42848 | 捕虜待遇 |
大東亜戦争の際の日本軍部の「捕虜待遇」につき以下考察する。 |
戦争のとき敵に捕らえられた捕虜ですが、国際法で捕虜は人道的に 「博愛の心をもって取り扱う」ことが、ハーグ条約などにより定められています。 日露戦争(1904)において、日本はこの条約をおおむね守ったようでした。 ロシア軍の数万にのぼる捕虜は、松山などの収容所にて人道的な扱いを受けた といわれています。また、第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵のうち千名は、徳島県の板 東収容所に収容されましたが、そこで彼らがベートーベンの第9交響曲を演奏 した話はつとによく知られています。これなども捕虜が人道的に扱われたこと を示しているのではないかと思います。
「日本軍の捕虜収容所における戦慄すべき事態」
連合軍捕虜の強制労働
ドイツの第三帝国の兵士によってイギリス及びアメリカ人23万5473名が捕らえられ、その4%の9348名がナチの収容所で死んだ。
日本軍はイギリス、オーストラリア、アメリカ、カナダ、ニュージーランドの捕虜を9万5134名収容し、その28.65%の2万7256名を死亡させている。
内訳は、
オーストラリア | 2万1726 | 7412 | 34% |
アメリカ | 2万1580 | 7107 | 33% |
ニュージーランド | 121 | 31 | 26% |
イギリス | 5万16 | 1万2433 | 25% |
カナダ | 1691 | 273 | 16% |
オランダ | |||
インド |
1941.12.24日真珠湾攻撃の16日後、「捕虜情報局」が設置され、「捕虜の政治的利用と肉体的虐待に関する日本の方針」が決定された。捕虜もまた労働によって生きていくべきであると提案され、ハーグ協定に拠れば捕虜は彼等を捕らえた者の為に役立つ労働をする必要は無い、軍需工場で使役させるべきでないとして反対した捕虜情報局長・上村清太郎陸軍中将の動議は却下された。これに対する東条の指示が遺されている。善通寺収容所長に対し、「捕虜は、人道上のおきてに反しない限度で、厳しい規律の元におかれねばならない。捕虜との長い接触の間に深まっていくであろう、個人的な感情からの誤まった人道主義的な考えや行為にとらわれないことが必要である。我が国の現在の状況では、いかなる人間といえども座して食らうことは許されない。こうしたことをよく心に留めた上で、貴官の捕虜が有効に働くよう取り計らわれることを希望する」(1942.6.30日善通寺収容所視察時の指示)。東条は、後日フィリピン及び東南アジアの捕虜収容所長らに「非人道的にならぬ限り、監督はできるだけ厳しく、そして怠惰は許さぬように」とより明確に指示を与えている。
マレーの虎と恐れられた山下陸軍大将指揮下の捕虜待遇は「厳しいがそれほど苛酷ではない」扱いを見せている。シンガポールで捉えられた3万5千余のイギリス兵、1万5千余のオーストラリア兵他。山下が満州へと配置転換された後の後継者は苛酷であった。
死の泰麺鉄道 |
シンガポールから送られてきた約3千人のオーストラリア人捕虜達は、ビルマの南端マラヤ半島の西海岸での飛行場つくりに狩りたてられた。次に泰麺鉄道工事に従事させられた。「死の泰麺鉄道」は、 ビルマへの補給路として昭和17年7月から建設が開始され、1年3ケ月間の突貫工事により完成した総延長415キロ(250マイル)に及ぶ。
映画「戦場に架ける橋」などにより描かれているが、失望のはけ口を捕虜虐待に見出していた観がある。元将校の証言などによると実際には、1・捕虜は補助労力として使用したものであり、2・泰緬鉄道建設に「協力」のために山の奥地まで配置されたものであり、3・タイの捕虜収容所の管理下で、将校・下士官の下に置かれた軍属がこれの直接管理に当たっていた、4・捕虜の衣食住については収容所が一切の責任を所管していた、とある。
敗戦後の戦犯裁判で、収容所幹部の大半は戦犯として処刑された。「鉄道連隊からは2名の将校がデッチ上げの罪状によって絞首刑に処せられた」との伝もある。
パターン死の行進
非人道的な捕虜生活
1945.3.17日陸軍次官柴山兼四郎発令の秘密電報。