42842−2 | 韓国併合考 |
寺内正毅は長州閥で、1852.2.24日(嘉永5年2月5日)生まれ、1919(大正8).11.3日没の61年の生涯を経ている。長州藩士宇多正輔の3男で、母方の寺内家を継いだ。16才の時、戊辰戦争が勃発。長州藩御楯隊に所属して第二次幕長戦争に参加。さらに整武隊に所属して函館戦争に参加する。明治維新後、陸軍兵学寮に入り日本陸軍軍人となる。陸軍における山県閥の一人として出世していく。
大阪兵学寮で学ぶ。1871年少尉任官。21才の時、1873年に起きた西南戦争で、負傷。右手の自由を失う。このため、現場で軍を直接指揮することは出来なくなり、寺内の活躍の場は、戦場から軍の政策、戦略を練る軍政の場へと移っていく。
西南戦争の後、寺内は兵学を学ぶためにフランスに留学。1882年仏国公使館付武官・フランスに留学して軍事を学ぶ。3年の留学を終えて帰国後、陸軍大臣の秘書官(陸軍大臣官房副長)を経て陸軍士官学校の校長に就任した。陸軍教育のトップとして後輩の指導にあたる。
1894年の日清戦争の際には運輸通信長官として情報管理を中心に国内体制の強化にあたっている。4年後、陸軍の教育を統括する教育総監に就任。その後、参謀本部次長・参謀本部第一局長などを歴任し、参謀本部時代には鉄道・運輸等の動員体制の整備にたずさわる。
1902(明治35).3.27日第1次桂太郎内閣の時、兒玉源太郎と交代し陸軍大臣として初入閣。その後の第1次西園寺内閣、第2次桂内閣でも陸相に留任し、およそ9年半にわたって陸軍大臣を務めた。その間、日露戦争を指導する立場に立つ。
この過程で、寺内は、政治結社や集会を禁止し、言論を抑圧するなど、人権や自由を厳しく制限する政策を推進している。このタカ派的な強硬な政治姿勢が評価され、1916.10月、総理大臣に任命される下地となる。
1903(明治36)年、ロシア陸軍大臣アレクセイ・クロパトキン大将来日時の接待主任。当時、陸軍大臣にして陸軍中将。
1906(明治39)年1.7日、第1次西園寺公望内閣の陸軍大臣。11月陸軍大将。1907年、子爵。
1910.2.14日、旅順地方法院、伊藤博文暗殺犯人として韓国人安重根に死刑を宣告。3.26日執行。
1910.2.28日、外相小村寿太郎が外国在住使臣に韓国併合方針および施設大綱を通報。
1910(明治43).5.30日、陸相のまま韓国統監府の第3代韓国統監となり、韓国併合を画策する。6.3日閣議で、併合後の韓国に対する施政方針を決定(憲法を施行せず,いっさいの政務を統轄する総督をおくなど)。6.22日拓殖局官制公布〔勅〕(内閣総理大臣に直隷し,台湾・樺太・韓国および外交を除く関東州に関する事項を統理。6.24日韓国警察事務委託に関する日韓覚書調印(6.25日統監府告示)。6.30日統監府警察官署官制公布〔勅〕。
8.16日寺内正毅統監,韓国首相李完用に日韓併合に関する覚書を交付。8.22日、韓国併合に関する日韓条約(日韓併合条約)が調印される。枢密院会議が調印前の日韓併合条約を可決、即日裁可。8.29日併合に関する詔書。韓国王室を皇族の礼をもって遇する詔書を下し、条約を公布、即日施行。8.29日、韓国の国号を朝鮮と改め、朝鮮総督府をおくことを公布( ’11.3.25 法制化)、韓国統監府は朝鮮総督府に改名される。9.12日、韓国統監府が、朝鮮の政治結社を全面的に禁止。併合を推進した一進会に解散を命じ、解散費として15万円を与える。朝鮮駐箚憲兵条例公布。9.30日、朝鮮総督府臨時土地調査局官制公布〔勅〕(朝鮮における土地調査事業の本格的開始。18年に同調査完了し、全朝鮮に土地私有制
確立)。9.30日朝鮮総督府官制(総督は陸軍・海軍大将とし他に政務総監をおく)。同中枢院官制(総督の諮詢機関.議長は政務総監)各公布〔勅〕、10.1日施行。
10.1日韓国統監寺内正毅を初代朝鮮総督に任命(陸軍大臣兼任)。寺内は、その初代朝鮮総督に任命されている。
11月、朝鮮人安明根が寺内正毅総督の暗殺をはかり捕わる( ’11 年にかけて多数の独立運動家逮捕)。12.27日、対馬・朝鮮沿岸を第5海軍区とし、鎮海を軍港、永興を要港とする旨公布〔勅〕。12.29日、朝鮮総督府,会社令を制定〔制〕(朝鮮における会社設立を許可制とする) 、11.1.1 施行 .’20.4.1 廃止〔制〕。
1911. 3.7日、衆議院,韓国併合緊急勅令ほか12件中1件(総督委任立法に関する ’10 年の勅令 324 号)を除き事後承諾、勅令。32
4号は、朝鮮に施行すべき法令に関する法律案と改め可決。3.13日貴族院可決、3.25日各公布〔勅・法〕。3.23日朝鮮事業公債法・朝鮮事業公債特別会計法公布〔法〕( 5600 万円以内の公債発行・借入金を認め,特別会計とする)。3.29日朝鮮銀行法公布〔法〕(韓国銀行を朝鮮銀行と改称)。8.15日施行。4.17日朝鮮総督府,土地収用令制定〔制〕。6.20日、朝鮮総督府,経学院規程を公布〔府〕(儒学を講究して〈風教徳化ヲ裨補スル〉ため.明治天皇,設立基金として 25 万円を下付)。6.20日、日本基督教会,朝鮮人の教化と日本国民化を目ざし伝道に着手( ’18 年末,教会 149, 会員1万 3631 人). 17
47 日本組合教会便覧 1911. 6. ‐ 1911 朝鮮総督暗殺計画発覚し,米人宣教師との関係,問題となる(宣川事件)。8.24日、朝鮮教育令公布〔勅〕(教育勅語に基づき朝鮮人を〈忠良ナル国民〉に教育し,日本語による教育を主体とした普通学校・高等普通学校・
女子高等普通学校・実業学校・専門学校の各制度を設ける。10.11日朝鮮総督府,旧韓国の官立法学校を京城専修学校に改組〔勅〕(韓国時代の専門学校を廃止)。10.24日明治天皇,教育勅語を朝鮮総督に下付〔訓〕( ’12.1.19 総督,その謄本を管内学校へ頒布する旨訓令)。11.1日、鴨緑江橋梁完成により,新義州・安東間開通,朝鮮総督府鉄道と南満州鉄道との直通運転を開始。
1912. 3.2日、朝鮮郵船 設立(本社京城.資本金 300 万円.社長原田金之祐.朝鮮総督府の補助の下に沿岸航路を統一)。3.18日朝鮮総督府,朝鮮民事令・朝鮮不動産登記令・朝鮮刑事令・朝鮮笞刑令・朝鮮監獄令を各制定〔制〕 .4.1 施行。3.28日、在朝鮮日本人子弟のための初等・女子中等教育機関を公立(居留民団と学校組合により設置)とし,小学校令・高等女学校令に準拠させる
〔勅〕。8.13日、朝鮮総督府,土地調査令制定〔制〕。11.22日、上原勇作陸相,朝鮮に2個師団増設案を閣議に提出。11.30 閣議、財政上不可能として否決。11.24日第2インターナショナル,バーゼル大会。12.31日、内地人口 5252 万 2753 人(東京市 200 万 9980 人).外地人口,朝鮮 1456 万 6783 人,台湾
321 万 3221 人,樺太 2150 人(統計年鑑・日本帝国統計年鑑・日本統計年鑑)。
朝鮮総督時代、武断統治を実施。桂園時代には陸軍大臣と韓国統監(1910年日韓併合後は朝鮮総督)を兼任し朝鮮の植民地支配体制の構築を推進した。とくに鮮満通鉄道の完成は満州経営体制の確立であり,また大陸における対ソ軍事動員体制の一環をなすものであった。日本の植民地領有を契機とする軍事官僚の政治的独立を担った一人でもあった。
1911年に伯爵。さらにまた寺内内閣(1916〜1918)は,一方で依然として元老・枢密院・貴族院に依拠したが,他方で経済調査会の設置・軍需工業動員法の制定などの新たな体制を準備していた。〔参考文献〕黒田甲子郎『元帥寺内伯爵伝』1920,同伝記編纂所
2年前には第一次世界大戦も勃発していた。
1916年、元帥授与され、また同年10月、大隈重信内閣の後を受けてその推薦を受け組閣、第18代内閣総理大臣を拝命している。寺内内閣は、1916(大正5)年10月9日〜1918(大正7)年9月29日にかけての約2年間存続。内閣の主な顔ぶれは、寺内が首相と外務大臣、大蔵大臣を兼任し、内務大臣として後藤新平(大7.4.23−)を登用している。
閣僚は貴族からなり、政党を無視した挙国一致を目指した内閣だった。野党同志会や国民党と対立するが、議会解散・総選挙後に第1党となった政友会が政府支持に回ると、国民党やその他の無所属議員も政府支持を明らかにする。
そんな中、寺内は様々な改革に着手していった。まず、外交問題を審議する天皇直属の臨時外交調査会を設置。メンバーには内閣の主要閣僚をはじめ、立憲政友会の原敬や立憲国民党の犬養毅らを加え、政策決定をスムーズにするとともに、政治基盤の安定化をはかった。
また、国内でも、教育制度の再編成をはかるために臨時教育会議を設置し、教師と教育内容への統制を強化した。このように寺内は国内の経済や社会状況の変化に応じて新しいシステムを提案していくことで世間から高い評価を得たのである。
こうして政権安定を図った内閣は、増税、海軍軍拡、中国交通銀行への資金提供(西原借款)などを実施した。
1917年ロシアでは革命が起き、世界で最初の社会主義政権、ソビエトが誕生した。
1918(大正7)年 シベリア出兵。この革命の波及を恐れたアメリカ、イギリス、フランス、そして日本の4カ国はシベリアにいるチェコスロバキア軍の捕虜救出を口実に出兵した。寺内は、このシベリア出兵のために軍備の拡張を進め、国民への増税も実行していった。更に、世間からの批判が高まると、世論を弾圧していったのである。こうして寺内内閣は、『軍閥内閣』といわれるようになった。
1918(大正7)年 物価が高騰、米騒動が起こる。鎮圧するも連日暴動が相次ぐ非常事態となって、総辞職となった。辞職後まもなく没。
同じ頃、国内でも寺内の総理の座を危うくする事件が起きていた。米騒動である。当時の日本では、第一次世界大戦による物価の高騰に増税が加わり、社会不安が広がっていた。更に、シベリア出兵で米の買占めが始まり、米の値段は急騰した。そして、ついに1918年7月、富山県魚津町の主婦達が米の値下げを求めて町役場に押しかけ、これが引き金となって東北などを除くほぼ全国で米屋や高利貸しが襲われる大暴動となったのである。寺内は、鎮圧のために軍隊を出動させ、米騒動に関するビラや発言を厳しく取り締まっていった。しかし、それがかえって強い批判を招き、寺内は総辞職を余儀なくされたのである。
ニックネームは「ビリケン」。長男の寺内寿一も陸軍大将・元帥。
韓国統監府設置
第二次日韓協約(乙巳保護条約)に基づいて、1905(明治38)年12月20日統監府及び理事長官制が制定された。少しさかのぼって12月18日付の桂太郎から林権助に宛てた「韓国統監府及び理事長に関する勅令の交付及び施行の件」を見てみると「統監には伊藤侯にこれをあたらるべく総務長官は侯において目下人選中なり」とある。
1.韓国京城に統監府をおく。 2.統監府に労間を置く。統監は親任(天皇自らが任命)。 統監は天皇に直属し、外交に関しては外務大臣から内閣総理大臣を経ること。 その他の事務に関しては内閣総理大臣を通して上奏をすること。 3.統監は韓国における外国領事館及び外国人関係の事務を統括する。 4.統監は韓国の秩序保持のため必要と認めたときは韓国守備軍司令官に兵力の使用を命じられる。 |
勅令第267号 「統監府及び理事長官制」(『日本外交文書』)
この「統監府及び理事長官制」の第4条の軍隊命令権がと陸軍・との間に紛糾引き起こす原因となった。大日本帝国憲法に規定されている天皇体験との矛盾である。伊藤博文は以前から統監を希望していた。山県・陸軍側は統帥権の独立という立場からこの条項に反対した。これは結果として「天皇の勅命」という形で決着をつけ、伊藤博文は文官でありながら軍事権を持つことになった。これは日本近現代史に大きな影響を与えることになる。統帥権という天皇体験と政府との矛盾=日本の国家機構の矛盾であるからだ。日本の政治が軍事中心へと変わる幕開けであった。
歴代韓国統監
第1代 | 1905.12. 1〜 | 伊藤博文 |
第2代 | 1909. 6.14〜 | 曽根荒助 |
第3代 | 1910. 5.30〜 | 寺内正毅 |
歴代朝鮮総督*
第1代 | 1910.10. 1〜 | 寺内正毅 |
第2代 | 1911. 8.30〜 | 寺内正毅 |
第3代 | 1916.10.16〜 | 長谷川好道 |
第4代 | 1919. 6.12〜 | 斎藤実 |
第5代 | 1927. 4.15〜 | 宇垣一成(臨時) |
第6代 | 1927.12.10〜 | 山梨半造 |
第7代 | 1929. 8.17〜 | 斎藤実 |
第8代 | 1931. 6.17〜 | 宇垣一成 |
第9代 | 1936. 8. 5〜 | 南次郎 |
第10代 | 1942. 5.29〜 | 小磯国昭 |
第11代 | 1944. 7.24〜 | 阿部信行 |
*韓国統監府は明治43(1910)年、韓国併合に伴い、従来の韓国統監府を「朝鮮総督府」に改変し、長官も韓国統監から「朝鮮総督」に改称された。昭和20(1945)年、終戦と共に廃止。
韓国統監
朝鮮総督
朝鮮を統治する為に日本が設置した官庁。その前身は明治38(1905)年、第2次日韓協約により大韓帝国の外交権を接収した日本が京城(現在のソウル)に設置した「韓国統監府」(長官は韓国統監)。明治43(1910)年、日本の大韓帝国併合(日鮮合邦)に伴い、従来の韓国統監府を「朝鮮総督府」に改組し、長官も韓国統監から「朝鮮総督」に改称された。昭和20(1945)年、終戦と共に廃止。
朝 鮮 総 督 | |||||
---|---|---|---|---|---|
韓国統監 | 朝鮮総督 | ||||
代数 | 就任年次 | 氏 名 | 代数 | 就任年次 | 氏 名 |
第1代 | 1905.12. 1 | 伊藤 博文 | 第1代 | 1910.10. 1 | 寺内 正毅(兼任) |
第2代 | 1909. 6.14 | 曽根 荒助 | 第2代 | 1911. 8.30 | 寺内 正毅(専任) |
第3代 | 1910. 5.30 | 寺内 正毅(兼任) | 第3代 | 1916.10.16 | 長谷川好道 |
第4代 | 1919. 6.12 | 斎 藤 実 | |||
第5代 | 1927. 4.15 | 宇垣 一成(臨時) | |||
第6代 | 1927.12.10 | 山梨 半造 | |||
第7代 | 1929. 8.17 | 斎 藤 実 | |||
第8代 | 1931. 6.17 | 宇垣 一成 | |||
第9代 | 1936. 8. 5 | 南 次 郎 | |||
第10代 | 1942. 5.29 | 小磯 国昭 | |||
第11代 | 1944. 7.24 | 阿部 信行 |
2001.8.4日付の赤旗「朝鮮にたいする植民地支配の歴史を子どもたちにどう教えるのか」
(2001年8月4日・・不破哲三)
れんだいこ改訂中
日本が明治維新を迎えた当時は、朝鮮の国名は「大朝鮮国」でしたが、1897年に、国号を「大韓帝国」にあらため、この「大韓帝国」が1910年の日本による韓国併合まで存続しました。それで、「大韓帝国」が存続していた1897〜1910年については「韓国」という呼称を使い、それ以外の時期(「大朝鮮国」の時期と日本の植民地支配の時期)については、「朝鮮」の呼称を使うことにしました。また、二つの時期にまたがって、「朝鮮(韓国)」という表現をしている場合もあります。
論文全体は、第二次世界大戦以前の歴史を検討するのが主題ですが、その叙述のなかでも、今日の問題が出てくる場合があります。そのさいには、南を表す呼称としては「韓国」、北を表す呼称としては「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)を使い、南北の全体をさす場合には、「朝鮮半島」あるいは「韓国・朝鮮」という言葉を、状況に応じて使うことにします。少し複雑になりますが、この半島の歴史の複雑さの反映として、ご了解ください。
明治維新後、近代化の道をすすみはじめた日本が、最初におこなった他民族への本格的な侵略が朝鮮併合化への歩みであり、その後の日本と朝鮮にとって、またアジアにとって、たいへん重大な意味をもった出来事でした。
「歴史教科書」派は、次のように背景事情を説明する。「東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて、海に浮かぶ島国である。この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時、朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地(こうはいち)をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となると考えられていた」、「ロシアは満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が到底、太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争を始める決意を固めた」、「1904(明治37)年2月、日本は英米の支持を受け、ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)」、「日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府(とうかんふ)を置いて支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス、アメリカ、ロシアの3国は、朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので、これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)」。
つまり、当時の国際政治の流れを踏まえて、日本の「安全保障」という見地から考えると韓国併合が必要であった論を説いている。この経過説明で特徴的なことは、「日本の安全保障」についての話はあるが、独立国である朝鮮(韓国)からその主権と独立を奪って植民地にすることが、いかに不法な、犯罪的なことであるか、の説明が一言もないことです。ましてや、その行為が、植民地化された朝鮮(韓国)の人民にとって、どういう意味をもったのか、相手の側にたってのことの本質の解明は、何一つありません。
だいたい、どの国でも、自分の安全保障について真剣に考えるのは、当然のことですが、そのために必要だからといって、他国の領土を侵略したり、他国を植民地にしたりする権利は、誰(だれ)ももちません。ところが、この『教科書』が前面に押し出している「安全保障」論とは、自国の安全保障のためには、他国の領土に手を出すこともやむをえないということで、それを、いかにも国際政治の上では当たり前の論理であるかのような調子で説明しています。この論法は、明治以来、日本が戦争や侵略をやるたびに、その正当づけのためにもちだしてきたものですが、その立場に立つと、安全保障のために必要な領土拡大の範囲は、どこまでもふくれあがってゆきます。
いま引用した『教科書』の説明でも、最初の時期についての第一の引用では、「日本の安全」だけを問題にしていましたが、日露戦争で中国の東北部(当時の満州)に権益を獲得してからのことを説明した第二の引用では、「日本の安全」に「満州の権益」なるものの防衛がくわわっています。
これは、日本がアジアに侵略の手を広げた現実の歴史でもちだされた論法ですが、それがやがては、「満州の権益」の防衛のためには満州全土の占領が必要だという論法になり、さらには日本の勢力圏を中国に拡大しないと危ないという理屈に発展し、ついには「中国の権益」の防衛のためには、東南アジア侵略と対米英戦争が避けられないと、太平洋戦争にまで拡大していったのです。これこそ、帝国主義者の論理にほかなりません。
『歴史教科書』が、子どもたちに、植民地支配への歴史的な反省を教えるのではなく、こういう論法を前面に押し出して、韓国併合は“やむをえなかった”という歴史認識を教え込むものになっていることは、たいへん重大なことです。
不破のこうした見地は道徳批判論に過ぎない。
開国要求の最初から、軍隊を動員しての脅かし外交だった。
(イ)「日朝修好条規」の締結(一八七六年)
まず、明治初年の朝鮮開国のいきさつです。当時、中国は、満州(東北地方)から出た清(しん)王朝の統治下にありました。そして、朝鮮の支配権を、この清と争うというのが、日本の対朝鮮政策の最初からの基本となった。
【朝鮮開国のいきさつ】
「〔清との国交樹立の〕一方、これに先立って、日本軍艦が朝鮮の江華島(こうかとう)で測量をするなど示威行動をとったため、朝鮮の軍隊と交戦した事件(江華島事件、1875年)をきっかけに、日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く迫った。その結果、1876(明治9)年、日朝修好条規が結ばれた。これは朝鮮側に不平等な条約だったが、長らく懸案であった朝鮮との国交が樹立した」(200ページ)。
実際の交渉は、「強く迫った」などという生やさしいものではありませんでした。政府の公式文書にも記録されている実際の経過は、次のとおりです。 「明治の初めごろは、朝鮮は“鎖国”に固執していて、日本をはじめ外国からの貿易要求になかなか応じようとしませんでした。それにたいして、日本は、一八七六年(明治9)、日朝修好条規で開国を認めさせたのですが、そのときの交渉が、すさまじいものでした。特派全権大使に任じられたのが、陸軍中将黒田清隆(きよたか)で、軍艦六隻、砲兵一個小隊、歩兵一個中隊をひきつれて、韓国〔朝鮮〕にのりこんだというのです。最初から武力の威嚇による開国要求でした。日本自身、アメリカのペリー艦隊の武力に威嚇されて開国に踏み切ったから、弱い相手に同じことをやってやろう、この根性が見え見えでした(『日本共産党綱領を読む』34ページ)」。『教科書』が「強く迫った」と書いていることの実際の内容は、独立国のあいだの外交交渉では考えられない、陸海の大兵力をひきつれての、文字通りの「武力による威嚇」だったのです。
(ロ)日清戦争(一八九四〜九五年)
〔教科書〕「1894(明治27)年、朝鮮の南部に東学(とうがく)の乱(甲午〔こうご〕農民戦争)とよばれる農民暴動がおこった。……わずかな兵力しかもたない朝鮮は、清に鎮圧のための出兵を求めたが、日本も甲申(こうしん)事変後の清との申しあわせに従い、軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まった」(218ページ)。
「東学の乱」とは、キリスト教など西洋の思想・宗教に対抗して「東学」をかかげたことから出た呼び名ですが、性格は、体制に抵抗する農民運動でした。また、「甲申事変」とは、一八八四(明治十七)年、金玉均(きんぎょくきん)らの独立党がおこしたクーデターのことです。日本軍はこのクーデターに加担しましたが、清の軍隊が出動して、日本軍を撃退し、クーデターでつくった政権もわずか二日で崩壊したのです。その事変のあと、日本は、清国と天津条約(一八八五年)を結んで、“将来、朝鮮に変乱があって出兵するときにはたがいに通告しあう”ことを取り決めていました。
だいたい、この文章によっても、朝鮮が出兵を依頼したのは清国だけで、日本には出兵の依頼はありません。つまり、朝鮮側の意思を無視しての出兵だったのです。では、何を根拠にして日本が出兵したのかというと、甲申事変(一八八四年)後の清との申しあわせ(天津条約)に従っての出兵だとされます。こうして、「清との申しあわせ」が根拠だと言いながら、出兵した日本軍が清国の軍隊と衝突して日清戦争が始まったというのですから、まったく矛盾だらけの叙述と言わざるをえません。
では、私の説明を聞いてください。さきの引用に続く文章です。「次は、日清戦争――中国との戦争の始まる瀬戸際での話です(一八九四年・明治27)。清国への宣戦布告の十日前に、日本軍が朝鮮の王宮を占領し、朝鮮の軍隊を全部城外に追い払い、国王をとりこにして、日本側につくことを約束させました(『日本共産党綱領を読む』34ページ)」。
宣戦布告が八月一日、その約十日前の七月二十三日のことでした。当時、日清の開戦を目の前にして、朝鮮の内部では、日本と清国のどちらにつくかが問題になっていました。朝鮮が清国についたら、戦争の大義名分がなくなると考えた日本は、先手をうって朝鮮の王宮を占領し、“清国を追い払ってくれ”という要請を国王からむりやり取りつけ、「開戦の口実」をつくりだしたのでした。
(ハ)閔妃(びんひ)暗殺事件(一八九五年)
日清戦争にかかわる問題でさらに重大なことは、『歴史教科書』が、戦争直後の一八九五年十月八日に起きた重大事件、国王の妃が日本の公使の命令で暗殺されたという事件について、まったく沈黙をまもっていることです。朝鮮の王妃・閔妃は、日本の朝鮮支配に反対する中心人物でした。これによって、日本政府は、朝鮮支配への最大の障害の一つを取り除いたのでした。
「それで、この戦争〔日清戦争〕が日本の勝利に終わると、国王の夫人の閔妃(びんひ)が日本反対の流れの中心だといって、今度は、日本の軍人や警察官、無頼の浪人たちなどが深夜王宮を襲撃して、王妃を殺してしまいました(閔妃殺害事件、一八九五年・明治28)。その後、『明治天皇記』をつくるために政府が各省に出させた資料には、この殺害事件は「三浦公使の命令」によるものだったと書いた陸軍省関係の報告書が収められています。当時の「公使」というのは、いまの大使のことで、日本から派遣された大使が、邪魔になる王妃を平然と殺してしまう、こんな無法までやって朝鮮の政界の反日派をおさえこんだのでした(朝鮮は、その二年後の一八九七年に、国名を「大韓帝国」とあらためました)(『日本共産党綱領を読む』34〜35ページ)」。
(ニ)日韓保護条約(一九〇五年)
日露戦争のあと、日本は韓国に、「日韓保護条約」を押しつけました(一九〇五年十一月)。この条約は、韓国から外交権をとりあげること、韓国に日本の「統監」を置くことなどを決めて、これによって、韓国は、日本に従属する「保護国」に変えられてしまいました。
『歴史教科書』は、この条約については一言も触れず、ロシアとの講和条約(ポーツマス条約)で「日本は、韓国(朝鮮)……の支配権をロシアに認めさせ」た(223ページ)とか、「日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった」(240ページ)など、日本の韓国支配がいかにも日露戦争の当然の結果であったかのように書いています。しかし、この条約も、日露戦争の自動的な産物などではなく、韓国側とは事前の何の協議もなしに、武力によって韓国に押しつけられたものでした。
――〔不破〕一九〇五年(明治38)、日露戦争が終わったあと、今度は「韓国保護条約」というものを押しつけて、韓国を主権をもたない日本の従属国に変えてしまいます。この条約も、伊藤博文と韓国駐在軍の司令官長谷川大将が、憲兵を引き連れて王宮におしいり、強引に「調印」させたものです。このとき、王宮の外では、日本軍の歩兵一個大隊、砲兵中隊、騎兵隊が「演習」と称して示威的な軍事行動をとっていました(『日本共産党綱領を読む』35ページ)。
講義ではそれ以上たちいった説明をしませんでしたが、ここでちょっと補足しておきましょう。条約押しつけの前の月十月に「韓国保護権確立実行」に関する「閣議決定」がおこなわれ、即日天皇の裁可をえていますが、そこには、韓国政府がこれを受け入れなかった時には、韓国および列国に、日本が保護権を確立したということを一方的に通告・説明するという方針まで、書きこまれていました(『日本外交年表竝主要文書 一八四〇〜一九四五』上・外務省編)。政府の公文書にそこまで明文で記録された無法行為だったのです。
(ホ)韓国併合(一九一〇年)
その五年後に、いよいよ日本は韓国の併合、むきだしの植民地支配にまで突きすすみました。
『歴史教科書』は、はじめの部分に引用したように、どの大国も異議をとなえなかったという国際事情を紹介したうえで、「こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)」(240ページ)と淡々と書いています。
しかし、実態は、そんな淡々としたことではありませんでした。「保護条約」体制のもとで、それまでに日本の韓国支配はいよいよ重大なものとなっていたとはいえ、植民地化というのは、民族の独立と主権を完全に奪われて、他国の全面的な支配下におちこむことです。それを強行するためには、一部の「反対」というだけではなく、韓国の政府と人民の全体を「武力」で威嚇することが必要でした。例によって、陸海軍を大規模に動員し、さらに首都に戒厳令を敷いたうえでの「併合条約」の調印でした。
――〔不破〕そのあと〔保護条約のあと〕が、韓国を決定的に日本の植民地にした一九一〇年(明治43)の「日韓併合条約」です。このときも、陸上では騎兵と歩兵の部隊が二千数百名、海上では艦隊が示威行動をおこない、首都ソウルを戒厳下においたもとでの条約「調印」でした。
このように、周りからは、まだ生まれたばかりの若い国と見られていた日本が、こと朝鮮(韓国)にたいしては、最初の「開国」要求の段階から武力の威嚇をくりかえし、清国、ロシアなどの競争相手を戦争でおしのけながら、わずか三十年あまりで、日本の植民地にするところまでもってきてしまったのです(『日本共産党綱領を読む』35ページ)。
いま、韓国併合にいたる過程を、五つの重要な節目を中心に見てきました。これを見るだけでも、韓国併合が武力の威嚇と行使を中心にした、いかに無法なものであったか、その歴史を平和的なものに描きだす『歴史教科書』の記述が、現実の歴史をいかに不当にゆがめたものであるかを、理解していただけると思います。
歴史をゆがめる第三の角度は、『歴史教科書』が、朝鮮にたいする植民地支配の本質を、“悪い面もあったが、よい面もあった”とする二面的な評価でごまかそうとしていることです。“よい面”というのは、経済開発などの問題をあげて、そこには、進んだ国が、おくれた国にあたえる恩恵があったとする議論です。
この議論は、併合にいたる過程の歴史記述のなかにも、色濃く出ていました。たとえば、『歴史教科書』は、開国後の日本の対朝鮮政策の基本が、朝鮮の近代化への援助にあったとして、次のように書いています。
「日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは、日本の安全にとっても重要だった」(217ページ)。
これは、明治政府の意図をもゆがめた明らかな歴史の書き換えです。日本政府は、韓国併合の前年、一九〇九年七月の閣議決定「韓国併合に関する件」のなかで、「韓国を併合し之(これ)を帝国版図(はんと)の一部」とすることは「帝国百年の長計」だった、と明言しています。つまり、明治政府が成立して開国要求を突きつけた最初の時から、朝鮮の「近代化」への善意の援助どころか、朝鮮(韓国)の併合を大目的としていたと、自分で告白しているのですから。
このゆがんだ評価は、韓国併合後の朝鮮の状態の叙述にも引きつがれてゆきます。
「韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた」(240ページ)。
これは、“悪い面もあったが、よい面もあった”論の典型です。文章のしくみからいうと、「鉄道・潅漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した」という“よい面”の方が主文で、耕作地から農民が追われたとか日本語教育などの同化政策などの“悪い面”は補足文です。朝鮮(韓国)が主権と独立を奪われて、他国の支配のもとにおかれたという植民地化の核心については、まったく触れられません。
だから、文章の全体から受ける印象は、“日本の朝鮮支配は、経済面では朝鮮の発展に役立った、しかし、部分的には、まずいこともあったのだな”という程度のことにならざるをえないでしょう。
しかも、これにつけくわえなければならないのは、植民地支配下の朝鮮のその後の説明のなかで、国際的にもいま大問題になっている「従軍慰安婦」について、記述しないままで済ませていることです。この記述を脱落させたことについては、韓国政府がその修正要求のなかでも特別に重視している点ですが、朝鮮問題にたいする『歴史教科書』の姿勢は、ここにも端的に表現されています。
『歴史教科書』のこの文章を読むと、一九六五年の日韓交渉のさいの高杉発言を思い出します。この交渉で日本側の首席代表となった高杉晋一氏(三菱電機相談役・当時)が、就任翌日の一月七日、外務省での記者会見で、日本の朝鮮支配について次のように語り、韓国側がこれに抗議して、交渉は一時決裂寸前の状態におちいったのでした。
「三十六年間、日本は朝鮮を搾取したわけではない。善意でやったわけである」。
「あやまれというのはどうか――交渉は双方の尊厳と国民感情を傷つけないようにやらなければならない。国民感情としても、あやまるわけにはいかないだろう。
日本は朝鮮を支配したというけれども、わが国はいいことをしようとしたのだ。いま韓国の山には木が一本もないというが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからで、もう二十年日本とつきあっていたら、こんなことにはならなかっただろう。……日本は朝鮮に工場や家屋、山林など、みなおいてきた。創氏改名〔日本式の姓名をつけること――不破〕もよかった。それは朝鮮人を同化し、日本人と同等に扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫とかいったものではない」(日本ジャーナリスト会議「高杉発言の経過と内容――調査報告」から、同会機関紙『ジャーナリスト』一九六五年一月二十五日号)。
ここにあるのは、植民地支配者の思い上がった傲慢(ごうまん)さそのものでした。
経済の「開発」に貢献したから“よいことをやった”という議論には、二重のごまかしがあります。第一は、他国を植民地化するということの根本的な犯罪性に、まったく目をつぶっていることです。第二は、日本が朝鮮で鉄道や工業の開発をおこなったのは、日本自身の利害、とくに朝鮮を中国侵略戦争の根拠地にするという必要からであり、日本がやったのは、全体としては、朝鮮の資源と労働力の略奪だった、という事実にも、目をふさいでいることです。
日本政府は、一九六五年の日韓交渉のさい、いろいろ言い訳をしましたが、この高杉発言を取り消すことはしませんでした。私たちは、植民地支配を“恩恵”だとするこの議論が、植民地支配にも“よい面があった”という多少形を変えた姿で『歴史教科書』のなかに再現していることを、見過ごすわけにはゆきません。
* *
いま、『歴史教科書』が、朝鮮の植民地支配の歴史をゆがめた三つの角度を見てきました。全体に共通していることは、
――植民地支配の犯罪性について反省する立場がどこにもないこと、
――さらに歴史の叙述そのものが、武力による併合と支配の過程をできるだけ平和的に描きだしていること、
――日本側の「善意」の側面をおしだすことで、植民地支配の正当化論に大きく傾いていること、
です。
日本の将来をになう世代が、日本と韓国・朝鮮との歴史的な関係、とくに三十五年にわたる植民地支配とそれにいたる抑圧の歴史について、どういう見方を身につけるか――これは、日本と隣国である韓国・朝鮮との将来にとって、ほとんど決定的な意味をもつ問題です。三つの角度で歴史をゆがめ、植民地支配の正当化論に大きく傾いた『歴史教科書』が、この点でも危険な役割をはたすことを、きびしく指摘せざるをえません。
日清戦争への評価は、古くから東アジアを支配してきた中華帝国とその支配体制(中華秩序)を新進の近代国家・日本が打ち破ったところに、日本の勝利の世界史的意義を認めるという評価です。
まず、『歴史教科書』では、明治初年の東アジアの状況が、近代国家をめざす日本と、古い中華秩序が支配するその他の東アジアとが対立するものとして、描きだされます。
「日本は明治維新を経験して、近代国民国家を目指し、欧米列強がつくりあげてきた国際法(……)を受容しようとしたのである。
一方、中国や朝鮮、ベトナムなどは、欧米とはまったく異なる、古くから続く国家概念に従っていた。古来、東アジアには、中国を中心とする中華秩序が存在した。朝鮮やベトナムは、すっぽりその内部におさまって、中国の歴代王朝に服属していた。
むかしから中華秩序の影響がうすかった日本は、このとき、自由に行動できた」(198ページ)。
朝鮮、ベトナムなどの東アジア諸国を一律に中国の歴代王朝への「服属」国と決めつけるこのアジア観は、おそらく東アジアの諸国からの多くの異論を覚悟しなければならないものでしょう。そこには、東アジアのこれらの国ぐにの独自の歴史を軽くみて、世界を自分の好みの図式に主観的にはめこむという、執筆者たちの特有の立場が色濃く反映しているように思われます。
しかし、執筆者たちには、日本の役割をひきたたせ、日清戦争の世界史的な意義を強調するためにも、こうしたアジア観の強調が必要だったのでしょう。
ここから、次のような日清戦争論が出てきます。
「日清戦争は、欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国との対決だった。『眠れる獅子』とよばれてその底力をおそれられていた清が、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの中華秩序は崩壊した。その後、列強諸国は清に群がり、たちまちそれぞれの租借地(そしゃくち)(他国の領土を借り受けた土地)を獲得し、中国進出の足がかりを築いた」(219ページ)。
たしかに、日本が東アジアの大国・中国に勝ったことは、世界を驚かせました。そして、これを転機に、「列強諸国」が中国に群がって租借地という形での分割競争を開始したのも事実です。フランス・広州湾、ロシア・遼東半島南部、ドイツ・膠州湾、イギリス・九竜半島・威海衛などの租借地は、すべて日清戦争後の一八九五〜九八年に、各国が競争で手に入れたものでした。
しかし、『歴史教科書』の執筆者たちが、忠実に歴史を叙述しようというのだったら、日本が戦勝を利用して、中国から「台湾」と「遼東半島」を奪うという領土拡張の挙に出たことに、なぜもっと注意の目を向けないのでしょうか。『歴史教科書』では、列強諸国の「中国進出」についての叙述には、いくらかの批判的な口調を感じますが、中国との講和条約・下関条約で日本が「遼東半島と台湾」を手に入れたことの記述には、なんの批判的な調子もみられません。つまり、日本が、はじめて他国の領土を植民地化するという道に踏み出したことを、批判的に見ようとする歴史の目は、ここにはまったく存在しません(遼東半島は、講和条約の直後のロシア、ドイツ、フランス三国の干渉で、清国への返還を余儀なくされました)。
ここには、第二次世界大戦を経た私たちが、歴史をふりかえるうえで、たいへん重要な問題の一つがあります。
第二次世界大戦中、連合国のカイロ宣言は、満州とともに、「台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域」を中国に返還させることを、戦争目的の一つとして決定しました。そして、日本はポツダム宣言を受諾して、一九四五年、台湾と澎湖島を中国に返還しました。
私は、日本は、一八九五年に台湾を中国からとりあげて植民地にし、一九四五年にその台湾を中国に返還した国として、世界の他のどの国よりも、「一つの中国」という原則を国際政治のなかで守り抜く責任を負っていると考えています。台湾問題というのは、日本と中国との関係の歴史のなかで、それだけ重要な意味をもつ問題です。
若い世代に歴史を正確につかんでもらうためにも、資本主義国として出発した日本が、まだ若い最初の時期に、領土拡張主義という道に踏み出したことの誤りについて、きちんと書くことが必要だと思います。
日露戦争にたいする『歴史教科書』の評価もきわめて異様な特殊さをもったものです。
「近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が、当時、世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは、世界中の抑圧された民族に、独立への限りない希望を与えた」(223ページ)。
『教科書』はここで、「有色人種の国日本」に「世界中の抑圧された民族」をダブらせ、「白人帝国ロシア」に世界のすべての帝国主義列強の姿をダブらせて、日本の勝利を、被抑圧民族の独立のたたかいの号砲となったかのように、歴史を叙述しています。そして、その裏付けとして、中国革命の父・孫文、インドの独立運動家・ネルー(のちの首相)、イランの詩人・シーラーズイー、エジプト民族運動の指導者・ムスタファー・カミールの、日本の勝利を評価した言葉を、わざわざ収録しています(「日露戦争と独立への目ざめ」同ページ)。
ここにも、『歴史教科書』の執筆者たちの二重、三重のごまかしがあることを指摘しなければなりません。
第一に、帝国主義と植民地世界の対立を、「白人」と「有色人種」との対立にすりかえることは、「有色人種の国日本」を、最初から帝国主義の枠外のものとする作為的な論法です。この論法によれば、日本は「有色人種」の国だから、アジアの諸民族にたいして何をやっても許されるということになるわけで、これは、この『教科書』全体を流れる大きな基調の一つともなっています。
第二に、『教科書』の執筆者たちは、日露戦争での日本の勝利が、「独立への目ざめ」となったことを、口をきわめて強調しながら、その日本が、講和の条件として、ロシアからアジア諸民族にたいする侵略と支配の権利を譲りうけ、「白人帝国ロシア」と同列の帝国主義的支配者にのしあがっていった事実については、何の批判の目もむけていません。
「アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果、1905(明治38)年9月、ポーツマス条約が結ばれた。この条約で日本は、韓国(朝鮮)(1897年、朝鮮は国号を大韓帝国と改めた)の支配権をロシアに認めさせ、中国の遼東半島南部(のちに、日本は関東州とよぶ)の租借権を取得し、南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け、南樺太の領有を確認させた」(223ページ)。
日本が「抑圧された民族」の独立の味方であるのならば、どうして、韓国(朝鮮)の支配権をロシアに認めさせたり、中国の領土である満州にロシアがもっていた遼東半島南部の租借権や鉄道の権益を譲り受けたりすることができるのでしょうか。『教科書』が「抑圧された民族」というのは、世界の別の地域で「白人帝国」に抑圧されている民族のことで、韓国(朝鮮)や中国は「抑圧された民族」には入らない、とでも言うのでしょうか。
執筆者たちは、そこに何の矛盾も感じていないようですが、肌の色のちがいをむりやり歴史の主役にして、もっぱら「白人」と「有色人種」の対立というモノサシで世界を見る――こんな人種主義の見方にたっていたのでは、歴史を書く資格そのものが疑われても仕方がないでしょう。
第三に、「日露戦争と独立への目ざめ」についての世界のいろいろな人びとの評価についていえば、日本がその後、アジア諸民族の独立を擁護する道にはたたず、帝国主義列強と同じ他民族の植民地化や抑圧の道を歩んでゆくなかで、日本にたいする国際的な評価はきびしく訂正されてゆきました。『歴史教科書』がその言葉を引用している孫文やネルーが、日本の中国侵略という現実を目の前に、民族解放の闘士として、日本帝国主義にたいする強烈な批判者となったことは、よく知られた事実です。
そのことをきちんと紹介しなければ、歴史教科書に必要な公正さの欠如を指摘しなければなりません。
このように、日清戦争を東アジアを支配してきた「中華秩序」を打ち破った戦争と評価し、日露戦争を「白人帝国」を打ち負かして「世界中の抑圧された民族」に「独立の希望」をあたえた戦争と意義づけ、アジア諸民族の領土と主権を侵害する日本自身の領土拡張主義には目を閉ざす『歴史教科書』の戦争観は、中国侵略戦争にたいするゆがんだ歴史叙述を経て、「大東亜戦争」肯定論へとそのままつながってゆくのです。
2001年7月15日(日)「しんぶん赤旗」
この小論では、問題の歴史教科書がこの戦争をどう描いているか、一九四一年以後の歴史叙述を中心に、その内容を紹介し、問題点を明らかにしたいと思います。
まず、一九四一年十二月八日の対米英戦争はどうして起こったのか――真珠湾攻撃にいたる道筋を、この『歴史教科書』がどう説明しているのかという問題から、検討しましょう。
戦前の日本の政府・軍部の説明は、「アメリカ(A)イギリス(B)中国(C)オランダ(D)」が「日本包囲網」をつくって、日本を経済的に追い詰めてきた、その「経済封鎖」を打ち破るための「やむにやまれぬ戦争」だった、というものでした。
ところが、『新しい歴史教科書』は、「〔67〕第二次世界大戦の始まり」の最後に「経済封鎖で追いつめられる日本」という項目をたて、「ABCD包囲網」という、言葉まで同じものを使って、当時の政府・軍部の説明をそのまま蒸し返しています。
「日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして、アメリカ(A)・イギリス(B)・中国(C)・オランダ(D)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成された」(274ページ)。
石油問題というのは、日本が中国への侵略戦争を継続するために石油を必要としたが、その石油の購入を、アメリカからもオランダからも断られた、という問題です。それを口実に、それなら、戦争でインドネシアの石油を武力で手に入れようというのが、日本軍部の戦争合理化論でした。しかし、そんな強盗の理屈は、当時の世界でも通用しませんでした。ところが『歴史教科書』は、その“強盗の理屈”を平気で蒸し返しているのです。
それにくわえて、『歴史教科書』が強調しているのは、日米交渉を決裂させた責任はアメリカにあると言わんばかりの、日米交渉論です。
「1941年春、悪化した日米関係を打開するための日米交渉が、ワシントンで始まった。日本はアメリカとの戦争をさけるため、この交渉に大きな期待を寄せたが、アメリカは日本側の秘密電報を傍受・解読し、日本の手の内をつかんだ上で、日本との交渉を自国に有利になるように誘導した」(274〜275ページ)。
この間、日本は七月に、当時フランス領だったいまのベトナム南部の軍事占領を強行します。いよいよ南方作戦の火ぶたを切ろうと、東南アジア侵攻の前線拠点を手にいれたのです。『歴史教科書』は、この事実だけは紹介するものの、日米交渉の経過説明では、日本に「強硬な提案を突きつけた」アメリカの責任がもっぱら強調されます。
「日本も対米戦を念頭に置きながら、アメリカとの外交交渉は続けたが、11月、アメリカのハル国務長官は、日本側にハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけた。ハル・ノートは、日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府は、最終的に対米開戦を決意した」(275ページ)。
要するに、日本政府は、中国への侵略戦争を正当だとして、中国から撤兵しない立場にあくまで固執したわけで、ここに日米交渉の最大の問題があったのですが、『教科書』の執筆者たちには、日本政府のこの立場を批判する考えはまったくないのです。
ハワイ・真珠湾にいた米艦隊への奇襲攻撃。マレー半島上陸作戦とシンガポール陥落、フィリピン、インドネシアの占領――戦争の最初の段階では、日本軍は「大戦果」をあげました。『歴史教科書』は、最大級の言葉を連ねて、この「大戦果」をほめたたえます。
「日本の海軍機動部隊が、ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し、飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると、日本国民の気分は一気に高まり、長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降、力をつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである」(276ページ)。
続いて東南アジア作戦の勝利を、マレー半島上陸作戦からシンガポール陥落まで記述した『教科書』は、その勝利がアジア解放にもたらした意義を、高らかにうたいあげます。
「ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリピン・ジャワ(現在のインドネシア)・ビルマ(現在のミャンマー)などでも、日本は米・蘭・英軍を破り、結局100日ほどで、大勝利のうちに緒戦を制した。
これは、数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた、現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は、東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ」(276〜277ページ)。
『教科書』は続いて、日本政府が、この戦争を「大東亜戦争」と命名したことの意義を力説します。
「日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(戦後、アメリカ側がこの名称を禁止したので太平洋戦争という用語が一般的になった)。日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、『大東亜共栄圏』を建設することであると宣言した。日本に続いて、ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告した。こうして、日・独・伊に対抗して、米・英・蘭・ソ・中が連合して戦う、第二次世界大戦が本格化していった」(277ページ)。
これは、ただの歴史叙述ではありません。『教科書』は、真珠湾攻撃から沖縄戦にいたる項の全体に、わざわざ「〔68〕大東亜戦争(太平洋戦争)」という題名をつけています。つまり、日本政府が命名した「大東亜戦争」という呼び名の方が、この戦争の性格をより正しく表現しているという価値判断を、明確にくだしているのです。なぜ、この呼び名の方が正確なのか。それは、『教科書』の執筆者たちが、この戦争を、「大東亜戦争」という呼び名にこめられた戦争目的――日本の「自存自衛」、アジアの欧米からの解放、大東亜共栄圏の建設――どおりの戦争だと考えているからです。
なお、興味深いのは、当時、日本の戦争目的としてもっとも広く宣伝されたスローガン――「八紘一宇」については、まったく沈黙していることです。これは、“天皇の支配下に世界を統一する”という意味のスローガンで、神の国・日本が支配者として「大東亜共栄圏」に君臨するという覇権主義をあからさまに示したものです。さすがの執筆者たちも扱いに困って、沈黙をまもることにしたのでしょう。“都合の悪いものは歴史から削り落とす”という執筆者たちのご都合主義を思わず暴露した一例です。
『歴史教科書』の意図をいっそうむきだしにしたのは、「〔69〕大東亜会議とアジア諸国」という特別の項をおこして、アジア解放に果たした日本の役割なるものを、ことさらに前面に押し出していることです。
「戦争の当初、日本軍が連合国軍を打ち破ったことは、長い間、欧米の植民地支配のもとにいたアジアの人々を勇気づけた」(280ページ)。
日本の勝利がアジアを勇気づけ、独立の気運を高めたというのは、この『歴史教科書』が、何度となく繰り返しているきまり文句ですが、これほど、歴史の真実から遠く離れた断言はありません。
日本の戦争目的は、アジアの解放などではありません。これらの地域からフランス、イギリス、オランダなどこれまでの植民地支配者を追い出して、日本が新しい支配者としてとってかわるというのが、戦争目的で、政府・軍部は、この戦争目的を「東亜の解放」という美しい言葉でごまかそうとしたのです。日本が占領した地域では、日本軍はただちにきびしい軍事支配の体制を敷き、住民の虐殺などの野蛮な行為を、各地でおこないました。たとえば、一昨年私が訪問したシンガポールでも、占領後間もない時期に、華僑系の数万の住民が虐殺され、その犠牲者を追悼する「血債の塔」が市の中心部に建てられています。
『教科書』は、この戦争がアジア解放の戦争だったことの何よりの証拠として、一九四三年に開かれた「大東亜会議」をもちだしていますが、これもたいへんこっけいな議論です。
「日本の指導者の中には、戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておくほうがよいという考えも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたえるため、日本は1943(昭和18)年、ビルマ、フィリピンを独立させ、また、自由インド仮政府を承認した。
さらに、日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、あわせてその結束を示すため、1943年11月、この地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開催した。会議では、各国の自主独立、各国の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ、日本の戦争理念が明らかにされた。これは、連合国の大西洋憲章に対抗することを目指していた」(280〜281ページ)。
実は、この「大東亜会議」は、日本の敗色が明らかになった一九四三年五月、天皇の前でおこなわれた大本営政府連絡会議(御前会議)で決められたものでした。
この会議では、戦争体制のたて直しのために、占領下の諸地域をより緊密に戦争に協力させるための大東亜「政略」が検討されました。
この会議では、東南アジア諸国の一つ一つについて、ここは「独立」させるとか、ここは軍政のままにするとかの具体策が決められましたが、それは、アジアの解放という立場からの検討ではなく、その地域の物的・人的な資源を戦争に動員するのに、どういう形式が適当かという立場で決められた方針でした(「大東亜政略指導大綱」)。
たとえば、フィリピンとビルマには、「独立」をあたえることがここで決まりましたが、その「独立」とは、「満州国」でやったように、カイライ政府をつくらせて、アメリカやイギリスに宣戦布告させ、その国の人民を戦争に動員するというのが、実態でした。また、この会議では、「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ(カリマンタン)、セレベスは帝国領土と決定」する(注)こと、ニューギニア等はこれに準じての扱いとすることなどが確認されました。
(注)「マライ」は、現在のマレーシアとシンガポール、「スマトラ、ジャワ、ボルネオ(カリマンタン)、セレベス」は、現在のインドネシアとブルネイのことです。
御前会議は、こうして、東南アジアの大部分を、直接「帝国の領土」とする方針を、公式に決定したのです。
そして、日本のこうした領土拡張主義を、世界の世論からごまかすための隠れ蓑(かくれみの)として、この会議で開催が決定されたのが、『歴史教科書』がその意義をたたえてやまない「大東亜会議」でした。
しかし、この会議は、アジア諸国の独立への道筋を明らかにするどころか、「大東亜各国は相提携して大東亜戦争を完遂」する(「大東亜共同宣言」)と、戦争協力の一色で塗りつぶされたのです。
『教科書』は、「大東亜共栄圏」にもまずいことはあったという言い方で、日本語教育や神社参拝、戦局悪化のなかでの現地の人々の過酷な労働への動員などについても、一応は触れています。しかし、それはあくまで、立派な戦争目的の戦争にも、部分的には否定面もあるといった位置づけでの叙述で、戦争の侵略的性格への批判はまったく出てきません。
さらに、『教科書』は戦後の変化に筆をすすめ、インドネシアが独立をかちとったのも日本のおかげ、インドが独立をかちとったのも日本のおかげと思わせる口ぶりで歴史を語ったあと、日本の戦争(日本軍の南方進出)とアジア諸国の独立との関連を、次の文章でしめくくっています。
「これらの地域では、戦前より独立に向けた動きがあったが、その中で日本軍の南方進出は、アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった」(282ページ)。
アジア侵略の戦争を、アジア解放の戦争と言いくるめる――これは、日本の戦争の歴史の、あまりにも極端な、ねじまげです。アジアの諸国民は、アジアを侵略し野蛮な抑圧の限りをつくしながら、無反省にも、自分をアジアの解放者だと描きだすこのような歴史のつくりかえは、絶対に許さないでしょう。
一九四二年のミッドウェー海戦とガダルカナル攻防戦を転機として、日本の緒戦の勝利から、敗戦に向かう日本の敗退の過程が始まりました。
『歴史教科書』の叙述は、この点でも、きわめて異常です。戦時中の日本では、ラジオのニュースでの敗戦の報道は、必ず「海征かば」の音楽に始まり、日本軍の英雄的な勇戦奮闘への賛辞で飾られるのがつねでした。『教科書』の叙述も、いわゆる「玉砕」などを英雄的な抵抗戦としてたたえる文章で、すべてが組み立てられています。
「8月、ガダルカナル島(ソロモン諸島)に米軍が上陸。死闘の末、翌年2月に日本軍は撤退した。アリューシャン列島のアッツ島では、わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず、弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け、玉砕していった。こうして、南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で、日本軍は降伏することなく、次々と玉砕していったのである」(278ページ)。
この異常さは、「特攻」作戦の叙述となると、すでに異常の域さえこえて、“戦意高揚”をめざした戦争中の軍部の宣伝文句そのままの調子がむきだしになってきます。
「1944(昭和19)年秋には、米軍がフィリピンに進攻した。……同年10月、ついに日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦で、『神風特別攻撃隊』(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである。追いつめられた日本軍は、飛行機や潜航艇で敵艦に死を覚悟した特攻をくり返していった。飛行機だけでも、その数は2500機を超えた」(278〜279ページ)。
この調子は、沖縄戦の叙述にもそのまま延長されます。
「1945(昭和20)年4月には、沖縄本島でアメリカ軍とのはげしい戦闘が始まった。……沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、一般住民約9万4000人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した」(279ページ)。
この執筆者たちには、「特攻」の悲劇も、沖縄の悲劇も、英雄的な戦争叙事詩の対象でしかないのです。
さらに驚くべきことは、この『教科書』が、この戦争が正義の戦争だと信じて戦死した二人の若い特攻隊員の遺書の全文を掲載して、それを材料の一つとして、戦争の問題を考えるよう、子どもたちにすすめていることです。
この遺書は、一つは十九歳の青年がまだ会ったことのない妹(おそらく出征後に生まれた妹でしょう)にあてたもので、「マイニチ クウシュウデコワイダロウ。ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ デカイボカンニ タイアタリスルヨ。ソノトキハ フミコチャント ゴウチンゴウチンヲウタッテ ニイサンヲ ヨロコバセテヨ」(毎日空襲で怖いだろう。兄さんが仇を討ってやるから でかい母艦に体当たりするよ。その時は 文子ちゃんと轟沈轟沈をうたって 兄さんを喜ばせてよ)と、カタカナで書かれています。
もう一つは二十三歳の青年の遺書です。「出撃に際して」と題するこの遺書は、すべてを捨てて「悠久の大義」に生きる、つまり、天皇の戦争に命をささげる意思を、決然たる言葉で語っています。
「懐しの町 懐しの人 今吾(わ)れすべてを捨てて 国家の安危(あんき)に 赴(おもむ)かんとす 悠久(ゆうきゅう)の大義(たいぎ)に生きんとし 今吾れここに突撃を開始す 《魄(こんぱく)国に帰り 身は桜花(おうか)のごとく散らんも 悠久に護国(ごこく)の鬼と化さん いざさらば われは栄(はえ)ある山桜 母の御(み)もとに帰り咲かなむ」
ここに記された心情には、多くの人の心をうつものがあります。無数の青年たちが、自分としては純粋な気持ちをささげ、この戦争を神聖な戦争――聖戦だと信じて、あの誤った戦争のなかで貴重な生命を失っていったのです。
ここで、重大なことは、『歴史教科書』が、この二つの遺書に続けて、子どもたちに次のような問題を提起していることです。
「日本はなぜ、アメリカと戦争したのだろうか。これまでの学習をふり返って、まとめてみよう。また、戦争中の人々の気持ちを、上の特攻隊員の遺書や、当時の回想録などを読んで考えてみよう」(279ページ)。
執筆者たちは、この遺書を、これまで展開してきた戦争観――日本の戦争は正義の戦争だった、「自存自衛」と「アジア解放」のための聖戦だったという戦争観――のしめくくりとして位置づけています。あとから書かれた歴史ではなく、あの戦争を生きた人びとの気持ちになって戦争をとらえてみようというのが、この設問の趣旨ですが、そのためには、聖戦を信じ、その聖戦に若い命をささげた特攻隊員の遺書ほど、子どもたちの心をとらえる力をもつものはない。そのことによって、あの戦争を聖戦と信じた特攻隊員の気持ちの「感情移入」ができる。おそらく、執筆者たちは、そう考えて、遺書の掲載とこの設問をおこなったのでしょう。
これは、恐ろしい、きわめて危険な打算です。そして、すでに執筆者の思惑通りの「教育」効果があがっている、という一つの事実が、最近の「朝日新聞」に報道されていました。
「『私が今ここに生きているのは特攻隊のおかげであると思います。日本のために犠牲になって、本当にありがたいことだと思います』
横浜市の市立中学校で2月、歴史を受け持つ男性教諭(38)が、『大東亜戦争』の学習の締めくくりとして、戦闘シーンを背景に特攻隊員の遺書を朗読するビデオを上映した。その授業で2年生が記した感想文だ。
『特攻隊が必要のない日本、世界にしなきゃいけない』という感想もある。が、大半は『自分の身を犠牲にした日本の偉人』といった内容だ」(「どうする教科書 採択を前に 上」 「朝日」七月二日付)。
この記事を読んで、日本の将来、アジアの将来を考えて、本当に肌寒い思いをしたのは、私一人ではないと思います。
この『歴史教科書』は、戦後の部分で、その本音をいっそう鮮やかにさらけだしています。
『教科書』は、「第3節 日本の復興と国際社会」の一項を「〔73〕極東国際軍事裁判」にあてています。その大部分は、この国際裁判には国際法上の根拠がないという、極東裁判批判にあてられています。
最後の部分では、一応、「今日、この裁判については、国際法上の正当性を疑う見解もあるが、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見もある」(295ページ)と二つの対立意見を併記する形をとって、公平性をよそおっています。しかし、これは、検定をパスさせるための形式的なまとめで、本文で詳しく紹介されているのは、極東裁判を国際法上不当だとする論点だけです。
「この裁判は、日本が九か国条約や不戦条約に違反したということを根拠にしていたが、これらの条約には、それに違反した国家の指導者を、このような形で裁判にかけることができるという定めはなかった。
また、『平和に対する罪』は、自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とするものであったが、こうした罪で国家の指導者を罰することも、それまでの国際法の歴史ではなかった。……裁判官はすべて戦勝国から選ばれ……」(294ページ)。
こういう批判を十二行にわたって展開したうえで、最後にわずか三行、両論併記の“結論”部分に移るのですから、『教科書』を読んだ子どもたちの頭には、極東裁判は、何の根拠もない、戦勝国が勝手にやったインチキ裁判だな、という印象が、深く刻みこまれる結果になる、こういうしかけになっています。
こうなると、たとえば、靖国神社の参拝問題で、この神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されていることが大きな問題になっても、そもそも“A級戦犯と認定した裁判そのものがインチキなのだから、何を問題にするのか”という議論がすぐ出てくるでしょう。
この『歴史教科書』を書いた人たちの好きな言葉に“自虐(じぎゃく)史観”というものがあります。日本人は、自分の国がやってきた戦争について、間違っていた、間違っていたと、自分を痛めつけることばかりしている、それが“自虐史観”だというわけで、外国から持ち込まれた、こういう“自虐史観”はもう捨てようではないか、というのが、この人たちの国民への最大の呼びかけでした。
しかし、実際に、他国にたいして侵略戦争などの大被害をあたえた国が、そのことについてきちんと反省するということは、国際社会で生きてゆくための当然の責任ですし、国際的な責任というだけではなく、その国と国民が、平和と民主主義の精神で自分の道を堂々と歩いてゆくためにも、欠くことのできない問題です。その当然の立場を“自虐史観”などと呼んで中傷し、他国を侵略した歴史を偽って“誇るべき歴史”につくりかえようとすることは、真実にも正義にも背を向けることであって、日本の国民の前途にも、アジアの諸国民との関係にも、とりかえしのつかない損害をあたえるものです。
『歴史教科書』が、「〔73〕極東国際軍事裁判」の最後に、「戦争への罪悪感」という見出しをたて、次のように書いて、この『教科書』の戦争観の事実上の結びの言葉としているのは、この点で、絶対に見過ごすわけにゆかない問題です。
「戦争への罪悪感 GHQは、新聞、雑誌、ラジオ、映画を通して、日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は、東京裁判とならんで、日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい、戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた」(295ページ)。
“自虐史観”という言葉は使われていませんが、言っている趣旨はまったく同じです。日本の戦争が侵略戦争だったというのは、戦勝国の一方的な宣伝にすぎない、そんな宣伝の後遺症にまどわされて、自国の戦争に対して罪悪感をもつ必要はない、というのですから、その次に出てくるべき言葉は、そんな罪悪感はすてて、日本の戦争に誇りをもとうではないか、日本は立派な戦争をやったのだと胸をはっていおうではないか、というもっとも危険な呼びかけ以外にはありません。
問題がこういう性格をもっている以上、子どもたちの教育は日本の国内問題だとして、教科書問題についての関係諸国の要請や発言を、頭から拒否する態度は許されません。日本政府は、これらの国ぐにの見解に真剣に耳をかたむけるべきです。同時に強調しなければならないのは、『歴史教科書』問題は、韓国や中国との外交交渉だけの問題ではない、ということです。
日本の戦争の歴史をもっとも乱暴にねじまげ、戦時中の聖戦論を事実上復活させるこのような戦争観が、日本の教育界で許されるかどうか――日本の政治の全体が、より広くいえば、日本の国民が、いまそのことを問われているのです。
この問題の国民的な討議のために役立つことを願い、『歴史教科書』の内容のどこが危険かをできるだけ忠実に紹介することを主眼にして、この一文を書きました。はじめにお断りしたように、今回は、紹介する内容を、一九四一年以降の歴史に限定しましたが、そこにいたる明治・大正・昭和の歴史も、いま検討してきた「大東亜戦争」肯定論と共通する立場で書かれており、多くの点でその伏線が用意されています。
これらの部分の検討は、また次の機会に譲りたい、と思います。
2001年7月14日(土)「しんぶん赤旗」
ところが、小泉外交というのは、この問題でも、わずか二カ月半のあいだに、本当に危険な姿をあらわにしました。
第一はアメリカとの関係です。いま、日本とアメリカのあいだに、沖縄の問題、経済の問題など、国民の立場からは、言いたいこといっぱいあるでしょう。ところが最初の日米首脳会談に乗り込んだ小泉さんは、行きの飛行機の中で、「私は根っからの親米派だ」と言いました。個人の趣味の問題ならいいけれども、「根っからの親米派」で、言いたいことも言えない外交では困るのです。そして会談は実際、そういうものになりました。
沖縄の暴行事件があった後で開かれた会談なのに、小泉さんはブッシュ大統領に、この問題について一言も言いませんでした。
それから京都議定書という問題があります。いま、ここを通っている自動車や工場から出すガスが、二酸化炭素などで地球の空気をずっと汚し、それで地球の大気が暖まって、二十一世紀には、人類の破滅にもつながる。それを心配して、京都に世界各国が集まり討議をかさね、この排出ガスを減らそうじゃないかという取り決めを結びました。そのときには、アメリカもずっと議論に参加してこの取り決めに合意しました。
そのときまとめ役となった議長国が日本でした。日本はとりわけ責任がある国です。ところがアメリカは、ブッシュ大統領になってから、おれはイヤだと急に言い出した。自動車会社など経済界が反対しているからという理由が背景にあるようです。しかし、あれだけ長い議論をやって、自分も合意してサインをしたのに、それがイヤだといきなり言い出したのですから、日本の政府の代表なら、これをまとめた議長の国の責任として、それはおかしいじゃないかとアメリカに言うのが当たり前でしょう。
しかし、小泉さんはこの問題でも、アメリカにはっきりものを言えないまま帰ってきました。
みなさん、「改革」「改革」と言うけれども、小泉さんの頭の中には、自主外交とか、自立外交とかいうことはこれっぱかしもない。「根っからの親米派」だから、アメリカにものが言えるかという態度をとっています。これでは、日本国民の代表として外交をになう資格がないでしょう。
もう一つ、アジア諸国との関係です。この二カ月半のあいだに、アジア諸国との関係は大変悪くなりました。何が理由かといいますと、靖国神社の参拝の問題、歴史教科書の問題で、どちらも日本の側からおこした問題なんです。
教科書の問題といいますと、日本の教育の問題に、外国から文句を言われる筋合いはないといった意見を言う人が、国会の中には大勢います。しかし、これは、外国から言われたからどうとかいう問題ではないのです。
問題になっている歴史教科書というのは、あの侵略戦争、日本がアジアを侵略したあの戦争について、「国民が間違った戦争だと思っているのはけしからん、あれは立派な戦争だったんだ、その精神で子どもを教育する必要がある」というとんでもない考えを持った人たちが、その精神でつくった教科書なんです。
だからずっと読んでみると、日本の戦争の歴史が全部その精神で書かれています。あの戦争は、日本の安全保障と、「自存自衛」のための戦争だった。私は戦争中の子どもですから、「自存自衛」というこの言葉は、さんざん聞かされました。要するに、日本の国の存立と自衛のためにやむをえずやった戦争ということです。またアジア諸国の解放が戦争の目的だった。これも戦争中さんざん聞かされたことです。そのことがあの教科書にはくりかえしくりかえし書いてあります。これで教育を受けた子どもたちには、“ああ、日本は立派な戦争をやったんだな、これが間違った戦争だったなどというのは、勝ったアメリカの言い分を押しつけられただけのことだったんだな”、そう思いこませる教科書です。みなさん、そういう教科書で教育されて、日本の子どもたちが「あれはアジア解放の戦争だったんだ」と思いこんでしまったら、どんなことになるでしょう。そしてアジアの国ぐにとの関係はどうなるでしょう。
それを心配するから、韓国も中国も、これは大問題だ、たんなる日本の国内の問題じゃないと考えて真剣に問題を投げかけてきています。しかしそれはこの本の実際の内容からすれば、ずいぶん、控えめなものです。教科書を本当に読んでみたら、まるで戦争中の指導者が生き返って子どもたちを教えているような思いがまざまざとします。
私は、政府は検定でこれを合格させた責任者として、取り消す義務があると思っています。合格させたのは森内閣のときでしたが、小泉内閣は、韓国と中国の政府の要請にたいして、七月、公式の回答をだし小泉内閣としてあの教科書を全面擁護し、これを退ける態度をとりました。小泉さんの責任は重大ではありませんか。
(私論.私見)