


 ことのついでにもう一つ難民区について紹介したいとして、難民区からの感謝状について考察している。

 大量戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集していた。13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。

 この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。町の名称も平和街と改名し、敗残兵の跳梁(ちょうりょう)から市民を守った。町はみるみる復興したが、食糧難が最大の頭痛の種であった。年末のこと、たまたま烏龍山砲台の閉塞線で第一号掃海艇が触雷沈没し、これが救援に赴くべしとの命令に接し、比良はただちに現場に急行した。救援作業を終え、多数の死傷者を収容して上海へ急行した。

 土井中佐は、上海停泊中に出雲を訪れ、艦隊司令部に出頭して、平和街難民の窮状を訴えた。土井中佐の熱意と誠実に動かされた司令部は、中佐の申し出通り食糧の救恤を認めた。比良はこれらの品を積んで中興碼頭に帰ってきた。13年正月元旦のことである。紅卍字会支部長陳漢林総代表を通して難民区に贈られた品々は次の通りである。◇貯蔵牛豚肉 10箱、◇白砂糖大袋 10袋、◇乾魚類 10箱、◇大豆油 10箱、◇食塩 10包、◇乾餅 20箱

 難民達は爆竹をあげ、各戸に日の丸の旗をかかげて比良を歓迎した。難民だけではなく市民全員が歓呼して迎えた。街の入り口には「南京下関平和街」の横断幕をはり、歓喜は街にみなぎった。

 明くれば正月2日、代表らは正装して保国寺に整列し、土井中佐始め比良の乗組員全員を迎えた。陳代表から昨日の救恤品の受領証と感謝状とが贈られた(地図参照)。

 私が言いたいのは、光華門外で一番乗りを果たした脇坂部隊(歩兵第36連隊)が、13日夜、味方の戦死体はこれを荼毘(だび)にふし、敵の戦死体には卒塔婆をたて、花香をたむけて、これをねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔ったという。こうした脇坂次郎大佐といい、海軍の土井申二中佐といい、何も特殊な例外ではなくて、日本武士道の伝統をふまえた血も涙もある当時の武人の心境であったということだ。吉川猛参謀は松井大将に、中国軍の死者の取り扱いがおろそかだ!といって、きついお叱りを受けたと語っている。

 このような将兵や司令官がどうして、罪とがもない婦女や子供をむげに殺害するようなことがあろうか?また、地図にもあるすぐ近くの煤炭港、和記公司でも数千、数万の大虐殺があったと中国側は宣伝しているが、土井艦長はそんな事実も、噂さえも聞いていないとはっきり否定している。中国側の宣伝がいかに大デタラメかこの一事でもわかろう。





(私論.私見)