42846 ろ溝橋事件考、満州事変考

 盧溝橋事件勃発に際して、統制派が主流となっていた陸軍中央は全てを現地軍に任せて拡大を黙認するがごとき姿勢をとった。海軍は、米内大臣を表に不拡大を唱えつづけた。

 陸軍では、参謀本部の武藤章大佐、軍務局の佐藤賢了中佐などから「この際河北地を第二の満州にすべし」といった意見が出され、その意向で現地歩兵第一連隊長を激励するといった状況であった。しかし、陸軍参謀本部の石原莞爾少将などは「まだ満州自体が安定していない時期にシナで乱を起こすべきではない」という意見を具申していたが、もはやブレーキが効かなかった。

 海軍では首尾一貫して不拡大方針を貫いていたが、こうした折上海で事変が勃発した。それまで4千余名の邦人が居り、2千500名の上海海軍特別陸戦隊が邦人の生命財産保護の任についていた。

 が、シナ19路軍12万の正規軍と選抜された3千500名の保安隊、正規軍と同様の装備をした警察隊5千名、憲兵隊4千500名が上海を包囲し、停戦協定による非武装地帯に協定を無視して侵入、陣地の構築をし、夜間演習を繰り返した。これに刺激され、抗日団体の活動が活発になった。

 その為租界外に住む在留邦人が一般中国人まで含めて租界内に殺到するといった事態となった。海軍陸戦隊はシナ側の挑発に乗ぜられることなく厳重な警戒態勢を敷いていた。

 そうした緊張の中で、視察巡回中の陸戦隊西部派遣隊長・大山勇夫中尉が、斎藤一等水兵の運転する自動車ともども上海西部モニュメント路上でシナ保安隊の襲撃を受け惨殺された。この事件の報が伝わるや、日本国民の憤激が頂点に達し、轟々(ごうごう)たる世論が日本全土に沸騰した。陸軍の大陸進攻派はこの世論に乗って好機到来と中支派兵を強行に迫った。

 それまで自重を続けてきた海軍も世論に抗し切れず、第二第三の通州事件の発生を妨げるため陸軍の主張に同意するに至った。陸軍はその後兵力を増強し始め、進攻に拍車をかけていくことになった。この経過が米内海相に更に深い陸軍不信感を生ぜしめ、以後陸海軍の抗争につながっていった。三国同盟、日米開戦、終戦の動きを廻る早期和平の海軍と徹底抗戦の陸軍の抗争へと続いていくことになった。



199] Re: 満州事変について
投稿者名: 普通の人投稿日時: 2001年7月8日 00時33分
この議論については、私の提起した論理展開:

1)満州事変を起こし(満州国を建国し)た関東軍と、軍中央、政府が出来レースだった、という、あなたの独自の新説に私は同意しません。しかし、何でしたら、日本史学会、日本軍事史学会にご提案されたら、如何でしょうか?頑張って下さい。支援しましょうか?

事実、学会の定説は、満州事変は関東軍の独断、しかもその拡大は、明確な軍の統制違反。これを解説する文献はいくらでもあります、例えば、中公新書の「満州事変」。「関東軍」が、中央の統制に従わない暴れん坊との例えによく用いられていたことは、ご存じでしょうが。

2)次に、このことと、軍の責任とは、なんの関係もないですよ。
つまり、満州事変が関東軍の独断だからといって、軍として、満州事変の責任が、他人がやったことで、軍にはないなどと、誰も言っていないっちゅーの。あなたの論法では、軍が責任逃れをするため、関東軍の独断だなどと言っているのはけしからん、という推論のようだが、そもそも、軍は、満州事変について、責任とらない、などといってないよ。お分かり?責任逃れのような事書くな、とあなたがいくらいったところで、責任のあるなしに関わらず、事実は事実。それは書くべき。しかる後、責任はどうだったのか?と考えるべき。他人がやったことで、俺は知らない、などと、だれも言ってないって。

http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/textbook.htm
「関東軍石原が独断で満州事変を起こした」という事実は「陸軍中央部に侵略の陰謀がなかった」事を証明するものではありません。ましてや「軍中央が不拡大方針だった」ことも証明しません。日本政府は動揺したかもしれませんね。そんな事はまったく知らされていなかったわけですから。

しかし軍部は現地軍が自分たちの思惑よりも早く実行してしまったことに驚きながらも、ただちに積極的行動をとっていますよ。19日午前7時に開かれた省部首脳会議で関東軍の行動を至当と認め、南陸相から閣議に増兵を提議することと決定しました。ところが幣原喜重郎外相が関東軍の陰謀であることを示す情報を暴露したため、軍は直ちに増派を提案することができなかったのです。もちろんこの時点で朝鮮軍の独断越境行為が行われていることは衆知のとおりです。つまり軍首脳部は明らかに強硬論をとっており、そのトップにたつ南陸相や金谷参謀総長などは政府の不拡大方針とのあいだで動揺していた、というのが真相です。以上は国会図書館でも確認できる事実であり、誰かエラい教授に聞く必要などありません。だから「新しい教科書」に「軍中央の不拡大方針」と記述されているのは間違いなのです。

また、奉天攻略のための24センチ留弾砲の持ち出し・船積み手配はだれが許可したのでしょうか?永田軍務局長がおこなったものですよ。建川部長が書き1931年3月に参謀本部で決定された参謀本部第二部による満州侵略の計画書『情勢判断』には何と書いてあったのでしょうか?また4月1日に各師団長会同で建川はこの大要を説明し、南陸相もこれを読んで「自分は全然同意だ。一つやろうではないか」と語った事実。また建川を長とし省部五課長によって構成される内密の委員会で満州侵略計画が策定されていった事実をどう思うのですか?

以上は私の「独自の新説」とでもいうのでしょうか? とんでもない!市販の歴史書を見れば出ていることです。因みに私が引用したのは小学館文庫「昭和の歴史」です。
あなたは「まずa)事実はどうかb)それにもとづく主張」とおっしゃったのではなかったっけ? 私が示した「事実」を無視して「独自の新説」というのはあなた自身の弁を否定するものではないでしょうか?

投稿者名: 普通の人投稿日時: 2001年7月8日 22時16分
さて、まっぺんさんとやらは、失礼ながら、微視的、虫観的なものの見方には、かなりの集中力を持続できる能力の方とお見受け致しましたが、そのために(本当に失礼な言い方をお許しいただければ)全体を展望しつつ、今、全体として何が議論されているのか、何を主張し、どの方向に展開すべきなのか、という、大局的、鳥瞰的観点の議論をしばし、お忘れになっているのではないかと、危惧しております。

全体論は、簡単です。繰り返しになりますが、(ここでは、当初の日中戦争、大東亜戦争の場ではなく、あなたの途中からの主張をいれ、話を満州事変に限りますが)

1)満州事変の勃発(と、拡大、満州国の建国)は、史実として関東軍の独断か、軍中央や政府の出来レースか?
 【あなたは、出来レースだといっている。私は、独断に近いと言っている】(下記注)

2)関東軍の独断ということを根拠に、軍としては満州事変の責任逃れをしたという事実はあるのか?(軍の責任逃れのために、関東軍の独断という言い方をしているのか?)
 【あなたは、軍の責任逃れのために、関東軍の独断といっている、と決めつけておられる。しかし、私は、そもそも、独断であれ、何であれ、満州事変で、軍が責任逃れをしたことはない、と思っている】

3)では、歴史教科書にどのように記載すればいいのか?(あるいは、この部分はどの教科書の記述が妥当か?)
 【私は、新しい歴史教科書の記述が、一番事実に近いと思っている。あなたは、新しい歴史教科書の記述は駄目だ、といっているが、対案は示していない】

上記の問題で、あなたは、専ら、1)のみに全力をあげており(それにも関わらず、折角ですが、そうではないことを証明します。下記注)、だから、何なの?教科書の記述として、どうするの?というところまで、話がなかなか進みません。これで、私の、微視的、云々の主張が、少しは理解頂けたことと存じます。

さて、提案です。こういう時は、まあ、冷静に、議論の展開を、たまには、他の方(ただし、頭の柔らく、しかも脳に汗がかける人でないと駄目ですがね)にでも、双方の論旨を示し、お聞きになってみてはいかがでしょうか?そうすれば、お互い、どちらが説得力ある議論を行っているか、どこが、見解の相違なのか、よく見えてくるのではないかと思量致します。そのほうが、議論を高めて、お互い欠けているところを補充し、より良い結論に達するのではないでしょうか? ただし、一つだけ不安があります。ただひたすら、展望すべき戦略もなく、相手を罵り粉砕(おお、懐かしき左翼用語!)することのみを目的(楽しみ)として、議論をなさるような、非生産的な方がいらっしゃったなら、もはや、私としては、残念ですが【豎子、共に謀るに足らず】ということですねえ。別名 范増(一見八十の翁)より


(注)あなたは、その証拠として、

> 日本政府は動揺したかもしれませんね。そんな事はまったく知らされていなかったわ>けですから。しかし軍部は現地軍が自分たちの思惑よ りも早く実行してしまったことに驚きながらも、19日午前7時に開かれた省部>首脳会議で関東軍の行動を至当と認め、南陸相から閣議に増兵を提議することと決定しました。ところが幣原喜重郎外相が関東>軍の陰謀であることを示す情報を暴露したため、軍は直ちに増派を提案することができ なかったのです。もちろんこの時点で朝鮮軍の独断越境行為が行われていることは衆知のとおりです。そのトップにたつ南陸相や金谷参謀総長などは政府の不拡大方針とのあいだで動揺していた、というのが真相です。
>
> また、奉天攻略のための24センチ留弾砲の持ち出し・船積み手配はだれが許可したのでしょうか?永田軍務局長が おこなったものですよ。建川部長が書き1931年3月に参謀本部で決定された参謀本部第二部による満州侵略の計画書『情勢判断』には何と書いてあったのでしょう か?また4月1日に各師団長会同で建川はこの大要を説明し、南陸相もこれを読んで「自分は全然同意だ。一つやろうではないか」と語った事実。また建川を長とし省 部五課長によって構成される内密の委員会で満州侵略計画が策定されていった事実をどう思うのですか?

を、記し、だから、
(1)満州事変は軍中央が、勃発と拡大に積極的に加担した。
(2)政府は、加担していない。(たしか、あなたは、最初は、政府も積極的に加担したっていわなかったっけ?)
との結論を導出した。

しかし、以下の史実は、そうではないことの直接的証左だ。牽強付会は、独善に陥る恐れなしとしません。お調べ頂ければ幸いです。

1)満州事変直前の満州内蒙古界隈では、万宝山事件、中村大尉事件により、日中関係が極度に悪化、関東軍ではこれを契機に懸案の満蒙問題解決の動機としようと、軍中央(陸軍省、参謀本部)に意見具申。(31年、7月〜8月)しかるに、省部では、これを却下。現時点での策謀は不可というもの。8月、杉山参謀総長は、その旨、三宅関東軍参謀長に示達。これにより、関東軍は、かなり失望。その様子は、関東軍石原参謀から、陸軍省軍事課長永田あて私信に明らか。

2)このため、関東軍は、独断で満州事変を決意。関東軍の不穏な動きを察した軍中央は、参謀本部部長の建川を、留め男として、9月中旬、満州に急遽派遣。石原は、その建川が、満州に到着し、翌日会議という、その夜(9月18日)に、満州事変を勃発させた。

3)その後の戦線拡大、特に、本来天皇の命がなければ兵を動かせない、朝鮮軍の関東軍要請による独断越境(その処置を巡る軍中央のドタバタ)、さらに、軍中央の命がなければ、やってはいけない錦州爆撃、等々、すべて、関東軍(板垣、石原)の独断が、軍中央を引きずり、国家、軍の統制を乱す前例となってしまった。

4)6年後、廬溝橋事件において、支那派遣軍(こんどは、武藤参謀)が、同じようにどんどん戦闘を拡大し、軍中央の参謀本部(今度は石原が部長)が不拡大を唱えたにも関わらず、これまた現地軍に引きずられて、日中全面戦争になってしまったのは余りにも有名。武藤は、不拡大を唱える石原に、あなたが、満州でやったと同じことをやってるだけだ(つまり、中央の統制なしにやってる)と、放言した有名な言葉が残っている。

まっぺんさんの実社会での経験を知る由もないですが、まっぺんさんの思考形態を拝見し、大変気になったことがありますので、蛇足かもしれないが、先の投稿に補足します。それが、企業活動であれ、軍事行動であれ、(あなた方の革命実行であれ)、準備、投資の伴う活動は、どこでも2本立てで構成される。それが経営のイロハです。

最初は、準備段階:準備実行計画(中長期計画)そして、実行段階:実行計画。準備実行計画が認められたからといって、即、実行計画が認めれたわけではない。それぞれ、所管の専決権限に従って、実行に移される。満州事変において、満蒙基本問題解決は、準備実行計画。満州事変の実施は、実行計画。
私が証明したのは「政府と軍部中央は不拡大方針」という「新しい教科書」の記述がうそであるという主張「だけ」です。最初に私が言ったのはそういう事だったでしょう?それが何で「出来レース」だの「政府も荷担」だの「日中戦争や大東亜戦争」だのに発展していくんでしょうか? あなたの「想像力の豊かさ」にはあきれてしまいます。「論点をずらすな」と言っておきながら実際どんどんずらして「ぐちゃぐちゃ」にしているのはあなたの方なのですよ。ちがいますか? まず「あたらしい教科書」の記述が「正しいかまちがっているか」を検証すべきではありませんか?

関東軍参謀石原莞爾中佐が板垣征四郎の承認のもとに独断で「柳条湖事件」陰謀工作をおこない、関東軍1個師団をもって中国東北軍を襲撃したのは歴史的事実であり、常識です。それを否定するつもりはありません。私がこれをどこかで否定しましたか?

ただ、私がコメントをつけたのは「軍部ももともとそういう計画を練っており、そのための陰謀計画書があり、そのための秘密会議を開いていた」ことを説明したのです。これは軍部が「不拡大方針」ではなかった事を証明するものではありませんか?ちがいますか?違うというならそれを説明してください。

また、満州事変がおこった時、軍中央は「不拡大方針」どころか、ただちに省部会議を開き、これを支援しようとし、政府・外務省によって「ひとまず」阻止されたのです。私はこれを詳しく説明しましたが、これを認めますか、認めませんか?認めるなら「あたらしい教科書」の記述が「うそ」であった事になるでしょう? 違いますか?
前回指摘のように、あなたは、虫観的論争がお得意なようなので、今度は私も、あなたと同じ視点で、整理をしておきました。間違いがありましたら、その旨おっしゃって下さい。最初のあなたの投稿では、あなたは、戦争全体について、主張されていたように見えますが、途中で、お互いの合意により、満州事変にのみ、場を絞っています。

これまで明らかになったこと。

「(1)満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。
(2)政府と軍部中央は不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、全満州を占領した。
(3)これは、国家の秩序を破壊する行動だった。」

の記述に関し、

まっぺんさんの主張:

(2)は誤り→
<1>軍中央は、不拡大方針をとっていない。
<2>政府は、不拡大方針をとった。これは正しい。
(そんなこと、どこで言いましたかっ、などといわないでね)
<3>関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、は、「これ」が政府なら、正しい(でいいですな)

(1)は、少なくても後半は正しい。→
<1>満州事変は、関東軍独断の行動だったことは認める。

(3)は、誤り→<1>軍中央は、不拡大方針をとっていないのであるから、満州事変の拡大は、国家秩序に沿った行動だった。
(で、いいですか?、それとも別のお考えですか)

私の主張:

(1)、(2)、(3)ともに正しい。

特に、論争の(2)は、政府は不拡大方針だった(あなたと、一致)軍中央も、不拡大方針だったが、関東軍に押し切られた。(あなたと見解が
異なる)従って、関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、は正しい。

また、(3)は、正しい。関東軍が悪しき前例となった。

以上が、見解の相違点と、一致点。


さて、まっぺんさんは、では、満州事変の記述では、どの教科書の表記を推奨しますか?と、問うても、一切答えず、ひたすら、新しい歴史教科書を罵倒するばかりだったが、やっと、その理由が理解できましたよ〜。要するに、当事者ではないからなんだよね。一人称で行動、思考せず、舞台の下で、批評だけやってる、責任をとわれない、お気楽なファンのお立場だったのね。しかし、私は、あなたとは違う。納税者として、無責任なこと言っておられない、立場なのですよ。

これまで明らかになったこと。

「(1)満州事変は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊
である関東軍がおこした戦争だった。
(2)政府と軍部中央は不拡大方針をとったが、関東軍はこれを無視して
戦線を拡大し、全満州を占領した。
(3)これは、国家の秩序を破壊する行動だった。」

の記述に関し、

まっぺんさんの主張:

(2)は誤り→
<1>軍中央は、不拡大方針をとっていない。
<2>政府は、不拡大方針をとった。これは正しい。
(そんなこと、どこで言いましたかっ、などといわないでね)
<3>関東軍はこれを無視して戦線を拡大し、は、「これ」が
政府なら、正しい(でいいですな)

(1)は、少なくても後半は正しい。→
<1>満州事変は、関東軍独断の行動だったことは認める。

(3)は、誤り→<1>軍中央は、不拡大方針をとっていないのであるから、
満州事変の拡大は、国家秩序に沿った行動だった。
(で、いいですか?、それとも別のお考えですか)
……………………………………………………………………………………………
だそうです。

ぜんぜんわかってないじゃないか?(怒)それではさらに詳しく説明しましょうね。私は「政府は、不拡大方針をとった。これは正しい」などと断定もしていませんよ。この場合「政府」とはどの政府の事をいうのでしょうか?当時、政友会より比較的リベラルと見られていた民政党・若槻礼次郎内閣が成立していました。この政府は31年9月18日「柳条湖事件」がおこった瞬間には確かに「不拡大方針」でした。しかし、だからといって「日本政府は不拡大方針」と教科書に書くのは間違いである。なぜなら、21日の閣議では関東軍の態勢について意見がまとまらずほぼ賛否半々、朝鮮軍越境について22日に閣議を開いた時も事後承諾をし、その出費を承認。またこの閣議決定をもって天皇が裁可したからです。つまり天皇大権の重大な干犯である「独断越境」を何ら問題とせず、あとから天皇によって「出動命令」がおこなわれているのですよ。また24日には関東軍の行動と朝鮮軍の越境増派を正当化する「政府声明」もだしています。なお、その後の錦州爆撃では国際的に問題とされたにもかかわらず、政府は国際連盟の非難を受け入れませんでした。また、政府のこのようないい加減な態度と軍部の突き上げ、さらなる戦線の拡大によってついに12月には若槻内閣は総辞職します。かわって立った犬養内閣はさらに軍部よりでした。こうして翌年の「満州国」デッチあげと日本による支配へと軍部・政府とも突き進んでいくのです。だから「柳条湖」事件当時の「瞬間的エピソード」を理由として「政府は不拡大方針」と断定するのはまちがいなのです。教科書に書くべきではありません。

それに「軍中央は不拡大方針ではない」理由を事実をあげて説明したのに無視してますね。どういう事ですか? 都合が悪くなると「聞かなかったふりをして同じ主張を繰り返す」のは「現代国学者」君のとくいワザでしたよ。

だいたい「国家の秩序を破壊する行動だった」「国家秩序に沿った行動だった」という、この対比のしかたは何ですか?これまで議論してきた事のどこに「国家秩序」の価値を基準とした議論があったというのですか?ここは「教科書問題」についてのスレッドなのですよ。議論されているのは『あたらしい教科書』の記述のまちがいについてではないですか?

それから………………………………………………………………
さて、まっぺんさんは、では、満州事変の記述では、どの教科書の表記を推奨しますか?
……………………………………………………………………………………………
これには答える必要はまったくありません。以前「現代国学者」氏と議論したときにも、彼は反論できなくなると「Aは正しい!」というかわりに「Aが間違っているというならBはどうなんだ?」と対抗手段をもってきて問題をすりかえようとしました。私は「『あたらしい教科書』には重大な問題がある」といっているだけであって、「それならどの教科書ならいいのだ?」という反論に答える必要をまったく感じません。

投稿者名: 普通の人投稿日時: 2001年7月11日 00時31分
議論は、フェアにやろうやなあ。まっぺんさん。他、徒党のお二人さん。討論のこの場以外で、貴殿と徒党を組むお二方が、言うに事欠いて、束になって単なる誹謗中傷をしている図は、このサイト、それ自体の、品位を著しく汚すと思うがな。

これでは、できるだけ真面目に、このサイトで議論しようとして集ってる人間も、離れていくのではないか?それは、君たち自身にとっても、決していいこととは思われないぞ。共産主義ファンの君たちよ。(昔は、革命は、もっと潔く、ロマンのあったものだよ。70年安保を経験したものにとって、サヴィンコフ・ロープシンの「蒼ざめた馬」とか、「テロリスト群像」とか、私の愛読書でもあったがね。・・・恐らく、また、まっぺんさんは、また、これを批判するぜ。しかし、LPGさんは批判しないと思うがな)

さて、まっぺんさん。先の私のまとめ(確認)に対する貴殿のご回答を拝見し、やっと、ここにきて、貴殿の意図が明確になりましたですね。

案の定です。これまで、お互い、どちらかというと、相手の非難応酬が多かったが、そのなかで、やっと、たどり着いた、見解の相違と一致点ですね。ここに至るまで、お互い、いくつかの言葉の非礼があったとすれば、謝るべきことは謝ります。さて、貴殿の思考形態が、先の回答によって、一層、想像通りだったので、率直に述べることををお許し頂き、申し添えます。

貴殿は、非常に、多弁に、しかし、微視的、虫観的に言辞を弄するが、そのわりに、決定的なことは、ちょっとしか言わない。その他のことは、一定の観念、方向性をお示しになるが、後から、どうにでもいいつくろいができるよう、巧妙に言葉使いをお選びになる。故に、決定的にいったことしか、自分は責任を取らず、その他の関連する事項について、相手が、言及すると、そんなこと誰もいってない、と、相手を攻撃する性向が強い。

だから、こういう人と議論を速やかに進めるためには、一つ一つの事象に正しいか、正しくないか、というふうに、相手の確認を、曖昧さを排して、求めていかなければならない。それが、前回の問いだったのです。貴殿は、逐一それに答えていただけた。貴殿の曖昧さがなくなった。これで、遅まきながら、貴殿の所論が明確になった。

あとは、どっちの論議が、正しいかだけです。これは、フェアな他人が判断するでしょう。
[216] フェアな論争とは?
投稿者名: まっぺん (ホームページ)投稿日時: 2001年7月11日 10時42分
私のほうから言わせれば、まったく逆の気持ちを抱いている、と申し上げておきましょう。たとえば「政府が満州事変に関与したかどうか」について検討してみましょう。「日本政府と軍中央は不拡大方針」という「あたらしい教科書」の記述を私は「ウソである」と申しました。そして軍首脳の(ある程度の)関与と、もともと軍がもっていた満州侵略の陰謀計画について説明しました。

するとあなたは私の言葉を勝手に曲解し「関東軍と、軍中央、政府が出来レースだった」と言い出す。つまり私が「軍は不拡大方針ではなかった」証拠を提示すると、それを勝手に「軍も政府も積極的に関与していた」かのように拡大解釈する。

そこで私は「柳条湖事件」の状況を説明し「関東軍の陰謀」と「政府の(その瞬間には)不拡大であった方針」と「軍がとった積極的支援の態度」とを説明すると、それだけで今度は「政府は不拡大方針、これは正しいとあなたも認めた」とくる。私は今度はその誤解を解き「政府の不拡大方針」という記述があやまりである事を示すために、「満州事変」に関係するふたつの政府のとった具体的対応を示したのです。

以上のように私の主張は一貫して「政府と軍中央は不拡大方針」という記述があやまりである事を示すためにおこなわれているものにすぎません。それが一貫した目的であり、そのための論証をしてきたつもりです。そのわたしの論述をあなたはことごとく曲解し、予断によって勝手に「ものがたり」をつくって対比する。これは「厳密に討議していこう」とする者の姿勢とは私には思えません。むしろあなたのこのような無茶苦茶な「議論」のやりかたに振り回されているのは私のほうなのですよ。私が「巧妙」なのではなく、あなたが粗雑すぎるのです。ひとの「品位」を云々する前にご自分の「論証の厳密さ」を考えてほしいと思います。資料は何のためにあるのでしょうか?資料を調べるからこそ事実が判明していくのです。それを「微視的、虫観的」などというべきではありません。

>さて、まっぺんさん。
>先の私のまとめ(確認)に対する貴殿のご回答を拝見し、やっと、ここにきて、貴殿の意図が明確になりましたですね。

そうですね。とにかくここまでで、ようやく私の主張がご理解いただけたと思います。「政府と軍中央は不拡大方針」…この「あたらしい教科書」の記述がまちがいであったことを私はこれまでの説明によって充分に証明できたと思っております。いかがでしょうか?

そのあと、私は、そもそもこのような書き方「政府の方針と無関係」「政府と軍中央は不拡大方針」「これは国家の秩序を破壊する行動だった」などの記述には極めて明確な政治的「意図」があり、この教科書があらかじめこどもに特定の思想を植え付ける政治的意図をもった陰謀の書である事も述べていきたいと思います。
[217] 「新しい教科書」の陰謀的意図
投稿者名: まっぺん (ホームページ)投稿日時: 2001年7月12日 13時10分
●記述の「まちがい」ではなく「意図」こそが元凶
これまでの論争によって「政府と軍中央は不拡大方針」の記述が事実とちがう事は、軍中央による満州侵略の陰謀計画、関東軍への関与、事後の侵略的姿勢、それに追随する政府の言動などにより具体的に明らかになったと思います。しかし、この教科書の問題点は「記載事項にいろいろまちがいが多いから」問題なのではありません。記述の仕方には一貫した「政治的意図」が練り込まれている事が最も問題なのです。また、「まちがい」は「政治的意図」によって起こったものなのです。「満州事変」についてそれを検証していきましょう。

●こどもたちはこれを読んでどう思うか?
『あたらしい教科書』には「政府の方針とは無関係」「政府と軍中央は不拡大方針」「これは国家の秩序を破壊する行動だった」などの記述が見られます。これらの記述を読んだ子ども達はどう思うでしょうか?「政府・軍中央には満州侵略の意図はなかったのに、現地軍が勝手に侵略をし、それに政府も軍も関与していない」かのように思ってしまうでしょう。また「関東軍の暴走が国家秩序を破壊したので、しかたなく戦争に突入してしまったのだ」と思うでしょう。つまり、日中戦争の重大な原因を作った「満州事変」を仕組んだ現地関東軍の陰謀が「なにもかも悪いのだ」と置き換えることによって、軍と政府の戦争責任を回避しようという「意図」がはっきり見えるのです。

●悪質きわまりない陰謀
ここで「普通の人」さんは、私にまったく見当ハズレな反論を試みています。軍中央は「戦争について責任逃れをしていない」、わたしが「満州事変は国家秩序に沿うものであったと言っている」というものです。今ここで重要なのは「軍が責任を回避しているかどうか」ではありません。「この教科書が軍と政府の戦争責任を回避している」と言っているのです。軍も政府も石原参謀の独断による柳条湖事件に直接は関わっていないとしても、軍は直ちに、政府はおずおずと、この事変を支持し支援し、天皇は「派兵命令」を下し、国家がまるごと満州事変に荷担していたのはあらゆる証拠からも明らかなのです。『あたらしい教科書』に見る「無関係」「不拡大方針」などの書き方はこの「軍・政府の責任」を意図的に逃れようとする極めて悪質な政治的陰謀に貫かれたものです。

●「国家の秩序を破壊」とは?
当時の国家はすでに軍国主義がすすみ、軍人の発言権がおおきくなっていました。そのような軍国主義的な「国家秩序」を子どもたちに「肯定的に」教えるべきなのでしょうか?『あたらしい教科書』のこの部分はあたかも「国家秩序は正しいもの、それを破壊した満州事変(出先の現地軍)がまちがっていたもの」という風に思わせる記述をおこなっています。「普通の人」さんは、この記述の問題点にまったく気づかず(そりゃそうだ^^)、あたかも「国家秩序」について「破壊されているか、維持されているか」が争点であるかのように考えて私の考えを「推理」したもののようです。この時期の「国家秩序」は軍の主導が貫徹しており、たとえば軍は「陸海軍大臣現役制度」を悪用して気に入らない政府を潰していくなどの政治的行動をとっていました。新聞検閲はもちろん、治安維持法強化など、軍事国家建設強化による「国家秩序」が着々とすすめられていったのです。このような「国家秩序」が破壊されるかどうかは、何の価値の基準にもなりません。例えていうなら「関東軍」という辺境のオオカミが「軍中央」という親分オオカミの軍事的秩序を破壊したからといって、それが、なにか民衆にとって困った問題になる事なのでしょうか?




(私論.私見)