ルドルフ報告、ロイヒター報告考 |
<Q&A>
<参考リンク>
<最近の注目すべき研究>
ゲルマール・ルドルフ
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日2003年6月20日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Germar Rudolf,
A Brief History of Forensic
Examinations of Auschwitzを試訳したものである。 online: http://ihr.org/jhr/v20/v20n2p-3_Rudolf.html |
アウシュヴィッツは、人類史における最大の犯罪の象徴となってしまった。アウシュヴィッツというドイツの強制収容所で、100万もしくはそれ以上の人々がガス処刑されており、その大半がユダヤ人であったという事件の意味について、哲学者、神学者、文学者ならびに法律家、歴史家が際限のない議論を繰り広げてきたし、ジャーナリストや政治家も数多くの決まり文句を語ってきた。しかし、本小論の焦点は、以下の問題点に向けられている。
1.
この途方もない犯罪は、徹底的な法医学的分析を介して、丹念に検証されてきたのであろうか。
2.
アウシュヴィッツの犯罪現場の法医学的調査はどのように行なわれてきたのか、そして、どのような結果を生み出したのか。
法医学的調査の道徳的義務
1993年の晩春、シュトゥットガルトのマックス・プランク研究所は、内部文書をその被雇用者に発して、アウシュヴィッツについての研究を行なったがゆえに、博士号の請求が却下されると伝えた。研究所は、ユダヤ人に対する民族社会主義者の犯罪の恐ろしさを考えると、犠牲者が殺された特殊な方法を議論したり、死者の正確な数を決定しようとすることは道徳的に不快なことであると説明した。世界でも有名な研究機関の一つが、正確な量を決定しようとすることが倫理に反するだけではなく、非難されることであり、解職理由となると職員に述べたことは、まったくの皮肉な事態としかいいようがない。
第二次世界大戦中に、ドイツの支配下にあった地域で、何名のユダヤ人が死亡したのであろうか。何年たっても、彼らがどのようにして死亡したのか苦痛に満ちて調査することは重要なのではないだろうか。たとえ犠牲者が一人であっても、それだけで十分であり、多くのユダヤ人が死亡したことを否定している人々はいない。
しかし、こうしたことを肯定することは、人類史のなかで前代未聞の犯罪を化学的に調査することに対する、異論――道徳的もしくはそうではない――を唱えることではない。きわめて非難されるべき犯罪ですら、ほかの犯罪に標準的に適用できるような方法で調査しなくてはならない。すなわち、詳細な物的調査の対象とすることができるし、またそうしなくてはならない。さらに、犯罪とみなされている事件や実際の犯罪がユニークであると考えている人であれば、そのユニークさを事実と認める前に、犯罪を徹底的に調査しなくてはならないであろう。
もしも、道徳的憤慨というタブーを作り出すことで、前代未聞とされる犯罪を、調査から守ろうとするならば、このタブーを作り出した人物は、少なくとも道徳的には、一つの罪を犯していることになる。すなわち、いかなる批判も弁護も超越した前代未聞の罪状を一つの民族全体、ドイツ民族に押しつけているのである。「ホロコースト」(第三帝国による数百万のユダヤ人の意図的絶滅と定義されている)に対しては、どのような二重基準が適用されているのか明らかにするために、「人道に対する罪の」最近の事例に対する国際社会の反応をあげておこう。1991年にソ連が崩壊すると、数十万のソ連人犠牲者の大量埋葬地が数多く発見され、調査された。犠牲者の数だけではなく、多くの場合、死因も決定された。これらの大量埋葬地の多くが発見されたのと同じ地域で、百万以上のユダヤ人が特別行動部隊によって射殺されたといわれている。しかし、ソ連やその後継国家がこれらの地域を支配していた半世紀以上のあいだに、このような埋葬地が発見されたことも、まして、発掘・調査されたこともないのである。
1999年のコソヴォ紛争では、セルビア人による大量殺戮の噂が世界中に広まった。戦闘が終わると、国際的な法医学調査団がコソヴォにやってきて、大量埋葬地を探索・発掘し、法医学的な調査を行なった。これらの埋葬地は、アルバニア人が主張したよりも数少なかっただけではなく、いわれてきた犠牲者数の何分の1かであった。
連合国は、戦時中か戦争直後に、ドイツの犠牲者となったといわれていた人々の大量埋葬地を発見・調査しようとしたのであろうか。知られている限りでは、カチンの一例だけである。しかし、ソ連の法医学調査団は、そこに埋葬されていた数千のポーランド軍将校の大量殺戮の責任をドイツに押しつけたが、今日では、その報告書は虚偽とみなされている。1943年にドイツが招請した国際法医学調査団は、ソ連が大量殺戮を行なったとの結論を下したが、今日では、ロシア政府でさえも、その報告書が正確であったと認めている。
法医学の定義
一般的に、法医学は犯罪学の補助学問とみなされている。その目的は、犯罪の物理的痕跡を集め、分類し、痕跡から、犠牲者、犯人、凶器、犯罪時刻、犯罪現場、犯罪がどのように行なわれたのかについて結論を下すことである。この学問は比較的新しく、イギリスの法廷ではじめて指紋が証拠として受け入れられた1902年に法廷に登場した。1998年のCD-ROM版のブリタニカ百科事典は、法医学について次のように記している。
「法執行機関は容疑者を識別したり、当該の容疑者と犯罪との関連性を疑問の余地なく確定しようとしているが、幅広い科学技術がこの機関に利用されている。血液や体液(精液や唾液)の分析によって、犯人の何らかの特徴が明らかとなる。繊維を顕微鏡で観察したり、化学的に分析することで、たとえば、犠牲者の身体や犯罪現場で発見された繊維が容疑者の衣服の繊維と同一のものかどうかを明らかにできる。毛髪のサンプルや、とくに毛根についた皮膚細胞は、科学的、遺伝学的に、それが容疑者のものかどうか検証できる。ガラス、紙、塗料などの多くの無生物物質も顕微鏡で観察したり、化学的な分析を加えれば、多くの情報を提供してくれる。当該の文書を分析して、それが使っている紙が、それが書かれたとされている時期には存在していなかった技術を使って製造されたことが明らかとなれば、この文書は偽造されたものと判断できる。ガラスの小片でさえも、屈折率を光学的に分析すれば、問題の品やガラスの断片が、特定の時期と場所で製造された一そろいのガラス製品の一部であることが明らかとなる。」
したがって、法医学とはまさしく、フォーリソンにはじまる修正主義者が物的証拠の研究と呼んだものである。修正主義者はこのような物的証拠を求めているが、その考え方は、近代の法執行機関の正常なやり方とまったく一致しているのである。そして、広く認められているように、法医学的な証拠は、目撃証言や文書的証拠よりも信頼しうる。
法医学とアウシュヴィッツ
1946年のクラクフでのアウシュヴィッツ裁判
1945年、クラクフ法医学研究所は、アウシュヴィッツの法医学的調査報告を用意し、それは、1946年、ポーランドのクラクフでのアウシュヴィッツ裁判に証拠として提出された。[1] この専門報告は用心して扱わなくてはならない。共産主義体制のもとでの法医学調査と裁判は信用できず、ポーランドは1945年には、スターリン主義的な衛星国家であったからである。カチン事件を指摘しておけば十分であろう。ポーランドの共産党政府はソ連報告を完全に認めていたのである。[2]
クラクフの法医学調査団は、おそらく囚人のものと思われる髪の毛と、アウシュヴィッツでソ連が発見したバッグからの髪の毛の留め金を採取した。シアン残余物の検査をした結果、髪の毛も留め金もポジティブであった。さらに、亜鉛メッキの金属カバーもシアンの検査を受けたが、やはりポジティブであった。クラクフ研究所は、この金属カバーがビルケナウの殺人「ガス室」の排気口を覆っていたと主張している。
研究所の行なった検査は量的分析ではなく、質的分析であった。言い換えれば、この検査が判定したのは、シアンが存在していたかどうかであって、シアンの量がどれほどであったかではない。
アウシュヴィッツではシアン化水素を使った殺人ガス処刑が行なわれたかどうかを判断するにあたって、この分析には価値がない。それは以下の3つの理由による。
1.
髪の毛とアウシュヴィッツのバッグからの髪の毛の留め金の起源と歴史について、判断することができない。分析結果が正しいとしても、化学的観点からすると、次のことが指摘できる。毛髪のシアン化合物検査がポジティブな結果を出したことは、髪の毛がHCN(シアン化水素)にさらされたことがあることを立証しているにすぎない。この髪の毛を持つ人間がシアン化合物によって殺されたことを確証するには不十分である。また、髪の毛はガスにさらされる前に、切られていたはずである。連合国の収容所でも、ドイツの収容所でも、衛生上の理由から髪の毛を切ることが普通であった。一定の長さの髪の毛がのちに再利用されるときには[3]、前もって殺菌消毒されねばならなかった(シアン化水素を含んだチクロンBを使うことが多かった)。したがって、髪の毛からシアン化合物のポジティブな結果が出たとしても、人間がガス処刑されたことを立証しているわけではない。
2.
いわゆる「ガス室」の排気ダクトを覆っていたとされる亜鉛メッキの金属カバーについても同様の問題点がある。その正確な起源と歴史が知られていない。クラクフ研究所は、金属片からサンプルを採取する代わりに、いわゆる「ガス室」の壁から採取されたサンプルを分析すべきであった。
a.
これらの金属カバーの起源と歴史は不明であるが、「ガス室」として使われたとされる死体安置室の起源と歴史(部分的ではあるが)は知られている。
b.
セメントやコンクリートと比べて、亜鉛メッキの金属カバーは、安定した鉄シアン化合物の生成を阻害する。[4] 亜鉛シアン化合物は比較的不安定であり、短期間で消滅してしまうにちがいない。[5]
c.
湿った地下室のなかの多孔性の壁資材が、物理的・化学的にス参加シアンを蓄積・固定する傾向は、金属よりも数百倍も高い。
d.
事実、クラクフ研究所に送られたサンプルにつけられていた書簡には、いわゆる「ガス室」から採取されたというモルタルのサンプルも同封されており、シアン化合物検査をするべきであると記載されていた。しかし、どういうわけか、クラクフ研究所は報告書のなかでこのモルタルのサンプルについてはふれていない。おそらく、ポジティブな結果が出ていなかったのであろう。
3.
同じ分析を繰り返しても、同じ結果が出たという証拠がまったくない。
1964−1966年のフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判
フランクフルトで開かれたアウシュヴィッツ裁判では、いくつかの専門報告が提出されたが、ミュンヘンの現代史研究所の専門報告が一番知られている。[6] しかし、この報告書はどれも法医学的なものではなかった。法律的、歴史的、心理的な話題を扱っていた。このマンモス裁判を通じて、法廷も、検事側も[7]、弁護側も[8]、犯罪の物的証拠を確保・調査すべきであるとはまったく主張しなかった。検事側は目撃者の陳述と犯人の自白を数多く持っており、それだけで、第三帝国のアウシュヴィッツその他でユダヤ人絶滅計画が存在したことを確証するのに十分であるとみなしていた。[9] こうした証拠が豊富にあることが、文書資料的証拠と物的証拠が存在しないにもかかわらず、犯罪の現実性を保証しているというのである。[10] 法廷も、フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判では物的証拠がまったく提出されていないことを正当なことであると認めていた。
通常の殺人裁判でならば、本物の殺人事件の構図を描くために必要な証拠を手に入れる方法が、この裁判ではまったく欠如していた。犠牲者の死体、検死報告、死因や死亡時刻についての専門報告が欠けていた。殺人犯人、凶器の痕跡も欠けていた。目撃証言が検証されたことはごくまれであった。本来ならば、証言にわずかでも疑問があり、混乱している可能性があれば、法廷はその証言を評価しないはずなのに。
1972年のウィーンでのアウシュヴィッツ裁判
1972年1月18日から3月10日まで、アウシュヴィッツ・ビルケナウの焼却棟の設計・建設に責任を負っていた二人の建築技師ヴァルター・デヤコとフリッツ・エルトルがオーストリアのウィーンで裁判にかけられた。[11] 公判では、アウシュヴィッツとビルケナウのいわゆるガス室の青写真の解釈についての専門報告が提出された。この報告は、問題の部屋がガス室ではありえない、ガス室に改造することもできないと結論していた。[12] アウシュヴィッツについてのはじめて方法論的に健全な専門報告のおかげで、被告は無罪となった。
大量埋葬地の調査
1966年、アウシュヴィッツ国立博物館はポーランドの会社Hydrokopに、アウシュヴィッツ・ビルケナウの土壌を掘り起こして、サンプルを分析するように委託した。この調査がフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判との関係で行なわれたかどうかは分かっていない。しかし、調査結果は博物館の文書館のなかに消えてしまった。それは公表されなかった。そのことだけでも十分なことを物語っている。しかし、数年後、この報告書からの数頁が、写真コピーされて、ドイツの修正主義的出版者ウド・ヴァレンディの手に渡った。彼は自分の雑誌にコメントを付してこれを公表した。[13] いくつかの場所から骨や毛髪の痕跡が発見されたことは、大量埋葬地の存在を示唆しているかもしれない。しかし、ヴァレンディの公表した数頁からだけでは、この調査によって、さらに発掘調査が行なわれたのか、法医学的調査が行われたのかについては明らかではない。採取された骨や毛髪が人間のものであるのか動物のものであるのかも明らかではない。
フォーリソンが引鉄を引く
大量殺戮がアウシュヴィッツで起こったかどうかを決定するのは法医学的な証拠にもとづくということを全世界に知らせたのは、フランス文学者フォーリソン教授であった。ロベール・フォーリソンはフランス文学の教授で、リヨン第二大学で、資料、テキスト、目撃証言の分析を専門としており、目撃証言を批判的に検証し、大量殺戮説を立証しているとされている文章を丹念に検証した結果、ホロコースト正史に疑問を抱きはじめた。1978年、フォーリソンははじめて、「アドルフ・ヒトラーのもとではガス室は一つもなかった」という説を主張した。[14] その後、彼は、多くの物理的、化学的、地形学的、建築学的、文献学的、歴史学的議論を使って自説を補強していった。彼は殺人ガス室の存在を「基本的に不可能なこと」とした。[15] 1978年末、フランスの有力紙『ル・モンド』は、フォーリソン教授に自説を展開する紙面を与えた。[16]
しかし、フォーリソンの挑戦を認めて、アウシュヴィッツの殺人「ガス室」についてのはじめての法医学的報告書が準備されるには、ほぼ10年を要した。1988年のフレッド・ロイヒターの有名な報告である。[17] ロイヒター報告の背景と歴史は、『歴史評論誌』の読者には良く知られているので、ここでは繰り返さない。[18] ロイヒター報告はその後の一連の研究の先駆者であり、その研究の視野は法医学のさまざまな分野に広がっていき[19]、物的証拠と文書資料的証拠の多方面にわたる学際的な研究を包括していったといっておけば、十分であろう。[20]
ヤン・ゼーン研究所の反応
1945年の欠陥のある調査を実行したクラクフ研究所は、ポーランドのアウシュヴィッツ裁判とルドルフ・へス裁判の裁判長をつとめた共産主義者の判事ヤン・ゼーンにちなんで、ヤン・ゼーン研究所と改称していた。ロイヒター報告に対するこの研究所の反応は、修正主義者のあいだに多くの混乱を引き起こした。今日まで、多くの人々が、1990年にこの研究所の4名の調査員がロイヒター報告の内容を確証したと考えているが[21]、それはまったく間違っている。この誤解を解くには、ロイヒター報告後のクラクフ研究所の調査結果を少し詳しく検討しなくてはならない。
化学的前提
クラクフの調査員の誤りを明らかにするには、少しばかりの基本的な化学の知識が必要である。まず、1979年まで、チクロンBはシアン化水素(HCN)を使った殺虫剤のドイツの商標であった。化学の学生ならば誰もが知っているように、シアン化水素は、たんにシアン化合物と言及される塩化物を生成する。シアン化水素と同様に、これらの塩化物はきわめて毒性が高い。しかし、まったく毒性のない塩化物のグループがある。このグループの中でもっともよく知られているのは、鉄シアン化合物であり、それは、数世紀前にプロシアで発見された顔料にちなんで、プロシアン・ブルーと呼ばれている。化学生はすべてがプロシアン・ブルーを知っている。というのは、化学者が学んでおかなくてはならないもっとも重要なことの一つは、毒性の強いシアン化塩を、(自分自身の命も含めて、危険にさらすことなく)、安全に処理する方法を学ぶことだからである。特定の鉄化合物を付加することでシアン化塩からプロシアン・ブルーを取りだすことができる。プロシアン・ブルーは、きわめて安定しており、周囲にシアン化合物をまったく放出しない。
シアン化水素と特定の鉄化合物を一緒にすると、プロシアン・ブルーを生成するということを念頭においておけば、ロイヒター報告をめぐる論争の理解がはるかに容易となるであろう。第三帝国時代にヨーロッパ各地で使われたチクロンBの害虫駆除施設に入ると、観察できるのは、まさにこの現象である。少数ではあるが、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネク、シュトゥットホフ強制収容所では、まだ現存している。これらの施設には、プロシアン・ブルーが壁に浸透しているという共通点がある。内部だけではなく、レンガのあいだのモルタルや鉄シアン化合物に富む害虫駆除室の外壁にも、青いしみがついている。この種のものは、アウシュヴィッツとビルケナウの殺人「ガス室」には見ることができない。[22]
プロシアン・ブルーの生成に必要な鉄化合物はすべての建築資材に含まれている。煉瓦、砂、セメントには一定量の錆び(酸化鉄、普通は1−4%)が含まれている。これが煉瓦を赤色あるいは黄土色にしており、砂の多くを黄土色にしているのである。
ここで、ヤン・ゼーン研究所の調査員がアウシュヴィッツからのサンプルをどのように分析し、解釈したのかを検証しよう。
理解力の欠如
法医学研究所のチーム、Jan
Markiewicz、Wojciech
Gubala、Jerzy
Labedzは、壁がシアン化水素ガスにさらされることによって、プロシアン・ブルーがどのようにして壁に生成されるのかを理解していないと述べている。「その場所に、プロシアン・ブルーを生成する化学反応、物理的化学手順を想像することは難しい」[23]というのである。
理解していないことは恥ではない。実際、理解していないことを認めることが、あらゆる学問の始まりである。科学以前の時代には、人間は解決しえない問題に神秘的もしくは宗教的解答を下そうとした。近代の科学者は自分たちの理解できない問題にアプローチし、理解するために、調査しはじめる。このような知識の探求が、近代の人間性のおもな推進力である。それでは、クラクフの研究者たちは、シアン化水素にさらされた壁にプロシアン・ブルーが生成するかどうかを学ぼうとしたのであろうか。もし、学ぼうとしたのであれば、どのようにそうしたのであろうか。
さらなる理解の欠如
1991年、Markiewicz博士は、プロシアン・ブルーがシアン化水素にさらされた壁にどのように生成しうるのか理解できないと記した。彼は、生成し得ないと考えており、別の素材から生じたかもしれないと示唆した。たとえば、害虫駆除室の内壁に気まぐれな青い斑点模様を描いた(いったい何のために?[24])ペンキから生じたというのである。私は彼に、風雨にさらされており、やはり、青い斑点がついている壁の外側の表面を見るように提案した。それをペンキで説明することはできない。シアン化合物が何年かのあいだに外側に広がっていき、プロシアン・ブルーに変わったのである。彼は、これらの青い斑点を説明するのは困難である、まず、これがプロシアン・ブルーかどうかを確定しなくてはならないと回答してきた。[25] それゆえ、これらの科学者には、分析を始める前に、解答しなくてはならない問題点がさらに登場したのである。
鍵となる問題点の無視
1994年にやっと、ポーランド調査員たちは、自分たちの調査結果についての論文を発表した。[26] この論文を精読してみると、驚くべきことに、彼らは、プロシアン・ブルーがシアン化水素にさらされた壁に生成しうるかどうかについてまったく確定していない。彼らが、煉瓦壁のような条件の下でシアン化合物がどのようになるかという基本的な研究を行なったことを示すものは何もない。さらに、害虫駆除室の青い斑点がプロシアン・ブルーによるものかどうかについても確定していない。いったいなぜなのであろうか。少しお待ちいただきたい。事態はもっと悪くなっていく。
同じ分野の研究者の説の無視
もしも、クラクフの研究者たちが、プロシアン・ブルーはシアン化水素にさらされた壁には生成しえないと信頼しうるやり方で述べている学術文献を発見したとすれば、事態は簡単であろう。これ以上の新しい研究は必要がないとすれば良いことだからである。しかし、もしも、シアン化水素にさらされた壁にはプロシアン・ブルーが生成しうると科学的方法を使って述べている文献を発見したとすれば、科学者としての彼らには、二つの道がある。プロシアン・ブルーは生成し得ないという自分たちの立場を放棄するか、生成し得ないことを立証して自分たちの立場に反する説を反駁することである。科学の進歩とはそういうものである。同じ分野の研究者の説を検証したり、反駁したりすることである。同じ分野の研究者の説を無視することは、非科学的振る舞いである。
事実、クラクフの研究者たちは、プロシアン・ブルーの生成問題を専門的に扱っている一つの文献を引用している。[27] しかし、この文献を参照すれば、それがMarkiewiczの説とはまさに反対のことを立証していることが分かるであろう。それは、シアン化水素にさらされた壁がどのようにして、どのような環境のもとでプロシアン・ブルーを生成するのか、および、少なくともアウシュヴィッツの害虫駆除室では、生成が可能なだけではなく、非常にありうることであったことを示している。
クラクフの研究者たちは、この文献が生成しないことを明らかにしていると主張しているのであろうか。まったくそうではない。彼らがこの文献を引用しているのは、科学的議論を読者に紹介するためではなく、ヤン・ゼーン研究所の研究者が自分たちの報告を作成するにあたって闘おうとした科学的研究の例としてにすぎない。この文献のすべての議論は無視され、その研究は「望ましからざる科学の」一例という不名誉な烙印を押されてしまっている。Markiewicz博士が教授(professor)であることを思い起こしておこう。すなわち、彼は、科学の理想と科学的方法を指示していると告白している(profess)人物なのである。
望ましからざるものの排除
クラクフ報告の作者は、自分たちが誤っていることを示す議論について知っていながらも、その議論すべてを無視している。彼らは自分たちの主張を立証しようとも反証しようともしていない。自分たちの主張を理解させようとも、理解しないようにしようともしていない。
この奇妙な振る舞いの原因は何なのであろうか。
その答えはごく単純である。この研究者たちはプロシアン・ブルーと鉄シアン化合物の問題を分析から除外したかったのである。害虫駆除室の壁に残るプロシアン・ブルーには別の原因、たとえばペンキがあると仮定することによってのみ、これらの化合物を除外することが正当化されるからである。クラクフの調査員は1994年の論文で次のように記している。
「それゆえ、われわれは、組成された鉄シアン化合物(問題のブルーである)の劣化をもたらさない方法、すなわちシアン化イオンを使うことを決定した。」
これは何を意味しているのであろうか。
非鉄シアン化合物は安定性がなく、50年も経過した今日ではほとんど残っていないので、プロシアン・ブルーを分析から排除してしまえば、害虫駆除室のシアン残余物ははるかに少なくなってしまう。同じことがシアン化水素にさらされたことのある部屋すべてにあてはまる。そして、検出レベルが非常に低くなってしまうであろう。そして、検出レベルが低くなってしまえば、適切な解釈ができなくなってしまう。このような方法を使えば、何年も経過した材料からサンプルをとっても、ほとんど同じレベルの検出結果が生じてしまうにちがいない。それにもとづいて分析したとしても、大量のシアン化水素にさらされた部屋とそうではない部屋との区別をつけることは事実上不可能であろう。シアンの残余物はすべてゼロに近づいてしまうであろう。
さまざまなサンプルの分析結果量の比較
作者 |
Markiewicz
et al23 |
Leuchter17 |
Rudolf27 |
検知対象 |
鉄シアン化合物ぬきのシアン化合物 |
すべてのシアン化合物 |
すべてのシアン化合物 |
害虫駆除室 |
0-0.8
mg/kg |
1,025
mg/kg |
1,000-13,000
mg/kg |
「ガス室」 |
0-0.6 mg/kg |
0-8 mg/kg |
0-7 mg/kg |
ヤン・ゼーン研究所の研究者たちが出したかったのはこの結果であったにちがいない。すなわち、害虫駆除室と「ガス室」のシアン残余物の値がほぼ同じレベルだという結果である。この結果を踏まえて、彼らは「同量のシアン化合物、同量のガス処理活動、したがって、人間が焼却棟の地下室でガス処刑された。こうしてロイヒターは反駁されている」と述べることになった。
クラクフ報告の分析結果はまさにこのことを明らかにしており、その作者は当然の結論を導き出したというわけである。
しかし、もし、別の人々が採取し、別の方法を使って分析した結果を検証すれば、Markiewiczと同僚は自分たちの望ましい結論を導き出すために、方法を修正して、結果をごまかしたことは明らかである。
これが、科学的ペテンであることが分からないとすれば、十分にクラクフ報告を検討していないのである。
望ましからざる結果の抑圧
1991年、文書がクラクフのヤン・ゼーン研究所から漏洩して、修正主義者の手に入り、その後彼らの雑誌に公表された。21 それによると、Markiewiczと同僚は1990年に最初の報告を準備していた。この報告は公表されなかった。その分析結果は当惑させるものであった。研究者たちは、すでにごまかしの方法を使っていたにもかかわらず、「殺人ガス室」から採取した5つのサンプルのうち1つだけに、ごく少量のシアン残余物が検出され(0.024
mg/kg)、それ以外のサンプルには、まったく検出されなかったからである。一方、害虫駆除室からのサンプルには、20倍も高い数値までもが検出された(0.036-0.588
mg/kg)。これらの結果は、ロイヒターの分析結果を確証しているようであった。このために、1994年の論文では、クラクフの調査官たちは、最初の分析結果についての情報を抑圧した。このような非倫理的振る舞いをした科学者は、学会から追放されるべきである。
今日、大半の修正主義者は1991年の分析結果については知っているが、ロイヒターを反駁したとされている1994年に公表された結果については知らない。
クラクフの指針:科学的真理ではなく、政治的議題
私は、その後、クラクフの研究者たちと手紙を交換して、彼らの分析方法についての説明を求めた。私は、専門書にある最近の事例を引用しながら、プロシアン・ブルーがシアン化水素ガスにさらされた壁に生成しうることを示す、反駁の余地のない証拠をつきつけた。[28] クラクフ報告の作者たちは、プロシアン・ブルーのテストを意図的に怠っていることを科学的に説明できず、自分たちが過ちをおかしたことを認めるのを拒んでいる。[29]
最後に、クラクフの研究者たちは、論文や私あての書簡のなかで、自分たちの報告の目的が「ホロコースト否定派」を反駁すること、ヒトラーと民族社会主義のごまかしを阻むことであると述べている。言い換えれば、自分たちの目的は真理の探究ではなく、政治的目標に役立つことであるというのである。
結論
Markiewiczと同僚たちのきわめて非科学的で、政治的な先入観をともなった方法を要約しておこう。
a.
科学者のもっとも重要な任務は、理解されてこなかったことを理解することである。クラクフのヤン・ゼーン法医学研究所の調査員たちは、これとは反対のことを行なった。彼らは、自分たちの理解していなかったこと(シアン化水素にさらされた壁におけるプロシアン・ブルーの生成)を無視し、排除することを選んだ。
b.
次に重要な科学者の仕事は、何事かを理解しようとする科学者の試みについて検討することである。クラクフのチームはこれとは反対のことを行なった。彼らは、プロシアン・ブルーの生成について自分たち(やその他の人々)の理解を助ける議論を無視し、排除することを選んだ。
c.
彼らはこうした道を選択したので、自分たちの望む結果の出るような方法を採用した。
d.
彼らは自分たちの目的に合わない結果をすべて抑圧した。
e.
最後に、彼らは、自分たちの研究目的が真理の探究ではなく、すでに死んでしまっているアドルフ・ヒトラーの名誉をたえずおとしめることであると認めている。
それゆえ、私は、これらの研究者たちのことを科学的ペテン師と公に呼んできたし、呼び続けるであろう。Markiewiczも彼の同僚も私の告発に答えてこなかった。技術検査の専門家であり化学者ではないMarkiewiczは1997年に死んだ。残りの二人の人物は沈黙し続けている。
ドイツ人によるロイヒター報告の確証
1990年初頭、私は、ドイツのシュトゥットガルトのマックス・プランク固体研究所で、博士論文の作成にとりかかる数ヶ月に、ロイヒター報告の化学的主張を検証する調査に着手した。すなわち、目撃証人によるような、大量ガス処刑がチクロンBを使って行なわれたとすれば、長期にわたって安定したシアン化合物が「殺人ガス室」に生成されるであろうかという点である。もともと私が関心を抱いていたのは、生じた化合物――鉄青もくしはプロシアン・ブルー――は、厳しい自然環境に45年間もさらされたのちに安定しているかどうかを探求することだけであった。このことが検証されたのち、私はこの結果に関心を持っていると思われる20名ほどの人物に手紙を送った。その後、私は何人かの技術者と法律家と接触し、技術者の方は法医学的な支援を私に約束し、法律家はこの結果を依頼人のために利用することに関心を抱いていた。私はアウシュヴィッツに2回訪問し、18ヶ月間の調査を行なった。1992年1月、いわゆる最初のルドルフ報告がドイツのオピニオン・リーダーのあいだに配布された。それは、72頁の長文バージョンであった。簡単にその報告を要約すれば、ルドルフ報告は、目撃者の証言している大量ガス処刑は技術的、化学的理由からありえないというロイヒター報告の主張を確証している。その後、この報告は更新・改訂され、1993年7月に120頁の小冊子として公表された。[30] オランダ語版とフランス語版は1995年と1996年に登場したが、英語版は印刷されなかった。(1993年夏に出版された16頁の要約つけたものが誤って完全版とみなされている)。現在、更新・改訂版が準備されている。出版は今年の後半である。[31]
自分自身が自分の研究の裁判官となることはできないので、ここでは、私の研究については議論しない。私の報告についての化学的議論は、1995年に、あるドイツ語の本から始まったが、それはおもに根拠のない攻撃から成り立っていた。[32] 最初の真剣な批判は、残念なことに、人格的攻撃で満ちているが、インターネット上に登場した。[33] その作者リチャード・グリーンは、私の同様に物理化学で博士号を持つ化学者である。彼は、その批判のなかでかなりの譲歩をしている。
a.
目撃証人の証言のように速やかに人間を殺すには、害虫駆除で使われるのと同様の濃度が必要である。ロイヒターは、人間を殺すにはシラミを殺すよりもはるかに少ない毒しか必要ないとの根拠で、論敵からしばしば攻撃されていた。これが、一般的に真実であるとしても、数百の人間を数分で殺害するというシナリオには適用できない。
b.
鉄青(プロシアン・ブルー)は、壁がシアン化水素にさらされた結果生じたのであり、アウシュヴィッツその他の害虫駆除施設でそれが発見されれば、HCNがその原因であろう。
後者の譲歩は、害虫駆除施設の壁に残る大量の鉄青が異なった起源を持っており、それにゆえに、鉄青を分析から除外「することができた」とするクラクフの研究者たち(とその支持者)の主張を明らかに反駁していることになる。しかし、グリーンは、そのようなことには悩まされずに、クラクフの研究者による分析結果を標準的なものとして受け入れるべきであると主張している。私がクラクフの研究者たちに、明らかに非化学的な振る舞いについて問い合わせたところ、彼らが回答してこなかったことについて、グリーンは次のように記している。
「ルドルフは、Markiewiczたちが回答してこなかった点について不平を述べている。しかし、なぜ彼らは回答すべきなのであろうか。ルドルフはどのような信用を持っているというのだろうか。彼の異論がまったく根拠のないものであっても、回答しなくてはならないのだろうか。」
その他の法医学的アプローチ
アウシュヴィッツのミステリーを解決しようとするにあたって、化学だけが参考にすべき学問ではない。技術者、建築家、地理学者その他の専門家もその解決に貢献している。彼らの研究も、現場に残された物的痕跡が語っている、隠されたメッセージを解読し続けている。アウシュヴィッツの施設や事件についてのオリジナルな戦時中の文書には、技術者、建築家、物理学者、地理学者の専門報告も必要である。すべての建物や部屋の機能と目的、その設備の稼動の技術的側面と収容容積、医療措置の規模と内容、湿地帯での水路の効果などの収容所のインフラストラクチャを再現するには、最近の10年間に発見・公表された数万の文書の分析が必要である。歴史家だけではその仕事を果たすことはできないし、私のような化学者だけでもできない。
「穴がなければ、ホロコーストもない」
Ditlieb
Feldererは、殺人「ガス室」の屋根に穴があったかどうかという問題について何らかの論文を公表しているわけではないようであるが、その問題を取り上げた最初の人物である。ロイヒター報告ではこの問題は、表面的にしか触れられていない。私は、使われたとされるガスの化学的残余物が存在するかどうかという問題に関心を抱いていたが、この穴の問題にも関心をしだいており、この穴を探してアウシュヴィッツを訪れた。1991年8月16日、私はビルケナウの焼却棟?Uの「ガス室」の崩壊した屋根の上に立ったとき、「ホロコースト」が実在しなかったことを確信した。穴という名に値するような穴をまったく発見できなかったからである。このことを報告書のなかに詳しく記した。1994年、フォーリソンが「穴がなければ、ホロコーストもない」というこの節の題となっている有名な皮肉を作り出した。しかし、「ガス室」の屋根にはまったく穴がないという修正主義者の説に関心が寄せられたのは、2000年の、リップシュタットに対するアーヴィングの名誉毀損裁判のときであった。
Charles
Provanは、インターネットの論文を執筆し、この修正主義者の説を反駁したと主張している。たしかに、彼は、焼却棟?Uの屋根の上に穴を発見した。[34] しかし、この穴は、目撃証人が主張しているように、55年前に「ガス室」にチクロンBを投入したのと同じ穴なのであろうか。コンクリートの支柱が崩壊した屋根に穴を開けたものにすぎないのではないだろうか。私は後者であると考えている。しかし、私の見解などどうでもよい。重要なのは事実である。しかし、この場合、どのように事実を明らかにすべきなのであろうか。
ペルトは次のように記している。
「250平方フィートのこの一室のなかで、この地球上のどの場所でよりも多くの人々が命を落とした。50万名が殺されたのである。もしも、人間の受難の地図を描こうとしたならば、虐殺の地図を作ろうとしたとすれば、この場所こそがその中心となることであろう。」[35]
ここで、別のケース、やはり悲劇的なケースを考えてみよう。私たちは航空機のクラッシュ事件に何が起こるのか知っている。すなわち、数百名の専門家が事故の残骸を集めるために殺到し、それを巨大な三次元のジグソー・パズルのようにあてはめていく。この目的は、事故の原因を調査して、再発を防止するためである。その経費が惜しまれることはない。
ビルケナウの焼却棟?Uと?Vの死体安置室に対して同じような作業をすることは適切ではないのだろうか。歴史家、技術者、建築学者、考古学者などの数百のスタッフを集め、この部屋の残骸すべてをできるかぎり集め、巨大なパズルを解くように、それを組み立て、これらの部屋が55年前には実際にどのようなものであったのかを解明することである。穴を探し求めて、コンクリートの亀裂をちょっと見ただけで無我夢中で結論に飛び込む前に、それはどのような痕跡であるのかを明らかにしようとすることは論理的ではないのであろうか。
最近に数年間、これらの部屋のある場所に行って、亀裂や穴から突き出ている鉄筋をはがした人々[36]、穴を探すためにシャベルで屋根の残骸を清掃した人々[37]がいた。このことを聞いて私は恐れおののいた。シャベルを使ってティラノザウルスの骨格を発掘しようとした人物がいたとすれば、古遺物学者はこの人物のことをどう言うであろうか。ホモサピエンスはいったいどこに行ってしまったのであろうか。いったい人々は、いつになったら、賢明な人類として、ホロコーストについて考察し、それに対処するのであろうか。
焼却棟?Uの屋根に穴があったかどうかという問題は些細な問題ではない。もしもなければ、目撃証人の語っているように、チクロンBを「ガス室」に投入することができないし、これらの目撃証人の信用は失われるからである。目撃証言はホロコーストがよって立つ唯一の支柱なので、このような事態が生じれば、遅かれ早かれ、すべてのホロコースト物語が崩壊するであろう。そして、この崩壊も些細な問題ではない。第二次大戦後に戦勝国が定めた国際秩序は、ホロコーストの実在を「大前提」としているからである。ホロコーストは、ドイツ(したがってヨーロッパ)をコントロールし、民族運動を抑圧し、アメリカの支配を維持するために利用されている。無論、左翼の国際主義的運動もそこから権力を引き出し、ユダヤ人とシオニストグループもそれを利用している。
それでは、誰が真実を知りたがっているのだろうか。アウシュヴィッツの焼却棟を吹き飛ばし、残骸を跡形もなく取り除き、目撃証言に満足してしまうことは、簡単ではないのだろうか。
もしも、修正主義的な研究者がアウシュヴィッツでは何が実際に起こったのかを確証する研究を行なわなければ、誰も行なわないであろう。われわれの持っている限られた手段と、われわれに科せられた法的制限を考えると、誰も行なわないと結論するのはまったく当然である。したがってわれわれが今すぐできることは、現存している物的な残存物の図面を上から下まで詳細に作成し、文書資料を作り上げることである。そして、そのようにしなくてはならない理由が広く理解されていくことを希望している。
犯罪の痕跡?
ホロコーストの正史では、戦時中のドイツ側文書のなかにあいまいな意味合いの語句を発見して、それを犯罪を意味するものとして解釈するというやり方が一般的である。そのようなことを行なったのはプレサックが最初ではないが、彼はそれをもっとも徹底的に行ない、結果として非常に醜悪な事態となってしまった。[38] これに対する修正主義者の批判は徹底的であり、絶滅論者にとっては壊滅的な事態となってしまった。[39] 修正主義者の解釈は、一方では、アウシュヴィッツに関する文書――連合国の航空写真も含む――およびその文脈についての徹底的な知識、他方では、技術と建築に関するさまざまな分野の専門的知識にもとづいてきた。
無罪を証明する痕跡!
このような研究方法がアウシュヴィッツの大量の文書に適用された結果、アウシュヴィッツ収容所システムの歴史に光を投げかけるようなもう一つの、さらに重要な成果が生み出された。クロウェルは、SSが連合国の空襲から囚人を守るために建設した防空シェルターについての資料を発掘した。ラムカーとノヴァクは、SSが囚人の命を守るために、近代的な(高度な)そして高価な高周波害虫駆除施設を設置した様子を詳細に明らかにした。[40] 彼らはMichael
Gartner、
Werner
Rademacherと共同して、アウシュヴィッツ収容所の歴史の全体像を明らかにしようとしている。アウシュヴィッツ収容所は、数万の囚人の生存を保障するのに必要なすべての設備、すなわち、病院、歯医者、厨房、洗濯場、肉屋、運動場や庭のようなリクリエーション施設を備えていたのである。このような収容所群の建設には5億ドルほどの費用が必要であったが、そのような事実は、ドイツ当局はこの収容所を絶滅収容所として使おうとしていたという説とは矛盾している。一人あたり500ドルを使うよりも安価な殺戮方法が存在するのに。[41]
アウシュヴィッツ法医学の将来
科学の夜明け以来、科学者たちは永久運動機械を捜し求めてきた。彼らは、その探求の当初に科学自体を発見したとはまったく気づいていなかったようである。それゆえ、アウシュヴィッツについての法医学的研究は、その研究成果が論争的な性質、非常にイデオロギー的な性質をもっているとみなされているとすれば、終わることがないであろう。しかしながら、研究の方向と方法を設定したのは、ホロコーストの大量ガス処刑説の政治的金銭的目的が何であれ、想像力や好奇心を排して、この大量ガス処刑説が真実であるかどうかを探求しようとした、この分野の先駆者、すなわち修正主義者であった。だから、アウシュヴィッツは、これまでと同様に、すべての焦点であり続けるであろう。
最近の例を挙げておこう。2000年初頭、オーストラリアの技術者Richard
Kregeはドイツの強制収容所とされている地域の周辺に大量埋葬地が存在しているかどうかを探るために、地下浸透レーダーを使った。予備的研究は2000年初頭に、私の編集するドイツ語の季刊誌に発表された。[42]
Kregeは、地下の土壌にある不審物を明らかにする地質学的方法を適切に応用して、さらに徹底的な調査を行なうことを約束した。彼の仕事は、ロイヒターの仕事が13年前にそうしたように、新しい地平を切り開くものであろう。もちろん、彼に続いて、支配的なドグマとタブーに挑戦する者が続くであろう。
結論
過去に犯されたとされる犯罪を扱うにあたって、法医学はアウシュヴィッツの謎を解く鍵である。必要な規模での法医学的調査を実行したり、あるいは要求したりする力を持っているグループは、そのようなことをしようとしたがっていないようである。むしろ逆の事態となっている。力を持っているグループはアウシュヴィッツについて、したがってホロコーストについての見解をかえることにまったく関心を抱いていないし、まさにそのようなことができる法医学にも関心を抱いていない。それどころか、世界中で、権力機関は、このような研究を提唱したり試みたりしている人々を迫害・訴追している。このような事態はわれわれの歩みを遅らせるかもしれないが、留めることはできないであろう。
修正主義的な研究者が法医学を使って大きな発見を成し遂げると、彼らは中傷や迫害だけではなく、学術的偽造や、クラクフの法医学報告が典型的なように、専門的なペテンに直面する。ホロコースト神話の炎の保持者は、このような手段に訴えなくてはならないほど絶望的な状況に陥っているのであろうか。アウシュヴィッツの埋葬地や「ガス室」とされている廃墟が科学的調査の対象となることを防ぐことによって、彼らは、自分たちの名と、アウシュヴィッツ神話の廃墟を葬るという危険をおかしているのである。
著者について
ゲルマール・ルドルフは、シュトゥットガルトの有名なマックス・プランク研究所に勤務しているときに、化学の博士論文を完成させた。しかし、アウシュヴィッツの「ガス室」に関する法医学的研究が公表されたとき、大学当局は博士論文の完成を禁止した。1995年、ルドルフはルドルフ報告を執筆した罪状で懲役14ヶ月の刑を宣告された。同年、ホロコースト問題の研究書である『現代史の基礎』のすべてのコピーが、裁判所の命令で没収・破棄された(英語版の『ホロコーストの解剖』はIHRから購入できる)。ルドルフは修正主義的季刊誌Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschungを編集し、今では、合衆国で政治的保護を求めている。彼は、アーヴィング・リップシュタット裁判の控訴審で、アーヴィングを弁護する長文の供述書を提出した。
[1] ドイツ語ではDokumentationszentrum des Osterreichischen Widerstandes(オーストリア・レジスタンス資料センター)とオーストリア連邦教育文化省によって、 Amoklauf gegen die Wirklichkeit (Vienna, 1991), pp. 36-40公表されている。原本はアウシュヴィッツ国立博物館にある。
[2] F.
Kadell, Die Katyn Luge (Munich: Herbig, 1991)を参照。
[3] 1942年8月6日のSS Wirtschafts- und
Verwaltungs- hauptamt, Oranienburgから 強制収容所長への書簡。IMT Document 511-USSR、それはDer Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher
vor dem Internationalen Militargerichtshof
(Nuremberg, 1949), pp. 553fに引用されている。この書簡は、長さ20?p以上の髪の毛の再利用を命じている。
[4] 亜鉛は、長期にわたって安定した鉄シアン化合物の生成に必要な錆の生成を阻害する。
[5] 地上のアルカリ性シアン化合物と同様に、亜鉛シアン化合物は、湿気によってゆっくりと分解してしまう。
[6] H. Buchheim et
al., Anatomie des SS-Staates
(Freiburg: Walter, 1964).
[7] 「ホロコースト事件」での著名なドイツ人検事の一人アダルベルト・リュッケルルは、その著作のなかで、物的証拠にはまったく触れていない。その代わりに、文書資料自体の信憑性と正確さを保証する物的証拠がなくても、文書資料的証拠が最良で最重要な証拠であると述べている (in J. Weber, P. Steinbach, eds., Vergangenheitsbewaltigung durch
Strafverfahren? [
[8] 弁護側が、法律的な無能力であり、そのためにまったくナイーヴであった典型は、ハンス・ラテルンザーである。Die andere Seite im Auschwitzprozess 1963/65 (Stuttgart:
Seewald,1966)。
[9] この考え方の代表はノルテ教授である。Streitpunkte (Berlin: Propylaen, 1993),
pp. 290, 293, 297.
[10] たとえば、フランクフルト・アム・マインの陪審法廷の判決は、犯罪、その犠牲者、凶器、ひいては犯人についての証拠はまったく存在しないと述べている。Ref. 50/4 Ks 2/63; cf. I. Sagel-Grande, H. H. Fuchs, C. F. Ruter, eds., Justiz und NS-Verbrechen, vol. 21
[11] Ref. 20 Vr 6575/72
(Hv56/72); この参照番号はペルトが自分の報告The Pelt Report,
[12] 当面のあいだ匿名でなくてはならないこの専門家との個人的連絡。Michael Gartner,
"Vor 25 Jahren: Ein anderer Auschwitzprozess," Vierteljahreshefte fur freie Geschichtsforschung (VffG)1, no. 1(1997), pp. 24f.
(vho.org/VffG/1997/1/Gaertner1.html)を参照。
[13] Udo Walendy, Historische Tatsachen 60 (Vlotho: Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, 1993), pp.
7-10.
[14] Memoire en defense (Paris: La Vieille Taupe,
1980); Serge Thion, ed., Verite historique ou verite politique? (Paris: La Vieille
Taupe, 1980) (online: aaargh.vho.org/fran/histo/SF1.html); R. Faurisson, Ecrits revisionnistes, 4 vols., published by
author,
[15] R. Faurisson, "Le
camere a gas non sono mai esistite," Storia illustrata 261 (1979), pp.
15-35 (online: aaargh.vho.org/fran/archFaur/RF7908xx2.html); cf. Faurisson, "The Mechanics of Gassing," The Journal of
Historical Review (JHR) 1, no. 1 (spring 1980), pp. 23ff. (online:
aaargh.vho.org/engl/FaurisArch/RF80spring.html); Faurisson, "The Gas Chambers of Auschwitz Appear to Be
Physically Inconceivable," JHR 2, no. 4 (winter 1981), pp. 311ff. (online:
vho.org/GB/Journals/JHR/2/4/Faurisson312-317.html)
[16] "'Le probleme des
chambres a gaz' ou 'la rumeur d'Auschwitz,'" Le Monde,
December 29, 1978, p. 8; see also "The 'problem of the gas chambers," JHR 1, no.
2 (summer 1980), pp. 103-114 (online:
ihr.org/jhr/v01/v01p103_Faurisson.html).
[17] F. A. Leuchter, An
Engineering Report on the Alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau and Majdanek, Poland,
Samisdat Publishers Ltd., Toronto 1988
(ihr.org/books/leuchter/leuchter.toc.html).
[18] ロイヒター自身の発言は、"Witch Hunt in Boston," JHR 10, no. 4 (winter
1990), pp. 453-460; "The Leuchter Report: The How and
the Why," JHR 9, no. 2 (summer 1988), pp. 133-139を参照。
[19] 初期の注目すべき研究だけをあげておく。J.-C. Pressac, Jour J, December 12, 1988, i-x; Pressac in: S. Shapiro, ed., Truth Prevails: Demolishing Holocaust Denial: The End of the Leuchter Report, (NY: Beate Klarsfeld Foundation, 1990); W. Schuster, "Technische Unmoglichkeiten bei Pressac," Deutschland in Geschichte und Gegenwart (DGG) 39, no. 2 (1991), pp. 9-13 (vho.org./D/DGG/Schuster39_2); Paul Grubach, "The Leuchter Report Vindicated: A Response to Jean-Claude Pressac's Critique," JHR 12, no. 2 (summer 1992), pp. 248ff. (codoh.com/gcgv/gc426v12.html); Helmut Auerbach, Institut fur Zeitgeschichte, letter to Bundesprufstelle, Munchen, Oct. 10, 1989; Auerbach, November 1989, both published in U. Walendy, Historische Tatsache 42 (Vlotho: Verlag fur Volkstum und Zeitgeschichtsforschung, 1990), pp. 32 and 34; see my technical appraisal of Auerbach's writings in Henri Roques, Gunter Annthon, Der Fall Gunter Deckert (Weinheim: DAGD/Germania Verlag, 1995), pp. 431-435 (vho.org/D/Deckert/C2.html); W. Wegner, "Keine Massenvergasungen in Auschwitz? Zur Kritik des Leuchter-Gutachtens," in U. Backes, E. Jesse, R. Zitelmann, eds., Die Schatten der Vergangenheit (Frankfurt: Propylaen, 1990), pp. 450-476 (vho.org/D/dsdv/Wegner.html, with interpolated critique by the present writer); on this cf. W. Haberle, "Zu Wegners Kritik am Leuchter-Gutachten," DGG 39, no. 2 (1991), pp. 13-17 (online: vho.org/D/DGG/Haeberle39_2.html); J. Bailer, "Der Leuchter-Bericht aus der Sicht eines Chemikers," in Amoklauf gegen die Wirklichkeit, pp. 47-52; cf. E. Gauss (alias G. Rudolf), Vorlesungen uber Zeitgeschichte (Tubingen: Grabert, 1993), pp. 290-293; Gauss, "Chemische Wissenschaft zur Gaskammerfrage," DGG 41, no. 2 (1993), pp. 16-24 (online: vho.org./D/DGG/Gauss41_2); J. Bailer, in B. Bailer-Galanda, W. Benz, W. Neugebauer, eds., Wahrheit und Auschwitzluge (Vienna: Deuticke, 1995), pp. 112-118; cf. my critique "Zur Kritik an 'Wahrheit und Auschwitzluge,'" in Herbert Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichte (Berchem: Vrij Historisch Onderzoek, 1996), pp. 91-108 (vho.org/D/Kardinal/Wahrheit.html); English: "Critique of 'Truth and the Auschwitz-Lie'" (online: http://vho.org/GB/Books/cq/critique.html); G. Wellers, "Der Leuchter-Bericht uber die Gaskammern von Auschwitz," Dachauer Hefte 7, no. 7 (November 1991), pp. 230-241.
[20] もっとも顕著なのは、イタリアの歴史家、アメリカの歴史家Samuel Crowell、Michael Gartner、Hans Lamker、Hans Jurgen
Nowak、Werner Rademacher、Gottfried Sangerといった南ドイツの技術者と建築家のグループの研究である。彼らの研究の包括的なリストは、www.vho.org/i/a.html.にあるオンラインの修正主義者の検索エンジンに名前を入れていただきたい。
[21] J. Markiewicz, W.
Gubala, J. Labedz, B. Trzcinska, Prof. Dr. Jan Sehn
Institute for Forensic Research, Department for Forensic Toxicology, Krakow,
September 24, 1990; partly published in DGG 39, no. 2 (1991), pp. 18f.
(vho.org/D/DGG/IDN39_2.html); English: "An Official Polish Report on the
[22] マイダネクとシュトゥットホフでは少々異なっている。そこの部屋は明らかに害虫駆除施設として使われたのであるが、殺人ガス室としても使われたという話になっている。だから、そこにはアウシュヴィッツと同じような観察をすることはできない。しかし、高度な鉄シアン化合物の残余物は殺人ガス処刑の結果としては生じないという説――まったく虚偽の理由であるが、ここでは論じない――が広まっているので、青のしみは部屋を害虫駆除施設として使った場合に生じるという見解は、論争の当事者すべてに受け入れられていることになる。
[23] Jan Markiewicz,
Wojciech Gubala, Jerzy Labedz, "A Study of the
Cyanide Compounds Content in the Walls of the Gas Chambers in the Former
Auschwitz and Birkenau Concentration Camps," Z Zagadnien Nauk Sadowych / Problems of Forensic Science 30 (1994), pp. 17-27
(online:
www2.ca.nizkor.org/ftp.cgi/orgs/polish/institute-for-forensic-research/post-leuchter.report).
[24] プロシアン・ブルーを含むペンキは存在しない。プロシアン・ブルーは新しい漆喰の上では分解してしまうからである(プロシアン・ブルーはアルカリ性の環境では不安定である)。だから、誰も、壁にプロシアン・ブルーを塗ることはできない。
[25] クラクフのヤン・ゼーン法医学研究所、法医学毒物学局教授からW. Wegnerへの手紙、日付はない、(1991/92の冬)、署名は判読しがたい、おそらく、Markiewicz博士自身であろう。未公表。部分的にRudiger Kammerer, Armin Solms, eds., Das Rudolf Gutachten: Gutachten uber die Bildung und Nachweisbarkeit von
Cyanidverbindungen in den "Gaskammern" von Auschwitz (London: Cromwell Press,
1993)に引用されている。
[26] E. Gauss (alias G. Rudolf), Vorlesungen uber Zeitgeschichte (Tubingen: Grabert, 1993); on the chemistry involved here, cf. pp. 163ff., 290-294 (vho.org/D/vuez/v3.html#v3_4 and ~/v5.html#v5_5).
[27] G. Rudolf, Das
Rudolf Gutachten, 2nd ed.
(
[28] 1976年バイエルン(メーダー-ヴィーゼンフェルト)で、最近壁塗りされた教会がチクロンBで薫蒸消毒されたとき、建物損傷事故が起こった。数ヵ月後、漆喰は、プロシアン・ブルーの作り出した青い斑点で覆われた。Gunter Zimmermann, ed., Bauschaden Sammlung, vol. 4
(Stuttgart: Forum-Verlag, 1981), pp. 120f.; reprint in
Ernst Gauss (alias G. Rudolf), ed., Grundlagen zur Zeitgeschichte (Tubingen: Grabert, 1994, pp.
401ff.; (codoh.com/inter/intgrgauss.html; English:
vho.org/GB/Books/dth/fndwood.html)を参照。さらに、まだ現存している東ヨーロッパにあった強制収容所の害虫駆除施設すべてが、壁に、膨大な量のプロシアン・ブルーを残している。注25の私の報告(vho.org/D/rga/prob9_22.html and following
pages); Jurgen Graf, Carlo Mattogno, KL Majdanek: Eine historische und technische Studie (Hastings, Eng:
Castle Hill Publishers, 1998) (vho.org/D/Majdanek/MR.html); Jurgen Graf, Carlo Mattogno, Das Konzentrationslager Stutthof und seine Funktion in
der nationalsozialistischen
Judenpolitik (Hastings, Eng: Castle Hill Publishers,
1999) (vho.org/D/Stutthof/index.html)を参照。
[29] G. Rudolf, "Leuchter-Gegengutachten: Ein Wissenschaftlicher Betrug?," DGG
43, no. 1 (1995), pp. 22-26 (vho.org/D/Kardinal/Leuchter.html; Engl.:
vho.org/GB/Books/cq/leuchter.html); G. Rudolf and J. Markiewicz, W. Gubala, J. Labedz, "Briefwechsel," Sleipnir 1, no. 3 (1995), pp. 29-33; reprinted in Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichte, pp. 86-90
(online: as above).
[30] Kammerer, Solms, eds., Das Rudolf Gutachten (vho.org/D/rga/).
この報告の背景、歴史、反響についてはW. Schlesiger,
Der Fall Rudolf (London: Cromwell, 1994) (online:
vho.org/D/dfr/Fall.html); English: The Rudolf Case (vho.org/GB/Books/trc); and Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichte (vho.org/D/Kardinal/); English: Cardinal Questions about
Contemporary History (vho.org/GB/Books/cq/); cf.
"Hunting Germar Rudolf,"
vho.org/Authors/RudolfCase.htmlを参照。
[31] この350頁のラージ・フォーマットのハード・カバー版は、30ドルで、www.tadp.org かTheses & Dissertations Press, PO Box 64,
Capshaw, AL 35742に注文することで入手できる。
[32] J. Bailer, in B. Bailer-Galanda, W. Benz, W. Neugebauer,
eds., op. cit. (注19参照);これに対する私の回答は"Zur Kritik an 'Wahrheit und Auschwitzluge'"/"Critique of Truth and the Auschwitz-Lie,"
in Herbert Verbeke, ed., Kardinalfragen zur Zeitgeschichteを参照。あまり洗練されていないものとしてB. Clair, "Revisionistische Gutachten," VffG 1, no. 2 (1997), pp. 102-104
(vho.org/VffG/1997/2/Clair2.html)。私の回答"Zur Kritik am Rudolf Gutachten,"
ibid., pp. 104-108 (vho.org/VffG/1997/2/RudGut2.html); further, La Vieille Taupe/Pierre Guillaume, "Rudolf Gutachten: 'Psychopathologisch und
Gefahrlich': Uber die Psychopathologie einer Erklarung," VffG 1, no. 4 (1997),
pp. 224f. (vho.org/VffG/1997/4/Guillaume4.html).ペルトは私の議論を検証しておらず、プレサックの誤りを繰り返し、事態を悪くしている。op. cit. (see note 11 above); cf. G. Rudolf,
"Gutachter und Urteilsschelte," VffG 4, no. 1
(2000), pp. 33-50 (vho.org/VffG/2000/1/Rudolf33-50.html); more exhaustively, in
English, vho.org/GB/c/GR/RudolfOnVanPelt.html and
.../CritiqueGray.html.
[33] Richard J. Green, "The Chemistry of
Auschwitz,"
[34] Charles D. Provan,
"No Holes? No Holocaust?: A Study of the Holes in the Roof of Leichenkeller I of Krematorium 2
at Birkenau"
(www.revisingrevisionism.com)
[35] Van Pelt's testimony in Errol Morris's
documentary film Mr. Death: The Rise and Fall of Fred A. Leuchter, Jr.
[36]
少なくとも一人の修正主義者が、1996年春に焼却棟?Uの死体安置室1の屋根でそのようなことをした。
[37] バルフォードという名の一人の技術者がそのようなことをした。彼の同僚は、アウシュヴィッツ国立博物館のために、収容所の保存・再現を手伝っていた。彼は、この件をアーヴィングに伝えている。
[38] Jean-Claude Pressac,
[39] プレサックの最初の本に対する批判については、R. Faurisson, JHR
11, no. 1 (spring 1991), p. 25ff.; JHR 11, no. 2 (1991), p. 133ff. (French:
www.lebensraum.org/english/04.adobe.faurisson/pressac.pdf); F. A. Leuchter, The Fourth Leuchter
Report (Toronto: Samisdat, 1991)
(www.zundelsite.org/english/leuchter/report4/leuchter4.toc.html)を参照。プレサックの二番目の本に対する批判については。Herbert Verbeke,
ed.,
[40] H. Nowak, "Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz," VffG 2, no. 2 (1998), pp. 87-105; English version in Gauss,
ed., Dissecting the Holocaust (Capshaw, AL: Theses
& Dissertations Press, 2000), pp. 311-324; H. Lamker, "Die Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz, Teil 2," VffG 2, no. 4 (1998), pp.
261-273; see also Mark Weber, "High Frequency Delousing Facilities at
Auschwitz," JHR 18, no. 3 (May-June 1999), pp. 4-12.
[41] W. Rademacher, M.
Gartner, "Berichte zum KL Auschwitz," VffG 4, no. 3-4
(2000), pp. 330-344.
[42] R. Krege, "Vernichtungslager Treblinka -- archaologisch betrachtet," VffG 4, no. 1 (2000), pp.
62-64.
試訳:第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム調査報告書、フォーリソンの序文つき)
フレッド・ロイヒター、ロベール・フォーリソン
歴史的修正主義研究会試訳
最終修正日:2003年10月7日
本試訳は当研究会が、研究目的で、Fred A. Leuchter & Robert Faurisson,
The Second Leuchter Reportから、フォーリソンの序文とロイヒターの報告を試訳したものである。 online:http://vho.org/GB/Journals/JHR/10/3/LeuchterFaurisson261-322.html |
序文
フレッド・A・ロイヒターはボストン在住の46歳のエンジニアである。彼は、アメリカの刑務所の処刑施設の設計・建設の専門家である。彼の業績のひとつは、ミズーリ州ジェファーソン・シティの処刑ガス室の近代化である。
エルンスト・ツンデルは、トロント在住の50歳のドイツ人で、修正主義的見解のためにボイコットされるまで、グラフィック・アーティスト、宣伝マンとして輝かしい経歴をおさめていた。ボイコット以降、彼は、すべての時間を、「ホロコースト」の嘘との闘いにささげてきた。そして、私も、この闘い、とくに、1985年と1988年にカナダ系ユダヤ人組織がツンデルに対しておこした2つの裁判で、彼を支援してきた。
最初のツンデル裁判は7週間続き、彼は「虚偽のニュースを出版した」罪で15ヶ月の禁固を宣告された。この判決は、地方裁判所判事ヒュー・ロックが重大なあやまちをおかしているとの理由で、控訴審にわたされた。
第二の裁判は4ヶ月続いた。今度も、ツンデルは、地方裁判所判事ロン・トーマスによって9ヶ月の禁固刑を宣告された。この判決も、同じような理由から、上告審にわたされることであろう。
1988年、ツンデルはロイヒターに、ポーランドに出かけて、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクの3つの強制収容所の「処刑ガス室」を検証するように要請した。第一ロイヒター報告の結論は、これらの3つの場所にはガス室は存在したことがないという、非常に明快なものであった。
1989年、ツンデルはロイヒターに、西ドイツとオーストリアに出かけて、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム城の「処刑ガス室」を検証するように要請した。第二報告の結論も、下記にあるように、これらの場所にはガス室は存在したことがないという、非常に明快なものであった。
修正主義は「20世紀末の偉大な知的冒険」と呼ばれている。この冒険が実際に始まったのは、第二次世界大戦直後、モーリス・バルデシェとポール・ラッシニエの著作が出版されてからであった。そして、この冒険は、アメリカ合衆国のバッツ博士が1976年に傑作『20世紀の詐欺』を出版し、シュテークリヒ博士がドイツで『アウシュヴィッツの神話』を1979年に出版し、ロサンゼルスで歴史評論研究所が設立されることで、続いていった。
1980年代には、とくにツンデルの活動のおかげで、修正主義が世界各地で発展していった。おそらく、歴史家たちは、修正主義について、ツンデル以前とツンデル以後について語ることであろう。政治的な動機から起こされた裁判は、カナダにとっては不名誉なことであるが、すべてを変えていくことであろう。ツンデルは1985年に、自分の裁判は、たとえ敗訴しても、ニュルンベルク裁判を法廷に引き出すであろうし、ドイツを中傷する人々はこの裁判で彼らの「スターリングラード」に遭遇するであろうと予見していた。そして、彼は正しかった。
ツンデル以前
ツンデル以前には、ドイツに対する告発者たちは、「ガス室」の実在を証明しようと考えたこともなかった。彼らはその実在を「すでに証明されたもの」とみなしていた。
絶滅派のセルジュ・クラルスフェルトによると、
「いつの日か、ガス室の実在を証明しなくてはならなくなるなどとは誰も考えていなかったので、明らかに、1945年以降、ガス室の技術的側面は放置されたテーマであった」(Le
Monde Juif, January- March, 1987, p. 1)
ニュルンベルク裁判でも、イェルサレムのアイヒマン裁判でも、フランクフルト裁判でも、その他1987年のクラウス・バルビー裁判などの有名な裁判で、戦いに敗れたドイツ国民を長いあいだ苦しめてきたこの恐ろしい告発を証明する試みはまったくなされなかった。こうした裁判の滑稽な様相は、被告と弁護人が悪魔のその超自然的な行為の実在についてを論点としない魔女裁判に似ていた。現代の魔女裁判でも、「ガス室」の実在やその超自然的な業績――物理学と化学のあらゆる法則に反しているが――に疑問を呈することはタブーとされてきた。
クラウス・バルビーのフランス人弁護士Jacques
Vergesは勇敢な人物であったが、その彼でさえも、クラウス・バルビーがリオン近くのIzieuという疎開町からユダヤ人の子供を送りつけたという「ガス室」の実在について、わずかでも証拠を請求することをためらったのである。
こうした「戦争犯罪」裁判、「人道に反する罪」裁判すべてで、「文明」諸国民は、ほぼ半世紀間、基本的な刑法の規則を無視してきた。
私の言わんとすることを理解していただくために、たとえば、フランスで犯された犯罪を取り上げてみよう。このケースでは、凶器、死体、犯人(もしくは容疑者)がいたとする。通常であれば、フランスの裁判所は、4つの基本的な報告を要求するであろう。
1.
死体と不審な物品についての法医学的な現場検証報告
2.
犯罪に使用された凶器の技術的研究報告
3.
どのようにして、どのような手段で殺されたのかについての犠牲者の検死報告
4.
犯罪現場で、被告人立会いのもとで、犯行を再現したことについての報告
たとえ被告が自白していたとしても、判事は、検証がもはや必要ないとは裁定しないであろう。自白は、たとえ非常に法律的価値を持っていても、検証され、確証されなくてはならないからである。
ここで問題としている事件は、一人の人間が普通の凶器(刃や弾丸)を使って犯した通常の犯罪ではなく、判事もこれまで見たことのないような特別な凶器、すなわち、数千の犠牲者を収容した「スーパーガス室」、大量生産様式の化学的屠殺場を使って、数百万の人々に対して行なわれたとされる、前代未聞の犯罪なのである。そして、この事件に対しては、ほぼ半世紀にわたって、上記の本質的な基準が適用されることはまったくなかったのである。
「ガス室」や「ガス車」を使って殺戮を行なった罪でドイツ人を告発した最初の裁判は、1943年にソ連で始まった(ハリコフ裁判、クラスノダル裁判)。このような裁判は、今日でも続いている。たとえば、イェルサレムで開かれているデムヤンユク裁判である。そして、47年経っても、依然として次のようなものが1つも存在していないのである。
1.「ガス処刑された死体」、「ガス室」、「ガス車」についての法医学的な現場検証報告
2.当該の部屋、当該の車両が殺人ガス処刑に使われたと結論する専門家報告
3.犠牲者が毒ガスで殺されたと結論する検死報告
4.数千の犠牲者を各種の手順を踏んで殺戮し、しかも、危険な化学物質を使用したガス処刑の再現についての報告
アルサスのストリューホフ・ナチヴァイラー収容所裁判では、「ガス室」と「ガス処刑されたとされる死体」(ストラスブールの市民病院に保管されていた)について、専門家の調査が行なわれたが、Rene
Fabre教授はどちらの場合もガスの痕跡をまったく発見しなかった。ダッハウに関しては、フランス軍のFribourg大尉が作成した専門家報告のようなものがある。しかし、この報告が、「ガス室」と呼ばれている部屋を検証する必要があると結論していたにもかかわらず、このような検証は行なわれなかった。
ルドルフ・ヘスその他のアウシュヴィッツ関係者裁判の予備調査では、調査判事ヤン・ゼーンは、ビルケナウの焼却棟?Uの「ガス室」の一部であったといわれる換気穴から採取した6つの亜鉛鍍金カバーと25.5kgの髪の毛と金属留め金を分析するように、クラクフのコペルニクス通りの法医学研究所に依頼した。その結果、シアン化水素とその化合物の痕跡が発見された(expert
reports by Dr. Jan Z. Robel, dated
しかし、この結果には何も異常なことはない。ドイツ人は、建物、衣服、個人の所持品の害虫駆除のために、チクロンBというかたちのシアン化水素を頻繁に使っていた。ポーランドでは、ならびに戦時中のヨーロッパ各地では、髪の毛は、(殺菌駆除されたのちに)衣料用に使うために、床屋においてさえも、集められていた。きわめて奇妙なことであるが、ポーランドの司法当局は、法医学研究所を手近に持っていたにもかかわらず、「処刑ガス室」とされる部屋を徹底的に調査しなかったことである(R.
Faurisson, "Response to a Paper Historian," The Journal of Historical
Review, Spring 1986, p. 37参照)。
裁判所による現場検証が行なわれた裁判もある。たとえば、フランクフルト裁判(1963−65)である。しかし、公式の調査団が訪れたのは、オリジナルの状態で残っているか(ポーランド共産党の役人や出版物は今日までそのように主張している)廃墟のかたちで残っている「ガス室」――ここから多くのことが判別できるであろう――ではなく、アウシュヴィッツ収容所の一部であった(see
Dr. Wilhelm Staglich, The Auschwitz Myth, Institute for Historical
Review, 1986)。まったく馬鹿げたことである。
犯行の再現――シミュレーション――もビルケナウでならば、簡単に行なうことができたはずである。そうすれば、ガス処刑という告発が馬鹿げたものであることが明らかとなったであろう。映画作成者はハリウッド様式の「ドキュメンタリードラマ」をビルケナウで撮影していた。すなわち、ユダヤ人の移送集団がビルケナウの降車場に到着し、その近くには、(1)犠牲者が服を脱ぐ脱衣室、(2)殺人ガス室、(3)3つの燃焼室をもつ5つの焼却炉が置かれた部屋をもっているとされる2つの焼却棟の建物があるシーンである。そして、犠牲者のグループは2000名ほどであり、焼却棟では、このような集団がいくつか毎日焼却されたという。犯行を再現すれば、このような建物の大きさや周辺地区の配置を考えると、まったくのボトルネックがあり、このような物語が空想にすぎないことが明らかとなるであろう。とくに、焼却棟では死体があふれてしまうであろう。腐敗した死体があちこちに山積みとなるであろう。1体を焼却するのに1時間半(平均の焼却時間)かかったとすると、1時間半たっても、もともとの2000体のうち15体しか焼却されておらず、まだ焼却されていない1985体が残っており、しかも、保管場所もないのである。「死の装置」は、最初のガス処刑で故障してしまうであろう。焼却棟を昼夜兼行で稼動させても、2000体を焼却するには8昼夜かかるであろう。しかし、焼却専門家や焼却棟稼動マニュアルを見ても、焼却棟を昼夜兼行で稼動できるという話になっていない。
これらの裁判で証言を行なった証人について触れておこう。彼らすべては、「ホロコースト」と「ガス室」の生きた証人として登場している。彼らはいったいどのようにしてガス室を逃れたのか。答えは、奇跡のおかげであったというごく簡単なものである。いわゆる「死の収容所」を次々と経験したが、自分たちが生き残ったのは、数多くの奇跡によるというのである。「特別労務班」のメンバーの話も奇妙である。彼らの話によると、ドイツ人は3ヵ月ごとに、労務班員をガス処刑していたという。ということは、アウシュヴィッツ・ビルケナウで2年間すごせば、7回か8回の奇跡を経験して、生存者のチャンピオンとなるであろう。これらの裁判の弁護人や判事たちの中で、このように数多くの奇跡が起こったことに驚きの声をあげたものはほとんどいなかった。
ガス室生存者のオリンピック・チャンピオンであるフィリップ・ミューラーは、『アウシュヴィッツの目撃者:ガス室での5年間』を執筆した不死の著者であるが、彼は、フランクフルト裁判でこの点を突っ込まれた。しかし、彼は完璧な答えを発見して、「特別労務班」の定期的清算の話は伝説にすぎないと尊大に説明した。一般大衆、歴史家、判事たちが、このような「ホロコーストの目撃証人」にいっぱい食わされたままになっていることは、深刻な問題である。
シモーヌ・ヴェイユはフランスの前大臣であり、ヨーロッパ議会議長であるが、自分のことをアウシュヴィッツでユダヤ人が絶滅された生き証人、生きた証拠であると称している。しかし、彼女が生きた証拠であるとすれば、ドイツ人がアウシュヴィッツでユダヤ人を絶滅しなかったことの生きた証拠である。シモーヌ・ヴェイユ、彼女の母、姉妹の一人は、ドランシイ(フランスの通過収容所)でも、アウシュヴィッツでも、ボブレク(アウシュヴィッツの衛星収容所)でも、ベルゲン・ベルゼンでもいつも一緒であった。最後の収容所で、彼らは、この当時致命的な病気と考えられていたチフスにかかった。ヴェイユの母はそこで死んだ。彼女は二人の娘と同様にアウシュヴィッツを生きのびた。もう一人の娘はラーフェンスブリュックを生きのびた。
「目撃者」が、自分の証言している事実の物理的側面について反対尋問を受けていなければ、私は、この人物を「目撃者」とはみなさない。
私がここで申し上げていることを注意深く読んでいただきたい。「ガス処刑」の目撃証人が、自分が目撃したか関与したガス処刑の物理的側面について反対尋問を受けた裁判は一つもないのである。テシュ・ヴァインバヒャー裁判では、検事側証人ベンデルの証言のおかげで、テシュとヴァインバヒャーはチクロンBを製造・販売した罪で死刑を宣告され、処刑された。この裁判でも、ベンデル証人はこのような反対尋問を受けていないのである(see
William Lindsey, "Zyklon B.
ツンデル以後
ツンデルの到来とともに、詐術のベールは引き裂かれた。ツンデルは脅迫におびえない勇気を持っていた。彼は、王様は裸であることを明らかにした。彼は思慮のない人々と遠慮なく、直接に対決した。このために、検事側の専門家や証人は、裁判で惨敗した。そして、ツンデルは反撃に出て、歴史家と判事にすばらしい教訓を教え込んだ。彼らに、何をすべきであったのかを示したのである。ひとことで言えば、知ってのとおり非常に難しいのであるが、最初からやり直すべきであると論じたのである。そして、ツンデルは、何が物理的に起こったのかを真っ先に検証しようとして、アメリカの処刑専門家と自分の仲間を、自分の費用でポーランドに送り込んだ。この専門家ロイヒターは、「ガス室」の土台、壁、床からサンプルを採取して、それをアメリカの研究所に分析させた。
1985年と1988年のトロント裁判では、検事側の専門家と証人は敗走した。これについてはすでに別のところに述べているので(see
Robert Faurisson, "The Zundel Trials (1985 and 1988)," The Journal of
Historical Review, Winter 1988-89, pp. 417-431)、ここでは立ち戻らない。ただし、このことは私の主観的な判断ではないことを述べておきたい。私が真実を述べている証拠は、1988年の裁判では、絶滅派の専門家の筆頭、ホロコースト神話の「教皇」ヒルバーグが、1985年の裁判で、ツンデルの弁護人クリスティから手痛い敗北を喫した苦々しい思い出のために、出廷を拒んだことである。彼はこの件について、検事ピアソンあての書簡で述べている。この手紙は内密のものであったが、弁護側の知るところとなり、おおやけになった。1985年裁判のもう一人のスター証人ルドルフ・ヴルバも1988年裁判には出廷しなかった。検事ピアソンは、「生存者」は証言しないのかどうか判事トーマスに尋ねられて、今度は証言しないと苦々しく答えなくてはならなかった(私はその場にいた)。
1988年裁判では、赤十字代表Charles
Biedermannが証言している。彼は誠実で知的な人物であるが、言い逃れの回答、誤解を招く回答を行なった。また、ブローニング教授も証言したが、彼は、アメリカの大学教授とはこのようなものであるのかという悲惨な実態を示した。彼は、まったく単純な精神を持つ無知の人であり、金銭的に貪欲な人であり、良心のとがめを知らない人物であった。彼らの証言については、お情けで、ここでは言及しない(上記の論文に触れてある)。そして、この人物は、カナダの納税者から1時間150ドルを受け取って、トロントにやってきて、その見解ゆえに告発されているツンデルを打ち負かし、ツンデルを投獄するのを手助けしようとしたのである。そして、ツンデルの犯罪はといえば、イギリス、ブローニングの母国ですでに14年前から自由に配布されている小冊子をカナダで出版したという犯罪なのである。
私にとって、第一ロイヒター報告の原則的結果の一つは、「ホロコースト」という犯罪を実行するために使われた「凶器」の法医学的研究がそれまでまったく行なわれてこなかったという単純な事実を明るみに出したことである。ロイヒターは、1988年4月に報告が公表されると、彼の分析結果に怒りを覚えた人々、それまでの報告によって彼の報告を反駁することができるという人々によって取り囲まれた。ロイヒター報告を批判する人々は、自分たち独自の調査を行なって、実験結果をまとめた報告を公表すればよいだけである。
ロイヒター自身は、1989年にロサンゼルスで開かれた第9回歴史評論研究所国際会議に提出された論文の中で、一つの解決方法、すなわち、ガス室問題に関する国際専門家委員会の設置を提案している。すでに1982年に、フランス人歴史家Henri
Amouroux――私は自分の研究について彼と議論したことがある――は、そのような解決方法を望んでいると打ち明けてくれた。彼は多くの言葉を使って、フランス人はガス室問題では公平な姿勢を持ちえないので、「一国の」委員会ではなく、「国際」委員会が必要であると話してくれた。
ポーランド当局は、情報公開を必要とすると突然考えでもしないかぎり、この種の調査に全力で反対するであろう。同じように、ポーランド当局はアウシュヴィッツ国立博物館の文書、とくに、アウシュヴィッツで死亡した人々の数と死因を明らかにするはずである、ドイツ人が残した死亡者記録(Totenbucher)へのアクセスにも反対してきた。1987年、アウシュヴィッツ博物館文書館長タデウシ・イヴァシコは、フランス人ジャーナリストMichel
Folcoに対して(セルジュ・クラルスフェルトの友人であり、薬剤師のプレサックのいるところで)、「もし、私たちが発掘調査を実行して、ガス室の実在を示すような証拠を発見できなかったとすれば、ユダヤ人たちは、証拠を抑圧したといって、われわれポーランド人を非難するでしょう」と語った[注:1989年8月8日、ツンデルはソ連の指導者ゴルバチョフに手紙を送って、赤十字代表Charles
Biedermannに対する反対尋問から、ソ連がアウシュヴィッツの死亡者記録を捕獲したとの確証を得ていることを伝えた。ツンデルはこの記録へのアクセスを求め、もし記録が公開されれば、善意の証となるであろうと述べた。幸運な偶然の一致かもしれないが、ソ連は1ヵ月半後に記録を公開した。]
第二ロイヒター報告
第一ロイヒター報告は、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクのガス室に関する最後の言葉として、長期にわたって残ると思われてきた。しかし、それは、先駆的業績であり、他の研究者が足を踏み入れ、広げていく肥沃な研究分野を切り開いてきたのである。
1989年の第二ロイヒター報告も、今度はダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイムの「ガス室」問題についての先駆的研究である。
私は、ロイヒターと彼の仲間がアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクに出かけるのに同行しなかったが、シアン化水素をもとにする殺虫剤チクロンBを使ったドイツの「ガス室」の非合理性を知るためには、やはりシアン化水素を使っているアメリカのガス室を研究すべきであると1977年から考えていた。実際には信じていなかったが、いつの日か、アメリカのガス室の専門家がアウシュヴィッツを訪れて、本来ならば、誠実な司法的調査、歴史学的調査が行なうべきである物理的・化学的研究を行なうことを期待していた。
1979年の第1回歴史評論研究所国際会議のときに、私は、この考えを何人かの人々、とくにツンデルに話した。その後、私はすべての希望を放棄した。修正主義者のあいだにおいても、私の考えに興味を抱く人物がいなかったからである。おそらく、私の考えは大胆すぎるか、非現実的に思われたのであろう。しかし、ツンデルはその考えを放棄せず、また、成功の希望も捨て去らなかった。第一ロイヒター報告の序文の中で、私は、ツンデルとカナダ人弁護士バーバラ・クラシュカのおかげで、ボストンでロイヒターと出会い、ポーランド旅行が計画された事情を記している。
西ドイツとオーストリアへの旅行では、私はロイヒターのチームに同行した。以下の報告の中で、ロイヒターは、チームのメンバー、自分の課題の性格と結果について、重要な情報をすべて提供している。
1. ダッハウ
1945年から1960年まで、連合国の宣伝と連合国の法廷は、殺人ガス室がダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイムで使われたと主張していた。しかし、この事実を立証する証拠、証言、自白は存在しなかった。
ダッハウの「ガス室」と犠牲者はとくに強調されてきた。アメリカの宣伝はきわめて声高であった。ダッハウでの「ガス処刑」が、エジプトにピラミッドが存在するのと同じように明白なこととみなされている国があるとすれば、それはアメリカ合衆国であった。
ニュルンベルクの見世物裁判の白眉の一つは、検事側がドイツの強制収容所を撮影したフィルムを上映したときのことであった。恐怖は、ダッハウの「ガス室」の光景で最高潮に達した。この装置は「おそらく一時に100名を」ガス処刑したというナレーションがなされた。このフィルムは、撮影された80000フィートのフィルムから選択された6000フィートのフィルムであり、「ナチ強制収容所」と呼ばれたが、それは、ドイツ人被告を含む人々の想像力を捕らえ、強く影響を及ぼしたのである。
敗戦国民となったドイツ人に対する世論の敵意をかきたてたのは、第一にこのフィルムの上映、第二に「アウシュヴィッツ所長」ルドルフ・ヘスが法廷で行なった自白であろう。今では、この自白が「口述された」ものであることがわかっている。その中身は、ヘスを逮捕して拷問にかけたイギリス系ユダヤ人の病的な想像から生み出されたものであった(see
R. Faurisson, "How the British Obtained the Confessions of Rudolf Hoss," The
Journal of Historical Review, Winter, 1986-1987, p. 389-403)。
しかし、ダッハウの「ガス処刑」物語も、実体のないところから作り出されたのである。1960年になって、嘘つきどもははじめてこのことを認めるようになった。
1960年8月19日、有名なマルチン・ブロシャートはDie
Zeit紙上で、ダッハウでは殺人ガス処刑はまったくなかったことを認めた。しかし、この2年前に、このブロシャートは、ヘスがイギリス軍からポーランドの共産主義者に引き渡されたあとに獄中で執筆したといわれている彼の「自白」を出版しているのである――このことは、ブロシャートの恥であり続けることであろう――。彼は、この出版によって、ヘスの「自白」が本物であり信頼できるものであるとみなしたのである。しかし、この「自白」はイギリス軍が手に入れた自白と本質的に同じもので、少々ポーランド人好みの内容を付け加えた、イギリス軍の捏造品の再編集・拡大版にすぎない(1972年、ブロシャートはミュンヘンの現代史研究所長となった。)
今日、ダッハウの「ガス室」の見学者は、5ヶ国語でかかれた次のような文章を、可動式パネルの上に見ることができる。
「『シャワー室』に偽装されたガス室は、ガス室としては使われたことがまったくなかった。」
このパネルは可動式であるので、悪を強調したい映画作成者やその他の職業的嘘つきたちは、このパネルを見えないようにして、部屋の隅々を撮影し、これが実際に囚人をガス処刑するために使われたガス室であるといい続けることができるのである。
私はダッハウ博物館関係者の冷笑的な困惑と博物館の見学者の単純さに驚いている。パネルにある文章はまったくリアリティをもっていないからである。1980年、私は自分の論文Memoire
en defense contre ceux qui m'accusent de falsifier l'histoire
(1980, pp. 197-222)のなかで、この点を的確に指摘した。私は、博物館長Barbara
Distel、当時はダッハウ国際委員会議長であった故Guerisse博士に、この部屋を『ガス室』と呼ぶ理由を尋ねたが、彼らはまったく困惑してしまった。この二人は、ドイツ人には、1942年に建設し始めたこの小さな「ガス室」を完成させる時間がなかったということですかと尋ねられると、この建設のために使われた囚人たちがサボタージュしたか、仕事を拒んだと答えている。
しかし、いまだかつて存在したことのないもの(一時に100名を殺害するガス室)を見たことのない囚人たちが、この仕事が終われば、自分たちは殺人ガス室を作ってしまうことになると、作業の当初から、どのようにして知ることができたのであろうか。奇跡、占い、心理的テレパシーのような奇跡が存在したのであろうか。その後の囚人も、3年間にわたって、この奇跡の言葉を伝えながら作業に従事したのであろうか。ドイツ人は、ダッハウの囚人のための殺人ガス室の建設という極秘作業を、その作業の完成は気にせずに、実行するように囚人たちに命じたのであろうか。
さらに、Barbara
DistelとGuerisse博士は、この部屋が未完成のガス室であるとどのように知ったのであろうか。彼らは、これを完成したガス室にするためには、「未完成」の小さなガス室に何を付け加えたらよいのか説明できるのであろうか。彼らはその技術情報をどこで手に入れたのであろうか。文書館には「ガス室」の設計図面があるのであろうか。彼らは「完成した」ガス室を見たことがあるのであろうか。どこで、いつ見たのであろうか。
1989年4月9日、私たち、ロイヒター、マーク・ウェーバーそして私はダッハウを訪れた。カメラマンのオイゲン・エルンストが、最初は「ガス室」にいる私たちを、ついで、外の整列場で私たちをビデオ撮影した。この訪問についてのコメントを記録しようとしたのはこの整列場においてであった。部屋を訪問したばかりの見学者たちの中には私たちを見て、立ち止まって耳を傾ける者もいた。一人の見学者が、「ガス室」の実在を疑っているのかと食って掛かってきたが、たいした事件にはならなかった。この件は別として、ロイヒターは穏やかにレポートすることができた。
歴史家マーク・ウェーバーと私がカメラに向かって、私たちの訪問と観察についてコメントし始めると、見学者たちが集まり始めた。少々神経質になっている人々もいた。コメントを中断し、収容所の別の場所でそれを続けることもできたが、私は、ここに残って、この状況を利用することにした。結局、最良の聴衆を前にすることになった。彼らは「ガス室を見た」ばかりであり、後で友人たちに、「ガス室の実在を否定できるものは誰もいない。私もダッハウでそれを見た」と話すであろう。私は見学者たちと即席のディベートを試みた。彼らが訪れたのはガス室などではなく、博物館長Barbara
Distelがそのように呼んでいる部屋であることを指摘した。そして、彼女はそのような重大な告発を提起するにあたって、まったく証拠を提示していない(「ガス室」の隣の部屋の写真や文書は何も証明していない)が、誰もあえて証拠を彼女に求めようとはしていない、一人もであると説明した。私は、ガス室を見たと自分たちの家族に話してはいけないと見学者に警告した。実際、彼らが見たのはそのようなものではないからである。そして、修正主義者は、殺人ガス室はアウシュヴィッツも含めて、どこにも存在しなかった、ドイツのユダヤ人絶滅政策など存在しなかったと考えていることを説明した。
すべては、1960年代の「ハプニング」スタイルのように進行し始めた。怒った反応をするものもいれば、賛同したものもいた。憤激するか、関心を示すかであった。一人のドイツ人の若者は、このような話をする私は投獄されるべきだと考えていた。強い敵意を持っている人々は、「ガス室があったにせよ、なかったにせよ、たいしたことではない」といういつもどおりの言い逃れに頼った。これは、私がフランス人として、とくに経験ずみの議論である。フランスでは、ル・ペンが同じような発言をしたために、ユダヤ人グループから攻撃を受け、裁判所から強く非難されたからである。
魔法の「ガス室」は新しいホロコースト教の中心の柱である。「ガス室」について、このような空騒ぎをしているのは、修正主義者ではなく、新しい宗教の信者である。だから、われわれは、この神話にしがみつく理由の説明を彼らに求めなくてはならない。もちろん、彼らはガス室にしがみつくであろう。特別で組織的な絶滅手段がなければ、ユダヤ人を特別に組織的に絶滅する計画の存在を証明することができないからである。「ガス室」がなければ、「大虐殺」もないのである。
この「ハプニング」は、「ガス室」というタブー、「大虐殺」説に関して私がドイツ国内で始めておおやけに議論した機会であった。そして、この「ハプニング」のかなりの部分は、ホロコースト・カルトの神殿の一つ、ダッハウの偽ガス室を背景に、カメラマンであるオイゲン・エルンストの手でビデオ撮影された。
2. マウトハウゼン
ホロコースト信仰の信者の大半は、マウトハウゼンの極小ガス室の実在を擁護してこなかった。ほほ半世紀にわたって、オーストリアのハンス・マルサレクとフランスのPierre-Serge
Choumoffの二人だけが、その実在を信じさせようとしてきた。二人は、そのさまざまな出版物の中で、部屋の内部写真の公開を差し控えているが、それは賢明なやり方である。差し控えている理由は単純である。部屋はたんなるシャワー室にしか見えず、それが殺人ガス室――殺人ガス室であるとすれば不可欠な装備品も含めて――である考えることができるようなものをまったく発見することができないからである。マルサレクとChoumoffは、写真を公開していないが、2つのドア(ガス室への2つのドア、これ自体が、この部屋をガス気密にすることができたのかどうかという疑問を呼び起こす)の1つの外部写真だけが公開されている。
私は1978年に始めてマウトハウゼンを訪れたとき、博物館の二人の関係者、とくに、スペイン人囚人であった館長に対して、見学者向けに販売されている記念はがきには「ガス室」を写したものが一つもない理由を質問した。答えは、「それは残酷すぎます」というものだった。これは驚くべき答えである。マウトハウゼンも含むすべての強制収容所は、展覧会・展示会などで見ることのできる「恐怖の部屋」を思い起こさせるようなものであり、「sex-shop
anti-Nazism」のようなものは「ショアー・ビジネス」でもっとも流行している出し物となっているからである。
この訪問のとき、私は、「ガス室」においても、博物館においても、シャワー室に見える部屋が実際にはガス室であったことを立証する資料や専門家報告が展示されていない理由を知りたかった。館長は、このような専門家報告のテキストが「ガス室」に展示されていると回答した。これは、真実ではなかった。館長はこのことを認めざるをえなくなると、今度は、専門家報告はリンツにあると話してくれたが、これ以上詳しくは説明しなかった。このような専門家報告があったとすれば、マウトハウゼンについての研究書に登場するだろうし、「ホロコースト」についての文献目録にも登場するであろう。
1989年4月10日、私たちがマウトハウゼンを調査しているときに、収容所当局も関係する事件が起こった。私たちはロイヒターがトラブルなくサンプルを採取できるように、早朝に現場に出かけた。彼が仕事(大きな騒音を発していた)を終えるとすぐに、見学者のグループが「ガス室」を訪れ始めた。多くが生徒であり、ドイツ人とオーストリア人の前世代が戦時中に行なったことに対する恥と憎悪の感情を体系的に生徒に植え付けることが目的であった(オーストリアは悪意のあるサイモン・ヴィーゼンタールの母国である)。博物館関係者か学校教師のガイドたちは、「ガス室」とその作動について話していたが、それは、多くの点で矛盾を抱えている「ホロコースト文献」にあるおきまりの説明にもとづいていた。
ウェーバーと私は、事前にそのように考えていたわけではなかったが、一番えらそうに見えた博物館のツアー・ガイドに質問し始めた。そして、それをエルンストのカメラが撮影していた。質問を投げかけられたこの哀れな人物は、最初は自身ありげであったが、その後、「ガス室」がどのように作動したのか誰も多くは知らないと認めざるをえなくなった。この話は、長年にわたって、さまざまなバリエーションをもつようになった。見学者に対して、ガス処刑に関するたがいに矛盾する説明がなされている。
バージョン1
ガスは、天井のシャワー・ヘッド(実在する)から出てきた:博物館関係者は、天井が低いために、犠牲者はシャワー・ヘッドの手をかけて、それをふさいで、ガスの拡散を防ぐことができることがわかったので、このバージョンは放棄されていると説明している。
バージョン2
ガスは天井から出てきて、建物西側に現存している煙突穴のようなものを介して、排気中に換気された。博物館関係者は、このバージョンも放棄しなくてはならない理由を説明できなかった。
バージョン3
ガスは、地上から80cmほどのところにある、東の壁の薄い、穴の開いたパイプから出てきた。すなわち、ガスは、バージョン2の正反対の部屋の場所から出てきた。このパイプの痕跡は存在しないし、ガスを放出した隣接の部屋からパイプの出てくる穴さえも存在していない。隣接の部屋はまったく空き部屋であり、それが何のために使用されたのかを示唆するようなものはまったく存在しない。
以上のことだけでも理解に苦しむのに、もっとも理解に苦しむことは、ガス室のなかの金属パネルの説明すべてがバージョン2であることである。この点を博物館関係者に指摘すると、金属パネルのテキストは間違っており、ここに記載されている手順は正しくないと説明してくれた。
しかし、今日通用しているバージョン3は、物理的にまったく不可能であるという問題を抱えていた。穴の開いたパイプが地上80cmのところにあったとすれば、たとえ、内部の人体の圧力に抗するように部分的に壁に固定されていたとしても、ガス室のなかに押し込められた犠牲者の身体でふさがれてしまうであろう。ガスはどのようにして「ガス室」の中に拡散し、部屋全体にいる犠牲者を殺すことができるのであろうか。博物館関係者は最後に、自分は学者ではない、自分の説明は、マルサレクの本にもとづいていると釈明した。
博物館のツアー・ガイドが立ち去った数分後、二人の警官がやってきて、撮影を中止するように命令した。彼らは、何と「ガス室」と焼却炉以外ならば、マウトハウゼンのすべてを撮影することができると伝えてきた。しかし、見学者に対してはそのような説明はなされてはいなかった。いずれにしても、数千の見学者は、収容所当局からの警告を受けずに、2つの場所を撮影していた。
マウトハウゼンでは、収容所当局は包囲状態に置かれたメンタリティの中で生活しているように思われた。彼らは、オーストリアでの修正主義の進展、Emil
Lachout、Gerd
Honsik、Walter
Ochensbergerのような人々による修正主義的研究に脅かされているようであった。(ここで、私はもう一人のオーストリア人Franz
Scheidlの名を挙げておきたい。1960年代、彼はGeschichte
der Verfemung Deutschlands『ドイツ中傷の歴史』と題する研究を自費出版している。しかし、修正主義者の多くでさえも、このことを知らない)。
3. ハルトハイム城
ハルトハイム城は、平野の真ん中にあるので、かなり遠くからでも見ることができる。極秘犯罪が行なわれたとされる場所としては、それを隠すことは不可能である。この城は戦前も戦後も保護施設のようなものであった。今もそうである。ハルトハイム城には、何も疑いが生じるようなことのない小さな部屋が存在するが、その部屋を見ると、大いなる嘘の作成者たちがなぜこの部屋を殺人「ガス室」と呼ぶようにしたのかまったくわからない。ホロコースト教のなかでも、もっとも不可解な捏造品の1つである。現在では、その目的はただ1つだけであろう。われわれの時代が過去数世紀よりも啓発されており、もっと知的であるかのように過去の宗教的迷信をあざけっている人々に対して、私は次のように語りかけるであろう。
「ハルトハイム城の『ガス室』を訪れてごらんなさい。そして、あなた方は、これがガス室であると述べてきた人々によって愚か者のように愚弄されてきたのではないかと感じないかどうか、お話してください。」
この極小「ガス室」の写真を掲載している出版物を見たことがない。そして、この部屋は、マルサレクが、マウトハウゼン収容所長ツィエライスから聞いたとされる自白の英語版に登場する建物と同じものである。この「自白」には、次のようにある。
「…100万から150万人が殺された大規模なガス処刑施設」
修正主義者の反乱(インティファーダ)
今日、「ホロコースト」の擁護者たちは混乱におちいっているが、そのことは奇妙な事態を生み出している。彼らは1970年末まで、ポーランドにあるアウシュヴィッツ、ビルケナウその他の収容所については、「ガス室」の実在の、したがって、ユダヤ人の「大虐殺」の「確固とした証拠」を持っていると信じていた。当時、彼らは、何らかの誇張があったこと、今日のポーランド以外の場所にある収容所にはガス室はなかったかもしれないことを認める姿勢をとるまでにいたっていた。ところが、1980年代初頭から、修正主義者の研究の圧力を受けて、ポーランド、とりわけアウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」の実在がますます疑わしいものとなってきた。このために、恐怖にもとづく反動が生み出された。宗教的ファンダメンタリズム、政治的ファンダメンタリズムでの動きと同じく、絶滅論者ももともとの信仰と教義への復帰を呼びかけるようになった。彼らは、放棄されたガス室を「ふたたび定説にしていった」。マウトハウゼン、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュック、ノイエンガムメ、ストリューホフ・ナチヴァイラー、そしておそらくダッハウにも「ガス室」が存在したとふたたび主張するようになっていった。ここで念頭においているのは、リュッケルル、ラングバイン、コーゴンその他21名の筆者による『毒ガスによる民族社会主義者の大量殺戮』(Fischer
Verlag, 1983)である。
マウトハウゼンに関しては、ランツマンやバウアーなどの人々は、物語を撤回するところにまで進んでいる。1982年、バウアーは、「マウトハウゼンではガス処刑はまったく行なわれなかった」と明言していた。ランツマンも同じように明言していた。1986年、ランツマンは、ヨーロッパ1(フランスのラジオ・ネットワーク)でのロック事件についての激しいディベートの最中に、マウトハウゼンの「ガス室」に触れた大臣を諌めていた。ランツマンはこの点で大臣とは反対の立場を取っていた。すなわち、この収容所にはガス室はまったく存在しなかったというのである。ところが、そのような明言にもかかわらず、彼らは、その後、マウトハウゼンには「ガス室」が存在したと述べるようになった。(バウアーの自説撤回については、Dokumentations-Archiv
des osterreichischen WiderstandesがDas
Lachout-"Dokument," Anatomie einer Falschungという題で1989年にウィーンで出版した馬鹿げた本の33−34頁参照。ランツマンの撤回については、1986年7−9月号のLe
Monde Juifの97頁に掲載された彼の書簡を読んでいただきたい)。このような撤回、方向転換、絶えず変化する説明は、「ガス室」と「大虐殺」が神話にすぎないことを、さらに立証している。神話というものは、支配的な見解、時代の要請にしたがって、変容をとげるものだからである。
今日、絶滅論者に残されている、すなわち、信仰の錨を置くことができる避難所は2つだけである。すなわち、「ガス車」とトレブリンカだけである。
「ガス車」については、フランス人Pierre
Maraisがまもなく、『ガス車の諸問題』と題する著作を刊行するであろう。トレブリンカについては、絶滅論者は「アウシュヴィッツ」を失ったように、「トレブリンカ」も失うであろう。
近い将来、ホロコーストのプロモーターは、自分たちの財力、権力、地位を使って、映画を作製し、儀式を行ない、博物館を建設するであろうが、これらの映画、儀式、博物館はますます意味のないものと化していくであろう。彼らは修正主義者を弾圧するためにさまざまな方法を探し出し、肉体的攻撃、プレス・キャンペーン、特別法の採択、ひいては殺人にまでうったえるであろう。戦後50年経っても、彼らは、「戦争犯罪人」とみなした人々を見世物裁判にかけて、処罰し続けている。修正主義者は、歴史研究、法医学的研究、学術的・技術的著作を発表することで、これに対処するであろう。これらの著作、これらの研究は、われわれの知的抵抗(インティファーダ)における石となるであろう。
ユダヤ人には次の選択肢があるであろう。いまだごく少数ではあるが、大きな嘘を否定する勇気と名誉をもつ人々の例にならっていくか、それとも、エリー・ヴィーゼル、サムエル・ピサルのような人々のメロドラマ的行動、サイモン・ヴィーゼンタール、クラルスフェルト兄弟――セルジュとビート――、合衆国ではO.S.Iが行なっている恥ずべき魔女狩りを支持するかという選択肢である。
1988年に修正主義的な立場の支持に馳せ参じたアーヴィングは、最近次のように述べている。
「ユダヤ人共同体は自分たちの道義心を検証しなくてはならない。彼らは、真実ではないことを宣伝してきたからである。」(The
Jewish Chronicle,
London, 23 June 1989)
私にはこれ以上付け加える言葉はない。
ロベール・フォーリソン博士
1990年7月
第二ロイヒター報告
序文
今年(1989年)3月、私はカナダのトロントのツンデル氏から、ドイツとオーストリアの3つの「処刑ガス室」と焼却棟を調査するように要請された。ドイツ人が第二次世界大戦中に稼動させていたというこれらの場所とは、ドイツのダッハウ、オーストリアのリンツ郊外のマウトハウゼン、ハルトハイム城である。
ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイムの調査結果と法医学的分析は、上記の施設が処刑ガス室として機能したかどうかという点に関する技術報告、法医学的研究となるはずであった。多くのホロコースト正史派の歴史家もこれらの施設が処刑ガス室として機能したことはなかったと認めているけれども、ツンデル氏は、これらの施設が、もし処刑ガス室として利用できたとしても、そのように使われたのかどうかという点に関して、今後登場するかもしれない疑問を払拭し、この点について、科学的に疑問の余地なく立証しておきたがっていた。私は、ツンデル氏の希望にしたがって、この科学的調査と評価に着手した。今年の4月9日日曜日、私は、次のようなメンバーとともにダッハウを訪れた。秘書/技術者カロリン・ロイヒター、助言者で相談役ロベール・フォーリソン博士、歴史家でヨーロッパ現代史の研究者マーク・ウェーバー、通訳ティユダ・ルドルフ、技術者スティーブン・デバイン、撮影技師オイゲン・エルンスト、撮影技師助手ケネス・エルンスト。翌日の4月10日月曜日、われわれはオーストリアのリンツ郊外のマウトハウゼン、ハルトハイム城を検証した。本報告と分析結果は、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイムで行なわれた調査に対応している。
目的
本報告とそれに先行する調査の目的は、3つの場所――1つはドイツのダッハウ、2つはオーストリアのマウトハウゼンとハルトハイム城――にある「ガス室」が、それぞれどのようなかたちであるにせよ、単一ガス室、複合ガス室として作動することができたかどうかを決定することである。多くのホロコースト正史派の歴史家たちが今では、これらの施設のどれ一つとしてガス処刑施設としては機能しなかったという点で一致している。私はこの事実を知っているが、第二次大戦中に、アメリカ軍がこの場所を占領した直後に、これらの施設では大量ガス処刑が行なわれたという説が登場し、当時の世界中のマス・メディアに広まったことも知っている。本調査が行なわれ、本報告が執筆されたのは、今後登場するかもしれない疑問や疑念を払拭するためである。
物的施設の調査と現場検証、これらの施設のデザイン、処刑のために使われたとされる「ガス処刑」手順の記述もこの目的に入る。また、これらの「ガス室」に収容することのできる人員の最大数、換気回数の見積もりもこの目的に入る。しかし、自然死したもしくはガス処刑以外の手段で殺された人々の数の決定、ならびに、実際の「ホロコースト」が起ったかどうかの裁定はこの目的には入らない。さらに、歴史的諸条件の中で「ホロコースト」を定義しなおすことは、本報告の筆者の意図ではない。実際の現場で入手した科学的証拠と情報を提供し、調査地点の「処刑ガス室」と焼却施設の目的と使用に関する科学的、技術的、量的データすべてにもとづく見解を披瀝することが筆者の目的である。
背景
本報告の調査者の中心で、報告作成者は、処刑設備の設計・製造の技術者であり専門家である。そして、死刑囚をシアン化水素ガス(「チクロンB」ガス)で処刑するために合衆国で使われている装置の設計・建設にも従事してきた。
この調査者はポーランドの「ガス室」も検証し、これらの施設に関する報告An
Engineering Report on the Alleged Execution Gas Chambers at Auschwitz, Birkenau
and Majdanek, Poland
(1988), Samisdat Publishers Ltdの筆者である。筆者はカナダの裁判所によってガス室技術の専門家と認められ、これらの地点には処刑ガス室が存在しないと証言した。
調査者は、ドイツのダッハウ、オーストリアのマウトハウゼン、ハルトハイム城の施設を検証し、測量を行なって、サンプルを採取した。さらに、3つの博物館で販売されている公式の小冊子を購入し、この文献の中身を検証した。また、シアン化水素(「チクロンB」)ガスを使った害虫駆除についての文献も検証している。
視野
本報告の視野には、物理的検証、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイムで入手した量的データ、3つの博物館で入手した文献の分析、マウトハウゼンで採取した法医学的サンプルの考察が入っている。下記に説明する理由から、ダッハウとハルトハイムではサンプルを採取しなかった。さらに、合衆国のガス室のデザインについてのデータ、調査者自身のこの分野での知識と経験にもとづく合衆国のガス処刑手順、ポーランドの「ガス室」の調査から入手した知識が、本報告の作成のために利用された。加えて、害虫駆除施設の作業手順と装置が考察された。調査者は、上記のデータすべてを利用しつつ、この研究の焦点を、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム城の「ガス室」が「チクロンB」(シアン化水素)を使って人間の大量殺戮(絶滅)を行なうことができるかどうかを裁定することに限定した。
概要と分析結果
筆者は、ガス室作業についての基本的な設計基準についての専門知識、ポーランドの「ガス室」に関する前回の研究から入手した専門知識を活用して、利用可能な文献を研究し、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム城の既存の施設を検証・評価した結果、ガス処刑施設であったといわれている、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム城の施設すべてが、そのようなものとして利用された証拠をまったく発見できなかった。さらに、これらの施設は、その設計と建築の特徴のために、処刑ガス室として利用できるはずがなかったことを発見した。
方法
本報告を生み出した研究と法医学的分析の手順は以下のとおりであった。
1.
利用可能な資料の一般的、背景的研究。
2.
問題の施設の現場検証と法医学的調査、そこには物理的データ(測量と建築情報)の蒐集、物理的サンプル(タイルとモルタル)の採取、化学分析のために合衆国への持ち帰りも含まれる。
3.
記録された兵站学的データ、今日見ることのできる(現場)兵站学的データの考察。
4.
ポーランドのアウシュヴィッツ?T、ビルケナウ、マイダネクの「ガス室」についての前回の研究から入手したデータの考察。
5.
入手したデータの編集。
6.
入手した情報の分析、この情報を、合衆国で今日使われている実際のガス室の設計・製作・作動についての立証されている設計・手順・兵站学的情報と必要条件と比較すること。
7.
現場で入手した資材の化学的分析の考察。
8.
入手した証拠にもとづく結論。
第一ロイヒター報告
ロイヒター報告は、ポーランドのアウシュヴィッツ、ビルケナウ、マイダネクに現存する「ガス処刑施設」の研究であり、筆者が1988年4月20日に、オンタリオ州トロントで開かれたツンデル裁判で専門家証言を行なった土台となったものである。この報告には、シアン化水素「チクロンB」を使用する目的でのガス室の運用、燻蒸設計と手順、処刑ガス室の設計と手順、合衆国のガス室、シアン化水素の医学的・毒物学的効果、ドイツの「ガス室」の概要とその設計面での特徴、最大焼却能力も含む焼却棟技術の考察に関する決定的なデータが含まれている。また、シアン化合物と焼却棟についての法医学的な考察もなされている。
このロイヒター報告(1988年)のテキストに登場している材料は、本報告を補足するのに必要なものである。
現場:ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム城
ダッハウとマウトハウゼンは、ハルトハイム城に囚人を送り込んだ収容所として描かれており、ハルトハイム城はそこで囚人がガス処刑されたと描かれてきた。したがって、これらの現場を、個別的かつ包括的に考察する。
ダッハウ
ダッハウの「処刑施設」は「バラッケX」と呼ばれた建物の中にある。これは1942年に建設され、そこには、4つの燃焼室を持つ焼却棟がある。それは、もともとは、近くにあった古い、小さな2燃焼室炉の代替施設として建設された。この施設には、死体安置室、燻蒸害虫駆除室、関連の作業区画、ドアにBrausebad(シャワー室)という標識のかかっている部屋が存在していた。「ガス室」とみなされており、今日、見学者に「ガス室」として展示されているのは、このシャワー室である。
この「ガス室」の面積は427平方フィート、容積は3246.7立方フィートほどである。もともとシャワー室であったが、アメリカ軍がダッハウを占領してからほどなく改築されたようである。現在の天井は高さ7.6フィートで、半田付けされた亜鉛鍍金板で作られたと思われる17個の偽シャワー・ヘッドがついている。また、8個の引っ込み式照明装置がついているが、それは、強い力に抗する耐久力をもっていなかったし、今ももっていない。また、2つの「ガス取り入れ口」――外側に向かって開いて溶接された15.75×27.25cmの内部格子つき――もある。「ガス室」には、明らかに建設後に付け加えられた換気口もある。壁はタイルで、天井は白くペンキで塗られたコンクリートである。建物と収容所の他の床排水溝とつながっている2つの20.5インチ×26インチの床排水溝がある。ヨーロッパの多くのドアがそうであるように、ガスケット装置を持つ2つのドアがある。
その建築様式から見て、「ガス室」は、もともとは、ほかの収容所にあるようなシャワー室であるようである。偽シャワー・ヘッドは、金属製の管と、庭のスプリンクラーに見られるような漏斗状の円錐形の金属から作られている。その端はふさがっており、穴が開いていない。どのパイプ・システムともつながっておらず、また、つながるようにはなっていない。それは、下から見たときに、シャワー・ヘッドとして機能しているように見えるように設計されている。偽シャワーを持つ天井は、オリジナルの建設よりものちに付け加えられたのであろう。天井はコンクリート製であり、偽シャワー・ヘッドが埋め込まれている。この天井は、典型的なsuspended-slabコンクリート建設である。合衆国第79回議会第1開催日の資料No.47にはダッハウの調査報告書も含まれている。この資料では、ガス室の天井は、ガスを室内に注入するための真鍮製の装置のついた、高さ10フィートの天井である。すでに指摘したように、現存の天井は、高さ7.6フィートであり、資料No.47にあるようなガス取り入れ装置はまったくついていない。
シャワー室のすぐ向こう側にスチーム・暖房パイプがあり、それは、シャワー区画に温水を供給する標準的な設計に対応している。しかし、この存在を確認できるのは、シャワー室の後ろ側にあり、建物の後ろ側の窓からだけ見ることのできる、立ち入り禁止の廊下から、シャワー室に入ってくるパイプを観察することによってである。高圧高熱のスチームのパイプを、爆発性のガスが存在している可能性のある部屋越しに通すことは、不適切できわめて危険な設計である。部屋の1つの端には、換気口が付け加えられている。この換気口は「チクロンB」投入口であるといわれているが、集合住宅のごみ焼却シューターとなんら異なるものではなく、オリジナルのタイル張りのあとに付け加えられたものにちがいない。これらの改築は、内部のタイルと外部の煉瓦が平らに配置されていないことからも明らかである。部屋のもう1つの端には、格子のついた2つの埋め込みの電気ボックスがあるが、それは、爆発性のガスが存在している可能性のある部屋にはあってはならないものであろう。部屋からのガスの漏洩を防ぐための気密装置はまったくなく、使用後のガスを排気するシステム、適切な(標準的には最小40フィート)の排気管もまったくない。ドアは、ガス気密でも、耐水性でもない。少しばかりの防水措置がなされているだけである。ガスを放出する(暖める)装置、ガスを室内に送り込む装置もない。「チクロンB」注入口の設計は不適切であり、その散布面積が不十分であるので、「チクロンB」の丸薬からのガスの放出は不十分なものとなるであろう。注入口の傾斜角度が不十分であるので、「チクロンB」の丸薬は、すべてではないとしても、その大半が「注入装置」の中に残ってしまうであろう。
ダッハウ博物館関係者は、「ガス室」のなかの標識に次のように記している。
「『シャワー室』に偽装されたガス室は、ガス室としては使われたことがまったくなかった。」
しかし、「ガス室」を検証してみると、この施設はシャワー室として建設され、この目的のためだけに使われたことが明らかとなる。天井、偽シャワー・ヘッド、空気取り入れ口、ガス取り入れ口は、オリジナルの「バラッケX」とシャワー室が建設されてからかなりのちに、筆者には不明な理由で、筆者には不明な人々によって付け加えられた。「ガス室」には多くの見学者が行き来していたので、ここからはサンプルは採取されなかった。
空気処理システムの標準的な技術的やり方が認めている1平方フィートに9名という収容規則を利用すると、この「ガス室」には、わずか47名を収容できるだけであろう。排気システムや窓がないので、空気の対流によって換気するには少なくとも1週間かかるであろう。アメリカのガス室では、1分間で2回の空気交換可能な換気システムを使っても20分の換気が必要であり、窓の多い建物では、燻蒸ののちに、それを自然換気するには少なくとも48時間が必要である。1週間という見積もりはこのデータにもとづいている。
「バラッケX」にある4つの新しい燃焼室を検証してみると、それらは火を入れられたことはあるけれども、多くの回数使用されたことがないことが明らかとなった。これらの燃焼室は石炭燃料であった。
本調査者は、ダッハウの「バラッケX」の「ガス室」を丹念に検証した結果、その最良の技術的見解として、この施設が処刑ガス室として使われたことはありえないと断言する。それは実際には、ドイツ人がもともとそう名づけているように、シャワー室(Brausebad)であった。
マウトハウゼン
マウトハウゼン強制収容所の「ガス室」は、病院、焼却棟、監獄のあいだにある。ダッハウと同様に、ホロコースト正史派の歴史家の何名か、および修正主義者は、それが処刑のために使われたことはないとみなしている。
「ガス室」の面積は約150平方フィート、容積は1164立方フィートである。パイプと使用可能なシャワー・ヘッドをそなえた高さ7.8フィートの天井がある。床には、8×8インチの排水口があり、北西の壁には、暖房用のスチーム・パイプがある。壁はセラミックタイルである。ヨーロッパの多くのドアがそうであるように、ガスケット装置を持つ2つのドアがある。北西の壁の西端の天井には「ガス換気口」があるが、上の地面が舗装しなおされているので、この「ガス換気口」の目的を検証することができない。さらに、隣接の部屋はガス注入制御室であったといわれている(固形の「チクロンB」ではなく、そのままのシアン化水素ガス)。しかし、そのような作業を行なう装置もなく、それが取り除かれた痕跡もない。博物館の関係者は、この部屋の作動について一貫しておらず、混乱しており、ガスが部屋にどのように注入されたのかについてさまざまな説明をおこなっている。(1)頭上のシャワー・ヘッドを介して、(2)部屋の隅にあるシャフトを介して、(3)現存していない穴の開いたパイプを介して。電灯は強い力に抗するような耐久力を持っていない。防水性であるにすぎない。制御室が存在していたことを示すものは何もない。施設は、死体安置室、病院、監獄と同様に地下にある。この施設には、銃殺刑を宣告された囚人を収容するスペースがあった。
この施設は、その建築様式を見ても、シャワー室として建設され、その目的だけに利用されたと思われる。ガス漏洩を防ぐ装置を持っていないし、電灯は強い力に抗する耐久力を持っていない。床の排水口はガスが下水システムに漏れてしまうのを許してしまうであろう。ガスを注入する装置はなく、また、ガス処刑後のガスの混じった空気を排出する装置もない。さらに、部屋の北西の壁にはスチーム暖房パイプがついているが、そのことは、シアン化水素ガスが部屋にある場合には、爆発の危険を伴う。その上、すべてのシャワー・ヘッドは使用可能である。その全体的なデザインは、疑いもなく、シャワー室のデザインである。
マウトハウゼンでの法医学的考察
マウトハウゼンの「ガス室」から4つの法医学的サンプルを採取し、それを合衆国に持ち帰って、化学的テストにかけた。前回、アウシュヴィッツ?Tとビルケナウのサンプルをテストしたのと同じ標準的な手順にしたがって、各サンプルについて、鉄とシアン化合物の存在を詳しく分析した。テストを行い、非溶解性のシアン化合物の既知の分析結果と比較すると、この「ガス室」が、処刑に必要な濃度のシアン化合物に繰り返しさらされたことはまったくないことが明らかとなった。(ビルケナウの)害虫駆除室からの基準サンプルNo.32は1050mg/kgであるが、マウトハウゼンで検出された最大濃度は32 mg/kgであった。そして、この濃度は、建物が燻蒸消毒を受けていたことを示している。そして、この施設がガス室ではないことも明白に示している。
本調査者は、この施設を丹念に調査した結果、この施設ではガス処刑ができないと裁定してきた。本調査者の最良の技術的見解では、この施設ではガス処刑を行なうことはできないし、この施設をガス処刑室として利用することもまったくできなかった。
この施設のとなりは死体安置区画であるが、そこには、死体を冷却するための冷却装置がある。死体安置室には、解剖室と焼却棟があり、すべては病院の隣であり、病院とつながっている。現存の焼却棟には、1つの燃焼室を持つ炉がある。隣の部屋には、やはり1つの燃料室を持つ炉があった痕跡がある。それは取り除かれたのであろう。現存の燃焼室を見ると、それがかなり使用されたものであることがわかる。この規模の収容所ならば、2つの燃焼室だけで対処しうると考えられていたのであろう。双方とも石炭燃料である。
「ガス室」には、1平方フィートに9名という標準的なルールを適用してみると、17名を収容できるだけである。本調査者は、この施設には排気システムがないので、ダッハウと同じような理由から、換気を行なうには少なくとも1週間かかると見積もっている。
ハルトハイム城
この施設は、数世紀前の城の塔に隣接する石造の部屋である。ハプスブルク皇帝がこの城をオーストリアの精神病治療機関に寄進した。そして、この城は、ドイツがオーストリア政府と精神病治療機関を監督するようになったときに、ドイツ政府の管轄下に入った。この施設は精神病院として使用され、ドイツの管轄下に入っても、そのように使用され続けた。ダッハウとマウトハウゼンから運ばれてきた囚人に対する大量ガス処刑が、ここで行なわれたということになっている。
「ガス室」は城の塔の一つに隣接する地下の部屋である。この部屋の面積は192平方フィート、容積は1728立方フィートである。一番高いところで8.9フィートのアーチ型の天井を持っている。この施設には、今では、長方形の穴が隣の部屋につながって作られているけれども、1つのドアと1つの窓がある。「チクロンB」を注入したり、使用後のガスを排出する装置はまったくない。今では、この部屋は完全に改築されている。最近漆喰を塗られた壁と天井がある。3つの新しい床面があり、重ねられている。ドアでさえも、シャッターのついたのぞき穴をもつ、現在普通の精神病院の部屋ドアに変えられている。窓はオリジナルといわれているが、ガスが使用されれば、それを漏洩してしまうであろう。ドアも窓もガスケット装置をもっていない。1945年1月に、すべてのガス装置が取り除かれたといわれている。しかし、壁は城の建築に特徴的なように非常に厚く、ガス排気口や注入口をそこに設置することは用意ではないので、ガス処理装置は存在しなかったにちがいない。この部屋とその隣の部屋には、ここでガス処刑された人々に対する追悼パネルがある。今日、この城はアパートとして使われている。
その建築様式から見ても、ガス処刑装置を設置するにはあまりにも厚い壁をもつこの施設がガス処刑施設として使用されることはありえないであろう。その建築様式から見て、改築が行なわれれば、すぐにわかってしまうし、隠すことは容易ではない。ガスの混じる空気を排気する装置もないし、それを設置する方法もない。窓は気密状態ではなく、大量の致死性のガスを漏洩してしまうであろう。この施設からはサンプルを採取しなかった。大規模な改築が行なわれており、そのことは分析結果に深刻な影響を与えてしまうからである。
「ガス室」には、1平方フィートに9名という標準的なルールを適用してみると、24名ほどを収容できるだけである。この部屋には排気システムがないので、換気するには1週間かかるであろう(ダッハウの事例を参照)。
本調査者は、この施設を丹念に調査した結果、本調査者の最良の技術的見解では、この施設ではガス処刑を行なうことはできないし、この施設をガス処刑室として利用することもまったくできなかったと断言する。施設の反対側にある対称系の部屋と比較してみると、この施設は倉庫であったにちがいない。
ここには現存の焼却棟は一つも存在しない。
公式の博物館の文献は、ダッハウとマウトハウゼンは、ハルトハイムと同じような施設、それよりも能力の高い施設を持っていながら、ガス処刑のためにハルトハイムに囚人を送ったと述べているが、きわめて奇妙である。ハルトハイムに「ガス室」を作るのは難しく、しかもその施設は小さくて、ダッハウから離れている(200km)のに、なぜこのような輸送が行なわれたのか不明確である。現存の証拠すべてにもとづけば、これらの場所にはいかなるガス処刑施設も存在しなかったことはきわめて明瞭となる。
特別なハードウェア:存在しない
筆者はポーランド、ドイツ、オーストリアを調査したが、ガス室に特徴的なハードウェアを一つも発見することができなかった。「ガス室」として使用されるための適切なデザインに適合するような、必要な高さをもつ煙突、換気装置、ガス発生器、吸気事前暖房装置、壁・床・天井の特別な塗料・気密資材、作業員のための安全装置は一つもない。ドイツ人は、害虫駆除室について高度な技術を持っていたが、そのドイツ人は「処刑ガス室」にこのような技術をまったく応用していないのは、信じられないことである。
結論
本調査者は、すべての資料を検討し、ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム城の現場すべてを検証したのちに、これらの場所にはガス処刑施設など存在しなかったと裁定する。上記の検証現場の「ガス室」は処刑ガス室であったことがある、処刑ガス室であった、処刑ガス室として使われていた、そのように機能していた、ということはまったくありえないというのが、本調査者の最良の技術的見解である。
1989年6月15日、マサチューセッツ州マルデンで作成。
フレッド・A・ロイヒター会社
フレッド・A・ロイヒター・ジュニア
主任技師
(私論.私見)