428411−3 | 「国際委員会」と南京國際安全区について |
日中両軍の全面戦争となった「南京攻略戦」(中国側からこれを見れば「南京防衛戦争」)は、多くの難民の発生を予想させた。事実その通りになるのであるが、これに対し南京駐在の欧米列強の人士たちにより「国際委員会」が急遽設立され、「南京攻略戦」の経過の監視と難民収容先としての「安全区」が作られて行った。日中軍はこれを認め、それなりに配慮していくことになるが、ここにもう一つの「南京事件」が発生することになった。 1937.12.12日南京城が陥落し、日本軍が「南京攻略戦」に勝利した。以降、日本軍の進駐が為されていくが、この過程で日本軍の大虐殺事件が発生したと云われている。その虚実を解明するのがもう一つの「南京事件考」であり、その前提として「国際委員会」と「南京国際安全区」とはそも何ものぞの確認をしておきたい。 |
【南京安全区国際委員会の発起人】 |
「国際委員会」は、先の上海事変の際に、仏人宣教師ジャキーノ神父が日本軍と交渉して上海の南市地区に難民区を設定し、15万人の中国人難民を戦火から守った先例にならって、馬南京市長の申し入れを受けて、南京市民の安全を守り、生活を保障するシステムとしてつくられた委員会である。委員会の事務局は寧海路5号にあり、11.20日前後の頃より組織的活動を開始し、事務所開設は12月1日と記録されている。 |
【南京安全区国際委員会の構成メンバー】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南京安全区国際委員会に働いていたのは、最初は3人のドイツ人、1人のデンマーク人、3人のイギリス人、9人のアメリ
カ人であった。その中心がラーベであった。多くの中国人を日本軍の大量虐殺から救おう
と奮闘したラーベは、多くのユダヤ人をナチスのホロコーストから救った人物
として有名なシンドラーに匹敵するとして、「中国のシンドラー」と呼ばれる。そのメンバーは次の通りです。
同幹事でYMCA書記長のフィッチ、金陵大学教授のスマイス博士、ベーツ博士、ウィルソンら数名の医師。 ここで注意したいのは、この15名の第三国人はいずれも当時の日本の言葉で言う“敵性国人”である。つまり、日本軍を侵略軍と規定してこれを憎み、蒋介石政府=国民党政府に味方し、これを支援している国の人々であるということである。ドイツが日独同盟で親日政策を執るようになったのは、1938.3月リッペントロップが外相に就任して以降のことでそれまでは米英と同様、日本を敵視し、蒋介石軍に武器援助と、軍事顧問団を送っていた。(その証拠に占領後の捕獲武器にシーメンスが売った、チェコ製のマシンガン、その他武器等々が映像に残っている) さらに委員会は、YMCA会員や紅卍字会員を多数動員して、占領下の日本軍の非行調査にあたっている。 |
【南京安全区国際委員会の管轄区域】 |
「国際委員会」は、1937年11月末に難民収容の為の「南京国際安全区(以下、「安全区」と記す)」を設けた。「安全区」は、南京市の西北方にあたる地区(南京市総面積の約8分の1にあたる、日本の皇居の4倍くらいの広さで、南は漢中路、東北は中山北路を境とし、北は山西路、西は西康路に区切られた約3.8平方キロの地区を区切った地域)を「安全区」として設定し、その中に25カ所の難民収容所が設け、そこに居残った南京一般市民全員を収容してその保護にあたった。 安全区の人口が最も多いときには25万人前後になった。そのうちの7万人は、国際委員会の援助に完全に依存してはじめて生活することができた。「安全区」は、1938年2月初めに解散している(これにつき、大虐殺史観派は、日本軍の脅しによって解散を余儀なくされたと解説している)。 |
【「国際委員会」の活動について】 |
秦郁彦氏の「南京事件P8」には、「難民区の委員達は、こうした日本軍の暴行を傍観していたわけではない。日本大使館へ日参して、実情を告げ、取締りを要請したが、外交官達は無力で、『兵隊達は手に余る。誰も上官の命令に従わないんだから』と投げやりに答えるだけで、のちには米・英大使館を通じて抗議したが、効果は無かった」とある。他方で、フィッチの次のような回想も記している。「あるとき日本兵が建物に押し入り、略奪している現場へ、たまたま日本軍の部隊長が通りかかった。難民区委員の抗議を聞くと、部隊長は兵士達に平手打ちを食わせ、向うずねを足で蹴り飛ばした」。 |
【当時の国際委員会の能力、権限について】 |
【肯定派】 |
(以下の文章は奇妙な論理構成になっている。肯定派見解のひねくれた見方の一例として紹介する) 国際委員会の性格を考えるに当たってどういう構造を考えねばならないか事例を挙げておきましょう。例えば、現在日本には多くの国の在日大使館、領事館なるものが存在しています。ご存知のようにそれらの大使館の役割の内の一つは彼らの国民の生命財産を守る事のはずです。そしてそうした大使館は当然の事ながら自国民の生命財産に及ぶ被害の申告や相談の窓口を開いております。基本的には自国民の立場に立って相談にのってくれる組織といえます。その意味で南京の国際委員会が当時の中国側国民に対する位置と構造的に似ていると言えないでしょうか。 ところで例えば、在日しているアメリカ人は日本で上記に当たる被害に遭った時、米国大使館に申告に行くでしょうか、米国大使館は自分のところに直接集まってくる情報から在日アメリカ人の被害状況を把握しているでしょうか。こういう問題なのです。 在日アメリカ人が在日米国大使館と話を取る時には英語と言う自国語で充分、内容がよく伝わるでしょうが、中国人が国際委員会に報告するには言葉の問題もあります。欧米人が買い物できるぐらいに中国語を話せても、それこそ茂木さんの言われる「根拠」あるレベルの話をするには一件あたりかなりの時間がかかるとは思いませんか。
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【否定派】 |
国際委員会がどれほどの力を持っていたのか、と言う疑問は尤もです。日本軍は、安全地帯を尊重するが正式には認めない、と言う態度をとりました。なぜなら、国際委員会が、中国軍がそこに侵入し、隠れるのを排除する力を持っていないことを危惧していたからです。その後の事態はその危惧通りでした。しかし、安全地帯に集結した、中国市民の面倒を見る唯一の存在であることを認識した日本軍・大使館は、その活動(と言っても多くは、日本軍に対する要望、非難であった)に協力したのでした。だからこそ、通報された強姦、殺人などのケースはチャンと処理されているのです。これを抽象的にどうこういうより、"Documents
of the Nanking Safety Zone" を読んでみることです。 おっしゃるように、歴史研究の資料批判が大事です。当時の風聞、後になってから作られた話、そして証言と称するもの、それらを、当時の1次資料とつきあわせて、資料価値の検討をされたと言う点では、東中野先生の研究は第1級のものと考えています。まずは、「南京虐殺の徹底検証」、「ザ・レイプ・オブ・南京・の研究」をお読みになることをお勧めします。認識論の研究にもお役に立つところがあるかと思います。 |
【「国際委員会」と日本側との交渉】
「国際委員会」と日本側の交渉記録考察も、肯定派のそれは弱く、否定派の独壇場となっている。 |
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肯定派は云う。南京安全区国際委員会と南京赤十字会国際委員会の20数名のヨーロッパ人たちは、真心のこもった人道主義精神に基づいて、日本軍の血塗られた軍刀の下で、幾千幾万の中国人の生命を救い、数多くの女性を日本軍の蹂躙から免れさせた。彼らの日本軍による残虐行為への制止と抗議は、一定程度南京市民の痛みと損失を軽減した。彼らはまた、日本軍の残虐行為を詳細に記録し、様々なルートを通じて国際社会に日本軍による南京での殺人、放火、強姦、掠奪の暴虐な行為を暴露し、南京大虐殺の真相を宣伝し、日本のファシズムの暴虐に対する世界の世論の厳しい批判をまきおこした。彼らの記録は戦後、日本の戦犯裁判に有力な証拠として提供され、同時にまた、南京大虐殺研究の客観的で公正な資料にもなった。 【否定派の見解】否定派は次のように説明している。
というものである。事実、予想通り、「国際委員会」は、便衣隊や敗残兵を全然チェックすることなく潜入せしめている(これがあとから問題になる)。 |
【「安全区」内の安全度について】 「安全区」については、「国際委員会と南京国際安全区について」参照するとして、「国際委員会」の保護管轄下にあった「安全区」内の安全度の実態はどのようなものであったのであろうか。ここでも肯定派と否定派の見解は大きく相違している。 |
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【肯定派の見解】 肯定派は次のように説明している。 |
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否定派が利用する南京国際委員会 委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H.
D. Rabe)による「1937年12月14日 南京日本軍司令官殿」宛文にある「安全区」内の保護は、12月14日以前の状態に対して云われているものであり、「12月14日には暴虐が始まっていたので、すぐ話しあいたいと申し出た」ことに真意があるとみなしているようである。これを証するものとして次の資料が挙げられている。 |
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【否定派の見解】 否定派は次のように説明している。 |
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南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、国際委員会の管理する安全区(難民区)内に集められ、居住することとなった。日本軍は南京占領の12月13日、この地区の掃討を歩兵第7連隊(金沢・伊佐一男大佐)に担当せしめたが、第7連隊長伊佐大佐は、翌14日より、この難民区の出入り口10数ヶ所に歩哨を立て、無用の者の出入りを厳禁した。これを証するものとして、歩兵第36連隊長の脇坂次郎大佐が難民区内に立ち入ろうとしたが歩哨にとがめられて入ることが出来なかった、との東京裁判での脇坂大佐証言がある(速記録309号22・11・6)。大佐でさえも入ることを拒否されたところをみると極めて厳重であったということになる。 松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなかった。放火もなく、従って1件の火災事故も起きていない。文字通りの安全区であった。一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が、国際委員会の公文書の中に記録されているが、婦人・子供の殺害事件等は全然起きていない。そういう記録もない。又、紅卍字会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無にちかい。ただ便衣兵の摘出に際して、良民が誤認されてまきぞいをくい、あるいは徴用、拉致等の厄に遭った若干の犠牲はあったものと思われる、が、概してこの地区は平穏であり、安泰であったことは、諸記録からみて疑う余地はない。難民区が安泰ということは、当時の南京の全市民が安泰であったということである。なぜなら全市民は例外を除き全員ここに蝟集(いしゅう)していたからである。 これを裏付けるかのように「南京安全区トウ案第1号文書」(Z1)(南京安全区国際委員会寧海路5号)には次のように記載されている。「1937年12月14日 南京日本軍司令官殿」として、南京国際委員会 委員長 ジョン・H・D・ラーベ( John H. D. Rabe)名で差し出されている。 「拝啓 貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。 国際委員会は責任をもって地区内の建物に住民を収容し、当面 、住民に食を与えるために米と小麦を貯蔵し、地域内の民警の管理に当たっております。以下のことを委員会の手でおこなうことを要請します。
昨日の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。そのうち若干名は当事務所に来て、人道の名において命を助けてくれるようにと、我々に嘆願しました。委員会の代表達は貴下の司令部を見つけようとしましたが、漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。そこで、我々はこれらの兵士達を全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。現在、彼らの望み通
りに、これらの人びとを平穏な市民生活に戻してやることをどうか許可されるようお願いします。
このようにラーベ氏は国際委員会を代表して感謝の手紙をしたためており、マッカラム氏は日本兵の善行を日記の中にしたためている。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ、「安全区は難民たちの“天国”だったかも知れない」(秦郁彦著『南京事件』84ページ)といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災もなく平穏であった」、「住民のほとんどはここに集まっていた」と述べている。 |
(私論.私見)