42847−315 「西岡論文・ナチ『ガス室』はなかった」考

 (最新見直し2006.3.3日)

【西岡論文「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」】
 インターネットサイト南京とアウシュビッツ、『マルコポーロ事件』、ナチ『ガス室』はなかったに、西岡論文が掲載されている。これを転載しておく。
 一月二十七日、アウシュビッツ収容所は「解放」五十周年を迎える。だが、ここには戦後史最大の タブーが秘められている。 実はホロコースト=ナチスによるユダヤ人虐殺説には、今大きな疑問が投げかけられ始めているの だ。 ユダヤ人が悲惨な死をとげたことは、間違いない。しかし、ガス室で、「計画的に殺されたという 話には証拠が少ない。戦後、西側に属した収容所にはすべてガス室が存在しなかったことが証明され た。あったとされるのはすべて東側の収容所のみ。しかも、ガス室は密閉機能に書け、使用されたガスは科学者の眼から見ると、とても大量殺人には使用できぬものであった。

 実は、欧米では、この種の疑問が、ジャーナリズムを賑わしている。当のユダヤ人学者さえ、疑問を呈しているのだ。なぜ、 日本のマスコミだけが、このもんだいを書かないのか。若手の医師が、個人で調べあげた驚愕の新史実。
 獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた―という 恐ろしい話とイメージが重なったからだ。

 ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。 戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人は いないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。 私は、一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁る ようになった。そして、今では次のような確信に達している。


 まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。 それから『シンドラーのりスト』 もー旦忘れて頂きたい。
 
「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室な どは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」 なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユ ダヤ人大量虐殺」などはー度も行なわれていなかったのだ。

  こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、 第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。 たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を杏定する者ではないことをここで明白にしておく。 第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱く人々が急速に 増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そう した報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。

 事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中に は政治的には明日に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。 例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカに わたったユダヤ人のー人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の 存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で 殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことはー九八九年六月十五日号の ニューズウィーク日本版でも取り上げられている。

 また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話 だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げ る人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現われていることは注日に値する。

 とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのりスト』もー旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。 そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究をーロ に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しや すくなると思うからである。


 ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもな い事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置か れたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策 が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。
 しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収容したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど ー度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ 連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らは、このユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決」と名付け、東部戦線でソ連を打倒した後、実行するつもりでいた。
 ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイ ツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アワシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収 容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し 得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。
 ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、 戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的 発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。
 戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の 死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。

 読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる 方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、 あの恐ろしい「アワシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者のー人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただのー度もなかったのである。


 
しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この 論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。 「ホロコースト」に疑間を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト (Holocaust Revisionist)、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる。

 筆者は、一医 師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、 有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビジョニストたちの主張 を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいちれなくなったのである。 また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュースの投書欄でー九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。

 気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だ と思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を 「ネオナチ」 や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。


 
その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フ ランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲 章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?  このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。ラッシニエは、ドイツ西部の収容所に収容され、戦争末期には、そこでチフスにかかるという苦難まで味わっている。

 そのラッシニエが、「ホロコースト・リビジョニズム(見直し論)」の「開祖」となった理由は、 単純である。ラッシニエは、戦争中、反ナチス活動の故にドイツ西部の複数の強制収容所に入れ られていたのであるが、彼は、それらの収容所の何処でも「ガス室」など見たことはなかったの である。 ところが、戦後、ニュールンベルク裁判や欧米のマスメディアが、戦争中ラッシニエが収容さ れていたドイツ国内の収容所に「ガス室」が存在し、多くの人々が殺されたと言い始めたために ラッシニエは驚き、彼自身の左翼という政治的立場とは別に、「ドイツの強制収容所にガス室などなかった」と、声を大にして主張し始めたのであった。

 しかし、フランスのマスコミは、ラツシニエがレジスタンス活動家として、ドイツの収容所を 実際に目撃した人物であったにもかかわらず、彼を非難し、その証言を無視した。ラッシニエは、 その後もこのことについて語り続け、さらには学者として、ナチスの収容所政策全体を調査、研究し続けるが、その主張を無視されたまま、一九六七年に死去している。


 
しかし、彼に触発され たフランスの知識人の間から、もちろん 「ネオナチ」等とは全く無関係に、「ガス室はあったのか?」という疑間が上がり始めるのである。 このように、学術研究としての「ホロコースト否定論(または見直し論)」は、第二次大戦後、 ドイツではなくフランスで誕生したものなのだが、「ガス室による大量虐殺」に疑問を投げかけ た最初の歴史家が、いわゆる「ネオナチ」などではなく、フランスの左翼知識人で、戦争中レジ スタンスに参加してナチの弾圧まで受けた人物であったという事実は重要である。

 そして興味深いことには、この最初の「ホロコースト否定論者」ラッシニエの個人的体験の中に、後年、「ホロコースト」論争の焦点となる幾つかの問題が、集約されていたのである。 そのひとつは、ラッシニエが収容されたのが、アウシュヴィッツやマイダネックなどのポーラ ンド領内のナチス強制収容所ではなく、ドイツ国内に作られた強制収容所であったという点であ る。これは、極めて重要なことであった。 どういうことかというと、ナチスドイツが大戦中ヨーロッパに建設した強制収容所のうち、ドイツ本国に作られた強制収容所については、戦後十五年縫ったー九六〇年に、「公式見解」に驚 くべき変更が加えられているのである。これは少しややこしい話なので、じっくり説明しよう。
 今日、「ホロコースト」に関するいわゆる「定説」は、以下のようになる。<ナチスドイツは 戦争中、ドイツ本国及び、占領したポーランドなどに大小多くの収容所を建設し、ユダヤ人や政治犯、ジプシーなどを収容した。それらの収容所にはニ種類があった。一つは、ユダヤ人などを 単に収容し、労働を行なわせただけの収容所であったが、もうー種類は「絶滅収容所」で、そこにはあの恐ろしい「ガス室」があって、人々は強制労働をさせられただけでなく、「ガス室」に よって計画的に殺されていた。アワシュヴィッツ収容所は、この後者の代表である。ナチスが、 自国ドイツの領土内に作ったのは、前者の「ガス室」のない収容所だけで、「ガス室」を持った 「絶滅収容所」は、占領したポーランド領内だけに作られ、そこで六百万人のユダヤ人が、計画 的に殺された・・・>

 読者に知って頂きたいことは、 戦時中から戦争直後にかけて、 アメリカやイギリスが報道操作を 行なっていたという事実である。

 
ところが、この「定説」は、戦争直後に連合軍が発表した話とは違うのである。戦争直後、ドイツを占領した連合軍は、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所ばかりか、 ドイツ本国の収容所にも「ガス室」があったと主張していた。 つまり、戦争直後には、今の「定説」とは違うことを主張していたわけで、「定説」の内容は、変わっているのである。

 例えば、ミュンヘン郊外にダッハウ(Dachau)収容所という収容所があった。戦争末期にこの収容所を解放したアメリカ軍は、ここで大量殺人用の「ガス室」を発見したと発表して、一枚の写真を公開した。それは、黒い鉄の扉の前にー人のアメリカ兵が立って、その扉を見つめている写真である。その扉の上には、ドイツ語で、「注意! ガス!生命の危険! 開けるな」という警告が書かれ、白いドクロのマークも描かれている。


 
その写真にアメリカ軍が加えた説明(キャプション)がどんなものだったか。 「死体焼却炉の側という便利な場所に作られたガス室が、アメリカ第七軍の兵士によって調べられているところ。これらの部屋は、忌まわしいダッハウ収容所 で、被収容者を殺すためにナチの衛兵たちが使っていたもの」 ドクロのマークが描かれた鉄の扉にGas!という文字が見える写真を見せられ、その写真にこんな「解説」を付けられたのでは、ダッハウには大量殺人用の「ガス室」があったという発表が「真実」として受けとめられたのは当然である。実際、アメリカが発表したこの写真や生存者の「且撃証言」により、戦争直後には、世界中がダッハウに「ガス室」があり、その「ガス室」で戦争中多くのユダヤ人が殺されたと信じていた時があったのである。

 ところが、後から明らかになったことは、その写真の黒い扉は、確かに「ガス室」の扉ではあ ったが、人間を殺すためのガス室などではなく、シラミなどで汚染された衣服を消毒するためのガス室だったという人を食ったような事実であった。すなわち、戦争末期のドイツ強制収容所で は、衛生状態が著しく悪化し、発疹チフスなどの発生が大間題となっていた。その対策として、 DDTを持たない当時のドイツ軍当局は、サイクロンBという青酸系殺虫剤を使って、ユダヤ人をはじめとする被収容者達の衣服の消毒を行なっていたのである[このことについては、Arthur Butz 著"THE HOAX OF THE 20TH CENTURY"(published by the Institute for Historical Review, 1976)など、幾つかの本が書かれている]。

 
ドイツでサイクロンBという青酸系殺虫剤が生産、販売され、殺虫作業などに広く使用されていたことは、秘密でも何でもないが、ドイツがこのサイクロンBを大量殺人目的に転用、六百万人ものユダヤ人を殺したというのが、「定説」の主張するところなのである。 サイクロンBを使って、人間を大量に殺すことが到底不可能であることは後から説明するが、ここで読者に知って頂きたいことは、戦時中から戦争直後にかけて、アメリカやイギリスがこのよう な報道操作を行なっていたという、あまり知られていない事実である。

 読者は、湾岸戦争中にイラクの原油放出のせいだといって世界中に放映された、あの油まみれの水鳥を記憶しているだろうか? あの水鳥は「イラクの原油放出」などとは関係がなく、何者かが、プロパガンダの目的でウソの注釈(キャプション)を加えて流した「ヤラセ映像」であったことが明らかになっているのだが、この種の報道操作は、湾岸戦争の水鳥が最初ではなかったのである(木村愛二著『湾岸報道に偽りあり』 汐文社刊、一九九二年、参照)。

 第二次世界大戦中、メディアに対して厳重な検閲を実施していた のは、日本やドイツだけではなかった。アメリカも、新聞、雑誌、ラジオ、そして映画などに厳重 な検閲を行なっていた。ダッハウで撮影されたこのトリック写真は、そのような検閲があればこそ可能だったのである。 「ダッハウのガス室」だけではない。ドイツを西から攻略したアメリカ、イギリス連合軍は、ドイツ西部で強制収容所を解放した際、いくつもの「ガス室」を「発見」した筈だったのである。 彼らは、そう発表し、戦後しばらくは、そう語っていたのである。

 それなのにそれを彼ら自身が今日全く語らなくなったのはー体何故なのだろうか?  それは、一九六〇年八月二十六日のことである。当時、西ドイツヘドイツ連邦共和国)政府の第 二次世界大戦や「ホロコースト」に関するスポークスマン的地位にあった歴史学者、マーティン・ ブロサット博士(Dr. Martin Broszat) が、突如として、ナチが大戦中「ガス室」を作ったのは ドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」はなかったという意味の声明 を発表したのである。

 ブロサット博士は、ミュンヘンの現代史研究所という西ドイツ政府の機関で所長の立場にあった人物だが、この研究所は、これまで「ガス室」の存在を「証明」するために実に多くの発表を行なっており、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体と見なされている。その現代史研究所の所長、ブロサット博士が、突然、昨日までは「真実」とされていたダッハウやブーヒェ ンヴァルトなど、ドイツ本国の収容所における「ガス室」の存在を否定したのである。 その日を境として、「ホロコースト」に関する「真実」は「改訂」され、昨日まで「存在した」 と主張されていた「ダッハウのガス室」や「ブーヒェンヴァルトのガス室」は、実は存在しなかっ た、という話に変更された。 しかも、ブロサット博士は、その声明の中で、このような「真実の変更」がなされた理由をー言も説明していないのである。


 
こうして、今日我々に教えられる「定説」が「公認」されたのであるが、これは、考えてみればドイツ本国に関する限り、ラッシニエの主張をそのまま認めたものに他ならない。ブロサット博士が、この声明を出した後、ナチの「ガス室」は、ポーランドのみに作られた、という「定説」 が世界で定着し、一九七五年には、「ナチ・ハンター」として有名なユダヤ系活動家、サイモン・ ヴィーゼンタール氏までが、ドイツ本国に限っては、「ガス室」がなかったことを認める発言を している。

 戦争直後には、「ブーヒェンヴァルトのガス室」を目撃したという「証言」があった。「ダッハウのガス室」を目撃したという「証言」もあった。これらの「証言」は、ニュールンベルク裁判にも提出されていたのだが、こうした「証言」が本当であったなら、「定説」を支持する人々は、何故、ダッハウやブーヒェンヴァルトに「ガス室」があったという彼らの主張を取り下げた のだろうか?  答えは、一つしかない。 彼らが発表した「証拠」や「証言」の中に本物はーつもなかったのである。恐ろしいが、これが真実なのである。

 注目して頂きたいのは、この書き変え以降も、「ガス室があった」とされる収容所はすべて東側、つまり共産圏に存在し、ジャーナリストの自由な調査が不可能な地域であったという事実だ。 「ダッハワのガス室」だけではない。例えば、ある作家は、アウシュヴィッツ及びブーヒェンヴァルトの強制収容所に入れられていたという体験の持ち主であるが、その著作の中で、自分がア ウシュヴィッツで目撃したという情景を書いている。彼は、その中で何を見たと書いていただろうか?  驚かないで頂きたい。その作家は、「ガス室」のことなどー言も書いていないのである。かわりに子供や赤ん坊が炎の中に投げ込まれるのを見たと書いていたのである。一九五八年の著作の 中で、「火炎による大量殺人」の光景をありありと描写していたのである。いうまでもなく、今日、アワシュヴィッツで火あぶりが行なわれていたと主張する歴史家はいない。とすると、この 作家が「目撃」した光景は、一体何だったのだろうか? アウシュヴィッツで、人間が生きたまま火に投げ込まれるのを見たと書いていたこの作家は、 一九八六年にノーベル平和賞を授与されている。
 ちなみに、「ホロコースト」という言葉は、前述した通り、いけにえの動物を火にあぶるユダヤ教 の儀式に出来するが、この儀式名が「ナチスのユダヤ人大虐殺」を意味するものとして使われ出したのは、このように戦後まもない時期には、「ナチスは、ユダヤ人を生きたまま火に投げ込んで殺 した」という話が語られていたことに由来している。 今日、アウシュヴィッツのユダヤ人が「ガス室」ではなく、「火」に投げ込まれて殺された、と主張する歴史家はいないのだが……。

 このように、「ホロコースト」に関しては、「間違い」とか「見間違い」では、到底説明し得な い内容の書き換えがくりかえされてきた。そして、もっと重要なことは、そのようないい加減な 「証言」だけに「ホロコースト」の内容が依拠しているということなのである。つまり、「ホロコースト」には、「証言」以外に何も物証がないのである。 そう言うと、読者は驚くかもしれない。「アワシュヴィッツには、ガス室が展示されているじゃないか」とか、「あの靴の山は何なんだ」「あの髪の毛は何なんだ」等々、読者が当惑する顔が私には目に浮かぶ。私もそう思っていた。

 しかし、ああした「物証は何ら物証ではない。ただ、それ らに付けられた「解説」だけが、それらの物品を「物証」のように見せているのである。 例えばここに靴の山があったとして、一体その靴の山だけで、どうして靴の持ち主たちが「ガス室」に入れられ、殺された、と証明出来るのだろうか?  髪の毛も同じである。こんなたとえは不謹慎かもしれないが、私が、靴や髪を沢山集めてテレビ局に赴き、「隣の人が浴室をガス室に改造して、人を殺していた」と言ったら、テレビは私の言ったことをニュースとして報道するだろうか?  ただし、死体は何処にもないので、私は、「灰になるまで焼却したのだ」と言う。 これが、「ホロコースト」である。この話と「ホロコースト」の違いは、靴の山や髪の山を「発見した」と言ったのが私ではなくソ連軍であったことだけである。仮りに私が靴や髪を見せても、 それだけでその持ち主が「ガス室」の死者だったと鵜呑みにする人はいないだろうが、同じことをソ連がポーランドでやったら、世界中が信じたのである。何故、信じたかといえば、世界中のマスメディアが、それを伝えたからである。何故ソ連の発表をアメリカをはじめとする世界のマスメディアが何の検証もせずに報じてきたのかは、ここでは論じない。

 しかし、気が付いて欲しいことは、このように証拠能力のない「物証」も、マスメディアが伝えると、「物証」のように思われてしまうということである。それが、「ホロコースト」を支えるものなのである。 では、「ガス室」はどうかということになるが、これも物証ではない。今日の「定説」によれば、 ナチスドイツは、自国ドイツ領内には「ガス室」を作らなかったが、占領したポーランドに「ガス室」を作り、六百万人のユダヤ人を計画的に殺した、と説明されている。

 だから、「ガス室」の実物がポーランドに実在しなければならないが、まず第一に、今日のポー ランド領内でその「ガス室」として展示されているものがある場所はニカ所しかない。一つは、ア ウシュヴィッツであり、もうーつはマイダネックという場所だ。あとの「ガス室」は、「存在したが、戦争末期にドイツが証拠隠滅の目的で破壊し、なくなった」と説明されている。 「破壊され、なくなったガス室」がどうして実在したといえるのかといえば、またしても「証言」 なのである。

 「ガス室」の「実物」とされるものはアウシュヴィッツとマイダネックにしかないのだが、実はそれら「ガス室」というコメント付きでポーランド当局が展示している部屋は、処刑用ガス室に必要な構造、特徴を全く備えていないのである。 例えば、今日アウシュヴィッツに展示されているあの有名な「ガス室」は、半地下式の「ガス室」で、すぐ隣に四つの焼却炉を持つ「焼却室」が併設されている。というよりも、そのような半地下室をポーランドの共産主義政権が、戦後「ガス室」として展示してきたのである。

 この部屋が仮りに説明されている通り、殺人用ガス室だったと仮定してみよう。すると、まず、この「ガス室」には窓がないことに気付く。窓というより、窓を取付ける穴が何処にも開けられていないのである。 窓そのものは、処刑用ガス室にとって必要とはいえないが、窓を取付ける穴がーつもないということは、換気扇を付ける場所がないということである。 処刑用ガス室においては、一回処刑が終わるたびに換気をしなければならない。換気をしなければ、次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出来ないのだから、 これはガス室にとって必要欠くべからざる機能なのである。 しかし、そのために必要な換気扇を付ける場所が、アウシュヴィッツの「ガス室」にはない。ア ウシュヴィッツの「ガス室」で使用されたことになっている「毒ガス」は青酸ガスだが、青酸ガス の物理的性質のーつに、壁や天井に吸着しやすいというやっかいな性質があり、例えば倉庫などで 青酸ガスによる殺虫作業を行なった場合、自然の通風では、殺虫作業後の換気にニ十時間前後を要 したとされている。

 とすれば、アワシュヴイッツの「あの部屋」が「ガス室」だった場合、換気扇がないのだから、 出入口または天井の小穴(そこから青酸ガスが投げ込まれたことになっている)から換気したとし て、一日にー回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈である(何という非効率的な「民族 絶滅」だろうか?)。 その上、アウシュヴィッツの「ガス室」には、処刑用ガス室の設計において常に要求される高 い気密性がなく、青酸ガスで内部を充満させた場合、外部に青酸ガスが漏れるのは必至であると、 アメリカのガス室専門家ロイヒターは指摘している(彼のレポート"THE LEUCHTE REPORT"はー九 八九年ロンドンで出版)。つまり、外にいるドイツ兵が青酸中毒になってしまうのである。

 サイクロンBの成分であるシアン化水素自体は確かに猛毒だが、使用に際し、長時間の加熱を必要とする。つまり、長時間の加熱を行なわなければ「毒ガス」それ自体が発生しないのだが、それ は、サイクロンBが、もともとそのような方法で使用する殺虫剤だったからに他ならない。ただ缶を開ければ、青酸ガスが発生するようなものではないのである。 ここは、非常に重要な点なので分かりやすく説明しよう。DDTを持たなかった第二次世界大戦中 のドイツ軍は、このサイクロンBを殺虫剤として使用していたが、問題は、「ホロコースト」があったと主張する人々が、この殺虫剤サイクロンBが「ガス室」で使われたと主張していることにある。

 つまり、彼らは、ドイツが殺虫剤サイクロンBを大量殺人用に転用し、アワシュヴィッツなど の「ガス室」で使用したと、戦後一貫して主張し続けているのである。 これは、「ホロコースト」という物語の核心部分であるが、実は、物理的、化学的、医学的に 不可能なことなのである。 サイクロンBは、缶に入っている。「ホロコースト」を扱ったテレビドラマや映画ではこの缶を ドイツ兵が開け、「ガス室」の屋根に取付けられた穴から放り込むと、直ちに缶の中から毒ガス」 が出て、ドイツ兵の足下の地下式「ガス室」にいる人々が「毒ガス」に悶え苦しみ、死んで行く という場面が描かれているが、これは絶対にあり得ない。サイクロンBの缶の中身はシアン化水素 (HCN)、すなわち青酸ガスが吸着したチョークやパルプのかけらなのである。青酸ガス(HCN)を発 生させるには、それらの(青酸ガスを吸着した)チョークやパルプをヒーターで長時間加熱しなけ ればならないのだ。これを燻蒸という。
 戦後、連合軍が押収した ドイツ政府公文書の中に、 「ユダヤ人」絶滅を命令した 文書は一枚も無かったのである。

 
アウシュヴィッツ等の強制収容所では、戦争末期に発疹チフスなどの感染症が多発し、それらの 病原体を媒介するシラミの駆除が大間題になっていた。こうしたシラミが、被収容者の衣服に付着 することが多かったため、ドイツ軍当局は,被収容者の衣服をサイクロンBによって燻蒸、消毒し ていた。 もっとも十分な効果は得らず、ある資料によれば、サイクロンBによる燻蒸では、蛾を殺すのに もニ十四時間が必要だったという。この程度の殺虫剤をドイツは大量殺人用の毒ガスに転用した ということになっているのだが、蛾を殺すのにニ十四時間もかかった殺虫剤で、人間を数十分以 内に殺せたのだろうか? このサイクロンBが、アウシュヴイッツなどの「ガス室」で「大量殺人」に使用されたという 主張は、「ホロコースト」の中心的「教義」である。しかし、その根拠も、実は、「証言」しかないのだ。

 その「証言」の中で、最も重要なものは、アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ ヘスのもので、「自白」の調書や、処刑される前に書いたらとされる「回想録」がある。 しかし、これらの文書は、イギリス軍やポーランド当局がー方的に発表したもので、ヘスが本 当に述べたという証拠は何もない。 (このルドルフ・ヘスは、戦後イギリス軍に捕らえられ、イギリス当局の取り調べを受けた後、 ポーランドに引き渡され、ポーランドで処刑された人物で、戦時中英国に渡った大物のへスとは 別人) アワシュヴィッツ収容所の所長(司令官)だったルドルフ・ヘスが書いたとされる文書が重視される理由は、ヘスこそが、アワシュヴィッツ収容所でサイクロンBによる大量殺人を立案した人物 だとされているからだ。

 しかし、これらの文書を読むと、科学的には絶対あり得ないことが沢山 書かれている。 例えば、ポーランドでへスが書いたとされる「回想録」の中にこんな描写がある。「ガス室」 でユダヤ人達が死んだ後、ドイツ兵達が「ガス室」に入り、ユダヤ人達の死体を外に搬出する様子の描写なのだが、ドイツ兵達は物を食べたり、タバコを吸ったりしながら黙々と死体を運び出 したと述べられている。 しかし、これは絶対に嘘である。「物を食べながら」ということは、ガスマスクを付けずに処刑直後のガス室に入ったことを意味する。 サイクロンBで人間を殺せるかどうかの議論は棚上げして、仮りに殺せたとしよう。とすれば、 処刑が終わった「ガス室」内部は、人間の致死量を超える濃度の青酸ガスが充満している筈である。そこにガスマスクを付けずに入ったというのだろうか? そして、「タバコを吸いながら」と いう描写はどうだろうか? 青酸ガス(シアン化水素)は、水素化合物、即ち爆発性の気体なのだ。 さらに言えば、「ガス室」のシャワーから青酸ガスが噴霧されたというよく知られた話も全く 馬鹿げている。

 青酸ガスは、空気より軽いのである。その青酸ガス(シアン化水素)をガス室の屋根の穴から缶ごと投下し、シャワーを経由してその下にいるユダヤ人達を殺したという話が、広く信じられているが、空気より軽い青酸ガスが、「ガス室」の天井からその下のユダヤ人達へと、上から下へ 拡散するだろうか?  もうーつ、読者を驚かせることを言おう。ヒトラーは、「ユダヤ人絶滅」など、一度も命令し ていなかったのである。
 プロパガンダとして流布された「ガス室」の話が、検証されぬまま「歴史」に転化したのが「ホロコースト」

 
連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、 アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。 ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のド イツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書はー枚もなかったのである。実際、連合国は、 ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。

 これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅 計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そう した主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日までー枚も発見 されていない。 もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、 その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなり の「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。

 具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが ー九四三年十月四日に行なったとされる談話の筆記緑、ヴァンゼー会議という会議の記録、ゲーリ ングがー九四一年七月三十一日に幹いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙 等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。

 それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。そればかりか、当時のド イツ指導部が、その「一時的措置」の後には、収容したユダヤ人達を「東方地域」に移送する計画 であったことをはっきりと述べてもいるのである。 これは、アウシュヴイッツをはじめとする収容所の建設目的が、これまで言われてきたような 「ユダヤ民族の絶滅」ではなく、「東方地域への移送」であったことの動かぬ証拠である。これこそが、ナチスドイツが計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」という用語の本当の意味だったのである。

  くどいようだが、私は、強制移住ならよいなどと言っているのではない。私は、このようなナチスの差別的政策を支持正当化するつもりは毛頭ない。私が問題にしていることは、「歴史家」や 「ジャーナリスト」たちが戦後語り続けてきた「歴史」が、余りにも事実と懸け離れたものだったということなのである。彼らは、誰かがそれを指摘することを「ナチスの弁護」というのだろうか。 アウシュヴィッツに収容されたー人にマリア・ファンヘルヴァーデン(Maria Vanherwaarden)という女性がいる。全く無名の人ではあるが、この人がー九八八年の三月に、カナダのトロントで述べた証言は極めて興味深いものである。

 彼女は、一九四二年にアワシュヴィッツ及びそこに隣接するビルケナウ強制収容所に収容されたのであるが、列車で移送される途中、同乗したジプシーの女性から、アワシュヴィッツに着いたら、 彼女たちは皆「ガス室」によって殺されてしまうのだという話を聞かされた。当然、彼女は、ジプシーが語ったその話に恐怖を抱いた。 興味深いのは、その後である。 彼女の証言によると、アウシュヴィッツに到着すると、彼女たちは、服を脱ぐよう命令された。そして、窓のないコンクリートの部屋に入れられ、 シヤワーを浴びるよう言われたという。ここで、彼女たちの恐怖は頂点に達した。列車の中でジプシーの女性から「ガス室」で殺されるという話を聞かされていたからである。ところが、彼女の頭上のシャワーから出てきたものは、「ガス」ではなく、水だったのである。

 読者は、この証言をどう思うであろうか? このような証言は、他にもいろいろあるのだが、戦後半世紀もの間、何故か、こういう証言は「ガス室」が存在したと主張する人々によって徹底的に無視されてきたのである。 証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものと言えるであろうか?  このファンヘルヴァーデンという女性の証言で興味深いことは、彼女の証言に出てくるジプシーの女性が、何処で「ガス室」の噂を聞いたかという問題である。それを確かめる方法はないが、それに関連して、アメリカの歴史家マーク・ウェーバーは、戦争中、連合軍が、ラジオやビラによってドイツ占領下のヨーロッパに対してこの「ガス室」の噂を意図的に流布させていたことを『アウ シュビッツ神話と真実』の中で指摘している。

 すなわち、戦争中の心理作戦としてのプロパガンダのーつに、この「ガス室」の話が織り込まれていたのである。そのようにして流布された戦争中の「ガス室」の話が、戦後検証されぬまま「歴史」に転化してしまったのが「ホロコースト」に他ならない。 アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。

  ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で 解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録して おり、このことについては論争の余地はないものと思われる(J・E・ゴードンなど)。 問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。

 例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフ ス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十一月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。 「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」 。

 これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。 「死亡率は、絶対に低下させなければならない」 この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?  当時のドイツ指導部がこのような命令を出したのは、ユダヤ人達が労働力として貴重だったからだろう。それが別に「人道的理由」で出されたものだとは思わない。

  しかし、こうした生の資料(一次資料)から気付くことは、ナチスの政策自体は非道であったにせよ、我々が『シンドラーのリスト』などから与えられてきた強制収容所のイメージは、歴史的事実とは懸け離れたものだということである。一例を挙げるなら、『シンドラーのりスト』の中で、ゲ ートという収容所の司令官が、朝、ベランダから面白半分にユダヤ人を銃で撃ち殺すショッキングな場面があるが、これは絶対にウソである。 何故なら、当時の強制収容所では、確かにユダヤ人等の被収容者が体罰を加えられることはあったが、それには事前に書類を提出して許可を得ることが義務付けられていたからである。その書類は、ベルリンにまで送らなければならなかったし、もし、この手続きを無視すれば、そのドイツ兵は、軍紀違反で厳罰に処せられたのである。 このことは、戦後西ドイツで法務官吏を務めたウィルヘルム・シュテークリッヒ(Wilhelm Staglich)が自著"A Judge Looks at the Evidence"の中で述べているし、アメリカの歴史家セ オドア・オキーフェ(Theodore O'keefe)なども述べている。中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる。

 お分かりだろうか?  ナチスの政策そのものは不当であったにせよ、そのドイツにおいて、ユダ ヤ人などを虐待したという理由で死刑に処せられたドイツ人がいたのである。「ユダヤ民族の絶滅」がドイツの目標であったなら、何故そんな厳罰に処する必要があったのだろうか?  ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明日な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。

  しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。 詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、 ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。

 最後に、一言言っておきたい。 アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇のーつである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるから こそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。 この記事をアウシュヴィッツその他の地で霧と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。


(私論.私見) 西岡論文に対するれんだいこ見解
 「百聞は一見に如かず」とはこのことを云うのだろう。西岡氏の主張は全体に腰が落ち着いており議論素材提供としては何ら欠陥が無い。「なぜマルコポーロの記車に過剰反応するか」での小石牧師の主張「本来言論と言うものは言論で反駁するものである。『ガス室はなかった』と言うのが偽りなら、『ガス室はあった』と論証すればいいではないか。それだけの話ではないか」こそ正論であろう。

 西岡論文にネオ・シオニズム勢力が食いついたとして、彼及び彼の論文を擁護することこそ言論界の役目であり、文芸春秋社及びマルコポーロ編集部はそれこそ「言論の自由、表現の自由」を盾に闘うべきではないのか。よしんば広告差し止めなる兵糧攻めに遭わされるなら、その不当性を訴え逆損害賠償でもって闘うのも一法だろう。それを為さずして、掲載誌マルコポーロの廃刊、編集長の更迭、社長辞任(実際には会長になっておるので更迭かどうかは疑わしいが)、文芸春秋社とSWC合同での「ユダヤ人理解のためのSWCセミナー開催」なる完全屈服の道を選んだのが文芸春秋社ではないのか。

 その文芸春秋社が「人の噂も七十五日」とばかりに「表現の自由」を盾に「角栄の孫娘のプライバシー漏洩にまつわる週刊文春販売差し止め事件」での不退転闘争に乗り出そうとしている。何のことは無い。現代史最強権力者シオニズムに対してはへいこらし、日本の国家権力を握るタカ派系とは親和し、かって戦後保守本流派を形成し戦後の舵取りに多大な寄与を為したハト派に牙を向けているだけのことではないのか。角栄一族に執念で食いつく醜態を見よ。

 この文芸春秋社はどういう訳かその昔より立花隆がお気に入りで、週間文春2004.4.8日号にまたしても緊急寄稿4ページものを掲載しているが、その内容批判は別の折に為すとして、この立花こそ一貫してネオ・シオニストに御用提灯することで尊大ぶっているだけの詭弁家でしかなかろうに。れんだいこに云わせれば、言論界におけるこういう御仁、政界における中曽根、小泉、石原系これらシオニスタンがタカ派系「シオニズム事大主義」的言論でもって日本を溶解しつつある。

 立花の2004.4.8日付けの緊急寄稿第二弾「言論の自由の基本を忘れた裁判所・朝日・読売」なる高慢ぶりを見よ。何と、ロッキード事件では超法規的手段によるとも目的の正当性があれば可なる見解を吹聴し続けていたのに、今度はてのひらを返しご都合主義的に「米国の言論の自由に対する態度の厳格性」を賞賛し、そもそも憲法何条では云々だと。ならば、角栄を追い詰めたときの「最高裁、検察庁お墨付きの免責特権付与証言」の適法性、証拠能力性を弁明してみよ。

 何てことはない全てが「場当たり式朕が基準」でしかないではないか。つまり、度し難い便宜的政治主義者であることが分かる。シオニズムの玉座を衝立にその陰から健筆するというより本質的な意味での御用性を特質としながら反権力性を売り物にする、という変態的二重性格が透けて見えてくる。

 2004.4.5日 れんだいこ拝


【西岡氏のその後における見解披瀝】
 西岡氏は後日、「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」執筆の経緯を次のように明らかにしている(アウシュヴィッツの嘘)。

  1996.5.11日、執筆経緯について次のように述べている。
 「私は、言うまでもなく、ナチスに共感など抱く人間ではありませんが、1989年頃からホロコーストについて実は深刻な論争が存在する事を知り、その両論を英文で読み、知る内に、この問題は公に論じられるべきだと考える様に成った者です。この問題は、単なる『歴史』以上の政治的意味を持った問題であり、その証拠に、欧米では、近年、ホロコーストに関する自由な議論が法律で規制されると言う、驚くべき状況が生まれています。又、日本では全く報道されていませんが、一部の心ないユダヤ人(シオニスト過激派)たちが、『ガス室』の存在に疑いを投じる人々に暴力を加えると云った事件も多発しているのです。

 その一方で、『ガス室』の存在に疑いを投げかける人々は、近年増え続け、その中には、ユダヤ人も含まれている事に注目して頂きたいと思います。そもそも、『ガス室でユダヤ人が殺された』と言う話に最初に疑いを投げかけた歴史家や知識人は、レジスタンスとしてナチスに抵抗した人々やユダヤ人だったのですが、この事が余りにも知られていません。こうした事を含めて、私がマルコポーロ1995年2月号に書いた事は、『ナチスの擁護』でも『反ヤダヤ主義』でもなく、真実が何であったのかを明らかにしたいと言う気持ちの現れ以外の何物でもありません」。

 「そこで私が歴史の真実として述べた結論は以下の様な物です」として次のように述べている。
 ナチスドイツが、ユダヤ人に不当な差別迫害を加えた事は、明白な史実である。しかし、そのナチスドイツですら、言われている様に「ユダヤ人の絶滅」などを計画した事は無かった。当時のドイツ政府が計画した事は、ヨーロッパの全ユダヤ人を戦後ロシアなどの「東方地域」に強制移住させる事だった。(それは、もちろん不当な事である)
 アウシュウィッツをはじめとする強制収容所の建設目的は、戦争中はユダヤ人を労働力として利用し、戦後はロシアなどに強制移住させる為の準備施設としての物だった。ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、ユダヤ人の東方への強制移住計画など全く不可能と成り、他方、戦争の影響で、それらの収容所の生活環境が悪化した。その為、強制収容所では特にチフスをはじめとする疾病が大発生し、多くのユダヤ人が悲劇的な死を遂げた。
 一方、連合軍は、戦争中から、戦時宣伝の一環として、ドイツが強制収容所でユダヤ人を大量に処刑していると言う宣伝を行ない、その様な宣伝の中で、「ガス室大量殺人」の話を流布していた。
 戦争末期から戦争直後にドイツの収容所を解放した連合軍は、そこで多くの病死者の死体を発見した。そして、それらの死体の山を、まるで「ガス室大量殺人」の犠牲者であったかの様に発表、宣伝した。

 「皆さんは、以下の事を今まで御存知だったでしょうか?」として次のような疑問点を列挙している。
 戦後、これだけ「ヒトラーはユダヤ人絶滅を命じた」と言われ、信じられていながら、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を命令した事を示す文書は、一枚も発見されていない。
 ナチスの収容所に入れられていた人々、即ち、ナチスの被害者の中には、「ガス室」の存在に否定的な証言をしている人々が少なからず居た。
 戦争中、連合軍の航空機が撮影したアウシュウィッツの航空写真を見ると、アウシュウィッツで「ガス室大量殺人」が行われていたと言う主張と両立しない様な事実が色々確認出来る。例えば、死体を焼却する煙が絶えず上がっていたと強調されているのに、アウシュウィッツの敷地内から煙は全く上がっていない。又、多くの死体を焼却するのに必要な石炭も写っていない。
 これだけ、「ガス室で多くの人々が殺された」と言われていながら、連合軍は、ヨーロッパの何処でも「ガス室」、即ち「毒ガス」で殺された死体など一体も(!)確認していなかった。
 ドイツが、「ユダヤ人絶滅計画」などという計画の為に予算を支出していない事が確認されている。
 「ガス室」の設計図も発見されていない。
 「ガス室」での処刑を記録したドイツ側文書も発見されていない。
 ドイツは、ポーランドに建設したトレブリンカ、ヘルムノ、ソビボル、ベルゼックの4つの収容所で、「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」を使っていたとされているが、そんな「ガス室」の「実物」は一つも「現存」しない。それどころか、ディーゼル・エンジンは、一酸化炭素を殆ど排出しない事が特徴であり、こんな事は科学的に考えられない。
 マイダネック収容所で「ガス室」として公開されている部屋は、1966年頃を境にして変わっている(!)。即ち、かつてポーランド当局が「ガス室」として公開していた部屋が、何故か今は「ガス室」として公開されていない。
10  アウシュウィッツに展示されている「ガス室」の一つは、かつては、「戦争中そのままの状態の物」として公開されていた。それが、今では、「復元された物」と説明されている。
11  アウシュウィッツとマイダネックでは、「ガス室」で青酸ガスが使われたとされている。しかし、青酸ガスが使われた筈のそれらの建物からは、青酸(シアン)化合物が多量に使われた形跡が無い事が、化学分析で確認されている。
12  青酸ガスによる処刑は、アメリカでは、最も高価な処刑法である。
13  ナチスは、アウシュウィッツなどで青酸ガスを発生させる方法として、チクロンBと言う殺虫剤を転用したとされている。しかし、チクロンBから青酸ガス(HCN)を発生させるには、何時間もの時間が必要である。又、青酸ガス(HCN)には、壁などに吸着しやすいと言う性質が有る為、使用後の換気にも長時間が必要とされた。こうしたチクロンBの性質から考えて、一日に大勢の人間をチクロンBで次から次へと処刑出来たとは到底考えられない。即ち、チクロンBは、「大量虐殺」などという目的には向かない。
14  チクロンBの使用効率を高める為には、チクロンBを加熱する事や、「ガス室」内部の空気を循環させる事が必要である。それは、当時の技術で容易に行えた事で、実際、チクロンBによる殺虫作業においては普通に行われていた。しかし、言われている説明には、そうした話が全く出て来ない。
15  「ガス室」を見たと主張した「目撃者」の多くが、後年、他者から追求されると、自分の「証言」を撤回している。

 「マルコポーロ論文」について次のように訂正している。
 「マルコポーロ」の記事の中で、私は、幾つか不正確な記述もしています。特に、チクロンBの物性に関して、上述の加熱の意義を誇張し、絶対必須の操作であるかの様に述べた事は、間違いでした。又、もっと本質的な事ですが、「ホロコースト」と言う言葉の定義が明快でなかった事は、あの記事を執筆した時を振り返って、最も自己批判している事柄です。

【「その後の西岡見解」】
 「阿修羅ホロコースト板」が創設され、そこに西岡氏が登場し、いずれも貴重な次のような投稿をしている。これを転載しておく。
「ナチ『ガス室』はなかった」における私の誤った記述等について
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/279.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 27 日 15:58:25: of0poCGGoydL.
 「マルコポーロ」廃刊事件から10年が経ちました。あの事件の切っ掛けと成った、マルコポーロ」1995年2月号の記事「戦後世界史最大のタブー『ナチ・ガス室』はなかった」の筆者として、一言御挨拶をさせて頂きます。

 数日前、木村愛二さんから、阿修羅にホロコースト板が立ち上げられた事を聞きました。そこで、早速覗いてみると、こんなにも多くの方がこの問題を議論しておられるので、非常に驚かされました。皆さんの活発な議論を期待し、私自身、時々覗いて、大いに勉強させて頂きたいと思ひます。

 さて、折角の機会ですので、あの事件について、幾つか述べたいと思ひます。先ず、既にパソコン通信や1997年に出版した自著「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道)などにおいて、繰り返し述べている事ですが、私が「マルコポーロ」に寄稿した記事(「ナチ『ガス室』はなかった」)の文中には、誤った記述や曖昧な表現が幾つも有りました。

 特に、サイクロンB(チクロンB)の物性について、私は、青酸ガス(シアン化水素)の遊離に長時間を要する事を毒性の低さと誤解し、又、加熱を必須の操作の様に述べるなどし、誤った事を書きました。この事については、既に「マルコポーロ」廃刊直後から、何度も訂正とお詫びを申し上げて居ますが、今回立ち上がったこの板においても指摘が有るので、改めて、当時の私の誤りをここで明らかにし、お詫びを申し上げます。その上で申し上げますが、私は、「マルコポーロ」廃刊事件(1995年)から2年後に、そうした自分の誤りを訂正する事をも目的の一つとして、単行本(「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」)を発表しておりますので、私の見解については、この1997年の単行本の記述に即して、御批判等下されば、と思ひます。
Re: 了解しました。西岡様には訂正本を読んでから質問いたします
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/297.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 28 日 01:29:45: of0poCGGoydL.

 (回答先: Re: 了解しました。西岡様には訂正本を読んでから質問いたします。 投稿者 木田貴常 日時 2005 年 2 月 28 日 01:07:41)

 一番申し訳無く思う事は、サイクロンBの物性に関する記述です。もう一度言いますが、青酸ガス(シアン化水素)の遊離し終わるまでに長時間要する事と、蛾を殺すのに長時間要する事から、サイクロンBの毒性が低いかの様に書いてしまった事、加熱を必須の操作の様に書いた事などです。又、他にも曖昧な記述が多々有りますが、後は、細かい点に成りますので、さほど「ガス室の真実」をお読み下されば幸いです。(ヒトラーによる「ユダヤ人絶滅」の命令書が発見されていない事とか、ヒムラーが、アウシュヴィッツ収容所に対して「死亡率は絶対に低下させなければならない」と命じた事などは間違っていません。又、「ホロコースト」の内容が、戦後、二転三転して居る事などは、あの記事の通りです)


ナチスドイツがユダヤ人を差別、迫害した事自体は明白

 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/288.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 28 日 00:18:46: of0poCGGoydL.

 言うまでも無い事なのですが、私は、ナチスドイツがユダヤ人を差別、迫害した事自体は明白だと言う認識に立ってこの問題を論じて来ました。今更繰り返す必要は無いと思いますが、念の為、自著の一節を引用しておきます。

 ・・・以上の事から、私が言いたい事は、あの大戦中ユダヤ人が悲劇を体験しなかった、等と言う事ではないのです。そうではなくて、ユダヤ人たちには、これまで言われて来た話とは全く別の悲劇があったと言う事なのです。ですから、もし、誰かが、このように、多くのユダヤ人が差別され、収容所で病気に苦しみながら生命を落としていった事や、ソ連領内などで非戦闘員が大量に殺された事を「ホロコースト」と呼ぶのであれば、私はためらう事なく「ホロコースト」はあった、と言います。

 しかし、既にお話して来た事からお分かり頂ける様に、ドイツが「ユダヤ人絶滅」を計画し、その目的で「ガス室大量殺人」を行なった、というこれまでの主張には、私は、現状では、全くもって同意出来ません。そんな証拠は何もありませんし、証言は不合理に満ち満ちて居るからです。又、そうした主張と両立し得ない客観的証拠や証言が多数存在するのですから、そうした事柄全てに合理的な説明がなされ、証拠が示されない限り、私は、これまでの「定説」には全く持って同意する事が出来ません。

 当然、その様な主張が「ホロコースト」と呼ばれるなら、私は、その「ホロコースト」を信じる事は出来ません。「否定する」と言う言い方はあえてしませんが、それは、先程も述べた様に、証拠が示されるなら信じよう、と言う意味です。又、これだけ不合理な話であっても、信じる人が他者に信じる事を強制しない限り、信じる事は自由だと思うからです。ただし、それは、最早、事実ではなく、信仰と呼ぶべき物ではないかと私は思います。皆さんは、そうはお思いにならないでしょうか?

  (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道・1997年)240〜241ページより)
  http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html


病死したユダヤ人を冒涜する人々

 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/291.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 28 日 00:39:59: of0poCGGoydL.
 (回答先: ナチスドイツがユダヤ人を差別、迫害した事自体は明白。 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 28 日 00:18:46)

 続きです。

 ・・・この章の最後に私は、皆さんに或る事を考えて頂きたいと思います。それは、次の様な事です。「マルコポーロ」廃刊事件以来、一部の人々は、私のこうした見解に猛反発をし続けていますが、そうした反発の多くは、非常に感情的な物です。彼らの多くは、私がユダヤ人犠牲者を冒涜したとでも言う様な「批判」を加え続けて居ますが、あえて皆さんに考えて頂きたいと思います。一体、死者を冒涜して居るのは、どちらの方なのでしょうか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・戦争と言う物は、ただ単に戦闘によって尊い人命を奪うだけでなく、病気という形でも、多くの罪の無い人々の生命を奪うものなのです。こう言う事を忘れたか、或いは知らない人々が、「ガス室」に固執し、私が述べた様な議論に反発するのです。そこで、私は、その人たちにあえて問いかけたいと思います。チフスで死んだユダヤ人たちは、悲惨ではなかったのでしょうか?即ち、そう言う反発の根底には、「ガス室」で殺される事は悲惨だが、チフスで死ぬ事はそれほど悲惨ではない、とでも言う様な、奇妙な前提が無意識の内に横たわっている様に思えるのですが、これは、全くおかしな事ではないでしょうか?そういう人たちは、あのアンネ・フランクもチフスの犠牲者だったと考えられている事を、忘れているのではないでしょうか?

  (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道・1997年)241〜243ページより)
  http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html


チフスの悲劇

 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/299.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 28 日 03:59:36: of0poCGGoydL.

 (回答先: 病死したユダヤ人を冒涜する人々 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 2 月 28 日 00:39:59)

 チフスの悲劇

 先ず第一に、チフスという病気は、前述の様に、コロモジラミと言うシラミによって媒介されるのですが、そのコロモジラミが最も繁殖し易いのは、冬なのです。その為、一般にチフスは冬に発生し易いのですが、ナチスの収容所がドイツの敗退によって混乱し、衛生状態が特に悪化したのは、まさしく1944年から45年にかけての冬の事でした。つまり、本来チフスが発生し易い季節に、戦争の最悪の時期が重なったと言う事です。

 第二に、アウシュヴィッツなどが在ったポーランドは、歴史的にチフスが濃厚に浸潤して居た土地であり、それ以前にも、度々チフスの発生を繰り返して居た場所であった事に注目して頂きたいと思います。例えば、19世紀にナポレオンの軍隊がロシアに遠征した際にも、ポーランドではチフスが発生して、多くの死者を出して居ます。そうした土地に、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内のナチス収容所が在った事に注意して頂きたいのです。

 そして第三には、大戦中アウシュヴィッツやトレブリンカに移送されたポーランドのユダヤ人の中には、移送される前に、既にワルシャワ・ゲットーなどで、チフスに感染して居た人々が多数居たと言う事、そして、第二次大戦末期にドイツが、そのアウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所から、ドイツ本国のダッハウ収容所やベルゲン・ベルゼン収容所に、あのアンネ・フランクを含めた多くのユダヤ人を移送した事に最大の注意を払って頂きたいのです。

 ソ連軍がアウシュヴィッツに迫った時、ドイツは、アウシュヴィッツに収容したユダヤ人を殺さず、西方のダッハウやベルゲン・ベルゼン収容所に改めて移送したのですが、この事には、最大限注目する必要が有ります。即ち、この事実は、先ず、ドイツが、それらのユダヤ人を殺す為にアウシュヴィッツに収容した訳ではなかった事の傍証と言えます。その意味でもこの事実は注目に値しますが、それはともかくとして、戦争末期のこの大規模なユダヤ人の移送が、多くのチフス患者をドイツ本国に送り込む結果と成った事の意味は、このチフスの問題を考える上で非常に重要なのです。即ち、ユダヤ人たちが逆移送された結果、それまで以上の過密にさらされ、しかも、ポーランドの収容所で既にチフスに感染して居た人々が多数送り込まれる事に成ったのです。

 しかも、そこに前述した様に、冬と言う季節的要因までが加わった訳ですから、チフスの発生について言えば、これ以上の例はちょっと考えられないくらい、悪条件が重なったと言えるのが、大戦末期のナチス収容所の状況だったのです。これは、悲劇としか言いようの無い物です。そして、ベルゲン・ベルゼンやダッハウを解放した連合軍の兵士たちが目にしたものは、まさしく、そうしたチフスによる犠牲者が大部分を占める被収容者たちの死体の山だったのです。

 ところが、そうしたチフス患者などの死体の映像が、「ガス室」の犠牲者ででもあったかの様に利用されて来た事は、既に述べた通りです。情報操作その物ですが、今、私がこの章でお話して居るのは、そうした情報操作の問題ではなく、チフスこそが、収容所に入れられたユダヤ人たちの最大の悲劇だったと言う事です。

 あの大戦中、ユダヤ人たちが体験した悲劇は、もちろん、これだけではありません。前にも触れましたが、ドイツが侵攻したソ連領内では、ユダヤ系の市民が非戦闘員であるにも拘らず、パルチザンなどと混同されて、多数、殺害されて居ます。また、ワルシャワ・ゲットーなどでも、ユダヤ人は非常に悲惨な経験をして居ます。

 しかし、あえて収容所に入れられて居た人々について言うならば、彼らが体験した最大の悲劇は、私たちが戦後マスメディアなどによって刷り込まれて来た様な事ではなく、こうしたチフスなどによる病死であったと言う事なのです。それを語る事は、「ユダヤ人に対する冒涜」なのでしょうか?

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか」日新報道・1997年 237〜240ページより)

 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html
 http://macky.nifty.com/cgi-bin/bndisp.cgi?M-ID=zakkan


【ユダヤ人絶滅指令書考】
 西岡氏は、「ユダヤ人絶滅指令書」が見当たらない不審について次のように述べている。
 2005.3.2日付け「ユダヤ人絶滅を命じた文書は発見されていない(1)
 ・・・連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府文書を押収した。それによって、戦争中ドイツが何を検討し、何を命令したかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ政府文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が『ユダヤ人絶滅』を決定、命令した文書は、一枚も無かったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が『ユダヤ人絶滅』を命令した文書を提出していない。これに対しては、『ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ』とか、『ユダヤ人絶滅は極秘事項だったので、命令は口頭で為されたのだ』とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも『仮説』でしかない。事実として、そのような文書は、今日まで、一枚も発見されていない。もし、証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。・・・

 (「マルコポーロ」1995年2月号・西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー・『ナチ『ガス室』はなかった』より)

 2005.3.2日付け「ユダヤ人絶滅を命じた文書は発見されていない(2)

 連合軍が戦後ドイツで押収した膨大なドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは当時のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を命じた文書は、一枚も有りませんでした。私が、「マルコポーロ」1995年2月号の記事(「戦後世界史最大のタブー・ナチ『ガス室』はなかった」)の中でこの点を指摘した事について、マルコポーロ廃刊事件の後、「定説」側の歴史家が何と言ったかと言うと、「ユダヤ人絶滅に関するヒトラーの命令書が存在しないのは事実である」(学研『歴史群像シリーズ』42/アドルフ・ヒトラー[権力編] 栗原優「わが闘争」も深き傷痕「ヒトラーと民族社会主義/ナチズムのイデオロギーとその現実」より)

 「この大号令(西岡注「ユダヤ人絶滅」を指す)が文書によって発令された事はない」(村瀬興雄「ヒトラー体制とドイツ(4)最新ナチス編/次第に明らかにされて来た第三帝国」より)等と言っておられます。

 2005.3.2日付け「ユダヤ人絶滅を命じた文書は発見されていない(3)
 私の本(「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」)からの引用です。

 つまり、もう一度言いますが、これだけ「ドイツはユダヤ人絶滅を計画した」と言われながら、そのような決定や命令を裏付ける文書は、実は一枚も発見されていないのです。あるのは、ただ、そんな命令が出されたに違いないという「定説」側歴史家の想像だけなのです。

 そういう命令文書がないので、何か代わりの文書を提示しなければ、ということなのでしょう。「定説」側論者の中には、「ヴァンゼー会議議事録」と呼ばれる文書とか、ゲーリングが1941年7月31日に書いた手紙、またはヒムラーが43年10月4日に行なった演説の「筆記録」とされる文書などを引用して、それらの中で「ユダヤ人絶滅」が間接的な形で言及されている、と主張する論者もいます。しかしながら、原文を読めば分かることですが、これらの文書の内容は、「ユダヤ人絶滅」を語ったものなどでは全くないのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)

 ここで、前出の栗原優教授の説明をもう一度聞いてみましょう。「ユダヤ人絶滅に関するヒトラーの命令文書が存在しないのは事実である。しかし、ヒトラーがこの時点でユダヤ人絶滅を決定したことを立証する資料は存在する。おそらくそれは口頭で命令されたのであろう。」  (学研『歴史群像シリーズ』42)

 「おそらくそれは口頭で命令されたのであろう」とは、想像に過ぎないではありませんか(!)しかも、その「ヒトラーがこの時点でユダヤ人絶滅を決定したことを示す資料」とは一体何を指すのでしょうか?(もしや「ヴァンゼー会議議事録」のことでしょうか?)栗原教授は、何故か、この一番大事な点を言っておられないのです。

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」日新報道・1997年 62〜64ページより)

 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dphc9708.html
 2005.3.2日付「ユダヤ人絶滅を命じた文書は発見されていない(4)
 ・・・さらに重要な事は、戦後、連合軍が押収したドイツ政府の公文書の中に、どう読んでも、「ユダヤ人絶滅」とは両立しない命令や決定を明記した文書が、多数、発見されているという事実です。即ち、ただ「ユダヤ人絶滅」の命令文書がないだけではないのです。「絶滅」とは両立しない決定や命令が為されていた証拠が、押収されたドイツ政府公文書の中に多数、存在しているのです。

 例えば、1942年8月21日のドイツ外務省の文書には、総統(ヒトラー)は、ユダヤ人を戦後、ソ連領内に強制移住させる事を決めている、という意味の記述があります。「絶滅」ではありません。強制移住なのです。それは、もちろん、不当な差別政策ですが、その上、この文書には、アウシュウィッツをはじめとするポーランド領内の収容所は、そうした戦後のユダヤ人強制移住計画のための準備施設だという意味の記述まであるのです。これがどうして、「ユダヤ人絶滅」などという計画と両立するというのでしょう?

 他にも、マダガスカルとかロシアなどにユダヤ人を強制移住させる事を当時のドイツ政府が計画していたことを示す文書は幾つも発見されており、「定説」側も、ナチスドイツが、少なくともその初期においては、ユダヤ人を「絶滅」させるのではなく、マダガスカルなどに強制移住させる計画であったことは認めているのです。「定説」側は、それが或る時期から「絶滅」に変更されたと「説明」するのですが、そのような変更が為された証拠は提示されていません。

 それどころか、例えば、ドイツ外務省の高官フランツ・ラーデマッヒャー(Franz Rademacher)などは、42年の2月10日に、次のような文書を発しているのです。「ソ連との戦争は、一方において、最終的解決(Endloesung)のための別の土地を得る可能性を生み出している。その結果、(ヒトラー)総統は、ユダヤ人はマダガスカルにではなく、東方に移住させられるべきであると決定した。マダガスカルは、最早、最終的解決との関係に於いて考慮される必要はない」(訳・西岡 原文は以下の通り)

 Der Krieg gegen die Sowjetunion hatinzwischen die Moeglichkeit gegeben,andere Territorien fuer die Entloe−sung zur Verfuegung zu stellen.Demgemaess hat der Fuerer entschie−den dass die Jueden nicht nach Mad−agaskar, sondern nach dem Osten ab−geschoben werden sollen. Madagaskar braucht mithin nicht mehr fuer die Entloesung vorgesehen zu werden. (Nurenberg document NG−3933)

 繰り返して言いますが、このような強制移住計画が、差別に基ずいた不当な政策であったことは明白です。しかし、そうした道徳的判断とは別に、事実の問題として、これは、どう読んでも、ドイツのユダヤ人政策の目標が、言われて来たような「絶滅」ではなく、(ロシア等への)強制移住だったことを示す文書ではないでしょうか?


 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 68〜70ページより)
 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html
 2005.3.2日付「ユダヤ人絶滅を命じた文書は発見されていない(5)
 ・・・しかも、この文書が書かれた日付け(1942年2月10日)が、前述の「ヴァンゼー会議」があったとされる(同1月20日)の後である事も重要です。もし、その「ヴァンゼー会議」が本当に開かれ、そこで「ユダヤ人絶滅」が討議されていたとしたら、どうして、その会議より後に書かれたこの文書に、ユダヤ人の「東方」への強制移住計画が、「最終的解決」を意味するものとして述べられているのでしょうか?

 こうした文書は他にも幾つも有るのですが、「定説」側論者たちは、何故かこういう文書の存在には殆ど言及しようとしません。そして、ただ自分たちの想像だけで、ドイツが当初抱いたマダガスカルへのユダヤ人強制移住計画は、或る時期から「絶滅」に変更された、などと一方的に述べるのです。しかし、例えばこの文書がそうですが、連合軍が戦後、押収したドイツの内部文書には、「マダガスカル」を「東方」(ソ連領内と取れる)に変更したという、ユダヤ人強制移住計画の内容が、具体的に書かれてあるのです。一体どこに、「民族絶滅」が命令された証拠があると言うのでしょうか?

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 70ページより)
 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

 2005.3.2日付「ユダヤ人絶滅を命じた文書は発見されていない(6)
 ・・・また、この年(1942年)の12月28日には、アウシュウィッツ収容所でのチフス等による死亡者が多いことから、同収容所の死亡率を減らすよう命じた文書が、強制収容所の統括司令部から、アウシュウィッツの責任者に宛てて出されています。この命令書には、ヒムラーの言葉を引用して、何とこう書かれてあるのです。「死亡率は絶対に低下させなければならない」

 一体これが、「ユダヤ人絶滅」と両立する命令かどうか、考えて頂きたいと思います。こうした命令は、ドイツがユダヤ人を労働力として利用しようとしたから出されたものだと思いますが、こうした命令に符合するかのように、アウシュウィッツ=ビルケナウには、「絶滅」される筈のユダヤ人他の被収容者のための病院もあったのです。一体、ユダヤ人を「絶滅」するための収容所に、何故そのユダヤ人他の被収容者用の病院があったのか、私は、「定説」側の歴史家が納得のいく説明をしているのを、読んだことがありません。

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 71ページより)
 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html


「ユダヤ人絶滅」のための予算は計上されていない(1)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/371.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 02 日 23:20:55: of0poCGGoydL.  

 ・・・まだ、あります。これまでお話ししたように、「ガス室」で殺された死体も、「ユダヤ人絶滅」を命じた文書も全く発見されていないのですが、それに加えて、当時のドイツ政府は、何と「ユダヤ人絶滅」の予算を計上していないのです。つまり、仮にそんな大計画があったとしたら、当然、大変な額の予算が計上される筈なのに、それが全く計上されていないのです。一体、これでも、「ユダヤ人絶滅計画」は実在したのでしょうか?

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 73ページより)
 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html


ガス室の設計図は発見されていない(1)

 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/377.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 02 日 23:53:48: of0poCGGoydL.

 ・・・それから、ポーランドが管理するアウシュウィッツ博物館は、アウシュウィッツ収容所の敷地内にある博物館で、戦争中ドイツが残して行ったアウシュウィッツ関連の文書や図面を多数、保存している事で知られています。又、ロシアにも、ソ連軍がアウシュウィッツで押収したドイツ側文書が多数残っていますが、それらの中に、「ガス室」の設計図とか見積り書といったものは、結論から言うと、一枚も発見されていないのです。

 例えば、アウシュウィッツ=ビルケナウで今日「ガス室」として公開されている地下室の設計図を見ると、たくさんある図面のどれを見ても、それらの地下室には「死体安置室(Leichen−keller)」という書き込みがあるばかりで、それらの地下室が処刑用ガス室として設計された事を示す図面は無いのです。そのため、「定説」側論者の一人は、「これらの部屋は、当初はただの死体安置室として設計され、後からガス室に転用されたのだ」等と説明しているのですが、そんな証拠は何もありません。(後述)

 それに、仮にその仮説が正しいとすると、その収容所が建設された当初は、その「ガス室」を作る予定がなかったという事になります。つまり、「ガス室」を作る計画がない段階で収容所そのものは建設されていたことになるわけですが、これはおかしくはないか。何故なら、二つに分かれたアウシュウィッツ収容所の内、後から建設された第二アウシュウィッツ(別名ビルケナウ収容所)の方は、最初から「ユダヤ人絶滅」の目的で作られた、とするのが、「定説」側のこれまでの説明だったからです。それなのに、もし第二アウシュウィッツ収容所に、建設当初は処刑用ガス室を計画自体がなかったというのなら、この収容所(第二アウシュウィッツ)が建設された目的が、「ユダヤ人絶滅」ではなかった、ということにもなりかねないわけで、これは、「定説」側が、これまで主張してきたアウシュウィッツ(ビルケナウ)に関する説明を根本から書き変えるものです。それどころか、問題の「ユダヤ人絶滅計画」の実在にすら疑問が投げかけられかねない話なのです。

 この設計図の問題については、プレサック(Pressac)という反見直し論者の研究に触れる形でもう一度触れたいと思います。なお、「定説」側の本の中には、こうした第二アウシュウィッツの地下室(死体安置室)の設計図や、マイダネックの殺虫用ガス室の図面を処刑用ガス室の図面ででもあるかのように載せている本があります。悪質なトリックですが、日本の歴史家たちは、こういう事に気が付かないのでしょうか?

  (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 74〜75ページより)

 この文中の「『定説』側論者の一人」とは、プレサック氏の事です。又、末尾の部分で私が批判したのは、みすず書房の「夜と霧」です。
 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

訂正

 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/378.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 03 日 00:03:42: of0poCGGoydL

 (回答先: ガス室の設計図は発見されていない(1) 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 02 日 23:53:48)

 マイダネックの図面に関してインチキ資料を掲載しているのは「夜と霧」ですが、第二アウシュウィッツの地下室の図面を処刑用ガス室の図面の様に掲載しているのは別の本でした。(今、名前が浮かびませんが、そういう本を見ました)                   西岡昌紀


私も厚生省から弾圧を受けましたよ

 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/379.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 03 日 00:09:30: of0poCGGoydL

 (回答先: 「ホロコーストは嘘」論者に対する弾圧の大きさに何を見るか? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 3 月 02 日 23:52:14)  

 私も、マルコポーロ廃刊事件の際、厚生省(当時)から弾圧を受けましたよ。記者会見をするな、とかね。すさまじい脅迫でした。西岡昌紀 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html


お笑いアウシュヴィッツ(1)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/475.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 08 日 18:22:15: of0poCGGoydL.

 第二アウシュヴィッツ(別名ビルケナウ)で「ガス室」として公開されて居る地下室の一つについて、フランスの見直し論者フォーリソン博士は、驚くべき事を指摘しています。

・・言われている「定説」側の説明によれば、「ガス室」だったとされる第二死体焼却棟の地下室には天井に小穴が四つあり、その小穴から例のチクロンBが投入されたという話になっています。ところが、この点について、見直し論者の一人であるフランスのフォーリソン教授は、驚くべき事を指摘しているのです。それは、現在ビルケナウに現存する第二死体焼却棟に足を運んでその実物を見ると、「ガス室」だった筈の地下室の天井、即ち、その地上部分に、肝心の小穴が一つしかない(!)という事なのです。しかも、その一つしかない小穴も、フォーリソン博士によれば、非常に新しい物で、戦後開けられた物だとしか考えられない、というのです。穴が無ければ、チクロンBを投げ込めないではありませんか!(私もここに足を運んでいますが、その時は、不覚にも、この事には気付きませんでした。これは、フォーリソン教授に電話で指摘された事です)そして、フォーリソン教授によると、ビルケナウを管理するアウシュウィッツ博物館は、この事について、何も説明していないと言う事です。これは、説明出来無いからではないでしょうか?

   (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 124ページより)

    http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

お笑いアウシュヴィッツ(2)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/477.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 08 日 18:51:06: of0poCGGoydL.

 ・・何度か触れている通り、今日アウシュウィッツを管理しているのは、ポーランド政府の意向を反映した、アウシュウィッツ博物館という組織です。この組織は、二つのアウシュウィッツ収容所をともに管理していますが、博物館それ自体は第一アウシュウィッツに在り、その収容所の建物の中で、色々な物品を展示したり、アウシュウィッツに関する資料を管理したりしています。その第一アウシュウィッツに、今、お話している「第一死体焼却棟」が在る訳ですが、二つのアウシュウィッツ収容所に「現存」する複数の「ガス室」(またはその残骸)の内、最も良く建物の形態が「保たれている」のは、この第一死体焼却棟の「ガス室」なのです。ところが、この第一死体焼却棟に関するアウシュウィッツ博物館の説明には、根本的な問題が有るのです。それは、この建物が当時そのままの物なのかと言う点について、博物館側が矛盾する説明をして来たと言う事なのです。つまり、先に挙げた様々な不合理全てに目をつぶったとしても、この建物が当時そのままの状態になければ、この建物に「物証」としての価値など有りません。当然、と言うべきでしょう。

 アウシュウィッツ博物館は永年、この第一死体焼却棟はドイツ人がアウシュウィッツに居た頃のままの状態に在ると説明し続けて来ました。ところが、そのアウシュウィッツ博物館は、この建物が持つ様々な不合理について追求されると、「この建物(第一死体焼却棟)は復元された物です」等と言って、弁明する事を繰り返して来たのです。一体、この「ガス室」は、当時そのままの物なのか、それとも後から「復元」された物なのか?この根本的な問いに対するポーランド当局自身の答えが、こんな物なのです。そして、1990年代には、博物館の責任者がはっきりと、この「ガス室」は「再建された物」だと言い、戦争中そのままの物ではない事を認める様に成っています。しかし、かつては、「当時のままの状態に在る」と言っていたのですから、これは、話が変わったとしか言い様の無い変化です。譬えて言えば、再建された金閣寺を京都市が「当時のままの建物」と説明していた様な物です。そして、それを観光客に問い詰められて、「実は再建した物です」と認めた様な物ですが、こんな「説明」をしたら、誰であれ、信用されなく成るのは、当然です。

 その上、この建物の場合は、その「再建」が信用出来ると言う保証は何も無いのです。それどころか、戦争直後の写真を見ると、明らかに現状と違う事が分かるのです。例えば、前頁の写真を御覧下さい。これは、「定説」側のプレサックと言う論者の著作に載っている、1945年のこの建物の写真(上)ですが、私が94年に撮った写真(下)と比較して下さい。あの煙突は、戦争直後には立っていなかったではありませんか。

   (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道・1997年 109〜112ページより)
    http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

お笑いアウシュヴィッツ(3)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/478.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 08 日 19:07:44: of0poCGGoydL.

 ・・アウシュウィッツは二つの収容所から成る訳ですが、先に作られた第一アウシュウィッツにも、後から作られた第二アウシュウィッツ(別名ビルケナウ)にも、それぞれ「ガス室」が有ったとされています。より多くの人間が殺されたのは、後者(第二アウシュウィッツ)の複数の「ガス室」においてだったと説明されていますが、先に作られた第一アウシュウィッツ収容所にも、一つ「ガス室」があったとされています。

  その「ガス室」の「実物」とされる建物が、第一アウシュウィッツで公開されていますが、これは、火葬場と一緒に一つの建物の中にあるので、「第一死体焼棟(Kremattorium 1)」と呼ばれるのが普通です。これは、アウシュウィッツで最初に作られた「ガス室」と言う事に成る訳ですが、この建物は、マスコミなどで非常に頻回に紹介されて来た物です。・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この「ガス室」では、天井に開いた幾つかの「投入孔」から、そのチクロンBが投げ込まれたと言う事に成っています。つまり、天井(屋根)の小穴から投入され、「ガス室」の床に落ちたチクロンBが青酸ガスを発生する事で「処刑」が行なわれた、とアウシュウィッツ博物館などは説明しているのです。しかし、その様な事が行われたと信じるには、余りにおかしな事が幾つも有るのです。
 
 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道 1997年  100〜102ページより)

  http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

お笑いアウシュヴィッツ(4)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/479.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 08 日 19:16:11: of0poCGGoydL.

(回答先: お笑いアウシュヴィッツ(3) 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 08 日 19:07:44)

 ・・先ず、この建物(「第一死体焼却棟」)は、ドイツ人用の病院の真ん前にあります。(前頁参照)距離は、大体20メートルくらいです。こんな場所に 「ガス室」を作ったのでは、「ガス室」での処刑後、内部を換気するために「ガス室」内部の青酸ガスを排気した時、一体、どんな事が起こるか想像して 頂きたいと思います。そうです。向かいの病院に居るドイツ人たちが、生命の危険にさらされてしまう筈なのです。この建物が処刑用ガス室だったとしたら、その位置は、こんなにも馬鹿げたものなのですが、それにも拘らず、ポーランド当局は、戦後ずっと、この構造物を「ガス室」だと言い続けて来たのです。

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」 日新報道・1997年 102〜103ページより)


  http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

お笑いアウシュヴィッツ(5)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/480.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 08 日 19:29:14: of0poCGGoydL.


 第一アウシュヴィッツの自称「ガス室」、第一死体焼却棟の不合理に関する私の指摘の続きです。(文中の「この建物」とは、第一死体焼却棟(クレマ1)を指します)

 ・・又、先ほどの話に関係しますが、この建物の「ガス室」とされる部分の天井には、「投入孔」が有ります。つまり、ここから問題のチクロンBが投げ込まれた、と言う訳です。しかし、この「投入孔」を見ると、奇妙な事に気が付きます。この建物の屋根天井の内、これらの「投入孔」の周りだけが、コンクリートの質が違うのです。(次頁参照)つまり、これは、これらの穴が後から開けられた事を意味すると思うのですが、一体なぜ、後からこの穴が開けられたのでしょうか?その上、この「投入孔」は、非常に粗雑なくり抜き方で開けられている事にも注目しなければなりません。これが何を意味するかと言えば、この穴には気密性が無いと言う事です。ところが、これは、処刑用ガス室の構造としては、決定的におかしい事なのです。即ち、青酸ガスによって処刑を行なうなら、その「ガス室」には、極めて高度な気密性が要求される筈ですが、この「投入孔」を見れば、この「ガス室」(?)にそんな気密性が無い事は余りにも明らかです。

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか?」日新報道 1997年  103ページより)
  http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

お笑いアウシュヴィッツ(6)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/488.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 09 日 01:46:45: of0poCGGoydL.

 ・・又、この第一死体焼却棟(「クレマ1」)の「ガス室」には、換気装置の痕跡が見られません。そもそも、この「ガス室」は、ドイツ人用の病院の真ん前に在り、これでは、「ガス室」を換気する際、ドイツ人たちの生命に重大な危機を生じてしまう事は既に述べました。しかし、その点に目を瞑ったとしても、仮にこの建物のこの部屋が「ガス室」だったとしたら、処刑後、この「ガス室」をどう換気したのか、と言う問題は、全く未解決のままなのです。・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 アメリカの処刑用ガス室では、処刑後、その青酸ガスを煙突(stack)を通して徐々に排気するという方法が取られているのですが、これは、青酸ガスが空気より軽い事に関係の有る方法だと思われます。・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・
 ところが、この様な背の高い煙突を含めて、「ガス室」を換気する為の装置が、この自称「ガス室」には無いのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・
 他にも、このこの建物には、色々な不合理が指摘されていますが、例えば、この煙突はどうでしょうか。「ガス室」の隣りの死体焼却室の煙突とされている物ですが、この通り、建物とつながってすらいないのです。(前頁参照 写真西岡)

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか」日新報道 1997年  105〜107ページより)
  htt@://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

お笑いアウシュヴィッツ(7)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/489.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 09 日 01:57:40: of0poCGGoydL.

 ・・この様に、その位置と言い、気密性が欠けている事と言い、換気装置の痕跡が無い事と言い、この「ガス室」はおかしな事だらけなのです。しかし、もっと決定的な事を言いましょう。最近、この「ガス室」が偽物だと言う事を、何と「定説」側の論者が言い出したのです。それは、エリック・コナン(Eric Connan)と言う「定説」側の論者ですが、彼は、もちろん、第二アウシュウィッツ(ビルケナウ)に在る「ガス室」については、何ら疑問を投じては居ません。しかし、事この第一アウシュウィッツの「ガス室」に関しては、「そこに在る全ては偽物である(Tout y est faux)」と、アウシュウィッツ解放50周年を特集した、フランスの週刊誌「レクスプレス(l’Express)」誌上の記事で、ついに認めているのです。

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実・本当の悲劇は何だったのか」日新報道 1997年  107〜109ページより)
  http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

「ガス室で殺された人間は、名前も記録もされずに処刑された」と言う説明は、そう言う記録は無い、と言う意味です(笑)
 http://www.asyura2.com/0502/holocaust1/msg/593.html
 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 3 月 14 日 06:46:23: of0poCGGoydL.

(回答先: 公開された「アウシュビッツ死亡台帳」6万9千人分は全てではない-年間死亡率150%? 投稿者 無駄一 日時 2005 年 3 月 14 日 03:52:47)

 アウシュヴィッツ博物館は、「ガス室で殺された人々は、名前も記録されずに殺された」と言っていますよね。この「説明」は、私自身、アウシュヴィッツ博物館で聞かされました。でも、これって、要するに、そんな処刑記録は発見されてない、と言う意味なんですよね。(笑)

1)「ユダヤ人絶滅」の命令書は発見されていない

2)「ユダヤ人絶滅」の予算は計上されていない

3)「ガス室」の設計図は発見されていない

4)「ガス室」による処刑の記録は発見されていない

5)「ガス室で殺された死体」は発見されていない

6)アウシュヴィッツ、ビリケナウの「ガス室」とされる部屋からは、予想される様な高濃度のシアンは全く検出されない

  これが、現実です。これで「ガス室」が有ったと言うなら、ネッシーだって存在するのではないでしょうか。


 西岡氏は、「阿修羅ホロコースト2」の2006.3.2日付投稿「私の見解を引用される方へのお願い」で次のように述べている。これを転載しておく。
 最近、ホロコーストに関するブログや掲示板が増えて居る事に驚いて居ます。非常に結構な事ですが、それらのブログや掲示板で、私(西岡)の見解を論評される場合にお願いしたい事が有ります。

 周知の通り、私は、文芸春秋が発行する月刊誌「マルコポーロ」1995年2月号に「戦後世界史最大のタブー・ナチ『ガス室』はなかった」と言ふ記事を寄稿しましたが、その2年後に、「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道)と言ふ単行本を出版して居ます。

 最近のブログや掲示板を拝見すると、前者(「ナチ『ガス室』はなかった」)を引用される方が多く、逆に、後者を引用される方が少ない様に思はれます。

 「マルコポーロ」廃刊事件の資料として前者を引用、批判される事は全く構はないのですが、私としては、あの記事の2年後に、苦労して書いた単行本が有るにも関わらず、前者ばかりが取り上げられる事に、少々失望しております。

 特に、前者(「ナチ『ガス室』はなかった」)には、サイクロンBの物性に冠する明白な誤りや、その他、誤解や混乱を招く記述が有りました。その為、私は、1995年に、パソコン通信の場でそれらの誤りや不正確な記述について訂正と自己批判をして居ます。そして、それらの誤りや不正確な記述の訂正の意味もこめて、「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道)を発表しております。ですから、繰り返して申し上げますが、前者を批判するのは結構ですが、その2年後(1997年)に、誤りの訂正を兼ねて発表した単行本が有るのですから、ネット上で私(西岡)の見解を論じられる場合は、この単行本の記述に即して、論評、批判を頂けます事を、再度、強く要請致します。

 議論を深める上で、私が書いた誤りが再び伝えられる事は最も避けなければなりませんし、既に訂正した事柄をいつまでも繰り返し訂正するために時間を費やす事は、著者の本意ではありません。

 なお、拙著「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道)をスキャナーによってネット上に紹介なさる事は全く構ひません。むしろ歓迎致します。

 以上、御留意頂ければ幸いに存じます。

 平成18年3月2日(木) 西岡昌紀(にしおかまさのり)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/nishiokamasanori/






(私論.私見)